前置き

タイトルはホッテントリメーカーから。

最近ちょこちょこデイヴィドソンの論文を読み返したり読んだりしていたので、デイヴィドソンについて書いてみる。

以下はデイヴィドソン研究者でもなんでもないわたしの理解であるし、しかも「こういった言い方の方がわかりやすいだろう」というわたしバイアスのかかったアレンジをくわえてある。

読者諸氏はそのことに注意されたい。

なおT1,T2,T3という記号が振られたテーゼはデイヴィドソンがあまりはっきり書いてないが、はっきり書いた方がわかりやすいと思ってわたしが付け加えたテーゼである。



まず図を書いてお茶を濁す。


radicalinterpretation.png


デイヴィドソンは「根源的解釈」と呼ばれる思考実験的なシチュエーションを好んで用いてきた。これはクワインのパクりであり、クワインの「根源的翻訳[Radical translation]」から取って「根源的解釈[Radical interpretaion」と呼ばれている。

根源的解釈のシチュエーションは以下のように設定されている。

  • 言語学者が何の手がかりも無い未知の言語を理解しようとしている。
  • 言語学者が利用できるリソースは非常に制限されている。
  • 彼はさまざまな形式的理論(述語論理や意志決定理論)に訴えかけてこの未知の言語を理解しようとする。

言語学者は、人間というより解釈マシーンのように振舞い、少ない手がかりを使って、未知の言語の解釈を組み立てる。

問題になっているのは、「解釈マシーンにどんな理論と情報を与えれば、未知の言語を理解できるようになるか」ということである。


重要なことは、こういう非現実的な状況を想定することで、デイヴィドソンは何を論じようとしているのかということである。

思うに、これには2つの方向性がある。


(1)哲学的目的

デイヴィドソンの目的の1つは、他人の言葉を理解するという状況、つまりコミュニケーションに課せられた制約を明らかにすることである、とわたしは思う。

思考実験に出てくる言語学者は、不自然なまでに形式理論に熟達しており、誤りの可能性もなく、与えられたリソースをすべて有効に使おうとする。

こうした状況は非現実的だが、この言語学者=解釈マシーンに可能なことは他の人間にとってもおそらく原理的に可能なことであり、この言語学者にとって不可能なことはおそらくわれわれにとっても不可能である。要するに、こういう極端な状況を設定することで、他人の言葉を理解する上でそもそも可能なこと・不可能なことを明らかにしようとしているのである*。

* 哲学者がよく使う言葉(デイヴィドソンも多用している)を使えば「言語の解釈がいかにして可能になるか」を明らかにしようとしているらしい。


(2)科学的目的

根源的解釈は、哲学的議論のためだけではなく、経験科学のプログラムとして設定されたものでもある(いわゆる「デイヴィドソンのプログラム」)。

デイヴィドソンの提案は、こういう状況設定から出発して、(自然言語の)意味論をやろうぜということである。デイヴィドソンの言うことが正しければ、意味論をやっている途中で心理学のようなことや社会学のようなことも一緒にやらなければならなくなるが、それも一緒にやろうぜということである(これがいわゆる「統一理論」)。

最近の展開についてはよく知らないが、デイヴィドソニアンな言語の研究は、後進の哲学者などを中心に多少は行なわれているらしい。日本でも飯田隆氏が少し試みていますね。


見えるもの 見えないもの
文の発話 言葉の意味
人がある文を真と見なす 信念
人がある文を別の文より選好する 欲求

さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。

デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。

わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。


さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。

一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味がわからなくても何となくわかるだろ、ということになっている。


デイヴィドソンの結論は、「真と見なす」「良いもの/悪いものと見なす(選好する)」という目に見える要素に加えて「信念」「欲求」にいくつかの一般的な原則を仮定すれば、言葉の意味がわかるようになるというものだ。また、3つの内どれか1つがわかれば残りの2つもわかるようになるというものだ。




論理学者と宇宙人

真理と解釈

勁草書房、1991


以下、上の根源的解釈の話を論理パズルっぽい設定で簡単に説明してみよう。これらの議論は主として上の『真理と解釈』などの著作で展開されている。

デイヴィドソンがよく使うのは「未知の社会と言語学者」という設定だけど、「宇宙人と論理学者」にした方がそれっぽいと思うので、そう変えてみた。

ある論理学者が未知の言語を話す宇宙人社会に放り込まれた。論理学者にとって、宇宙人の言葉は何一つわからない。

論理学者は何とかして宇宙人の現地語を理解しようとして、観察を重ね、次のことを発見する。

宇宙人にとって、頷く、首を振るというジェスチャーはわれわれと同じことを意味するらしい。首を縦に振れば肯定であり、首を横に振れば否定である。


この手がかりを使って次のようなことを発見した。雨が降っているときに、しかも雨が降っているときだけ、宇宙人たちは宇宙語の「くぁwせdrftgyふじこlp」という文を真と見なすらしい。

「くぁwせdrftgyふじこlp」と聞くと首を縦に振り、肯定してくれる。

ここから導かれる解釈は「くぁwせdrftgyふじこlp」は、宇宙人語で「雨が降っている」を意味するということだろう。

デイヴィドソンはここからもう少し複雑な議論を行なっていて、単純な文の真偽だけではなく、もっと複雑な文の構造を分析する方法についても論じている*。というかそれがメインである。

* 本当はデイヴィドソンの主張は言語に対する全体主義であり、1つの文の意味は他のさまざまな文との関係によって規定されるものである。だから1つの文だけを取り出して論じるのはよくない。また、「真」に着目することで、言葉の意味の合成性(簡単な単語や文節を組み合わせてより複雑な文を生み出す)を分析していくべきであるというのがデイヴィドソンの主要な主張である。そういう意味でもこの単純すぎる例はよくない。


しかし基本的なストーリーは上のようなものだ。


ここで考えてみよう。

上のストーリーには、必要な前提が2つある。

  • (1)宇宙人がどの文を真と見なしているかがわかる。
  • (2)宇宙人は、雨が降っていることを理解している。

(1)が満たされていなければ、上のストーリーがまったく成り立たないのは明らかだろう。要するに宇宙人の「肯定」「否定」がわからないとまったく手がかりがない。

また、仮に雨が降っていても、宇宙人が「雨」という概念を理解できない人たちだったら、やっぱりこのストーリーは成り立たない。宇宙人は、われわれと基本の概念が一致していて、雨が降ってるのを見て「雨が降っている」と認めるくらいに人間に近い生き物でなければならない。つまり宇宙人はわれわれによく似た信念を持っていなければならない。

別に宇宙人の信念について「こういう信念を持っているはずだ」とまで仮定を持ち込む必要はないが、「なるべくわれわれに近い世界観を持っているように、なるべく整合的になるように解釈してやる」という原則を認めれば、言葉の意味を解釈できるようになる。




みんな大体同じような世界観を持っている

(1)(2)が満たされれば、上のストーリーのようなやり方を通じて、宇宙語を理解できるようになる。ここまではよいとしよう。

しかしデイヴィドソンが何とか趣向を凝らして論証しようとしているのはこれよりさらに強い主張だ。


T1: これは他人の言葉を理解するための必要条件である。


つまり、共通の世界観(信念)や「真」の概念に訴えかけないかぎり、われわれには他人の言葉を理解する方法がない。それらのリソースは、他人の言葉を理解するためのほとんど唯一の手がかりなのである。

思うに、デイヴィドソンの議論をもって「こういうやり方で言語を理解することが可能だ」とするのはそれなりに説得力のある主張だ。しかし、「言語を理解するためには真理や信念に訴えることが絶対に必要だ」とまで論証できているのかどうかはよくわからない。しかしおそらくデイヴィドソンはそう考えているように思われる。


これはかなり強力な主張だ。これを認めると、(1)(2)は、「他人の言語を理解する」の必要条件ということになる。つまり何らかの言語をわれわれが理解しているなら、(1)(2)の前提は必ず満たされている。


「だから本当は他人の言葉など理解できないんだ」と言いたいわけではない。逆だ。たとえばわたしが日本語を理解しているというのは自明な前提である。デイヴィドソンは、そこから、言葉が通じるすべての人とわたしは、きわめてたくさんの世界観を共有しているという結論を引き出そうとしているのである。


  • A. われわれは他人の言葉を大まかに理解している。
  • B. われわれは他人が信じている世界観を大まかに理解している。

AもBも日常生活ではそれなりに成り立っているように見える。しかし、ふつうはこの2つは偶然両方とも成り立っているのであって、どちらか1つだけ欠けてもおかしくないかのように思われている。それに対し、デイヴィドソンはAとBは同時にしか成り立たないと言っているのである。


もっと言えば、相手の言葉を理解できるのに、世界が根本的に違うことなどない、しかも、ないというだけではなく、それは論理的に不可能だと言っているのである。

相手の言葉を理解することは、相手と自分が「大体同じような世界観を持っている」という前提のもとで、はじめて可能になる。




信念は大体正しい

さらに強い主張もここから導かれる。

T3: われわれの信念のほとんどは真である


ここまでの議論を認めたとしよう。

これを認めると、「基本的な世界観を共有していない人たちのことは、思考できない・想像もできない」ということになる(少なくとも、それはわれわれがコミュニケーションを取れるような生物ではない)。

以上を認めた上で、われわれの信念のほとんどが間違っていると仮定して矛盾を導こう。

「われわれの信念が間違っている」状況について具体的に考えていくと、われわれは「雨が降っている」と思っているが、実際には雨は降っていない。われわれは「地球は回っている」と思っているが、実際には地球は回ってない...などとなる。


あれ?

これって、たった今「不可能」と結論したばかりのこと、「基本的な信念を共有していない人たちについて考えること」じゃないだろうか? 今の仮定のなかでは、雨が降っていないということになっていたのに、「仮定の中のわれわれ」は雨が降っていると思っている。また「仮定の中のわれわれ」は地球は回っていないのに、地球が回っていると思っている...など。「仮定の中のわれわれ」とその仮定について考えているわれわれは少しも信念を共有できていない。


要するに、われわれの信念のほとんどが間違っていると仮定すると、「基本的な信念を共有していない人たち」について考えざるをえなくなる。

となると「われわれの信念のほとんどが間違っている」という仮定は、思考可能でない、そもそも矛盾した状況である。

ゆえに、「信念のほとんどは正しい。われわれの考えている世界観は大体あっている」と考えなければならない。

以上の議論が信念の正しさの保証を与えることにはならないが、間違っているという事態を想像もできない・思考できないという結論がでた以上、そう考えるしかないだろう*。

* この「われわれの信念の多くは正しい」議論は結構強引でもあるし、強力すぎる主張だと思う。なので、これが正しいかと聞かれるとわたしもちょっと疑問を抱くが、おもしろい議論ではあると思う。なお、ここは結構難しいポイントなので、正直デイヴィドソン解釈としてもそんなに自信はない。


「相手の信念と言葉の解釈が依存しあう」という、ある意味では当り前のように見える主張から、かなり強力な議論が出てきた。

これを認めると「他人が何を考えているかわからない」という他人の心に対する懐疑主義や、「われわれの世界観は大きく間違っているかもしれない」という真理に対する懐疑主義は、完全に間違っていることになる。間違っているだけでなく、そもそも想定している状況がすでに矛盾しているのである。




みんなかなり合理的だ

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

春秋社、2007


以上は主に『真理と解釈』などで展開された議論である。『合理性の諸問題』などの著作では、これに加え「欲求」や「価値」の問題がクローズアップされる。

(実際には『真理と解釈』にも似たようなトピックを扱った論文があるが)。


そこでは、根源的解釈の少し違ったバージョンがでてくる。

さきほどの論理学者がまた別の宇宙人社会に放り込まれたとしよう。

論理学者は今度は、肯定と否定を理解することはできなかったが、宇宙人の「うれしそうな顔」と「嫌がっている顔」を理解できるようになった。

これによって、宇宙人が2つの文の内、どちらを好むのかがわかるようになった。


デイヴィドソンによれば、これだけでも言語の理解は可能になると言う。

これは解説が結構面倒なので詳細は省く。意志決定理論の変形版を用いて、効用から主観確率(信念の強さ)を発見するためのテクニカルな議論が行なわれているということだけ知っておけばよいと思う。


信念の度合いを発見できれば、あとは「真と見なす」とほぼ同じ議論を展開できる。「真と見なす」が「3/4の確率で真と見なしている」などの形に変わるが、それでもあまり議論が変わらないことはイメージできるのではないだろうか。

ここで必要なことは、宇宙人が意志決定理論の仮定からそれほどずれないような合理性を持っていることである。

具体的に言うと、多少われわれと好みがちがうくらいなら問題ないが、トートロジーをはげしく希求したり、論理的に不可能なことを希求するような宇宙人は困る。

「明日が雨であるか雨でないかどちらかであってほしい!」みたいな人がいると、解釈に困難をきたすと思われる。


The Logic of Decision

Richard C. Jeffrey (著)

Univ of Chicago Pr (Tx),1990


なおデイヴィドソンの意志決定理論はこの本で展開されたものの応用である。

わたしも原本にあたったわけではないが、デイヴィドソンの本を読むかぎりだと、通常の意志決定理論のように「賭け」に対する選好を考えるのではなく、「命題」に対する選好を考えることで、論理学と相性のよい体系になっているようだ。



最後に

最後におすすめのFirefoxプラグインを3つ紹介する。残念ながらデイヴィドソンとは無関係である。


HTMLを書くとき、CSSを書くとき、JavaScriptを書くときに便利です。便利っていうか、これが無いとHTMLもCSSもJavaScriptも書くのが大変困難。


携帯サイトをつくるときに便利です。PC上で絵文字の表示もできます。


HTTPヘッダを確認したいときに便利です。同様の機能はProxomitronなどにもあるが若干こちらの方が見やすい気がしないでもない。

コメント(2)

# Ativan

Save up up to 50, and more. Generic best price Ativan
And at the end don't forget to say thanks amigo

(2009/06/ 4 21:10)
# Fioricet

This combination drug product is intended as a treatment for tension headache.

It consists of a fixed combination of butalbital, acetaminophen, and caffeine. The role each component plays in the relief of the complex of symptoms known as tension headache is incompletely understood.

(2009/06/29 10:31)

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