Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
ゆるふわMetaphysicians勉強会で読んだ論文2つ目。
ずいぶん時間がかかってしまった。
1つ目の論文に関する記事は以下。
http://www.at-akada.org/blog/2008/12/chris-swoyer.html
一応、論文の要約くらいは毎回載せようかと思っているので感想やまとめなど。
(ずいぶん遅れてしまったので、実はもうこの次の論文も読み終わっている)。
本書は、様々なテーマについて対立する立場に立つ2人の著者が文章を寄せた論集。
1章のテーマは、「抽象的なものはあるか?」。
こちらは「抽象的なものは無い」派の人の論文。
■ 感想
世の中には、悪夢のような論文というものがある。
これは悪夢のような論文であった。まず英語が難しくて何を言っているかよくわからないし、仮に英語が理解できたとしても内容が難しくてよくわからないし、仮に内容が理解できたとしても問題関心がぶっとんでいるので理解しがたい。この論文については、本当に、全員で頭を抱えながら苦しまされる日々であった。
学んだことを強いてあげるとするならば、現代形而上学の争点はこんな感じなのかなーと。
- 現在の自然科学の成果を所与とした上で、じゃあそこから結局どんな世界観が導かれるのか考えてみよう。
- 科学者はいろいろ言ってるが、結局のところ何が存在するのか? 自然法則って何か? 究極的なリアリティは何なのか?
- ひと昔前の分析哲学というのは、いろんな文を分析していこうという言語哲学的なものが主流だったわけだが、形而上学の場合、むしろ言語哲学的技法を使って、世界の究極的リアリティを明らかにしようという方向が目立つ。
(具体的には、文のパラフレーズを使って唯名論の擁護をする、などの事例を想定している)。
■ まとめ
というわけでまとめようがないわけだが、何とかできる範囲でまとめてみる。
- 数が存在するとか、性質が存在するとか、ありえんよ。
- 確かにみんな「数が存在する」とか「性質が存在する」とか言っている。
- でもそれは表面的な意味で「存在する」って言っているだけで、基礎的な意味で「存在する」って言ってるわけじゃないはずだ。
- というわけで、科学者などが抽象的なものに「存在する」って言ってるとしても、それは本当は別の意味で言っているはず。
- こういう「存在する」はガンガンパラフレーズしていくよ。
- 実在論派の人は、「抽象的なものの存在を仮定して、いろんな現象が説明できるなら認めていいんじゃないか」と言う。
- わたしはガンガンパラフレーズするので、そんな説明の能力なんて認めないぞ。
- さて、Tというのが、数学的概念など抽象物の存在にコミットしているように見える科学理論だとしよう。以下のような反事実的条件法を使ったパラフレーズができるはずだ。
T*: もし数学的公理が正しく、具体的世界が今の通りならば、Tは正しいだろう。
- これを使えば、Tの正しさは今のままで、余計な存在論的コミットはしなくて済むってわけ。
- この後、このパラフレーズはダメなパラフレーズに似てるがダメじゃないという議論がつづくがよくわからない。
- 科学理論については、これでいいとして、哲学理論についてはどうしようか。
- 上のようなパラフレーズを適用しようとすると、哲学理論はそもそも反事実的条件法に対して分析を与えたりするので、そのさらに反事実的条件法によるパラフレーズになってわけがわからないことになるよ。
- これについては3つのオプションがある
- (1)そういう分析を受け入れた上で、「あ、それがこういうタイプの文の意味なんだ。じゃあこの文は抽象物が存在するって言ってるわけだから、基礎的な意味では偽だね」と考える。
- (2)別の分析を提示する。
- (3)分析は不可能であり、問題になっていたのはプリミティブな概念だと主張する。
- というわけで、唯名論的な哲学的分析のパラフレーズを提示する。
- 「ベーシックな物理学的述語」の問題を扱う。
- 今ある物理学の概念っていうのは、たいてい他の概念から定義されたりするけれど、もっともっと科学が進めば、それ以上他のものに還元できないベーシックな述語がでてくるだろう。そういうものがでてきたときに、「それでも性質は存在しない」という立場を唯名論は護れるだろうか。
- とりあえずここでは「xは電子である」というのがそういうベーシックな述語であるということにしておくよ。
- アームストロングは、性質の存在を認めているので、「電子であることは、電子性という性質を例化することだ」と分析している。
- こいつをパラフレーズしてやろう。
- アームストロングの定義にはどういういいところがあるか?
- たとえば、上のような「電子であること」の定義と、複製の定義を与えてやると、「電子の複製は電子だ」という文の分析がうまくいくようになる。
- この文はもう見た感じ必然的真理という感じだけど、複製と電子の定義をきちんと与えると、こういう文を論理的真理として説明できるようになる。
- ぼくら唯名論者はこういう分析に対して、以下のような反論を考えられる。
- (1)複製の定義を別な風に与える
- (2)電子の定義を別な風に与える
- (3)「電子の複製が電子だ」という文が必然的であるのは、プリミティブな事実であり、説明できないと主張する
- (1)の方向。ベーシックな述語をぜんぶアンドで結んでやる。「xがyの複製であるとは、xがクォークならyもクォークであり、xが電子ならyも電子であり...」という長い連言を使って複製を定義する。
- とりあえずこれでもうまくいくけど、この場合、「この宇宙にはないけど、他の宇宙で成り立つかもしれない性質」などを認められなくなる。
- (2)の方向。電子と電子の類似を使って、「電子であること」を定義するやり方など。
(この類似性ノミナリズムの理論はちょっと面白かった)。
- (3)の方向。説明を放棄したような方針だけど、これはこれでうまいやり方だとか何とか。
以上。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: Cian Dorr「抽象物は無いよ」
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.at-akada.org/mt/mt-tb.cgi/1005

コメントする