目次
- 批判的工学主義とは何か/建築家・藤村龍至/インタビュー
- アダルトヴィデオ的想像力をめぐる覚書――ゼロ年代的映画史講義/渡邉大輔
- リアル入門 ――ネットと現実の臨界/工藤郁子
- 文芸批評家のためのLudology入門――<ゲーム>定義のパースペクティブ/高橋志行
- 工学の哲学序説/シノハラユウキ
- 「コンテンツ植民地」日本/min2fly(佐藤翔)
- ケータイ小説の作り方――ケータイ小説家・秋梨インタビュー
- フィクションするとは一体いかなる行為か/シノハラユウキ
- 兄弟という水平面/擬似的な垂直性/シノハラユウキ
- フラグメンタルアプローチ/塚田憲史
- &LOVE――『あたし彼女』『メルト』/塚田憲史
- Synodos+筑波批評社
- 座談会 ニコニコ世代に歴史はあるか?
■ まえおき
筑波批評についてまじめにコメントします。代表のsakstyle(シノハラユウキ)さんは、よくわたしのブログ記事にブクマやスターをつけていてくれて、去年の文学フリマではうちのサークルの本を買いにもきてくれた。そのため、わりと前から認知しており、最近ではTwitterなどでもちょこちょこ交流がある。
しかし正直に書くと*、評論や思想にそれほど興味がないため、最初は筑波批評についても「大学生が何かやってるなー」というくらいの印象しかなく、わりと冷淡に見ていたと思う。
それがいつのまにか印象が変って、ゼロアカ道場の頃はもう「筑波がんばれ!筑波がんばれ!」という心情だったのだが、これについては彼らが毎週末に放送していたustreamを見ていた効果が大きいと思う。
筑波批評社のustがおもしろいというのは実は、id:mmww に教えてもらった。mmwwは文学フリマでsakstyleさんが買いに来てくれたのがきっかけで筑波批評社を知ったのか? その辺の経緯はよくわからないが、mmwwは自分の姿を見せず、こっそりヲチするタイプのキモいヲチャーなので、いつのまにか筑波批評をヲチしていたらしい。
ustreamがきっかけで筑波批評に興味を持ったという人は意外と多いのではないかと推測しているが、何というかアレは、大学の人文サークルの空気を疑似体験できる装置として稀有だと思う。失礼ながら、筑波批評社の人たちは、とてつもない知的なカリスマなどではなく、自分のまわりにもいそうな、ちょっと哲学や思想にくわしい学生にすぎない。しかしその人たちが、映像の向うで熱くトークを繰り広げており、ircなどを通じて自分もちょっとだけ参入できるというのはやばい。画面のむこうの楽しそうな雰囲気が伝わってきて、自分もついでに若がえった気分で楽しみに見ていた。
あとsakstyleさんがよく勉強しているのは傍目にもわかったので、ブログ記事の質がだんだんあがっていくのもすごいなーと思っていた。
というわけでわたしは筑波批評社を応援しているのでまじめにコメントしたいと思います。とりあえずわたしの関心に近かったsakstyleさんの論考2本についてだけ書く。他にもおもしろい記事はいろいろあったのだけど、わたしがコメントしても仕方ないようなものも多いので。
まじめなコメントなので、わりときびしめに書いています。
■シノハラユウキ「工学の哲学序説」
■ 要約
東浩紀やイアン・ハッキングは、テクノロジーに着目することで新しい哲学的概念を生み出し、従来の概念を「脱神話化」という形で再構成した。こうした試みを「工学の哲学」と捉えたい。
■ 感想など
エンジニア兼哲学オタであるところのわたしとしては、目次を見たときからこの論評は気になっていた。工学の哲学という試みはおもしろいものだと思う。
読んだ感想としては「テクノロジーによって新しい概念を生み出す」という着想自体はとてもよいのだが、短かすぎる印象を持った。この着想自体には興味があるので、今後もう少し展開してほしいなあと思う。
具体例として東浩紀とハッキングという、意外な組み合わせの2人があげられているのも唐突に思えたし、論述にも事例が少なすぎて消化不良ぎみだった。特に「脱神話化」というタームについては定義や説明が少なすぎてよくわからない(東浩紀由来の単語なのはわかるが、東浩紀の元々の用法もわたしにはよくわからない)。門脇俊介の本を参照して「自然主義」と同一視しているが、「自然主義」と「脱神話化」って一緒にしたら両方とも怒るのではないか。
あと、「工学の哲学」の例として、ハッキング、東浩紀、パース、バシュラールなどの名前があがっているが、この選択もやはり唐突だ。
まず工学の哲学自体はふつうに行なわれているものだし、それを専門にしている人もいる。最近でた岩波哲学講座にも「科学/技術の哲学」という巻が用意されている。
飯田隆(編)
岩波書店、2008
以下のような本も出ている。
黒田 光太郎 (編集), 伊勢田 哲治 (編集), 戸田山 和久 (編集)
名古屋大学出版会、2004
試しに、「工学」「哲学」などのキーワードで、CiNiiなどで検索をかけてみると、それを専門にしているらしい人の論文や著作が他にもぽろぽろと見つかった。
そこで言う「工学の哲学」のほとんどは、この論考があつかっているようなものではなく、いわゆる工学倫理とか技術倫理を扱うものだが、現に「工学の哲学」をやっている人たちがいるのに、それをまったく紹介せず、工学の哲学を名乗っているわけでもないハッキングなどをあげるのは不用意だろう(東浩紀は「工学の哲学」と言っていたかもしれないけど、他の人はそうじゃないよね?)。
これは、内容に対する異論ではなく、論を進める上でのテクニックについて述べただけだ。しかし工学倫理などの試みを簡単に紹介しつつ「でも、ここではちょっと違った人たちを工学の哲学の実践者として評価するよ」と一言つけくわえるだけで、ずいぶん印象は変わるはずだ。この文章のような書き方だと「工学の哲学について何も知らず、何も調べずに書いているんだな」と思えてしまう。
■シノハラユウキ「フィクションするとは一体いかなる行為か」
■ 要約
フィクションは、キャラをキャラとして消費する行為や、作中の記述を信じるという行為など、いろんな行為の実践によって成り立っている。
■ 感想
知っている人は知っているように、わたしの修論は「社会的実践としてのフィクション」というものであり、この論考はわたしの関心にかなり近い。
これについては、結論がどうこうよりも論の進め方に気になる部分が見られた。
この文章が述べているフィクション観自体は多くの人の共感を得るところだろうと思う(人によっては異論もあるだろうが)。
しかしこういうタイプの哲学的論述(?)で重要なのは、結論よりも論の進め方だと思う。単に共感を得られそうな主張を書いて、「そうだそうだ」というだけでは論文にも研究にもならない。丁寧な論証があるからこそ、哲学的な論述になるのだと思う。
ここで提示されているフィクション観は、人が作品を、特定の慣習や習慣にそって扱うことによって、作品はフィクションとして構成されるというプラグマティズム的なものだ。構成主義的と言ってもいいが、とにかく行為・実践中心の発想という風に見える。
こういう主張をするときに気をつけなければならないのは、対照概念をきちんと明示することだ。「行為」とか「実践」というのはかなり広い概念であるため、気をつけないと「なんでも行為だ。なんでも実践だ」というマジックワードになりやすい。しかし、「何でも行為だ」と簡単に主張できてしまうなら、そもそも行為中心の発想を提示する意味がない(なんでも行為によって構成されるなら、「何でも行為によって構成される」と言えばいいだけであって、わざわざフィクションについて同じ主張を繰り返す意味は特にない。反対に言えばそれはフィクション固有の特徴をとらえられていないため、フィクション論としては失敗である)。
特に前半のキャラの話は「行為」による実践的なフィクション観を強調しているわりに、具体的に「どういう慣習なのか」「どういう行為なのか」という話が少なく、観念的な話にとどまっているように思えた。
後半のフィクションの「リアリティ」とか「信じる」の話はもうちょっと独自のことを言おうとしているようにも見える。ただこれらの部分ももう少しきちんと論じてほしいなあと思った(どちらもおもしろそうなトピックであるだけに、アイデアだけにとどまっているのは残念だ)。
どういう風に話を深めればいいのかについては何とも言えないが、論述が雑に見えた部分を1つだけあげておく。他にもいくつか気になった点はあったが、1つだけ。
たとえば以下の部分。神=作者という発想を否定するために、佐藤友哉の小説をあげ、以下のように書いている。
その後に書かれる『世界の終わりの終わり』『灰色のダイエットコカコーラ』は共に、佐藤友哉を模したと思しき「僕」が主人公となり、覇王ないし作家になろうと試みるのだが、 失敗に終わるのだ。この失敗は何を意味するのか。作家とは、作品世界を全て操る神のような存在ではないということだ。
p62-63
これなんて、ほとんど佐藤友哉が小説に書いている(らしい)ことをただ繰り返しているだけだ。作品論としては正しいのかもしれないが、これだけでは「佐藤友哉が言ってるから正しい」と言っているようにしか見えない。それは論証にも説得にもならないのではないかと思う。
この文章では、哲学的な論述と作品論があまり分離されずに共存していて、それ自体はおもしろい試みかもしれないとも思うのだが、こうした部分ではそれが失敗してしまっていると思う。
...しかしこれ、何を書いても、「人のこと言えんわ」というブーメランだな。
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