逆猫のティブルスのパラドックス

猫のティブルスのパラドックスもあまり有名ではない(Wikipediaに項目さえないし、googleでもひっかからない)ので、おもしろがる人は少ないだろうと思われるが、考えたので一応発表する。パラドックスというかショートショートですね。


ティブという少年がいた。物心ついた頃から、ティブの体は、ティブよりも大きな透明な男に包まれていた。ティブは男をティブルスと呼んでいた。ティブルスを見ることができるのはティブだけだ。ティブルスの体は透明で見えないが、ティブの体を取り巻くようにいつもそこにいることをティブは知っていた。

病気で伏せた夜、熱に冒された頭で障子の外に降る雨を見つめていると、ティブルスの体がティブをあやすように揺れる。大きな怪我をした日、ティブルスは大きな手でいつくしむように傷口をさすった。

ティブはいつも、ティブルスに守られているように感じていた。


いつしかティブはひとりの大人の男として成長し、ティブルスのことを忘れてしまった。ところが、ある日、ティブは、かつて感じていたティブルスの輪郭が現在の自分の輪郭に一致することに気づいた。ティブはそのときに悟った。幼い頃より自分を守っていたのは未来の自分であったのだと。


↓猫のティブルスのパラドックスは(私の理解するところによれば)こういう感じです。なぜか対話になっているのは同人誌の小説の一部に入れようと思って書いていたせいですね(入れなかったけど)。

「うん、わかってる。ところで、猫のティブルスのパラドックスを知っているか」

「知らないけど」

「だろうな。うちの惑星に伝わる昔話だ。人や物の一部に名前をつけることがあるじゃないか」

「たとえば?」

「右手に女子の名前をつけてかわいがるとか」

「気味の悪い例だ」

「人面疽に名前をつけてかわいがるとか、ミトコンドリアに名前をつけるとか、そういうのだよ。何でもいいが、ティブルスは猫で、ティプルスの尻尾以外の部分をティブと呼んでいる」

「何のために?」

「そのときは何か理由があったんだろうが、詳しくは知らん。この問題のために重要な点は1つ。ティブはティブルスの一部だけどティブルスそのものじゃない。何か別のものだ。おまえの右手がおまえ自身ではないように」

「ところが、ティブルスはある日、事故で尻尾を失しなってしまった」

「かわいそう」

「さて、問題、今やティブというのはティブルスそのものなわけだが」

「わかった、尻尾を失なったティブルスは主人の帰りを待ちつづけ」

「......土砂に埋もれ、地層の中で立派な石像になりました」

「いい話だ」

「そんな話じゃない。真面目に話させろ」

「今やティブとティブルスは物質的には完全に1つのものになりました。しかし、事故以前にはティブとティブルスは別のものだったわけで、事故のせいで2つのものが1つになった? そんなことがありえるんだろうか? というのが問題」

「ティブとティブルスが物質的に一致していたとしても『同じもの』と認める必要はなくない?」

「そう考えるなら、きみは魂と肉体の二元論にくみすることになる。ティブルスのアイデンティティはティブルスを構成する物質ではなく、どこか他の場所にある何かだと認めるのだから」

「あー、なるほど。どう見ても昔話じゃないね?」

「子供の頃、ママンが昔話だと言って聞かせてくれた」

「哲学的なママン......」

コメント(4)

# はじめまして

こんにちわ。

>そう考えるなら、きみは魂と肉体の二元論にくみすることになる。ティブルスのアイデンティティはティブルスを構成する物質ではなく、どこか他の場所にある何かだと認めるのだから

「対象は、それを現に構成している物質によってアイデンティティを定められる」というような特別な立場(mereological essentialismとか)をとるのでなければ、一般には物体的な対象のアイデンティティは、実際にそのものを構成している物質とは別のものだと考えるのが普通だと思うので(もっとも、「じゃあ、構成している側の物質のアイデンティティってなに?」という話にもなりますが、ここで言わんとするところはお分かりと思います)、今の場合は魂と肉体との二元論(mind-body dualism)というよりは、身身二元論(body-body dualism)といったところでしょうか。あるいは、ティブルスにとってのティブのような関係にある対象は他にも幾らでも想定できることを考えれば、むしろ多元論(body-body pluralism)でしょうかね。

(2008/10/ 2 19:23)
# at-akada

はじめまして。ご教示どうもありがとうございます。
>一般には物体的な対象のアイデンティティは、実際にそのものを構成している物質とは別のものだと考えるのが普通
あれ? そうだったんですか。ティブルスのパラドクスは物理主義との対立で問題になるのかと思っていたんですが、ちょっと勘違いしていたかもしれません。
(確かに物理主義であっても物質=アイデンティティと考える必要はないかもしれないですが)。


あと魂と肉体の二元論を持ち出したのは確かにおかしかった気がします。この場合魂はそんなに関係なかったですね。
body-body pluralismというのはティブとティブルスが異なった実体であると認めるところからくるんでしょうか。それなら理解できるような気がします。

ちなみに、ここで私が元ネタとして参考にしたのは
『穴と境界―存在論的探究』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393329066/ref=nosim/atakadaorg-22
でした。
ティブルスのパラドックスについて日本語で他に読める文献は、『形而上学論文集』くらいだった気がしますが、この本はただいま部屋内紛失中のため、参照しそこねた次第です。

(2008/10/ 3 0:16)
# はじめましての人

再びこんにちわ。
先のコメントの際には、「アイデンティティ」というのを「時間を通じてのアイデンティティ、同一性」の意味で捉えていたのですが、そうした意味でのアイデンティティについては、これぞ正に物理主義的立場!、と言えるようなものはちょっとありそうにはないかと思うので、物理主義の是非云々という話には直接繋げるのはちょっと無理があるのではないか、と。ティブルス/ティブ問題のポイントは、物理的な対象に加えて魂みたいな心的な対象が出現してしまうということではなくて、むしろ、下手をすると物理的対象がとめどなく増殖しかねないけどアンタどうするよ、という点ではないでしょうか。そうした議論の向けられる先が主として、三次元主義と呼ばれる立場に組する人たちで、またこの三次元主義は――たとえ広い意味での物理主義と両立可能であるにしても――ゴリゴリのハードな物理主義とはあんまり相性が良くなさそうで、といったような形では、物理主義に関する微妙な温度差のようなものがこの問題にも間接的に関わってくるかとも思うのですが。
再び失礼しました。

(2008/10/ 3 21:33)
# at-akada

>そうした議論の向けられる先が主として、三次元主義と呼ばれる立場に組する人たち
おー、なるほど、勉強になりました。確かに、物理的対象がとめどなく増えると、物理主義的にも困るかもしれないですね。

(2008/10/ 4 2:25)

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