2008年12月
先日の「形而上学(スタンフォード哲学事典)」に関する訂正と補足。
http://www.at-akada.org/blog/2008/12/post-278.html
「性質」とか「普遍者」とか「クラス」とかについて整理する。
勝手な思い込みで「性質というのは集合のことだ」と思っていたのだが、どうもよく読むとこれは誤解だったらしい。
こういうのは図を書いた方がわかりやすいと思うので、図を描きながら整理する。
■集合とクラス

まず集合とクラスの関係。
「クラス」も「集合」もものの集まりであるが、「クラス」というのは生物種などのように「要素の間に内在的な統一がある集まり」のことだ。集合というのは、「何でもいいからとにかく要素を集めたもの」であるわけだが、それに対して、「ちゃんと必然性のある集まり」のことをクラスと言うらしい。
「クラスは集合の内の特殊なものである」って言ってよいのかどうかよくわからないが、とにかくクラスと集合はちょっとちがう。
もしクラスが特殊な集合であることを認めるなら、
クラス⊆集合
あるいは「コレクション」をものの集まりを表わす中立的な単語として使うことにして、
クラス ⊆ コレクション 集合 ⊆ コレクション
■クラスと性質

性質はクラスではない。
「白いもののクラス」はすべての白い個物を集めたコレクション。
一方、性質というのは、クラスのそれぞれのメンバーの内に「現われている(present in)」ものであるらしい。
先に書いたように「性質」と「クラス」を混同していたのだが、どうも違うらしい。確かに、よく考えると「性質はコレクションである」と言うより、「性質は個物に現われている」という方が自然な発想だろう。
白い個物 ∈ 白いもののクラス 白さという性質 is-present-in 白い個物
あと次、「基底を認めるか」「性質は個物の構成要素であるか」「トロープを認めるか」でいくつかの立場に分かれる。
- 性質は個物の構成要素であるという立場を「構成的存在論」、
- 性質は個物の構成要素ではないという立場を「関係的存在論」と言うらしい。
■ 構成的存在論1

構成的存在論その1。トロープがないバージョン。
普遍者=性質が、個物を直接「構成」している(is a constitute of)。
また、個物からあらゆる性質を除いたときに残るものを「基底(subtrace)」と言う。基底を認める人と認めない人がいる。
構成的存在論という立場がさらに、
- 「個物というのは普遍者の束(bundle)だよ」という立場と、
- 「個物というのは普遍者の束+基底だよ」という立場に分かれるわけだ。
白さの普遍者 is-a-consitute-of 白い個物 白い個物 falling-under 白さの普遍者
■ 構成的存在論2

構成的存在論その2。トロープを認めるバージョン。
普遍者=性質が直接個物を構成するのではなく、「個別的で抽象的な性質」であるところの「個別的性質(トロープ)」が個物を「構成」する。
つまり、「白さ(普遍的白さ)」とは別に「タージ・マハールの白さ(個別的白さ)」なるものがあって、これがタージ・マハールの構成要素なんだよという立場。
(図では一応「∈」にしたけど、個別的白さと普遍的白さの関係はよくわからない)。
個別的白さ in-a-constitute-of 白い個物 白い個物 falling-under 白さの普遍者
■ 関係的存在論

関係的存在論。
性質が個物の構成要素であると認めない立場。
性質と個物の関係は、「外在的で論理的」なものであって、構成要素となっているわけではない。
たぶん「関係的存在論のトロープありバージョン」というのもあるんじゃないかと思う。
ヴァン・インヴァーゲン「形而上学」
http://plato.stanford.edu/entries/metaphysics/
スタンフォード哲学事典の記事を、勉強のために読んでまとめる。今回は、ヴァン・インヴァーゲンさんによる「形而上学」の項目。
インヴァーゲンさんの論文は確か、『現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)』にも入っている。
うろおぼえだが、↑に収録されていたのは「なぜそもそも何かがあるのか」というすごいテーマの論文で、しかも内容は、「世界の可能なあり方のうち、物が1つも存在しない世界は1つしかなく、それ以外の世界は無限にある。よって、ものが存在しない世界が現実化する確率は0だから」というハイデガーが聞いたら卒倒しそうな確率論を使った議論で、「ちからわざww」と思った記憶がある。
次は、
「計算機科学の哲学」の項目を読んでまとめる予定。
The Philosophy of Computer Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
■ 感想
昔は、「分析哲学が形而上学だなんて意外!」と思ったものだったが、今はすっかり、「こういうのアメリカ人(とかオーストラリア人)が好きそう!」と思うようになった。
あんまりうまく言えないが、形而上学にはなんというか大陸的な匂いを感じる。
まったく悪い意味ではないのだが、「退屈さ」に満ちているというか。大陸の壮大な風景を延々と見せられ中にははっと目を瞠るような風景もたくさんあるのだが見ている内にだんだん眠くなってくる...みたいな大味の。刺激に対してだんだん感覚がマヒしてくる感じ?というとちょっと違うか。まあ壮大なゲームに興ずる大陸精神だよね。何言ってんのか自分でもよくわかんないけど。
あと、反形而上学ってジャーナリスティックに人気あるけど、そして論理実証主義って人気ないけど、反形而上学って大抵論理実証主義の親類なんだよね、と思った。
ネルソン・グッドマンなんて本人の自己規定も最後まで「論理実証主義者」だったんじゃないかと思うけど、なぜか論理実証主義がきらいそうな人に人気あるよね。あと後期ウィトゲンシュタインなども依然として典型的に論理実証主義的であると思うが、なぜか論理実証者がきらいそうな人に人気あるよね。
補足: ↑筆がすべって迂闊な放言を吐いてしまったので削除
だから何ということはないが、形而上学も楽しいですよ?的なことを言いたかったのかもしれない。
■ 要約
- 「形而上学」の元々の意味はアリストテレスから来ている。
- 本来の意味は
- 「存在としての存在(being as such)」
- 「事物の第一原因」
- 「変わらないもの」
- を研究する学問である。
現代では、この定義にはあまり意味はない
- 事物の第一原因などなどの存在を否定する人も形而上学に含まれる
- 事物の第一原因などなどとは関係ないテーマも形而上学に含まれる
■ 1. 語「形而上学」と形而上学の概念
- 形而上学というのはアリストテレスの著作のタイトルだが、アリストテレスの時代にはこの名称はなかった。
- アリストテレスの死後100年後に、編者が"xTa meta ta phusika"("the after the physicals")とつけた。
- physicsは「変わるもの」の研究であり、metaphysicsは「変わらないもの」の研究である。
- 「meta(後)」の意味するところは、「physicsを勉強してからこっちを勉強するように」ということである。
- なぜ「存在としての存在」と「第一原因」が同じ形而上学の中に入るかというと、第一原因とふつうのもののあいだには、「ある」という以外に共通点がないからである。
- 17世紀までは形而上学のテーマは「変わらないもの」とか「第一原因」で通用した。
- それ以降はphysicsのテーマだったさまざまなものごとがmetaphysicに分類されるようになった。
- 心身問題、自由意志、個人の同一性...etc
- 同時期「存在としての存在」は ontology のテーマになった。
- ポストライプニッツ学派の合理主義者は形而上学という語の濫用に気づいていた。
- Christian Wolffは一般形而上学と特殊形而上学をわけた。
- しかしこれはこじつけっぽい。
- おそらくmetaphysicsが濫用されるようになったのは、physicsがより限定された意味を持つようになったせいだろう。
- いずれにせよ、古い用法と今の用法はあまり関係ない。
■文献
- アリストテレスの形而上学について。
- Politis, Vasilis (2004): Aristotle and the Metaphysics. London and New York: Routledge.
■ 2 形而上学の問題: 古い形而上学
- 「形而上学」は昔より広い範囲の単語になったが、古い形而上学が扱った問題は今でも形而上学の主題である。
- 「存在としての存在」はどうしたって形而上学のテーマだ。
- こういう↓テーゼは、典型的に形而上学的
- 「あるものはあり、あらぬものはあらぬ(パルメニデス)」
- 「現実の実在は単なる理解の実在よりも大きい(アンセルムス)」
- 「『ある』は真の述語ではなく論理的な述語である(カント)」
- 「存在の述定は数0の否定に他ならない(フレーゲ)」
- 「『ある』とは束縛変項の値であることである(クワイン)」
- などなど
- 存在に関する見解の中には「存在としての存在」の研究に入れていいのか微妙なものもあるけどね(「存在するとは知覚されることである(バークリー)」とか)。
- 「非存在」に関する研究も、「存在としての存在」の研究に入る。
- 「第一原因」「変わらないもの」の研究も古くから形而上学のテーマ。
- 「第一原因はない」とか「変わらないものはない」という主張も形而上学のテーマだから気をつけてね。
- 少なくとも最近の発想では「形而上学的テーゼの否定」も形而上学的テーゼに入れる*。
- 現代の用法では、「反形而上学者」というのは、「形而上学の主題になるようなものの存在を否定する人」じゃなくて「そういうものが存在するかどうか」という問題設定自体を認めない人のことだよ。
■ 2.1 存在のカテゴリー
- 人間はよくものを分類する。
- 「内在的な統一」がないものをわざわざ分類することは滅多にないよね。
- 統一がある集まりのことを「クラス」と呼ぶ(統一がなくてもいいものは「集合」と言うよ)。生物種などが典型だ。
- クラスは大抵「自然」クラスであり、「(自然)種」だ。
- そのメンバーシップが何らかの意味で「斉一uniform」だ。
- ただし「自然なクラスなんて存在しない」というのもきちんとした哲学的テーゼである。
- もしこのテーゼが正しいなら、「存在のカテゴリー」なんて問題設定はダメなわけだけど、ちょっとここでは自然なクラスがあるものと仮定しておこう。
- クラスの内のいくつかは他のものより広い。たとえば「犬」より「動物」、「動物」より「生物」の方が広い
- そこで、「クラスに分類されうるもののクラス」、つまり一番広いクラスを考えよう。
- 包括的なクラスより、ちょっとだけ狭いクラスもあるはずだよね。
- 普遍クラスよりちょっとだけ狭いクラスのことを、「存在のカテゴリー」とか「存在論的カテゴリー」と言うよ。
- 「存在のカテゴリー」は、存在の本質(存在としての存在)と、中世以後形而上学に入るようになった新しい問題の中間に位置する。
- なぜならこいつらは普遍者universalsにかかわるからだ。
- 普遍者というのは、「白さ」とか「可塑性」みたいな「性質」のことだ。
- しかも、クラスのメンバーの「中に現われている」。
- あるいは、普遍者は「の北にある」みたいな「関係」のことだ。
- しかも、ものの組のクラスのメンバーの「中に現われている」*。
難しかったらとりあえず、「性質」「関係」というのは「集合」のことだなと思ってよいと思う。そんで、要素の中に顕現しちゃうような集合のことを「普遍者」と呼ぶんだと思えばいいんじゃないか。
訂正: ごめんなさい。この説明はたぶん間違いでした。「性質」は集合じゃないです。おそらく「白いもののクラス」が「白さという性質」とは別にあって、「白いもののクラスの要素に共通して現われているもの」を「白さという性質=普遍者」と呼ぶのです。
例をあげるのはむずかしいけど、
ちょっと誤訳修正:
- 性質こそ普遍者の例と考えられるのが通例だけど、普遍者は性質以外のものかもしれない。
- 『戦争と平和』という小説はこの小説のすべての印刷の中に現われてるよね。これが普遍者かもしれない。
- 「馬」という語のすべての発話の中に、「馬」という語が現われているよね。これが普遍者かもしれない。
- あるいは「馬」という自然種は、すべての馬の中にある意味では現われているよね。これが普遍者かもしれない。
- 普遍者が何らかの意味で存在するというテーゼのことを、「実在論」とか「プラトニズム」と呼ぶよ。
- 普遍者が存在しないというテーゼのことを、「唯名論」と呼ぶよ。
- この論争は昔からあるけど、クワインによって「存在論的コミットメント」と呼ばれる新しい要素がくわわった。
- われわれが持ってる最良の科学理論を、一階量化言語の標準的記法で書き直そう。
- 多くの場合、理論の帰結の中には、述語Fの存在汎化があるはずだ。
- しかもFを充足するのは、唯名論と矛盾するような対象だけだったりする。
- つまり、われわれの最良の科学理論は、唯名論と矛盾するような対象に対し、「存在論的コミットメント」しているわけだ。
- 例をあげてみよう。
「ある均質な対象があり、その質量は、g/cm^3の密度とg/cm^3の容積の積である」
∃x Hx & ∀x (Hx → Mx = Dx × Vx),
- ここから次が帰結する。
「x = y × z」をみたすx, y, zが存在する。
∃x ∃y ∃z (x = y × z)
- x, y, zを満すのは具体的には「数」だよね。
- つまりこの理論は「数」という抽象的存在者の存在にコミットしてるよね!
- 唯名論者はこの理論を認められないよね!
- 多くの実在論者は、普遍者は存在のカテゴリーの1つをなすと仮定してる。
- 普遍者じゃなくて、それよりも広い「抽象者」こそが存在のカテゴリーだという人もいる。
- しかしいずれにせよ、かなり広い方のカテゴリーだろうとみんな思っている。
- 存在のカテゴリーは、存在のカテゴリーより少し狭いサブカテゴリーを考える上でも重要だ。
- 存在のカテゴリーは、古い意味の形而上学にも属するよ(微妙な部分もあるけど)。
- アリストテレス『形而上学』でもプラトンの形相概念について述べられているし。
- ちなみに、「普遍者は対象に先がけてあるante res」か「普遍者は対象の中にあるin rebus」かというのがアリストテレスの問題だったわけだが、これは21世紀の形而上学でも問題だよ。
- 普遍者とか存在のカテゴリーについてもう少し考えよう。
- 白い2つの個物particularsについて考えてえみよう。タージ・マハールとワシントンのモニュメントとか両方とも白いよね。
- こいつらが白いのは、「白さ」の普遍者と関係を持っているからだ、としてみよう。
- この関係のことを「におさまるfalling under*」と言うことにしよう。
- すべての白いものが、そして白いものだけが、「白さ」におさまっている。
- さあ、この「おさまる」という関係について何が言えるか?
- なんでタージ・マハールが白さにおさまるのか?
- タージ・マハールは「ものに先がけた普遍者」の束であり、タージ・マハールが白いのは、この束の構成素の中に白さの普遍者があるからかもしれない。
- あるいは、タージ・マハールのような個物は、普遍者の束ではなく、普遍者以外のもの=基底(substrace)も含むかもしれない。
- あるいは、タージ・マハールのような個物は、普遍者でも基底でもないものを含むのかもしれない。
- 「具体的な個物」の他に、「抽象的な個物=個別的な性質」(「タージマハールの白さ」とか)があるのかもしれない。
- こういう「抽象的な個物=個別的な性質」のことを、「偶有」とか「トロープ」とか「性質インスタンス」という。
- たとえば、「タージ・マハールの白さ」のような個別的で抽象的な性質があるかもしれない。
- つまり、タージ・マハールは普遍者の束ではなく、偶有の束かもしれない。
- または、基底+偶有の束かもしれない。
- あるいは、アリストテレスが正しくて、「ものの中の普遍者」が存在するかもしれない。
- こういう風に、個体と、普遍者やトロープの関係をあれこれを考える理論を個物の「存在論的構造の理論」と呼ぶ。
- 存在論的構造の理論こそ、形而上学の中心問題だという人もあるくらいなもので、存在論的構造はとても重要だ。
- しかし性質が個物の構成素であるかどうかで、また一悶着ある。
- そもそも性質が個物の構成素じゃないんだったら、「個物の存在論的構造」なんて発想自体がおかしい。
- 性質は、個物の構成素であるという立場を「構成的存在論constitute ontology」、
- 性質は、個物の構成素ではないという立場を「関係的存在論relational ontology」と呼んだりする。
- 「個物に先がけた普遍者」を支持する立場の人は、関係的存在論を取りやすい。
- 関係的存在論の場合、普遍者はとてもたくさんあると考えることが多い。
- 白の普遍者だけじゃなく、「白くて丸くて、キラキラしているかまたは銀でできてはいないこと」の普遍者などもあると考えたりする。
■ 文献
- 普遍者について
- Armstrong, David (1989): Universals: An Opinionated Introduction. Boulder CO: Westview.
- Loux, Michael (2001) (ed.): Metaphysics: Contemporary Readings. London and New York: Routledge.の1部
- http://www.amazon.co.jp/dp/0415261074/ref=nosim/atakadaorg-22
- 存在論的コミットメントについて
- Quine, W. V. O. (1948): "On What There Is". In Quine (1961), 1-19.
- Quine, W. V. O. (1960): Word and Object. Cambridge MA: MIT Press.
- 存在のカテゴリーと存在論的構造について
- Lowe, E. J. (2006): The Four-Category Ontology: A Metaphysical Foundation for Natural Science. Oxford: the Clarendon Press.
- クワイン『ことばと対象』
■ 2.2 実体Substance
- 「笑顔」や「髪型」や「穴」などは、他のものの中にしか現われない。
- こういうものと違って、他のものと独立に存在できるもののことを「実体」と呼ぶ。
- アリストテレス用語では、"(protai) ousia"。
- 実体の特徴
- 述定の主語になるが、それ自体は他のものを述定したりしない*。
- 何らかの事物が実体の中にあることはあっても、実体が他のものの中にあることはない。
- 実体は、決定的なアイデンティティを持っている。
- 言い換えると、
- 「ある時点に存在する実体xと別の時点に存在する実体yが同じものかどうか?」という質問にはちゃんと意味があるし、答えは決定されている。
- 笑顔とか穴にはこういう決定的なアイデンティティがないよね。
- 実体があるかどうかは、依然形而上学の重要なテーマ。
- 実体って何よ?
- 日常的にわれわれが出会うもののうち、どれが実体なのか?
- 実体はいくつあるのか?
- などの問題があるよ。
- しかし「実体」についてはそもそも定義からしてはっきりしない部分がある。
- とりあえず以下のものが実体でないのははっきりしている。
- 普遍者およびその他の抽象者
- 出来事、過程、変化
- 肉、鉄、バターのような物質。
■ 3. 形而上学の問題: 「新しい」形而上学
■ 3.1 様相
- 哲学にとって長い間、真なる命題の内の2つのクラスが問題になってきた
- 偽であったかもしれない命題
- 偽ではありえない命題
- の2つである
- 前者の例は「パリはフランスの首都である。」、後者の例は「1より大きい整数nについて、nと2nの間には素数がある。」
- 中世の哲学者は、「必然的に真」と「偶然的に真」を「真」のmodeと見なしたので、必然とか偶然のことをmodalと呼ぶ。今は単なるラベルになってるのでこの名前にはあまり意味はないよ。
- 様相には、
- 命題の様相(de dicto)
- ものの様相(de re)
- の2種類がある
- 前者は、形而上学というより論理学のテーマだけど、後者は形而上学にかかわる。
- de re様相は、「新しい形而上学」のテーマだ。
- 多くの哲学者が「日常的対象ordinary objects」の様相的特徴を論じている。
- 人間の存在について考えてみよう。
- たとえば誰かふつうの人が「わたしは存在していなかったかもしれない」と言う。
- これ自体は明白な真理に思える。
- ということは、この人は、「偶然的存在」=「存在しなかったかもしれない存在」だ。
- じゃあ逆に考えると、「必然的存在」もあるかもしれない(ないかもしれない)。
- 次は性質について考えてみよう。
- 誰か英語しか喋れない人が「わたしはフランス語しか喋れなかったかもしれない」と言うとする。
- これは明白に真と思える。
- つまり「英語を話す」は偶然的性質だ。
- じゃあ逆に「必然的性質」はあるか。
- 必然的性質(本質的性質)は議論の種になりやすいけど、
- 少なくとも、「ポーチドエッグではない」という性質は、この人の必然的性質なのではないか。
- クワインはde dicto様相もde re様相も批判した。
- de dicto様相を「分析性」の概念に還元し、de re様相はそもそも意味をなさないとした。
- クワインの批判は、以下のようなものだ。
- 「自転車乗りは必然的に二本足だ」というde re様相が認められたとして、「数学者は偶然的に二本足だ」も正しいだろう。では「自転車乗りの数学者」はどうなる?
- これをうまく扱えないなら、de re様相などは無意味だ。
- この議論には、クリプキやプランティンガの批判がある。
- 多くの哲学者は、クワインの批判にはクリプキやプランティンガの応答で十分答えられたと思っている。
- クリプキやプランティンガは「可能世界」を用いた議論を行なった。
- 可能世界を用いた議論は形而上学で典型的に見られるものだ。
- クリプキやプランティンガの言う「可能世界」というのは、可能な事態state of affairsの集合である。
- 「事態xが実現し、かつ事態yが実現しない」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「含むinclude*」と言われる。
- 「事態xが実現し、かつ事態yが実現する」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「排除するpreclude」と言われる。
- 可能世界自体も可能な事態の1つである。
- 「可能世界」とは、「任意の事態xについて、それを含むか排除するかいずれかである」ような(極大な)事態である。
- 「ソクラテスが存在する」を含むすべての可能世界が、「ソクラテスが人間である」という事態も含むとき、「人間である」はソクラテスの本質的な性質である。
- クリプキ+プランティンガのおかげで様相についてはとても明晰になったが、代わりに様相の存在論や可能世界の存在論が必要になった。
- デイヴィド・ルイスの様相存在論では、「可能世界」は具体的な対象である。
- ふつうに言う世界は「現実の世界actual world」であり、他にもたくさんの世界がある。
- ルイスによれば「現実の」という語は、「今」「ここ」などと似たような(自分たちのいる世界を指す)指標的な表現なのである。
- de dicto様相については、クリプキ+プランティンガの理論とルイスの理論に違いはあまりない。
- しかしde re様相については違ってくる。
- なぜならルイスの理論に従えば、対象は必ず1つの世界にのみ存在するからである。
- ソクラテスは現実の世界にしか存在しない。しかしその「対応者counterparts」は他の世界にもいる。
- ソクラテスの対応者すべてが人間ならば、ソクラテスは本質的に人間である。
- 両者の解釈は他の点でも異なる。
- ルイスの理論では、様相は様相的でない概念で定義される。
- クリプキ+プランティンガでは、様相は定義できない。
- ルイスの理論はde re様相の反実在論を含意する。
- なぜなら「対応者関係」は複数あるからである。
- どういう「対応」に注目するかによって、ソクラテスの対応者は異なる。
- 対応者の選択は、語用論的、関心相対的である。
- しかしクリプキ+プランティンガの立場では、ある性質が本質的であるかどうかは客観的に決まる問題である。
■文献
- 様相批判
- Quine, W. V. O. (1960): Word and Object. Cambridge MA: MIT Press.
- 様相肯定
- Plantinga, Alvin (1974): The Nature of Necessity. Oxford: the Clarendon Press.
- Kripke, Saul (1972): Naming and Necessity. Cambridge MA: Harvard University Press.
- 様相実在
- Lewis, David (1986): On the Plurality of Worlds. Oxford: Blackwell.
- クリプキ『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』
■ 3.2 時間と空間
- 古来より時間と空間は密接にかかわる問題として扱われてきた。
- 時間が空間に類似していない部分はいろいろな哲学的問題を呼び起こす。
- 過去と未来の問題がその1つだ。
- 過去と未来は、現在がリアルであるのと同じ意味でリアルなのか?
- 時間の「動き」はリアルなのか幻想なのか?
- 反対に、空間が時間に類似していない部分が問題になることもある
- なんで空間って3次元なの?
- 慣時間的な同一性もよく問題になる。
- 関連して「人の同一性」とか「時間的部分」も問題になる。
- まとめると「時間と空間はリアルなのか?」「どれくらいリアルなのか?」が問題になりがち。
- 時間と空間のリアリティについては、中世までの形而上学と現在の形而上学の違いがよくでている。
- 昔の形而上学者は「ふつうの人の世界観は正しい」と見なしていたが、現代の形而上学者はこれを否定することもある。
- 時間と空間の問題は、中世までの形而上学のテーマではないが神の問題や普遍者の問題にもかかわっている。
- 神は永遠であり偏在するわけだし、普遍者も複数の個物の中に現われると見なされることもある。
■ 文献
- 時間と空間問題のリーディングス
- van Inwagen, Peter and Zimmerman, Dean W. (1998): Metaphysics: The Big Questions. Oxford: Blackwell.
■ 3.3 心身問題
- 人は心的なものと物理的なものを分けがち。
- 理由はおそらく認識論的な問題。思考と感覚は、外的な物理現象とは異なった風に認識される。
- 「異なった風に認識される対象は、異なった種類の対象だろう」というのが自然な発想だろう。
- この推論は妥当なものじゃないけど、そんなの関係ないだろうし。
- しかし、理由は何であれ、「心的なもの」と「物理的なもの」を分ける立場(二元論)を取ると、いろいろ哲学的な問題が生じる。
- 代表的な問題は、因果の問題。
- なんで心的なものと物理的なものは別々なのに、両者の間に因果関係があるの?
- どうして意志が、肉体を動かしたりできるの?
- 物理的な傷のせいで、痛みの感覚が生じるのはなぜ?
- 前者は、二元論者にとってより大きな問題。
- 心的な出来事が物理的な出来事を引き起こせるとすれば、エネルギー保存法則が破れてしまう。
- 宇宙の法則がみだれる!
- こういう心的なものと物理的なものの影響関係のことを「インタラクション問題」という*。
- 二元論の立場からこの問題に答えようとして、さまざまな形而上学的理論が生み出された。
- 心はシナプスの電気抵抗を変化させるので、エネルギー保存法則は乱れない、とか。
- しかし、「シナプスの電気抵抗を変化させる」のにエネルギーを消費しないというのは変な話だよね。
- 非物理的なものが物理的な系を変化させるなら、どうやったって保存法則は破れるよ。
- 一元論的な理論によるインタラクション問題の解決もある。
- 物理的なものの存在を否定: 観念主義
- 心的なものの存在を否定: 物理主義
- 大半の哲学者は物理主義をとる。
- 心がリアルであることを否定するわけじゃない(消去主義以外の)物理主義理論には、解決すべき形而上学的問題がある。
- そういった立場の人たちは、完全に物理的な世界の中に、心的な出来事+心的な状態を位置づけねばならない。
- もっと言うと、心的な出来事+心的な状態は、物理的な出来事+物理的な状態の特殊例だと考えねばならない。
- 心的な出来事と物理的な出来事を同一視する理論を、「同一説」と言うよ!
- 同一説が解決すべき3つの問題
- (1)心的普遍者(心的な出来事タイプ+心的な状態タイプ)は、物理的普遍者と同一であるか?(タイプ同一性)
- (2)物理主義によれば、心的出来事+状態は、因果作用を引き起こさないと本当に言えるのか?
- (3)物理的なものは、非物理的性質を持つことができるのか?
- 「赤を知覚すること」とか「ウィーンについて考えること」は物理的生物の非物理的性質なのか?
- 同一説は、「性質とは何か?」「出来事とは何か?」「状態とは何か?」という形而上学的問題を解決しなければならない。
■ 3.4 自由意志問題
- 自由意志は古くからある問題だけど、17世紀に機械の制作が進歩したせいで、より重要な問題として注目された。
- 未来の状態は、過去の状態+自然法則によって決定されているのかどうか?
- 決定されているとする立場を「決定論」と言う。
- 自由意志問題とは以下のジレンマのこと。
- 自由は、過去に何かを「付加」するものであるはずだ。
- もし決定論が正しければ、過去に付加しうるものは1つしかない。
- =>自由ない
- もし決定論が間違っているならば、未来は複数あるが、その内のどれが実現するかは偶然の問題である。
- 「わたしが嘘をつくか本当のことを言うか」が偶然の問題なら、「わたしが嘘をつくか本当のことを言うか」はわたしのせいじゃない。
- =>自由ない
- 自由意志が可能なら、この両者の少なくともどちらかは間違いでなければならない。
- 自由意志の問題とはこのジレンマを解決すること。
■ 文献
- 自由意志のジレンマ
- Ginet, Carl (1990): On Action. Cambridge: Cambridge University Press.
- 自由意志と形而上学
- van Inwagen, Peter (1998b): "The Mystery of Metaphysical Freedom". In van Inwagen and Zimmerman (1998), 365-374.
■ 3.5 物質的構成の問題
- 次は、「メレオロジー」と「物質的対象の本質」にかかわる諸問題。
- ここでの重要概念は「部分性」と「構成」だ。
- 問題1. 立像と塊問題
- 金の立像は、金の塊と空間的に共外延的である。
- ライプニッツの法則(不可識別者同一の法則の対偶: 識別できるものは同一でない法則)より、立像と塊は異なった対象である。
- なぜなら、塊は立像より以前からある。
- また、立像が壊されても塊は残る。
- つまり、塊は立像と異なった様相的性質を持っている。「変形されても残りうる」という性質である。
- 以上より、空間的に共外延的で、非様相的性質をすべて共有する2つの異なった対象が存在する。と、少なくとも一部の形而上学者は考えている。
- 別の派閥の人は、「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象などありえない」と論じている。
- その場合は、上の議論のどこが間違っているかを明らかにしなければならない。
- 別の派閥の人は、「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象などありえない」と論じている。
- 問題2.ティブとティブルス問題
- ティブルスは猫だ。
- ティブルスの尻尾を「シッポ」と呼び、尻尾以外の部分を「ティブ」と呼ぶことにしよう。
- さて、シッポが切り落されたとしよう。
- ティブルスは当然ながら生きている。
- ティブも存在する。
- ではティブとティブルスは同一なのだろうか?
- 「識別できるなら同一でない性質」に従えば同一ではない。
- これを認めるなら、やはり「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象」があることになる。
- 部分をすべて共有する2つの対象と言ってもよい。
- 以上の問題より、形而上学者の一部は、「部分性と同一性」に加え「構成」の概念が必要であると主張する。
- 先に存在したティブがある時点でティブルスを「構成」することになった。
■ 文献
- Baker, Lynne Rudder (2000): Persons and Bodies: A Constitution View. Cambridge: Cambridge University Press.
- Rea, Michael (ed.) (1997): Material Constitution: A Reader. Lanham MD: Rowman & Littlefield.
■ 形而上学の本質
- いろいろ説明したけど、形而上学の定義はむずかしい。
- ヴァン・インヴァーゲンによれば*、「形而上学の本質は、究極的現実を(十分に一般化された仕方で)描写しようとする試みにある」
- 「究極的現実」とか「十分に一般化された仕方で」にはもう少し説明がついている。
- しかしこの定義は広すぎるので、形而上学以外の科学や、哲学の他の分野まで含むのではないか?
- しかしそもそもきちんとした定義が可能なのかどうかさえ明らかではない。
■ 文献
- 形而上学の本質を定義しようとしているらしい。
- van Inwagen, Peter (1998a): "The Nature of Metaphysics". In Laurence and Macdonald (1998), 11-21.
- Laurence, Stephen and Cynthia Macdonald (eds.) (1998). Contemporary Readings in the Foundations of Metaphysics. Oxford: Blackwell.
■ 形而上学は可能なのか?
- 形而上学は不可能だという人は、ヒュームの時代からずっと存在する。
- 最近の議論ではこんなものがある。
- 「形而上学的主張」と「形而上学的でない主張」を分けられるとしよう。
- 「強い形而上学不可能説」は、
- 「形而上学的主張は無意味である。」
- 「弱い形而上学不可能説」は、
- 「形而上学的主張には意味があるが、人間にはその真偽が判別不可能である。」
- 「強い形而上学不可能説」は、
- 強いバージョンについて考えよう。
- 論理実証主義は、「(非分析的な)主張の意味は、その主張が可能な経験についてどんな予測を生み出すかという部分にある。」と考えた。
- 論理実証主義者はさらに、形而上学的主張は経験について予測しないので、無意味であると考えた。
- しかし、「(非分析的な)主張の意味は、その主張が可能な経験についてどんな予測を生み出すかという部分にある。」という主張自体が、経験的なものではないように思われる。
- この主張が真でも偽でも、世界はまったく同じように見えるのではないだろうか。
- 強い形而上学批判はだいたいこの手の「自己言及的矛盾」に陥ってるように思われる。
- 強い形而上学批判の事例は↓こんな感じかもしれない。
- 強い反形而上学主義者のDr. McZedは、彼女が考案したテストをパスしないテキストはすべて無意味であると主張する。
- テストを通らないテキストは「形而上学的」であると彼女は主張する。
- しかし彼女の主張の重要な部分はこのテストをパスしない。
- 最近の例だと、ファン・フラーセンの批判は洗練されているけれど、やっぱりそんな感じのものであると思える。
- 弱い主張の側はこんな感じ。
- 人間の精神は(あるいはすべての限定合理的なエージェントの精神は)、形而上学的結論に到達できない。
- このタイプの主張はカントくらいまで遡れる。
- この批判の最近のバージョンであるマッギンなどは、カントよりだいぶおとなしい。
- マッギンは、すべての精神ではなく、(進化論的偶然により生じた)人間の精神には、哲学的問題を扱う能力がないと論じた。
- しかしこの主張は人間の認知能力に関する経験的主張であるわりに、経験的裏付けがない。
■ 文献
- 強い形而上学批判
- van Fraassen, Bas C. (2002): The Empirical Stance. New Haven CT: Yale University Press.
- 弱い形而上学批判
- McGinn, Colin (1993): Problems in Philosophy: The Limits of Inquiry. Oxford: Blackwell.
- ファン・フラーセン『科学的世界像』

『論理と計算のしくみ』
岩波書店、2007
↑の本の演習問題。わからなかったのでWebで探したが、ろくにリソースがなかった。
あれこれやっていたらできたが、ひょっとすると他にも探す人がいるかもしれないのでここに書いておく。
以下大半の人には宇宙語だと思うが、気にしないように。
「⊃から∨への変換」ができればすぐできるのはわかっていたのだが、それが難しかった。
必要そうな定理をかたっぱしから証明している内に10以上の証明ができた。丸々1週間ほど、暇さえあればこればかりやっていた気がする。
論理学で言うところの「証明」は本当にパズルなので、慣れれば楽しい。紙とペンだけあればできるし。
自然演繹法やシーケント計算にくらべてヒルベルト流には苦手意識があったが、排中律の証明はラスボス級に難しかったので、もうヒルベルト流なら大体証明できる気がしてきた。
ヒルベルト流とは、演繹手法の1つ。以下の公理(型)とmodus ponensだけを使って証明を行なう。
([a][b][i]だけという定義もたまに見る気がする。これはその3つに∧と∨の公理をくわえたもの)。
[a]φ⊃(ψ⊃φ)
[b](φ⊃(ψ⊃χ))⊃)((φ⊃ψ)⊃(φ⊃χ))
[c]φ⊃(ψ⊃φ∧ψ)
[d]φ∧ψ⊃φ
[e]φ∧ψ⊃ψ
[f]φ⊃φ∨ψ
[g]ψ⊃φ∨ψ
[h](φ⊃χ)⊃)((ψ⊃χ)⊃(φ∨ψ⊃χ))
[i](¬φ⊃¬ψ)⊃(ψ⊃φ)
以下modus ponensはMPと表記する。
■ メタ定理の証明
以下の証明パターンは頻出なので先に証明しておく。
[A]前提付加 φ⊃ψ|-χ⊃(φ⊃ψ)
(1)φ⊃ψ [仮定]
(2)(φ⊃ψ)⊃(χ⊃(φ⊃ψ)) [公理a]
(3)χ⊃(φ⊃ψ) [(1)(2)MP]
[B]前件と後件に前件を φ⊃ψ|-(χ⊃φ)⊃(χ⊃ψ)
(1)φ⊃ψ [仮定]
(2)χ⊃(φ⊃ψ) [メタ定理A]
(3)(χ⊃φ)⊃(χ⊃ψ) [(2),公理b]
[C]三段論法 φ⊃ψ, ψ⊃χ|-φ⊃χ
(1)φ⊃ψ [仮定]
(2)ψ⊃χ [仮定]
(3)(φ⊃ψ)⊃(φ⊃χ) [(2)メタ定理B]
(4)(φ⊃χ) [(3)(1)MP]
[D]前件と後件に後件を φ⊃ψ|-(ψ⊃χ)⊃(φ⊃χ)
(1)φ⊃ψ [仮定]
(2)(ψ⊃χ)⊃(φ⊃(ψ⊃χ)) [公理a]
(3)(φ⊃(ψ⊃χ))⊃((φ⊃ψ)⊃(φ⊃χ)) [公理b]
(4)(ψ⊃χ)⊃((φ⊃ψ)⊃(φ⊃χ)) [(2)(3)メタ定理C]
(5)[(ψ⊃χ)⊃(φ⊃ψ)]⊃[(ψ⊃χ)⊃(φ⊃χ)] [(4)公理b]
(6)(ψ⊃χ)⊃(φ⊃ψ) [(1)メタ定理A]
(7)(ψ⊃χ)⊃(φ⊃χ) [(5)(6)MP]
■ 補助定理
必要な定理がいくつかあるので先に証明する。
[1]同一律 φ⊃φ
(1)φ⊃((φ⊃φ)⊃φ) [公理a]
(2)(φ⊃(φ⊃φ))⊃(φ⊃φ) [(1)と公理b]
(3)φ⊃(φ⊃φ) [公理a]
(4)φ⊃φ [(2)(3)MP]
[2]二重否定除去 ¬¬φ⊃φ
(1)¬¬φ⊃(¬¬¬¬φ⊃¬¬φ) [公理a]
(2)(¬¬¬¬φ⊃¬¬φ)⊃(¬φ⊃¬¬¬φ) [公理i]
(3)(¬φ⊃¬¬¬φ)⊃(¬¬φ⊃φ) [公理i]
(4)¬¬φ⊃(¬¬φ⊃φ) [(1)(2)(3)メタ定理C]
(5)¬¬φ⊃¬¬φ [同一律]
(6)(¬¬φ⊃¬¬φ)⊃(¬¬φ⊃φ) [(4)公理b]
(7)¬¬φ⊃φ [(5)(6)MP]
[3]二重否定付加 φ⊃¬¬φ
(1)¬¬¬φ⊃¬φ [二重否定除去]
(2)φ⊃¬¬φ [(1)公理i]
[4]対偶の逆 (φ⊃ψ)⊃(¬ψ⊃¬φ)
(1)(¬¬φ⊃¬¬ψ)⊃(¬ψ⊃¬φ) [公理i]
(2)ψ⊃¬¬ψ [二重否定付加]
(3)(φ⊃ψ)⊃(φ⊃¬¬ψ) [(2)メタ定理B]
(4)¬¬φ⊃φ [二重否定除去]
(5)(φ⊃¬¬ψ)⊃(¬¬φ⊃¬¬ψ) [(4)メタ定理D]
(6)(¬¬φ⊃¬¬ψ)⊃(¬ψ⊃¬φ) [公理i]
(7)(φ⊃ψ)⊃(¬ψ⊃¬φ) [(3)(5)(6)メタ定理C]
[5]∨から∨への変換 φ∨ψ⊃ψ∨φ
(1)φ⊃ψ∨φ [公理g]
(2)ψ⊃ψ∨φ [公理f]
(3)(φ⊃ψ∨φ)⊃((ψ⊃ψ∨φ)⊃(φ∨ψ⊃ψ∨φ)) [公理h]
(4)φ∨ψ⊃ψ∨φ [(3)(2)(1)MP]
[6]MPみたいなやつ φ⊃((φ⊃ψ)⊃ψ)
(1)(φ⊃ψ)⊃(φ⊃ψ) [同一律]
(2)((φ⊃ψ)⊃φ)⊃((φ⊃ψ)⊃ψ) [(1)公理b]
(3)φ⊃[((φ⊃ψ)⊃φ)⊃((φ⊃ψ)⊃ψ)] [(2)定理A]
(4)[φ⊃((φ⊃ψ)⊃φ)]⊃[φ⊃((φ⊃ψ)⊃ψ)] [(3)公理b]
(5)φ⊃((φ⊃ψ)⊃φ) [公理a]
(6)φ⊃((φ⊃ψ)⊃ψ)
[7]⊃から∨への変換 (φ⊃ψ)⊃(¬φ∨ψ)
(1)¬φ⊃¬φ∨ψ [公理f]
(2)¬(¬φ∨ψ)⊃¬¬φ [(1)公理i]
(3)¬(¬φ∨ψ)⊃φ [(2)と二重否定除去とメタ定理A]
(4)φ⊃((φ⊃ψ)⊃ψ) [MPみたいなやつ]
(5)¬(¬φ∨ψ)⊃((φ⊃ψ)⊃ψ) [(3)(4)メタ定理A]
(6)((φ⊃ψ)⊃ψ)⊃(¬ψ⊃¬(φ⊃ψ)) [公理i]
(7)¬(¬φ∨ψ)⊃(¬ψ⊃¬(φ⊃ψ)) [(5)(6)メタ定理A]
(8)[¬(¬φ∨ψ)⊃¬ψ]⊃[¬(¬φ∨ψ)⊃¬(φ⊃ψ)] [(7)公理b]
(9)ψ⊃¬φ∨ψ [公理g]
(10)¬(¬φ∨ψ)⊃¬ψ [(9)対偶の逆]
(11)¬(¬φ∨ψ)⊃¬(φ⊃ψ) [(8)(10)MP]
(12)(φ⊃ψ)⊃(¬φ∨ψ) [11公理i]
■ 排中律の証明
ここまでできればあとは一瞬。
[8]排中律 φ∨¬φ
(1)(φ⊃φ)⊃(¬φ∨φ) [⊃から∨への変換]
(2)φ⊃φ [同一律]
(3)¬φ∨φ [(1)(2)MP]
(4)¬φ∨φ⊃φ∨¬φ [∨から∨への変換]
(5)φ∨¬φ [(3)(4)MP]
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
1.1 Chris Swoyer "抽象物(Abstract Entities)"
わたしはレジメ担当者じゃないのでレジメはつくってません。簡単な要約と感想だけ。
この本では、形而上学の様々なテーマについて、賛成反対それぞれの立場に立つ論者が議論を戦わせます。
1章のテーマは「抽象物は存在するか否か」です。1.1は「抽象者は存在する」という派閥の人の論文。
■ あらすじ
- 抽象物っていってもいろいろある。定義はむずかしいけど、『数』とか『性質』とか『命題』とかが抽象物の典型としてあげられる。
- これらの対象は、時空間のなかに位置をもたないとか、通常の因果関係の連鎖からは外れているなどなどの特徴がある。
- ここではこいつらの存在を擁護する議論をとりあげる。
- でも、抽象物っていってもいろいろあるから、「数は存在するけど、性質は存在しない」とかいろんな立場がありえるよ。
- とりあえず何か抽象物の存在を擁護するときの典型的な議論の仕方を紹介するよ。
- 昔の哲学者は、公理からの演繹で抽象物の存在を証明しようとしたよ。
- しかしこのやり方は全然成功しなかった。望みはないと思う。
- 最近のトレンドは、妥当な証明に訴えるのではなく、説得によるラフな議論を利用すること。
- 何かの現象をとりあげ、それを説明する理論をつくる。
- 説明がうまくいっていて、しかもその説明が抽象物の存在を必要としているなら、「やっぱこの抽象物は存在するよ」という説の説得力が増すはず。
- もっとも何がうまくいく説明なのかというのも、厳密な基準はないし、むずかしいんだけどね。
- 基準の1つは有名な「オッカムの剃刀」だけど、オッカムを持ち出して解決することも滅多にない。
- いずれにせよ、抽象者が存在するかどうかというのは、現象をうまく説明できる理論はどれ?というより広い枠組みの中で決まるよ。
■ 感想
序文のレジメで、「究極理論はないけど最善理論はある。なので最善理論の中の存在について語れば存在について語ることができる」みたいなことを書いた。
この論文はもろにそういう話だったので、「お、おれの理解は結構よい線いってるんじゃねえか?」と思った。
しかし「何が存在するかという問題は、結局『何が最善理論なのか』によって決まる」という話であれば、もう最初から理論的説明に飛び込んでいけばよいのであって、「抽象物は存在するか」という問い自体が微妙なんじゃないかと思った。議論の仕方の紹介としては親切な論文だったが、「抽象物は存在するか」という問題の立て方をしてもあんまり盛り上がらないんだなあという印象。
一方後編の「抽象物なんて存在しねえよ」論文がこれにどう応じるのかが興味深い。
あと、できれば個人的には、「存在っていってもいろんな存在の仕方があるよね。『椅子が存在する』のと、『100以下の素数が存在する』のは何か違うでしょう」という問題をもっと取りあげてほしかった。「抽象物は存在するか」と聞かれて、わたしの率直な感想は、「存在するって言ってもいろんな意味があるんだから、それを限定しないと議論にならなくない?」というものだったりするので。
もちろん「存在の意味が違うっていうのは『抽象者はある意味では存在する』って認めてるのと一緒だよね。抽象者が存在するかどうかがここのテーマなんだから、それを認めるならもう『存在する』で決定だよね」と言われれば、確かにそれまでなんだが。
(社会的に)良い子にしているとBを貰えるのでBを蕩尽するのです!
- 『山尾悠子作品集成』
山尾悠子
国書刊行会、2000
長年ほしかったんだけど値段で腰がひけていた。
飯田隆
勁草書房、1987
- 『意味と様相(上)』
勁草書房、1989
これでぜんぶそろった。
Nelson Goodman
Hackett Pub Co Inc; 2版、1976
邦訳は諦めつつある。
あと分析美学の適当な入門書と、もし「分析哲学的メディア論」というものがあれば、(入門的なやつを)読んでみたいなあ。
日本語でそんな本がないのはわかっているので英語で。誰かおすすめあったら教えてください。
平岡 和幸
オーム社、2004
来年こそは線形代数を。
西尾維新
講談社、2008
伏見 つかさ (著)
アスキーメディアワークス、2008
↑この2つは単に新刊だから買った。
■ 買いたかったけど断念した本とか
デレク パーフィット (著), Derek Parfit (原著), 森村 進 (翻訳)
勁草書房、1998
ペーパーバックが3000円くらいなのを見てたらばかばかしくなったのと、発送が遅かったのでやめました。
平山 尚(株式会社セガ)(著)
秀和システム、2008
発送が遅いー。というか入手困難になってるよですね。
清水 義夫 (著)
東京大学出版会、2007
ちょっと手を出しかねている。
『知識の哲学(The Probrem of Knowledge)』
A.J.エイヤー(著), 神野 慧一郎(訳)
白水社、1981
目次
- 1哲学と知識
- 哲学の方法
- 知識に共有の諸特色
- 知っているとは心が特別な状態にあることなのか
- 方法の論議―哲学と言語
- 知っているとは確信する権利をもつことである
- 2懐疑論と確実性
- 哲学的懐疑論
- 確実性の探究
- 「われ思う、ゆえにわれあり」
- 疑いに対して免疫のある言明は存在するか
- 公的な言語使用と私的な言語使用
- 自分自身の直接経験についての誤りは言葉のうえのものにすぎないのか
- いかにしてわれわれは知るのか
- 事実推理についての懐疑―帰納の問題
- 懐疑論の基本型
- 懐疑論者に応じるさまざまな方法に関するいくつかの所見
- 3知覚
- 物理的対象は直接に知覚されるか
- 錯覚からの議論
- 感覚所与を導入する一つの方法
- 感覚所与の合法性に関して
- 素朴実在論と知覚の因果説
- 現象論
- 物理的対象についての言明の正当化
- 4記憶
- 習慣記憶と出来事の記憶
- 記憶像はなくともよいということ
- 記憶・想起とは何か
- 過去の概念と記憶
- 過去に関する言明の分析について
- 過去と未来―記憶と予知
- なぜ原因は結果のあとに来ることができないのか
- 5私と他者
- 何が人物をして現にあるとおりの人物とするのか
- 人物の同一性の一般的な諸基準。それらは物理身体的なものでなければならないのか
- 経験の私的性格
- われわれは何を他者に伝達しうるか
- 物理主義のテーゼ
- 他者の心についての言明の分析と正当化
近所の図書館に邦訳があったので読んでみた。
すごく細かい議論を自然言語で丁寧に説明し、しかも落ちつくところはすべて穏健な結論というとても地味な本だが、ある意味とても哲学書らしい哲学書だと思う。
たとえば、
- 「センスデータという概念を使って大掛かりな理論を構築する人たち」と
- 「センスデータという概念は無意味であるという人たち」
の両方の主張を丁寧に検討したあげく、結論が
「センスデータという概念は注意して使えば無意味というほどでもないが、あまりメリットがないのでここでは採用しない」
という感じのものだったり。ひさびさに哲学書を堪能した気分。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
↑の本の元ネタ本の1つですね。基礎付け主義の批判の部分などは似てるか?
■ あらすじ
1章は方法論と結論。
知識を持つとは、心の状態ではありえない。なぜなら「...を知っている」ということは何かが真であるということに関わっており、「真である」は心の状態ではありえないからだ。「...を知っている」とは、何かを確信しており、それを確信する「権利を持つ」ことである。そのようにして権利を持つための正当化はさまざまな手段によってなされる。
2章は一般的な議論。
懐疑主義はわれわれの「知識を確信する権利」に疑問を投げかける。これに対し、疑いようのない主張から出発することで、揺ぎない知識を確立しようという哲学的プロジェクトがかつてあった。しかしこれは見込みのないものである。なぜなら、その手のプロジェクトは「偶然的真理」を無理矢理必然のものとして立証しようとしているからである。それによってかえって懐疑主義者の主張(不可謬な知識はありえない)がもっともなものとなってしまう。
しかし、そんなプロジェクト自体を捨ててしまえば懐疑主義者はおそるるに足りない。なぜなら彼等が要求していること(不可謬な知識をつくれ)ははじめから不可能なことなのであるから。
3章から5章は以上のような懐疑主義を遠ざける主張を各トピックごとに展開したもの。3章は知覚、4章は記憶、5章は他者の心に関する懐疑論をとりあげている。
■ もっと立ち入ってみる
地味な本だが、懐疑主義に対する批判はためになった。ある程度本を離れて自分の言葉にしてみると以下のようになる。
■ 知識とは
まず「知っている」とは、何かを信じており、その信念がしかるべき手段によって正当化されているということである(と少なくともエイヤーは考えている。言うまでもなくゲティア問題などは考慮されていない。何しろそれ以前の本だから。懐疑主義にいかに応じるかが大部分を占める本なので「知っているという現象の分析」はあまり重視されていない)。
たとえば、わたしは今自分がPCの前にすわっていることを知っている。そしてこの知識をさまざまな方法で確かめることができる。
- たとえば目をこらしてよく見る。
- さわってPCの感触を確かめる。
- 頭をふって夢でないことを確認する
などである。
もちろんいかなる手段をつくしても、「まだ疑える」と言うことはできるが、通常「目で見てさわって確認した」というのは知識を正当化するための十分な手段として認められている。「本当だって、この目で見たんだから」という場合がたとえばそうである。
これがもっと限定された科学の知識などであれば、よりコントロールされた正当化の方法(実験による観察や権威ある著者の発言など)が利用されるだろう。
以上が示しているのは、主張を確信するための手段はさまざまにあり、それら「正当化の方法」によって確かめられた主張をわれわれは「知識」として受け入れるということである。
■ 懐疑主義とは
一方懐疑主義とは何か。
懐疑主義は、上で説明したような「正当化の方法」の内の一部を否定する主張ではない。
たとえば「クガタチ」という風習があるが、かつて熱湯に手をつっこむことは知識を正当化する手段の一つだったのかもしれない。
しかし、この時代に「クガタチは知識を正当化する手段としてはどうか?嘘なのではないか?」という人がいたとして、それを懐疑主義とは呼ばない。同様に、科学の手法の一部を批判する人は懐疑主義者ではない。たとえば、「言語学における統計的手法は疑わしい」という人がいたとして、それを懐疑主義と呼ぶのは変だ。それは科学の方法論上の対立である。
懐疑主義というのは正当化の方法すべてに一挙に疑いを向けることである。懐疑主義者によればどんな正当化の方法も疑わしいものとされ、われわれの知識すべてが疑わしいものだと主張される。
■ 勝ちはどこにあるか
懐疑主義に対して必要なのは、懐疑主義者を説得し切るだけの論法を用意することではない。それはそもそも不可能である。なぜならば懐疑主義者はあらゆる知識の手段を疑うのだから、どんな論法を持ち出してもそれを懐疑することができてしまう。
目指すべきことは、説得することではなく、
- 「懐疑主義が健全な直観に従った堅固な立場である」
という主張を掘り崩すことである。懐疑主義者の主張を認めるとどれだけ不条理な結論が導かれるかを示し、懐疑主義の説得力をうばうことである。また、よく整理してみれば、懐疑主義の述べることがいかに平凡な主張であるかを示すことである。懐疑主義者はどれだけ不条理な結論を提示されても気にしないかもしれないが、それを認めるたびに懐疑主義の説得力は失なわれる。支持者を増やすことができなければ懐疑主義は無害である。
■ 事態はどのようになっているか

懐疑主義はときに「間違っている可能性」を盾に知識を攻撃する。どれほど確信されたかに見える主張であっても間違いの可能性は存在すると言うのだ。
それは正しい。しかし自明な意味で正しいだけだ。これを真に受けて、「真理をより確実なものに!」などと思ってはいけない。
事態は上のようになっている。十分に正当化され確信された主張も「不可謬である」わけではない。不可謬な主張と確信された主張はまったく別のグループに属する。それどころか、「不可謬な主張」のグループは空集合であるかもしれない。エイヤーは事実そうだと言う。
懐疑主義の主張を真に受け、確信された主張を、何とかして不可謬な主張にしようとしても無駄である。確信された主張の多くは、きわめて確からしいかもしれないが、論理的必然であるわけではない。
- 科学的命題の多く、
- 歴史的命題の多く、
- わたしが確信を持って受けいれている日常的真理は、
「きわめて確からしい」ものであっても、論理的必然ではない。たかだか偶然の真理である。正しい確率が9割になることはあっても10割になることはない。それを何とか不可謬にしようとするのは無駄である。
さらに、いわゆる「論理的必然」たとえば、数学的な証明手続きをへた命題などであっても、それは「必然に思える」だけであって不可謬ではないかもしれない(証明が間違っている可能性も無ではない)*。
そもそも不可謬な主張などというものは存在しないかもしれないのである。
エイヤーは「われ思うゆえにわれあり」と「わたしには赤く見えるように思われる」という2つのタイプの主張を取り上げて検討しているが、どちらも不可謬ではない(それか単に内容のない主張である)としている。
反懐疑主義者が懐疑主義者に対して言うべきことは、「それは通常受け入れられた手段によって正当化されている(私はそれをこの目で見た。こういう資料がある。こういう実験が報告されている...etc)」ということだけである。それは不可謬ではないかもしれないが9割の確率で正しい主張かもしれない。通常はそれで十分なのであり、「1割間違っている可能性がある」ということは大したダメージにもならない。
懐疑主義者がその「正当化の手段」に疑問を投げかけるなら、どんな手段ならよいのかを逆にたずねればよい。それに真面目に答えるなら相手はもはや懐疑主義者ではないし、すべての手段が無駄だというなら、もう相手にする必要もないかもしれない。
■ 人はなぜ懐疑主義者になるのか
エイヤーとは関係ないが、人はなぜ懐疑主義者になるかについて、考えたことを書いておく。
- 1つには、表現手段の貧しさである。
懐疑主義的に思える主張をする人の多くは、よく話を聞いてみると、実はもっと穏当な主張をしたがっているということがよくある。
- 本当は、「時代や社会によって主張を正当化する手段は異なる」という弱い主張をしたいだけなのに、「時代や社会によって真偽は異なる」と言うとか、
- 本当は、「完全に不可謬な主張は存在しない」という弱い主張をしたいだけなのに、「真理は存在しない」と言ってしまう。
どちらの場合も、前者は後者よりはるかに穏当でおそらく正しい主張である。
後者の形で述べた場合は、それを文字通りに認めた場合に発生する諸々の不条理を大量に抱えこまねばならなくなる。要は言い方がまずいせいで、余計なことを言ってしまっているのである。
こういう人は、単に別の言い方を工夫すれば簡単に受け入れられる主張になるのに、それを理解できず無駄に攻撃的な主張をしてしまうのである。
しかも往々にして本人は後者のより穏当な主張をしているつもりだったりするので、余計に話はややこしくなる。本人からすれば当り前のことを言ってるつもりなのに、なぜ周りが否定するか理解できない状態になる。
見方を変えれば後者の過激な言い方は比喩であり、文字通りに受け取るならただの間違いである。しかしそれを自分でわかっていないから話がおかしくなる。要は表現能力の不足であり、うまく使えもしないような比喩に頼ってしまった報いであるかと思う。
- もう1つには、過激な主張をしたいという下心がある。
穏当な主張はたいてい常識に沿ったものであり、おもしろくはない。単に平凡な主張に思えてしまう。
懐疑主義に走るのは若者の方が多いと思われるが、若者の一部は早急であり、平凡な知見を積み上げていくとか地味な実証を重ねるという気の長い工程をいやがる(私の若い頃だけかもしれないが)。
しかし簡単に独創的な主張ができれば苦労はしない。そこで過激な表現に走ることになる。
しかし、独創的も何も間違っているものははなからダメであるし、ろくなことが言えないからと言って過激な表現に走ったところで、やはりろくな意見にはならない。
こうした兆候に対し、効果的な対処法は、
- 「文字通りに受け取ると間違いであると示すこと」
- 「本当は何を主張したいのかを聞き出すこと」
- 「表現手段のまずさに気づかせること」
- 「過激な表現に走るのがいかにかっこ悪いかを効果的に教えること(馬鹿にすること)」
であるかと思われる。
飯田隆(編)
講談社、2005
↑の本のいくつかの章をコピーして読んでいた。
照井一成「計算と論理」は、カリー=ハワード同型対応の解説。ほうほうと思って読んでたらこれがびっくり。
カリー=ハワード同型対応って、「論理学の証明と関数型言語のプログラムが一対一対応する」という定理らしいというのは知っていた。しかし知識として知っていただけで中身を知らなかったのだが、解説を読んでいくと非常におもしろい。
(正確に言うと自然演繹法と型付きラムダ計算の対応らしい)。
f: P→Q a: P f(a): Q
関数fの型を「P→Q」としよう。fはP型のデータを受け取ってQ型のデータを返す。
aの型をP型としよう。
fにaを適用したもの、つまり、f(a)の型は、「Pを受け取って、Qを返す関数」に「P」を適用したのだから、当然Q型になる。
論理学を勉強したことのある人はこれを見て何かを思い出すかもしれない。
「P→Q」そして「P」。すると「Q」。
モーダスポネンスと呼ばれる論証規則、数ある論理学の規則のなかでもとても基本的なものの1つだ。
つまり「関数適用ってモーダスポーネンスに似てね?」ということだ。それだけだったら「はいはい似てる似てる」で終わるただの思いつきなのだが、この対応関係はどこまでもつづき、ついには論理と計算(プログラム)の対応が証明されてしまうらしい。
すげー、おもしろいなーと思って解説論文を読んでいたのだが、以下はかなり衝撃的だった。
Lispの方言の一つにSchemeという関数型プログラミング言語がある。この言語にはLispの演算子に加えて、例外処理などのための大域脱出を可能にする継続呼び出し演算子call/ccが含まれている。一九九〇年、グリフィンという計算機科学者はラムダ計算にの継続呼び出し演算子を加えることが直観主義論理に背理法を加えることに相当するというセンセーショナルな結果を示した。ゆえに古典論理と直観主義論理の違いは、プログラミングの言葉でいえば、大域脱出ができるかできないかの違いだということになる。
p206
関数型言語にcall/ccを加えると古典論理になるらしい。call/ccって背理法だったらしいぞ!なんだってー!!
(ちょっと調べるとcall/ccの方が広いみたいだけど)。
つまりあれだ、二重否定除去とか背理法とかうさんくさいから止めて直観主義論理でいこうというのは「call/ccとか黒魔術だから使うのやめよう」というのに相当する(たぶん)。
あー、びっくりした。
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
先日行われたゆるふわMetaphysicians勉強会第1回のレジメ。↑の本を読んでいます。
最初の方歴史の話をふりたかったので、思いついたことを簡単に喋った。わりといい加減なことを言ってるのであまり本気にしないように。
感想としては、
- 科学と形而上学
- 記述的形而上学でいくか改訂的形而上学でいくか
の2つのトピックが重要視されているなあと思った。
↓ここからレジメ。
■ 感想
科学の話が多い。形而上学の多くの話題は科学哲学から派生した?
■ メモ
■ 歴史
- 古代: 形而上学全盛
- 中世: 形而上学というか神学
- 20世紀初: ラッセルとかフレーゲとか?
- 20世紀: 論理実証主義と言語哲学の時代。形而上学などもってのほか
- 20世紀末から: 形而上学の復活。
■ 形而上学はなぜ復活したのか?
- 形而上学でないものとは?
- =>経験主義
- 経験主義の批判が形而上学の復活を準備した?
■ 哲学は存在について語れない?
- 一昔前はよく「現代哲学は存在について語れない」と言われていた。
- こうした見解はどこにいったのか?
- 存在じゃなくて何について語るのか。
- 言語や理論。
- 言語や理論は特定の存在にコミットする。
- でも言語は取り替え可能だから、存在は相対的と思われていた。
- 本当に取り替え可能なのか?
- 人間はそう都合よく世界観を変えられないよね?
- 基礎的な日常的信念には結局縛られるよね。
- 日常的信念をベースに存在を語る可能性。
- 究極的理論はなくても最善理論はあるよね。
- 最善理論による存在論。
■ クワインとか
- クワイン
- 経験主義者。物理主義者。行動主義者。
- 形而上学には否定的。
- 存在論的コミットメント。
- 最善理論としての物理学=存在論という立場?
- グッドマン
- クワインの兄弟弟子。経験主義?
- 唯名論。
- 多数の世界=多数の真理を認める。
- ルイス
- クワインの弟子。
- 様相実在論。「ライプニッツ以来最大の体系的形而上学者」。
- でも、唯名論で唯物論で物理主義。
- 最善理論としての様相実在論。
↑なんかこの辺に微妙な線がありそう。
■ 要約
■ 形而上学ってなに?
- 形而上学は「世界がどんな風であるか」を問う。
- どうしてそんな抽象的な問いが成り立つの?
- 他の科学は個別的なものの性質について問う
- 形而上学は、そうした細部を抽象する
- ex.「このリンゴは赤い」から個物particularsと性質propertyをとりだす。
- Fact = Particlar + Property(Relation)
- 「世界には個物と性質」があるというとても一般的な事実をとりだした。
- 諸科学は、世界の個別領域で一般化する
- 形而上学は、世界を一般化する
■ 形而上学は何をするの?
哲学なので、ほとんどすべてのトピックは議論のまとになる。
- ex. 唯名論者は「個物と性質の2つが存在する」とは認めない。
- 唯名論者は"is red"という述語は認めるけど、述語は、何の対象も指示しないと考える。
- 1章へ
↑の議論に見られるように、形而上学の仕事は
- (1)見かけの上で多様な現象をパターン化すること
- (2)そのパターンを適切に描写する一般化をすること
■ 具体例
たとえば以下のようなトピックが問題になる
■ 1)必然性
- 科学は法則を主張する
- でも自然法則って何だろう?
- 物理学者は自然法則を「発見」するが、「創造」するわけではない
- 2章へ
- すべてが自然法則に従うとすれば、自由意志は存在するのだろうか?
- 7章へ
- 「電化を帯びた粒子は反発しあうはず」
- この「はずmustness」は何を意味するのだろう?
- 3章へ
■ 2)時間
- あらゆる種類の対象は時間を越えて存在する。
- 時間を越えるってどういうことだ?
- 子どもの頃と50歳の自分は同じ人なのか?
- 4-6章へ
■ 3)存在論
- 異なった種類の科学は異なった対象を記述する。
- 物理学者は、原子より小さな粒子(?)、生物学者は生物。
- でも、これらの対象すべてが存在すると信じなければならないのだろうか?
- 生物学的「対象」があるわけではないのに、生物学的「現象」があるなんて言えるのだろうか?
- 生体システムの構成素は、生物の部分であるpart ofと言われる。
- ↑こういう風に「部分を持った対象」について問うのが存在論の問いだ。
- 8章へ
- 他にも、「性質、数...etcは存在するか」と問うのも存在論の問いだ。
- 「ある種の対象が本当に存在するか?」と調べることが、どんな意味を持って考えるのは、メタ存在論の問いだ。
- 9章へ
■ よくあるパターン
形而上学にはいろんな領域があるけど、いくつかのテーマは繰り返しでてくる。
■ 1)ex. 還元主義 V.S. 「世界をそのままに」主義
- 1-1)ex. 自然法則
- 自然法則は規則性regularityを保証する。
- Jonathan Schafferは還元主義陣営のメンバー。
- 「自然法則には規則性を越えるものは無い!」
- 法則を規則性に還元。
- Jhon W. Carrollは反還元主義陣営のメンバー。
- 「法則の必然性には規則性以上のものがある!」
- 規則性に加えて必然性が必要。
- 1-2)ex.時間の経過
- 時間は(過去から未来に)「動く」ものだと考えられているけど?
- J.J.C. Smart(5.2)は、時間の経過についての還元主義。
- 時間は空間と同様の1つの次元にすぎず、動いているわけではない。
- 単に人間が過去しか記憶できないだけ。
- Dean Zimmermanは、反還元主義。
- 日常的直観の側が正しい。
- 過去は、「離れている」だけではなく、存在しない。
- J.J.C. Smart(5.2)は、時間の経過についての還元主義。
■ 2)ex. 科学と日常的信念の関係
- 科学と日常的信念が対立したらどうする?
- 科学を常識に合わせるべき?
- 常識を科学に合わせるべき?
- そもそも対立するというのが間違い?
- 2-1) ex. 時間
- 科学は時間を空間のように扱っている。
- Smartによれば科学に合わせるべき
- Zimmermanによれば常識に合わせるべき
[余談]
- 「空間が離散的かどうか?」という例もある。
- 「物理学によれば、空間は離散的だからアキレスと亀のパラドックスは生じない」って言われても困っちゃうよねみたいな。
[/余談]
- 2-2) ex. 自由意志と決定論
- 科学は、世界は自然法則に従うと言っている。
- これは、わたしたちの日常的な発想と食いちがう。
- Robert Kane(7.1)は、2つの描画は本当に対立していると論じている。
- 「自由などない!」
- Kadri Vihvelinは、自由についての信念を変える必要はないと言う。
- そもそも対立しているというのが間違いだという意見だ。
■ 科学と形而上学
- 極端はよくないという話
科学に従うか日常的信念に従うかについては両極端がある。
- 一方では、形而上学の仕事は科学をレポートすることだけ。
- もう一方では、形而上学は科学を無視して日常的信念だけに頼ればいい。
- どっちもどっちだ。
(1)科学原理派について。
科学は形而上学のすべての問いを解決するわけじゃない。
(2)日常信念派について
- 科学と日常信念は「別の世界」だよ派
しかしこれだと、信念が改訂される可能性はない。
科学も信念もthe worldについてのものであるはず。
[余談]
グッドマンなども↑こういう見解に入るように見える。
複数の領域=複数の真理が成り立つかどうかはわりと重要なトピックではないか。
哲学的立場としてはアレだが、「別の世界だよ」派は、個別領域の科学にとってはとっつきやすい立場のようにも思える。
(応用オントロジーとか、知識工学っぽいのってどっちかというとプラグマティックに領域相対的な存在論をやってそう)。
↓哲学の人はもっぱら「ゆるやかな改訂主義」みたいな感じか。
[/余談]
- 形而上学は耳を傾けるべきだけど、それがすべてじゃない派
- 日常的信念は出発点だが、改訂されてもいい。
- 日常的信念が相互に矛盾することもある。
- 科学と日常的信念だけではなく。基礎的信念には重みをつけるべきだし、科学に従うべき領域の信念には重みをつけなくていい。
- (血液型占いは信じなくてもいい、とか?)
- 「日常的」なだけでは何の意味もない。
フォース理性を信じよう!
- どっちにしても科学と対話すべき
- 科学はとても成功している。
- とても成功した理論!技術的優越!そして合意!
- 形而上学の歴史は、それにくらべればガチョウのレースみたいなものだ。
- 何千年も合意がえられないままだし、人を月に送ったりできない(笑)。
[余談]
哲学が失敗と非合意を宿命づけられているのは、成功するともう哲学じゃなくなるからという側面もあると思った。
哲学のある分野が成功すると、その成果は経済学とか数学とか認知科学とか言語学とかに引き取られていって経験科学者の仕事になる。
フレーゲとかラムジーとかケインズとかモンタギューが哲学者だったってもう誰も覚えてないよね問題。
あるいは、「昔言語学史見ててたら意味論の始祖のところに『言語学者ラッセル』って書いてあってびっくりしたよ問題」。
哲学=実験農場。
哲学=めんどうな問題に好きこのんで首をつっこむ人の集まり。
成功したものについては、「これは哲学が送り出した成果ですよ!」とか言っていった方がいいのか?
[/余談]
■ 形而上学と経験主義
- 形而上学なんて何の意味もないという哲学者もいる。
- 経験主義者。
- しかしこれは科学についてのナイーブな見方に基づいている。
- 科学者は見たままを報告しているわけではない。
- 科学の理論負荷性。
- 単純さとか包括性とかエレガンスとかで理論を選ぶ。
- もっとリアルな科学観に立てば謙遜して節度を持った形而上学の余地は残されている。
- 形而上学は観察からはじめる。
- そしてより一般的な理論を構築する。
- どの理論がよいかは観察では決まらないけど。
- やっぱり単純さとか包括性とかエレガンスとかで理論を選ぶ。
- 科学との連続性: ペシミズムは捨てよう。
- 科学との非連続性: 謙遜の気持ちを持とう。
- 形而上学の観察は非直接的。
- 理論選択の基準になるほどクリアじゃない。
- 形而上学は思弁的だし、めったに確かさを得られない。他にどんな風にできる?
- 経験主義をとるか形而上学をとるかはむずかしい問題だ。
- でもそれによって形而上学について考えるのをやめるべきじゃない。
- 「哲学はその分野の価値について問うことが、その当の分野の中心的な問いであるような分野なのである」
- 哲学者は自分の仕事に意味があるのかどうか、いつも不安。
- しかしメタな問いにかかずらわるのは後にしよう。
- どうせあれこれの哲学は不可能だなんて言っていた理論はみんな失敗したんだから(笑)。
















