2010年1月
■ 感想
ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。
本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。
なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ!
■ 『フィクションの哲学』について
- 前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか?
- 1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない)
- もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか
- ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。
- この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。
- しかもかなり大胆な主張してるよね。
- この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない?
- ウォルトン+清塚の立場って、なんで非主張説のバリエーションじゃないの?
- 作者の関与を認めないから?
- ウォルトン+清塚的には、フィクションというのは「想像を指定する道具」で、使用目的に沿った「公認の想像」が作品の内容とされる。
- 道具の目的は何によって決まるの?というところで、作り手の意図を持ち出したくならないのだろうか?
- ウォルトン+清塚的には、「岩に入ったひび割れがフィクションの機能を持つかもしれない」(スワンプテクスト by kugyo)
- しかしたとえば、アマゾンの奥地で、「鉛筆の機能を持った木の枝」が発見されたとして、それを「鉛筆」と呼ぶか?
- (言わなかったけど)最近の慣習論とか機能論だと、機能を意図に還元しないで、「機能は複製元となった祖先との因果作用によって決まる」という説もある。ただその場合でも、清塚+ウォルトンの「岩に入ったひび割れがフィクションに見える」(スワンプテクスト)は、フィクションの機能を持たないはず。
- あと、岩に入ったひび割れがフィクションに見える例って、アニミズム信仰みたいな話であって、「擬人化」してないか?というのも気になる。「想像を指定する作者を想像してる」のでは?
- conchucame氏の「語り手を想定するのはなぜなの?」という話。
- フィクションの読み方がわからない読者というのも、かつてはたくさんいたはずで、近代読者の誕生みたいな話とも無関係ではないよね、とか。
- あと、最終的には「慣習」を持ち出して、説明が打ち切られるんだけど、慣習って何?って話はもう少しつめたいかな。「規約」だとすると、明示的な合意が必要なので、結局意図に訴えるしかないんじゃないか?とか。
■ 打ち上げにて
- ベタに「本質主義」(に見える立場)を擁護しており、しかも勝てると思ってる人たちがいるというところで驚かれる(主にわたしですが))。
- 分析哲学は「本質主義」を恐れない。
- なぜか?(以下「本質主義」という言葉はとてもルーズに使います)
- 論理実証主義以来、ずっと対決してきた。分析美学の人たちも、「作者の死」を云々するヨーロッパ系の人たちとずっと対決しつつ作者や意図みたいな概念を復活させてきた。
- あと、論理実証主義がある種の「形而上学批判」を徹底させた上に、失敗して派手に死んでくれたおかげで、形而上学批判の問題点がクリアになったという側面もある。
- 論理実証主義は歴史上はじめての「間違えることができた哲学運動」。
- 間違えることができるくらいに明晰な主張をし、しかも研究プログラムをしっかり遂行しようとした(そして頓挫した)。
- そのおかげで、「検証主義」「知覚への還元主義」「規約主義」などというひとつひとつはもっともに見える哲学的主張の問題点が明らかになった。
- 間違えることができるというのは自信につながった。
- (このときは言わなかったが、あとで考えると)自然言語の扱いが単純に進歩したというのもあるよね。「自然言語は曖昧であり、明確な定義や真偽はない」って言われたときに、「それは単純におまえが努力してないからだ。様相文の分析も、時制の分析も、行為文の分析も、反事実的条件法の分析も、みんなできるようになったじゃないか」と言えるようになったというか。
- 一番素朴に見える立場をきちんと批判するのがいかに難しいかというのを噛みしめる日々なので、こういう風にふだん会わない専攻の人と話すと新鮮。
- 「いやわたしは全然勝てると思ってるので」ということで、テクスト論との対決をちょっとする。
- 擁護したい主張は、「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」などであった。
- 懐疑主義への対応よろしく、「何でもあり派」「複数の矛盾する解釈を許す派」「読者を変数にする派」などに分けて対応する。
- しかし改めて考えると、ほとんど教科書的な懐疑主義への対応に近いものになった。「相手は過剰な不可謬性か極端な懐疑の二択を要求してくるので、そもそも不可謬性は必要ないことを確認する。可謬的な主張の中でよりましなものを選べばよいことを確認する。しかも極端な懐疑はなかでも特にもっともらしくないものであることを確認する」とか。
- この辺の話は、それぞれの業界においていろんな常識があるよねみたいな大人な対応とか、ベタに論争しようとする人とか、対立点をずらそうとする人とか、いろんな言説戦略があっておもしろかった。
- というか、「本質主義」の否定として持ち出されていたのは、繰り返し何度も見たような「柄谷行人が流行らせた過剰に懐疑主義的な観察決定論(行為の事後決定論)」だった気がする。「端的な主張というものはなく、観察者によって主張とされているものだけがある」みたいな。
- kugyo氏は、「解釈に真偽はなく、おもしろい解釈とつまらない解釈があるだけ」という立場らしい。
- 『こころ』を読んであきらかにまったく関係のない小説の内容を読み取る読者(『こころ』を読んでるのに『ももたろう』だと思ってしまう人)は、間違ってるのではなく、極端におもしろくない解釈である、のか?
- じゃあ『こころ』を読んで、全然別のストーリーを読み取ってしまうんだけど、そのストーリーがすごくおもしろかったらどうする?
- 『こころ』についての言明であるということを確保するのが、まずかなり大きな問題になるらしい(細部はよくわからなかった)。
- 意図に言及しないで、どうやってあるテクストを個別化するの?
- 徹底したテクスト論者なので、『こころ』を文字の途中とかで切ったものも『こころ』のテクストらしい。厳密に一致はしないんだけど、一致する部分がかなりあるので、何とか同じテクストについて語ってるように見える?
- 最終的には、独我論 + 心に関する機能主義 + 汎テクスト主義みたいなものになるらしい...。そんな過激な立場だったとは知らなんだ。
- 解釈言明が真理値を持つとして真理メーカーはどこにあるの?と言われる。
- そういえば、David Lewisの"Radical Interpretation"は、デイヴィドソンの話はあまりしないんだけど、「根源的解釈」を「意味に関する事実は物理的事実にスーパーヴィーンするか」問題への解答として理解するという感じの内容だった気がする。
- http://philpapers.org/rec/LEWRI
- 善意の原則とか、いろんなルールを駆使して、欲求、信念、意味に関する事実を相互に決定していくイメージ。
- 細かい部分はともかく、わりとこんな感じで決まるんじゃないかというイメージは持ってるかなー。このプロセスって結局最終的には、本人の生物学的状態とか行動(not 行為)から決まるはずなので、それが真理メーカーになるかな。いや、正直そんなに自信はないけど。あとこれはもちろんフィクションにそのまま適用できる話ではない。
- うまくいくかどうかわからないこの手の試みをあげるより、もっと、なぜ(現状では、有効な真偽の決定手順など無いのに)「それでも真偽はあるはずだと期待するのか?」という話をした方がよいような気もする。
- 人がふだん行なっている解釈(解釈という言葉もあまり好きではないので別の言い方をすれば理解)は、おもしろさではなく、真偽を問題にしているように思える。「この文書で太郎はpと主張している」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろい」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは真である」と言っているように見えるし、その否定、「この文書で太郎はpと主張していない」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろくない」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは偽である」と言っているように見える。
- そして、それらの言明と、それらの言明に対する判定が、まったく何の合理性も持たない行きあたりばったりの判定を行なっているようには見えない、というあたりがポイントか。
- あと「解釈のおもしろさ」が問題になることがあるのはわかるのだが、それってかなり限定された特殊な文脈であって、常にそうではないよねと思っているかな。
あしたの検討会のためのレジメです。
- 検討会で人に見せたら変更したくなると思うけど取りあえずアップしておきます。
- 書き方がえらそうでごめんなさい。
■ 本書の目的
「フィクションの概念分析」
■ フィクションの概念分析とは何か
「フィクション」という概念に関する諸原理を明らかにする。
ただし、
「フィクション」は多義的である。
たとえばフィクションには以下のような相異なる意味がある。
- (1)虚偽
- (2)実在と対応しないもの
- (3)文学作品
本書は、
(3)の意味を基本としつつ、
- より包括的で
- より見通しのよい
フィクション概念を提案する。
より包括的であるとはどういうことか?
- 絵画、彫刻、演劇、映画などの非言語的作品も包括する。
より見通しのよいとはどういうことか?
- 問題領域についてよりよい理解が得られる
- 一貫したシンプルな原理によってフィクション概念の本質を捉える
- フィクションにかかわる諸事象を説明できる
■ 評価の観点
「より見通しのよい展望」(P17)について、本書にはあまり説明がない。
しかし、アドホックで非一貫的な概念の拡張は、明らかに理解を阻むものである。
また「見通しのよい」というからには、フィクションにかかわる事象をうまく説明できなければならない。
従って、
- 一貫したシンプルな原理に従う概念を提示しているかどうか
- フィクションにかかわる事象をうまく説明できるかどうか
が本書に対する評価の観点になる。
フィクションにかかわる事象をうまく説明するとはどういうことか?
「線引き問題」(ある対象をフィクションに含めるかどうか)については以下のような対応が求められるはずである。
- 「非フィクション」とされてきた対象を新たにフィクションに含める場合は、
- 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
- より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれること
を論じるべきである。
- 「フィクション」とされてきた対象を非フィクションとする場合は、
- 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
- より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれないこと
を論じるべきである。
それ以外の問題(作者の問題、フィクションの特徴はあるか...etc.)については、以下のような対応が求められるはずである。
- シンプルな原理によって明確な説明を与えること
- なるべく非直観的な結論に陥らないこと
■ 本書の結論
本書の議論は、以下のように要約される。
- 文学的フィクションの基本的な特徴は「作者と語り手の分離」である。
- 「作者と語り手の分離」はごっこ遊びの理論によって説明できる。
- 非言語的フィクションはごっこ遊びの理論によって説明できる。
- 従ってごっこ遊びの理論に基づくフィクション概念こそが、より見通しがよくより包括的なフィクション概念である。
従って、議論の検討のためには、清塚の「ごっこ遊びの理論」が上にあげた要請に従っているかをチェックすればよい。
■ 1章 フィクションの統語論
■ 本書の結論
- フィクションを定義づけるような一連の統語論的特徴(虚構記号)はある。
- それらの統語論的特徴は、必要十分条件群を構成する。
- それらの統語論的特徴は、「作者と語り手の分離」の表れである。
- しかし統語論的考察のみによってフィクション概念を明らかにすることはできない。
統語論的特徴としてあげられているもの
- (a)過去を表現しない過去形
- (b)体験話法 / 自由間接話法
- (c)作者と語り手の名前の不一致
従って、本書によれば、
(xがaをもつ) OR (xがbをもつ) OR (xがcをもつ) <==> xはフィクションである。
以下のような事例がこれに対する反例となる
十分性に対する反例:
a, b, c のいずれかを持つが、フィクションでないもの
必要性に対する反例:
a, b, c をいずれも持たないが、フィクションであるもの
■ 慣習的特徴と統語論的特徴
慣習的特徴とは?
必ずしも必要ではないが、それを持つことによっていかなる行為をしているか理解しやすくなるもの。
- おじぎの際に、帽子を脱ぐこと
- 警察官が職務の際に制服を着用すること
- 「わたしは約束する」
帽子を脱がなくてもおじぎできるし、制服を着用しなくても警察官の職務を遂行できるし、「わたしは約束する」という文を使わなくても約束できるが、それらがあることによって「何をしているか」を容易に理解させられる。
統語論的特徴とは?
本書が何を統語論的特徴と呼んでいるのかわかりにくいが、一般に統語論的特徴を問題にできるのは、反事実的条件法が過去形によって表現されるケースなど、意味論的構造と統語の構造が密接に結びついたケースであると想像される。
これは、「なくてもよい」という性格のものではないだろう。
たとえば「約束」には慣習的特徴はあっても、統語論的特徴は存在しないように思われる。
疑問
フィクションの統語論的特徴はあるのか? 清塚があげている虚構記号は慣習的特徴ではないか?
■ a: 過去を表現しない過去形について
「明日は...だった」という文はフィクション以外にも登場する。たとえば、フィクションではない過去の思い出話をするときにも、この表現を用いることはある。
ex. 「2年前の今日、僕は修論の準備をしていた。まだ半分しか書けておらず、とてもあせっていた。何しろ明日が修論の締め切りだったのだから」
以上のような語りの「僕」は文字通り話者を意味しており、語り手と話者の分離は生じていないように見える。
「(フィクションを含め、語りの臨場感を表現したい場合に)臨場感を増すために、『その日』や『次の日』ではなく『今日』や『明日』などの表現を使う」という方が自然な説明ではないだろうか。
■ b: 体験話法 / 自由間接話法について
他人の内面についての詳細な記述や、誰もいない場所からの記述など、「語りえない文」について。
われわれはふつう、自分が考えていることや考えていたことについてならば権威をもって断定的に語りうるが、他人が考えていることや考えていた事柄については、間接的な証拠にもとづいてしか語ることができない。p28
「語ることができない」というのはどういう意味か。「慎重な人ならばそのような断定は避けるべきだ」という倫理的な主張や「避けることが多い」という頻度の主張なら理解できるが、われわれにはそのような語りを行なう言語的能力がないという意味なら、明白に間違っていると思われる。
「間接的な証拠にもとづいてしか語ることができないp28」「推測的にしか語れないp29」というのはどういう意味か? 見間違いの可能性などを考えれば、われわれの語りの内のほぼすべてがそうである。しかし疑いを持つ十分な理由がない場合には、可謬的な主張を断定的に語ることはおかしくない。フィクションの場合に、他人の内面に関する詳細な記述が多いのは事実だろうが、程度の違い、量の違いにすぎないように思われる。
たとえば、
わたしの目の前の人物は、蠅がまとわりついてきて不快だと思っている。
この文がフィクション以外の文章に表われたとしても、統語論的な規則に違反しているとは言えない。
さらに言えば、自分の読心能力に自信を持っている人ならば、フィクション以外の場面でも他人の内面についても詳細な記述をくわえようとするだろう。自称読心家は、話者と語り手の分離をすることなく、周囲の人間の内面の詳細について真剣に主張する。
自称読心家は愚かかもしれないが、統語論的規則を犯しているわけではない。
また、「物語の内容に照らせばだれもいないはずの視点から、延々と克明な記述が展開されることになる」ような語り(p30)も「語りえない文」であると言われているが、これも疑わしい。
この議論は、「われわれは直接目で見たものしか報告できない」という奇妙な前提に立っているように思われる。しかし後から密室の状況について報告を受け、特に疑う理由がなければ、密室の状況に関する記述を断定的に行なってもおかしくない。もしそれが「語りえない文」であり、フィクションのなかにしか登場しないのならば、自分が生まれた以前の事柄について述べる歴史家もフィクションを語っていることになってしまう。
通常考えられないほど他人の内面や状況について詳細な記述があるというのは、単に「話を盛り上げるための大げさな語り口」ではないだろうか。
■ c: 作者と語り手の名前の不一致
「作者と語り手の分離」を満たすものがフィクションであるとすれば、フィクション以外に、作者と語り手の名前の不一致が生じるものはないだろう。現実の話者と語り手が同一であるにもかかわらず、名前が異なるというのはまるで意味がわからないからである。
しかし「名前」はそもそも統語論的特徴なのだろうか。
仮にそれが統語論的特徴なら、問題にすべきなのは、単なる記号の列としての「名前」であり、指示された人物ではない。
つまり、作者と語り手が同性同名であった場合には、両者の名前は同じなのだから、この虚構記号は存在しないことになる。
p34周辺には「作品は解釈されたテキストである」という主張がでてくるが、仮にこの主張が正しいとしても、「解釈」や「文脈」は意味論や語用論に属するものであって、統語論的特徴ではない。
ただし、この要素を、フィクションの十分条件と見なすことについては異論はない。
■ ノンフィクションはフィクションか
ノンフィクションにも虚構記号は表われるという主張に対し、清塚は以下のように反論している。
キャロルがこの種の事例の具体例として想定しているいわゆる「ノンフィクション小説」は、本章で見てきた一連の虚構記号をふんだんに用いている。つまり、そこには過去を表さない過去形や、自由間接話法や、作者と語り手の名前の相違といった特徴がごく普通に登場する。そのかぎりで、これらの作品は、現実の作者その人によるストレートな事実報告とはみなしがたい非現実の語りによって構成されていると考えざるをえない。p45
この中で、唯一「名前の相違」だけは、フィクションであることの十分条件になっていると思われる。しかし作者と語り手の名前が異なるノンフィクションというのは想像しがたいのだが、どういう作品を想定しているのだろう。
一方「過去を表わさない過去形」や「自由間接話法」については、それらが「語られえない」という議論の方が疑わしい。
しかもノンフィクション小説に書かれていることは、通常直接の著者の語りと見なされているし、作者と語り手の分離は生じないのではないだろうか。
たとえば、トルーマン・カポーティの『詩神の声聞こゆ』に登場する「私」は普通カポーティ自身と見なされている。
外交官の訓示を聞きに行くのに、私はミセス・アイラ・ガーシュインと、元ボクサーでいま歌手のジェリー・ローズという角刈りの筋骨たくましい男と、一台のタクシーに同乗した。
三島の『仮面の告白』などとは違い、この「私」を著者自身と解することにためらいは無い。
「私」が登場しないタイプの三人称的ノンフィクションの場合でも、地の文は著者の意見と見なされるのが普通だろう。知りえないと思われる状況について詳細な記述があったとしても「著者自身が大げさな記述を行なっている」と見なされるだけではないだろうか。不正確な記述について著者自身に問いただすことがあってもおかしくはない。問いただすことに対して「野暮である」とか「何を大袈裟な」という反応は返ってくるかもしれないが、フィクションの語り手の責任を著者に問いただすようなカテゴリーミステイクは生じていない。
またわれわれが不用意な断定を「大めに見る」ことが多いとしても、それはわれわれが日常そこまで正確さを要求しないというだけのことにすぎない。フィクション概念とは何の関係も無いように思われる。
[補足と疑問]
清塚の言う「作者と語り手の分離」を狭く解釈した場合、清塚のあげている虚構記号は(論理和としても)まったく必要十分条件になっていないように思える。清塚のあげている要素の内、「過去形」と「体験話法」は単に語りを盛り上げるための技法であって、フィクションの場合以外にも表われるように思える。
ひょっとして著者は、「物語的語り口」それ自体を広い意味での「語り手と作者の分離」と見なしており、「物語的語り口全般」をフィクションと見なしているのだろうか?
しかし歴史書や日記はフィクションに含めないと書いてある(p4)。
おそらく、この点は「作品をおしなべてフィクションとして扱う」というウォルトン流の方針と一貫しているのだろう。ゆえに、後半にまとめて検討した方がいいように思われる。
■ 2章: フィクションの意味論
■ 存在に関する立場
- (A)xがフィクションである <=> xは指示しない名前しか含まない
- (B)xがフィクションである <=> xは指示しない名前も含む
- (C)フィクションであるかどうかと指示しない名前を含むかどうかは独立
本書の立場は(C)である。
(C)に関する清塚の議論
C-1: 非現実の対象を指示しても虚構的な発言とはかぎらない。
(虚構に関する発言と虚構的な発言の違い)。
C-2: 非存在を指示するわけではない虚構的な発言もある。
a) 実在の登場人物だけが登場する小説。
b) 非存在の出来事が一つもない小説。
著者によれば、ノンフィクションもフィクションなので、存在するもの・出来事しか指示しないフィクションもあるらしいが、この議論自体がかなり疑わしく思える。
ただし、ノンフィクションもフィクションであるという見解に対する議論はすでに扱ったのでここでは置いておく
■ 真偽に関する立場
虚偽説(虚構的言明は虚偽である)の否定。
省略
■ 3章
省略
■ 4章 フィクションの言語行為論
本章では虚構的言説を言語行為(発語内行為)として分析する立場が検討される。
著者はこれらの分析に対して否定的な立場を取っている。
著者は言語行為論的なフィクション論を寄生説と独自説の二つに分けているが、独自説を否定する議論だけで、議論はつきていると思われるので、その議論のみを扱う。
カリーやラマルクなどの論者によれば、虚構的言説は独自の発語内行為であり、以下のような意図を持って発話される。
- (1)受け手が、文面どおりの発語内行為が行われている、とごっこ遊び的に想像すること、
- (2)受け手がUの意図(1)を認識すること、
- (3)受け手がUの意図(1)を認識し、そのことにもとづいて、意図(1)のとおりのごっこ遊び的想像を行うこと
著者の反論
- 意図による分析ではフィクションを扱いづらい。
- なぜなら、多くのフィクションには間接的な形で受け手に情報を伝達しようという意図が伴っているからである。
著者は、カリーやラマルクと自身の対立点は、ノンフィクション(間接的情報伝達意図が伴うもの)をフィクションに含めるかどうかだと弁明するが、これはよくわからない(そもそも意図による区別は、後での議論でも否定しているのではないか)。
- まず、フィクションだろうと間接的な形で情報伝達意図を伴うことがある(経済小説のような場合)。
- しかし「間接的」「直接的」という区別ができているのであれば、それを明確にしていけばよいだけである。
たとえば、「間接的」な意図によって実現される情報伝達は、発語内行為というよりは発語媒介行為のように思われる。よって、虚構的言明は、上記の意図をもってなされる発語内行為であるが、それが発語媒介行為の意図をも伴うことがあると言えばよい。
■ 第5章 ごっこ遊びの理論
ウォルトンのごっこ遊びの理論に依拠する清塚によれば、フィクション作品は想像によって構成されるごっこ遊びmake-believeのゲームである。
想像とごっこ遊びについて簡単にまとめると、
- 想像は命題的な内容を持つことがある。
- 想像はその対象を持つことがある。 ex. 切り株を熊にみたてる。
- ごっこ遊びのゲームとは、与えられた小道具propを対象として、特定の想像に興じるゲームである。
- その際、ごっこ遊びのゲームにおいては、背景的規則(生成原理)が対象と想像を結びつける。
- また、ごっこ遊びのゲームにおいては、小道具が指定する公式の機能による公認の想像と非公認の想像がある。
- フィクション作品はごっこ遊びの小道具である。
■ 想像が命題的な内容を持つとはどういうことか?
命題的な想像とは、「想像する」という語が完結した文の形を目的語に持つ場合に言及されているような想像のことである。
ex. 「太郎は熊がダンスすることを想像する」
ここで想像は、命題的態度と呼ばれるもののバリエーションとなっている。
この命題的想像の概念がウォルトンの議論のひとつのポイントになっている。
この際、「想像」はなぜ命題的内容を持つと言われるのか?
清塚はあまり踏み込んでないが、何かが「命題的」であるということは、それほど自明ではないだろう。
以下、レジメ作成者がポイントだと思う点をあげておく。
【真偽】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は真偽を持つ。
「太郎は熊がダンスすることを想像する」のような場合でも、太郎の想像は真であったり偽であったりするように思われる。ゆえに想像は真偽を持つ。このことは、「命題的な内容を持つ」と言われることの一つの理由になるだろう。
【帰結】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は論理的帰結を持つ。
ex. 「熊がダンスをする」 -> 「何かがダンスをする」
一般に、q が p の論理的帰結であるとき、以下の p', q'についても q'はp'の論理的帰結であるように思われる。ゆえに想像は帰結を持つし、論理的帰結について閉じていると考えられる。これもまた想像が命題的な内容を持つと言われる理由になるだろう。
p': 「x が p を想像する」
q': 「x が q を想像する」
たとえば、太郎が熊がダンスをすることを想像しているとき、太郎は何かがダンスをすることを想像している。
後者の想像は太郎によって意識されてはいないかもしれない。しかし何かがダンスをすることを想像せずに、熊がダンスすることを想像することは不可能であるように思われる。
■ 評価
命題的想像という概念を持ち出すことによって何が可能になっているか?
=>「作品世界」やフィクションの「内容」という困難な概念に、より詳細な規定を与えられる
=> 視覚的なフィクションについても内容を扱える
なお、「世界」も「内容」も「命題」と相性のよい概念である。
フィクションと呼ばれる作品は、一般に、「ストーリー」や「作品世界」と呼ばれるような一連の内容を持っているように思われる。
想像の命題的な内容に注目することによって、これを簡単に規定できる。
つまり、
鑑賞者が想像する内容の内で、作品が指定した「公認の想像」の命題的内容こそが、作品の内容である。
と言えばよい。
それ以外の方法で同じことを規定するのは難しい。
たとえば、「作者が意図した内容」に注目する場合、作品の内容を規定する叙述と、より間接的な意図の違いを規定するのが難しくなる。
テキストに注目した場合は、「文」と「内容」の関係を扱うのが困難であるし、作品世界についての単純な叙述と、それ以外の主張や命令や疑問などの違いを区別するのが難しい。
また視覚的作品を同じ方法で扱うことはほぼ不可能だろう。
逆に、この議論の中で、理論的負荷がかかっているのは、「公認の想像」と「非公認の想像」を分ける部分だと思われる。清塚やウォルトンは慣習を持ち出すことで説明を済ませているが、その詳細はあまり明らかにされていない。
■ 6章: 視覚的なフィクションをめぐって
■ フィクション/ノンフィクションの連続性を巡る議論
清塚は、フィクションとノンフィクションの連続性について以下のように主張する
- 清塚の依拠するフィクション概念は、ごっこ遊びの理論によって明確な規定を与えられている。
- ただしそこにフィクションとノンフィクションの区別は存在せず、作品のかなりの部分がフィクションとして説明される。
- 一方、フィクションとノンフィクションを区別すべきだという論者は、区別のための明確な説明を欠いている。
- 一貫した説明を与えようとすれば、フィクションを清塚のように扱うべきである。
しかし、フィクション / ノンフィクションの区別については、もう少し追求できると思うので、この区別を擁護する議論のバリエーションを2つ提出する。
■ 意図による議論
まず「信じつつ想像する」ことと「真偽に頓着せずに想像する」ことを区別しよう。
真偽に頓着せずに想像するとは、想像の真偽を気にせずに想像することである。
信じつつ想像するとは、「50年前、この場所は草原だったんだ」と言われて想像する場合のように、信じている命題を想像することである。歴史史料館にあるような人形による再現風景のような小道具は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームを構成する。
さて、ある作品がノンフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「信じつつ想像すること」だけを求める場合である。一方ある作品がフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「真偽に頓着せずに想像すること」を求める場合もあるときである。
■ 作品の機能による議論
ウォルトンや清塚も、作品によって促される想像のなかには、作品の機能によって規定された「公認の想像」と「非公認の想像」があることを認めている。
作品がある想像を公認し、ある想像を公認しないというというケースを認めるなら、作品が「信じつつ想像する」ことを公認し、「真偽に頓着せずに想像する」ことを公認しないというケースもあってよいように思われる。ノンフィクションと呼ばれるような作品は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームをその機能とする。
ある作品がノンフィクションであるとは、作品によって規定された「公認の想像」が「信じつつ想像する」ことだけであるときである。
■ 7章
省略
■ 本書への評価
感想的にちらほらと。
いくつかの議論は、受け入れがたい。特に「ノンフィクションもフィクションである」というあたりは何を言っているのかわからない。
しかし「語り手と作者の分離」という規定とごっこ遊びの理論を結びつけるあたりはうまく機能していると思った。統語論的特徴や意味論的特徴にこだわるのはやめて、「語り手と作者の分離」について、ごっこ遊びの理論との関係を直接詳細に論じておくべきではなかったのか?
ウォルトンの議論を全面的に受け入れるのはやめて、真偽とフィクションの関係についてもう少し踏み込むこともできたのではないか?という部分が残念。
「清塚邦彦『フィクションの哲学』(非公式)合評会」というのをやります。
内輪で数人で検討するだけですが、興味のある方はぜひ。
わたしもレジメを書く予定です。
清塚邦彦『フィクションの哲学』(非公式)合評会
日時 1月24日(日曜日)
13:00より
場所 東京大学本郷キャンパス
法文二号館2213
美学芸術学研究室
形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)
Riddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics
論争ばかりしているのもどうかと思ったので本の紹介でも(いや、論争は論争でたのしいし有益ですよ)。
ついに、日本語で(比較的)平易に読める「(分析哲学的)形而上学の入門書」がでました。すばらしい!
売れてほしいので紹介しておきます。
これはこの分野に関心があれば(なくても関心のあるトピックがあれば)、必読ではないですかね。
以下のようなトピックについて、主流の説いくつかとそれを批判する論点が紹介されています。
日本語の最近の入門書などは、どの分野でも文献紹介がきちんとしてないものも多く非常に遺憾ですが、この本は文献紹介も各章ごとについています。興味のあるトピックがあれば、その章だけ読むこともできますし、各問題への入り口としても適切ではないでしょうか。
目次
- 第1章 人の同一性
- 第2章 宿命論
- 第3章 時間
- 第4章 神
- 第5章 何かがあるのはどうしてか
- 第6章 自由意志と決定論
- 第7章 物体の構成
- 第8章 普遍者
- 第9章 必然性・可能性
- 第10章 形而上学とは何か
まず、サイダーの担当した章はどれも啓発的で大変素晴しかったです。
「人の同一性」にしても「時間」にしても「自由意志と決定論」にしても、必ずひとつふたつくらいはよく知らない論点や目のさめる指摘があり、「おおーなるほどー」と思わされました。どのトピックについてもぐっと引き込まれるような書き方をしてくれているので、興味を持つきっかけとしても良いです。
コニーの章はやや癖があって、わかりにくい部分も見られましたが*、個人的にはなじみのない議論を紹介してくれており興味深かったです。特に神学的議論は知識が欠けているところなので、勉強になりました。
しょうもない話ですが、「神が存在するのでー」とかはじまると、わたしは「もうダメだ! 論理的な話が通じない!」と思考停止しがちなのですが、「神の存在」からはじまる議論に対しても、「いや、神が存在するとしても、これこれこういう理由で、必然性の定義には役立たない」みたいなロジカルな反論を提出するところはさすがアメリカの哲学者だなというところです。
* 特に、「これ日本語で書いてあるけど、きっとこういう論理式を想定しているのかなー」などといちいち想像しなければならないのが大変でした(二章など)。本の制約上式を入れたくないのはわかるのですが、ぎこちなく感じてしまう部分が多かったです。その点サイダーの「時間」の章などは、図の使い方がたくみでした。
以下、いくつかの章で扱われる問題と、(誰も知りたくないでしょうが)わたしの個人的な意見について触れます。
- 第1章 人の同一性
文字通り、「人の同一性は何によって決まるのか」という問題です。
主として「魂説」と「時空的連続性説」「心理的連続性説」が検討されます。
そしてすべてを破壊する「分裂」の議論。大抵どんな基準をとっても、個人が二人に分裂するケースを考えることができてしまい、やっかいなことになります。
一番SF的な魅力のある章かもしれません。
個人的には、「人間の同一性は身体のみによって決まる」という説に若干魅力を感じるのですが、説得力があると思うのは「脳」と「心理」。分裂の議論に対しては、「人の同一性は数的同一性ではない」と答えるしかないのかな......という方に傾いています。これについては、パーフィットの説に従うと、倫理の方も大変なことになる...というのがもっと紹介されていると、うっかりパーフィットに賛成しがたくなって、緊張感が増すと思います。
- 第3章 時間
「時間と空間は同じようなものであり、時間は空間と同じように広がっているのか? それとも空間と違って動いているのか?」という問題が議論されます。
時間と空間の対称性を丁寧に議論していて、たのしいです。
わたしは、「時間と空間は同じように広がっている」(B理論とか永遠主義・時点主義と呼ばれる立場)の方を支持します。
- 第4章 神
「神は存在するか」を扱った章。神の存在に関する論証がいろいろ扱われます。
「第一原因による論証」「デザインに訴える論証」「存在論的論証」など、有名な議論がたくさんでてきます。
個人的には、「アンセルムスの存在論的論証」が好きです。
去年でしたか翻訳がでた『麗しのオルタンス』という小説に、このパロディの「理想の男性が存在することの証明」が出てくるのですが、これもすばらしかったですね。
「もしわたしの理想の男性が存在しないとすれば、彼は他の男より劣ることになってしまう。しかしわたしの理想の男性は他のどんな男性よりも素晴しいのだから、彼はきっと存在しているはず!」という感じ。
この議論のどこに問題があるかは中で紹介されています(ここはもう少し丁寧に論じてほしい気もしましたが)。
個人的には、受け入れている神の存在証明は特に無いですし、神の存在は信じていません。
- 第6章 自由意志と決定論
「すべての出来事が物理的に決定されているとすれば、われわれには自由など無いと思われる。しかしわれわれは自分のことも他人のことも自由意志を持って行動しているかのように扱っている。なぜか?」という問題です。
古典的だけど、全然解決らしい解決の無いやっかいな問題です。
「人間はほんとは自由じゃない!(強い(ハードな)決定論)」
「人間は物理に支配されてなくてすごい自由(自由意志論)」
「その二つは両立する(弱い(ソフトな)決定論)」
などの立場が紹介されます。量子力学の非決定性を持ちだしてもダメだというのをきちんと論じているのは好感度高いです。
個人的には、両立説とソフトな決定論以外の道は無いと思っています(が、この道も大変ですね)。
- 第7章 物体の構成
「物とその素材の関係」を問うた章。
たとえば、粘土でできた塑像について、「塑像と粘土の固まりは別のものなのか、同じものなのか?」という問題です。
この問題は、「身近なところに、きわめてやっかいな哲学的問題がある」というのの好例で、わたしは大好きです。
個人的には「粘土と塑像の固まりは別々に存在する」という解答は避けたいと思っており、「粘土と塑像の固まりは同じであるか部分を共有する」という方向に持っていきたいです。この論文の中で言えば四次元主義による解答を取りたいですね。
- 第9章 必然性・可能性
「世界には「可能なものごと」「必然的なものごと」というものがあるように思われる。では、これはいったい何なのか?」という問題です。
本論文では、「自然法則」について、「規則性説」と「普遍者による必然化説」が論じられ、
「絶対的必然性」について、「可能世界説(様相実在論)」と「規約説」が論じられます。
ちなみに「可能世界説」というのは、「平行世界(みたいなもの)がたくさんあるのでそれによって可能性や必然性が決まる」というヤバい説です。デイヴィド・ルイスという天才が一人で提唱し、ほとんど誰も信じてないのに、いまだに決定的な反論が無いという大変な説です。わたしも反論が思いつかないので、体調が悪いときなど、ときどき信じそうになって我に返るということを繰り返しています。
なお、本書では紹介されていないですが、「様相次元主義」という「可能性・必然性は第五の次元である」というこれまたすごい説もあるそうです。
個人的には、どの立場も全然取りたくないので、困っています。
新年になってしまいましたが、お返事を書きます。
これまでのやつ。
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-294.html
ひとまず前エントリのコメント欄から議論の整理と反論をはじめます。
こみやさんの発言
そうではなく、私の主張は
c)意図への言及による行為の説明の説明力は、因果説明の説明力に依存していない(むしろ、記述どうしの意味連関に依存する)
というものなのです。
思うに、この主張には弱いバージョンと強いバージョンがあり、こみやさん自身は「弱いバージョン」を採用しつつも両者の間でゆれているように見えます。
わたしは弱いバージョンには同意できますが、強いバージョンには同意できません。
弱いバージョン。
意図に言及することが行為の説明になるのは、しばしば意図を明示することで、言葉の意味によって行為を説明することができるからである。
たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」は、「妻の食事に薬を入れる」という男の行為を特定の意図と結びつけることで、「妻を殺そうと意図している」という言葉の意味によって、行為を説明している。
強いバージョン。
(副詞へのパラフレーズはひょっとすると強すぎるかもしれないですが、主張の勘所をわかりやすくするために付け加えました)。
意図というものは、言葉の意味によって行為を説明する。そして意図というのはそれだけのものなのである。意図に言及するのは為された行為を補足的に説明するために、特殊な言葉使いをするだけのことであり、「意図」という概念によって指示されている対象などそもそも存在しないのである。
たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」というのは、正確に言えば、
「男は、<妻を殺そうと意図している的な仕方で>、妻の食事に薬を入れる」という意味であり、意図に対する言及は行為を副詞的に修飾するだけの表現なのである。
これは、「行為・理由・原因」でデイヴィドソンがとっている「意図は共範疇語である」というのと同じような立場です。
もしこの強いバージョンの方を取るなら、「行為に結びつかない意図」の存在は依然として謎のままに留まります。
意図が行為の説明のためだけの概念だとすれば、行為なき意図のような言明が何を述べているのかわからないからです。
こみやさんは強いバージョンの主張を明示的には採っておられないようですので、以下ターゲットを弱いバージョンにしぼります。
以下弱いバージョンについて。
もしこみやさんの主張が、「行為の説明には因果的でないものもある」というものであれば、わたしには特に異論はありません。
前回書いたように、たとえば「男は芝居の練習をしているので、刀を振る」は、「刀を振る」という行為の種類を説明しているだけですし、その説明を「言葉の意味によって説明している」と言うこともできるかもしれません。
しかし、おそらくこみやさんのターゲットは、「行為・理由・原因」などにおけるデイヴィドソンの「理由と行為の結びつきは因果的なものである」というものですよね。
しかし「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という主張を否定するには、「行為の説明には因果的でないものもある」だけでは弱すぎるのではないでしょうか。
というより、「因果的であるかどうか」と「説明力が何に由来するか」というのは、別の水準に属する事柄ではないかと思います。
デイヴィドソンも論じている通り、「理由を述べることによって行為を説明するとき、われわれはその行為を再記述している」という見解と、「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解は特に矛盾しません。
そして懸念されるような矛盾が無いなら、もっとずっと弱い理由であっても「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解を採用する理由になります(それこそ「直観」でもよいわけです)。
しかしこういう点に関して言えば、もう少しデイヴィドソンの論文に即して論じた方がよいかもしれません。
■ 自分の見解の説明
以下こみやさんの質問に答えます。
こみやさんの発言
しかしながら、トークン同一説が
・行為者の状態は、物理状態のトークンとして記述を与えることができる
ということを意味するにすぎないのなら、これはある意味ではあたりまえにすぎる主張です。何であれ、私たちが生活しているときには、脳はいつも何らかの状態にあるのですから。
一応、その「あたりまえ」の主張をしたつもりです。
ただし、わたしは「脳」に限定してよいものかどうかは少し迷っていて、「体」と言いたいです。
こみやさんの発言
トークン同一説にもとづいて因果説を主張するのであれば、物理状態のトークンとして同定される行為者の状態が、行為の「原因である」ということの意味を積極的に明らかにする責任が立論者に生じるように私には思われます。それは「特定の脳の状態のタイプが行為を引き起こす」という主張よりも、はるかにわかりにくい主張です(物理状態のタイプとしてはバラバラであるような「行為者の状態」は、いったいどのように、他ならぬその「行為者の状態」として因果的効力を発揮することができるのでしょうか)。
因果関係というのは基本的には個別的な出来事同士の関係であると思います。
もちろん「水素の燃焼が水の生成を引こ起こす」のようなタイプ同士の因果関係もありますが、これはどちらかと言えば「法則」とでも言うべきものでしょう(あるいは、「しばしばXがYを引き起こす」のような統計的事実)。
「窓に石が当ったことが、窓が壊れることを引き起こした」のような言明は基本的には、個別的な石の衝突と個別的な窓の破損について述べています。そして石の衝突はいつも窓の破損を引き起こすわけではありません(ゆっくりぶつかれば壊れません)。
「北京の蝶のはばたきがメキシコでハリケーンを引こ起こした」のように、到底タイプ同士の関係があるとは思えないような言明だってあります。
もっと言えば「それ」とか「あれ」という表現によって指示されるものであっても、因果的な効力を持つことは当然あるわけです。
「それが引き起こした」と言うことはできますし、それほど珍しくもありません。
ですから、指示対象を固定するためにどんな表現が用いられるかということはそれ自体としては重要ではないと思います。
因果的な効力を持つために重要なのはむしろ「何が指示されているか」です。
この辺少し深くつっこむと「決定論と自由意志の問題」というやっかいな問題に突入しそうで怖いですが。
■ 補足
論点としては脇道ですが、ちょっと気になった点。
こみやさんの発言
・意図の帰属とは、「思い」の帰属ではなく、意図と行為の意味連関に関する知識の帰属である
知識があまりに欠如している場合は、意図の帰属が取り消されるという論点自体は賛成なのですが、「なすべきことを知っていること」が意図を持つことだという風に定義してしまうと、「学校へ行くべきだと知っているけど(学校へ行く方法も知っているけど)、学校へ行くつもりはない」みたいな場合はどうするんですかね?
この定義だと、この人はこの場合にも学校へ行く意図を持っていることになってしまうのではないでしょうか。
あともう1つ。
こみやさんの発言
私の考えでは、「会社を辞めよう」と自分が意図していることについて本人が「知っている」というときのその知識は、自分の心や脳が(タイプ同一的にであれトークン同一的にであれ)いかなる状態にあるかについての経験的知識ではありません。自分の脳の状態を見て「私は初めて自分が○○しようとしていたと知った」「私は○○しようと思っていたが脳を見る限り私は間違っていたようだ」などと言うのは奇妙なことです。
以下がこみやさんの立場に抵触するかどうかわかりませんが、念のために確認しておきます。
まず「意図についての知識がいかにして得られるか」と「意図とは何か」は別問題であると思います。
こみやさんの意見は、アンスコムなどの言う「観察を媒介にしない知識」についての議論を参照しておられるのではないかと思いますが、「観察を媒介にしない知識」には、「わたしの右腕がどこにあるか」のような種類の知識も含まれていることを忘れないでください。
- 「わたしの右腕がどこにあるか」が通常、観察を媒介にせずに知られること
- わざわざ自分の右腕を見てから、「わたしの右腕は上がっていた」と言うことが奇妙であること
などから、
「わたしの右腕について、経験的な知ることはできない」であるとか、ましてや「わたしの右腕は物理的には存在しない」
などという推論をすることはできません。
知識の種類や知識がどうやって得られるかを問うことは重要だと思いますが、「Xの知識」がどんなものであるかと「Xが何であるか」は基本的に無関係であると思います。

