ヴァン・インヴァーゲン「形而上学」
http://plato.stanford.edu/entries/metaphysics/
スタンフォード哲学事典の記事を、勉強のために読んでまとめる。今回は、ヴァン・インヴァーゲンさんによる「形而上学」の項目。
インヴァーゲンさんの論文は確か、『現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)』にも入っている。
うろおぼえだが、↑に収録されていたのは「なぜそもそも何かがあるのか」というすごいテーマの論文で、しかも内容は、「世界の可能なあり方のうち、物が1つも存在しない世界は1つしかなく、それ以外の世界は無限にある。よって、ものが存在しない世界が現実化する確率は0だから」というハイデガーが聞いたら卒倒しそうな確率論を使った議論で、「ちからわざww」と思った記憶がある。
次は、
「計算機科学の哲学」の項目を読んでまとめる予定。
The Philosophy of Computer Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
■ 感想
昔は、「分析哲学が形而上学だなんて意外!」と思ったものだったが、今はすっかり、「こういうのアメリカ人(とかオーストラリア人)が好きそう!」と思うようになった。
あんまりうまく言えないが、形而上学にはなんというか大陸的な匂いを感じる。
まったく悪い意味ではないのだが、「退屈さ」に満ちているというか。大陸の壮大な風景を延々と見せられ中にははっと目を瞠るような風景もたくさんあるのだが見ている内にだんだん眠くなってくる...みたいな大味の。刺激に対してだんだん感覚がマヒしてくる感じ?というとちょっと違うか。まあ壮大なゲームに興ずる大陸精神だよね。何言ってんのか自分でもよくわかんないけど。
あと、反形而上学ってジャーナリスティックに人気あるけど、そして論理実証主義って人気ないけど、反形而上学って大抵論理実証主義の親類なんだよね、と思った。
ネルソン・グッドマンなんて本人の自己規定も最後まで「論理実証主義者」だったんじゃないかと思うけど、なぜか論理実証主義がきらいそうな人に人気あるよね。あと後期ウィトゲンシュタインなども依然として典型的に論理実証主義的であると思うが、なぜか論理実証者がきらいそうな人に人気あるよね。
補足: ↑筆がすべって迂闊な放言を吐いてしまったので削除
だから何ということはないが、形而上学も楽しいですよ?的なことを言いたかったのかもしれない。
■ 要約
- 「形而上学」の元々の意味はアリストテレスから来ている。
- 本来の意味は
- 「存在としての存在(being as such)」
- 「事物の第一原因」
- 「変わらないもの」
- を研究する学問である。
現代では、この定義にはあまり意味はない
- 事物の第一原因などなどの存在を否定する人も形而上学に含まれる
- 事物の第一原因などなどとは関係ないテーマも形而上学に含まれる
■ 1. 語「形而上学」と形而上学の概念
- 形而上学というのはアリストテレスの著作のタイトルだが、アリストテレスの時代にはこの名称はなかった。
- アリストテレスの死後100年後に、編者が"xTa meta ta phusika"("the after the physicals")とつけた。
- physicsは「変わるもの」の研究であり、metaphysicsは「変わらないもの」の研究である。
- 「meta(後)」の意味するところは、「physicsを勉強してからこっちを勉強するように」ということである。
- なぜ「存在としての存在」と「第一原因」が同じ形而上学の中に入るかというと、第一原因とふつうのもののあいだには、「ある」という以外に共通点がないからである。
- 17世紀までは形而上学のテーマは「変わらないもの」とか「第一原因」で通用した。
- それ以降はphysicsのテーマだったさまざまなものごとがmetaphysicに分類されるようになった。
- 心身問題、自由意志、個人の同一性...etc
- 同時期「存在としての存在」は ontology のテーマになった。
- ポストライプニッツ学派の合理主義者は形而上学という語の濫用に気づいていた。
- Christian Wolffは一般形而上学と特殊形而上学をわけた。
- しかしこれはこじつけっぽい。
- おそらくmetaphysicsが濫用されるようになったのは、physicsがより限定された意味を持つようになったせいだろう。
- いずれにせよ、古い用法と今の用法はあまり関係ない。
■文献
- アリストテレスの形而上学について。
- Politis, Vasilis (2004): Aristotle and the Metaphysics. London and New York: Routledge.
■ 2 形而上学の問題: 古い形而上学
- 「形而上学」は昔より広い範囲の単語になったが、古い形而上学が扱った問題は今でも形而上学の主題である。
- 「存在としての存在」はどうしたって形而上学のテーマだ。
- こういう↓テーゼは、典型的に形而上学的
- 「あるものはあり、あらぬものはあらぬ(パルメニデス)」
- 「現実の実在は単なる理解の実在よりも大きい(アンセルムス)」
- 「『ある』は真の述語ではなく論理的な述語である(カント)」
- 「存在の述定は数0の否定に他ならない(フレーゲ)」
- 「『ある』とは束縛変項の値であることである(クワイン)」
- などなど
- 存在に関する見解の中には「存在としての存在」の研究に入れていいのか微妙なものもあるけどね(「存在するとは知覚されることである(バークリー)」とか)。
- 「非存在」に関する研究も、「存在としての存在」の研究に入る。
- 「第一原因」「変わらないもの」の研究も古くから形而上学のテーマ。
- 「第一原因はない」とか「変わらないものはない」という主張も形而上学のテーマだから気をつけてね。
- 少なくとも最近の発想では「形而上学的テーゼの否定」も形而上学的テーゼに入れる*。
- 現代の用法では、「反形而上学者」というのは、「形而上学の主題になるようなものの存在を否定する人」じゃなくて「そういうものが存在するかどうか」という問題設定自体を認めない人のことだよ。
■ 2.1 存在のカテゴリー
- 人間はよくものを分類する。
- 「内在的な統一」がないものをわざわざ分類することは滅多にないよね。
- 統一がある集まりのことを「クラス」と呼ぶ(統一がなくてもいいものは「集合」と言うよ)。生物種などが典型だ。
- クラスは大抵「自然」クラスであり、「(自然)種」だ。
- そのメンバーシップが何らかの意味で「斉一uniform」だ。
- ただし「自然なクラスなんて存在しない」というのもきちんとした哲学的テーゼである。
- もしこのテーゼが正しいなら、「存在のカテゴリー」なんて問題設定はダメなわけだけど、ちょっとここでは自然なクラスがあるものと仮定しておこう。
- クラスの内のいくつかは他のものより広い。たとえば「犬」より「動物」、「動物」より「生物」の方が広い
- そこで、「クラスに分類されうるもののクラス」、つまり一番広いクラスを考えよう。
- 包括的なクラスより、ちょっとだけ狭いクラスもあるはずだよね。
- 普遍クラスよりちょっとだけ狭いクラスのことを、「存在のカテゴリー」とか「存在論的カテゴリー」と言うよ。
- 「存在のカテゴリー」は、存在の本質(存在としての存在)と、中世以後形而上学に入るようになった新しい問題の中間に位置する。
- なぜならこいつらは普遍者universalsにかかわるからだ。
- 普遍者というのは、「白さ」とか「可塑性」みたいな「性質」のことだ。
- しかも、クラスのメンバーの「中に現われている」。
- あるいは、普遍者は「の北にある」みたいな「関係」のことだ。
- しかも、ものの組のクラスのメンバーの「中に現われている」*。
難しかったらとりあえず、「性質」「関係」というのは「集合」のことだなと思ってよいと思う。そんで、要素の中に顕現しちゃうような集合のことを「普遍者」と呼ぶんだと思えばいいんじゃないか。
訂正: ごめんなさい。この説明はたぶん間違いでした。「性質」は集合じゃないです。おそらく「白いもののクラス」が「白さという性質」とは別にあって、「白いもののクラスの要素に共通して現われているもの」を「白さという性質=普遍者」と呼ぶのです。
例をあげるのはむずかしいけど、
ちょっと誤訳修正:
- 性質こそ普遍者の例と考えられるのが通例だけど、普遍者は性質以外のものかもしれない。
- 『戦争と平和』という小説はこの小説のすべての印刷の中に現われてるよね。これが普遍者かもしれない。
- 「馬」という語のすべての発話の中に、「馬」という語が現われているよね。これが普遍者かもしれない。
- あるいは「馬」という自然種は、すべての馬の中にある意味では現われているよね。これが普遍者かもしれない。
- 普遍者が何らかの意味で存在するというテーゼのことを、「実在論」とか「プラトニズム」と呼ぶよ。
- 普遍者が存在しないというテーゼのことを、「唯名論」と呼ぶよ。
- この論争は昔からあるけど、クワインによって「存在論的コミットメント」と呼ばれる新しい要素がくわわった。
- われわれが持ってる最良の科学理論を、一階量化言語の標準的記法で書き直そう。
- 多くの場合、理論の帰結の中には、述語Fの存在汎化があるはずだ。
- しかもFを充足するのは、唯名論と矛盾するような対象だけだったりする。
- つまり、われわれの最良の科学理論は、唯名論と矛盾するような対象に対し、「存在論的コミットメント」しているわけだ。
- 例をあげてみよう。
「ある均質な対象があり、その質量は、g/cm^3の密度とg/cm^3の容積の積である」
∃x Hx & ∀x (Hx → Mx = Dx × Vx),
- ここから次が帰結する。
「x = y × z」をみたすx, y, zが存在する。
∃x ∃y ∃z (x = y × z)
- x, y, zを満すのは具体的には「数」だよね。
- つまりこの理論は「数」という抽象的存在者の存在にコミットしてるよね!
- 唯名論者はこの理論を認められないよね!
- 多くの実在論者は、普遍者は存在のカテゴリーの1つをなすと仮定してる。
- 普遍者じゃなくて、それよりも広い「抽象者」こそが存在のカテゴリーだという人もいる。
- しかしいずれにせよ、かなり広い方のカテゴリーだろうとみんな思っている。
- 存在のカテゴリーは、存在のカテゴリーより少し狭いサブカテゴリーを考える上でも重要だ。
- 存在のカテゴリーは、古い意味の形而上学にも属するよ(微妙な部分もあるけど)。
- アリストテレス『形而上学』でもプラトンの形相概念について述べられているし。
- ちなみに、「普遍者は対象に先がけてあるante res」か「普遍者は対象の中にあるin rebus」かというのがアリストテレスの問題だったわけだが、これは21世紀の形而上学でも問題だよ。
- 普遍者とか存在のカテゴリーについてもう少し考えよう。
- 白い2つの個物particularsについて考えてえみよう。タージ・マハールとワシントンのモニュメントとか両方とも白いよね。
- こいつらが白いのは、「白さ」の普遍者と関係を持っているからだ、としてみよう。
- この関係のことを「におさまるfalling under*」と言うことにしよう。
- すべての白いものが、そして白いものだけが、「白さ」におさまっている。
- さあ、この「おさまる」という関係について何が言えるか?
- なんでタージ・マハールが白さにおさまるのか?
- タージ・マハールは「ものに先がけた普遍者」の束であり、タージ・マハールが白いのは、この束の構成素の中に白さの普遍者があるからかもしれない。
- あるいは、タージ・マハールのような個物は、普遍者の束ではなく、普遍者以外のもの=基底(substrace)も含むかもしれない。
- あるいは、タージ・マハールのような個物は、普遍者でも基底でもないものを含むのかもしれない。
- 「具体的な個物」の他に、「抽象的な個物=個別的な性質」(「タージマハールの白さ」とか)があるのかもしれない。
- こういう「抽象的な個物=個別的な性質」のことを、「偶有」とか「トロープ」とか「性質インスタンス」という。
- たとえば、「タージ・マハールの白さ」のような個別的で抽象的な性質があるかもしれない。
- つまり、タージ・マハールは普遍者の束ではなく、偶有の束かもしれない。
- または、基底+偶有の束かもしれない。
- あるいは、アリストテレスが正しくて、「ものの中の普遍者」が存在するかもしれない。
- こういう風に、個体と、普遍者やトロープの関係をあれこれを考える理論を個物の「存在論的構造の理論」と呼ぶ。
- 存在論的構造の理論こそ、形而上学の中心問題だという人もあるくらいなもので、存在論的構造はとても重要だ。
- しかし性質が個物の構成素であるかどうかで、また一悶着ある。
- そもそも性質が個物の構成素じゃないんだったら、「個物の存在論的構造」なんて発想自体がおかしい。
- 性質は、個物の構成素であるという立場を「構成的存在論constitute ontology」、
- 性質は、個物の構成素ではないという立場を「関係的存在論relational ontology」と呼んだりする。
- 「個物に先がけた普遍者」を支持する立場の人は、関係的存在論を取りやすい。
- 関係的存在論の場合、普遍者はとてもたくさんあると考えることが多い。
- 白の普遍者だけじゃなく、「白くて丸くて、キラキラしているかまたは銀でできてはいないこと」の普遍者などもあると考えたりする。
■ 文献
- 普遍者について
- Armstrong, David (1989): Universals: An Opinionated Introduction. Boulder CO: Westview.
- Loux, Michael (2001) (ed.): Metaphysics: Contemporary Readings. London and New York: Routledge.の1部
- http://www.amazon.co.jp/dp/0415261074/ref=nosim/atakadaorg-22
- 存在論的コミットメントについて
- Quine, W. V. O. (1948): "On What There Is". In Quine (1961), 1-19.
- Quine, W. V. O. (1960): Word and Object. Cambridge MA: MIT Press.
- 存在のカテゴリーと存在論的構造について
- Lowe, E. J. (2006): The Four-Category Ontology: A Metaphysical Foundation for Natural Science. Oxford: the Clarendon Press.
- クワイン『ことばと対象』
■ 2.2 実体Substance
- 「笑顔」や「髪型」や「穴」などは、他のものの中にしか現われない。
- こういうものと違って、他のものと独立に存在できるもののことを「実体」と呼ぶ。
- アリストテレス用語では、"(protai) ousia"。
- 実体の特徴
- 述定の主語になるが、それ自体は他のものを述定したりしない*。
- 何らかの事物が実体の中にあることはあっても、実体が他のものの中にあることはない。
- 実体は、決定的なアイデンティティを持っている。
- 言い換えると、
- 「ある時点に存在する実体xと別の時点に存在する実体yが同じものかどうか?」という質問にはちゃんと意味があるし、答えは決定されている。
- 笑顔とか穴にはこういう決定的なアイデンティティがないよね。
- 実体があるかどうかは、依然形而上学の重要なテーマ。
- 実体って何よ?
- 日常的にわれわれが出会うもののうち、どれが実体なのか?
- 実体はいくつあるのか?
- などの問題があるよ。
- しかし「実体」についてはそもそも定義からしてはっきりしない部分がある。
- とりあえず以下のものが実体でないのははっきりしている。
- 普遍者およびその他の抽象者
- 出来事、過程、変化
- 肉、鉄、バターのような物質。
■ 3. 形而上学の問題: 「新しい」形而上学
■ 3.1 様相
- 哲学にとって長い間、真なる命題の内の2つのクラスが問題になってきた
- 偽であったかもしれない命題
- 偽ではありえない命題
- の2つである
- 前者の例は「パリはフランスの首都である。」、後者の例は「1より大きい整数nについて、nと2nの間には素数がある。」
- 中世の哲学者は、「必然的に真」と「偶然的に真」を「真」のmodeと見なしたので、必然とか偶然のことをmodalと呼ぶ。今は単なるラベルになってるのでこの名前にはあまり意味はないよ。
- 様相には、
- 命題の様相(de dicto)
- ものの様相(de re)
- の2種類がある
- 前者は、形而上学というより論理学のテーマだけど、後者は形而上学にかかわる。
- de re様相は、「新しい形而上学」のテーマだ。
- 多くの哲学者が「日常的対象ordinary objects」の様相的特徴を論じている。
- 人間の存在について考えてみよう。
- たとえば誰かふつうの人が「わたしは存在していなかったかもしれない」と言う。
- これ自体は明白な真理に思える。
- ということは、この人は、「偶然的存在」=「存在しなかったかもしれない存在」だ。
- じゃあ逆に考えると、「必然的存在」もあるかもしれない(ないかもしれない)。
- 次は性質について考えてみよう。
- 誰か英語しか喋れない人が「わたしはフランス語しか喋れなかったかもしれない」と言うとする。
- これは明白に真と思える。
- つまり「英語を話す」は偶然的性質だ。
- じゃあ逆に「必然的性質」はあるか。
- 必然的性質(本質的性質)は議論の種になりやすいけど、
- 少なくとも、「ポーチドエッグではない」という性質は、この人の必然的性質なのではないか。
- クワインはde dicto様相もde re様相も批判した。
- de dicto様相を「分析性」の概念に還元し、de re様相はそもそも意味をなさないとした。
- クワインの批判は、以下のようなものだ。
- 「自転車乗りは必然的に二本足だ」というde re様相が認められたとして、「数学者は偶然的に二本足だ」も正しいだろう。では「自転車乗りの数学者」はどうなる?
- これをうまく扱えないなら、de re様相などは無意味だ。
- この議論には、クリプキやプランティンガの批判がある。
- 多くの哲学者は、クワインの批判にはクリプキやプランティンガの応答で十分答えられたと思っている。
- クリプキやプランティンガは「可能世界」を用いた議論を行なった。
- 可能世界を用いた議論は形而上学で典型的に見られるものだ。
- クリプキやプランティンガの言う「可能世界」というのは、可能な事態state of affairsの集合である。
- 「事態xが実現し、かつ事態yが実現しない」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「含むinclude*」と言われる。
- 「事態xが実現し、かつ事態yが実現する」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「排除するpreclude」と言われる。
- 可能世界自体も可能な事態の1つである。
- 「可能世界」とは、「任意の事態xについて、それを含むか排除するかいずれかである」ような(極大な)事態である。
- 「ソクラテスが存在する」を含むすべての可能世界が、「ソクラテスが人間である」という事態も含むとき、「人間である」はソクラテスの本質的な性質である。
- クリプキ+プランティンガのおかげで様相についてはとても明晰になったが、代わりに様相の存在論や可能世界の存在論が必要になった。
- デイヴィド・ルイスの様相存在論では、「可能世界」は具体的な対象である。
- ふつうに言う世界は「現実の世界actual world」であり、他にもたくさんの世界がある。
- ルイスによれば「現実の」という語は、「今」「ここ」などと似たような(自分たちのいる世界を指す)指標的な表現なのである。
- de dicto様相については、クリプキ+プランティンガの理論とルイスの理論に違いはあまりない。
- しかしde re様相については違ってくる。
- なぜならルイスの理論に従えば、対象は必ず1つの世界にのみ存在するからである。
- ソクラテスは現実の世界にしか存在しない。しかしその「対応者counterparts」は他の世界にもいる。
- ソクラテスの対応者すべてが人間ならば、ソクラテスは本質的に人間である。
- 両者の解釈は他の点でも異なる。
- ルイスの理論では、様相は様相的でない概念で定義される。
- クリプキ+プランティンガでは、様相は定義できない。
- ルイスの理論はde re様相の反実在論を含意する。
- なぜなら「対応者関係」は複数あるからである。
- どういう「対応」に注目するかによって、ソクラテスの対応者は異なる。
- 対応者の選択は、語用論的、関心相対的である。
- しかしクリプキ+プランティンガの立場では、ある性質が本質的であるかどうかは客観的に決まる問題である。
■文献
- 様相批判
- Quine, W. V. O. (1960): Word and Object. Cambridge MA: MIT Press.
- 様相肯定
- Plantinga, Alvin (1974): The Nature of Necessity. Oxford: the Clarendon Press.
- Kripke, Saul (1972): Naming and Necessity. Cambridge MA: Harvard University Press.
- 様相実在
- Lewis, David (1986): On the Plurality of Worlds. Oxford: Blackwell.
- クリプキ『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』
■ 3.2 時間と空間
- 古来より時間と空間は密接にかかわる問題として扱われてきた。
- 時間が空間に類似していない部分はいろいろな哲学的問題を呼び起こす。
- 過去と未来の問題がその1つだ。
- 過去と未来は、現在がリアルであるのと同じ意味でリアルなのか?
- 時間の「動き」はリアルなのか幻想なのか?
- 反対に、空間が時間に類似していない部分が問題になることもある
- なんで空間って3次元なの?
- 慣時間的な同一性もよく問題になる。
- 関連して「人の同一性」とか「時間的部分」も問題になる。
- まとめると「時間と空間はリアルなのか?」「どれくらいリアルなのか?」が問題になりがち。
- 時間と空間のリアリティについては、中世までの形而上学と現在の形而上学の違いがよくでている。
- 昔の形而上学者は「ふつうの人の世界観は正しい」と見なしていたが、現代の形而上学者はこれを否定することもある。
- 時間と空間の問題は、中世までの形而上学のテーマではないが神の問題や普遍者の問題にもかかわっている。
- 神は永遠であり偏在するわけだし、普遍者も複数の個物の中に現われると見なされることもある。
■ 文献
- 時間と空間問題のリーディングス
- van Inwagen, Peter and Zimmerman, Dean W. (1998): Metaphysics: The Big Questions. Oxford: Blackwell.
■ 3.3 心身問題
- 人は心的なものと物理的なものを分けがち。
- 理由はおそらく認識論的な問題。思考と感覚は、外的な物理現象とは異なった風に認識される。
- 「異なった風に認識される対象は、異なった種類の対象だろう」というのが自然な発想だろう。
- この推論は妥当なものじゃないけど、そんなの関係ないだろうし。
- しかし、理由は何であれ、「心的なもの」と「物理的なもの」を分ける立場(二元論)を取ると、いろいろ哲学的な問題が生じる。
- 代表的な問題は、因果の問題。
- なんで心的なものと物理的なものは別々なのに、両者の間に因果関係があるの?
- どうして意志が、肉体を動かしたりできるの?
- 物理的な傷のせいで、痛みの感覚が生じるのはなぜ?
- 前者は、二元論者にとってより大きな問題。
- 心的な出来事が物理的な出来事を引き起こせるとすれば、エネルギー保存法則が破れてしまう。
- 宇宙の法則がみだれる!
- こういう心的なものと物理的なものの影響関係のことを「インタラクション問題」という*。
- 二元論の立場からこの問題に答えようとして、さまざまな形而上学的理論が生み出された。
- 心はシナプスの電気抵抗を変化させるので、エネルギー保存法則は乱れない、とか。
- しかし、「シナプスの電気抵抗を変化させる」のにエネルギーを消費しないというのは変な話だよね。
- 非物理的なものが物理的な系を変化させるなら、どうやったって保存法則は破れるよ。
- 一元論的な理論によるインタラクション問題の解決もある。
- 物理的なものの存在を否定: 観念主義
- 心的なものの存在を否定: 物理主義
- 大半の哲学者は物理主義をとる。
- 心がリアルであることを否定するわけじゃない(消去主義以外の)物理主義理論には、解決すべき形而上学的問題がある。
- そういった立場の人たちは、完全に物理的な世界の中に、心的な出来事+心的な状態を位置づけねばならない。
- もっと言うと、心的な出来事+心的な状態は、物理的な出来事+物理的な状態の特殊例だと考えねばならない。
- 心的な出来事と物理的な出来事を同一視する理論を、「同一説」と言うよ!
- 同一説が解決すべき3つの問題
- (1)心的普遍者(心的な出来事タイプ+心的な状態タイプ)は、物理的普遍者と同一であるか?(タイプ同一性)
- (2)物理主義によれば、心的出来事+状態は、因果作用を引き起こさないと本当に言えるのか?
- (3)物理的なものは、非物理的性質を持つことができるのか?
- 「赤を知覚すること」とか「ウィーンについて考えること」は物理的生物の非物理的性質なのか?
- 同一説は、「性質とは何か?」「出来事とは何か?」「状態とは何か?」という形而上学的問題を解決しなければならない。
■ 3.4 自由意志問題
- 自由意志は古くからある問題だけど、17世紀に機械の制作が進歩したせいで、より重要な問題として注目された。
- 未来の状態は、過去の状態+自然法則によって決定されているのかどうか?
- 決定されているとする立場を「決定論」と言う。
- 自由意志問題とは以下のジレンマのこと。
- 自由は、過去に何かを「付加」するものであるはずだ。
- もし決定論が正しければ、過去に付加しうるものは1つしかない。
- =>自由ない
- もし決定論が間違っているならば、未来は複数あるが、その内のどれが実現するかは偶然の問題である。
- 「わたしが嘘をつくか本当のことを言うか」が偶然の問題なら、「わたしが嘘をつくか本当のことを言うか」はわたしのせいじゃない。
- =>自由ない
- 自由意志が可能なら、この両者の少なくともどちらかは間違いでなければならない。
- 自由意志の問題とはこのジレンマを解決すること。
■ 文献
- 自由意志のジレンマ
- Ginet, Carl (1990): On Action. Cambridge: Cambridge University Press.
- 自由意志と形而上学
- van Inwagen, Peter (1998b): "The Mystery of Metaphysical Freedom". In van Inwagen and Zimmerman (1998), 365-374.
■ 3.5 物質的構成の問題
- 次は、「メレオロジー」と「物質的対象の本質」にかかわる諸問題。
- ここでの重要概念は「部分性」と「構成」だ。
- 問題1. 立像と塊問題
- 金の立像は、金の塊と空間的に共外延的である。
- ライプニッツの法則(不可識別者同一の法則の対偶: 識別できるものは同一でない法則)より、立像と塊は異なった対象である。
- なぜなら、塊は立像より以前からある。
- また、立像が壊されても塊は残る。
- つまり、塊は立像と異なった様相的性質を持っている。「変形されても残りうる」という性質である。
- 以上より、空間的に共外延的で、非様相的性質をすべて共有する2つの異なった対象が存在する。と、少なくとも一部の形而上学者は考えている。
- 別の派閥の人は、「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象などありえない」と論じている。
- その場合は、上の議論のどこが間違っているかを明らかにしなければならない。
- 別の派閥の人は、「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象などありえない」と論じている。
- 問題2.ティブとティブルス問題
- ティブルスは猫だ。
- ティブルスの尻尾を「シッポ」と呼び、尻尾以外の部分を「ティブ」と呼ぶことにしよう。
- さて、シッポが切り落されたとしよう。
- ティブルスは当然ながら生きている。
- ティブも存在する。
- ではティブとティブルスは同一なのだろうか?
- 「識別できるなら同一でない性質」に従えば同一ではない。
- これを認めるなら、やはり「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象」があることになる。
- 部分をすべて共有する2つの対象と言ってもよい。
- 以上の問題より、形而上学者の一部は、「部分性と同一性」に加え「構成」の概念が必要であると主張する。
- 先に存在したティブがある時点でティブルスを「構成」することになった。
■ 文献
- Baker, Lynne Rudder (2000): Persons and Bodies: A Constitution View. Cambridge: Cambridge University Press.
- Rea, Michael (ed.) (1997): Material Constitution: A Reader. Lanham MD: Rowman & Littlefield.
■ 形而上学の本質
- いろいろ説明したけど、形而上学の定義はむずかしい。
- ヴァン・インヴァーゲンによれば*、「形而上学の本質は、究極的現実を(十分に一般化された仕方で)描写しようとする試みにある」
- 「究極的現実」とか「十分に一般化された仕方で」にはもう少し説明がついている。
- しかしこの定義は広すぎるので、形而上学以外の科学や、哲学の他の分野まで含むのではないか?
- しかしそもそもきちんとした定義が可能なのかどうかさえ明らかではない。
■ 文献
- 形而上学の本質を定義しようとしているらしい。
- van Inwagen, Peter (1998a): "The Nature of Metaphysics". In Laurence and Macdonald (1998), 11-21.
- Laurence, Stephen and Cynthia Macdonald (eds.) (1998). Contemporary Readings in the Foundations of Metaphysics. Oxford: Blackwell.
■ 形而上学は可能なのか?
- 形而上学は不可能だという人は、ヒュームの時代からずっと存在する。
- 最近の議論ではこんなものがある。
- 「形而上学的主張」と「形而上学的でない主張」を分けられるとしよう。
- 「強い形而上学不可能説」は、
- 「形而上学的主張は無意味である。」
- 「弱い形而上学不可能説」は、
- 「形而上学的主張には意味があるが、人間にはその真偽が判別不可能である。」
- 「強い形而上学不可能説」は、
- 強いバージョンについて考えよう。
- 論理実証主義は、「(非分析的な)主張の意味は、その主張が可能な経験についてどんな予測を生み出すかという部分にある。」と考えた。
- 論理実証主義者はさらに、形而上学的主張は経験について予測しないので、無意味であると考えた。
- しかし、「(非分析的な)主張の意味は、その主張が可能な経験についてどんな予測を生み出すかという部分にある。」という主張自体が、経験的なものではないように思われる。
- この主張が真でも偽でも、世界はまったく同じように見えるのではないだろうか。
- 強い形而上学批判はだいたいこの手の「自己言及的矛盾」に陥ってるように思われる。
- 強い形而上学批判の事例は↓こんな感じかもしれない。
- 強い反形而上学主義者のDr. McZedは、彼女が考案したテストをパスしないテキストはすべて無意味であると主張する。
- テストを通らないテキストは「形而上学的」であると彼女は主張する。
- しかし彼女の主張の重要な部分はこのテストをパスしない。
- 最近の例だと、ファン・フラーセンの批判は洗練されているけれど、やっぱりそんな感じのものであると思える。
- 弱い主張の側はこんな感じ。
- 人間の精神は(あるいはすべての限定合理的なエージェントの精神は)、形而上学的結論に到達できない。
- このタイプの主張はカントくらいまで遡れる。
- この批判の最近のバージョンであるマッギンなどは、カントよりだいぶおとなしい。
- マッギンは、すべての精神ではなく、(進化論的偶然により生じた)人間の精神には、哲学的問題を扱う能力がないと論じた。
- しかしこの主張は人間の認知能力に関する経験的主張であるわりに、経験的裏付けがない。
■ 文献
- 強い形而上学批判
- van Fraassen, Bas C. (2002): The Empirical Stance. New Haven CT: Yale University Press.
- 弱い形而上学批判
- McGinn, Colin (1993): Problems in Philosophy: The Limits of Inquiry. Oxford: Blackwell.
- ファン・フラーセン『科学的世界像』
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お疲れ様です。非常に勉強になります。
気づいた点をひとつ。
3.1の
「「事態xが実現し、かつ事態yが実現する」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「含むinclude*」と言われる。」
は、
「事態xが実現し、かつ事態yが実現しない」ではないかと。
原文は
』 (2009/01/ 4 15:07)The state of affairs x is said to include the state of affairs y if it is impossible for x to obtain and y not to obtain.
です。
ご指摘ありがとうございます。これはわたしのミスでした。直しておきます。
』 (2009/01/ 4 22:00)