あしたの検討会のためのレジメです。

  • 検討会で人に見せたら変更したくなると思うけど取りあえずアップしておきます。
  • 書き方がえらそうでごめんなさい。


本書の目的

「フィクションの概念分析」

フィクションの概念分析とは何か

「フィクション」という概念に関する諸原理を明らかにする。

ただし、

「フィクション」は多義的である。

たとえばフィクションには以下のような相異なる意味がある。

  • (1)虚偽
  • (2)実在と対応しないもの
  • (3)文学作品

本書は、

(3)の意味を基本としつつ、

  • より包括的で
  • より見通しのよい

フィクション概念を提案する。


より包括的であるとはどういうことか?

  • 絵画、彫刻、演劇、映画などの非言語的作品も包括する。

より見通しのよいとはどういうことか?

  • 問題領域についてよりよい理解が得られる
    • 一貫したシンプルな原理によってフィクション概念の本質を捉える
    • フィクションにかかわる諸事象を説明できる


評価の観点

「より見通しのよい展望」(P17)について、本書にはあまり説明がない。

しかし、アドホックで非一貫的な概念の拡張は、明らかに理解を阻むものである。

また「見通しのよい」というからには、フィクションにかかわる事象をうまく説明できなければならない。

従って、

  • 一貫したシンプルな原理に従う概念を提示しているかどうか
  • フィクションにかかわる事象をうまく説明できるかどうか

が本書に対する評価の観点になる。


フィクションにかかわる事象をうまく説明するとはどういうことか?

「線引き問題」(ある対象をフィクションに含めるかどうか)については以下のような対応が求められるはずである。

  • 「非フィクション」とされてきた対象を新たにフィクションに含める場合は、
    • 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
    • より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれること

を論じるべきである。

  • 「フィクション」とされてきた対象を非フィクションとする場合は、
    • 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
    • より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれないこと

を論じるべきである。


それ以外の問題(作者の問題、フィクションの特徴はあるか...etc.)については、以下のような対応が求められるはずである。

  • シンプルな原理によって明確な説明を与えること
  • なるべく非直観的な結論に陥らないこと



本書の結論

本書の議論は、以下のように要約される。

  • 文学的フィクションの基本的な特徴は「作者と語り手の分離」である。
  • 「作者と語り手の分離」はごっこ遊びの理論によって説明できる。
  • 非言語的フィクションはごっこ遊びの理論によって説明できる。
  • 従ってごっこ遊びの理論に基づくフィクション概念こそが、より見通しがよくより包括的なフィクション概念である。

従って、議論の検討のためには、清塚の「ごっこ遊びの理論」が上にあげた要請に従っているかをチェックすればよい。



1章 フィクションの統語論

本書の結論

  • フィクションを定義づけるような一連の統語論的特徴(虚構記号)はある。
  • それらの統語論的特徴は、必要十分条件群を構成する。
  • それらの統語論的特徴は、「作者と語り手の分離」の表れである。
  • しかし統語論的考察のみによってフィクション概念を明らかにすることはできない。

統語論的特徴としてあげられているもの

  • (a)過去を表現しない過去形
  • (b)体験話法 / 自由間接話法
  • (c)作者と語り手の名前の不一致

従って、本書によれば、

(xがaをもつ) OR (xがbをもつ) OR (xがcをもつ) <==> xはフィクションである。


以下のような事例がこれに対する反例となる

十分性に対する反例:

a, b, c のいずれかを持つが、フィクションでないもの

必要性に対する反例:

a, b, c をいずれも持たないが、フィクションであるもの



慣習的特徴と統語論的特徴

慣習的特徴とは?

必ずしも必要ではないが、それを持つことによっていかなる行為をしているか理解しやすくなるもの。

  • おじぎの際に、帽子を脱ぐこと
  • 警察官が職務の際に制服を着用すること
  • 「わたしは約束する」

帽子を脱がなくてもおじぎできるし、制服を着用しなくても警察官の職務を遂行できるし、「わたしは約束する」という文を使わなくても約束できるが、それらがあることによって「何をしているか」を容易に理解させられる。


統語論的特徴とは?

本書が何を統語論的特徴と呼んでいるのかわかりにくいが、一般に統語論的特徴を問題にできるのは、反事実的条件法が過去形によって表現されるケースなど、意味論的構造と統語の構造が密接に結びついたケースであると想像される。

これは、「なくてもよい」という性格のものではないだろう。

たとえば「約束」には慣習的特徴はあっても、統語論的特徴は存在しないように思われる。


疑問

フィクションの統語論的特徴はあるのか? 清塚があげている虚構記号は慣習的特徴ではないか?



a: 過去を表現しない過去形について

「明日は...だった」という文はフィクション以外にも登場する。たとえば、フィクションではない過去の思い出話をするときにも、この表現を用いることはある。

ex. 「2年前の今日、僕は修論の準備をしていた。まだ半分しか書けておらず、とてもあせっていた。何しろ明日が修論の締め切りだったのだから」

以上のような語りの「僕」は文字通り話者を意味しており、語り手と話者の分離は生じていないように見える。

「(フィクションを含め、語りの臨場感を表現したい場合に)臨場感を増すために、『その日』や『次の日』ではなく『今日』や『明日』などの表現を使う」という方が自然な説明ではないだろうか。



b: 体験話法 / 自由間接話法について

他人の内面についての詳細な記述や、誰もいない場所からの記述など、「語りえない文」について。

われわれはふつう、自分が考えていることや考えていたことについてならば権威をもって断定的に語りうるが、他人が考えていることや考えていた事柄については、間接的な証拠にもとづいてしか語ることができない。p28

「語ることができない」というのはどういう意味か。「慎重な人ならばそのような断定は避けるべきだ」という倫理的な主張や「避けることが多い」という頻度の主張なら理解できるが、われわれにはそのような語りを行なう言語的能力がないという意味なら、明白に間違っていると思われる。

「間接的な証拠にもとづいてしか語ることができないp28」「推測的にしか語れないp29」というのはどういう意味か? 見間違いの可能性などを考えれば、われわれの語りの内のほぼすべてがそうである。しかし疑いを持つ十分な理由がない場合には、可謬的な主張を断定的に語ることはおかしくない。フィクションの場合に、他人の内面に関する詳細な記述が多いのは事実だろうが、程度の違い、量の違いにすぎないように思われる。


たとえば、

わたしの目の前の人物は、蠅がまとわりついてきて不快だと思っている。

この文がフィクション以外の文章に表われたとしても、統語論的な規則に違反しているとは言えない。

さらに言えば、自分の読心能力に自信を持っている人ならば、フィクション以外の場面でも他人の内面についても詳細な記述をくわえようとするだろう。自称読心家は、話者と語り手の分離をすることなく、周囲の人間の内面の詳細について真剣に主張する。

自称読心家は愚かかもしれないが、統語論的規則を犯しているわけではない。


また、「物語の内容に照らせばだれもいないはずの視点から、延々と克明な記述が展開されることになる」ような語り(p30)も「語りえない文」であると言われているが、これも疑わしい。

この議論は、「われわれは直接目で見たものしか報告できない」という奇妙な前提に立っているように思われる。しかし後から密室の状況について報告を受け、特に疑う理由がなければ、密室の状況に関する記述を断定的に行なってもおかしくない。もしそれが「語りえない文」であり、フィクションのなかにしか登場しないのならば、自分が生まれた以前の事柄について述べる歴史家もフィクションを語っていることになってしまう。

通常考えられないほど他人の内面や状況について詳細な記述があるというのは、単に「話を盛り上げるための大げさな語り口」ではないだろうか。



c: 作者と語り手の名前の不一致

「作者と語り手の分離」を満たすものがフィクションであるとすれば、フィクション以外に、作者と語り手の名前の不一致が生じるものはないだろう。現実の話者と語り手が同一であるにもかかわらず、名前が異なるというのはまるで意味がわからないからである。

しかし「名前」はそもそも統語論的特徴なのだろうか。

仮にそれが統語論的特徴なら、問題にすべきなのは、単なる記号の列としての「名前」であり、指示された人物ではない。

つまり、作者と語り手が同性同名であった場合には、両者の名前は同じなのだから、この虚構記号は存在しないことになる。

p34周辺には「作品は解釈されたテキストである」という主張がでてくるが、仮にこの主張が正しいとしても、「解釈」や「文脈」は意味論や語用論に属するものであって、統語論的特徴ではない。

ただし、この要素を、フィクションの十分条件と見なすことについては異論はない。



ノンフィクションはフィクションか

ノンフィクションにも虚構記号は表われるという主張に対し、清塚は以下のように反論している。

キャロルがこの種の事例の具体例として想定しているいわゆる「ノンフィクション小説」は、本章で見てきた一連の虚構記号をふんだんに用いている。つまり、そこには過去を表さない過去形や、自由間接話法や、作者と語り手の名前の相違といった特徴がごく普通に登場する。そのかぎりで、これらの作品は、現実の作者その人によるストレートな事実報告とはみなしがたい非現実の語りによって構成されていると考えざるをえない。p45

この中で、唯一「名前の相違」だけは、フィクションであることの十分条件になっていると思われる。しかし作者と語り手の名前が異なるノンフィクションというのは想像しがたいのだが、どういう作品を想定しているのだろう。

一方「過去を表わさない過去形」や「自由間接話法」については、それらが「語られえない」という議論の方が疑わしい。


しかもノンフィクション小説に書かれていることは、通常直接の著者の語りと見なされているし、作者と語り手の分離は生じないのではないだろうか。

たとえば、トルーマン・カポーティの『詩神の声聞こゆ』に登場する「私」は普通カポーティ自身と見なされている。

外交官の訓示を聞きに行くのに、私はミセス・アイラ・ガーシュインと、元ボクサーでいま歌手のジェリー・ローズという角刈りの筋骨たくましい男と、一台のタクシーに同乗した。

三島の『仮面の告白』などとは違い、この「私」を著者自身と解することにためらいは無い。

「私」が登場しないタイプの三人称的ノンフィクションの場合でも、地の文は著者の意見と見なされるのが普通だろう。知りえないと思われる状況について詳細な記述があったとしても「著者自身が大げさな記述を行なっている」と見なされるだけではないだろうか。不正確な記述について著者自身に問いただすことがあってもおかしくはない。問いただすことに対して「野暮である」とか「何を大袈裟な」という反応は返ってくるかもしれないが、フィクションの語り手の責任を著者に問いただすようなカテゴリーミステイクは生じていない。

またわれわれが不用意な断定を「大めに見る」ことが多いとしても、それはわれわれが日常そこまで正確さを要求しないというだけのことにすぎない。フィクション概念とは何の関係も無いように思われる。



[補足と疑問]

清塚の言う「作者と語り手の分離」を狭く解釈した場合、清塚のあげている虚構記号は(論理和としても)まったく必要十分条件になっていないように思える。清塚のあげている要素の内、「過去形」と「体験話法」は単に語りを盛り上げるための技法であって、フィクションの場合以外にも表われるように思える。

ひょっとして著者は、「物語的語り口」それ自体を広い意味での「語り手と作者の分離」と見なしており、「物語的語り口全般」をフィクションと見なしているのだろうか?

しかし歴史書や日記はフィクションに含めないと書いてある(p4)。

おそらく、この点は「作品をおしなべてフィクションとして扱う」というウォルトン流の方針と一貫しているのだろう。ゆえに、後半にまとめて検討した方がいいように思われる。






2章: フィクションの意味論

存在に関する立場

  • (A)xがフィクションである <=> xは指示しない名前しか含まない
  • (B)xがフィクションである <=> xは指示しない名前も含む
  • (C)フィクションであるかどうかと指示しない名前を含むかどうかは独立

本書の立場は(C)である。


(C)に関する清塚の議論

C-1: 非現実の対象を指示しても虚構的な発言とはかぎらない。

(虚構に関する発言と虚構的な発言の違い)。

C-2: 非存在を指示するわけではない虚構的な発言もある。

a) 実在の登場人物だけが登場する小説。

b) 非存在の出来事が一つもない小説。

著者によれば、ノンフィクションもフィクションなので、存在するもの・出来事しか指示しないフィクションもあるらしいが、この議論自体がかなり疑わしく思える。

ただし、ノンフィクションもフィクションであるという見解に対する議論はすでに扱ったのでここでは置いておく



真偽に関する立場

虚偽説(虚構的言明は虚偽である)の否定。

省略



3章

省略



4章 フィクションの言語行為論

本章では虚構的言説を言語行為(発語内行為)として分析する立場が検討される。

著者はこれらの分析に対して否定的な立場を取っている。

著者は言語行為論的なフィクション論を寄生説と独自説の二つに分けているが、独自説を否定する議論だけで、議論はつきていると思われるので、その議論のみを扱う。


カリーやラマルクなどの論者によれば、虚構的言説は独自の発語内行為であり、以下のような意図を持って発話される。

  • (1)受け手が、文面どおりの発語内行為が行われている、とごっこ遊び的に想像すること、
  • (2)受け手がUの意図(1)を認識すること、
  • (3)受け手がUの意図(1)を認識し、そのことにもとづいて、意図(1)のとおりのごっこ遊び的想像を行うこと

著者の反論

  • 意図による分析ではフィクションを扱いづらい。
  • なぜなら、多くのフィクションには間接的な形で受け手に情報を伝達しようという意図が伴っているからである。

著者は、カリーやラマルクと自身の対立点は、ノンフィクション(間接的情報伝達意図が伴うもの)をフィクションに含めるかどうかだと弁明するが、これはよくわからない(そもそも意図による区別は、後での議論でも否定しているのではないか)。

  • まず、フィクションだろうと間接的な形で情報伝達意図を伴うことがある(経済小説のような場合)。
  • しかし「間接的」「直接的」という区別ができているのであれば、それを明確にしていけばよいだけである。

たとえば、「間接的」な意図によって実現される情報伝達は、発語内行為というよりは発語媒介行為のように思われる。よって、虚構的言明は、上記の意図をもってなされる発語内行為であるが、それが発語媒介行為の意図をも伴うことがあると言えばよい。




第5章 ごっこ遊びの理論

ウォルトンのごっこ遊びの理論に依拠する清塚によれば、フィクション作品は想像によって構成されるごっこ遊びmake-believeのゲームである。

想像とごっこ遊びについて簡単にまとめると、

  • 想像は命題的な内容を持つことがある。
  • 想像はその対象を持つことがある。 ex. 切り株を熊にみたてる。
  • ごっこ遊びのゲームとは、与えられた小道具propを対象として、特定の想像に興じるゲームである。
    • その際、ごっこ遊びのゲームにおいては、背景的規則(生成原理)が対象と想像を結びつける。
    • また、ごっこ遊びのゲームにおいては、小道具が指定する公式の機能による公認の想像と非公認の想像がある。
  • フィクション作品はごっこ遊びの小道具である。


想像が命題的な内容を持つとはどういうことか?

命題的な想像とは、「想像する」という語が完結した文の形を目的語に持つ場合に言及されているような想像のことである。

ex. 「太郎は熊がダンスすることを想像する」


ここで想像は、命題的態度と呼ばれるもののバリエーションとなっている。

この命題的想像の概念がウォルトンの議論のひとつのポイントになっている。


この際、「想像」はなぜ命題的内容を持つと言われるのか?

清塚はあまり踏み込んでないが、何かが「命題的」であるということは、それほど自明ではないだろう。

以下、レジメ作成者がポイントだと思う点をあげておく。


【真偽】

「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は真偽を持つ。

「太郎は熊がダンスすることを想像する」のような場合でも、太郎の想像は真であったり偽であったりするように思われる。ゆえに想像は真偽を持つ。このことは、「命題的な内容を持つ」と言われることの一つの理由になるだろう。


【帰結】

「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は論理的帰結を持つ。

ex. 「熊がダンスをする」 -> 「何かがダンスをする」


一般に、q が p の論理的帰結であるとき、以下の p', q'についても q'はp'の論理的帰結であるように思われる。ゆえに想像は帰結を持つし、論理的帰結について閉じていると考えられる。これもまた想像が命題的な内容を持つと言われる理由になるだろう。

p': 「x が p を想像する」

q': 「x が q を想像する」


たとえば、太郎が熊がダンスをすることを想像しているとき、太郎は何かがダンスをすることを想像している。

後者の想像は太郎によって意識されてはいないかもしれない。しかし何かがダンスをすることを想像せずに、熊がダンスすることを想像することは不可能であるように思われる。




評価

命題的想像という概念を持ち出すことによって何が可能になっているか?

=>「作品世界」やフィクションの「内容」という困難な概念に、より詳細な規定を与えられる

=> 視覚的なフィクションについても内容を扱える

なお、「世界」も「内容」も「命題」と相性のよい概念である。


フィクションと呼ばれる作品は、一般に、「ストーリー」や「作品世界」と呼ばれるような一連の内容を持っているように思われる。

想像の命題的な内容に注目することによって、これを簡単に規定できる。

つまり、

鑑賞者が想像する内容の内で、作品が指定した「公認の想像」の命題的内容こそが、作品の内容である。

と言えばよい。


それ以外の方法で同じことを規定するのは難しい。

たとえば、「作者が意図した内容」に注目する場合、作品の内容を規定する叙述と、より間接的な意図の違いを規定するのが難しくなる。

テキストに注目した場合は、「文」と「内容」の関係を扱うのが困難であるし、作品世界についての単純な叙述と、それ以外の主張や命令や疑問などの違いを区別するのが難しい。

また視覚的作品を同じ方法で扱うことはほぼ不可能だろう。



逆に、この議論の中で、理論的負荷がかかっているのは、「公認の想像」と「非公認の想像」を分ける部分だと思われる。清塚やウォルトンは慣習を持ち出すことで説明を済ませているが、その詳細はあまり明らかにされていない。





6章: 視覚的なフィクションをめぐって

フィクション/ノンフィクションの連続性を巡る議論

清塚は、フィクションとノンフィクションの連続性について以下のように主張する

  • 清塚の依拠するフィクション概念は、ごっこ遊びの理論によって明確な規定を与えられている。
    • ただしそこにフィクションとノンフィクションの区別は存在せず、作品のかなりの部分がフィクションとして説明される。
  • 一方、フィクションとノンフィクションを区別すべきだという論者は、区別のための明確な説明を欠いている。
  • 一貫した説明を与えようとすれば、フィクションを清塚のように扱うべきである。

しかし、フィクション / ノンフィクションの区別については、もう少し追求できると思うので、この区別を擁護する議論のバリエーションを2つ提出する。



意図による議論

まず「信じつつ想像する」ことと「真偽に頓着せずに想像する」ことを区別しよう。

真偽に頓着せずに想像するとは、想像の真偽を気にせずに想像することである。

信じつつ想像するとは、「50年前、この場所は草原だったんだ」と言われて想像する場合のように、信じている命題を想像することである。歴史史料館にあるような人形による再現風景のような小道具は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームを構成する。


さて、ある作品がノンフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「信じつつ想像すること」だけを求める場合である。一方ある作品がフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「真偽に頓着せずに想像すること」を求める場合もあるときである。



作品の機能による議論

ウォルトンや清塚も、作品によって促される想像のなかには、作品の機能によって規定された「公認の想像」と「非公認の想像」があることを認めている。

作品がある想像を公認し、ある想像を公認しないというというケースを認めるなら、作品が「信じつつ想像する」ことを公認し、「真偽に頓着せずに想像する」ことを公認しないというケースもあってよいように思われる。ノンフィクションと呼ばれるような作品は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームをその機能とする。

ある作品がノンフィクションであるとは、作品によって規定された「公認の想像」が「信じつつ想像する」ことだけであるときである。




7章

省略




本書への評価

感想的にちらほらと。

いくつかの議論は、受け入れがたい。特に「ノンフィクションもフィクションである」というあたりは何を言っているのかわからない。

しかし「語り手と作者の分離」という規定とごっこ遊びの理論を結びつけるあたりはうまく機能していると思った。統語論的特徴や意味論的特徴にこだわるのはやめて、「語り手と作者の分離」について、ごっこ遊びの理論との関係を直接詳細に論じておくべきではなかったのか?

ウォルトンの議論を全面的に受け入れるのはやめて、真偽とフィクションの関係についてもう少し踏み込むこともできたのではないか?という部分が残念。

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