デイヴィッド・ルイス (著), 吉満 昭宏 (翻訳)
勁草書房、2007
この本ずっとトイレに置いていて半年くらいかけて少しずつ読んでいたんだけど、少しずつ読んでたら途中でついていけなくなってしまった。それから少し戻って読んだりパラパラめくったりしてたんだけど、これ以上内容を把握できずにパラパラめくって読む行為に意味を見出せなくなってきたのでいったん感想を投げてけりをつける。世界の集合を使った理論の概要は何となくわかったので、また体力のあるときにでも挑戦してみることにする。
基本的には、数学的理論をつくって「反事実的条件法(もしもカンガルーに羽があれば、みたいな)」を分析する本です。
ルイス自身について言えば、『形而上学論文集』に入っていた「普遍者の理論のための新しい仕事」がわりと自分のなかでのターニングポイントになっていて、これを読んだおかげで、「形而上学おもしろいなー」と感じるようになった。今思い返してみても、これはかなり密度が高くおもしろい論文だったと思う。タイトルが『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事 』に似ているところも好きだ。
とりあえず「これは同意できるなー」と思った部分だけまとめておく。様相論理に詳しくなったところでまた読めばおもしろいかもしれない。
なるほどと思ったポイント1。哲学は常識を体系化する。
見解の蓄積を既に持ち合わせている者が哲学に携わる。これらの先立つ見解を大半において貶めるか擁護することが哲学の本文なのではなく、先立つ見解を整然とした体系へと広げていく仕方を見つけようとすることこそが哲学の本文なのである。
形而上学者による心の分析は、心についてのわれわれの見解を体系化する試みである。それは、
- (1)その分析が体系的であり、そして
- (2)その分析が、われわれが強固に持ち合わせている前哲学的な見解の蓄積を重んじる、という限りにおいて成功する。
p144
哲学の仕事は素朴な信念を懐疑したり批判したり擁護することではなく、素朴な常識的見解を体系化し理解することである。
断片的にしか把握されていない日常的信念を命題の形で表現することで、どの命題がどの命題を含意し、どの命題がどの命題と矛盾するかを理解できる。つまるところ哲学の仕事はわれわれの常識的世界観がどんな部品から成り、どんな風に組み立てられているかを理解することである。
変な考え方をぶつけて常識を解体し、それが「よいことだ」と考えるような傲慢で懐疑主義な「哲学」や「啓蒙」はあまり好きではないので、こういう考え方には好感を覚える。
デイヴィド・ルイス自身はぶっとんだ発想で有名な人だが、意外と基礎はしっかりしているというか、あくまでも一定のルールを守った上で挑発的な発想を提出している点は好きだ。
ポイント2。曖昧な概念だからといって形式化をあきらめる必要はない。
(ルイスの用いている「類似性」という概念が曖昧だという指摘について)
たとえ可能世界には我慢できるとしても、世界の比較可能な全体的類似性という概念は未だ絶望的に不明瞭であり、よって反事実的条件法やその他のものの解明にとってはまったく確固たる基礎となっていない、と言われるかもしれない。
私はその批判は間違っていると思う。「不明瞭であるunclear」ことが不明瞭なのである。
つまり、それは「不当に理解されたill-understood」ことを意味するのか、それとも「曖昧であるvague」ことを意味するのか?
...
比較可能な類似性は不当に理解されたものではない。それは正しく理解されるなら、曖昧――非常に曖昧――なのである。従って、それはまさに、それ自体明白に曖昧なものに関する正しい分析を与えるのに使用しなければならない類の原始概念である。
p149-150
私は固定された区別を、それを支持することがまったくできない基礎の上に立てようとする哲学者の一人ではない。私はむしろ、
- 揺らいだ基礎の上に
- 固定されていない区別を
立てたいのであり、その際にその双方は独立にではなく、むしろ一緒になって揺れ動くと主張するのである。
p151
元々曖昧な日常概念をその曖昧さを保持したまま形式化するのは非難されるべきことではない、と。むしろ形式化によって曖昧さの分析が可能になる。
曖昧さと形式化は必ずしも矛盾するわけではない、というのは共感できる立場だ。形式化というと、曖昧さを排除して明晰な定義に置きかえることだと考えられがちだが、そうではない。第一に考えるべきことは、曖昧なものを形式的でソリッドな定義に置きかえることではなく、曖昧な世界観を、曖昧さを保持したままで(それでいて体系的に)理解することだ。そう考えるなら、これは哲学は常識を体系化するという論点とも関連するだろう。
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はじめまして。昨年、蒼龍さんのブログでアルチュセールについてコメントを(正確には質問でしたが、)さしてもらったことがきっかけで、コチラのサイトを知りました。
興味はあったんだけど、僕は大学等で(ソレ自体、定義の難しいことかもわかりませんが、)“マトモ”に哲学を勉強してこれなかったもので、今回記事で取り上げられたような不安をなかなか払拭できませんでした。なんというか、勿論「考え、語る」に知識が足りないことの不安はしっかり受け止めるべきものあるとして、どこまでも「不明瞭」なことが不安で、別に世に問うとかじゃなくて、自分なりの考え方の助けにしたいというだけで学ぶのだから割り切ればいいような気もするのですが、学んで、整理することの間、「解釈」の繋がっていく層にどれだけ「不当に理解されたかもしれない」部分があるんだろう?とか、悩んでいました。「ではない」づくしのように感じてしまうから(そういったときは、やはり「教師」が欲しかったと思ってしまいます)。
今回の記事引用部を拝読して、そんな不安が多少なりとも晴れた気が致します。ここでこういったことをするものではないでしょうが、深く御礼申し上げます。ありがとうございました。
』 (2008/10/10 16:28)