2008年9月
チャンピオンREDコミックス(秋田書店)
Amazonの評価1点レビューがなかなか本質をついていると思う。
正直読んでて気分が悪くなり頭も痛くなりました。人間の尊厳を無視し侮辱するように人体実験を漫画にして何なのよ?人が喰われてるしホント気持ち悪い。漫画なら何でもアリだと暗黙で認めている社会現状に不満だし不安です。その現状が混沌の世をさらに悪化させ、狂凶な事件を増やす事になると思う。
この手の漫画には作者の強い思いのメッセージが必ず在ると思う。だがこれには無い。ただグロ好き作者の道楽漫画。殺人を肯定する腐れ漫画だと思う。漫画を教科書にする馬鹿者がいることを知ってるだろうに。実に無責任だ!
この人おそらく1巻を読んで後悔したのだろうに、2巻にまで感想を寄せていて律儀ですね。
以前たまたまチャンピオンREDを購入したら載っていて、ときめいたので単行本購入したしだい。なかなか書店に置いてなくて困った。
表紙だけ(無駄に)エロいが、そのせいで本来の読者を逃してそうで不安。
内容は、駕籠真太郎正統な感じの最高に悪趣味な人体改造グロコメディーです。
腐れマッド医者ふらんが毎回人体改造で事件を解決(しようとしてよりひどいことに)していく話ですね。
たとえばこんな感じの話が載ってる。
- ちょっとどんくさい少年が告白するがまったく相手にされず、その直後相手の少女が事故で瀕死状態に。
- 少年の頼みをきき、ふらんが少女を手術する。
- 少女は生きながらえるが、ふらんの手術によって体が芋虫になる。
- 少年が体だけ芋虫になった少女の世話をする。
- 最初は絶望していた少女だったが懇切に世話をする少年にほだされ、だんだんいい雰囲気になる。
- 芋虫少女はグロいけど、これはこれでかわいいかな?という気もしてくる。
- ある日ついに少女は芋虫から孵化し、繭状態を経由して元の体を取り戻す。
- 2人が結ばれて万歳?いい話?と見せかけて
- 虫の本能が残っているため、交尾後にオスを殺して食べるという最悪なオチ
2巻では、ふらんの妹、ヴェロニカというのが出てくるのだが、殺人者ヴェロニカとふらんの対決が、キリコとブラックジャックのパロディになっているんですね。
「それでも私は人を助けるわ」と言いながらヴェロニカの殺した悪人を生き返しつつ、人体改造をほどこすふらんがブラックジャックの最悪なパロディになっていて、ひどいなあと思った。
ヤマグチ ノボル (著), 兎塚 エイジ (著)
メディアファクトリー、2004
最新刊まで読んだ。
言うことはあまりないのだが一応感想。
これを読んだからといって、特にすごく感動したとか、世界の見え方が変わったとか、新しいと思ったとかそういうのはないのだが、それなりに楽しんだ。わざわざ14巻も読んだので楽しかったんだろうと思う。
ベタな少年誌のラブコメみたいな感じなのでそういうのが好きな人は楽しめるんじゃないかなあ。マンガを読むように楽しめる読書体験だった、というのが正確な表現かな。
あとはでてくる倫理観とかが、まっとうな少年漫画のそれなので、安心して読める感じはあった。
嫉妬とかそういうドロドロした情念が多少多めに書き込まれている感もあるので、そういうのが好きな人は読んでドキドキするとよい。ついでに言えばMなので、「犬ー!」とかそういうのは楽しい。
あとどのキャラクターが好きか考えていた。系統的に言えば長門ポジションのタバサは気にならないでもないが、そこまででもない。あんまり目立たないし。なので強いて言えばルイズかなあと思った。
『真理を追って』
W.V. クワイン (著), 伊藤 春樹 (翻訳), 清塚 邦彦 (翻訳)
産業図書、1999
自然言語処理とか人工知能って、人間の思考や言語に対する考え方しだいで2種類のアプローチがあると思うんだ。
1つには人間の思考や言語などというものは、まったくのカオスであり、あたかも気象の動きみたいなものであって、気象の変動を予測するように統計的手法に頼るしかないというもの。
もう1つは人間の思考や言語は一定の合理的なルールや論理に貫かれているのだから、形式言語を使ってその動きをシミュレートすることも可能であるというもの。
人工無能などは前者かなあ。つきつめれば行動科学。一方対照的に、ボトムアップに人間の思考をエミュレートしようという人工知能的なアプローチがある。
たとえば文書を大量に読み込んで単語同士の関連性を抽出できたとしても、人間が実際に言葉を話すときには、おそらくそういう統計的リソースを利用しているわけではない。だから本当に人間の言葉の関連を、人間がやっているように扱おうと思ったら、たぶんそのやり方じゃダメなんだ。そこで、意味論的分析が大事ですね、でも自然言語とか思考のエミュレートってろくに成功例がないですね、みたいな話になると思う。ただし簡単な自然言語パーサとか論理的な推論を行なうプログラムはつくれるので、決して後者の例が存在しないわけではない*。
以上2つの方向性は、哲学上の対立でもあると思うんだ。
今回クワインを読んで、クワインは前者の側(人間ってほんとカオスじゃなー)の人なんだなと思った。
クワインと言えば、論理実証主義への批判、「おまえら論理学とか使っていい気になってるかもしれねえけど、おまえらの言う『意味』とか『命題』とかすっげえ曖昧でどうしようもない概念だから。数学ではこれでいいかもしれないけど、自然言語にそのまま適用するのはあきらめろ」といった批判で有名な人である*。
そういえば認識論の自然化なんて言葉もあったが、おそらくクワインの考えている人間行為の科学、言語の科学って俗に言う行動科学みたいなものに近いのかと思う。
これが主流かというとそんなことはなく、たとえばクワインの後輩にあたるデイヴィドソンはどちらかと言えば、自然言語のエミュレートみたいなプロジェクトにこだわった人である。
たとえばこんな引用文がある。
哲学者たちは長期にわたって、かれらが理論的に扱える文に日常語の文を対応させる工夫によって、理論を日常言語に適用するという難業に携わってきた。フレーゲの大いなる貢献は、「すべて」「ある」「いずれも」「おのおのの」「どれでもない」、および付随する代名詞に、それらのある使用の場合にはどのようにして対処しうるかを示したことであった。
それによって初めて、自然言語の重要な部分に対して形式的意味論を夢見ることが可能となったのである。この夢はタルスキの仕事によって鮮やかな仕方で現実となった。
フレーゲのそれとタルスキのそれと、これらふたつの素晴らしい業績の結果として、われわれは母国語の構造への深い洞察を獲得したのだ、という事実を見損なうとしたら、それは残念なことである。
デイヴィドソン『真理と解釈』邦訳p19
フレーゲとタルスキは単に数学理論をつくったのではなくて、それは英語という言語について教えてくれる研究でもあったのだということね。この後段の部分では言語学と哲学の結びつきを強調している。
わたしとしてはこういう「人間の思考とか言語ってシミュレートできるよ!」という方向に共感を覚えるが、クワインはえらく頭のよい人なのでクワインの言うことも真剣に受けとめたいと思っている。
いずれにせよ、最終的に必要なことは――どちらの理論を採用するにせよ――、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース長門有希を実装することである。
■ 体言止めについて
体言止めは弱虫のことばであると思う。
ふつうの文章は「なんとかはなんとかである」と言い切ることで、自分の判断を人に伝える。
しかし体言止めの場合、自分の判断を明確にする必要はない。
「青い海、白い空、そしてわたしの無限」みたいなやつな。例文が適当すぎだけど。
この場合にももちろん「海が青い」とか「空が白い」という判断にはコミットしているのだが、明示的にはどんな判断にもコミットしていない。
こういう表現を多用するやつは、自分の責任で自分の意見を述べることができず、さりげなくほのめかして「お願いだわかってくれ」みたいな伝え方しかできない弱虫であると思う。
というわけでわたしは体言止めを多用する人が嫌いである。
■ 脱アンテナ
わたしはRSSリーダーをつかいこなせないオールドタイプなのだが、われながらちょっとそれはどうかと思ったので強引な療法を取ることにした。はてなアンテナを開こうとすると強制的にlivedoorリーダーに転送するオミトロンフィルター。アンテナとかリーダーのURLは適当に変えるといい。
[HTTP headers] In = TRUE Out = FALSE Key = "URL: Leave Hatena Antena" URL = "a.hatena.ne.jp/[your account]/*" Match = "*" Replace = "$JUMP(http://reader.livedoor.com/reader/)"
■ アメリカンジョーク
アメリカンジョークをいくつか考えた。
「絵画教室にて」
「きみはいつも同じ女性の絵ばかり描いているね。誰なんだい?」
「ぼくの理想の女性なんだ。いつかこんな女性に出会うのを夢見ている」
数ヶ月後。
「実はこのあいだあの絵にそっくりな人に会ったんだ。あの絵とまったく一緒だった」
「それでどうしたんだい? もちろん声をかけたんだろうな」
「かけなかったよ」
「なぜだい? あんなに会いたがっていたのに」
「平面的な人だったんだ」
「宗教の勧誘」
「わが教団に入信すれば、どんな方でも確実に幸福を得ることができます」
「愛する家族に囲まれ、お金にも困ってないし、今でも十分幸福なんだ」
「ご安心ください。教団に入信したおかげで全財産を失なった方や、家族に縁を切られた方がごまんといます」
「辞職」
「仕事をやめたばかりなんだ」
「どうして? あんなにいい会社だって言ってたのに」
「月給だと思ったら年棒制だったんだ」
■ 逃避
最近ものすごいいきおいでtwitterをしている。言うまでもなく逃避である。
何から逃げているかと言うと同人誌の原稿から逃げている。
本来の仕事(対価をもらう仕事)からは逃げてないのでまだマシかなあとか。
いやいや、逃げちゃだめだ。
■ パーサージェネレータをつくりたい
パーサーをつくるのは大変。特にボトムアップパーサーは人間のつくるものじゃないと思う。
(以前エクセルで構文解析表を書いて自作したことがあって、うんざりした)。
そこで何となく今考えていることとして、Rubyでパーサージェネレーターをつくったらおもしろいかなあと思っている。
JSON形式でアクションテーブルとGotoテーブルを出力するようにすれば、JavaScriptのボトムアップパーサーとかが簡単にできるようになる。evalを使わないボトムアップJSONパーサーとかちょっと需要あるかなと思うんだが、どうなんだろう。
三嶋 博之 (著), 河野 哲也 (編さん)
三嶋博之 / 溝口理一郎 / 関博紀 / 倉田剛 / 加地大介 / 柏端達也著
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-36050-7/
目次
第1章 なぜ環境のオントロジーが必要なのか
第2章 生態学的アプローチの戦略
第3章 工学のオントロジー
第4章 建築のオントロジー 建築家の視線の先にあるもの
第5章 事態のオントロジーと環境の理論
第6章 現代のオントロジーとアリストテレス
第7章 形式的存在論と環境の形而上学
第8章 環境の性質 性質のオントロジーに向けて
第9章 アフォーダンス・創発性・下方因果
- ギブソンのアフォーダンス論とオントロジーについていろんな人が書いてみましたという本?なんか不思議な構成だ。
- アフォーダンスのえらい人が若いオントロジストを呼んで書かせたって感じなのかな。
- 正直に言うとベタにアフォーダンスな論文は流し読みですませた。
- オントロジー工学者の溝口氏は、B.スミスと激論を戦わせてるらしい。工学者と哲学者が激論を戦わせられる分野っていいですね。
私信: バリー・スミス教授とは三度の直接討論と一〇〇通に及ぶメールのやりとりで激論を戦わせてきたがいまだに決着はついていない。
p88
- 柏端達也氏の論文は大変よかった。
- 書いたものを読むたびに思うがこの人頭いいなー。
- ギブソンのアフォーダンスの概念を、現代分析哲学の性質論、特に「傾向性」の概念から解釈しなおす。
- 「アフォーダンスはおおむね傾向性に包摂される。ギブソンの言うアフォーダンスの実在性は傾向性の実在性と同じこと」「アフォーダンスは生物と環境の関係ではない」とか、分析哲学者ならではのスパっとした指摘が。
- 言語の意味論を、もっと広い「情報の流れ」とか生物と環境の相互作用みたいなところに位置付けるのは最近のトレンドなのかなあとか。
- ミリカンを読んでいたときも思ったが、そこで『論理哲学論考』が出てくるのはおもしろいですね。「情報の流れ」とかまるで関係なさそうな本なのに、そういう読み方もできてしまうというのは「徳」かなあ。
- なんかオントロジー分野は現象学者が元気ですね。
- 本邦の通俗解説書などから得られる浅薄なイメージとまるで相反するものだけど、喧嘩になったりしないのかしら。
- 加地大介氏の論文はおもしろいが、まえがきがすげえ強引だ。
何かにつけエコロジカルな心構えが要求される昨今、日本人に固有だとされる「もったいない」精神の尊さなどが喧伝され、いろいろな意味で「ものを大切に」することが重視されているが、アリストテレス(紀元前三八四-三二二)は、哲学的・存在論的な意味において、とても「ものを大切に」した哲学者であった。というのも、アリストテレスの存在論の重要な特徴のひとつは、実体(Substance)を重視する「実体主義(Substance Ontology)」と呼ばれる立場であり、「実体」とは、何かがそもそも「何もの」であるかということを表す用語だと考えられるからである。
p157
■ 「とても言葉では言い表わせない」について
「とても言葉では言い表わせない」などという表現について、よく「『とても言葉では言い表わせない』という言葉で言い表わしている(んだから矛盾している)じゃないか」という物言いがある。これは矛盾した表現なのだろうか、とわたしも思っていたのだが、最近ちょっと気が変って、そうじゃないんじゃないかと思った。
あんまりうまく説明できないが、「とても言葉では言い表わせない」という表現が、その他の表現と違う独自の意味を持っているならば、それをもって「とても言葉では言い表わせない」という状態なんだと考えてもいいんじゃないかと思った。
たとえば「青い」とか「白い」とか色を表わす述語がある。
それら通常の述語と、「とても言葉では言い表わせない色だ」という述語を比較し、後者の側に特別な性質があるならば、これは必ずしも矛盾した表現ではないんじゃないかと思う。
いずれにしても、「でも、『とても言葉では言い表せない』という言葉で表わしているじゃん」という突っ込みの余地はあるわけだが、そこは「これ以外の言葉では言い表せない」とか「通常の言葉では言い表せない」と微修正すれば解決する程度の問題なわけで。「とても言葉では言い表せない」がちゃんと独自の意味を持っていて、しかも「通常の言葉では言い表せない」などの微修正を施すことで見かけ上の矛盾がなくなり、恒常的にそれらの意味を伝えるために使われているのだとすれば、それは矛盾しておらず、そういう意味の表現だと考えていいと思うんだよ。
たとえば「きつねうどん」にきつねは入っていないわけだが、それを矛盾とは言わないように、「とても言葉では言い表せない」は「通常の言葉では言い表わせない」の省略表現だと考えてもよい気がする。
問題は「とても言葉では言い表せない」はどういう意味であるかということだ。
それがいまいちまだわからないので周りくどい書き方になってしまい申し訳ない。
1つ気がついたのだが、とりあえず「とても言葉では言い表せない」は二階の述語であるな。
「青い」「白い」は単にそういう色を持っているという意味だ。
「とても言葉では言い表わせない色だ」は、ある色を持っているのだが、その色というのが、言葉では言い表せない種類のものなのだという意味だ。
要するに「とても言葉では言い表せない」は性質を帰属させるだけではなく、その性質がどんな種類の性質であるかまで述べる表現である(性質の性質を述べる表現である)。
じゃあここで言う「とても言葉では言い表せない」が持っている「性質の性質」はいったいどんなものなのだろう。
それを考えよう、というのが問題の1つ。とりあえず眠いし特に結論はないのでこれは断念した。
もう1つ問題があって、「とても言葉では言い表せない」は人の側に属するのか、世界の側に属するのか。
単純に考えると人の側に属するように思える。つまり「とても言葉では言い表せない色」という色が存在するのではなく、「わたしにとってこれはとても言葉では言い表せない」と考えている人がいるだけのように思える。
(わたしは、ふつうの色、たとえば「黄色」は世界の側に属すると思う。もちろん、「色」というのは人間の視覚をベースにした概念なので、他の生物にとって黄色という色は感覚できないものであるわけだし、そもそも光が無ければ色も見えないわけだが、それでもそれは世界の側にあると考える。めんどうなので理由は説明しないが)。
しかし、何かまかりまちがって、「とても言葉では言い表せない色」というのが現に存在し、しかもわれわれの日常表現にある「とても言葉では言い表わせない色」という表現はそのような色のことを指していると論証できるかもしれない。
そこまでを示せたとすると、もはや誰にも「とても言葉では言い表せない」という表現について文句を言われる筋合いはない。理論武装は完璧と言えよう。
だんだん自分でも何を言っているのかよくわからなくなっているが、こんなことを考えたのは、「となりの801ちゃんアニメ化中止のショックはとても言葉では言い表せない」と思ったせいである。
- となりの801ちゃんアニメ化中止のショックはとても言葉では言い表せない
- =>「とても言葉では言い表せない」って変な表現だな。誰かに文句を言われたらどうしよう。
- =>理論武装で正当化するんだ!
という順番ですね。
参考
■ わたしと日常語
ちなみにわたしはこういう風に日常語の意味をあれこれ考えるのが割と好きである。
改めて見直すと、何となく特定の学問をベースにしているような書き方だが、こんなことを研究する学問は存在しないのでこれはオリジナルな芸風であると思う(言語学とか言語哲学の一部に似ているし、そういったものにも影響を受けているのだが、客観的に見直すと何かがちがう。誤解の余地がないように断わっておくが、こういう芸風で日常語彙を分析する学問は存在しません。わたし理論です)。
オリジナルであっても、わたし以外の誰も喜ばない/おもしろくないのが難しいところだ。
ブログでは、自分の書いた過去記事を頻繁に紹介するとよいとどこかに書いてあったので以上の記事を探してきた。
「ので」の3つの用法については、われながら結構良いところに目をつけたと思う。ツリー状の図を書けば大分わかりやすくなったはずだが、無精して図を描かなかったので、3つの用法の違いがわかりにくくなっていると思う。
「個性について」はちょっと小難しい書き方になりすぎているのが気に入らないが、読むと「個性」という言葉の意味がますますわからなくなるところが気に入っている。というか今回読み返して思ったが、個性という語の意味は本当にむずかしい。
「個性を表現しなさい」と言われると、
「『個』であることをアピールしなさい」
「ハイ! 普遍ではありません! この通り手足がついた実体であり個でございます!」
みたいな応答を想像してしまうが、そうじゃないんだというところに個性の難しさがある。
■ 新刊とか
新刊じゃないけど、いつのまにか『幽霊狩人カーナッキ』が創元文庫で出てた。
W.H.ホジスン (著), 夏来 健次 (翻訳)
東京創元社、2008
これ、昔角川ホラー文庫ででてて、それずっと探してたんだけど、見つからない内に創元で出たようだ。
ホジスンは『マタンゴ』の原作者であり、奇書『異次元を覗く家』の著者でもあります。ラブクラフトと並び称されるようなSFホラーで有名な人です。
そんなホジスンによるオカルト探偵ものということで、わたしは大いに期待している。
以下、ひとから薦められたものなど。
- 『科学の哲学』
西脇 与作 (著)
慶應義塾大学出版会、2004
- 『現代哲学入門』
西脇 与作 (著)
慶應義塾大学出版会、2002
坂本 百大 (著), 野本 和幸 (著)
北樹出版、2002
■ 読書
三嶋 博之 (著), 河野 哲也 (編さん)
三嶋博之 / 溝口理一郎 / 関博紀 / 倉田剛 / 加地大介 / 柏端達也著
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-36050-7/
おもしろい。





