『知識の哲学(The Probrem of Knowledge)』
A.J.エイヤー(著), 神野 慧一郎(訳)
白水社、1981
目次
- 1哲学と知識
- 哲学の方法
- 知識に共有の諸特色
- 知っているとは心が特別な状態にあることなのか
- 方法の論議―哲学と言語
- 知っているとは確信する権利をもつことである
- 2懐疑論と確実性
- 哲学的懐疑論
- 確実性の探究
- 「われ思う、ゆえにわれあり」
- 疑いに対して免疫のある言明は存在するか
- 公的な言語使用と私的な言語使用
- 自分自身の直接経験についての誤りは言葉のうえのものにすぎないのか
- いかにしてわれわれは知るのか
- 事実推理についての懐疑―帰納の問題
- 懐疑論の基本型
- 懐疑論者に応じるさまざまな方法に関するいくつかの所見
- 3知覚
- 物理的対象は直接に知覚されるか
- 錯覚からの議論
- 感覚所与を導入する一つの方法
- 感覚所与の合法性に関して
- 素朴実在論と知覚の因果説
- 現象論
- 物理的対象についての言明の正当化
- 4記憶
- 習慣記憶と出来事の記憶
- 記憶像はなくともよいということ
- 記憶・想起とは何か
- 過去の概念と記憶
- 過去に関する言明の分析について
- 過去と未来―記憶と予知
- なぜ原因は結果のあとに来ることができないのか
- 5私と他者
- 何が人物をして現にあるとおりの人物とするのか
- 人物の同一性の一般的な諸基準。それらは物理身体的なものでなければならないのか
- 経験の私的性格
- われわれは何を他者に伝達しうるか
- 物理主義のテーゼ
- 他者の心についての言明の分析と正当化
近所の図書館に邦訳があったので読んでみた。
すごく細かい議論を自然言語で丁寧に説明し、しかも落ちつくところはすべて穏健な結論というとても地味な本だが、ある意味とても哲学書らしい哲学書だと思う。
たとえば、
- 「センスデータという概念を使って大掛かりな理論を構築する人たち」と
- 「センスデータという概念は無意味であるという人たち」
の両方の主張を丁寧に検討したあげく、結論が
「センスデータという概念は注意して使えば無意味というほどでもないが、あまりメリットがないのでここでは採用しない」
という感じのものだったり。ひさびさに哲学書を堪能した気分。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
↑の本の元ネタ本の1つですね。基礎付け主義の批判の部分などは似てるか?
■ あらすじ
1章は方法論と結論。
知識を持つとは、心の状態ではありえない。なぜなら「...を知っている」ということは何かが真であるということに関わっており、「真である」は心の状態ではありえないからだ。「...を知っている」とは、何かを確信しており、それを確信する「権利を持つ」ことである。そのようにして権利を持つための正当化はさまざまな手段によってなされる。
2章は一般的な議論。
懐疑主義はわれわれの「知識を確信する権利」に疑問を投げかける。これに対し、疑いようのない主張から出発することで、揺ぎない知識を確立しようという哲学的プロジェクトがかつてあった。しかしこれは見込みのないものである。なぜなら、その手のプロジェクトは「偶然的真理」を無理矢理必然のものとして立証しようとしているからである。それによってかえって懐疑主義者の主張(不可謬な知識はありえない)がもっともなものとなってしまう。
しかし、そんなプロジェクト自体を捨ててしまえば懐疑主義者はおそるるに足りない。なぜなら彼等が要求していること(不可謬な知識をつくれ)ははじめから不可能なことなのであるから。
3章から5章は以上のような懐疑主義を遠ざける主張を各トピックごとに展開したもの。3章は知覚、4章は記憶、5章は他者の心に関する懐疑論をとりあげている。
■ もっと立ち入ってみる
地味な本だが、懐疑主義に対する批判はためになった。ある程度本を離れて自分の言葉にしてみると以下のようになる。
■ 知識とは
まず「知っている」とは、何かを信じており、その信念がしかるべき手段によって正当化されているということである(と少なくともエイヤーは考えている。言うまでもなくゲティア問題などは考慮されていない。何しろそれ以前の本だから。懐疑主義にいかに応じるかが大部分を占める本なので「知っているという現象の分析」はあまり重視されていない)。
たとえば、わたしは今自分がPCの前にすわっていることを知っている。そしてこの知識をさまざまな方法で確かめることができる。
- たとえば目をこらしてよく見る。
- さわってPCの感触を確かめる。
- 頭をふって夢でないことを確認する
などである。
もちろんいかなる手段をつくしても、「まだ疑える」と言うことはできるが、通常「目で見てさわって確認した」というのは知識を正当化するための十分な手段として認められている。「本当だって、この目で見たんだから」という場合がたとえばそうである。
これがもっと限定された科学の知識などであれば、よりコントロールされた正当化の方法(実験による観察や権威ある著者の発言など)が利用されるだろう。
以上が示しているのは、主張を確信するための手段はさまざまにあり、それら「正当化の方法」によって確かめられた主張をわれわれは「知識」として受け入れるということである。
■ 懐疑主義とは
一方懐疑主義とは何か。
懐疑主義は、上で説明したような「正当化の方法」の内の一部を否定する主張ではない。
たとえば「クガタチ」という風習があるが、かつて熱湯に手をつっこむことは知識を正当化する手段の一つだったのかもしれない。
しかし、この時代に「クガタチは知識を正当化する手段としてはどうか?嘘なのではないか?」という人がいたとして、それを懐疑主義とは呼ばない。同様に、科学の手法の一部を批判する人は懐疑主義者ではない。たとえば、「言語学における統計的手法は疑わしい」という人がいたとして、それを懐疑主義と呼ぶのは変だ。それは科学の方法論上の対立である。
懐疑主義というのは正当化の方法すべてに一挙に疑いを向けることである。懐疑主義者によればどんな正当化の方法も疑わしいものとされ、われわれの知識すべてが疑わしいものだと主張される。
■ 勝ちはどこにあるか
懐疑主義に対して必要なのは、懐疑主義者を説得し切るだけの論法を用意することではない。それはそもそも不可能である。なぜならば懐疑主義者はあらゆる知識の手段を疑うのだから、どんな論法を持ち出してもそれを懐疑することができてしまう。
目指すべきことは、説得することではなく、
- 「懐疑主義が健全な直観に従った堅固な立場である」
という主張を掘り崩すことである。懐疑主義者の主張を認めるとどれだけ不条理な結論が導かれるかを示し、懐疑主義の説得力をうばうことである。また、よく整理してみれば、懐疑主義の述べることがいかに平凡な主張であるかを示すことである。懐疑主義者はどれだけ不条理な結論を提示されても気にしないかもしれないが、それを認めるたびに懐疑主義の説得力は失なわれる。支持者を増やすことができなければ懐疑主義は無害である。
■ 事態はどのようになっているか

懐疑主義はときに「間違っている可能性」を盾に知識を攻撃する。どれほど確信されたかに見える主張であっても間違いの可能性は存在すると言うのだ。
それは正しい。しかし自明な意味で正しいだけだ。これを真に受けて、「真理をより確実なものに!」などと思ってはいけない。
事態は上のようになっている。十分に正当化され確信された主張も「不可謬である」わけではない。不可謬な主張と確信された主張はまったく別のグループに属する。それどころか、「不可謬な主張」のグループは空集合であるかもしれない。エイヤーは事実そうだと言う。
懐疑主義の主張を真に受け、確信された主張を、何とかして不可謬な主張にしようとしても無駄である。確信された主張の多くは、きわめて確からしいかもしれないが、論理的必然であるわけではない。
- 科学的命題の多く、
- 歴史的命題の多く、
- わたしが確信を持って受けいれている日常的真理は、
「きわめて確からしい」ものであっても、論理的必然ではない。たかだか偶然の真理である。正しい確率が9割になることはあっても10割になることはない。それを何とか不可謬にしようとするのは無駄である。
さらに、いわゆる「論理的必然」たとえば、数学的な証明手続きをへた命題などであっても、それは「必然に思える」だけであって不可謬ではないかもしれない(証明が間違っている可能性も無ではない)*。
そもそも不可謬な主張などというものは存在しないかもしれないのである。
エイヤーは「われ思うゆえにわれあり」と「わたしには赤く見えるように思われる」という2つのタイプの主張を取り上げて検討しているが、どちらも不可謬ではない(それか単に内容のない主張である)としている。
反懐疑主義者が懐疑主義者に対して言うべきことは、「それは通常受け入れられた手段によって正当化されている(私はそれをこの目で見た。こういう資料がある。こういう実験が報告されている...etc)」ということだけである。それは不可謬ではないかもしれないが9割の確率で正しい主張かもしれない。通常はそれで十分なのであり、「1割間違っている可能性がある」ということは大したダメージにもならない。
懐疑主義者がその「正当化の手段」に疑問を投げかけるなら、どんな手段ならよいのかを逆にたずねればよい。それに真面目に答えるなら相手はもはや懐疑主義者ではないし、すべての手段が無駄だというなら、もう相手にする必要もないかもしれない。
■ 人はなぜ懐疑主義者になるのか
エイヤーとは関係ないが、人はなぜ懐疑主義者になるかについて、考えたことを書いておく。
- 1つには、表現手段の貧しさである。
懐疑主義的に思える主張をする人の多くは、よく話を聞いてみると、実はもっと穏当な主張をしたがっているということがよくある。
- 本当は、「時代や社会によって主張を正当化する手段は異なる」という弱い主張をしたいだけなのに、「時代や社会によって真偽は異なる」と言うとか、
- 本当は、「完全に不可謬な主張は存在しない」という弱い主張をしたいだけなのに、「真理は存在しない」と言ってしまう。
どちらの場合も、前者は後者よりはるかに穏当でおそらく正しい主張である。
後者の形で述べた場合は、それを文字通りに認めた場合に発生する諸々の不条理を大量に抱えこまねばならなくなる。要は言い方がまずいせいで、余計なことを言ってしまっているのである。
こういう人は、単に別の言い方を工夫すれば簡単に受け入れられる主張になるのに、それを理解できず無駄に攻撃的な主張をしてしまうのである。
しかも往々にして本人は後者のより穏当な主張をしているつもりだったりするので、余計に話はややこしくなる。本人からすれば当り前のことを言ってるつもりなのに、なぜ周りが否定するか理解できない状態になる。
見方を変えれば後者の過激な言い方は比喩であり、文字通りに受け取るならただの間違いである。しかしそれを自分でわかっていないから話がおかしくなる。要は表現能力の不足であり、うまく使えもしないような比喩に頼ってしまった報いであるかと思う。
- もう1つには、過激な主張をしたいという下心がある。
穏当な主張はたいてい常識に沿ったものであり、おもしろくはない。単に平凡な主張に思えてしまう。
懐疑主義に走るのは若者の方が多いと思われるが、若者の一部は早急であり、平凡な知見を積み上げていくとか地味な実証を重ねるという気の長い工程をいやがる(私の若い頃だけかもしれないが)。
しかし簡単に独創的な主張ができれば苦労はしない。そこで過激な表現に走ることになる。
しかし、独創的も何も間違っているものははなからダメであるし、ろくなことが言えないからと言って過激な表現に走ったところで、やはりろくな意見にはならない。
こうした兆候に対し、効果的な対処法は、
- 「文字通りに受け取ると間違いであると示すこと」
- 「本当は何を主張したいのかを聞き出すこと」
- 「表現手段のまずさに気づかせること」
- 「過激な表現に走るのがいかにかっこ悪いかを効果的に教えること(馬鹿にすること)」
であるかと思われる。
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