2009年12月


少し間が空きましたが、こみやさんへの返事をまとめます。前のエントリーのコメント欄は長くなりすぎたのでこちらで。

http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html



以下構成としては、(1)補足的な論点、(2)両者の立場の定式化、(3)わたしの立場を擁護する議論という順に進めます。




「行為・理由・原因」

こみやさんの念頭にあったのはもともとデイヴィドソンの「行為・理由・原因」という論文の議論だったと思うのですが、わたしはずいぶん前に読んだまま内容を忘れていたので改めて読み返しました(翻訳ですが)。

もちろんデイヴィドソン解釈について議論していたわけではないのですが、こみやさんはこちらの議論を頭に置いていたと思うので、わたしがこちらを参照しないことで無駄に論点が複雑になってしまったきらいもあるかと思われます。ですからまずこちらについて触れておきます。


行為と出来事


行為と出来事


確かにデイヴィドソンは「傾向性は原因ではない」と書いています。また、「意図は原因ではない」と書いてます。

この内、後者については、デイヴィドソンは「行為・理由・原因」における「意図は共範疇語であり、それ自体としては意味を持たない」という見解を後に取り下げています。しばらく後に「意図することは賛成的態度の一種である」という見解を取ったようですので、取り下げた見解を直接扱う必要はないと思われます(邦訳第四章、原著第5論文)*。

* ここはわたしがデイヴィドソンの議論を参照しなかったので進め方をまちがえた部分です。デイヴィドソンの議論に即して論じるなら最初から「賛成的態度(-したいこと)」が原因になりえるかどうかという論じ方をした方がシンプルでした。デイヴィドソンが「理由は原因である」という論じ方をするときに念頭に置いているのは意図ではなく賛成的態度ですから。



前者については、実はちょっと迷っています。

こみやさんの言う通り、

「そのグラスは脆かったので割れた」

は因果説明として不十分に感じるというのは、直観的な感覚としては理解できます。

しかしその「不十分」が傾向性に由来するものだとはあまり思っておらず、

「壁が黄色いので目がチカチカする」

の方は、不十分とは感じません。

この「違い」をうまく言い表わせればいいのですが、これ自体「脇道」の議論なので、これ以上は深めないことにします。

これまでの議論については、納得がいく部分も納得がいかない部分もいろいろあるのですが、今や立場の違いがわりとはっきりしていますので、ひとまず「本筋」の議論に集中したいと思います。




立場の違い

わたしとこみやさんの立場の違いをまとめます。

まず、対象になっているのは、以下のような「意図」を「ので」の前件に持つ文です。

「xがFと意図しているので、xはG」

具体例

「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」


論点は

  • (1)これらの文を使って述べられるのは、因果関係の言明であるのか
  • (2)これらの文が因果関係の言明であるとして、「ので」の前件「xがFと意図していること」が原因であり、後件「xはGこと」が結果であるのか

わたしはどちらの問いにもイエスと答えますし、こみやさんはノーと答えます。



両者の立場の違いはこれらの言明に対する捉え方の違いに由来します。


わたしは、「xがFと意図していること」に対応する物理状態のタイプが存在しないことを認めます。しかしこの表現は、文脈依存的に、物理的にも記述できるようなxの状態を指示すると考えます。

以下のように定式化してもよいでしょう。

わたしは、

「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」

のような言明は以下のようにパラフレーズできると思っています。

(少なくとも前者は後者を含意すると思っています)。


この文脈で、男は「男は妻を殺そうと意図している」と適切に記述できるような状態にある。この状態が男が妻の食事に薬を入れることを引き起こす。

「男は妻を殺そうと意図している」というのは男の状態について述べる表現だと考えているわけです。



一方、こみやさんはそう考えていません。

私の考えでは、「男は妻を殺そうという意図している」は、いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません。むしろ、それは単に、「男は妻を殺そうとしている」の異なった表現(言いかえ)である、と主張します。そして、「妻を殺そうとしている」は、男の状態の指示ではなく、「毎日妻の食事に薬を入れる」という男の行為の再記述です。したがって私の考えでは、「男は妻を殺そうとしている」は、男の状態を指示しているのではなく、毎日の男の行為に解釈を与えているのです。

こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図している」と「男は妻の食事に薬を入れる」は、同じ行為を異なった仕方で記述していると考えています。

少しわたしなりに解釈すると、「意図について述べることは、その意図のもとでなされた当の行為がどういう種類の行為であるのかを明示することで、行為について説明しようとしている」という立場だと思われます。

こみやさんのあげている例より、以下のようなものがふさわしいのではないかと考えます*。

男は芝居の練習中なので、刀を振っている。

* こみやさんは「「なんで授業がないのか」と問われて「夏休みだから」」という応答を例にあげていますが、これはあまり適切な例だとは思いません。なぜなら「夏休みだから授業がない」の場合、「夏休みであること」は、「授業がないこと」の十分条件であり、論理的な推論を述べていると解釈できますが、「殺そうと意図すること」は「食事に薬を入れること」の十分条件ではないでしょう(殺そうと意図してても別の殺し方を選ぶことは考えられます)。


この種の言明は因果関係の言明ではなく、男の「刀を振る」という行為が「芝居の練習」という種類の行為であると明示することで行為を説明しています。

こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」もまた、「妻の食事に薬を入れること」が、「妻を殺そうと意図してする行為」という種類の行為であることを明示することで行為を説明していると言いたいのでしょう。




状態説の擁護

以上で、

  • わたしの立場は「xがFと意図することは、xの状態を指示している」、
  • こみやさんの立場は「xがFと意図することは、行為の種類を明示している」

と定式化できました。


ここからわたしの立場を擁護する議論をはじめます。

両者の立場をながめると、こみやさんのような立場をとった場合、xがFと意図することは、xがFと意図しながら、それによってFが実現できると考えて実行したような何らかの行為を必要とします。もしも「意図すること」が行為の再記述であり、行為の種類について述べているのだとすれば、行為なき意図というのは意味をなさなくなります。


よってわたしは、この立場に対する反例として、「意図するが行為しない人のケース」を持ち出したいと思います。

たとえば、以下のような人がいてもおかしくないでしょう。

ある人は会社を辞めようと意図しているが、まったくそれを実行に移さないし、誰にも相談したことがない。自分では何度も会社を辞めようとしているが、人に言ったことはないので本人以外は誰もそれを知らない。その内、会社での立場が変わったので、会社を辞めようと意図すること自体を止めてしまった。



この人は、意図していますが、まったく行為していません。意図することが行為の再記述だとすれば、この人について「会社を辞めようと意図していた」と述べることは、この人のどんな行為について述べているのでしょう。

わたしのような立場を取った場合は、このようなケースに直面しても特に困りません。たとえば、その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができます。


「誰にも話していないのに、どうしてその意図について知ることができるのか」という反論も成立しません。なぜなら、誰にも話していなくても本人は知っているはずですし、「意図するのを止めたあとで話す」ということはありえるからです。会社を辞めようと意図するのを止めてしまった後で、「実は去年会社を辞めようとしていた」と他人に話すのはおかしなことではないでしょう*。

* 細かくなりますが、そもそも「他人には話さなかった」という部分を変えても類似のケースは成立します。なぜなら仮に他人に相談していたとしても、相談するという行為自体は、「会社を辞めようという意図」を実現するためになされているわけではないからです。こみやさんの説は、「妻を殺そうという意図」は、当の意図を実現するために実行した「男が妻の食事に薬を入れる」という行為の再記述であるというものです。ゆえに意図の実現と関係なく意図を説明したという事実があっても、意図の実現のために何もしていないなら、意図が説明すべき当の行為は空のままです。



以上、簡単ですが、「意図するが行為しない人」の事例を、「xがFと意図すること」はxの状態について述べているという説の根拠としたいと思います。

某所でこみやさんと議論になったのでそれについて書きます。

多くの人にとっては、「こみやさん」との議論も読めませんし、「こみやさん」も知りませんし、意味がわかりにくいでしょうが、主としてこみやさんへの返答を意図しています。



テーマは、「心的なもの(あるいは命題的態度)は原因になりえるか」です。

わたしは「心だって物事の原因になる派」。こみやさんは「心は物事の原因にならない派」です。


正確に言えば、こみやさんの結論は、「行為の説明は因果関係による説明になっていなければ説明として完結していないというデイヴィドソンの主張はおかしい」という部分にあるようです。

これについては、わたしはまだ主張の要点がよくわかっておりませんので判断は保留します。


ただ、その結論を述べる過程で、こみやさんは、「心は原因にならない」という立場をとっておられるようです。また「彼は怒ったので急に立ち上がった」のような日常的な文は、「因果関係を述べるものではない」と主張しておられる。

一方、わたしは、「心だって原因になることがある」派であり、

  • 「彼は怒ったので急に立ち上がった」

のような文は、

  • 「彼が怒ったこと」を原因として
  • 「彼が急に立ち上がったこと」が生じた

という因果関係の言明であると見なしています。この点が対立しています。


「彼は怒ったので急に立ち上がった」は因果関係の言明だよ派
  ├─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切であるよ派 --> わたし
  └─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切でないよ派
「彼は怒ったので急に立ち上がった」は因果関係の言明じゃないよ派
  ├─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切であるよ派 --> こみやさん
  └─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切でないよ派

正確に言えば、「彼は怒ったので急に立ち上がった」は「間違った因果関係の言明である」という立場もありえると思うのですが、こみやさんのとっておられる主張は、「これは因果関係以外の何か別のことを述べている」というものです。

なお、上の図を作成するために「派閥ジェネレーター」を利用しました。

http://howdyworld.org/habastu/



一方わたしはこみやさんが「因果関係の言明であるために必要な条件」としてあげているものは強すぎて、あまりに多くのものが因果関係の言明と見なせなくなってしまうと考えています。これについては後述します。





ケース: 殺意のある男

心的なものが原因にならないという主張のために小宮さんが持ち出したケースがあります。


ある男がいて、何かの薬を買ってきて毎日少しずつ妻の食事に混ぜている。男は妻を殺そうと意図しているため、毎日少しずつ薬を妻の食事に混ぜている。


このとき、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」という文は、

  • 「男が妻を殺そうと意図していること」を原因とし、
  • 「男が妻の食事に薬を混ぜる」を結果とするような、

因果関係の言明なのでしょうか?


わたしはイエスと答えます。

一方こみやさんはノーと答えます。こみやさんがノーと答える理由は、わたしなりに再構成すれば以下のようなものです。

  • 男が妻を殺そうと意図していることが脳の物理状態のような、特定の物理状態のタイプに対応するという想定は疑わしい。
  • 男が殺そうという意図を持っていた期間が、たとえば1ヶ月であったとしよう。
    • この一ヶ月の間、男の脳が特定の物理状態にあったと言えるだろうか。そう考えるためには、寝ている間も、他のことを考えている間も、男の脳内である物理状態のタイプ(殺意スイッチがオンであるというような状態)が実現されていなければならないように思われる。
    • なぜなら、われわれが「その男が殺そうという意図を持っていたのはいつからいつまでなのか?」と問われたならば、「その一ヶ月の間ずっと」と答えるであろうから、「殺そうという意図」に対応する物理状態があるなら、それはその一ヶ月間ずっと続いていたのでなければならない。
    • しかし、そのようなことはありそうにない。
  • ゆえに、「男が妻を殺そうと意図していること」に対応する物理状態は存在しない。
  • 対応する物理状態が存在しないのならば、その出来事は原因となることはない*。
  • ゆえに、「男が妻を殺そうと意図していること」は原因ではありえない。
  • しかし、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」はこの場合正しい文であるように見える。
  • ところが、原因ではありえないものを原因の位置に起く因果関係の言明が正しいはずがない。
  • ゆえに「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」は因果関係の言明ではない。

* ちなみにここでこみやさんは実際には「出来事ではない」と述べていますが、これはわたしと「出来事」という言葉の用法が違うためだと思われます。わたしは、そもそも日本語で「...こと」と書かれるような語句はすべて(トリビアルに)出来事を指示するという前提で、「出来事」という概念を使っています(というか、その手の語句が指示するもののことを「出来事」と呼んでいます)。


さて、以上の論証の過程でこみやさんは次の条件を用いています。

条件C: 「xがFこと」という出来事について、Fに対応する自然な物理状態のタイプが存在しないならば、「xがFこと」は他の出来事の原因となることはできない。


わたしは、この条件は強すぎると考えています。これを認めなければならないとすると、われわれが日常的に因果関係の言明であると考えている多くの言明が、実は因果関係の言明ではなかったことになってしまいます。



反例: 傾向性

条件Cは、ある出来事が原因となるために必要な条件としては強すぎます。

これは、「心」をどう捉えるか以前の問題であり、心以外の様々なものがこの条件によって原因の地位を奪われることになってしまいます。


ひとつの例は、「傾向性」です。

傾向性について詳しくは説明しませんが、「可塑性」「弾性」「赤さ」「脆さ」など、反事実的条件文によって表現されるような性質のことです(「一定の力をくわえれば変形する」「一定の速さで衝突すればはねる」「一定の光のもとで見れば赤く見える」「一定の衝撃を与えればこわれる」...)。


こみやさんが利用した条件Cが正しいなら、傾向性に言及する出来事は、原因であることができません。

  • このボールは弾性をもつので、地面に落ちたあと高く跳びあがった。
  • 壁が黄色いので目がチカチカする。
  • このグラスは脆いので、倒れただけで割れてしまった。

...

どれも通常の因果関係の言明に見えます。

しかし、「このボールが弾性をもつこと」「壁が黄色いこと」などに対応する物理状態のタイプは存在しません。

ゆえに条件Cのもとでは、これらも因果関係の言明ではないことになります。


なぜ「壁が黄色いこと」に対応する物理状態のタイプは存在しないのか?

たとえば、壁がy化鉄という物質を表面に含んでいるために黄色いのだとしてみましょう。

「壁の表面がy化鉄を含む」は「壁が黄色いこと」に対応しません。

なぜなら、壁はy化鉄を含まなくても、(他の適切な物質を含んでいれば)黄色いからです。「男が妻を殺そうと意図する」に対応するケースをつくるなら、「途中で構成物質が完全に入れ替わるが、一ヶ月間ずっと黄色い壁」というものを考えることもできるでしょう。

わたしは一ヶ月間あるオフィスに通い、オフィスの壁が黄色いせいで目がチカチカし、目の痛みに悩まされるのですが、その一ヶ月の途中に工事があって、オフィスの壁はまるまる他の材質に変えられているのです。


「y化鉄を含む」は「壁が黄色いこと」に寄与するかもしれませんが、「y化鉄を含む」と「壁が黄色いこと」はぴったり対応しません。そもそも「黄色い」という性質は、人間のような感覚器官を持った生物がいて、はじめて意味をなす性質です。そのような性質にぴったり対応するような物理状態のタイプというものが考えられるでしょうか?



「対応する物理状態が存在しない」というのは言葉のあやであり、「y化鉄を含む」が「壁が黄色いこと」に寄与するだけで、原因であるための条件としては十分なのだと主張することもできません。

もしそう主張できるなら、「男が妻を殺そうと意図すること」についても同じことが主張できます。

「男が妻を殺そうと意図している」が適切であるためには、様々な事実が必要ですし、多くの物理的な性質もそれに寄与しています。

「男が妻を殺そうと意図している」が適切であるのは、たとえば男が手を動かしサイフからお金を取り出して薬を購入したこと、男はその薬が毒薬であるという文を読んでいたこと、男が自分の手を動かし薬を朝食に混ぜたことなどの事実があった場合です。そこに物理的な性質が一切関与していないなどということがあるでしょうか?




わたしの立場

以上で、こみやさんの反論としては十分であると思いますが、わたしの立場についてももう少し説明しておきます。



出来事が原因でありうるためには、どんな条件を満たすべきなのか?

「そんな条件はない」というのがわたしの解答です。

「どんな出来事が原因でありえるのか?」「すべて!」というのがわたしの意見です。

現実に原因ではなかった出来事はありますが、原因であることが不可能な出来事は存在しないと考えます。


たとえば「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」というのは、わたしの祖先に実際に起きた出来事ですが、これが何か他の出来事を引き起こしたとは考えづらいです。

しかし、「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」が、他の出来事の原因であることは可能であったと思います。

わたしの祖先は、何らかの理由で「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」を知り、デイヴィドソンの読者の祖先であることを積極的に引き受けようとするかもしれません。

それによって「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」の内実が変化し、他のさまざな出来事がその一部になる。

「出来事」という概念はそういった事態を許容するくらい柔軟なものであるとわたしは考えます。




「...こと」という語句によって指示されているのは何なのか?

「壁が黄色いこと」

「男が妻を殺そうと意図していること」

「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」

などが出来事を指示するとして、ではそれらの語句が指示するものは一体何なのか?出来事ってそもそも何?という疑問に触れます。


これに答えるのはとても難しいことです。

わたしは、これらの「こと」語句によって指示されているものがあると考えますし、それを「出来事」と呼びますが、その正体が何であるかを説明することは困難です。

これを説明するのは、「出来事に関する体系的な理論をつくる」作業になってしまうと思われます。


しかしそれを説明しないと納得感は得られそうにないので、答えることを試みてみます。


ところで、ある語句が何かを指示するというとき、われわれは語句が何を指示しているのかを説明するために言語を用いなければなりません。

わたしは、物理的性質・関係を指示する述語しか持たない架空の物理的言語を想定し、それを用いて記述するとすればこうなるだろうという仮定のもとで説明してみます。

(ややこしいですが、出来事は物理的なものだと言ってるわけではありません。物理的言語によって記述すればこうなるだろうと言ってるだけです)。



  • 「xがF」が真である場合
    • 物理的言語によって記述される事実の内で、「xがF」という文トークンを真にする諸事実がある。
    • 「xがFこと」という語句(トークン)が指示するのは、これらの諸事実の内のxに関するもの、「xがG」という形式のものの集合である。
  • 「xがF」が偽である場合
    • 「xがFこと」は何も指示しない。

「壁が黄色いこと」の場合、「壁がy化鉄を含む」という事実は(物理的言語がその文を許容するなら)、「壁が黄色いこと」によって指示される事実の一部です。

「男が妻を殺そうと意図していること」の場合、「男がある薬を購入した」「男はその薬が毒薬であると書いてある本を読んだ」という事実は(物理的言語がその文を許容するなら)、「男が妻を殺そうと意図していること」によって指示される事実の一部です。


「xがG」という形式のものだけを選ぶ理由は、出来事の主体と関係ない事実が入ってくると変だからです。

(たとえば、他の条件だけだと、男が妻の食事に混入していた薬を発明した人とか、その薬が毒薬であるという本を書いた人とか、そういう人に関する事実が混ざってしまう可能性がある。しかしそういう事実も指示されるっていうのは変じゃないかと思うわけです)。


なお、「壁が黄色いこと」と「壁がy化鉄を含む」が同じことを言っているとは言っていません。

「壁が黄色いこと」によって指示される事実の一部が「壁がy化鉄を含む」によって指示される事実であると言っています。つまり同じことについて言っていると主張しています。

すっごくわかりにくいと思いますが、「同じことを言っている」のと、「同じことについて言っている」の対比はこの場合重要であると考えています。



正直この返答については、もっと細部を詰める必要があるでしょう。

xが物理的言語に現われない名前だった場合どうするんだとか、「文を真にする諸事実」ってどういうものだとか、そういうことを明確にしなければなりませんが、この記事を書くためにそういう細部が必要だとも思えませんので以上で止めておきます。というかそれをはじめると「出来事に関する体系的な理論をつくる」はめになります。

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)



上の本を読んで取っていたメモ。


ヤマアラシ

日本語の「ヤマアラシ」という語には、「ハリモグラ」や「ハリネズミ」は含まれない。

Wikipediaによれば、

ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリネズミ



さて今、わたしがそのことを知らず、ヤマアラシを前にして、「ハリネズミがいる」とつぶやく。

わたしは「ヤマアラシ」と「ハリネズミ」の区別を知らず、ハリのある哺乳類は皆「ハリネズミ」と呼ばれるのだと思っている。つまりわたしは、この言葉は、「ハリのある哺乳類」というくらいの意味だと思っている。

私は、「ハリネズミがいる」と思っている。


問題は、このとき私の言葉「ハリネズミ」は何を指示するのかということ。

主として二通りの可能性があるだろう。


  • (1)赤田の言葉「ハリネズミ」はヤマアラシとハリネズミの両方を指示する。
  • (2)赤田の言葉「ハリネズミ」はハリネズミを指示する。


(1)の選択肢を取ったケース

(1)の選択肢を取りたくなる理由の1つは、「私がそう意図しているから」というものだろう。

この場合、赤田語の

  • 「ハリネズミがいる」

は日本語では、

  • 「針のある哺乳類がいる」

という意味であり、真である。

  • ?「赤田は、ハリネズミがいると思っている」

は、日本語の文としては偽であり、赤田語の文としては真である。



(2)の選択肢を取ったケース

赤田は日本語を喋ってるんだから、日本語として解釈すべきだろ!という立場。

この場合、赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるように見えるが、それほど問題はない。


ただし以下は偽である(そこにいるのは、ヤマアラシなのだから)。

  • F 「ハリネズミがいる」

しかし、以下の主張はどちらも真になる。

  • T「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
  • T「わたしは、ハリネズミがいると思っている」(赤田によって発話された場合)

下が真になるのは、どちらも日本語の文であり、三人称を一人称に変えたくらいで真偽が変化するはずがない、ということから明らかだろう。つまり、この場合でも、「赤田は自分の考えていることを知っている」という前提は崩れない。

赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるのは確かかもしれないが、いずれにしても私は自分の心について正確に知っていることになる。



結論

デイヴィドソンの主張は以下のようなものに見える。これは同意できる。

(1)でも(2)でも、そんなに問題はないんだよ。どっちの要素もわれわれの言語の中にはあるんだから、そのどっちかを排除するような議論はそもそもおかしいよ。




他のメモ

信念に対する、デイヴィドソンの立場は、

信念というのは心の状態のことで、発話(or文)によって特定される。

というもののようだ。


「赤田は、ハリネズミがいると思っている」という主張は、「ハリネズミがいる」という文を使って、赤田のある心の状態を特定しているという感じの立場。

これはわりと納得。



心のタイプ同一説

また別のメモ。

タイプ同一説について。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6#.E5.90.8C.E4.B8.80.E8.AA.AC


強い意味でのタイプ同一説を信じる人ってほとんどいないと思うんだ。

ハリネズミがいると思っている人は、誰でも脳が同じような物理的状態になっている。

(「ハリネズミがいる」的脳状態も存在するし、人間が心に抱くようなあらゆる命題タイプについて、それに対応する脳状態が存在する)

みたいな立場ね。


しかし弱い意味でのタイプ同一説ということになると、「心の科学」にかかわるほとんどの人が信じている立場なのではないだろうか。

弱い意味でのタイプ同一説というのは、

  • 痛みに対応する脳状態が存在する。
  • 記憶の想起に対応する脳状態が存在する。

みたいな発想のこと。

(トークン同一説とは別)。


「ハリネズミがいると思っている」のような主張はフォークセオリーに属するものなので、心の科学者にとってはどうでもよい事柄かもしれない。しかしフォークセオリーから選ばれた・心の科学者にとっても受容可能な・「心の状態の記述」を脳状態と関係づけることは大いにありそうだ。

むしろ心の科学者の仕事は、「心の状態」を被説明項としてとり、「脳の状態」を説明項としてとり、前者を後者によって説明することにあるように見える。

ところが、デイヴィドソンの議論だと、それさえ排除されてしまうように思える。

どのような心の記述であっても、フォークセオリーから離れることはできず、それゆえ脳状態とタイプ的に同一であることはできないとデイヴィドソンは考えているようだ。


この点については、一応自分の中で落しどころは見えている。

デイヴィドソンの主張は、あくまでも、

物理学ほど厳密な法則性は望めない。

厳密な同一性は望めない。

というくらいのものである。

しかし、哲学者が考えるような同一性や厳密な法則性を心の科学者が必要としているとは思えない。

哲学者の言う同一性はとても強い関係である。


「厳密に同一でない」という説は、心の状態と脳の状態の間に因果関係や相関関係が存在することを否定するものではない。

そして心の科学者にとっては、同一性よりずっと弱い因果関係や相関関係で十分なのではないかと思う。

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