2009年1月
■ 前置き
タイトルはホッテントリメーカーから。
最近ちょこちょこデイヴィドソンの論文を読み返したり読んだりしていたので、デイヴィドソンについて書いてみる。
以下はデイヴィドソン研究者でもなんでもないわたしの理解であるし、しかも「こういった言い方の方がわかりやすいだろう」というわたしバイアスのかかったアレンジをくわえてある。
読者諸氏はそのことに注意されたい。
なおT1,T2,T3という記号が振られたテーゼはデイヴィドソンがあまりはっきり書いてないが、はっきり書いた方がわかりやすいと思ってわたしが付け加えたテーゼである。
まず図を書いてお茶を濁す。

デイヴィドソンは「根源的解釈」と呼ばれる思考実験的なシチュエーションを好んで用いてきた。これはクワインのパクりであり、クワインの「根源的翻訳[Radical translation]」から取って「根源的解釈[Radical interpretaion」と呼ばれている。
根源的解釈のシチュエーションは以下のように設定されている。
- 言語学者が何の手がかりも無い未知の言語を理解しようとしている。
- 言語学者が利用できるリソースは非常に制限されている。
- 彼はさまざまな形式的理論(述語論理や意志決定理論)に訴えかけてこの未知の言語を理解しようとする。
言語学者は、人間というより解釈マシーンのように振舞い、少ない手がかりを使って、未知の言語の解釈を組み立てる。
問題になっているのは、「解釈マシーンにどんな理論と情報を与えれば、未知の言語を理解できるようになるか」ということである。
重要なことは、こういう非現実的な状況を想定することで、デイヴィドソンは何を論じようとしているのかということである。
思うに、これには2つの方向性がある。
(1)哲学的目的
デイヴィドソンの目的の1つは、他人の言葉を理解するという状況、つまりコミュニケーションに課せられた制約を明らかにすることである、とわたしは思う。
思考実験に出てくる言語学者は、不自然なまでに形式理論に熟達しており、誤りの可能性もなく、与えられたリソースをすべて有効に使おうとする。
こうした状況は非現実的だが、この言語学者=解釈マシーンに可能なことは他の人間にとってもおそらく原理的に可能なことであり、この言語学者にとって不可能なことはおそらくわれわれにとっても不可能である。要するに、こういう極端な状況を設定することで、他人の言葉を理解する上でそもそも可能なこと・不可能なことを明らかにしようとしているのである*。
(2)科学的目的
根源的解釈は、哲学的議論のためだけではなく、経験科学のプログラムとして設定されたものでもある(いわゆる「デイヴィドソンのプログラム」)。
デイヴィドソンの提案は、こういう状況設定から出発して、(自然言語の)意味論をやろうぜということである。デイヴィドソンの言うことが正しければ、意味論をやっている途中で心理学のようなことや社会学のようなことも一緒にやらなければならなくなるが、それも一緒にやろうぜということである(これがいわゆる「統一理論」)。
最近の展開についてはよく知らないが、デイヴィドソニアンな言語の研究は、後進の哲学者などを中心に多少は行なわれているらしい。日本でも飯田隆氏が少し試みていますね。
| 見えるもの | 見えないもの |
|---|---|
| 文の発話 | 言葉の意味 |
| 人がある文を真と見なす | 信念 |
| 人がある文を別の文より選好する | 欲求 |
さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。
デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。
わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。
さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。
一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味がわからなくても何となくわかるだろ、ということになっている。
デイヴィドソンの結論は、「真と見なす」「良いもの/悪いものと見なす(選好する)」という目に見える要素に加えて「信念」「欲求」にいくつかの一般的な原則を仮定すれば、言葉の意味がわかるようになるというものだ。また、3つの内どれか1つがわかれば残りの2つもわかるようになるというものだ。
■ 論理学者と宇宙人
- 『真理と解釈』
勁草書房、1991
以下、上の根源的解釈の話を論理パズルっぽい設定で簡単に説明してみよう。これらの議論は主として上の『真理と解釈』などの著作で展開されている。
デイヴィドソンがよく使うのは「未知の社会と言語学者」という設定だけど、「宇宙人と論理学者」にした方がそれっぽいと思うので、そう変えてみた。
ある論理学者が未知の言語を話す宇宙人社会に放り込まれた。論理学者にとって、宇宙人の言葉は何一つわからない。
論理学者は何とかして宇宙人の現地語を理解しようとして、観察を重ね、次のことを発見する。
宇宙人にとって、頷く、首を振るというジェスチャーはわれわれと同じことを意味するらしい。首を縦に振れば肯定であり、首を横に振れば否定である。
この手がかりを使って次のようなことを発見した。雨が降っているときに、しかも雨が降っているときだけ、宇宙人たちは宇宙語の「くぁwせdrftgyふじこlp」という文を真と見なすらしい。
「くぁwせdrftgyふじこlp」と聞くと首を縦に振り、肯定してくれる。
ここから導かれる解釈は「くぁwせdrftgyふじこlp」は、宇宙人語で「雨が降っている」を意味するということだろう。
デイヴィドソンはここからもう少し複雑な議論を行なっていて、単純な文の真偽だけではなく、もっと複雑な文の構造を分析する方法についても論じている*。というかそれがメインである。
しかし基本的なストーリーは上のようなものだ。
ここで考えてみよう。
上のストーリーには、必要な前提が2つある。
- (1)宇宙人がどの文を真と見なしているかがわかる。
- (2)宇宙人は、雨が降っていることを理解している。
(1)が満たされていなければ、上のストーリーがまったく成り立たないのは明らかだろう。要するに宇宙人の「肯定」「否定」がわからないとまったく手がかりがない。
また、仮に雨が降っていても、宇宙人が「雨」という概念を理解できない人たちだったら、やっぱりこのストーリーは成り立たない。宇宙人は、われわれと基本の概念が一致していて、雨が降ってるのを見て「雨が降っている」と認めるくらいに人間に近い生き物でなければならない。つまり宇宙人はわれわれによく似た信念を持っていなければならない。
別に宇宙人の信念について「こういう信念を持っているはずだ」とまで仮定を持ち込む必要はないが、「なるべくわれわれに近い世界観を持っているように、なるべく整合的になるように解釈してやる」という原則を認めれば、言葉の意味を解釈できるようになる。
■ みんな大体同じような世界観を持っている
(1)(2)が満たされれば、上のストーリーのようなやり方を通じて、宇宙語を理解できるようになる。ここまではよいとしよう。
しかしデイヴィドソンが何とか趣向を凝らして論証しようとしているのはこれよりさらに強い主張だ。
T1: これは他人の言葉を理解するための必要条件である。
つまり、共通の世界観(信念)や「真」の概念に訴えかけないかぎり、われわれには他人の言葉を理解する方法がない。それらのリソースは、他人の言葉を理解するためのほとんど唯一の手がかりなのである。
思うに、デイヴィドソンの議論をもって「こういうやり方で言語を理解することが可能だ」とするのはそれなりに説得力のある主張だ。しかし、「言語を理解するためには真理や信念に訴えることが絶対に必要だ」とまで論証できているのかどうかはよくわからない。しかしおそらくデイヴィドソンはそう考えているように思われる。
これはかなり強力な主張だ。これを認めると、(1)(2)は、「他人の言語を理解する」の必要条件ということになる。つまり何らかの言語をわれわれが理解しているなら、(1)(2)の前提は必ず満たされている。
「だから本当は他人の言葉など理解できないんだ」と言いたいわけではない。逆だ。たとえばわたしが日本語を理解しているというのは自明な前提である。デイヴィドソンは、そこから、言葉が通じるすべての人とわたしは、きわめてたくさんの世界観を共有しているという結論を引き出そうとしているのである。
- A. われわれは他人の言葉を大まかに理解している。
- B. われわれは他人が信じている世界観を大まかに理解している。
AもBも日常生活ではそれなりに成り立っているように見える。しかし、ふつうはこの2つは偶然両方とも成り立っているのであって、どちらか1つだけ欠けてもおかしくないかのように思われている。それに対し、デイヴィドソンはAとBは同時にしか成り立たないと言っているのである。
もっと言えば、相手の言葉を理解できるのに、世界が根本的に違うことなどない、しかも、ないというだけではなく、それは論理的に不可能だと言っているのである。
相手の言葉を理解することは、相手と自分が「大体同じような世界観を持っている」という前提のもとで、はじめて可能になる。
■ 信念は大体正しい
さらに強い主張もここから導かれる。
T3: われわれの信念のほとんどは真である。
ここまでの議論を認めたとしよう。
これを認めると、「基本的な世界観を共有していない人たちのことは、思考できない・想像もできない」ということになる(少なくとも、それはわれわれがコミュニケーションを取れるような生物ではない)。
以上を認めた上で、われわれの信念のほとんどが間違っていると仮定して矛盾を導こう。
「われわれの信念が間違っている」状況について具体的に考えていくと、われわれは「雨が降っている」と思っているが、実際には雨は降っていない。われわれは「地球は回っている」と思っているが、実際には地球は回ってない...などとなる。
あれ?
これって、たった今「不可能」と結論したばかりのこと、「基本的な信念を共有していない人たちについて考えること」じゃないだろうか? 今の仮定のなかでは、雨が降っていないということになっていたのに、「仮定の中のわれわれ」は雨が降っていると思っている。また「仮定の中のわれわれ」は地球は回っていないのに、地球が回っていると思っている...など。「仮定の中のわれわれ」とその仮定について考えているわれわれは少しも信念を共有できていない。
要するに、われわれの信念のほとんどが間違っていると仮定すると、「基本的な信念を共有していない人たち」について考えざるをえなくなる。
となると「われわれの信念のほとんどが間違っている」という仮定は、思考可能でない、そもそも矛盾した状況である。
ゆえに、「信念のほとんどは正しい。われわれの考えている世界観は大体あっている」と考えなければならない。
以上の議論が信念の正しさの保証を与えることにはならないが、間違っているという事態を想像もできない・思考できないという結論がでた以上、そう考えるしかないだろう*。
「相手の信念と言葉の解釈が依存しあう」という、ある意味では当り前のように見える主張から、かなり強力な議論が出てきた。
これを認めると「他人が何を考えているかわからない」という他人の心に対する懐疑主義や、「われわれの世界観は大きく間違っているかもしれない」という真理に対する懐疑主義は、完全に間違っていることになる。間違っているだけでなく、そもそも想定している状況がすでに矛盾しているのである。
■ みんなかなり合理的だ
春秋社、2007
以上は主に『真理と解釈』などで展開された議論である。『合理性の諸問題』などの著作では、これに加え「欲求」や「価値」の問題がクローズアップされる。
(実際には『真理と解釈』にも似たようなトピックを扱った論文があるが)。
そこでは、根源的解釈の少し違ったバージョンがでてくる。
さきほどの論理学者がまた別の宇宙人社会に放り込まれたとしよう。
論理学者は今度は、肯定と否定を理解することはできなかったが、宇宙人の「うれしそうな顔」と「嫌がっている顔」を理解できるようになった。
これによって、宇宙人が2つの文の内、どちらを好むのかがわかるようになった。
デイヴィドソンによれば、これだけでも言語の理解は可能になると言う。
これは解説が結構面倒なので詳細は省く。意志決定理論の変形版を用いて、効用から主観確率(信念の強さ)を発見するためのテクニカルな議論が行なわれているということだけ知っておけばよいと思う。
信念の度合いを発見できれば、あとは「真と見なす」とほぼ同じ議論を展開できる。「真と見なす」が「3/4の確率で真と見なしている」などの形に変わるが、それでもあまり議論が変わらないことはイメージできるのではないだろうか。
ここで必要なことは、宇宙人が意志決定理論の仮定からそれほどずれないような合理性を持っていることである。
具体的に言うと、多少われわれと好みがちがうくらいなら問題ないが、トートロジーをはげしく希求したり、論理的に不可能なことを希求するような宇宙人は困る。
「明日が雨であるか雨でないかどちらかであってほしい!」みたいな人がいると、解釈に困難をきたすと思われる。
Richard C. Jeffrey (著)
Univ of Chicago Pr (Tx),1990
なおデイヴィドソンの意志決定理論はこの本で展開されたものの応用である。
わたしも原本にあたったわけではないが、デイヴィドソンの本を読むかぎりだと、通常の意志決定理論のように「賭け」に対する選好を考えるのではなく、「命題」に対する選好を考えることで、論理学と相性のよい体系になっているようだ。
■ 最後に
最後におすすめのFirefoxプラグインを3つ紹介する。残念ながらデイヴィドソンとは無関係である。
HTMLを書くとき、CSSを書くとき、JavaScriptを書くときに便利です。便利っていうか、これが無いとHTMLもCSSもJavaScriptも書くのが大変困難。
携帯サイトをつくるときに便利です。PC上で絵文字の表示もできます。
HTTPヘッダを確認したいときに便利です。同様の機能はProxomitronなどにもあるが若干こちらの方が見やすい気がしないでもない。
- 『意味と様相(上)』
飯田 隆 (著)
勁草書房、1989
言語哲学大河入門書(?)シリーズその2。
実は3しか読んでいなかったので2もはじめて読んだ。
本巻では、論理実証主義、初期ウィトゲンシュタイン、クワインの言語哲学が解説・検討される。
目次
- 序章 必然性小史―アリストテレスからフレーゲまで
- 分析的真理と言語的必然性(論理実証主義の言語哲学)
- 規約による真理
- 分析性の退位―「経験主義のふたつのドグマ」
2章「規約による真理」はかなりの難物。むずかしかった。
「数学的真理は規約によって真である」「論理的真理は規約によって真である」という主張がそれぞれに検討され、さまざまな困難が指摘される。
結論としては両者とも「かなりのブレイクスルーがないかぎり無理」というところだろうか。
言い方を変えれば、「数学の哲学、論理学の哲学においてプラトニズムを避けることがいかに困難であるか」*。
ここで「プラトニズム」とは、「自然数」「集合」「命題」のような抽象的なものが、端的に存在するという立場**。
Theodore Sider, John Hawthorne, Dean W. Zimmerman
Blackwell Pub、2007
ちょうど勉強会で読んでいた論文が「抽象的なものは存在するか」というテーマだったせいもあって、これについて考えていたが、なかなか難しい。
当初の印象では「これは疑似問題ではないのか?」「よほど特殊な立場でないかぎり簡単に片がつきそう」「こんなこと考えて何になるのか」という思いもあったのだが、考えれば考えるほど迷宮入りしてくる。個人的には「存在する派」も「存在しない派」もどちらも直観に合う部分と合わない部分があって、態度決定しがたいなどと思っていたら、考えている内に本当にわけがわからなくなってきた。
飯田氏自身も、論理的必然性については何らかの言語的規約によるものだと考えたいらしいのだが、規約による真理説は、ここでの議論で完膚なきまでに叩きつぶされているように思える。著者自身「哲学のなかに『決定的な』議論といったものがありうるとするならば、それにきわめて近いもの」であるとまで言っている*。
「ウィトゲンシュタイン的」な根源的規約説なるものは、しりぞけられていないことになっているが、これはほとんど反則技というか、規約という概念を無意味なまでに空虚にすることで成り立つ説であるように思える。言っていることは「規約はあるけど、実態としては何でもあり」に近いように見える。直観に反するという点では、プラトニズムとあまり変わらないのではないか。
明示的な規約に替えて、「暗黙的な慣習(convention)」を導入すれば、議論の全体像が少しは変わるのではないかと思わないでもないが、いずれにせよ難しい問題である。
以下、どうして抽象的なものが存在すると考えたくなってしまうのか、簡単に書いてみる。
「自然数」を例にあげる。
トリビアルな意味で自然数が「存在する」のはほぼ問題ない。「自然数が存在する」などという形の命題が取り上げられることは滅多にないが、それは日常的にも受け入れられている多くの命題にとって論理的帰結であったり前提であったりする。
黒いカラスが存在する。
から
カラスが存在する。
を導くのは、妥当な論理的推論だろう。
同様に、
2以上10以下の自然数が存在する。
から
自然数が存在する。
を導くのは、妥当な論理的推論だろう。
また「自然数が存在する。」が偽なら、「2以上10以下の自然数が存在する。」も偽でなければならない。
トリビアルに存在するからと言って本当に存在するわけではないよと言いたい気もするのだが、トリビアルな側を認めつつ、うまいこと抽象的なものの存在だけを除去しようとしてもなかなかうまくいかない。この「トリビアルな意味では存在する」が意外と手強い。
プラトニズムに反する説として次のようなものがある。
「数学が扱うのは抽象的な構造にすぎない。」であるとか「数学は便利な虚構である。」という言い回しに見られるような考え方だ。これはよくある考え方であるし、個人的にはこれが実感に合う気もするのだが、以下の議論には唸らされた。
「抽象的な構造」説、つまり数学とは「もしもこれこれの公理を満足する構造が存在するならば、その構造はしかじかの性質をもつ」ということだけを確立する営みであるという説を取り上げ、飯田氏は以下のような議論を展開している(p146-)。
数学がこうした意味での抽象的な構造を扱うものだとしよう。自然数とは、「自然数論の公理を満すもの」という抽象的な規定にすぎない。
しかし、ここで言う「これこれの公理を満足する構造」は空集合であってはならないはずだ。もしこれらの公理を満たすものが1つもないならば、理論は空虚に真であり、理論の妥当性はどうでもよいことになってしまう。
問題は「そんな公理を満たすものが本当にあるだろうか?」という点である。何しろ、自然数や集合論や実数の公理を満たすものは無限でなければならない。しかし、自然界にそんなものが本当にあるのだろうか? 数学的対象以外に無限なものなんてあるだろうか?
(カントは時間と空間を無限の例としたそうだが、現代においてはそんなことは物理学者の研究によって明らかになることであって、哲学者が勝手に「アプリオリに真」などと決めつけるべきことではないだろう、とも)。
これに対し、うまい答え方はないものかと思うのだが、まったく思いつかない...。
唯名論者の側もすごい。
ハートリー・フィールドという人は、唯名論を擁護するために『Science Without Numbers』という著作で、自然数の存在を前提せずにニュートン力学を再構成したそうだ。詳細はわからないが、とてつもない作業に思える。しかしこれを聞くと逆に、唯名論というのはそんな努力を踏まなければ擁護できないのかと不安になる。
個人的な感慨以上のものではないが、プラトニズム(実在論)の問題点は、仮にそれが正しいとしても、それがどういう意味なのかよくわからないというところにあるのではないか。
「自然数は(or実数はor集合は)存在する」という主張が正しいとしても、「直接目で見ることもできないし、触れることもできないし、時空間のなかに場所を持つこともないけれど存在する」というのはいったいどういう意味なのだろう。天上にイデア界のような場所があり、そこには自然数が鎮座していて...などと考えると少しイメージが湧くが、メタファー以上のものではないだろう。
どういう意味も何も、その通りの意味だよと言われてしまいそうだが、腑に落ちないものは仕方ない。
たとえば命題「自然数は存在する」を認めると、結果としてどんな世界観を持つことになるのか。
そこまで含めて展開されないと、なかなか納得しがたかったりする。
たとえば「自然数や集合は存在するか」という問いを「数学はいかなる意味でリアルであるか」という問いに変えることはできるだろうか。
どうしてこの宇宙の中で自然数論や実数論や集合論を使った議論がうまくいくのかという方向で考え、「ほら、この宇宙ってこういう自然法則が成り立つからさ、だから数学の応用可能性がなりたつんだよ」とか。
いや改めて考えるとこれじゃダメかもしれない。自然数論とかそこまで応用可能性があるわけじゃないようだしなあ。
むしろ人間の認知や実践の部分に自然数を「使いたくなる」ような傾向があると考える方がよいのだろうか。しかしそうなると、「自然数」は人間にとって便利なだけの虚構であり、「数学的真理は文字通りに真であり、自然数がトリビアルに存在する」という直観の方は捨てなければならないかもしれない。
...などといろいろ考えるが、迷宮入りするばかりで、さっぱり考えがまとまらない。
■ 文献
- [B]Field, Hartry H. Science Without Numbers
- [B]Putnam, Hilary. Mathematics, Matter and Method: Philosophical Papers, vol. 1. Cambridge: Cambridge University Press, 1975
- [B]Sider,Theodore. Hawthorne, John. Zimmerman, John. Dean W.(編) Contemporary Debates in Metaphysics, Blackwell Pub, 2007
飯田隆
勁草書房、1987
ようやく読んだ。
フレーゲとラッセルの言語哲学に対する丁寧な注釈。おもしろい。
今見ると、フレーゲとラッセルの読解が丁寧なのはもちろんだが、同時代の英語圏の潮流を睨みながら書かれていることがわかる。
注などに頻出する名前は、マイケル・ダメット、G.エヴァンズ、ベイカー&ハッカー。
巻末のクイズについて。
最後に、本文を読み終えた読者のためにクイズをふたつ。(...)
- 1フレーゲの「Bedeutung」を「指示」と訳すのは、なぜまずいのか?
- 2ラッセルの「denote」を「指示する」と訳すのは、なぜまずいのか?
これらふたつのクイズに答えられれば、本文の理解は十分であると保証する。
p251
はじめいい加減に読み流していたらわからなかったので読み直した。
フレーゲの方はあまり自信がない。
クイズ1の解答:
フレーゲが掲げた「文脈原理」の方針を忠実に守るなら、語のイミ(Bedeutung)に先立って文のイミ(Bedeutung)を決定すべきである。
まず合成原理に従って「文のイミが真理値であるという。」という主張が擁護され、次に「文のイミ」を決定するために貢献する要素を「語」の中に探し求めるべきである。以上のような過程を踏んではじめて「語のイミはその指示対象である。」という主張が擁護される。「語のイミはその指示対象である。」という主張は、文のイミからの推論であり、こちらが前提であってはならない。
しかるに「Bedeutung」を「指示」と訳すと、「語のイミはその指示対象である。」という結論を先取りしてしまうことになる。
ゆえに「Bedeutung」を「指示」と訳してはいけないのである。
クイズ2の解答:
ラッセルにとって『表示(denote)』の問題とは、指示一般の問題とは区別される特殊な問題である。
表示の問題とは以下のような問題である。
『数学の原理』の時代のラッセルにとって、「概念」と「物」は異なった種類の対象である。「ラッセル」「フレーゲ」のような個人の名前は「物」を指示し、「白い」「人間である」などの述語は「概念」を指示する。
しかるに「ある男」「すべての人」などの表現が指示するのは概念である。固有名以外の表現はすべて基本的に概念を指示するのであるし、「ある男」「すべての人」などは、特定の物を指示する表現ではない。にもかかわらず「わたしは昨日ある男に会った。」という文は、わたしが人物に会ったことを述べており、わたしが「概念」に会ったことを述べているわけではない。つまり、概念「ある男」が文中で物を代理しているのである。
このようにして、「概念が物を代理する」という特殊な関係を「表示」と呼ぶ。また物を指示するような特殊な概念を「表示概念」、表示概念を指示する言語表現を「表示句」と言う。
「概念」の存在を前提しない中立的な表現で定式化しなおすならば、
「表示句は直接特定の物を指示する表現ではないにもかかわらず、文中で使用される場合には、物の代理をつとめているように見える。」
これが「表示」の問題である。
ラッセルにとっての「表示denote」の問題とは、以上のような特殊な現象であり、指示一般の問題とは異なる。
ゆえに「denote」を「指示する」と訳してはいけないのである*。
■ 文献
- [B]M. Dummett, Frege: Philosophy of Language. 1973(2nd ed. 1981), Duckworth.
- [B]M. Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy. 1981, Harvard University Press.
- [B]M. Dummett, "Can analytical philosophy be systematic and ought it to be?" in Truth and Other Enigmas. 1978, Duckworth.
- [B]G. Evans, The Varieties of Reference. 1982, Clarendon Press.
- [B]G.P. Baker & P.M.S. Hacker, Language, Sense & Nonsense. 1984, Basil Blackwell.
昨年の内に振り返りそこねたので今ごろ昨年を振り返る。
2008年にわたしが何をなすべきだったかと言えば、まずは「新社会人としてうまくやっていくこと」だったのではないかと。
これについては悪くない結果であると思う。
今のところ会社でもそこそこうまくやっているし、働きながら自分の好きなことを勉強をしたり課外で活動したりなども一応できている。
これについてはもちろん来年もがんばりたい。昨年末に炎上ぎみのプロジェクトに割り当てられてしまったのだが、うまいことこれを完遂しつつ、関係ないこともどんどんやりつつ、なるべく夜は定時に帰るようにしたい。
2008年の自ブログを見直してみると、就職したばかり頃は記事に余裕がない感じがするなあと思う。
最近は、まとまった記事が多いですね(戯言はミニブログに吐き出すようになったためかと思われる)。
例年新刊はあまり読まないのだが、昨年購入しておもしろかった新刊をあげるなら、以下の3冊など。
今年はもう少し小説を読むようにしようかな。
あともう少し将来の身の振り方を考えるようにしよう。
「小説を読む」「数年先の将来を考える」を今年の目標にしたい。








