価値判断の相対主義についてのメモ。
Twitterで「生得説が本質主義だとかよくわからんことを言うやつがいるが、むしろ相対主義じゃね?」とつぶやいていたら意外に感じる人が多いようであったし、つぶやいていたらちょっと考えがまとまったのでメモしておく。
主なテーマは「価値判断に関する諸々の立場の整理」および「価値判断の相対主義はいつ深刻なのか」。
この手の議論に詳しいわけではないので的をはずしているかもしれないが、あくまで自分用メモ。
本当はもっと軽い感じでまとめられればよかったが、書いている内にこむずかしい内容になってしまった。
ここで「価値判断」と呼ぶのは、道徳的判断、美的判断などをひっくるめて、「何かを他のものより良いとする」判断のこと。
実際には、「道徳的判断は普遍的だが、美的判断は普遍的じゃない」とか、それぞれの判断について異なる見解が導かれるかもしれないが、とりあえずどんな立場がありうるか整理しておきたい。
Twitterログ
at_akada:たまに生得説を本質主義と呼ぶ人がいるが、その感覚がよくわからない。進化の偶然的歴史に依存する人間の生物学的特徴に何かを還元するのって、どっちかというと相対主義じゃないだろうか。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232741424
at_akada:道徳は文化によって決まる→道徳は文化に相対的。道徳は人間の生物学的特徴によって決まる→道徳は種に相対的。この2つは「程度の違い」にしか見えない。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232750770
at_akada:問題は宇宙人にどんな道徳を適用すべきかということですよ。そこではじめて明らかになる生得説の相対性。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232797225
at_akada:「道徳的判断(or美的判断...etc)は善というイデアールな実在に対する言明なので、相手が宇宙人だろうと何だろうと普遍的に一致する」というのが本当の本質主義。種に関する相対主義とはまったく違う。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232857944
生得説の相対性は、わたしの感覚からすると当然である。だって人間の体のしくみって進化の偶然的歴史の産物なわけで、そんなものに依存する判断が「本質的」であるはずがない。
(ただし、何ステップか手続きを踏めば、生得説が本質主義になることもありえると思う)。
ただし、わたしはここで「本質主義」という言葉をラフに使っている。「本質主義」という呼び名は「道徳的判断は善というイデアールな実在についての言明である」などの見解のために取っておくべきもののように思う。
ここではむしろ「妥当性の相対性と普遍性」のみを問題にしたい。
これについて実際には、「価値判断は何であるか」、「価値判断の客観性」(検証可能性)、「価値判断の妥当性」(真理条件)など様々な側面が絡み合うように思われる。
たとえば、「価値判断は相対的であるが、客観的である」というのは整合的な立場である。むしろ反対に相対主義は、客観性を要求するように思われる。
「価値判断は文化に相対的」という主張は、「それぞれの文化の内部において、価値判断を客観的に検証できる」という前提が無いと成り立たないのではないだろうか。
■ 個人的なものと普遍的なもの
まず、個人的価値判断と普遍的価値判断を分けておくべきだろう。
個人的価値判断とは、「トマトジュースはわたしにとって好ましく感じられる」などのように、妥当性が問題にされないような判断のこと。線引きの基準をどこに置くかは立場によって変わるだろうが、個人的な価値判断については定義上他人が妥当性に疑問をさしはさむべきではない。
以上は単なる用語法の問題。
たとえば、「料理の好みに対する言明でさえ、他人に対する価値のアピールであり、普遍的妥当性を要求する」という立場はありえるだろう。しかしその場合当の論者は「料理の好みは個人的価値判断ではない」と主張しているものと考えたい。
しかし普遍的妥当性を要求されない個人的価値判断が「間違っている」ことは依然ありえるように思われる。
たとえば、
「aさんはトマトジュースは好ましいと言っていたが、aさんがトマトジュースだと思って飲んでいたのはオレンジジュースであり、それゆえ好ましいと判断されたものはオレンジジュースである」
という場合。しかしこれは、価値判断の妥当性を問題にしているわけではない。
むしろ「トマトジュースは好ましい」という主張の「トマトジュース」の部分に関する解釈を変更したと言う方がふさわしいようにも思われる。
一方、個人的価値判断とは別に、普遍的価値判断というものがありえるように思われる。
「嘘をつくのはよくない」「殺人はよくない」「この絵は美しい」などの場合。
これについても線引きは様々でありえるだろうが、多かれ少なかれ、「自分にとっての価値」というより、他の人にも当てはまるような普遍的な価値について述べているように思われる。
個人的判断は定義上妥当性が問題にならないので、価値判断の妥当性が問題になるのは後者の事例にかぎる。要するに、こうした場合のみ「その判断は間違っている」ということを問題にできる。
相対主義というものがありえるとすれば、後者の型の価値判断についてのみだろう。
なお、以上より、普遍的価値判断は真理値を持つものと考えたい。妥当性=真理値というわけでは必ずしも無いだろうが、妥当性を判断できる以上、「真/偽のようなもの」を持つと考えるのはそれほど変ではないように思われる。ひょっとするとそれは本来の真理値とは別の「疑似真理値」かもしれないが、それもひっくるめて真理値と呼ぼう。
「情緒説」に代表されるような、「価値判断は真理値を持たない」という説は、「普遍的価値判断の事例は存在しない」という説として理解する。
■ 傾向性と妥当性
次に、諸々の価値判断について、
- 「われわれが現に『良い』としているもの」と
- 「『良い』とすべきであるもの」
を区別できるように思われる。
前者については、「どんなものを『良い』とするのか」という、いわば価値判断の傾向性が問題になっている。
後者については、「なにを『良い』とすべきか」という、価値判断の妥当性が問題になっている。
両者はまったくの無関係では無いかもしれないが、「人間が良いと判断している多くのものの大半は実際には悪いものであり、判断を変更すべきである」という主張はひとまず意味を為すように思われる。そして価値判断の相対性と普遍性が問題になるとすれば、後者の側面についてであろう。
「人間はまったく多様な価値判断を行なっており、何を善とするか(何を美とするか/何を快とするか)はまったくバラバラである」という主張は、「それを是とすべきである」という主張を伴なわないかぎり、特にインパクトはない。
たとえば、「道徳的判断は現在のところ文化によって多様であるが、唯一正しい道徳的判断はXというものなので、Xの道徳的判断のみを是とすべきである」という主張のことを「道徳に関する相対主義」とは呼ばないだろう。少なくとも、そのような相対主義は「深刻」ではない。
ゆえに「価値判断についての相対主義」とは、「価値判断の妥当性についての相対主義」である。
■ 相対主義
相対主義とは、価値判断の妥当性が何かに相対的であり、それゆえローカルなものだとする立場である。
「価値判断の妥当性は、文化に固有のものであり、それぞれの文化に相対的である」というのは文化相対主義。
「価値判断の妥当性は、時代に相対的である」というの時代相対主義。
「妥当性の基準は個人によって異なる」とするなら、個人相対主義。
文化相対主義を貫徹するなら、違う文化の人に対し、自らと同様の価値判断を要求すべきではない。
一方時代相対主義を貫徹するなら、異なる時代の人に対し、自らと同様の価値判断を要求すべきではない。
なお、個人相対主義と情緒説のような(主観性を主張する)立場はまったくの別物である。個人相対主義の場合、基準が個人に相対化されるだけであり、(検証可能性と妥当性判断の権限を認めるなら)他人がその妥当性を問題にすることもできる。
相対性と客観性はまったく異なる。「沸点は高度によって異なる(沸点は高度に対し相対的である)」という主張は、「沸点は主観的である」という主張ではない。
上記のように整理してみれば、生得説が相対主義であることはただちに見てとれる。
価値判断の妥当性の源泉を何らかの偶然的でローカルな対象に帰着する説はすべて相対主義なのである。
「価値判断の妥当性は、人間という生物種の固有の特徴によって決まる」という見解は、判断の妥当性の根拠を生物種の特徴に置くかぎり相対主義的である。
具体的に言えば、価値判断の妥当性が生物学的特徴に由来するならば、人間と異なるタイプの宇宙人には自らと同様の価値判断を要求すべきではないだろう。
(価値判断を人間という種に限定されたタイプの判断と捉え、そのような宇宙人が行なうことは「道徳的判断ではない」「美的判断ではない」などと考える立場はありえるだろう。この場合は、自動的にそれらの価値判断のローカルな妥当性が普遍的な妥当性と一致する)。
■ 検証可能性と判定権限
ただし相対主義は、検証不可能性や実行権限限定の要求を伴なわないかぎり、ほとんど無害であり、ただちに普遍主義に吸収されるように思われる。
たとえば「昨日は雨が降っていた」という文の真偽は、日付に相対的である。
しかし、この「相対主義」が深刻な問題であり、対話の可能性を阻むものだなどと嘆く人は滅多にいないだろう。
妥当性がローカルな文脈に束縛されるという主張は、ローカルな文脈の特徴付けを一般的に扱うことさえできればほとんど問題にならない。
たとえば、沸点が高度に相対的であるとしても、われわれは気圧を測ることによって、沸点の算出をより普遍的な基準に統合することができる。その場合、ローカルな文脈に対する束縛は、より普遍的な判断基準にとっての「パラメーター」となるにすぎない。
価値判断が文化に相対的だとしても、文化の特徴付けから当の判断の妥当性を導き出す実効的な手順があれば、誰でも判断の妥当性を問題にすることができる。
その場合われわれは、この実効的な手順を足し合わせたもののことを、「価値判断の妥当性の基準」と呼び、普遍的に妥当する基準と考えるのではないか。
たとえば、「効用関数は文化によって異なるので功利主義は文化相対主義である」という主張は一応理解可能である。しかしこの主張は、効用関数の計算手続きが与えられしだい、より普遍的な基準に吸収されるように思われる。
むしろ問題は「価値判断の妥当性を判定する権利が誰に与えられるか」ではないだろうか。
「価値判断は文化に相対的である」という主張が何らかのインパクトを持ちうるのは、「それゆえ、当の文化の内部の人しか、価値判断の妥当性を判定できない」という主張が付加された場合である。
妥当性の検証可能性を問題にしているのであれば、まだしもアクセスの余地は残る。「当の文化の内情を知らないとよくわからないだろう」と言われれば、知れば済むことである。何しろ、当の文化内部の人たちは妥当性の判断をしているわけなので、原理的に検証不可能などということは無さそうである。
しかし、妥当性判定の実行権限を問題にしているならば---つまり、「当の文化内部の人にしか、価値判断の妥当性を判定する権利が無い」と主張するなら---、外部の人々には妥当性を問題にすることが原理的にできなくなる。
相対主義が深刻であるとされるのは、この場合のみであろう。
価値判断についての相対主義が深刻なものとなるのは、価値判断の妥当性を判定する権利がローカルな文脈の内部でのみ許される場合である。
たとえば、「割礼が悪であるかどうかの判断はユダヤ人にしかできない」という主張を考えてみよう。価値判断の相対主義が深刻なものとなるのは、このような場合であるように思われる。
■ 結論
- 価値判断に関する相対主義とは、価値判断の妥当性がローカルな文脈に束縛されるという立場である。
- ただし、妥当性の判断が普遍的に開かれたものであるかぎり、相対性は無害である。
- 価値判断に関する相対主義が深刻なものとなるのは、価値判断の妥当性を判定する権利が、ローカルな文脈の中に限定される場合である。
コメント(4)
コメントする
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 価値判断の相対主義についてメモ
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.at-akada.org/mt/mt-tb.cgi/1002
いろいろと論点があるけど
』 (2009/02/22 12:00)個人的価値判断というのは一般的に言って語義矛盾だと思う。カント的な立場から言うとそれは適意の判断とか呼ばれるものであって、価値という言葉のコミットメントはもうちょっと強いものだと。これはたぶん業界標準。
そういう言い分けがあるのかー。
』 (2009/02/23 0:38)知らなかった。ありがとう。
vdnVSJ
』 (2009/07/14 9:15)vdnVSJ
』 (2009/07/14 9:15)