新年になってしまいましたが、お返事を書きます。


これまでのやつ。

http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html

http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-294.html


ひとまず前エントリのコメント欄から議論の整理と反論をはじめます。

こみやさんの発言

 そうではなく、私の主張は

c)意図への言及による行為の説明の説明力は、因果説明の説明力に依存していない(むしろ、記述どうしの意味連関に依存する)

というものなのです。


思うに、この主張には弱いバージョンと強いバージョンがあり、こみやさん自身は「弱いバージョン」を採用しつつも両者の間でゆれているように見えます。

わたしは弱いバージョンには同意できますが、強いバージョンには同意できません。


弱いバージョン。

意図に言及することが行為の説明になるのは、しばしば意図を明示することで、言葉の意味によって行為を説明することができるからである。

たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」は、「妻の食事に薬を入れる」という男の行為を特定の意図と結びつけることで、「妻を殺そうと意図している」という言葉の意味によって、行為を説明している。


強いバージョン。

(副詞へのパラフレーズはひょっとすると強すぎるかもしれないですが、主張の勘所をわかりやすくするために付け加えました)。

意図というものは、言葉の意味によって行為を説明する。そして意図というのはそれだけのものなのである。意図に言及するのは為された行為を補足的に説明するために、特殊な言葉使いをするだけのことであり、「意図」という概念によって指示されている対象などそもそも存在しないのである。

たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」というのは、正確に言えば、

「男は、<妻を殺そうと意図している的な仕方で>、妻の食事に薬を入れる」という意味であり、意図に対する言及は行為を副詞的に修飾するだけの表現なのである。


これは、「行為・理由・原因」でデイヴィドソンがとっている「意図は共範疇語である」というのと同じような立場です。

もしこの強いバージョンの方を取るなら、「行為に結びつかない意図」の存在は依然として謎のままに留まります。

意図が行為の説明のためだけの概念だとすれば、行為なき意図のような言明が何を述べているのかわからないからです。



こみやさんは強いバージョンの主張を明示的には採っておられないようですので、以下ターゲットを弱いバージョンにしぼります。

以下弱いバージョンについて。

もしこみやさんの主張が、「行為の説明には因果的でないものもある」というものであれば、わたしには特に異論はありません。

前回書いたように、たとえば「男は芝居の練習をしているので、刀を振る」は、「刀を振る」という行為の種類を説明しているだけですし、その説明を「言葉の意味によって説明している」と言うこともできるかもしれません。




しかし、おそらくこみやさんのターゲットは、「行為・理由・原因」などにおけるデイヴィドソンの「理由と行為の結びつきは因果的なものである」というものですよね。

しかし「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という主張を否定するには、「行為の説明には因果的でないものもある」だけでは弱すぎるのではないでしょうか。


というより、「因果的であるかどうか」と「説明力が何に由来するか」というのは、別の水準に属する事柄ではないかと思います。

デイヴィドソンも論じている通り、「理由を述べることによって行為を説明するとき、われわれはその行為を再記述している」という見解と、「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解は特に矛盾しません。

そして懸念されるような矛盾が無いなら、もっとずっと弱い理由であっても「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解を採用する理由になります(それこそ「直観」でもよいわけです)。

しかしこういう点に関して言えば、もう少しデイヴィドソンの論文に即して論じた方がよいかもしれません。




自分の見解の説明

以下こみやさんの質問に答えます。

こみやさんの発言

 しかしながら、トークン同一説が

・行為者の状態は、物理状態のトークンとして記述を与えることができる

ということを意味するにすぎないのなら、これはある意味ではあたりまえにすぎる主張です。何であれ、私たちが生活しているときには、脳はいつも何らかの状態にあるのですから。

一応、その「あたりまえ」の主張をしたつもりです。

ただし、わたしは「脳」に限定してよいものかどうかは少し迷っていて、「体」と言いたいです。


こみやさんの発言

トークン同一説にもとづいて因果説を主張するのであれば、物理状態のトークンとして同定される行為者の状態が、行為の「原因である」ということの意味を積極的に明らかにする責任が立論者に生じるように私には思われます。それは「特定の脳の状態のタイプが行為を引き起こす」という主張よりも、はるかにわかりにくい主張です(物理状態のタイプとしてはバラバラであるような「行為者の状態」は、いったいどのように、他ならぬその「行為者の状態」として因果的効力を発揮することができるのでしょうか)。

因果関係というのは基本的には個別的な出来事同士の関係であると思います。

もちろん「水素の燃焼が水の生成を引こ起こす」のようなタイプ同士の因果関係もありますが、これはどちらかと言えば「法則」とでも言うべきものでしょう(あるいは、「しばしばXがYを引き起こす」のような統計的事実)。


「窓に石が当ったことが、窓が壊れることを引き起こした」のような言明は基本的には、個別的な石の衝突と個別的な窓の破損について述べています。そして石の衝突はいつも窓の破損を引き起こすわけではありません(ゆっくりぶつかれば壊れません)。

「北京の蝶のはばたきがメキシコでハリケーンを引こ起こした」のように、到底タイプ同士の関係があるとは思えないような言明だってあります。


もっと言えば「それ」とか「あれ」という表現によって指示されるものであっても、因果的な効力を持つことは当然あるわけです。

「それが引き起こした」と言うことはできますし、それほど珍しくもありません。


ですから、指示対象を固定するためにどんな表現が用いられるかということはそれ自体としては重要ではないと思います。

因果的な効力を持つために重要なのはむしろ「何が指示されているか」です。

この辺少し深くつっこむと「決定論と自由意志の問題」というやっかいな問題に突入しそうで怖いですが。



補足

論点としては脇道ですが、ちょっと気になった点。

こみやさんの発言

・意図の帰属とは、「思い」の帰属ではなく、意図と行為の意味連関に関する知識の帰属である

知識があまりに欠如している場合は、意図の帰属が取り消されるという論点自体は賛成なのですが、「なすべきことを知っていること」が意図を持つことだという風に定義してしまうと、「学校へ行くべきだと知っているけど(学校へ行く方法も知っているけど)、学校へ行くつもりはない」みたいな場合はどうするんですかね?

この定義だと、この人はこの場合にも学校へ行く意図を持っていることになってしまうのではないでしょうか。



あともう1つ。

こみやさんの発言

私の考えでは、「会社を辞めよう」と自分が意図していることについて本人が「知っている」というときのその知識は、自分の心や脳が(タイプ同一的にであれトークン同一的にであれ)いかなる状態にあるかについての経験的知識ではありません。自分の脳の状態を見て「私は初めて自分が○○しようとしていたと知った」「私は○○しようと思っていたが脳を見る限り私は間違っていたようだ」などと言うのは奇妙なことです。

以下がこみやさんの立場に抵触するかどうかわかりませんが、念のために確認しておきます。

まず「意図についての知識がいかにして得られるか」と「意図とは何か」は別問題であると思います。


こみやさんの意見は、アンスコムなどの言う「観察を媒介にしない知識」についての議論を参照しておられるのではないかと思いますが、「観察を媒介にしない知識」には、「わたしの右腕がどこにあるか」のような種類の知識も含まれていることを忘れないでください。

  • 「わたしの右腕がどこにあるか」が通常、観察を媒介にせずに知られること
  • わざわざ自分の右腕を見てから、「わたしの右腕は上がっていた」と言うことが奇妙であること

などから、

「わたしの右腕について、経験的な知ることはできない」であるとか、ましてや「わたしの右腕は物理的には存在しない」

などという推論をすることはできません。


知識の種類や知識がどうやって得られるかを問うことは重要だと思いますが、「Xの知識」がどんなものであるかと「Xが何であるか」は基本的に無関係であると思います。

コメント(3)

# こみや

 お返事どうもです。


 私の主張をふたつのバージョンに整理してくださいましたが、私の考えがat_akadaさんの想定されている「弱い」バージョンにとどまらないのは確かです。ただ私は
 >意図に対する言及は行為を副詞的に修飾するだけ
などとは考えていませんけれども。


 いずれにしても、私が十分に自分の考えを述べていないのは、揺れているからというよりも、私が今すべきなのは
・意図に言及して行為を説明することは、それが因果説明であるがゆえに説明力をもつ
という考えに反対することだと考えているからです。


 そしてその限りで、少なくとも現段階では、「弱い」バージョンとして整理して下さった考えで十分だと思いますので、そちらで話をすすめます。


 実は、上記のような議論の目的からすれば
・「行為の説明には因果的でないものもある」
とat_akadaさんが認めてくださっている時点で、私としてはすでに目的を達成しているのです。因果説は普遍的な主張ですから、そうでない場合があることを認めていただけるなら、それだけで反証はおしまいです。


 この点

 >しかし「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という主張を否定す
 >るには、「行為の説明には因果的でないものもある」だけでは弱すぎるので
 >はないでしょうか。
 >というより、「因果的であるかどうか」と「説明力が何に由来するか」とい
 >うのは、別の水準に属する事柄ではないかと思います。
 >デイヴィドソンも論じている通り、「理由を述べることによって行為を説明
 >するとき、われわれはその行為を再記述している」という見解と、「理由と
 >行為の結びつきは因果的なものである」という見解は特に矛盾しません。

とおっしゃるat_akadaさんは、デイヴィドソンの主張を読み違えていらっしゃるように思います。


 at_akadaさんが言及してらっしゃる箇所でデイヴィドソンが言っているのは、説明項と被説明項が「論理的な関係にある」ということは、両者が「因果的な関係にある」ということを排除しない、ということでしょう。これは、「両者は論理的関係にあるがゆえに因果関係にはない」という反因果説の根拠への反論として述べられている主張です。そして、デイヴィドソンのこの主張自体は、正しいと私も思います。


 問題はその先です。デイヴィドソンがなぜ「両者は矛盾しない」と述べているかと言えば、当然両者が「因果関係にある」と言いたいからです。そしてなぜ彼がそう言いたいかと言えば、理由と行為が「論理的な関係にある」というだけでは理由は行為の説明として不十分であり、前者によって後者が「引き起こされた」と理解して初めて説明が成立する、とデイヴィドソンが考えているからに他なりません。つまり彼は
・理由と行為が論理関係にあるからといって両者は因果関係でないとは言えず、むしろ両者は因果関係にあると理解しなければ、理由による行為の説明力をあきらかにできない
と言っているのです。「理由Aゆえに行為Bをする」の「ゆえに」は因果関係の表現でなければならない、という彼の主張はそういうことでしょう。


 したがって、説明力の由来(「ゆえに」の力の由来)こそ、デイヴィドソンが反因果説を退けている根拠なのであり、彼の議論の最大の焦点なのです。「因果的であるかどうか」と「説明力が何に由来するか」は、「別の水準に属する事柄」であるどころか、デイヴィドソンの議論の中では本質的に結びついている論点だと私は思います。


 それゆえ私の理解では
・「行為の説明には因果的でないものもある」
と認めていただけるなら、少なくともデイヴィドソンの主張に反対という点では、私とat_akadaさんは合意した、ということになるのです。


(もちろん、目下の議論の主題である「意図」と、デイヴィドソンが論じている「理由」については区別して論ずべきこともあるかと思いますが、行為への説明力という点では、基本的には私は同じように考えています。)

(2010/01/ 3 12:59)
# こみや

 ところで、(デイヴィドソンはさておくとして)at_akadaさんのご主張が私にはやはりよくわかりません。


 >因果関係というのは基本的には個別的な出来事同士の関係であると思います。
 [omitted]
 >ですから、指示対象を固定するためにどんな表現が用いられるかということ
 >はそれ自体としては重要ではないと思います。


 因果説明の場合には、たしかにそうです。しかし目下問題になっているのは、意図による行為の説明がそもそも因果説明なのかどうか、ということなのです。


 そして私はすでに、因果説明だと考えなくても、意図による行為の説明は十全に成立する、という考えを述べています。意図と行為の意味連関によって行為は説明される、という考えがそれです。意図は行為をいわば「合理化」するのです。


 それゆえ私の立場からすれば
・意図Aをもつがゆえに行為Bをする
という説明を、因果説明として(たとえばトークン同一説などを持ち出して)解釈する、などという作業は、まったく余計なものです。そんなことをしなくても、特定の記述のもとで意図と行為が理解された時点で(記述が適切ならば)すでに説明は十分に成立しているからです。


(もちろん場合によっては「意図をもつ」ことを「行為者の状態」や「個別的な出来事」と解釈したりして、行為の原因だと「解釈する」ことはできるかもしれませんが、その場合でも、そんなことをしなくても記述の適切性のみによってすでに行為の説明は成立している、というのが私の主張です。それゆえ、意図に言及して為される行為の説明を、因果説明だと「解釈できる」と述べることは、それだけでは私の主張への反論にはならない、と先のコメントで述べたのです。)


 要するに、意図と行為の関係について、私は因果説を放棄しうる根拠を述べているつもりなのです。


 したがって、at_akadaさんがなお因果説を擁護するのであれば、示して欲しいのは
・「意図Aをもつがゆえに行為Bをする」は、因果説明だと解釈しなければ行為の説明として不十分な場合がある
ということなのです(問題はやはり意図のもつ説明力の由来に帰着するのです)が、at_akadaさんはそもそも上記のようにお考えなのでしょうか?

(2010/01/ 3 13:07)
# こみや

 補足的論点について簡単に。


 >「なすべきことを知っていること」が意図を持つことだという風に定義して
 >しまうと、「学校へ行くべきだと知っているけど(学校へ行く方法も知ってい
 >るけど)、学校へ行くつもりはない」みたいな場合はどうするんですかね?


 私の主張は
・意図の帰属は、「意図と関連した」為すべき行為に関する知識の帰属である
ですので、行為者に帰属されるのは「行為者が意図Aを持つならば行為Bをすべき」という規範的知識です。よって、単に「学校に行くべき」だと知っていることは、意図を持っていることにはなりません。


 >知識の種類や知識がどうやって得られるかを問うことは重要だと思いますが、
 >「Xの知識」がどんなものであるかと「Xが何であるか」は基本的に無関係で
 >あると思います。


 「自らの意図についての知識は心や脳についての経験的知識ではない」ということで、私は知識の種類について述べているのであって
  #対比させたかったのは、経験的(事実的)知識(私の脳はいかなる状態
  #にあるのか)と規範的知識(私は何をすべきか)です
「意図とは何であるか」について積極的に何かを述べているわけではありません。アンスコムは特に意識していませんでした(というのは嘘で、彼女の「観察によらない知識」とは違う話をしようとしていたので、名前を出さなかったのです)。

(2010/01/ 3 13:22)

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