2009年6月
お返事遅れましたが、勝手批評さんのコメントに答えます。
■ 1つめのコメント
まず1つめのコメントについてですが、以下の2つの論点が述べられていると思いましたので、これについて答えます。
- A: 祥子の問題は名前の問題にすぎないのではないか?
- B: これは様相論理の問題ではないのではないか?
まずAについて。
特に赤田さんが例としてあげた「祥子」議論について言うと、ここで時点1・時点2・時点3を貫いているのは(クリプキが言うような固定指示子なんてことではなく)「祥子」という(単なる)名前であるのは明らかではないでしょうか?
勝手批評さんのコメントが述べておられるのは、「時点1に言及された祥子」、「時点2に実際に誕生した祥子」に共通するのは名前だけであり、両者はまったくの別人であるということでしょうか。
だとすれば、「この子があのとき話していた子どもだよ」という友人の発言は、文字通りの意味では「間違い」であると考えるべきでしょう。なぜならば友人は、両者の同一性を主張している(ように見える)からです。
一方わたしの動機の1つは、「この友人の発言を文字通りの真として受け取りたい」という点にあります。なぜなら見たところ、この友人のようなタイプの発言は比喩やつくり話や皮肉などではなく、文字通りに受け取るべきもののように思えるからです。
別の方向から言えば、わたしには、以下のような直観があります。
これから生まれる祥子について話すとき、また、「この子があのとき話していた子どもだよ」と語るとき、話者は単に名前の話をしているのではなく、そのような名前が付けられた子供の話をしている。
そして、ここで問題にしているのは時点1に言及された子供と時点2に誕生した子供が同一であるという論点です。
単に「名前」の話をしているのではなく、「子供」の話をしている以上、両者の同一性を問題にすることが奇妙だとは思いません。
われわれは、同じ「祥子」という名前が付けられた子供であっても、1月10日生まれの祥子と、2月10日生まれの祥子は「別人である」と考えるのではないでしょうか。「同じ名前がついた子供は同じ子供である」というのは、可能的対象について考えた場合でさえ、明らかに間違った主張であると考えます。われわれは「祥子の誕生日が1月10日生まれである未来」と「祥子の誕生日が2月10日である未来」を別の未来として区別することができますし、1月10日生まれの祥子と2月10日生まれの祥子は、数的に別個の存在であるように思えます。
繰り返し定式化するとわたしの問題は以下の通りです。
以下の条件はどれも、それほど違和感のない直観にあったものに思えます。
- (1)時点1に言及された祥子と時点2に誕生する祥子は同一である。
- (2)時点1には、祥子aが生まれてくるのか、祥子bが生まれてくるのか、祥子cが生まれてくるのか...わからない。
- (3)祥子a, 祥子b, 祥子c...は別人である。
- (4)時点1において言及される祥子はただ1人であり、祥子a, 祥子b, 祥子c...などのいずれか1人だけである。
- (5)祥子a, 祥子b, 祥子c...のいずれが生まれてくるのかわからないならば、未来の時点で生まれてくる祥子をただ1人だけ選び出して言及するなどということはできない。
ところが鋭く対立させるなら、(1)と(5)は矛盾を引き起こします。
(1)は、時点1における話者が「正しい祥子」を選び出し言及できると述べています。
(5)は、話者にはそんなことはできないと述べています。
これに対し、わたしの提案は、(4)の条件を否定することです。時点1における話者は複数の祥子に言及していたと考えるならば、上記の問題は生じません。
反事実的条件法を持ち出したのは、それが複数の祥子に同時に言及するための「自然な方法」だからです。
次にBについて。
そもそもの問題としてこれは様相論理を持ち出して考えるべきことなのか、という根本的な疑問があるのです。全く論理の言葉を用いないで考えるべき問題なのではないか、と。
こちらについては、勝手批評さんが、「論理の言葉を用いることで何が失なわれると考えているのか」がまだよくわかっていません。
わたしの方では、あまり論理の言葉に依存する考察を行なっているつもりはないのですが。
■ 2つめのコメント
2つめのコメントには以下の2つが述べられていると理解しました。
- C: 可能的な対象に向けられた謝罪は本当に謝罪なのか?
- D: 現在の@pubkugyoと未来の@pubkugyoには違いがない。
まあ、正直言ってこれは謝罪というより単に最初に言い訳をしておいて批判を封じ込めているという感じで「Aさんに悪いことをした」→「Aさんに謝罪する」という正当な(何が「悪いこと」なのか、何が正当なのかが問題になるけど)手順を踏んでないので「『可能的対象』に対する謝罪」として良い実例になっているのか疑問だ。
こちらについてもわたしは、「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」は、謝罪であるという直観を持ちますし、この直観を擁護する方向で考えたいと思っています。
これは不特定多数の人々へ向けられた謝罪かもしれませんが、それでも謝罪であると考えます。
という主張なんですけど、「私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyo さんへ伝えることを意図したもの」である、とどうして未来の@pubkugyoさんにわかるのかなあ。「意図」なるものが何かのテレパシーであるわけではないのだし、これでは正当化されたとは言えないのでは。「祥子」議論で書いたことに似てますけど、字面が同じ「@pubkugyo」である以上、そしてそれ以外に違いが無い以上、混同は避けられないんじゃないんでしょうか。
これについては、現在存在する@pubkugyoさんと、未来の@pubkugyoさんの間には字面以上の違いがあると考えます。
そもそもこの両者はまったく別個の人間です。
たとえば現在存在する@pubkugyoさんは、id:kugyoというidではてなダイアリーにブログを開設しており、デイヴィド・ルイスを敬愛していますが、たぶん未来の@pubkugyoさんはそのような性質を持たないでしょう。
1つめのコメントの場合と同様に、「@pubkugyo」という名前の話をしているわけではなく、わたしはそのような名前のついた人の話をしており、両者の間にはたくさんの違いがあるという風にわたしは思っています。
以上です。