主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)
上の本を読んで取っていたメモ。
■ ヤマアラシ
日本語の「ヤマアラシ」という語には、「ハリモグラ」や「ハリネズミ」は含まれない。
Wikipediaによれば、
ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリネズミ
さて今、わたしがそのことを知らず、ヤマアラシを前にして、「ハリネズミがいる」とつぶやく。
わたしは「ヤマアラシ」と「ハリネズミ」の区別を知らず、ハリのある哺乳類は皆「ハリネズミ」と呼ばれるのだと思っている。つまりわたしは、この言葉は、「ハリのある哺乳類」というくらいの意味だと思っている。
私は、「ハリネズミがいる」と思っている。
問題は、このとき私の言葉「ハリネズミ」は何を指示するのかということ。
主として二通りの可能性があるだろう。
- (1)赤田の言葉「ハリネズミ」はヤマアラシとハリネズミの両方を指示する。
- (2)赤田の言葉「ハリネズミ」はハリネズミを指示する。
■ (1)の選択肢を取ったケース
(1)の選択肢を取りたくなる理由の1つは、「私がそう意図しているから」というものだろう。
この場合、赤田語の
- 「ハリネズミがいる」
は日本語では、
- 「針のある哺乳類がいる」
という意味であり、真である。
- ?「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
は、日本語の文としては偽であり、赤田語の文としては真である。
■ (2)の選択肢を取ったケース
赤田は日本語を喋ってるんだから、日本語として解釈すべきだろ!という立場。
この場合、赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるように見えるが、それほど問題はない。
ただし以下は偽である(そこにいるのは、ヤマアラシなのだから)。
- F 「ハリネズミがいる」
しかし、以下の主張はどちらも真になる。
- T「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
- T「わたしは、ハリネズミがいると思っている」(赤田によって発話された場合)
下が真になるのは、どちらも日本語の文であり、三人称を一人称に変えたくらいで真偽が変化するはずがない、ということから明らかだろう。つまり、この場合でも、「赤田は自分の考えていることを知っている」という前提は崩れない。
赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるのは確かかもしれないが、いずれにしても私は自分の心について正確に知っていることになる。
■ 結論
デイヴィドソンの主張は以下のようなものに見える。これは同意できる。
(1)でも(2)でも、そんなに問題はないんだよ。どっちの要素もわれわれの言語の中にはあるんだから、そのどっちかを排除するような議論はそもそもおかしいよ。
■ 他のメモ
信念に対する、デイヴィドソンの立場は、
信念というのは心の状態のことで、発話(or文)によって特定される。
というもののようだ。
「赤田は、ハリネズミがいると思っている」という主張は、「ハリネズミがいる」という文を使って、赤田のある心の状態を特定しているという感じの立場。
これはわりと納得。
■ 心のタイプ同一説
また別のメモ。
タイプ同一説について。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6#.E5.90.8C.E4.B8.80.E8.AA.AC
強い意味でのタイプ同一説を信じる人ってほとんどいないと思うんだ。
ハリネズミがいると思っている人は、誰でも脳が同じような物理的状態になっている。
(「ハリネズミがいる」的脳状態も存在するし、人間が心に抱くようなあらゆる命題タイプについて、それに対応する脳状態が存在する)
みたいな立場ね。
しかし弱い意味でのタイプ同一説ということになると、「心の科学」にかかわるほとんどの人が信じている立場なのではないだろうか。
弱い意味でのタイプ同一説というのは、
- 痛みに対応する脳状態が存在する。
- 記憶の想起に対応する脳状態が存在する。
みたいな発想のこと。
(トークン同一説とは別)。
「ハリネズミがいると思っている」のような主張はフォークセオリーに属するものなので、心の科学者にとってはどうでもよい事柄かもしれない。しかしフォークセオリーから選ばれた・心の科学者にとっても受容可能な・「心の状態の記述」を脳状態と関係づけることは大いにありそうだ。
むしろ心の科学者の仕事は、「心の状態」を被説明項としてとり、「脳の状態」を説明項としてとり、前者を後者によって説明することにあるように見える。
ところが、デイヴィドソンの議論だと、それさえ排除されてしまうように思える。
どのような心の記述であっても、フォークセオリーから離れることはできず、それゆえ脳状態とタイプ的に同一であることはできないとデイヴィドソンは考えているようだ。
この点については、一応自分の中で落しどころは見えている。
デイヴィドソンの主張は、あくまでも、
物理学ほど厳密な法則性は望めない。
厳密な同一性は望めない。
というくらいのものである。
しかし、哲学者が考えるような同一性や厳密な法則性を心の科学者が必要としているとは思えない。
哲学者の言う同一性はとても強い関係である。
「厳密に同一でない」という説は、心の状態と脳の状態の間に因果関係や相関関係が存在することを否定するものではない。
そして心の科学者にとっては、同一性よりずっと弱い因果関係や相関関係で十分なのではないかと思う。
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随分久しぶりですね。
ウィトゲンシュタイン的に言うと、この問題、「ハリネズミがいる」という発語がここで“どのように”使われているか、という事に尽きているんじゃないでしょうか。そしてその“どのように”はこの設定では特に決められていない。(だから答えは一定ではない)
要するにこの発言が単なる独り言である場合、或いは実際にその発言が分類学上の正しさを必要とする場合とでは出てくる結論は随分違うものになると思います。
非専門家の単なる独り言の場合、ここで議論されているような厄介な指示の哲学的問題は起きようがありません。要するに(1)のごく普通の緩い素人判定です。その間違いを指摘する人がいないし、また、その必要も感じていないのなら、ここには正解も間違いもあり得ません。
でもここで赤田さんの隣にハリネズミの専門家が居たとすれば赤田さんの信念がどうこうではなく、「いや、君は間違っている。あれはハリネズミではなく、ヤマアラシだ」と訂正される事になります。
』 (2009/12/ 9 17:54)・・・・・ってなんかまた哲学っぽくなくなったな。
はい、わたしもこの問題については特にどちらの選択肢が正しいという明確な答えがあるわけではないと思っています。
』 (2009/12/10 0:01)「どっちかは絶対おかしい」と考えざるをえないような立論はおかしい(ケースバイケースでどっちもありえるはずだ)と考えてます。