2009年2月

価値判断の相対主義についてのメモ。

Twitterで「生得説が本質主義だとかよくわからんことを言うやつがいるが、むしろ相対主義じゃね?」とつぶやいていたら意外に感じる人が多いようであったし、つぶやいていたらちょっと考えがまとまったのでメモしておく。

主なテーマは「価値判断に関する諸々の立場の整理」および「価値判断の相対主義はいつ深刻なのか」。

この手の議論に詳しいわけではないので的をはずしているかもしれないが、あくまで自分用メモ。

本当はもっと軽い感じでまとめられればよかったが、書いている内にこむずかしい内容になってしまった。


ここで「価値判断」と呼ぶのは、道徳的判断、美的判断などをひっくるめて、「何かを他のものより良いとする」判断のこと。

実際には、「道徳的判断は普遍的だが、美的判断は普遍的じゃない」とか、それぞれの判断について異なる見解が導かれるかもしれないが、とりあえずどんな立場がありうるか整理しておきたい。


Twitterログ

at_akada:たまに生得説を本質主義と呼ぶ人がいるが、その感覚がよくわからない。進化の偶然的歴史に依存する人間の生物学的特徴に何かを還元するのって、どっちかというと相対主義じゃないだろうか。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232741424

at_akada:道徳は文化によって決まる→道徳は文化に相対的。道徳は人間の生物学的特徴によって決まる→道徳は種に相対的。この2つは「程度の違い」にしか見えない。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232750770

at_akada:問題は宇宙人にどんな道徳を適用すべきかということですよ。そこではじめて明らかになる生得説の相対性。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232797225

at_akada:「道徳的判断(or美的判断...etc)は善というイデアールな実在に対する言明なので、相手が宇宙人だろうと何だろうと普遍的に一致する」というのが本当の本質主義。種に関する相対主義とはまったく違う。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232857944

生得説の相対性は、わたしの感覚からすると当然である。だって人間の体のしくみって進化の偶然的歴史の産物なわけで、そんなものに依存する判断が「本質的」であるはずがない。

(ただし、何ステップか手続きを踏めば、生得説が本質主義になることもありえると思う)。


ただし、わたしはここで「本質主義」という言葉をラフに使っている。「本質主義」という呼び名は「道徳的判断は善というイデアールな実在についての言明である」などの見解のために取っておくべきもののように思う。

ここではむしろ「妥当性の相対性と普遍性」のみを問題にしたい。

これについて実際には、「価値判断は何であるか」、「価値判断の客観性」(検証可能性)、「価値判断の妥当性」(真理条件)など様々な側面が絡み合うように思われる。


たとえば、「価値判断は相対的であるが、客観的である」というのは整合的な立場である。むしろ反対に相対主義は、客観性を要求するように思われる。

「価値判断は文化に相対的」という主張は、「それぞれの文化の内部において、価値判断を客観的に検証できる」という前提が無いと成り立たないのではないだろうか。




個人的なものと普遍的なもの

まず、個人的価値判断と普遍的価値判断を分けておくべきだろう。

個人的価値判断とは、「トマトジュースはわたしにとって好ましく感じられる」などのように、妥当性が問題にされないような判断のこと。線引きの基準をどこに置くかは立場によって変わるだろうが、個人的な価値判断については定義上他人が妥当性に疑問をさしはさむべきではない。

以上は単なる用語法の問題。

たとえば、「料理の好みに対する言明でさえ、他人に対する価値のアピールであり、普遍的妥当性を要求する」という立場はありえるだろう。しかしその場合当の論者は「料理の好みは個人的価値判断ではない」と主張しているものと考えたい。


しかし普遍的妥当性を要求されない個人的価値判断が「間違っている」ことは依然ありえるように思われる。

たとえば、

「aさんはトマトジュースは好ましいと言っていたが、aさんがトマトジュースだと思って飲んでいたのはオレンジジュースであり、それゆえ好ましいと判断されたものはオレンジジュースである」

という場合。しかしこれは、価値判断の妥当性を問題にしているわけではない。

むしろ「トマトジュースは好ましい」という主張の「トマトジュース」の部分に関する解釈を変更したと言う方がふさわしいようにも思われる。


一方、個人的価値判断とは別に、普遍的価値判断というものがありえるように思われる。

「嘘をつくのはよくない」「殺人はよくない」「この絵は美しい」などの場合。

これについても線引きは様々でありえるだろうが、多かれ少なかれ、「自分にとっての価値」というより、他の人にも当てはまるような普遍的な価値について述べているように思われる。


個人的判断は定義上妥当性が問題にならないので、価値判断の妥当性が問題になるのは後者の事例にかぎる。要するに、こうした場合のみ「その判断は間違っている」ということを問題にできる。

相対主義というものがありえるとすれば、後者の型の価値判断についてのみだろう。


なお、以上より、普遍的価値判断は真理値を持つものと考えたい。妥当性=真理値というわけでは必ずしも無いだろうが、妥当性を判断できる以上、「真/偽のようなもの」を持つと考えるのはそれほど変ではないように思われる。ひょっとするとそれは本来の真理値とは別の「疑似真理値」かもしれないが、それもひっくるめて真理値と呼ぼう。

「情緒説」に代表されるような、「価値判断は真理値を持たない」という説は、「普遍的価値判断の事例は存在しない」という説として理解する。




傾向性と妥当性

次に、諸々の価値判断について、

  • 「われわれが現に『良い』としているもの」と
  • 「『良い』とすべきであるもの」

を区別できるように思われる。

前者については、「どんなものを『良い』とするのか」という、いわば価値判断の傾向性が問題になっている。

後者については、「なにを『良い』とすべきか」という、価値判断の妥当性が問題になっている。


両者はまったくの無関係では無いかもしれないが、「人間が良いと判断している多くのものの大半は実際には悪いものであり、判断を変更すべきである」という主張はひとまず意味を為すように思われる。そして価値判断の相対性と普遍性が問題になるとすれば、後者の側面についてであろう。


「人間はまったく多様な価値判断を行なっており、何を善とするか(何を美とするか/何を快とするか)はまったくバラバラである」という主張は、「それを是とすべきである」という主張を伴なわないかぎり、特にインパクトはない。

たとえば、「道徳的判断は現在のところ文化によって多様であるが、唯一正しい道徳的判断はXというものなので、Xの道徳的判断のみを是とすべきである」という主張のことを「道徳に関する相対主義」とは呼ばないだろう。少なくとも、そのような相対主義は「深刻」ではない。


ゆえに「価値判断についての相対主義」とは、「価値判断の妥当性についての相対主義」である。




相対主義

相対主義とは、価値判断の妥当性が何かに相対的であり、それゆえローカルなものだとする立場である。

「価値判断の妥当性は、文化に固有のものであり、それぞれの文化に相対的である」というのは文化相対主義。

「価値判断の妥当性は、時代に相対的である」というの時代相対主義。

「妥当性の基準は個人によって異なる」とするなら、個人相対主義。


文化相対主義を貫徹するなら、違う文化の人に対し、自らと同様の価値判断を要求すべきではない。

一方時代相対主義を貫徹するなら、異なる時代の人に対し、自らと同様の価値判断を要求すべきではない。


なお、個人相対主義と情緒説のような(主観性を主張する)立場はまったくの別物である。個人相対主義の場合、基準が個人に相対化されるだけであり、(検証可能性と妥当性判断の権限を認めるなら)他人がその妥当性を問題にすることもできる。

相対性と客観性はまったく異なる。「沸点は高度によって異なる(沸点は高度に対し相対的である)」という主張は、「沸点は主観的である」という主張ではない。


上記のように整理してみれば、生得説が相対主義であることはただちに見てとれる。

価値判断の妥当性の源泉を何らかの偶然的でローカルな対象に帰着する説はすべて相対主義なのである。


「価値判断の妥当性は、人間という生物種の固有の特徴によって決まる」という見解は、判断の妥当性の根拠を生物種の特徴に置くかぎり相対主義的である。

具体的に言えば、価値判断の妥当性が生物学的特徴に由来するならば、人間と異なるタイプの宇宙人には自らと同様の価値判断を要求すべきではないだろう。

(価値判断を人間という種に限定されたタイプの判断と捉え、そのような宇宙人が行なうことは「道徳的判断ではない」「美的判断ではない」などと考える立場はありえるだろう。この場合は、自動的にそれらの価値判断のローカルな妥当性が普遍的な妥当性と一致する)。




検証可能性と判定権限

ただし相対主義は、検証不可能性や実行権限限定の要求を伴なわないかぎり、ほとんど無害であり、ただちに普遍主義に吸収されるように思われる。

たとえば「昨日は雨が降っていた」という文の真偽は、日付に相対的である。

しかし、この「相対主義」が深刻な問題であり、対話の可能性を阻むものだなどと嘆く人は滅多にいないだろう。


妥当性がローカルな文脈に束縛されるという主張は、ローカルな文脈の特徴付けを一般的に扱うことさえできればほとんど問題にならない。

たとえば、沸点が高度に相対的であるとしても、われわれは気圧を測ることによって、沸点の算出をより普遍的な基準に統合することができる。その場合、ローカルな文脈に対する束縛は、より普遍的な判断基準にとっての「パラメーター」となるにすぎない。


価値判断が文化に相対的だとしても、文化の特徴付けから当の判断の妥当性を導き出す実効的な手順があれば、誰でも判断の妥当性を問題にすることができる。

その場合われわれは、この実効的な手順を足し合わせたもののことを、「価値判断の妥当性の基準」と呼び、普遍的に妥当する基準と考えるのではないか。

たとえば、「効用関数は文化によって異なるので功利主義は文化相対主義である」という主張は一応理解可能である。しかしこの主張は、効用関数の計算手続きが与えられしだい、より普遍的な基準に吸収されるように思われる。



むしろ問題は「価値判断の妥当性を判定する権利が誰に与えられるか」ではないだろうか。

「価値判断は文化に相対的である」という主張が何らかのインパクトを持ちうるのは、「それゆえ、当の文化の内部の人しか、価値判断の妥当性を判定できない」という主張が付加された場合である。

妥当性の検証可能性を問題にしているのであれば、まだしもアクセスの余地は残る。「当の文化の内情を知らないとよくわからないだろう」と言われれば、知れば済むことである。何しろ、当の文化内部の人たちは妥当性の判断をしているわけなので、原理的に検証不可能などということは無さそうである。

しかし、妥当性判定の実行権限を問題にしているならば---つまり、「当の文化内部の人にしか、価値判断の妥当性を判定する権利が無い」と主張するなら---、外部の人々には妥当性を問題にすることが原理的にできなくなる。


相対主義が深刻であるとされるのは、この場合のみであろう。

価値判断についての相対主義が深刻なものとなるのは、価値判断の妥当性を判定する権利がローカルな文脈の内部でのみ許される場合である。

たとえば、「割礼が悪であるかどうかの判断はユダヤ人にしかできない」という主張を考えてみよう。価値判断の相対主義が深刻なものとなるのは、このような場合であるように思われる。




結論

  • 価値判断に関する相対主義とは、価値判断の妥当性がローカルな文脈に束縛されるという立場である。
  • ただし、妥当性の判断が普遍的に開かれたものであるかぎり、相対性は無害である。
  • 価値判断に関する相対主義が深刻なものとなるのは、価値判断の妥当性を判定する権利が、ローカルな文脈の中に限定される場合である。

タイトルは再びホッテントリメーカーから。

だいぶ間が空きましたが、先日の記事について、はてなブックマークのコメント欄でやりとりがあったので稿を改めてここに書きます。間に引越しを挟んだのでずいぶん時間が経ってしまった。


まずid:contractioさんから「暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけではないか」という質問がありました。

(またこれに関連し、Twitter上でいくつかやりとりがありました。以下の記事はこの辺りのやりとりを踏まえたものです)。

それに対し、私は以下のように答えました。

「日常的に意識的な解釈の必要がないのは、すでに言語理解が完了しているからだ」という理屈になるのではないかと。>id:contractio

http://b.hatena.ne.jp/at_akada/20090130#bookmark-11885983



これに対し、以下のようなお返事がありました。

俺にはこういう議論の構図そのものが理解できないんだな。暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけだよね。/「完了している」は「理論構築」に意味がある為のフィクションでは?> id:at_akada

http://b.hatena.ne.jp/contractio/20090130#bookmark-11885983



まず、どうして上のように答えたのかを説明します。

contractioさんが言っていることが、

「他人の発言について、『こういう意味だろうか、それともこういう意味だろうか?』などと斟酌することは、常に行なわれているわけではないよね?」

という意味であれば、わたしはこれに同意します。その通りだと思います。

ただよくわからないのは、「いつも狭義の解釈をしているわけではない」という主張を、contractioさんがどうしてデイヴィドソンの主張に対置させたかということです。


ひょっとするとcontractioさんはデイヴィドソンの所説を「われわれはいつも根源的解釈をしている」という風に理解したのかと思い、「そうではない。われわれは架空の言語学者とはちがい、他人の言語を(おおむね)理解できる状況にある」という意味で「完了している」と言いました。根源的解釈は文字通り、「特殊な場面」であると思います。

ただ「完了している」という言い方はまずかったです。「われわれが過去に(たとえば乳幼児のころに)、根源的解釈のような作業を行なった」という風に聞こえてしまうからです。デイヴィドソンはそういう主張をしているわけではありません。


「根源的解釈はあくまで架空のシチュエーションであり、実際のコミュニケーションがああいう風に行なわれているわけではない」という件は確認しておくべきでしょう。

少なくとも根源的解釈の不自然さをもって、「だからデイヴィドソンの議論は間違っている」とするのは筋違いではないかと思われます。

(なお、ここが難しいのですが、何もわたしは「デイヴィドソンの議論を全面的に擁護したい」わけではありません。デイヴィドソンは好きな哲学者のひとりですが、「全面的に擁護」しようにもそもそもよく理解できない部分がたぶんにあります。「この議論は怪しげだ」と思う部分もあります。しかし答え方を間違えるとうっかり「全面的に擁護の布陣を張る」羽目になるかと思われるので、それだけは避けたいです)。



ここまでのまとめ

  • 「根源的解釈」は架空の状況であり、実際の言語理解がああいう風に行なわれるわけではない。



では、根源的解釈の思考実験は何を論じるものなのか?

テキストに立ち返って述べるなら、主要な論点は、「何を言えば、言語の意味について説明したことになるのか?」「言語の意味を説明するとはどういうことなのか?」です*。

『真理と解釈』の冒頭には以下のように書かれています。

真理と解釈

勁草書房、1991

言葉がそれの意味するものを意味する、とはどういうことなのか。ここに集められた諸論文において、私は、次のふたつの要求を満足するような理論をどのように構成するのかを知るならば、この問題に対するひとつの回答をもつことになるだろう、という考想を探求する。

邦訳、序論iv

* なおここでいう「言語」とは、抽象的な言語一般などではなく、「英語」や「日本語」などの個別言語のことです。その意味で、デイヴィドソンの関心はあくまでも言語学的なものであり、(個別科学の哲学としての)言語学の哲学にかかわるものであったと言えるでしょう。


先回の記事では、「コミュニケーションにおいて可能なこと・不可能なことを明らかにする」とかいろいろ言いましたが、それらの論点はあくまでも付加的に(そしてどちらかと言えばデイヴィドソンのキャリアの中でも後の方になって)でてきたものであり、第一義の関心が上のように置かれていたことは確認すべきでしょう。

デイヴィドソンの関心は、「個別言語の意味論はどういうことを言うべきなのか」について考えることです。


なおここでの論点とはあまり関係ないですが、デイヴィドソンは、上記の問い

Q: 何を言えば、ある言語の意味について説明したことになるのか?

に対し、

A: 当該言語のすべての文の真理条件

という解答を用意しました。なぜ真理条件が重要かというと、真理条件を与えることによって、複数の文の関係や、単語と文の関係(総じて言えば文の構造)が明らかになるからです。


ここまでのまとめ

  • 「根源的解釈」の思考実験は、「何を言えば言語の意味について説明したことになるのか?」を論じるためのものです。
  • デイヴィドソンの答えは、「すべての文の真理条件」というものでした。





次に、わたしが先に書いた記事のなかで、「信念」および「意味」が「見えないもの」の位置に置かれていたことが、多少誤解を招くものであったようなので、その点について説明します。

この両者が「見えないもの」の側に置かれているのは、論点先取を避けるためです。


さて先に述べたように、デイヴィドソンの主要な論点は、「何を言えば、自然言語(英語)の意味を与えたことになるのか?」です。

では、ある言語の意味を与える際、「自然言語(英語)の意味」を所与の情報として用いることは許されるでしょうか?

われわれはすでに習得した言語をいともたやすく理解しますが、少なくともこの文脈では、それはひとまず「わからない」という風に仮定すべきです。

先のエントリにおいて、言語の意味が「見えないもの」の側に置かれていたのは、日常的に言語の意味がわからないからではなく、論点先取を避けるためにそういう設定になっています。


では、「言語の意味」以外のもの、たとえば「信念・意図・欲求」などは前提してもよいでしょうか?

「よい」という立場の人もいます。

たとえばポール・グライスは、「意図」の概念を使って「意味」の概念を定義しました。


しかし、これってちょっと変じゃないでしょうか?

他人の言葉をまったく理解できないのに、他人の意図がわかるという状況はありえないもののように思われます。

意図がすべて言語に還元されるかどうかはともかく、われわれの考える「意図」というのは「概念」や「命題」などと密接に結びついています。「概念」や「命題」が言語的なものであるかどうかについては諸説ありますが、少なくとも、所与の前提とするには、あまりにも言語の意味に近すぎるもののように見えます*。前提しないで作業を進めることができるなら、前提すべきではないものです。

* グライスのような試みがまったく無駄であるというわけではありません。少なくとも「意図」から出発して「意味」を定義する作業によって、「意図」という概念と「意味」という概念の結びつきを明らかにすることができるのは確かです。従って、意図の概念を使って意味の概念を定義できたならば、これは1つの試みとしては十分な成果だと思います。とはいえ、他の方向も同時に探求すべきです。


ゆえに、論点先取を避けるなら、一切の心的なもの・意味的なものを「見えない」と仮定すべきです。分析哲学者がよく使う表現で言えば「内包的」なものはなるべく前提せずに議論を進めるべきです。繰り返しますが、これらのものが「日常的にも見えない」からではなく、論点先取を避けるために「見えない」と仮定すべきです。


しかし内包的なものをすべて消し去った状態で、言語の意味を理解できるでしょうか?

これは不可能に近い試みです。ここでは詳しく説明しませんが、これがとても困難であるという点については、クワインが丁寧に議論しています。

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)


ことばと対象


では、いったいどんな条件を認めれば、言語の意味を導出することができるのか?という論点が関心にのぼります。

サールのように、「意味についてきちんとした説明を与えられないからと言って、意味という概念を使っちゃいけないという理由にはならない」という人もいますが、少なくとも「きちんとした説明が与えられた方がよい」というのは当然あってよい発想でしょう。

* 確かこの本でそういう議論をしていたはず。


それに対しデイヴィドソンが提出したのは、「内包性から切り離しがたいが、比較的問題が少なそうに見える要素」(「真と見なす」)を使って、1つの言語の意味論を構成する作業だったわけです。


なお、以上のテキスト的根拠として、先に引用した『真理と解釈』序文の続きを引用しておきます。

言葉がそれの意味するものを意味する、とはどういうことなのか。ここに集められた諸論文において、私は、次のふたつの要求を満足するような理論をどのように構成するのかを知るならば、この問題に対するひとつの回答をもつことになるだろう、という考想を探求する。

その要求とは、

  • (1)その理論が、ある話し手ないし話し手のグループの、現実的並びに潜在的な、すべての発話の解釈を提供するであろうということ、
  • (2)またその理論は、その話し手の詳細な[信念、欲求、意図等の]命題的態度についての知識なしに、検証可能であろうということ、

のふたつである。


  • 第一の条件は、言語理解の全体論的本性を認めている。
  • 第二の条件は、その理論の基礎に、意味の概念と余りに密接な類縁性のある諸概念の密輸入を阻止すること、を狙いとする。

この両条件を満足しない理論は、哲学的に有益な仕方で冒頭の問題に答えた、と言うことはできない。

邦訳、序論iv、強調はわたし


ここまでのまとめ

  • 言語の意味を説明する際は、内包的なものを前提しないことが望ましい。
  • しかし内包的なものを前提せずに意味論を研究することはとても難しい。




最後に、id:contractioさんは、「解釈」という概念にひっかかっておられるようでしたので、デイヴィドソンの「解釈」概念に対する態度について触れておきます。

根源的「解釈」は「解釈」という名前がついていますが、「解釈」というのは「意味」という概念同様に、デイヴィドソンが頼るのを避けた概念であり、そのことについてはわりとはっきりと触れています。

もちろん、ある理論がある発話の明示的解釈を産み出すということがいかなることであるかは、なお明らかではない。問題がこのように定式化されれば、われわれはその理論を、独立変数として発話をとり、値として解釈をもつような関数を特定するものと思いたくなるであろう。

しかしの場合には、解釈は[実体化された抽象的存在者としての]意味も同然となり、まさに疑いなくある神秘的な種類の存在者に他ならないことになろう。それゆえ、理論に望まれていることを、意味[なるもの]や解釈[なるもの]に明白に言及せずに記述するのが賢明であるように思われる。つまり、理論を知る者は、その理論が適用される発話を解釈できる、と言えばよい。

『真理と解釈』邦訳p126、強調はわたし

つまり「解釈できる」という言い方は認めてもいいけど、「この発話の解釈がこれこれである」とか「解釈の過程はどういう風に行なわれるか」などといった使い方はしません、と言っているわけです。



ここまでのまとめ

  • デイヴィドソンは「解釈」という概念は使ってない。




あんまり時間が空いてもアレなので、いったんこれでアップしますが、あといくつか補論を付け加える予定です。

コミティア87参加します。

新刊は無いです。文学フリマで売った同人誌をまた売ります。

  • 日時: 2009年2月15日(日) 11:00から15:30
  • 場所: 東京ビッグサイト東1ホール
  • ブース: か17a

紹介は以下



あと今回はreoponという人のマンガを委託販売することになっています。よろしくお願いします。

Shortcut Fan Club 草稿: 懲りずにコミケに参加する男の告知文


  • reoponマンガのあらすじ

主人公の私は人生を何回も繰り返してしまうというテラ中二病設定の女子。

今までに4回死んでいて今回が人生5周目です。

でまあ高校に入学したんだけど隣の席の女の子が覆面をかぶっているのが不思議でなりません。

なぜ覆面をかぶっているのでしょうか。

不思議です。

|