少し間が空きましたが、こみやさんへの返事をまとめます。前のエントリーのコメント欄は長くなりすぎたのでこちらで。
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html
以下構成としては、(1)補足的な論点、(2)両者の立場の定式化、(3)わたしの立場を擁護する議論という順に進めます。
■ 「行為・理由・原因」
こみやさんの念頭にあったのはもともとデイヴィドソンの「行為・理由・原因」という論文の議論だったと思うのですが、わたしはずいぶん前に読んだまま内容を忘れていたので改めて読み返しました(翻訳ですが)。
もちろんデイヴィドソン解釈について議論していたわけではないのですが、こみやさんはこちらの議論を頭に置いていたと思うので、わたしがこちらを参照しないことで無駄に論点が複雑になってしまったきらいもあるかと思われます。ですからまずこちらについて触れておきます。
確かにデイヴィドソンは「傾向性は原因ではない」と書いています。また、「意図は原因ではない」と書いてます。
この内、後者については、デイヴィドソンは「行為・理由・原因」における「意図は共範疇語であり、それ自体としては意味を持たない」という見解を後に取り下げています。しばらく後に「意図することは賛成的態度の一種である」という見解を取ったようですので、取り下げた見解を直接扱う必要はないと思われます(邦訳第四章、原著第5論文)*。
* ここはわたしがデイヴィドソンの議論を参照しなかったので進め方をまちがえた部分です。デイヴィドソンの議論に即して論じるなら最初から「賛成的態度(-したいこと)」が原因になりえるかどうかという論じ方をした方がシンプルでした。デイヴィドソンが「理由は原因である」という論じ方をするときに念頭に置いているのは意図ではなく賛成的態度ですから。
前者については、実はちょっと迷っています。
こみやさんの言う通り、
「そのグラスは脆かったので割れた」
は因果説明として不十分に感じるというのは、直観的な感覚としては理解できます。
しかしその「不十分」が傾向性に由来するものだとはあまり思っておらず、
「壁が黄色いので目がチカチカする」
の方は、不十分とは感じません。
この「違い」をうまく言い表わせればいいのですが、これ自体「脇道」の議論なので、これ以上は深めないことにします。
これまでの議論については、納得がいく部分も納得がいかない部分もいろいろあるのですが、今や立場の違いがわりとはっきりしていますので、ひとまず「本筋」の議論に集中したいと思います。
■ 立場の違い
わたしとこみやさんの立場の違いをまとめます。
まず、対象になっているのは、以下のような「意図」を「ので」の前件に持つ文です。
「xがFと意図しているので、xはG」
具体例
「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」
論点は
- (1)これらの文を使って述べられるのは、因果関係の言明であるのか
- (2)これらの文が因果関係の言明であるとして、「ので」の前件「xがFと意図していること」が原因であり、後件「xはGこと」が結果であるのか
わたしはどちらの問いにもイエスと答えますし、こみやさんはノーと答えます。
両者の立場の違いはこれらの言明に対する捉え方の違いに由来します。
わたしは、「xがFと意図していること」に対応する物理状態のタイプが存在しないことを認めます。しかしこの表現は、文脈依存的に、物理的にも記述できるようなxの状態を指示すると考えます。
以下のように定式化してもよいでしょう。
わたしは、
「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」
のような言明は以下のようにパラフレーズできると思っています。
(少なくとも前者は後者を含意すると思っています)。
この文脈で、男は「男は妻を殺そうと意図している」と適切に記述できるような状態にある。この状態が男が妻の食事に薬を入れることを引き起こす。
「男は妻を殺そうと意図している」というのは男の状態について述べる表現だと考えているわけです。
一方、こみやさんはそう考えていません。
私の考えでは、「男は妻を殺そうという意図している」は、いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません。むしろ、それは単に、「男は妻を殺そうとしている」の異なった表現(言いかえ)である、と主張します。そして、「妻を殺そうとしている」は、男の状態の指示ではなく、「毎日妻の食事に薬を入れる」という男の行為の再記述です。したがって私の考えでは、「男は妻を殺そうとしている」は、男の状態を指示しているのではなく、毎日の男の行為に解釈を与えているのです。
こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図している」と「男は妻の食事に薬を入れる」は、同じ行為を異なった仕方で記述していると考えています。
少しわたしなりに解釈すると、「意図について述べることは、その意図のもとでなされた当の行為がどういう種類の行為であるのかを明示することで、行為について説明しようとしている」という立場だと思われます。
こみやさんのあげている例より、以下のようなものがふさわしいのではないかと考えます*。
男は芝居の練習中なので、刀を振っている。
* こみやさんは「「なんで授業がないのか」と問われて「夏休みだから」」という応答を例にあげていますが、これはあまり適切な例だとは思いません。なぜなら「夏休みだから授業がない」の場合、「夏休みであること」は、「授業がないこと」の十分条件であり、論理的な推論を述べていると解釈できますが、「殺そうと意図すること」は「食事に薬を入れること」の十分条件ではないでしょう(殺そうと意図してても別の殺し方を選ぶことは考えられます)。
この種の言明は因果関係の言明ではなく、男の「刀を振る」という行為が「芝居の練習」という種類の行為であると明示することで行為を説明しています。
こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」もまた、「妻の食事に薬を入れること」が、「妻を殺そうと意図してする行為」という種類の行為であることを明示することで行為を説明していると言いたいのでしょう。
■ 状態説の擁護
以上で、
- わたしの立場は「xがFと意図することは、xの状態を指示している」、
- こみやさんの立場は「xがFと意図することは、行為の種類を明示している」
と定式化できました。
ここからわたしの立場を擁護する議論をはじめます。
両者の立場をながめると、こみやさんのような立場をとった場合、xがFと意図することは、xがFと意図しながら、それによってFが実現できると考えて実行したような何らかの行為を必要とします。もしも「意図すること」が行為の再記述であり、行為の種類について述べているのだとすれば、行為なき意図というのは意味をなさなくなります。
よってわたしは、この立場に対する反例として、「意図するが行為しない人のケース」を持ち出したいと思います。
たとえば、以下のような人がいてもおかしくないでしょう。
ある人は会社を辞めようと意図しているが、まったくそれを実行に移さないし、誰にも相談したことがない。自分では何度も会社を辞めようとしているが、人に言ったことはないので本人以外は誰もそれを知らない。その内、会社での立場が変わったので、会社を辞めようと意図すること自体を止めてしまった。
この人は、意図していますが、まったく行為していません。意図することが行為の再記述だとすれば、この人について「会社を辞めようと意図していた」と述べることは、この人のどんな行為について述べているのでしょう。
わたしのような立場を取った場合は、このようなケースに直面しても特に困りません。たとえば、その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができます。
「誰にも話していないのに、どうしてその意図について知ることができるのか」という反論も成立しません。なぜなら、誰にも話していなくても本人は知っているはずですし、「意図するのを止めたあとで話す」ということはありえるからです。会社を辞めようと意図するのを止めてしまった後で、「実は去年会社を辞めようとしていた」と他人に話すのはおかしなことではないでしょう*。
* 細かくなりますが、そもそも「他人には話さなかった」という部分を変えても類似のケースは成立します。なぜなら仮に他人に相談していたとしても、相談するという行為自体は、「会社を辞めようという意図」を実現するためになされているわけではないからです。こみやさんの説は、「妻を殺そうという意図」は、当の意図を実現するために実行した「男が妻の食事に薬を入れる」という行為の再記述であるというものです。ゆえに意図の実現と関係なく意図を説明したという事実があっても、意図の実現のために何もしていないなら、意図が説明すべき当の行為は空のままです。
以上、簡単ですが、「意図するが行為しない人」の事例を、「xがFと意図すること」はxの状態について述べているという説の根拠としたいと思います。
コメント(8)
コメントする
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 心と原因のつづき
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.at-akada.org/mt/mt-tb.cgi/1018

お返事ありがとうございました。こうした議論では、数日程度で「少し間が空いた」というのはペース配分として速すぎるようにも思いますので、のんびりやりましょう。
さて、今回のat_akadaさんの主張については、まずこれまでの私の主張が十分伝わっていないという印象を持ちましたので、あらためて私の主張を再定式化することでお答えとしたいと思います。
--- ---
まず、私がなぜ殺意の例を挙げたかといえば、その事例においては、「意図する」ことを物理状態のタイプへと還元することが難しく、かつ、(「殺そうとする」と「毎日薬を入れるが同じ行為であるがゆえに)被説明項が説明項によって「引き起こされた」と考えることもできないからです。すなわち、そこでは通常「因果説明」と呼ばれる説明
・ある物理的出来事が別の物理的出来事を引き起こす
が成立する条件が満たされない、ということです。
そして、にも関わらず、殺意に言及して男の行為を説明することは、説明として十分成立します。であるならば、その説明力は因果説明の説明力には依存していないと考えるべきだ、というのが、殺意の例をもって私が述べかったことのすべてです。
ここには、
a)「意図する」ことは、どのような場合においても行為者の状態ではない
という主張も含まれていなければ
b)意図への言及はつねに行為の再記述である
という主張も含まれていません。
そうではなく、私の主張は
c)意図への言及による行為の説明の説明力は、因果説明の説明力に依存していない(むしろ、記述どうしの意味連関に依存する)
というものなのです。意図への言及が行為の再記述になっている事例は、その意味連関がもっとも先鋭になる場合のひとつにすぎません。
したがって
・「意図する」ことを行為者の状態として解釈できる場合がある
と述べることは、私の主張(c)に対する反論にはなりません。(c)から引き出される帰結は、そのような場合でも、その状態を「原因」と考えなくても行為の説明は十分成立する、ということだからです。
たとえば、「なぜ荷造りをしているのか」と問われて「旅行に行くつもりなんだ」と答える場合を考えてみましょう。殺意の例とは違って、「旅行に行く」は「荷造りをする」の再記述ではありません(むしろ、荷造りをすることは旅行に行くための準備です)。また、「旅行に行く意図もつ」ことを行為者の物理状態と解釈したければ、そうすることもできるかもしれません。
しかしこのとき、
・「旅行に行く意図もつ」という行為者の状態が原因となって、「荷造りをする」という行為が引き起こされた
と考えなければ件の説明は説明力を持たない、というわけではない、というのが私の主張なのです。「旅行に行く」人は何をすべきかということを私たちは知っており、「荷造りをする」ことはその中に含まれているのであり、したがって二つの記述の意味的関係だけから、説明は十全に成り立つ、と私は考えます。
したがって、私の主張(c)を次のように言いかえることもできるかもしれません。
・「意図をもつ」とは、その意図との関連で自らが為すべき行為を行為者が知っているということである。
そして、そうした知識を行為者に帰属するにあたって、行為者が「為すべき行為」にすでに着手している必要は必ずしもありません。荷造りをする前から人は「旅行に行くつもりだ」と言うことができるのであり、それは自分が何をすべきかを知っているということなのであり、ゆえにそう言ったにも関わらず荷造りを始めないなら、その意図の自己帰属は他者から取り消されるかもしれない。それだけのことなのです。
他方、すでに着手された行為については、その行為と関連ある意図が言及されるならば、それだけで行為の説明は成立します。
』 (2009/12/21 21:13)以上、意図の帰属は意図と行為の意味連関についての知識の帰属であるというのが私の考えであり、それゆえ「意図するが行為しない人」のケースの提示はそもそも私の主張への反論を構成しない、と主張したいと思います。
そのうえで、もう少し積極的に「意図するが行為しない人」のケースについて述べるならば、それは意図帰属の適切性がどのように確保されるか、という点から意図と行為の関係について考えるために役立つように思います。
私の考えでは、「会社を辞めよう」と自分が意図していることについて本人が「知っている」というときのその知識は、自分の心や脳が(タイプ同一的にであれトークン同一的にであれ)いかなる状態にあるかについての経験的知識ではありません。自分の脳の状態を見て「私は初めて自分が○○しようとしていたと知った」「私は○○しようと思っていたが脳を見る限り私は間違っていたようだ」などと言うのは奇妙なことです。
むしろ、自分の意図についての知識は、上で「意図と行為の意味連関」と呼んだものについての知識である、と考えます。すなわち、自らの意図について知っているということは、それと意味的に結びついた行為を自分が為すべきだと知っていることだ、と私は考えます。at_akadaさんの例で言えば、
・「会社を辞めよう」と自分が意図していることを知っている
という意図の自己帰属は
・「会社を辞める」という意図と関連して、自分がいかなる行為(ex. 「辞表を出す」「次の仕事を探す」)を為すべきかを知っている
という知識の自己帰属であること、それゆえ
・その意図を公言するならば、自分はその為すべき行為を為すだろうと他者から予期されることを知っている
ということだと私は考えます。
そしてこの点で
・その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができる
というat_akadaさんの考えに私は反対です。
もし、「私は会社を辞めようとしている」と公言しつつまったく何もしない人がいたら、意図の表明を聞いた人は「なぜ何もしないのか」「本当に辞めようとしているのか」と尋ねることができるでしょう。そのとき、「なぜ私が何かしなければならないのか。とにかく私は何度も辞めようと思っているのであるから辞めようと意図しているのだ」などとその人が答えるなら、その人は「意図する」という言葉の意味を理解していないのだとみなされても仕方ないように思いますし、少なくとも「辞めようとしている」という意図の自己帰属は取り消される可能性を持つことでしょう。
要するに、「意図をもつ」という表現を、私たちは単に「思っている状態」という意味では、使っていないのです。「会社を辞めようと意図していた」とある人の状態を適切に記述しうるには、「会社を辞めよう」と思っていたという「だけ」では足りず、自らの(将来の)行為を、関連する様々な状況や行為との意味連関のもとに置くことで筋の通ったものにすることが(求められれば)できるということが必要であるように私には思えます。そして、このことは意図の自己帰属についても言えることですから、ある人が意図を公言するかどうかとは無関係に言えることなのです。
』 (2009/12/21 21:21)先に述べた
・意図の帰属とは、「思い」の帰属ではなく、意図と行為の意味連関に関する知識の帰属である
ということで私が考えているのは以上のようなことであり、そして意図の帰属がそのようなものであるからこそ、「意図をもつ」ことが行為者の状態を指示すると解釈しうるかどうかなどとはまったく無関係に(解釈できる場合でもできない場合でも)、意図への言及は行為に対する説明力を持つのだ、というのが私の主張なのです。
以上は私の考えですが、at_akadaさんの考えについて、私はまだよくわからない部分があるので、簡単に疑問を述べておこうと思います。
at_akadaさんの議論において
・「意図をもつ」ことは「行為者の状態」である
という主張から
・意図は行為の原因である
という主張が導かれているように見えます。
そして「行為者の状態」なるものについては、トークン同一説に立つと主張されているように見えます。
しかしながら、トークン同一説が
・行為者の状態は、物理状態のトークンとして記述を与えることができる
ということを意味するにすぎないのなら、これはある意味ではあたりまえにすぎる主張です。何であれ、私たちが生活しているときには、脳はいつも何らかの状態にあるのですから。
したがってトークン同一説にもとづいて因果説を主張するのであれば、物理状態のトークンとして同定される行為者の状態が、行為の「原因である」ということの意味を積極的に明らかにする責任が立論者に生じるように私には思われます。それは「特定の脳の状態のタイプが行為を引き起こす」という主張よりも、はるかにわかりにくい主張です(物理状態のタイプとしてはバラバラであるような「行為者の状態」は、いったいどのように、他ならぬその「行為者の状態」として因果的効力を発揮することができるのでしょうか)。
だからこそ、私は先のエントリでのコメントで、「物理的状態を挙げるだけでは原因を特定したことにはならない」と述べたのですし、「ので」という接続詞で繋がれているだけでは因果関係の表明にはならない、と述べたのです。
』 (2009/12/21 21:33)それゆえ、意図をもつことが
・行為者に与えられる物理状態のトークンである
ことと
・行為の原因である
ことの距離を埋めるための、(「ので」という接続詞の使用以上の)考えの提示を、私は求めたいと思います。
隣から割り込んですいません。
>その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができる
というat_akadaさんの考えに私は反対です。
というのが解せません。こみやさんは
>「意図をもつ」とは、その意図との関連で自らが為すべき行為を行為者が知っているということである。
と書かれており、続けて
>知識を行為者に帰属するにあたって、行為者が「為すべき行為」にすでに着手している必要は必ずしもありません。
』 (2009/12/23 14:34)と書かれておられるわけで、或る人が会社を辞めるにあたって何をするべきか知っているが、それをしない(会社を辞めたいと思っているだけ)ことはこみやさんの「(会社を辞める)意図を持つ」の定義に反していないように見えるのですが。
>こみやさん
まだ消化しきれてないですが、いくつかの点を確認させてください。
>a)「意図する」ことは、どのような場合においても行為者の状態ではない
>という主張も含まれていなければ
>b)意図への言及はつねに行為の再記述である
>という主張も含まれていません。
とありますが、一方
「私の考えでは、「男は妻を殺そうという意図している」は、いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません。むしろ、それは単に、「男は妻を殺そうとしている」の異なった表現(言いかえ)である、と主張します。」
↑これはこみやさんの発言であるわけです。
つまり、「いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません」というのは、「この状況について言えば」という趣旨だったということでよいですか?一般的な主張として理解してましたが、誤解だったわけですね。
>「「その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができる」
この事例についていえば、別にこれで「会社を辞めよう」という意図を持つための必要十分条件を示したつもりはないです。「通常それくらいで、われわれは意図を帰属するための十分な理由とみなす」くらいの事実をあげたつもりです。
こみやさんが他の条件が必要だと思っているのなら、それを付け足してもらってかまいません。しかし、特段記述がない場合には、「会社を辞める方法を知っている」というくらいのことは前提してもよいのではないでしょうか?
「意図して行為しない人が存在しえない」と主張してるわけではないですよね?
たとえば、わたしは、「コタツから出て部屋を片付けようと意図し、かつコタツから出る方法も部屋を片付ける方法も知っているが、それを実行できない」ということがままあります。この人も、「辞める方法は知っているが、たまたま実行しなかった」という事例としてあげたつもりです。
「意図に関する知識」についてのこみやさんの主張については、また別個にコメントするつもりですが、ひとまずここでは「行為しないで意図すること」がありえると言えればそれだけでよかったのです。
こみやさんの言うような「取り消し」の事例もあるかもしれませんが、「行為しない場合、つねに取り消される」という主張でないかぎり、わたしの言いたかったこと(行為に結びつかない意図もある)と矛盾するとは思いません。
』 (2009/12/24 0:23)>at_akadaさん
>「いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません」というのは、
>「この状況について言えば」という趣旨だったということでよいですか?
そうです。「いかなる意味でも」というのは、「心の状態」であろうと「脳の状態」であろうと「タイプ同一的に」であろうと「トークン同一的に」であろうと、という意味であり、「一般的に言って」という意味ではありませんでした。誤解を与えてしまったようで申し訳ありません。
ただ――at_akadaさんの主張を私が十分理解していない段階で主張すべきかどうか迷うので今は主張しませんが――、私は「意図を持つ」ことは一般的に「状態ではない」と言うべきだろう、と考えている所もあります(が、さしあたり無視して下さって構いません)。
>こみやさんが他の条件が必要だと思っているのなら、それを付け足して
>もらってかまいません。しかし、特段記述がない場合には、「会社を辞める
>方法を知っている」というくらいのことは前提してもよいのではないでしょうか?
ここは私の書き方が少しまずかったです。すみません。私は「辞めようと思った」というat_akadaさんの表現を私は文字通りに受け取りました。つまり、その人が「思った」というそれだけの出来事(あるいは「何度も思っていた」というその状態)の記述として。
そのうえで意図帰属の適切性の話を持ち出して私が強調したかったのが、意図の帰属が「思う」という言葉を用いておこなわれたとしても、それは単に行為者の状態を記述しているのではなく「為すべき行為についての知識の帰属」でなくてはならない(そうでなければ意図の帰属にならない)ということだったのでした。
なぜそのことを強調したかったかと言えば、もしそうであるなら、「意図をもつ」ことは行為者の状態であるかどうか(=それが「原因」としての身分をもちうるかどうか)、などという問いにかかずらうことなく、意図のもつ行為の説明力を明らかにできる、ということの傍証になると思うからです。
ただ、at_akadaさんは「辞めようと思っている」を普通に意図帰属の表現として(「辞めようと意図している」の別表現として)用いていた、ということですね。でしたら、「意図をもつことは行為者の状態である」というat_akadaさんの主張に引きつけすぎた、うがった解釈を私がしてしまった、ということだと思います。すみませんでした。
#ただその場合は、「Xしようと思っていること」は、「意図帰属の十分
#な理由」と言われるべきではなく、むしろ「Xしようと思っている」と
#いう記述を与えることそれ自体が意図の帰属なのだ、と言われるべきだ
#とは思います。
それから一つ重要な点を述べておくと、「為すべきことを知っている」ということは「方法を知っている」ということと同じではありません。「Xする方法を知っている」ことは、行為者にXすることを要請しませんから。
そして(繰り返しですが)「Xしようと意図する」ことは「Xと関連した行為を為すべきであると知っている」ということだ、というのが私の主張です。自己帰属であれ他者帰属であれ、意図の帰属は規範についての言明である、というのが私の考えなのです。その意味では、「意図する」は「計画する」に似ていると思います(もちろん「似ている」は「同じである」ではありませんが)。
>「意図して行為しない人が存在しえない」と主張してるわけではないですよね?
それはもちろんそうです。意図して行為しないことなど茶飯事です。
』 (2009/12/24 10:49)しかしながら、「意図して行為しないことがある」という主張は――かりに「意図する」ことを何らかの状態として解釈しうるとしても――、私の議論への反論として成立しない、ということが先のコメントで述べたつもりのことでした。
>勝手批評さん
上のat_akadaさんへのお答えでお答えになっているかと思います。
勝手批評さんも、「辞めようと思った」を普通に意図帰属の表現として理解し、そこに行為規範についての知識帰属も含まれていると理解されたので、私の定義と矛盾しない、と感じられたのではないでしょうか。
それは一つには私のうがった見方の産物でしたので申し訳なかったと思います。が、他方では「しようと思った」を普通に意図帰属の表現として用い理解しながら、それが「しようと思った」という表現をもつがゆえに、それは「思った」という出来事や状態を指示する、と人は考えてしまいがちである(がそれは誤りではないか)という私の主張が背後にあったことをご理解いただければ幸いです。
もう一点。目下の議論に直接関係するわけではない点ですが、注意すべきと思われる点に触れておきます。
>或る人が会社を辞めるにあたって何をするべきか知っているが、それをしない
>(会社を辞めたいと思っているだけ)こと
「会社を辞めようと思う(=会社を辞めようと意図する)」ことと「会社を辞めたいと思う」ことは、似ているようで別の事柄だと思います。
「意図」は行為者に為すべきことを教えますが、「欲求」は必ずしもそうではありません。だから、不可能だと行為者自身が考えることについては、欲求することはできても、意図することはできません。たとえば、「過去に行こうと意図する」ことは(マッドサイエンティストでもないかぎり)できません。なぜなら意図を実現するために何をすべきかわからないからです。しかし過去に行きたいと思うことは誰にでもできます。
したがって「会社を辞めようと思って何もしない」ことは「為すべきことをしない」ことになりますが、「辞めたいと思って何もしない」ことは必ずしもそうはならないでしょう。意図の帰属は欲求の帰属よりも規範的なのです。
ところで、こうした区別は「意図」や「欲求」といった語の用法からもたらされるものであり、行為者が「意図している状態」と「欲求している状態」を比べてみて明らかになるような経験的事実ではありません。我々の脳についての知識が増えたなら、意図と欲求の区別がより明確になる、などということはないと思います。
』 (2009/12/24 10:52)そして、意図帰属が行為を説明するのは、私たちがそれを行為規範についての言明としておこなっている(意図という語をそのように用いている)からなのであり、因果説明としておこなっているからではない、というのが私の主張なのです。
>意図の帰属は欲求の帰属よりも規範的なのです。
というのは興味深い見解ですね。確かに自分もそういう含みを持たせる事があるかも。ただ、これは哲学者が哲学をしている時だけそういう定義をこの語に与えた、というだけのような気もします。
』 (2009/12/29 13:14)普通の人は「意図する」を「(ただ)思う」という事の意味で使う事もしばしばなような気がするので、赤田さんの例から直ちにこの「哲学的」定義の弁別が出来るかというと非常に怪しい。そう定義したからではないか、と。