タイトルは再びホッテントリメーカーから。
だいぶ間が空きましたが、先日の記事について、はてなブックマークのコメント欄でやりとりがあったので稿を改めてここに書きます。間に引越しを挟んだのでずいぶん時間が経ってしまった。
まずid:contractioさんから「暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけではないか」という質問がありました。
(またこれに関連し、Twitter上でいくつかやりとりがありました。以下の記事はこの辺りのやりとりを踏まえたものです)。
それに対し、私は以下のように答えました。
「日常的に意識的な解釈の必要がないのは、すでに言語理解が完了しているからだ」という理屈になるのではないかと。>id:contractio
http://b.hatena.ne.jp/at_akada/20090130#bookmark-11885983
これに対し、以下のようなお返事がありました。
俺にはこういう議論の構図そのものが理解できないんだな。暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけだよね。/「完了している」は「理論構築」に意味がある為のフィクションでは?> id:at_akada
http://b.hatena.ne.jp/contractio/20090130#bookmark-11885983
まず、どうして上のように答えたのかを説明します。
contractioさんが言っていることが、
「他人の発言について、『こういう意味だろうか、それともこういう意味だろうか?』などと斟酌することは、常に行なわれているわけではないよね?」
という意味であれば、わたしはこれに同意します。その通りだと思います。
ただよくわからないのは、「いつも狭義の解釈をしているわけではない」という主張を、contractioさんがどうしてデイヴィドソンの主張に対置させたかということです。
ひょっとするとcontractioさんはデイヴィドソンの所説を「われわれはいつも根源的解釈をしている」という風に理解したのかと思い、「そうではない。われわれは架空の言語学者とはちがい、他人の言語を(おおむね)理解できる状況にある」という意味で「完了している」と言いました。根源的解釈は文字通り、「特殊な場面」であると思います。
ただ「完了している」という言い方はまずかったです。「われわれが過去に(たとえば乳幼児のころに)、根源的解釈のような作業を行なった」という風に聞こえてしまうからです。デイヴィドソンはそういう主張をしているわけではありません。
「根源的解釈はあくまで架空のシチュエーションであり、実際のコミュニケーションがああいう風に行なわれているわけではない」という件は確認しておくべきでしょう。
少なくとも根源的解釈の不自然さをもって、「だからデイヴィドソンの議論は間違っている」とするのは筋違いではないかと思われます。
(なお、ここが難しいのですが、何もわたしは「デイヴィドソンの議論を全面的に擁護したい」わけではありません。デイヴィドソンは好きな哲学者のひとりですが、「全面的に擁護」しようにもそもそもよく理解できない部分がたぶんにあります。「この議論は怪しげだ」と思う部分もあります。しかし答え方を間違えるとうっかり「全面的に擁護の布陣を張る」羽目になるかと思われるので、それだけは避けたいです)。
■ ここまでのまとめ
- 「根源的解釈」は架空の状況であり、実際の言語理解がああいう風に行なわれるわけではない。
では、根源的解釈の思考実験は何を論じるものなのか?
テキストに立ち返って述べるなら、主要な論点は、「何を言えば、言語の意味について説明したことになるのか?」「言語の意味を説明するとはどういうことなのか?」です*。
『真理と解釈』の冒頭には以下のように書かれています。
- 『真理と解釈』
勁草書房、1991
言葉がそれの意味するものを意味する、とはどういうことなのか。ここに集められた諸論文において、私は、次のふたつの要求を満足するような理論をどのように構成するのかを知るならば、この問題に対するひとつの回答をもつことになるだろう、という考想を探求する。
邦訳、序論iv
先回の記事では、「コミュニケーションにおいて可能なこと・不可能なことを明らかにする」とかいろいろ言いましたが、それらの論点はあくまでも付加的に(そしてどちらかと言えばデイヴィドソンのキャリアの中でも後の方になって)でてきたものであり、第一義の関心が上のように置かれていたことは確認すべきでしょう。
デイヴィドソンの関心は、「個別言語の意味論はどういうことを言うべきなのか」について考えることです。
なおここでの論点とはあまり関係ないですが、デイヴィドソンは、上記の問い
Q: 何を言えば、ある言語の意味について説明したことになるのか?
に対し、
A: 当該言語のすべての文の真理条件
という解答を用意しました。なぜ真理条件が重要かというと、真理条件を与えることによって、複数の文の関係や、単語と文の関係(総じて言えば文の構造)が明らかになるからです。
■ ここまでのまとめ
- 「根源的解釈」の思考実験は、「何を言えば言語の意味について説明したことになるのか?」を論じるためのものです。
- デイヴィドソンの答えは、「すべての文の真理条件」というものでした。
次に、わたしが先に書いた記事のなかで、「信念」および「意味」が「見えないもの」の位置に置かれていたことが、多少誤解を招くものであったようなので、その点について説明します。
この両者が「見えないもの」の側に置かれているのは、論点先取を避けるためです。
さて先に述べたように、デイヴィドソンの主要な論点は、「何を言えば、自然言語(英語)の意味を与えたことになるのか?」です。
では、ある言語の意味を与える際、「自然言語(英語)の意味」を所与の情報として用いることは許されるでしょうか?
われわれはすでに習得した言語をいともたやすく理解しますが、少なくともこの文脈では、それはひとまず「わからない」という風に仮定すべきです。
先のエントリにおいて、言語の意味が「見えないもの」の側に置かれていたのは、日常的に言語の意味がわからないからではなく、論点先取を避けるためにそういう設定になっています。
では、「言語の意味」以外のもの、たとえば「信念・意図・欲求」などは前提してもよいでしょうか?
「よい」という立場の人もいます。
たとえばポール・グライスは、「意図」の概念を使って「意味」の概念を定義しました。
- 『論理と会話』
しかし、これってちょっと変じゃないでしょうか?
他人の言葉をまったく理解できないのに、他人の意図がわかるという状況はありえないもののように思われます。
意図がすべて言語に還元されるかどうかはともかく、われわれの考える「意図」というのは「概念」や「命題」などと密接に結びついています。「概念」や「命題」が言語的なものであるかどうかについては諸説ありますが、少なくとも、所与の前提とするには、あまりにも言語の意味に近すぎるもののように見えます*。前提しないで作業を進めることができるなら、前提すべきではないものです。
ゆえに、論点先取を避けるなら、一切の心的なもの・意味的なものを「見えない」と仮定すべきです。分析哲学者がよく使う表現で言えば「内包的」なものはなるべく前提せずに議論を進めるべきです。繰り返しますが、これらのものが「日常的にも見えない」からではなく、論点先取を避けるために「見えない」と仮定すべきです。
しかし内包的なものをすべて消し去った状態で、言語の意味を理解できるでしょうか?
これは不可能に近い試みです。ここでは詳しく説明しませんが、これがとても困難であるという点については、クワインが丁寧に議論しています。
- 『ことばと対象』
では、いったいどんな条件を認めれば、言語の意味を導出することができるのか?という論点が関心にのぼります。
サールのように、「意味についてきちんとした説明を与えられないからと言って、意味という概念を使っちゃいけないという理由にはならない」という人もいますが、少なくとも「きちんとした説明が与えられた方がよい」というのは当然あってよい発想でしょう。
それに対しデイヴィドソンが提出したのは、「内包性から切り離しがたいが、比較的問題が少なそうに見える要素」(「真と見なす」)を使って、1つの言語の意味論を構成する作業だったわけです。
なお、以上のテキスト的根拠として、先に引用した『真理と解釈』序文の続きを引用しておきます。
言葉がそれの意味するものを意味する、とはどういうことなのか。ここに集められた諸論文において、私は、次のふたつの要求を満足するような理論をどのように構成するのかを知るならば、この問題に対するひとつの回答をもつことになるだろう、という考想を探求する。
その要求とは、
- (1)その理論が、ある話し手ないし話し手のグループの、現実的並びに潜在的な、すべての発話の解釈を提供するであろうということ、
- (2)またその理論は、その話し手の詳細な[信念、欲求、意図等の]命題的態度についての知識なしに、検証可能であろうということ、
のふたつである。
- 第一の条件は、言語理解の全体論的本性を認めている。
- 第二の条件は、その理論の基礎に、意味の概念と余りに密接な類縁性のある諸概念の密輸入を阻止すること、を狙いとする。
この両条件を満足しない理論は、哲学的に有益な仕方で冒頭の問題に答えた、と言うことはできない。
邦訳、序論iv、強調はわたし
■ ここまでのまとめ
- 言語の意味を説明する際は、内包的なものを前提しないことが望ましい。
- しかし内包的なものを前提せずに意味論を研究することはとても難しい。
最後に、id:contractioさんは、「解釈」という概念にひっかかっておられるようでしたので、デイヴィドソンの「解釈」概念に対する態度について触れておきます。
根源的「解釈」は「解釈」という名前がついていますが、「解釈」というのは「意味」という概念同様に、デイヴィドソンが頼るのを避けた概念であり、そのことについてはわりとはっきりと触れています。
もちろん、ある理論がある発話の明示的解釈を産み出すということがいかなることであるかは、なお明らかではない。問題がこのように定式化されれば、われわれはその理論を、独立変数として発話をとり、値として解釈をもつような関数を特定するものと思いたくなるであろう。
しかしの場合には、解釈は[実体化された抽象的存在者としての]意味も同然となり、まさに疑いなくある神秘的な種類の存在者に他ならないことになろう。それゆえ、理論に望まれていることを、意味[なるもの]や解釈[なるもの]に明白に言及せずに記述するのが賢明であるように思われる。つまり、理論を知る者は、その理論が適用される発話を解釈できる、と言えばよい。
『真理と解釈』邦訳p126、強調はわたし
つまり「解釈できる」という言い方は認めてもいいけど、「この発話の解釈がこれこれである」とか「解釈の過程はどういう風に行なわれるか」などといった使い方はしません、と言っているわけです。
■ ここまでのまとめ
- デイヴィドソンは「解釈」という概念は使ってない。
あんまり時間が空いてもアレなので、いったんこれでアップしますが、あといくつか補論を付け加える予定です。
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