お返事遅れましたが、勝手批評さんのコメントに答えます。


1つめのコメント

まず1つめのコメントについてですが、以下の2つの論点が述べられていると思いましたので、これについて答えます。

  • A: 祥子の問題は名前の問題にすぎないのではないか?
  • B: これは様相論理の問題ではないのではないか?

まずAについて。

特に赤田さんが例としてあげた「祥子」議論について言うと、ここで時点1・時点2・時点3を貫いているのは(クリプキが言うような固定指示子なんてことではなく)「祥子」という(単なる)名前であるのは明らかではないでしょうか?

勝手批評さんのコメントが述べておられるのは、「時点1に言及された祥子」、「時点2に実際に誕生した祥子」に共通するのは名前だけであり、両者はまったくの別人であるということでしょうか。

だとすれば、「この子があのとき話していた子どもだよ」という友人の発言は、文字通りの意味では「間違い」であると考えるべきでしょう。なぜならば友人は、両者の同一性を主張している(ように見える)からです。

一方わたしの動機の1つは、「この友人の発言を文字通りの真として受け取りたい」という点にあります。なぜなら見たところ、この友人のようなタイプの発言は比喩やつくり話や皮肉などではなく、文字通りに受け取るべきもののように思えるからです。


別の方向から言えば、わたしには、以下のような直観があります。

これから生まれる祥子について話すとき、また、「この子があのとき話していた子どもだよ」と語るとき、話者は単に名前の話をしているのではなく、そのような名前が付けられた子供の話をしている

そして、ここで問題にしているのは時点1に言及された子供と時点2に誕生した子供が同一であるという論点です。

単に「名前」の話をしているのではなく、「子供」の話をしている以上、両者の同一性を問題にすることが奇妙だとは思いません。

われわれは、同じ「祥子」という名前が付けられた子供であっても、1月10日生まれの祥子と、2月10日生まれの祥子は「別人である」と考えるのではないでしょうか。「同じ名前がついた子供は同じ子供である」というのは、可能的対象について考えた場合でさえ、明らかに間違った主張であると考えます。われわれは「祥子の誕生日が1月10日生まれである未来」と「祥子の誕生日が2月10日である未来」を別の未来として区別することができますし、1月10日生まれの祥子と2月10日生まれの祥子は、数的に別個の存在であるように思えます。



繰り返し定式化するとわたしの問題は以下の通りです。

以下の条件はどれも、それほど違和感のない直観にあったものに思えます。

  • (1)時点1に言及された祥子と時点2に誕生する祥子は同一である。
  • (2)時点1には、祥子aが生まれてくるのか、祥子bが生まれてくるのか、祥子cが生まれてくるのか...わからない。
  • (3)祥子a, 祥子b, 祥子c...は別人である。
  • (4)時点1において言及される祥子はただ1人であり、祥子a, 祥子b, 祥子c...などのいずれか1人だけである。
  • (5)祥子a, 祥子b, 祥子c...のいずれが生まれてくるのかわからないならば、未来の時点で生まれてくる祥子をただ1人だけ選び出して言及するなどということはできない。

ところが鋭く対立させるなら、(1)と(5)は矛盾を引き起こします。

(1)は、時点1における話者が「正しい祥子」を選び出し言及できると述べています。

(5)は、話者にはそんなことはできないと述べています。


これに対し、わたしの提案は、(4)の条件を否定することです。時点1における話者は複数の祥子に言及していたと考えるならば、上記の問題は生じません。

反事実的条件法を持ち出したのは、それが複数の祥子に同時に言及するための「自然な方法」だからです。



次にBについて。

そもそもの問題としてこれは様相論理を持ち出して考えるべきことなのか、という根本的な疑問があるのです。全く論理の言葉を用いないで考えるべき問題なのではないか、と。

こちらについては、勝手批評さんが、「論理の言葉を用いることで何が失なわれると考えているのか」がまだよくわかっていません。

わたしの方では、あまり論理の言葉に依存する考察を行なっているつもりはないのですが。




2つめのコメント

2つめのコメントには以下の2つが述べられていると理解しました。

  • C: 可能的な対象に向けられた謝罪は本当に謝罪なのか?
  • D: 現在の@pubkugyoと未来の@pubkugyoには違いがない。

まあ、正直言ってこれは謝罪というより単に最初に言い訳をしておいて批判を封じ込めているという感じで「Aさんに悪いことをした」→「Aさんに謝罪する」という正当な(何が「悪いこと」なのか、何が正当なのかが問題になるけど)手順を踏んでないので「『可能的対象』に対する謝罪」として良い実例になっているのか疑問だ。

こちらについてもわたしは、「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」は、謝罪であるという直観を持ちますし、この直観を擁護する方向で考えたいと思っています。

これは不特定多数の人々へ向けられた謝罪かもしれませんが、それでも謝罪であると考えます。



という主張なんですけど、「私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyo さんへ伝えることを意図したもの」である、とどうして未来の@pubkugyoさんにわかるのかなあ。「意図」なるものが何かのテレパシーであるわけではないのだし、これでは正当化されたとは言えないのでは。「祥子」議論で書いたことに似てますけど、字面が同じ「@pubkugyo」である以上、そしてそれ以外に違いが無い以上、混同は避けられないんじゃないんでしょうか。

これについては、現在存在する@pubkugyoさんと、未来の@pubkugyoさんの間には字面以上の違いがあると考えます。

そもそもこの両者はまったく別個の人間です。

たとえば現在存在する@pubkugyoさんは、id:kugyoというidではてなダイアリーにブログを開設しており、デイヴィド・ルイスを敬愛していますが、たぶん未来の@pubkugyoさんはそのような性質を持たないでしょう。

1つめのコメントの場合と同様に、「@pubkugyo」という名前の話をしているわけではなく、わたしはそのような名前のついたの話をしており、両者の間にはたくさんの違いがあるという風にわたしは思っています。


以上です。

コメント(31)

# 勝手批評

一つめのコメントに対するリプライに対して。まず、


>「時点1に言及された祥子」、「時点2に実際に誕生した祥子」に共通するのは名前だけであり、両者はまったくの別人であるということでしょうか。


というのは誤解です。いや、赤田さんの議論の枠で捉えた時にはこういう解釈になるのはその通りです。でも僕が言おうとしていた事とは違う。


そもそも、「時点1に言及された祥子」というのをこの「時点1」の段階で<人>と見なすのが間違いだと思うのです。だってまだ生まれてきていないのですから。名前があるというだけで人が存在するようになる、という強い主張をなされているわけではないでしょうから、これは端的な誤りではないでしょうか?


こうした誤りが起こったのは赤田さんが時点3から「時点1・時点2・時点3」を俯瞰して捉えた所から生じたのではないかと思います。ですから論点先取で、まだ生まれてきていない祥子(時点1)と現に生まれてきた祥子(時点3)が違う人物なのか同一人物なのか、というような擬似問題に絡め取られているのではないか、と。


「この友人の発言を文字通りの真として受け取りたい」というのはもちろん正しい直観です。何故なら時点1の時点では名前しかなかった「祥子」(だからこれは可能的存在なんて形而上学的なものではなくて単なる名前)は時点3で初めてその実質が与えられたわけで、これで晴れて「この子があのとき話していた子どもだよ」という言葉が真になるわけです。だってこの言葉を時点1で言っていたら、これは意味の分からないものになってしまいますから。(それとも可能的存在は名前だけで成り立つ?)


当然その実質の方が、赤田さんの議論に出てくる祥子a, 祥子b, 祥子c...のどれであっても良いのです。そんなの誰にも分かりっこないですから。実際に生まれてくる子供がそのどれであっても結局「祥子」という名前に収斂するわけですから、「どれがその祥子なのか?」という疑問は成り立ちません。答えは「この子」(と言ってその子を指差す)でしかない。赤田さんの条件で双子とかは除いているので一人しかいませんから。


そういうわけで様相論理の出る幕ではないのでは、というのは赤田さんの祥子a, 祥子b, 祥子c...という議論が既にして可能世界の話になっているけど、こっちに持っていくのは上で述べたように単なる名前を既に<人>と見なした議論から起こった錯覚だから、という意味です。


また長くなってしまったので、二つめのコメントに対するリプライに対する返答はまた今度。

(2009/06/13 4:34)
# 勝手批評

二つめのコメントに対するリプライに対して。


>「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」は、謝罪であるという直観を持ちます


ではもし誰も不快に思う人がいなかった場合にもこの言葉が「謝罪」として成り立っている、という判断でしょうか?これでは謝罪という概念の根幹が抜き去られているのではないでしょうか。


この表現は、これを書いた後で、誰かが実際にそこでの文章に不快を感じそれを訴えてきた場合に個別に謝罪する用意がある、という宣言であって、この「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」という発言自体は謝罪ではないと思うのですが。だから結局、個別の謝罪が普通の意味での、もっと強く言うと正当な謝罪だと思う。実際にクレームをつけてくる相手無しに謝罪が成り立つとしたら、独り言でも「ごめんなさい」と口に出して言ったら、それも謝罪ということになってしまいますから。これは明らかに妙な話ではないでしょうか。(こういう妙な結論が導かれるということは前提におかしなものがあったという証拠ではないでしょうか。)


@pubkugyoについての話は同姓同名の人の区別の仕方、ということに尽きると思います。idや話の内容で区別が付くのなら特に問題は無いです。でも名前が同じだと色々混乱するよね、という事です。ネットで自分の名前を検索してそこで同姓同名の人が誹謗中傷を受けていたら、それが自分とは違うのかどうかは一瞬で判断のつくことではないわけで。内容で判断すれば分かる、と言っても気分は悪いでしょうね。だから(同姓同名の)自分に謝れ、とは言えないけど。

(2009/06/13 13:55)
# Anonymous

一つめのコメントに対するリプライに対して、の補足。


ちょっと曖昧になっているけど時点1・時点2・時点3はそれぞれ全く違う段階にあると思います。


■時点1では「祥子」は単なる名前。


■時点2では女の子が生まれる。だがまだ名前が与えられておらず、この子は「絵理」でも「奈津子」でもどんな名前でも与えられる可能性がある。(だから「可能性」と言っても名前の可能性であって可能的存在を要請する必要は全く無い。これが僕の主張。赤田さんの議論は言わば遺伝学的な話。これはこれで確かに興味深い議論だけど、この話の要点からはズレている。)


■時点3では祥子という名の女の子が承認されている。


だから「この子があのとき話していた子どもだよ」という言葉は時点3でしか成り立たない。時点1では単なる名前があるだけ。時点2ではまだ名前の無い赤ん坊。実際、この友人も時点3でこの言葉を語っている。


なんかコメント連投してスイマセン。

(2009/06/13 14:26)
# at-akada

反応遅れてすみません。
とりあえず対立点はわかった気がします。


ひとまず、わたしは勝手批評さんのおっしゃる
『時点1では「祥子」は単なる名前。』
というのを受け入れられません。


なぜなら、「これから生まれる子供の話」は、やっぱり「子供」の話であって、「名前」の話ではないと思うからです。

一方、勝手批評さんの記述は、時点3での発言が、「過去時制」を用いて時点1の出来事に触れていることを忘れているように見えます。
(あたかも時点3の発言を評価するためには、時点3の出来事しか考慮しなくてよいとでも言うように)。




(時点3の)「この子があのとき話していた子どもだよ」
という発言についてですが、時制をつけるなら、この文は以下のようなことを述べているように見えます。


(時点3において)
{
____友人の子供であり時点2に生まれてきた祥子について、
____(時点1において)
____{
________2人は話をしていた。
____}
}

友人は、明確に、
-今そこにいる子供(祥子)について
-われわれが
-時点1において
話していたと言っているように見えます。
その発言は、時点3において発されたものですが、過去形を利用することで時点1での出来事について述べています。


勝手批評さんの言うように、
「(時点1において)われわれが名前の話をしていた」
のだとすると、
友人の発言は明確に偽であると考えるべきでしょう。
なにしろ、友人は
「(時点1において)われわれは(名前ではなく)この子供の話をしていた」
と言っているのですから。


(2009/06/15 10:04)
# 勝手批評

もし、時点1に於いて既に母親の胎内で祥子となるべき精子a,卵子aが結合していた(普通の言葉で言いなおすと既に赤ん坊を身篭っていた)場合には赤田さんのおっしゃる通りだと思います。こういう仮定の元での議論だったのでしょうか?僕はそう受け取らなかったのですが、ここでズレが生じたのかもしれません。


もしそうでないのなら、未だ祥子となるべき精子も卵子も結合していない時点でこの主張を為されているのでしたら、これはかなり強い主張ではないでしょうか?赤田さんの議論では“どの”精子と卵子が結合したのかが問題になっていたわけですが、まだ精子も卵子も結合していない「無」の段階では“どの”という問いは成り立たないのではないですか?というのはこの段階ではK夫妻のみならず、あらゆる男女の精子と卵子が結合する可能性が考えられてしまうのですから。少なくとも赤田さんの議論はK夫妻の或る一定期間の精子と卵子にその範囲を限定されなければなりません。


>ひとまず、わたしは勝手批評さんのおっしゃる
『時点1では「祥子」は単なる名前。』
というのを受け入れられません。


とすると、赤田さんとしては時点1で既に赤ん坊が胎内に宿っている場合(即ち時点1と時点2は同時)を考えているのか、もしくは名前が付けられた段階で既に祥子は実在する(可能的に?)としているのかどちらかだと思いますが、どうなのでしょうか。返答からは後者のようなのですが、しかし名前があるだけでもう祥子は存在しているというのは一体精確にはどういうことなのでしょうか?時点1では発言「この子があのとき話していた子どもだよ」は明らかに偽であるのですから。つまり赤田さんのこの文についての分析はこの表現が通時的に不変ではない、という事をお忘れになっているので意味の無いものになっているのではないか、と思うのです。ですから、


>友人は、明確に、
-今そこにいる子供(祥子)について
-われわれが
-時点1において
話していたと言っているように見えます。


という、(一見自然に見えた)解釈には間違いがあるのだと思います。そしてこれはラッセルの有名な「現在のフランス王は禿である」と同型の問題に見えます。少なくとも時点1に於いて名前「祥子」はその担い手を持っていません。


僕のこの文章の分析はこうです。


「この子が(あのとき話していた)子どもだよ」


これは二つの部分の分けられます。即ち


①「この子が(私達の)子どもだよ」
②「あのとき(私達は子供に付ける名前の事を)話していた」
注『()は意味が通るようにする為の補足』


僕達の対立点は基本的に②の文の解釈によるものです。この分析からは②では単なる名前が時点1に於いて話されていた、という事以上の内容は含まれていません。ラッセル流の味気ない分析ですが、言語上のまやかしを取り払ってみればこういう事だと思います。(もっともこれはD.ルイス的には許容できないでしょうね。彼なら禿のフランス王だって別の世界に実在するんですから。)

(2009/06/15 14:26)
# さっちゃん

横から口を挟んで議論を混乱させるつもりはないのですが、ちょっと一言よろしいでしょうか。
問題になっているらしい「名前の意味論」に関しては、私はどっちらと言うと赤田さんの見方に賛成なのですが、その上で、例えば次のようなシナリオについてはどう考えられるのだろうか、ということです。

時点1で友人は、これから生まれてくる子どもが女の子だったら「祥子」という名前を付けたいと話す。
時点2に、子どもは実際に生まれるが、それは双子の女の子だった。
その友人がそれぞれの子にどういった名前をつけるかはともかくとして、われわれは(言ってみれば理論家としての視点から)差し当たって二人のそれぞれ「ネ子」と「羊子」という名前を与えることにしておきます。
その場合、時点3で友人が「この子があのとき話していた子どもだよ」と語る際に指差すべきなのは、ネ子なのでしょうか、それとも羊子なのでしょうか? それとも両方ともなのでしょうか?

(2009/06/15 15:54)
# 勝手批評

連続投稿で申し訳ありませんが、整理すると、
■「この子があのとき話していた子どもだよ」は精確には


「この子があのとき(時点1)に『女の子が生まれたら祥子と名付ける』と話していて、実際にその名前(祥子)が付けられたその女の子だよ」となるはずです。


この解釈にはいささかも不自然な点はありませんし、余計な存在者を要請して形而上学的議論に発展する事もありません。K夫妻だって発言の真意を尋ねられたとしたら、「確かにその意味だ」と同意してくれるはずです。彼らが熱心なルイス信奉者で無い限り。


大体に於いて、赤田さんの解釈だと時点1の時点で時点3の現実の祥子の姿が彼らK夫妻に見えていたということになってしまわないでしょうか?「この子があのとき話していた子どもだよ」という発言は、彼らにそんな神の如き予知能力があった、という事を含意していたのでしょうか?(まあ、インチキ予言者みたいに、結果が分かってから「もちろんこうなる事は最初から分かっていたよ」と後出しジャンケンで得意げに言うことは出来ますけど・・・・)

(2009/06/15 15:59)
# 勝手批評

さっちゃんさんのレスに対して。


その問いの答えは簡単だと思います。時点1でK夫妻が語っているのは「祥子」であって、「ネ子」でも「羊子」でも、その両方でもありません。だって名前が違うから。だから時点3で生まれてきた二人の女の子が「ネ子」「羊子」と名付けられた上で「この子(達)があのとき話していた子どもだよ」とK夫妻が発言したら、これはおよそ意味の分からない事になってしまいます。(「えっ?確か「祥子」って付けると言ってなかったっけ・・・?」)


もちろん双子の女の子のどちらかに「祥子」の名前を付けても話は通じます。(何故二人とも「祥子」ではないんだ、なんて難癖を付ける人はいないでしょうから。)

(2009/06/15 18:20)
# taro

昨日はどうも、偶然でした。
不思議なところで繋がるものですね。
また何か一緒に面白いことしようぜ。

(2009/06/19 0:23)
# at-akada

>勝手批評さん
>さっちゃんさん

現在本業がいそがしく、いちいち反応遅くてすいません。
また改めて返事しますね。


>taroさん
このあいだはどうも。びっくりしました。
またなにかやりたいですね。

(2009/06/19 12:00)
# 勝手批評

・・・・随分放置されてますけど、もうこの話とっくに終わっちゃったんですかね?モヤモヤしてしょうがないんですが。

(2009/07/ 7 14:11)
# at-akada

うわーすいません!
仕事がいそがしいのもあって、罪悪感を感じつつ放置しっぱなしになってました。気がつけば、もうすぐ一月...。
早めに何とかします!

(2009/07/ 7 14:26)
# at-akada

先延ばしにすると、いつまでたっても解答できないので、1つずつ答えていくことにします。


>とすると、赤田さんとしては時点1で既に赤ん坊が胎内に宿っている場合(即ち時点1と時点2は同時)を考えているのか、もしくは名前が付けられた段階で既に祥子は実在する(可能的に?)としているのかどちらかだと思いますが、どうなのでしょうか。
名前が付けられた段階では存在しませんが、未来の対象を指示している、と考えています。

「現時点で存在する対象しか指示できない」という前提を置かないかぎり、勝手批評さんのおっしゃるような二択にはならないと思うんですが、わたしはこの前提自体を疑問に感じます。
(とりあえず今日はここまでで失礼します)

(2009/07/ 7 14:40)
# 勝手批評

わ、もう返事が来てた。(笑)忙しくてここ見てないのかと。催促するのもアレかなあ、と思って遠慮してたんですが。

僕としては既に書いたように「この子があのとき話していた子どもだよ」は文字通り名前について「あの時話していた」だけで、いわゆる指示のような事をやっていなかった、という考えなんですけど。まあ、赤田さんの議論に乗るとすると、「未来の対象を指示」する、これが具体的にどういう事なのかが問題になりますね。

『「現時点で存在する対象しか指示できない」という前提』を疑問視されていますが、しかし指示の担い手が存在しないと「指示」という概念そのものが成り立たなくなるんじゃないでしょうか。(指示する実物が無いのに指示だけは出来るというのは、まるで鏡の国のアリスの「I see Nobody.」に対して「Nobodyが見えるなんてお前はなんて目が良いんだ」にちょっと似てるなあ。)

途中のようなのでチャチャを入れてもしょうがないんですが。

(2009/07/ 7 16:37)
# 勝手批評

・・・・改行できてない・・・・読みにくくてスイマセン・・・・

(2009/07/ 7 16:52)
# コバヤシ


コイツどこで学んだのか知らねーけどフ●ラがクソうめぇwww
ガマンすんだけど口全体でじゅぽじゅぽされると絶対無理!即、発射だわwww
でもなんか気に入られたみたいで「お●んちん吸わせて~笑」ってメールがよく来るw
ま~毎回3マソくれるし、とりあえず吸わせてあげてるwww

http://jun.mdern.net/-48ub8w/

(2009/07/11 4:55)
# Wsxjxcjl

y7ybV3

(2009/07/14 17:43)
# at-akada

放置してる間にスパムまでつくし...。

暇があるときに、少しずつコメントします。

>さっちゃんさん
>>その場合、時点3で友人が「この子があのとき話していた子どもだよ」と語る際に指差すべきなのは、ネ子なのでょうか、それとも羊子なのでしょうか? それとも両方ともなのでしょうか?
これ、むずかしいですね。
考えてみましたがよくわからないです。
「両方」という選択肢もありそうですが、「われわれはこのような場合に言うべきことを知らない」というのが一番ありそうな選択肢です。
(整合的で包括的な理論をつくれと言われれば、わたしは「両方」の道を少し考えたくなります。なぜなら「あのとき話していた子供だけど、なんと2人になってしまったよ」という発話はそれなりにありそうなものだからです)。

(2009/07/23 17:17)
# 勝手批評

・・・・やっとレスがついたと思ったら、一ヶ月以上前に一回だけコメントしたさっちゃんさんへのレスですか・・・・がくり。


それについては直後に僕が回答したもので尽きてると思うんですが。繰り返しになりますが、そもそも時点1では「子供が生まれてきたらこういう名前を付ける」という話しかしていないのですから、この時点では夫妻が或る存在者を指すことは出来ないのです。(この場合彼らはどこを指差せば良いのか。妻のお腹?空の上?)しかし、時点3では子供が実際に存在しているので、振り返ってみて時点1に於いても或る存在者を指示していた、という見せかけが生まれるんだと思うのです。


これは既に書いたように後出しジャンケンそのもので、過去の発言を現在の視点から改変したということです。もちろんこういうことは日常会話では良くある事ですし、ここで「哲学理論」を持ち出さない限りは全く正当な表現でもあるでしょう。


少なくともこの赤田さんの出した例で「祥子」の存在論を展開していくのは単純に間違いだと思います。仮に時点1で「祥子」の(可能的)存在を認めるのなら、その時点では全くの無であるところの「祥子」をどうやって(同)時点1で指示し得るのか、これが大問題になると思います。夫妻の或る一定期間に於ける精子と卵子に限ったとしてさえ、それだけでは何も言った事にはなりません。時点2の実際の赤ん坊となったところの精子xと卵子xが特定されなければならないからです。しかし時点1ではその手がかりは全くゼロなのですから。


時点1でそういう特定が出来ない以上、「この子があのとき話していた子どもだよ」の、『この子』が本当に『あのとき(時点1)話していた子ども』と同一だ、などとは決して言えない事になるのではないでしょうか。

(2009/07/24 12:12)
# at-akada

だんだん勝手批評さんの主張がわかってきました。いささか平行線ですが。。。
勝手批評さんの主張でわたしが頷けないのは、以下の2点の方針に抵触する部分です。

(1)できるだけ、話者の主張を文字通りの真として受け止めたい
(2)できるだけ、どの時点においても一貫した解釈をとりたい
(勝手批評さんの言葉で言う「過去の発言を現在の視点から改変」はわたしには受け入れがたいです)。


そして、指示が困難であるように見えるのはご指摘の通りです。
ただわたしは上記方針と種々のコストを鑑み、指示が可能であると考えたいと思っています。
では、どのように指示が行なわれるのかというと、「存在文を前件とする反事実的条件文によって、複数の可能的対象をまとめて指示しているのだ」というのがわたしの主張です。
(一応本文に書いてある通りです)。


未来の祥子をただ一つピンポイントに指示できると言っているわけではありません。
「すべての赤いもの」について言及するとき、われわれは、まだ一度も見たことがない赤いものについて【も】言及しているわけですが、それと同様に、可能的な祥子の集合にまとめて言及していると言っているわけです。

(2009/07/24 14:40)
# 勝手批評

(1)できるだけ、話者の主張を文字通りの真として受け止めたい


という点については僕も同意してます。日常会話として、ですが。その事とそこへ(余計な)存在論を持ち込む事とは別の事です。日常会話として真である事は、存在論として真である事とは別なわけですから。


(2)できるだけ、どの時点においても一貫した解釈をとりたい


これも良く同意できる所です。でもこの話に関して赤田さんはあまりにも自分の存在論の方へK夫妻の発言を引き込み過ぎだと思う。本文には「もし女の子が生まれてきたら祥子と名付ける」としか書いておられなかったはずですから、「時点1では名前の話しかしていない(だから存在論はお門違い)」という僕の主張はまともなものだと思います。何か言外に隠された意図があったのでしょうか?


>可能的な祥子の集合にまとめて言及している
というのもこの話の例においては場違いだと思うのです。それでは前のコメントで書いたように


「時点1でそういう特定が出来ない以上、「この子があのとき話していた子どもだよ」の、『この子』が本当に『あのとき(時点1)話していた子ども』と同一だ、などとは決して言えない事になるのではないでしょうか。」


という問いにどう答えられるのか。状況はもっと悪い。何故なら赤田さんがおっしゃられる「可能的な祥子の集合」は人間ではなく(これは容易に同意していただけると思います)、それ故、


「この子(時点3の現実の人間である祥子)があの時話していた子ども(時点1の可能的な祥子の集合)だよ」というのは明らかな偽ではないか、という結論にならざるを得ません。

(2009/07/24 16:13)
# 勝手批評

・・・・えっ・・と、議論続いて・・・る?
とりあえず、一週間ほど返事を待ってるんですが・・・・

(2009/07/31 19:32)
# at-akada

ええと、今日もこの時間(10時)まで仕事でして、なかなかまとまった時間がとれません。。
ゆっくりおつきあいいただければさいわいです。


ひとまず小分けして聞いていきます。

>日常会話として真である事は、存在論として真である事とは別なわけですから。
これはどういう意味でしょう?
2つの相容れない真の概念があるという意味であればわたしにはちょっと受け入れがたいです。
あるいは、「日常会話としては正しい発言として受け取られるが、厳密には(厳密な存在論では)まちがいだ」ということでしょうか? そういう意味であれば、それは「文字通りの真」とは受けとっていないのではないかと思います。

(2009/07/31 22:31)
# Anonymous

お仕事お疲れ様です・・・・やっぱ返事を催促しちゃダメなのね。


うーんと、ウィトゲンシュタインみたいな言い方になるけど言葉には日常の用法というものがあるわけで。「文字通りの真」と言ったところで論理学者だけがこの言葉を使うわけではないでしょう。それともK夫妻は論理学者の夫婦だった?(しかもルイス信奉者!)


既に指摘したことだけど普通の会話を論理語に翻訳するのは必ずしも上手くいくわけじゃない。と言うか論理学が扱えるのはそのごく一部と言っていい。もちろん論理学者としてはそれで良いわけだけど。冗談や感嘆詞は論理語に訳せないしねえ。


まあ、そういう根本的な事を置いておいても「可能的な祥子の集合」と「現実の祥子」が同じではないという決定的な問題点があるわけで。何は置いてもこれに答えてもらいたかったなあ。


>2つの相容れない真の概念がある
相容れないというか可能世界的に言うと別の世界で真とされていることが違うというか。これも日常会話的な意味での「別の世界」であって、例えば裁判所が採用する真と物理学者が真と見なす事と、数学者が真と見なす事はそれぞれ違うという。これ、そんなに奇妙な事言ってるかなあ?

(2009/08/ 1 0:53)
# at-akada

ええと、話の進め方まちがえたなあと思ったのですが、
とりあえず、
>「可能的な祥子の集合」と「現実の祥子」が同じではないという決定的な問題点があるわけで。何は置いてもこれに答えてもらいたかったなあ。
この点について言うと、わたしも祥子の集合と祥子が同一であると言いたいわけではないです。


時点1の話者は、複数の可能的な祥子にまとめて言及している、その集合の中には現実の祥子も属しているので、現実の祥子にも言及していたと言っています。
なので、時点1の話者はもちろん現実の祥子を選び出すことはできません。現実の祥子を含むたくさんの祥子たちのそれぞれに言及しています。明示的に言いかえるなら、「この子があのとき話していた子ども(のひとり)だよ」とか「あのとき、この子についても話していた」でしょうか。


なので、話者が(時点1の集合と時点2の子どもの)両者は厳密に同一だというなら、わたしもその発言は文字通りの意味では偽だと受けとめます。

(2009/08/ 6 23:11)
# 勝手批評

>話者が(時点1の集合と時点2の子どもの)両者は厳密に同一だというなら、わたしもその発言は文字通りの意味では偽だと受けとめます。


はあ、そういうことなら見解の違いはないということですね。でも僕はそういう(厳密に同一という)意味でずっと主張されているのかと思ってたんだけどなあ。結局、譲歩されたのかもしれないけど、だとすると譲歩が中途半端なような気がします。


>明示的に言いかえるなら「この子があのとき話していた子ども(のひとり)だよ」とか「あのとき、この子についても話していた」でしょうか。


というのは赤田さんの最初のポリシーである、「できるだけ、話者の主張を文字通りの真として受け止めたい」を逸脱しているような気がします。時点1での発言は複数の子供(複数の可能的な祥子)について語っている様には見えないし、時点3に於ける「この子があのとき話していた子どもだよ」も同様に、そのような複数性を匂わせている所は全くありません。というのも実際生まれてきた祥子は一人なわけですから、これでは辻褄が合わないというものです。


僕にはどうしてそのように赤田さんが(可能世界的)存在論にこだわるのかよく分かりません。全く虚心坦懐に考えて非常に無理のある解釈ではないですか?


逆に僕が提出した、K夫妻は時点1では単に名前について語っていた、という(非常に自然かつ常識的)解釈を否定する理由は何なのでしょうか?この解釈が余りに常識的かつ凡庸で「哲学的でない」ことがその主な理由なのだとしたら、それはあまり良い理由とは言えません。(可能世界が哲学的に「面白い」ことは僕も認めますけど、面白いからそっちに乗る、というのは軽佻浮薄で僕にはそれこそ「哲学的」とは思われません)もしそのような理由ではなく僕の説が間違っている、と思われるのなら、是非反論をお聞かせ願いたい。

(2009/08/ 7 2:41)
# at-akada

えーと、これは完全に堂々めぐりに見えますね。


>逆に僕が提出した、K夫妻は時点1では単に名前について語っていた、という(非常に自然かつ常識的)解釈を否定する理由は何なのでしょうか?
繰返し書いているように、名前について語っているのではないからです。名前ではなく子どもの話をしているからです。もう3回くらい書いた気がするんですが。。
(そもそもそれを述べるために、最初にこのエントリをあげたんですが)
また、勝手批評さんは、勝手に、名前の話しかしていないという風に前提しておられますが、話し手は未来形を利用して、子どもについてもっといろいろな話をすることもできるわけです。
-「その子はきっと美人になるだろう」
-「その子はあの小学校へ進学するだろう」


>「この子があのとき話していた子ども(のひとり)だよ」とか「あのとき、この子についても話していた」でしょうか。
これが不自然なのは、同意します。
この不自然さは何らかの形で吸収されるべきでしょうと思います。
現状特にアイデアはないですが、繰返し述べているように「単に名前の話をしている」というのは今のところ受け入れがたいです。

(2009/08/ 7 6:50)
# 勝手批評

ふむ、よくよく最初の文章を読むと、


>私が友人のK夫妻と、2人の間に将来生まれてくる子どもについて話している。2人はこれから生まれてくる子どもが女の子だったら「祥子」という名前を付けたいと話す。夫妻はこの時点ではまだ妊娠していない。


って書いてあったなあ。なんかずっと勘違いしてました。すいません。少なくとも名前について”だけ”語っているわけではなさそうです・・・・・・と言ってこの場合に将来の女の子の為の存在論が必要だとは全然思わないし、赤田さんご自身認めておられるように非常に不自然な解釈になっていることが、結局はその答えのように思います。


うーん、では名前以外に何を語っているのか?「可能的な祥子の集合」について?まさか!赤田さんが論理学を知らない普通の人だったらこのような奇怪な結論に至るでしょうか?


確かに普通、気の早い夫婦は将来生まれるかもしれない子供について色々考えたり語ったり、ということはあります。でもそれらはその子の名前だったり、着せてあげる服であったり、通わせてやりたい学校であったり、習わせてやりたい習い事だったり・・・・等々ということではないでしょうか?それらのことに存在論が必要なはずはありません。(一体、それ以外に夫婦は将来の子供について存在論がなければ語ることが出来ない何かを語ることがあるだろうか?)


或いは将来生まれてくる子がどちら似かなんていうことなら、これも遺伝学的な知識や確率論的な話で或る程度決着のつく話です。


結局、普通の人は(例えば可能世界的な)存在論なんて知らずに将来生まれてくる(かもしれない)子供について語る、というのは僕には明らかな事なんですが。赤田さんだって論理学者でルイス信奉者以外はそうだろうということは認めるんじゃないでしょうか。

(2009/08/ 7 11:00)
# 勝手批評

・・・・えーっと。どうやら赤田さんは物凄く忙しいようなので、もうこの議論は終りという事で結構です。いまいち納得はできないけど、どうにもコメントの返りが半月後、一ヶ月後というのでは議論をしているという感じでもないので。それに「平行線」とおっしゃられていることも加味して。


あまり難しいことを言ったわけではないのだけど、或いはむしろ言っている事があまりに「常識的」すぎて(哲学的でなくて)つまらん、と思われたのかもしれませんね。少なくとも僕はこの話は「可能世界意味論」を持ち出さなければ理解できない話だとは全然思いません。まあ、ではまたいつか。

(2009/08/31 16:06)
# at-akada

ああ、また返事が遅れててすいません。
忙しいのも事実なのですが、わたしの中でも未整理な部分が多く、解答にはつまりがちです。
(この論争については、お互いこれ以上語ることは少なそうですが、返事の遅さにめげず長期にわたっておつきあい頂いてありがとうございます)。


とりわけ、最後に勝手批評さんが言っておられた

>普通の人は(例えば可能世界的な)存在論なんて知らずに
という部分は、常識の中から、どういう存在論を取り出すことが許されるかという難しい論点を含んでおり、この点については簡単に答えづらいなあと思っておりました。
わたしは個人的には、常識がコミットする(存在論を含む)「理論」を取り出すことはできるだろうと思っておりますが、留保なしにそれが「できる」とも言いがたいと考えます。つまり、微妙な立場です。

(2009/08/31 16:34)
# 勝手批評

>わたしは個人的には、常識がコミットする(存在論を含む)「理論」を取り出すことはできるだろうと思っておりますが


常識から「理論」を取り出すのは構わないんですけど、その理論が常識の側から取り出され、抽出されたものであるという事を忘れて、むしろその理論こそが常識を可能にするのだ、と逆転させるのならそれはとんだ錯誤だろうと思います。(可能世界実在論はまさしくこれではないかなあ。様相的表現が存在するのは確かだけど、それが可能になる為には諸可能世界も存在“しなければならない”という転倒が起こっている。)


僕達の議論に於いて「可能的な祥子の集合」という奇妙なものが要請されなければならなくなってしまうというのは僕達が(可能世界的)存在論“から”考え始めるから起こることであって、これが間違いの元だと思うんです。


でもまあ、これは感覚の違いというものかもしれません。「可能的な祥子の集合」という言い方に実感を感じられる人にとってはそれが「より精確な表現」ということなんでしょうし。僕には現実に起こること/起こったことが最も重要で(当然といえば当然だけど)、生まれてもいない子供に存在論が必要だなんて夢にも思わないなあ。「だって実際生まれてないじゃん。生まれてきてないやつの事ガタガタ言ってもしょうがなくねー?」という頭の悪そうなそこらのニイチャンの直観の方を僕は支持しますね。

(2009/09/ 4 18:05)

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