2008年11月
先日開催したナンセンスプレゼンテーションの会の資料を独自にslideshareにアップロードしてみました。
(まとめて公開するって言われていたのだけど、なかなか皆が資料を送らないらしく、待ってたら長そうだったので)。
「すべての道がローマに通じてたらローマって特別な場所じゃないよね」というきわめてアクチュアルな問題にとりくんでいます。
ナンセンスプレゼンテーションの会の主催者による解説はこちらです。
Twitterでさらしていたらいくつか反応をいただきました。
「なるほど」と思ったのは、
- 道に重みづけをしたらどうか?
- すべての経路が通じるだけではなく、コストの合計が最小になる都市がローマなのではないか
というものでした。
あとid:mmwwから、Omnes viae Romam ducuntという原語は、「道」ではなく「街道」とも訳せると。すべての有名な街道はローマを端点としているという意味じゃないかと示唆されました。
重みづけ問題については、深く受け止めたいですが、「格言はすべての道が通ずと言っているだけで、コストについては触れていない」と言いはり、街道の問題については、「ローマを端点としない街道もある。格言が誤りになってしまうような解釈は避けるべきだ」と強弁していきたいと思います。
最近英語の勉強と趣味で、英語圏の哲学ブログを読むようにしている。日本で分析哲学に触れるブログは決して多くないが、さすがに英語圏のブログは数も豊富でなかなか盛り上がっている様子。ブログ上でもいかれた思考実験がくりひろげられてて楽しいです。
最新の話題に触れることができるし、ブログ記事だからそれほど長くもないし、英語圏のブログを読むのはおすすめです。
■ for English people
I want to introduce for Japanese people English philosophy blogs by this post.
■ どうやって哲学ブログを見つけるか
著名な哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが哲学ブログのリンク集をつくっています。
これを見ながら適当におもしろそうなブログを見つけて、さらにそのブログのリンクなどをたどっていくといろいろ見つけられます。ただしリンク切れもいくつかあるので、ちょっと古いかもしれないです。
下で書いたPhilosphers' Carnival をチェックするのもいいかも。
■ グループブログ
日本ではあまり見られないが、英語圏にはなぜか学生などが集団でブログを書くグループブログというものがある。「芸術の哲学を研究している学生が書いてるブログ」とか「ミシガン大の哲学を学ぶ学生が書いているブログ」など。
当然ながら、ぜんぜん更新されないところもあるけど。
なんてもっと更新されてほしいですね。
おもしろいところではExperimental Philosphy(実験哲学)なんてのもある。
恥かしながら最近までこのExperimental Philosphy(X-Phiと略すらしい)について知らなかったのだが、心理学実験のような実験を哲学研究にも取り入れようという潮流だそうです。Wikipediaによると2000年以降にはじまった新しい動きだそうだけど、なかなか盛り上がっていて、今では50人以上も研究者がいるそう。ブログの更新頻度も高いです。
あと哲学ブログが使ってるサービスはwordpressかblogspotが多い印象。日本だとはてなとかでしょうか。
■ Philosphers' Carnival
哲学ブログの数が多いせいかイベントも行なわれている。Philosophers' Carnivalというものが定期的に開催され、「ベスト哲学ポスト」を決めています。Blog Carnivalというツールをつかってるみたいですね。
結構な高頻度で開催されており、2週間おきに部門ごとのベストポストを選んでいるようです。
- epistemology
- logic and language
- metaphysics
- moral philosophy
- political philosophy
- other
の6部門。
こちらが公式サイト。
- ここのフィードで更新をチェックできます。
Blog Carnival - philosophers' carnival
■ Philosphers' Carnival#82
英語圏の哲学ブログの雰囲気を伝えるために最近のPhilosphers' Carnival#82にあげられたエントリを紹介します。ちゃんと読んでないのもあるので、紹介が適当でごめんなさい。
以下が各記事の紹介エントリ。
(毎回ホストを持ち回りにして、受賞したエントリの紹介をしているようです)。
Philosophy, et cetera: Philosophers' Carnival #82
↓以下からがCarnivalにあげられたポストです。
笑った表情や怒った表情に薬品で固定して、それが人の感情にどんな影響を与えるかという実験の話。
内省しなくても自分の心について知識を得ることができるという話。
哲学史。プラトンの教育論について。
哲学史。哲学と喜劇の関係。
哲学史。バークリーの話。ごめんなさい、この辺の哲学史の話ほとんど読んでない。
2つの物体の衝突はありえるかという話。このトピックは『穴と境界』でも紹介されてたなー。
このPossibly Philosphyというブログは、わりとハードな論理の哲学とかMetaphysicsのいかれた思考実験が多く、更新頻度も高めでおもしろいです。むずかしいけど。
錯覚論法や水槽の中の脳論法による懐疑主義をどうやって論破するかという話。
帰納の新しい謎(グルーのパラドックス)の解決について考えてみた話。ツンデレとは関係ない話みたいですね。
ほとんどがグルーのパラドックスの紹介で最後に少し、自分で考えた解決が示唆されています。
科学における分類の話。性質による分類と名前だけの分類とか。これはおもしろかったです。
バイアスの話。peer disagreementというのは同等の立場の2人が非同意になることのようですね。知識の哲学方面の話なのかな。ちょっと知識がない&英文読解があやしくてあまり把握できてないです。
グルーとツンデレの話が意外な盛り上がりを見せています。
http://www.at-akada.org/blog/2008/11/post-272.html#comments
# ネルツン・グッドマン 『
こんにちわ。
「グルー」型の述語は、「t以前にグリーンか、あるいは、t以後にブルー」というように選言的に定義されると思うのですが、「ツンデレ」型述語は恐らく、「t以前にツンツンで、かつ、t以後にデレデレ」という具合に連言を用いて定義されるのではないかと思うので、その違いはかなり大きいのではないでしょうか。(つまり、ある人がt以後にツンツンしているということだけからは、その人がツンデレだとは推論できない、というように。)
』
(...)
# at-akada 『
グルーが
「xはt以前にグリーンである。またはxはt以後にブルーである。」
という選言型の述語だとまずいのではないかと思います。
この場合、t以前もt以後もグリーンであったエメラルドは、【t以後も】t以前と同様に一貫して「グルー」であることになってしまうわけです。
言いかえれば、t以後において
命題: すべてのエメラルドはグルーである.
が真であることになってしまいます。
しかしこれは『事実、虚構、予言』でのグッドマンの論旨と矛盾するのではないでしょうか。
ですが、グルーが連言型で定義されると言いたいわけでもないです。
なぜなら、グルーの定義が
「xはt以前にグリーンである。かつxはt以後にブルーである。」
という連言型のものであった場合、t以前にはxがグルーであるかどうか判断できなくなってしまうからです(ご指摘の通り、この点はツンデレとちがいます。言われて気がつきましたが、確かにツンデレはデレデレになってから事後的に判断するしかないですね)。
そうではなく、グッドマンの論述では、
命題: エメラルドはグルーである。
は、t以前においても真な判断として扱われていたはずです。
だから、むしろ選言でも連言でもなく、
「t時点を境にグルー述語が指すクラスが変化する」
と言うべきだと考えました。
ただし、この「クラスが変化する」という言い方はブルーとグリーンを基準に考えるからそう思うのであって、「グルー」「ブリーン」を基準に考えた場合、述語の側ではなく、個体が変化したように見えるはずです。
「t時点を境に、それまでグルーだったエメラルドたちが突然グルーではなくなった」というように。
反対に、「t時点において突然色がグリーンからブルーに変化したエメラルド」は、「t以前もt以後も一貫してグルーであった」と言えるはずです(この場合、グルー世界観の人からは、何の変化も起こらなかったように見えるはず)。
つまり「ツンデレ」と「グルー」の違いをまとめると、
- 「グルー」については時点t以前にも、「xはグルーである」という判断を【十全に】行なえるのに対し、
- 「ツンデレ」については時点t以前には、「xはツンデレだろう」と【推測】することしかできない
という点ではないかと思います。
この点についてはご指摘を受けてはじめて気がつきました。おかげでツンデレとグルーに対する考察が深まりましたw
ただちょっとこれ以上は元の著作を確認してみないと何とも言えないので、本を探してみます。
』
# ネルツン・グッドマン 『
赤田さんのコメントについて考えてみた上で、「グルー」と「ツンデレ」との違いに関しては、僕はやはりそのポイントを連言と選言との違いとして捉えるのはそれほど間違ってはいないように感じました。(例えば「グルー」の意味をクラスによって与える場合でも、クラスの論理和が問題となるわけですから。)
ただ、その点を強弁するつもりもなくて、というのもこれは上で「自分の理解もかなり怪しげ」と述べたことと関連するんですが、むしろ大きな問題は「グルー」のような述語が時制表現と合わさって(過去形や未来形で)どのように使われるかという点にあるのだと思います。これは言い換えれば、「グルー」を「t以前にこれこれで、t以後にはこれこれ」と述べ直した場合に「t以前・以後」という表現の役割をどのように解釈するか、という問題になってきます。そして、これが恐らく、赤田さんの引っかかっている問題なのではないかと思います。
で、こうした問題について僕がちょっと考え込んでしまうのは、「グルー」のように色、つまり第二性質を表す述語というのは一般に、時間との関係ではきわめて不安定な性格を持っているという理由があります。ちょっと長くなりますが以下はご参考まで。
ある対象xは時点t0から時点t1まで、その内在的性質を何ら変化させなかったとします。つまりその間、xそれ自体は全く同じままでいたわけです。
この場合、t1においてxは1メートルの高さだったとすれば、xはt0においても1メートルだったはずだと推論できます。こうした場合、高さのような第一性質に関しては、こうした安定性が認められるでしょう。
これに対して、t1においてxが赤い色だったとして、そのことからxはt0においても赤だったと推論できるか? 恐らくこの点で、多くの哲学者の直観は二つに分かれます。
(1)t0からt1の間、xそれ自体には何の変化もなかったのだから、t0においてもxはt1と同じく赤だったはずだ。
(2)t0においてはxはt1とは違った照明等の条件下におかれていたかもしれないのだから、t0においても赤だったとは言い切れない。
色に関する物理主義者であれば(1)をとるでしょうし、現象主義者であれば(2)を唱えるでしょう。
こうした第二性質に独特の問題は、グッドマンの「グルー」問題にどういう具合に関わっているのか、というのが今のところ自分の中でのスッキリしない部分です。(そしてもしかするとこうした問題は「ツンデレ」の存在論的身分にも光を投じてくれるかもしれない。というのも、「ツンデレ」というのは物理的概念なのか、それとも現象的な概念なのか?)
えー、わたしはここで、「選言」じゃないんじゃないかと言っていたのですが、下のkoljaさんの分析を見てたらなぜ選言かがわかった気がします。
↓こういう形の選言だとまずいんです。
(まずい理由はコメントで説明した通り、t以前にグリーンで、t以後にもグリーンなものが含まれてしまうからです)。
xはt以前にグリーンである. または xはt以後にブルーである.
↓これだと大丈夫なんですね。
x は
t以前に観察され、グリーンであるか,
または
t以後に観察され、ブルーである.
これならば、観察された時点を固定しているので、t以後にグリーンなものは含まれません。
変数のスコープの問題で、観察時の時点とセットになった選言なら、グルーを形式化できるようです。
とっさに「選言」と聞いて思いついたのが上の形だったものでひっかかっていたのですが、ネルツンさんは最初から下の形を意図していたのかもしれません。失礼しました。
ついでに「第一性質」「第二性質」という論点については、「ツンデレは自然種であるか」という論点と関連するように思われました。
たとえば『百舌谷さん逆上する』という漫画ではツンデレという性質が病気として設定されていました。この場合ツンデレは自然種にあたるのではないでしょうか。
病気にかぎらずとも、ツンデレのようなパーソナリティは、個人の表に現われたふるまいによって規定されるだけなのか、それとも表面的な行動を越え、行動によって発現した自然的性質を指すのかというのは難しい問題です。ツンデレというのはツンデレ的な行動をした人のことなのか? ツンデレ的な行動に走る性質を持った人のことなのか?
言い方を変えれば、たとえば、1度もデレを発揮しないまま、不幸にしてツンツンしたままで死んでしまったツンデレというものは存在しうるでしょうか?
わたしはありうるのではないかと思いますが議論の余地はあるでしょう。
↓Twitterでもツンデレは行為なのか性質なのかという論点が問題になっていました。
■ 「グルー」と「ツンデレ」の意味について - 郵便屋さん、お願いします。
koljaさんがグルーとツンデレの意味論的分析を提示してくれました。
ラムダ計算はよくわからないので、プログラムに変換してみます。
グルー = Lt Lt' Lx. t < 2500年のとき、t'においてxは緑である。t >= 2500年のとき、t'においてxは青である。
↓javascript
var grue = function(t){
return function(t2){
return function(x){
if(t<2500){
isGreen(x, t2);
}else{
isBlue(x, t2);
}
}
}
}
↓scheme
(define grue (lambda (t) ((lambda (t2) ((lambda (x) (
(cond ((< t 2500)
(blue? x t)
(else (green? x t)))))))))))
ツンデレ = Lt' Lx. t' < f(x)のとき、t'においてxはツンツンである。t' >= f(x)のとき、t'においてxはデレデレである
var tsundere = function(t2){
ruturn function(x){
if( t2 < f(x)){
isTsunTsun(x);
}else{
isDereDere(x);
}
}
}
(define tsundere (lambda (t) (lambda(t2) (lambda(x)
(cond ((t2 < (f x)) (tsuntsun? x))
(else (deredere? x))
)))))
イメージとしては、「xはgreen / xはblue / xはtsuntsun」などがすでに定義されており、
(((tsundere t) t2) x)
という風に時点2つと対象xという3つの変数をわたすと、真理値が返ってくるという感じだと思います。
(ラムダ計算をそのままプログラムにしたけど、ふつうに引数3つの関数にしてもよかったかもしれないです)。
グルーの意味は発話-観察時点に依存するが、ツンデレの意味は個体に依存するというのが分析の要点のようです。
この分析には同意できますね。というか意味論におけるラムダ計算はほぼはじめて見たので、おもしろかったです。
にかかわる妄想と、ツンデレについての思考実験。
以下「帰納」という言葉で、「数学的帰納法」ではなく「枚挙帰納法」のことを指すから注意してね。
「グルー」については説明するのが大変なので、上のwikipediaの記事を読んでください。
Twitterからサルベージ。
- ある時点で、ツンとデレが入れかわるのだが、ツンとデレは別の個体であるというツンデレが可能であるかどうか考えている。http://twitter.com/at_akada/statuses/991910406
- 観察者の側の異常性を仮定すれば可能だな。その人は個体に対して特殊な認識方法をとっているため、ずっとツンであったAさんとずっとデレであったBさんをもとに、ある時点以前のAさんとある時点以後のBさんからなる特殊な個体Cさんをつくりあげ、ツンデレとして受容するのだ。http://twitter.com/at_akada/statuses/991915483
- まわりから見ると、さっきまでAさんに「CさんCさん」と話しかけていたのに、ある時点を機に一転し、今度はBさんに対し「CさんCさん」と話しかけるようになる。しかし、彼の中では、「Cさんはツンデレだ」ですべての説明がついてしまうのである。http://twitter.com/at_akada/statuses/991918928
ヒントになったのは以下の発言。
kasuho:ツンデレは時点t以前にツンツンを指し、時点t以降はデレデレを指すという風に誤解されがち。http://twitter.com/kasuho/status/991188655
この後改めて考えてみたのだが、ツンデレは真正にグルー型の述語ではないか。
ツンデレという述語を使っても、「グルー」と同様に、「帰納の新しい謎」を考えられるように思う。
- (1)「時点t_0において彼女がツンツンしている」という観察は、「彼女はわたしを嫌っている」という仮説の証拠となる。
- (2)「時点t_0において彼女がツンツンしている」という観察は、「彼女はわたしに対してツンデレである」という仮説の証拠となる。
(1)も(2)も、帰納的推論としては申し分のない形をしているように見える。
しかし、(1)と(2)は、互いに相反する結論を導く。
(1)から得られる仮説では、彼女はわたしを嫌っており、ある時点以後にデレデレになるという事態は考慮されていない。
(2)から得られる仮説では、彼女はわたしを好いており、ある時点以後にはデレデレになるはずである。
つまり、まったく同じ観察が、互いに相反する仮説の証拠となってしまう。
しかも「グルー」とはちがい、「ツンデレ」はすでに擁護され投射可能な述語であるので、「彼女はわたしを嫌っている」のか、それとも「彼女はツンデレである」のかという2つの仮説の対立は実践的にも問題になりうる。
端的に言えば、「嫌われているのか、それともツンデレなのか」というのは当事者にとっては大問題であろう。
最近小説の同人誌を出すことについて反省的に考えていたのでメモ。
単純に、自分の本を売るなかで、素人の書いた小説って読む気が起きにくいよねって思っただけなのだけど。
同人誌にはいくつかハードルがあって、まず(1)入手してもらうまでが1つの山、(2)次に入手してから読んでもらうまでがまた大変という感じ。
実際売ったりあげたりしても、大半の人は読んでないと思うんだ。自分としても、同人誌即売会で買った小説や、人からもらった小説ってなかなか食指が伸びにくい。
そうじゃなくて小説の方が読みやすいという人もいるとは思うけど、とりあえず自分の感覚をメモする。
- 素人の書いたマンガ->読める
- 素人の書いたコラム、レビュー、批評->読める
- 素人の書いた小説->読みにくい
という感覚をわたしは持っている。
マンガの場合、「絵を見れば作風が何となくわかる」というのが大きいかな。
次にコラムなどの文章の場合、書いている人を知らなくても「何を書いているかがわかりやすい」という効果が大きいと思う。たとえば、書いた人に興味がなくても「フランス書院美少女文庫総レビュー」って言われれば何が書いてあるかわかるし、どう読めばいいかも自ずと決ってくる。
小説の場合、まずその世界に入り込むまでの敷居がちょっと高いので、どうしても「保証付き」の商業作品を求めてしまう傾向にある。
しかしこれは解決不能な問題では無い。要するに何が書いてあるかわかりやすくすればいいだけのことだ。
たとえば「分析哲学の萌えパロディ本」と言われれば何が書いてあるかわかるし、興味のある人は手に取りやすいと思う。パロディにしろというわけではなく、パロディ以外にも、何が書いてあるかわかりやすく、手に取りやすい切り口を考えるのは可能だろう。なので、これについてはまた考える。
次の問題。「描写がめんどうくさい」。小説のめんどうなところは、アイデアやストーリーを文章での描写の形に落さなければならないところだ。何でもそうなんだけど、小説の場合特に、すでに言葉で考えているアイデアをさらに別の種類の描写の言葉にしなければならない。この作業には大変なコストがかかる。書くだけではなく、読む側にも描写を読んでイメージするのが負担になる。そこは文章の技術で解決すべき問題だろうというのが正道かとも思うが、それ以外の道も考える。
ボルヘスがあらすじだけの小説を書いてたけど、そういうことができないかなとちょっと思ってる。
1つの簡単な解決策は描写のプライオリティを下げること。一部のラノベとかは実際に「描写はどうでもいいが、分量と速度で読ます」みたいな方法をとっているようだ。mmwwに、分量と速度が重要なんじゃないかと言われたが、そうかもしれない。
あまりうまく言えないが、意識的に荒削りなテンプレートを使うみたいなことがうまくできればおもしろそうかなと思う。
あと、そもそも狭義の「小説」にこだわる意味はそんなにないんじゃないかなと思っている。
同人小説を商業作家への登竜門と捉える気はないのだから、商業作品や正規の文学のフォーマット自体捨ててよいのではないかと。
具体的なアイデアはまだ何もないのだが、まともな小説には真似のできない同人誌ならではの反則技を考えられないかどうか、もう少し考えてみたい。
第0回開催の結果、読む本が決まりました。
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20081115#1226737745
- Abstract Entities
- Causation and Laws of Nature
- Modality and Possible Worlds
- Time
- Persistence
- Free Will
- Mereology
- Metaontology
などの面倒なテーマに関する対立する意見を知り、Metaphysicsの基礎的な学習を行ない、究極的にはモテます。
(最後のはただの希望です)。
目次
- 批判的工学主義とは何か/建築家・藤村龍至/インタビュー
- アダルトヴィデオ的想像力をめぐる覚書――ゼロ年代的映画史講義/渡邉大輔
- リアル入門 ――ネットと現実の臨界/工藤郁子
- 文芸批評家のためのLudology入門――<ゲーム>定義のパースペクティブ/高橋志行
- 工学の哲学序説/シノハラユウキ
- 「コンテンツ植民地」日本/min2fly(佐藤翔)
- ケータイ小説の作り方――ケータイ小説家・秋梨インタビュー
- フィクションするとは一体いかなる行為か/シノハラユウキ
- 兄弟という水平面/擬似的な垂直性/シノハラユウキ
- フラグメンタルアプローチ/塚田憲史
- &LOVE――『あたし彼女』『メルト』/塚田憲史
- Synodos+筑波批評社
- 座談会 ニコニコ世代に歴史はあるか?
■ まえおき
筑波批評についてまじめにコメントします。代表のsakstyle(シノハラユウキ)さんは、よくわたしのブログ記事にブクマやスターをつけていてくれて、去年の文学フリマではうちのサークルの本を買いにもきてくれた。そのため、わりと前から認知しており、最近ではTwitterなどでもちょこちょこ交流がある。
しかし正直に書くと*、評論や思想にそれほど興味がないため、最初は筑波批評についても「大学生が何かやってるなー」というくらいの印象しかなく、わりと冷淡に見ていたと思う。
それがいつのまにか印象が変って、ゼロアカ道場の頃はもう「筑波がんばれ!筑波がんばれ!」という心情だったのだが、これについては彼らが毎週末に放送していたustreamを見ていた効果が大きいと思う。
筑波批評社のustがおもしろいというのは実は、id:mmww に教えてもらった。mmwwは文学フリマでsakstyleさんが買いに来てくれたのがきっかけで筑波批評社を知ったのか? その辺の経緯はよくわからないが、mmwwは自分の姿を見せず、こっそりヲチするタイプのキモいヲチャーなので、いつのまにか筑波批評をヲチしていたらしい。
ustreamがきっかけで筑波批評に興味を持ったという人は意外と多いのではないかと推測しているが、何というかアレは、大学の人文サークルの空気を疑似体験できる装置として稀有だと思う。失礼ながら、筑波批評社の人たちは、とてつもない知的なカリスマなどではなく、自分のまわりにもいそうな、ちょっと哲学や思想にくわしい学生にすぎない。しかしその人たちが、映像の向うで熱くトークを繰り広げており、ircなどを通じて自分もちょっとだけ参入できるというのはやばい。画面のむこうの楽しそうな雰囲気が伝わってきて、自分もついでに若がえった気分で楽しみに見ていた。
あとsakstyleさんがよく勉強しているのは傍目にもわかったので、ブログ記事の質がだんだんあがっていくのもすごいなーと思っていた。
というわけでわたしは筑波批評社を応援しているのでまじめにコメントしたいと思います。とりあえずわたしの関心に近かったsakstyleさんの論考2本についてだけ書く。他にもおもしろい記事はいろいろあったのだけど、わたしがコメントしても仕方ないようなものも多いので。
まじめなコメントなので、わりときびしめに書いています。
■シノハラユウキ「工学の哲学序説」
■ 要約
東浩紀やイアン・ハッキングは、テクノロジーに着目することで新しい哲学的概念を生み出し、従来の概念を「脱神話化」という形で再構成した。こうした試みを「工学の哲学」と捉えたい。
■ 感想など
エンジニア兼哲学オタであるところのわたしとしては、目次を見たときからこの論評は気になっていた。工学の哲学という試みはおもしろいものだと思う。
読んだ感想としては「テクノロジーによって新しい概念を生み出す」という着想自体はとてもよいのだが、短かすぎる印象を持った。この着想自体には興味があるので、今後もう少し展開してほしいなあと思う。
具体例として東浩紀とハッキングという、意外な組み合わせの2人があげられているのも唐突に思えたし、論述にも事例が少なすぎて消化不良ぎみだった。特に「脱神話化」というタームについては定義や説明が少なすぎてよくわからない(東浩紀由来の単語なのはわかるが、東浩紀の元々の用法もわたしにはよくわからない)。門脇俊介の本を参照して「自然主義」と同一視しているが、「自然主義」と「脱神話化」って一緒にしたら両方とも怒るのではないか。
あと、「工学の哲学」の例として、ハッキング、東浩紀、パース、バシュラールなどの名前があがっているが、この選択もやはり唐突だ。
まず工学の哲学自体はふつうに行なわれているものだし、それを専門にしている人もいる。最近でた岩波哲学講座にも「科学/技術の哲学」という巻が用意されている。
飯田隆(編)
岩波書店、2008
以下のような本も出ている。
黒田 光太郎 (編集), 伊勢田 哲治 (編集), 戸田山 和久 (編集)
名古屋大学出版会、2004
試しに、「工学」「哲学」などのキーワードで、CiNiiなどで検索をかけてみると、それを専門にしているらしい人の論文や著作が他にもぽろぽろと見つかった。
そこで言う「工学の哲学」のほとんどは、この論考があつかっているようなものではなく、いわゆる工学倫理とか技術倫理を扱うものだが、現に「工学の哲学」をやっている人たちがいるのに、それをまったく紹介せず、工学の哲学を名乗っているわけでもないハッキングなどをあげるのは不用意だろう(東浩紀は「工学の哲学」と言っていたかもしれないけど、他の人はそうじゃないよね?)。
これは、内容に対する異論ではなく、論を進める上でのテクニックについて述べただけだ。しかし工学倫理などの試みを簡単に紹介しつつ「でも、ここではちょっと違った人たちを工学の哲学の実践者として評価するよ」と一言つけくわえるだけで、ずいぶん印象は変わるはずだ。この文章のような書き方だと「工学の哲学について何も知らず、何も調べずに書いているんだな」と思えてしまう。
■シノハラユウキ「フィクションするとは一体いかなる行為か」
■ 要約
フィクションは、キャラをキャラとして消費する行為や、作中の記述を信じるという行為など、いろんな行為の実践によって成り立っている。
■ 感想
知っている人は知っているように、わたしの修論は「社会的実践としてのフィクション」というものであり、この論考はわたしの関心にかなり近い。
これについては、結論がどうこうよりも論の進め方に気になる部分が見られた。
この文章が述べているフィクション観自体は多くの人の共感を得るところだろうと思う(人によっては異論もあるだろうが)。
しかしこういうタイプの哲学的論述(?)で重要なのは、結論よりも論の進め方だと思う。単に共感を得られそうな主張を書いて、「そうだそうだ」というだけでは論文にも研究にもならない。丁寧な論証があるからこそ、哲学的な論述になるのだと思う。
ここで提示されているフィクション観は、人が作品を、特定の慣習や習慣にそって扱うことによって、作品はフィクションとして構成されるというプラグマティズム的なものだ。構成主義的と言ってもいいが、とにかく行為・実践中心の発想という風に見える。
こういう主張をするときに気をつけなければならないのは、対照概念をきちんと明示することだ。「行為」とか「実践」というのはかなり広い概念であるため、気をつけないと「なんでも行為だ。なんでも実践だ」というマジックワードになりやすい。しかし、「何でも行為だ」と簡単に主張できてしまうなら、そもそも行為中心の発想を提示する意味がない(なんでも行為によって構成されるなら、「何でも行為によって構成される」と言えばいいだけであって、わざわざフィクションについて同じ主張を繰り返す意味は特にない。反対に言えばそれはフィクション固有の特徴をとらえられていないため、フィクション論としては失敗である)。
特に前半のキャラの話は「行為」による実践的なフィクション観を強調しているわりに、具体的に「どういう慣習なのか」「どういう行為なのか」という話が少なく、観念的な話にとどまっているように思えた。
後半のフィクションの「リアリティ」とか「信じる」の話はもうちょっと独自のことを言おうとしているようにも見える。ただこれらの部分ももう少しきちんと論じてほしいなあと思った(どちらもおもしろそうなトピックであるだけに、アイデアだけにとどまっているのは残念だ)。
どういう風に話を深めればいいのかについては何とも言えないが、論述が雑に見えた部分を1つだけあげておく。他にもいくつか気になった点はあったが、1つだけ。
たとえば以下の部分。神=作者という発想を否定するために、佐藤友哉の小説をあげ、以下のように書いている。
その後に書かれる『世界の終わりの終わり』『灰色のダイエットコカコーラ』は共に、佐藤友哉を模したと思しき「僕」が主人公となり、覇王ないし作家になろうと試みるのだが、 失敗に終わるのだ。この失敗は何を意味するのか。作家とは、作品世界を全て操る神のような存在ではないということだ。
p62-63
これなんて、ほとんど佐藤友哉が小説に書いている(らしい)ことをただ繰り返しているだけだ。作品論としては正しいのかもしれないが、これだけでは「佐藤友哉が言ってるから正しい」と言っているようにしか見えない。それは論証にも説得にもならないのではないかと思う。
この文章では、哲学的な論述と作品論があまり分離されずに共存していて、それ自体はおもしろい試みかもしれないとも思うのだが、こうした部分ではそれが失敗してしまっていると思う。
...しかしこれ、何を書いても、「人のこと言えんわ」というブーメランだな。
■ 第7回文学フリマ終了
『アーカイブ騎士団003 メタバシス―ものすごい大砲―による星間周遊(31世紀)』
http://www.at-akada.org/archive/log/archive003.html
知っている人はご存知のように(トートロジー)、今回は「講談社BOX:東浩紀のゼロアカ道場」という企画が開催されており、なんだか盛り上がっていた。
詳しい数字はわからないが、来場者数もかなり増えていたのではないだろうか。
うちのサークルはゼロアカ道場とは何の関係もないのだが、来場者数が増えた結果かこれまでで最高の売り上げを記録した。
新刊だけで50部以上、旧刊あわせると70-80部程度は売れた。
たくさんの方に手に取っていただけたことも嬉しいのだが、たくさんの人が遊びに来てくれたため、いろんな人に会えたのも嬉しかった。
いつもこの手のレポートを書くとき、「写真を撮っておけばよかった」と思うのだが、今回は写真を撮るのをすっかり失念したのが残念。
あと、「フレーゲさまが見てる(分析哲学萌えパロディ本)」は結局できてないです。すいません、いつか何とかします。
■ 感想など
一参加者としていろいろな同人誌を買ったりもしたので、おいおい感想をアップしていきたいと思います。
今回驚いたのは、「ゼロアカ以外全部紹介」というタイトルでゼロアカ道場以外の全サークルを紹介されていた「leftsize_3」のたたたさんが、紹介したすべてのサークルのブースを実際にまわっていたところです。まわるだけでなくかなりの量の同人誌を購入されていたようで、その熱意と行動力に感嘆しました。
ゼロアカ道場関連では、Twitterなどで交流があった筑波批評と、いろいろ気になるキャラであるところのミネオさんの最終批評神話を購入しました。
特に筑波批評については、毎週のustreamなどもよく観ていたため、応援したい心情が強かったです。
去年の文学フリマでは、コピー誌を出しているマイナーサークルというくらいの立ち位置だったのに、この1年間、半年間でずいぶん盛り上がったと思います。そういうプロセスを脇で観ていたのもあって、野球チームなどを応援する心情で興奮したりなどしていました。
(まったくスポーツ観戦をしないので、想像なんですけど)。
結果は残念でしたが、十分な奮闘だったと思います(そもそもうちのサークルの数倍売れているわけだし)。
筑波批評自体は大体読みおわったので、近いうちに感想でもアップしたいと思います。
第七回文学フリマ参加します!
ようやく入稿しました......。
TeXで組版したら死にかけました。縦書き+文庫サイズとか相当な達人じゃないと無理。ボーナスでInDesign買おうかな。
ちなみに、以前言っていた「フレーゲさまが見てる」(分析哲学パロディ本)は、まだまったく手をつけてません。どうしようかな......。クォリティが低いものを出すのはアレなので予告編だけとか?
■『アーカイブ騎士団003 メタバシス―ものすごい大砲―による星間周遊(31世紀)』
http://www.at-akada.org/archive/log/archive003.html
- 2008年11月 9日(日)
- 開場11:00~終了16:00
- 場所:東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第 2展示室
- スペース:1階のA-40
■ あらすじ
■ おかしな星々を逃げ回る 泣き虫画家の逃走劇!
時は31世紀、宇宙に名だたる天才ホログラム画家シャノワール・サトル(童顔・27歳)には放浪癖があった。未知の星々をまたぐ大砲メタバシスに乗ってサトルは未知の星々を巡る。師匠を追う弟子の田中(美少女・セーラー服・17歳)。サトルが出会う奇妙な星々と人間を描く、奇想系宇宙周遊小説。
■ 目次
- 「キャラクター惑星の千年幼女」赤田敦(あかだ あつし)騎士+森朋一(もり ともかず)騎士
- 「タマゴの惑星の卒業」赤田敦騎士
- 「温泉惑星の怪人」森朋一騎士
- 「4コマ」いよかんの騎士
- 「どうしてこの本はここにあるのか」赤田敦騎士
- 「千年幼女制作対談」赤田敦騎士+森朋一騎士
■ 収録作品の解説
前回の002は、なんとなくテーマが忍者小説に決まったので、「観念的な忍者小説というのは無いので作ったらおもしろいかな?」と思って書いた。よく考えると「観念的な忍者小説です。ふつうの忍者小説じゃないです」って言った方がよかったと思うのだが、うっかり普通の忍者小説であるかのように言ってしまったのでスルーした人が多かったのではないかと思う(パラパラ見て、数学の話とか書いてあるのを見てはじめて興味を持ってくれた人が多かった)。
自分の書いたものを読み直してみると、アイデアはともかく内容は観念的すぎて自分でもよくわからなかった。なので、今回はもっとふつうにストーリーのあるポピュラーな感じにしてみた。
今回は、「シリーズものでいこう」ということだけが最初に決まったので、私が昔から偏愛している「変な惑星を巡る宇宙旅行小説(999みたいなやつ)」にすることになった。本当は変な惑星をもっと出して奇妙な感じにしたかったけど、惑星は意外とふつうになってしまったのが残念。
裏テーマとしては、「ラノベにしよう! ラノベははずかしくない!」という相談をしていた。
なので、がんばって「ヒロインが嫉妬してムキー」みたいな要素を入れるようにした。恥かしくない!と表向きは言っていたが、実際には恥かしくてつらかった。
- 表紙
前回につづき、川越くん(ペンネームは恥しいからやめたらしい)につくってもらいました。いそがしいなかキャラクターデザインまでやってくれた上、素晴しい表紙をありがとうございます。
川越くんはふだんはコンテンポラリーアートとかデザイナーをやっていて、どっちかと言うとアカデミックでアブストラクトな作品をつくっていると思う(作品にあんまり変な形容詞をつけると怒られそうで怖いのだけど)。その川越くんが美少女の絵を描いてラノベ的な表紙をつくっているというのが、わたしのなかでは最高におもしろいのだが、そのおもしろさは言わないとなかなか伝わらないので残念です。
- 「キャラクター惑星の千年幼女」
これだけは2人で書いた。結構いそいで書いたのだが、終了後の感想としては「あれ?これが一番おもしろくない?」とふたりで話していた。
制作ミーティングのログを見ると、最初は観念的なアイデアをいろいろ話しているのだが、最終的にはなぜか「主人公が1000年間生きている幼女と対決する」という糞ショービニスティックな話になったのがおもしろかった。
今回はいろいろつらかったのだが、これを書く過程はとても楽しかったので、以前より思っていた「小説は2人で書いた方がおもしろい」という感想をいっそう強めた。世間には2人で書いた小説はあまり無いし、2人で小説を書く人もあまりいないのだが、小説は2人でやる方がおもしろいし、作業を分担できて楽だと思います。
個人的には、「自分の男性性を嫌悪し二次元美少女に自己投射するオタク男性のメンタリティ」について考えることが最近多かったので、そのことを書くようにした。
- 「タマゴの惑星の卒業」
これはわたしが書いた。最近「働くって何かなー」「小説の才能とか能力とか無いのでつらいなー」とよく思っていたのでモラトリアムとか就職のことを書いた。
書くのがとてもつらかった。つらいのを緩和するためにラノベっぽいシーンとかギャグとかをこまめに入れるようにした。
自分で読み直してみると、内容はラノベ的な描写が多いのに文章がラノベじゃないので変な小説だと思った。そういう変さは大切にしていきたい。
- 「温泉惑星の怪人」
mmwwが書いた。温泉、覗きというベタなテーマがすばらしいと思います。
- 「4コマ」
前回につづき、いよかんの騎士(id:mikan3)先生の4コマです。シリーズものなので、シリーズ中のキャラクターを使って描いてもらいました。
いよかんの騎士先生の4コマが見られるのはアーカイブ騎士団の同人誌だけ!です。今のところ。
- 「どうしてこの本はここにあるのか」
以前から「制作者の顔が見えない同人誌ってダメだよね」と思っていた。
なので、直接的に自分の思いを表現する文章を入れてみた。
正直力を発揮し、わりと赤裸々に小説とか同人誌に対する思いを書いてみました。わたしは市井のふつうの人間だが、ふつうの人間が赤裸々に自分のことを書いた文章はおもしろい、と少なくとも私は思っている。この文章を読むと、わたしという人間が多少は見えるはずなので、人によってはこれが一番おもしろいかもしれない。
- 「千年幼女制作対談」
制作過程をすべて公開したいと前からずっと思っていたので、制作ミーティングのログを入れてみました。メッセで話した内容を編集してます。
2人で小説を書いている人というのはあまりいないようなので、「こうやって書いてます」というのを公開してみたのです。
↓ここで話していた読書会の件ですが。
http://www.at-akada.org/blog/2008/10/2-17.html#comments
興味がある風だった以下の人々に呼びかけます。
1回集まって話さないですか?
今のところ、ほんとうにまだ何も決まってないです。
個人的には、
- 頻度: 隔週かそれ以下
- 読むもの: 形而上学の教科書的な書物か言語哲学の古典
を希望という感じですが、それ以外でもいいです。
(kugyoさんから価値論という意見もでました。価値論ならtanakaxさんとかに教えてもらえそうなのでいいかもしれないです)。
(koljaさんって、このブログの人であってますよね? 別人だったらごめんなさい)。
とりあえずわたしは、今週末は文学フリマなどでだめそうなのですが、来週末くらいなら大丈夫です。
最近出た本でほしい本のメモなど。お金が無いので買いびかえています。
中山 康雄 (著)
勁草書房、2008/10
形而上学やったり社会の哲学やったりしている人ですね。
『言葉と心 (双書エニグマ)』も気になる。
関係ないけど、たまたまおすすめにでてきたこれも前から読みたい本だ。『疑似科学と科学の哲学』。
岩波哲学講座もどんどんでてくるなあ。形而上学の巻はおもしろかったよー。
↓目次とか。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/011261+/top2.html
飯田 隆 (編さん)
岩波書店、2008
この巻は買おう!と思いつつ。
村田 純一 (編さん)
岩波書店、2008
前から出てるけど、この巻もいいなあ。
飯田 隆 (編さん)
岩波書店、2008
この巻もぷち気になってる。







