2008年6月

「現実がつらい」とは何がつらいのか?

仕事がつらいとは特に思わないのだが、「現実から逃避したい」とは思う。

しかし改めて考えると、逃避すべきつらい現実って何なのかわからなかった。

考えた末、それは「いくら練習してもかめはめ波がでないこと」であったり、「いくら待っても王子さまは来ないこと」であったりするのではないかと思った。


いくら練習してもかめはめ波はでないというのはおそらく現実であるのだが、そんな厳しい現実と向きあうのはなかなか勇気のいることだ。

(たぶんわたしはまだ向き合えていない。ある日突然世の中のルールがかわって、かめはめ波を出せるようになる気がしている)

しかしおそらく、どれだけ年収があがってえらくなっても、たぶん永久にかめはめ波でるようにならないのだ。それどころか、社会的地位が上がると、「かめはめ波をだしたい」という欲望すら口にしづらくなってしまう。

そういった意味で、現実を直視するのはきっと一生むずかしいことなのだろう、と思った。

(だからきっとあの「ただの人間に興味はありません。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、私のところまで来なさい」というセリフは心を打つのだろう*)。

あと部屋が汚いこと、配水管が壊れて台所が使えないこと、なども直視しづらい現実である。


* ときどきハルヒに触れているので誤解されている方もいると思われるが、実はわたしは、ハルヒのアニメは一話も見たことがなく、小説も4まで読んでめんどうでそれ以降読んでない程度のぬるいファンで、というかたぶんファンですらないのだが、それでもやっぱりあのセリフは心を打つと思うんだ。あと長門はおれの遠い親類にあたる。




天使に広告はあるか

メディアとしての天使について考えていた。

昔の「現代思想」で「天使というメディア」という特集があり、たまたまその表紙に目がとまったのでそのトピックについて考える羽目になった。

確かに、考えてみると、天使というのは神の言葉を地上に伝える役目を負ったものなわけで、まさに媒体であるわけだ。

しかるにメディアと言えば広告である。


天使ほどのメディアに広告が載っていないという事態は考えづらい。

天使は、誰もが注目するそうとうに高級な媒体であるので、広告代理店がこれに目をつけないはずはない。

しかももし広告が掲載されていないとすれば、その場合大きなビジネスチャンスが失われていることになる。

ビジネスチャンスが失われたということは、生み出されうる価値がその分だけ生み出されなかったということだ。

天国にそのような欠如があるとは想定しがたい。


従って、天使には広告が掲載されているはずである。

これまで考えられてきた天使像はこの点で明らかに不備である。

天使は、F1レーサーやサンドイッチマンのように、全身に広告が入っているに違いない。




搾取と損失

人が人から金をかすめとったという話を聞いて怒る人は多い。

しかし、ビジネスチャンスが失われたという理由で嘆く人はそれほど多くない。


ところが、考えてみると後者の方が大きな問題ではないか。

人が人から奪った場合には、少なくとも一方の側が得をしたことになる。

しかし、無意味にチャンスが失われた場合、誰も得をせず、損失だけが残される。


  • Aが本来得られるはずだった100万円分の価値を損し、そのせいでBが50万円分の得をしたケースと
  • Aが意味もなく100万円分の損をしたケース (つかめたはずのチャンスをくだらない理由で失った場合など)

の両方を比較してみよう。上のケースの場合、Bは取得した金を何か他のことに使い、その分だけ世の中が潤う。

しかし後者の場合は、損失しか存在しない。世の中全体にとってマイナスが残るだけである。


わたしのように、世の中全体を視野に入れて考えられる人間は、むしろ後者のケースを懸念するようにしたいと思う。




痛プロンプトのすすめ

世の中には、コマンドプロンプトとかターミナルとかCUIが怖いという人がときどきいる。

確かにあの黒い画面は見ためからして恐しい。

そこで、CUIが恐しい人のためのソリューションを考えた。

プロンプトの表示を「YUKI.N>」にすれば、適度に擬人化されて怖くないのではないかと思う。



以下変更方法。


  • windowsの場合

環境変数「PROMPT」を「YUKI.N$g」に設定すればよい。

コマンドプロンプトを開き

SET PROMPT=YUKI.N$g

と打てば一時的に変更される。

恒久的に変更したい場合は、

  • スタートメニューをひらく
  • マイコンピューターのアイコンを右クリック
  • 「プロパティ」を選択
  • 「詳細設定」タブを選択
  • 「環境変数」をクリック
  • 「xxxのユーザー環境変数」のところを見る
  • 「新規」ボタンをクリック
  • 変数名「PROMPT」、変数値「YUKI.N$g」を入力し、「OK」


  • bashなど( mac含む )の場合

環境変数PS1を変更。

PS1="YUKI.N>"

をタイプ。

恒久的に変えたい場合は.bash_profileかなんか、使ってるシェルの個人用環境設定ファイルに書く。

(macの場合は/Users/【ユーザー名】/.bash_profile に上の命令を書いておけばよいと思う)


rootの環境設定ファイルに書いておくと、rootになったとたんプロンプトが「YUKI.N>」になり、コンソールがとつぜん人間味を持ったような気持ちになるのでよい。

あと

PS1="YUKI.N>"
echo "YUKI.N>みえてる?"

と書いておくとさらによい。


でも人に見られたら恥しくて死ぬと思う。

この記事を書くために実際にYUKI.N>にしてしまい、面倒なので戻してないし、なんかかわいいのでこれでいいかなーという気持ちなのだが、いつか人に見られ後悔するかもしれない。

就職

以前から思っていたが、研修も終ってなかったし言わなかったが、やっぱ社会人は楽だと思う。

なぜ楽だと感じるか考えてみたが、


  • そんなに高いレベルのことは要求されない
    • (平均的な人ができる以上のことは、現実的じゃないので要求されない)
  • 簡単に手応えが得られる
  • (研究者などとは違い)、求められたことをやればOK

というあたりにポイントがある気がする。


たまに「あのまま進学していればどうなったか」というのをシミュレーションするが、ちょうどこの逆のことをしなければならなかったのだろうと思う。

(高いレベルの成果を出さねばならない / 手応えが得られない / 求められたことをやってもダメ)。

あと1つの専門に特化しなければならないのも、飽きっぽいわたしにはちょっとつらい。その点社会人はどちらかと言えば、ジェネラリスト的にいろんなことをしなければならないので、比較的わたしに向いていると思う。

学生は拘束時間が少ないのはいいけどね。


世の中には「学生に比べ社会人がいかに大変であるか」を強調する人が多いが、アレは基本的にウソだと思うんだ。以前からウソだろうと思っていたが、やはりウソだった。

思うんだけど、みんな本当は大変じゃないのに無理矢理大変にして、「あー大変だ大変だ」って言いたがっているところがあると思う。なぜなのかというときっと社会人は学生と違って、「自分はとても我慢して働いて会社に貢献している」とまわりにアピールしなければならないからだろう。そういうことをつづけている内に自分や他人に嘘をつく癖がついてしまうのだろう。大変だなあと思った。

というか、これは学生時代に誰かに教えてほしかったのだが、要するに社会人が「大変だ、いそがしいいそがしい」と言うときは、発言にそういうバイアスがかかっているので気をつけた方がいいよということだ。

(あと、そもそも学部生と院生の大変さはだいぶちがうし、大半の人は学部だけを見て、「学生は楽だ」と言っているのもあると思う)。




読書

考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

信原 幸弘 (著)

講談社、2000


これは良い本だった。

コネクショニズム、ニューラルネットワークの解説が丁寧。

ニューラルネットワークの実装とかやってみたいなあと思った。こうやって新書レベルで丁寧に解説されると自分でもできそうな感じがする。

計算主義(要するに論理的推論)を脳に対し外在的と捉えるのは、同意できる部分も結構あり。


柏端達也さんあたりも、論理を社会規範の一種として、「われわれ人間が持っているルール」と捉えているようなところもあり、その辺は近い部分もあるのかなーと思う。『自己欺瞞と自己犠牲』の最初の部分で「自己犠牲は、机上でしか研究できない」と書いているあたりを見てそう思ったのだが。



ひそかに考えていることを小出しにしておくと、社会的実践の研究というのは、まさにその計算主義的な研究であるべきなのではないかと思う。

(誰も同意しないだろうし、そもそもかなり説明不足なのだが、少なくともわたしはそう思う)。

というか、もっとくだいて言うと、「社会学」という学問は、本来柏端達也さんがやっているような研究をするべきものなのではないかと。


さらに大雑把なことを言うと、人文学というのは本来すべてセマンティクスの研究だと思うんだ。

そんでセマンティクスの基礎は集合論と述語論理じゃないか。離散数学じゃないか。

だから社会学科では、統計じゃなくて離散数学を必修にすべきだとひそかに心のなかで思っている。

(解析をやる人がいてもいいけど。質的研究とミクロの方は離散系なんじゃないかなあ)。




勉強

高橋 伸夫 (著)

朝倉書店、1993


M山とふたりで (shimがときどき参加するけど、別の自習をしている) この本を読んでいっている。

忘れない内に書いておくが、複合的な賭けをつかった証明の箇所がおもしろかった。


賭けの賞品として賭けの参加チケットが得られ、そのまた賞品として別の賭けに参加できるという複雑な賭けが証明に登場する。

「ルーレットの賞品として競馬のチケットがあたり、競馬の賞品としてまた別のルーレットのチケットがあたる賭け」と

「競馬の賞品としてルーレットのチケットがあたり、ルーレットの賞品としてまた別のルーレットのチケットがあたる賭け」

の2つを比較しても得られる効用は変わらないというのが証明の主旨なのだが、「そもそも、そんな絶望的な賭けには絶対参加したくない」という意見でまとまった。

ボルヘス的な世界というか何というか。

他人のできないことはよくわからない

とよく思うのだが、最近もまた思うことがあった。

たとえばわたしは、酒がまったく飲めなかったり乗り物酔いがひどかったりコーヒーをしきりにこぼしたり部屋をかたづけられなかったりするのだが、なかなか他人にそういうことを理解させるのはむずかしい。多くの人は「自分は酒が飲めるのにこいつに飲めないはずがなかろう」と思うらしく、「酒は飲めない」と言うと、「気がつかないうちに、飲めるようになってるんじゃないか」とか言われたりするんだが、そんなことはあるはずもない。20代前半で飲めないものが20代後半で飲めるようになったりはしねえよ常識的に考えて。他人というのは無責任なものなので、「飲めるような気がするけどなー」などという他人の直観を信じて自分が体調を崩すのはアホらしいことであり、そんな場合はさらっと流すかいきなりブチきれるにかぎる。


といっても片付けとかコーヒーをこぼすのは習慣の問題が大きいので、習慣を訓練によって強制的に変えることも不可能ではないだろうと思うが、長年の習慣を変えるのはそれなりにコストのかかる作業なのでなかなかむずかしいものがある。

なぜそんなことを思ったのかと言うと、やはりわたしも他人が「これができない」と言っているのを見ると、「心の持ちようしだいでできるはずだ」とか適当なことを考えてしまったり言ってしまったりしがちなので気をつけようと思ったしだいである。例外的に、自分に同様の習慣を変えた成功体験がある場合にかぎり、積極的にアドバイスをする資格があると言えそうだ。

たとえばわたしは相当部屋が片付けられないので、今後習慣を改善し、部屋を片付けられる人間として生まれ変わった暁には、部屋を片付けられない衆生に対して、「必要があれば片付けられるようになる」とか「だんだん片付いている領域を増やしていくのがコツさ」などと説教をしても説得力があると言うものだろう。

何を言いたいかよくわからなくなってきたが、わたしは部屋を片付けるコツを知らないので、習慣を変えた成功体験のある人に話を伺いたいものだと思う。




なぜそんなことを思ったかというと

shimが「できないできない」などと言っているのを見たり、他の人がそんなことを言ったりしているのを見てそう思ったのだが、このあいだはshimが失言で一日に2人も人を怒らせるのを見た(上の話とは直接関係ない)。勝手にそんなことを書いていいのかよくわからないが、書くが、わたしの印象ではshimは最近なぜか以前より口が悪くなったと思っている。

話の内容は以前とあまり変わらないのだが(ということはつまり「人を怒らせるような内容や差別的なジョークが多く、よくない」ということだが)、本人は普通に話しているつもりでも喧嘩を売っているような口調なのが、以前に輪をかけてよくないと思う。口が悪くなった原因はよくわからないが、ビジネススクールに行きだしたあたりから口が悪くなったと思う。しかしビジネススクールーに口の悪い人ばかりいるという話もあまり聞かないので、他に原因があるのかもしれない。今1つ仮説を思いついたが、日常的にゼミなどに出ているせいで議論における敢闘精神のようなものが刺激されっぱなしなのかもしれない。

いずれにせよ、わたしも最近ついつい人をこきおろしてしまいがちなのでこれを反面教師として気をつけようと思ったしだいである。




就職

そういえばここに書いてなかったが、ちょっと前に研修が終わった。

研修中は、いろんな部署をまわっていろんなことをしていて「文系だからとかよくわからんことを言って営業部とかにまわされたらいやだなー」という感じもあったが、予定通り開発部に配属され、しばらく前からうだうだうだとやっている。実はまだ完全決定じゃなくて、やっぱ研修の継続のようなよくわからない状態ではあるんだが営業や企画や総務やなんやかやに行く可能性はもうないと思う。




文系

最近「文系得だなー」と思うことがときどきある。わたしのように、社会学の大学院を出てプログラマーになるなどというよくわからない進路を歩んでいると、「なぜ?」みたいなことを随所で言われるし、なんかよくわからないもののような扱われ方をすることもままあるんだが、「ぼく文系で、プログラミング歴もあさくてよくわかんないんですー」みたいな感じで入っていって、ときどき数学の話とかすると、正直大したことは言ってないと思うんだが、まわりの人が簡単に顔色を変えたりするんだ。これはおそらく文系ボトムアップ (文系のはずなのになぜ...!) がきいていると思われるので文系得だなーと思った。




能力をいかした職場

ときどき「能力をいかした仕事につきたい」という人がいるじゃないか。それ自体はごくふつうの希望だと思うんだが、考えてみると人間の能力の多くは仕事でいかされずに終わるんだなーと思う。

たとえばわたしなどは、「相手が怒らないぎりぎりの線で人を馬鹿にする」スキルに陰ながら自信を持っている。これは「言ってはいけない失礼なこと」をギリギリのラインで冗談にしなければならないのでなかなか高度なテクを要すると思うんだが、残念ながらこのスキルを生かした仕事は思いつかない(しいていえばお笑いなどだが、お笑いはもっと他のスキルも必要なのでむずかしいと思う)。あと架空の理論をでっちあげてそれらしく説明するとか、架空のシチュエーションを細かく想像するのとか得意だな(「30世紀の小市民的な悩み」とか)。しかしこれらの能力をすべて仕事にいかすのは無理なので、人間社会にはまだまだ無駄があるなと思った。人が無駄にしているスキルを生産にまわす方法を思いつき、社会全体の生産性を高められたら素晴しいことですね。


あと折角考えたので「30世紀の小市民的な悩み」を書いておきたい。

  • 伝染病対策で染色体を入れ換えたら数日後服のサイズも合わなくなった
  • 給与の振込後に人口が急減したため労働価値が上昇。あと1時間遅ければ給与が2%上がったのに
  • 高速道路脇の自販機に電子マネーを転送したら「404 Not Found」で小銭を損した

その後のProbrem35


100万以下の巡回素数の数を数えよ。

少ない桁だと答えがでるが、100万以上だと計算おわらず。

とりあえず差分リスト化し、高速化をねらう。

=>だめ。それでも計算おわらない。


「もうPrologでこの問題やるのが無理あるよなー」

「あ、そうだ。素数を先に求めておいて、Prologコード中に事実として埋めこんだらいいんじゃね?」と思い、rubyをつかってPrologコードを生成。100万以下の素数リストをあらかじめ埋め込んでおく。

=>だめ。どっちにしろ計算おわらない。


「もうrubyで最後まで解いたらよくね?」と思いrubyで最後まで書く。

この段階でようやく問題の解釈をまちがっていたことに気づく。

巡回素数ってすべての並びかえがぜんぶ素数であるような数のことじゃないのか。2桁以下だとどっちにしても答えが同じになるので気づかなかった。


しかしどっちみちPrologでは無理そうだ。あと試すとすれば並列計算が残っているが、この段階にくるまで結構苦労したのでもう嫌になってやめる。

rubyで最後まで書いて終了。

数値計算の遅いPrologではProject Eulerは解けない気がするぞ。




IT用語について

よくカタカナ語やアルファベット略字の多様が問題視されますが、わたしは、ITの人の日本語の動詞の使い方の方が独特だと思います。

「吐く」とか「叩く」とか。

「フィードを吐く」とか「SQLを叩く」とか「DNSをひく」とか。あれはかなり独特なオーラをはなつ言葉の使い方だと思う。


個人的には「名前空間を汚す」が好きだ。まず「名前空間」の時点でかなりギョッとする。「名称空間」とかじゃなくて「名前」というやわらかい言葉を選んでいるところがミソだと思う。名前と空間がくっついているところで、まずまったく意味がわからないのに、しかもそれを「汚す」ときた。これは恐い。「おまえの名前空間を汚してやる」って言われたら、それだけで泣いて謝って帰る気がする。

なんとなくそっち系の妄想みたいな語感がするのも素敵だ。

「名前解決」も結構好き。適当に2つの熟語を組み合わせたみたいな感がある。




Probrem 36

あんま覚えてない。PrologとちがってC++速いなあと思った記憶がある。


11個目をみつけるのがむずかしい。素朴に計算したら計算がおわらなかったので候補をしぼる方法を考えた。




第五世代コンピュータ

Prologに触れていたせいで、第五世代コンピュータ計画が気になってきたので調べてみようと思う。

破産したプロジェクトというのは甘美なものである。

Prologマシンをつくって、いっぱいつないで並列計算させるとか、何に使うのか全然イメージわかないがすごいなあ。

「Logical Inference Per Second」っていうマシン評価の単位もおもしろいと思う。




Prolog

Brainfuckインタープリタを書いてみた。

遅い。メモリの表現がこれではダメなので、なんかもっと考えましょう。

アップル信者について

はてなブックマークのホットエントリーなどを見ていると、アップル信者が、「i-podをケースに入れるのはジョブズ様の意志に反する。真のユーザーはi-podをケースに入れたりしない」とか書いてて「キンモー☆ macとかもう一生つかわんとこー」と思う機会がよくある。アイホンがsoftbankから販売されるという例の件でも、「アップルに失策なし! われわれはただ信ずるのみ」みたいなことを書いている人がいて、「正気か?」と思うのだが、ああいう人は自分が逆宣伝になっていることに気づいているのか。まあ一般ユーザーに宣伝など求める方がおかしいが。

とにかく、macだけは絶対買うまいと思ったので、いましめになるようにここに書いておこう。


あとあまり関係ないが、poderosaを入れたら、コリナックス + デビアン環境が快適になってきたので、最近結構デビアンに触っている。うぶんとぅにすればよかったかと思わないでもないが、デスクトップはどうせ使わないし、まあどっちでもいいかもしれないとも思う。




先日のパズルの答え

↓一応見えないようにしておく。

話をわかりやすくするため、アラビア人が100人であるとしておく。

背理法を用いる。友達の数が全員異なると仮定し、矛盾を導く。


自分とは友達になれないという仮定より、友達の数は0から99のいずれかである。

100人のアラビア人がいて、友達の数が0から99の100通りであるため、友達の数が99人というアラビア人が必ず存在する。これをAとしよう。

また、友達が0人というアラビア人も必ず存在する。これをZとしよう。

しかるに、Zは残りのアラビア人全員と友達である。つまりZはAの友達であるため、仮定より、AはZの友達である。

ゆえにZの友達の数は0人ではありえない。

従って、友達の数が全員異なるという当初の仮定が間違っていた。

友達の数が同じであるようなアラビア人が少なくとも2人いる。


(上記の議論はアラビア人の数をn人としても同様に証明できる)。




Prologとわたし

ここ数日なぜかPrologに触っていた。

「Project Eulerを解くのもよいが、そろそろ飽きてきたので別の言語で解きたいな。何か新しい言語で解いてみよう」と思ったのがきっかけ。

ハスケルかプロログにしようと思ったが、なんとなくプロログ。

Problem 35 - Project Euler


1万以下ならできたが、100万以下まで拡張しようとすると「Out of global stack」でエラー。

なんか対策を考えねばならない。

倒せない

YouTube - ハバーマスが倒せない

ヤケになった大学院生とかの仕業だろうか。


YouTube - 行列式が倒せない(ワンコーラス)

関連動画にこんなのがあった。

ちょうど余因子展開のところをやっていたので趣深い。




買った本

レイモンド スマリヤン (著), 長尾 確 (翻訳), 田中 朋之 (翻訳)

白揚社、1990


持ってるんだけどさ。コーヒーこぼして汚なくなっちゃったし、読みかけだし、よい本だと思うので新装版を買ってみた。


論理パズルを通して、信念論理、不完全性定理、様相論理を学ぼうという本、かな。

やさしい数学書と呼ぶべきか、ハードな論理パズル本と呼ぶべきか、むずかしいところだ。

嘘つきと正直ものの論理パズルと、理想的な推論者についてのパズルと証明をさんざんやらせた後、実は、これまでのパズルは数学の公理系にもあてはまるものなんだよー、さっきの章で証明した定理に対応するのが第二不完全性定理だよー、という展開はなかなか感動的。

信念論理の演習ノートとしても有益であると思う。


スマリヤンの究極の論理パズル―数の不思議からゲーデルの定理へ

レイモンド スマリヤン (著), Raymond Smullyan (原著), 長尾 確 (翻訳), 長尾 加寿恵 (翻訳)

白揚社、2001


スマリヤンの本はぜんぶ買ってもよいなあと思うのでこっちも買った。今思えば、文庫化されている『パズルランドのアリス』を先に買ってもよかったなあ。

載っていたパズルを1問紹介しよう。

(説明はちょっと変えてあります)。

アラビア人ひとりひとりについて、アラビア人の友達が何人いるか調べていくことになった。

アラビア人全員の名前が載った名簿を利用し、友達の数を名前の横に記していく。

調査について聞いた、あるアラビアの数学者が言った。

「この欄に書かれる友達の数が等しくなる者が少なくとも2人いる」


さて、数学者はなぜそんなことがわかったのだろう。以下の仮定を利用してよい。


  • アラビア人は2人以上いる。

アラビア人が0人というケースは考えないものとする。


また任意のアラビア人A、Bについて以下の2点が成りたつ。

  • AがBの友達ならば、BはAの友達である。

自己申告制ではなく第三者による調査なので、「一方だけが友達だと思っている」といったケースは存在しない。お互いがお互いに友達と言える関係であった場合にのみ友達としてカウントされる。


  • AはA自身の友達ではない。

自分自身を友達にカウントすることはない。



多世界宇宙の探検 ほかの宇宙を探し求めて

アレックス・ビレンケン (著), 林田 陽子 (翻訳)

日経BP社、2007


なんか宇宙のことでも考えてスカッとしたいナアと思ったので買った。

値段が安かったのでポピュラーサイエンスって売れてるんだなあと思った。結構読みたいものがあるので、しばらく宇宙論強化週間にしようかと思わないでもない。

(しかし、本の値段が3000円を切ると「安い」と思ってしまうのは何か病名がつくような病気かもしれないとも思う)。



以下買ってないけど新刊。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫 Aチ 1-1)

チェスタトン (著)

光文社、2008


光文社古典新訳文庫は私の好きな本をたくさん出すのでよいシリーズだなあと思った。

『木曜日の男』大好きなんだよねえ。

冒頭で、破滅の美を歌うアナーキストの詩人に対して、主人公が地下鉄の素晴しさを説くところとか、すばらしいと思う。




学習

キーポイント線形代数 (理工系数学のキーポイント)

薩摩 順吉 (著), 四ツ谷 晶二 (著)

岩波書店、1992


厳密に言うと演習がまだ数問残っているのだが、言語理論・オートマトンは終わったことにして、これをはじめることにした。

説明が...、わかりやすい...。

前まで読んでいた本がほとんど証明しか載せない程度に不親切だったので、証明は省いてでも理解を助けようとする姿勢が感動的だ。

とりあえず行列と行列式を混同しないように注意しつつ、両者の関係を学んでいくべきなのだろうということがわかった。

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著者について

赤田敦

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