■ 感想
ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。
本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。
なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ!
■ 『フィクションの哲学』について
- 前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか?
- 1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない)
- もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか
- ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。
- この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。
- しかもかなり大胆な主張してるよね。
- この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない?
- ウォルトン+清塚の立場って、なんで非主張説のバリエーションじゃないの?
- 作者の関与を認めないから?
- ウォルトン+清塚的には、フィクションというのは「想像を指定する道具」で、使用目的に沿った「公認の想像」が作品の内容とされる。
- 道具の目的は何によって決まるの?というところで、作り手の意図を持ち出したくならないのだろうか?
- ウォルトン+清塚的には、「岩に入ったひび割れがフィクションの機能を持つかもしれない」(スワンプテクスト by kugyo)
- しかしたとえば、アマゾンの奥地で、「鉛筆の機能を持った木の枝」が発見されたとして、それを「鉛筆」と呼ぶか?
- (言わなかったけど)最近の慣習論とか機能論だと、機能を意図に還元しないで、「機能は複製元となった祖先との因果作用によって決まる」という説もある。ただその場合でも、清塚+ウォルトンの「岩に入ったひび割れがフィクションに見える」(スワンプテクスト)は、フィクションの機能を持たないはず。
- あと、岩に入ったひび割れがフィクションに見える例って、アニミズム信仰みたいな話であって、「擬人化」してないか?というのも気になる。「想像を指定する作者を想像してる」のでは?
- conchucame氏の「語り手を想定するのはなぜなの?」という話。
- フィクションの読み方がわからない読者というのも、かつてはたくさんいたはずで、近代読者の誕生みたいな話とも無関係ではないよね、とか。
- あと、最終的には「慣習」を持ち出して、説明が打ち切られるんだけど、慣習って何?って話はもう少しつめたいかな。「規約」だとすると、明示的な合意が必要なので、結局意図に訴えるしかないんじゃないか?とか。
■ 打ち上げにて
- ベタに「本質主義」(に見える立場)を擁護しており、しかも勝てると思ってる人たちがいるというところで驚かれる(主にわたしですが))。
- 分析哲学は「本質主義」を恐れない。
- なぜか?(以下「本質主義」という言葉はとてもルーズに使います)
- 論理実証主義以来、ずっと対決してきた。分析美学の人たちも、「作者の死」を云々するヨーロッパ系の人たちとずっと対決しつつ作者や意図みたいな概念を復活させてきた。
- あと、論理実証主義がある種の「形而上学批判」を徹底させた上に、失敗して派手に死んでくれたおかげで、形而上学批判の問題点がクリアになったという側面もある。
- 論理実証主義は歴史上はじめての「間違えることができた哲学運動」。
- 間違えることができるくらいに明晰な主張をし、しかも研究プログラムをしっかり遂行しようとした(そして頓挫した)。
- そのおかげで、「検証主義」「知覚への還元主義」「規約主義」などというひとつひとつはもっともに見える哲学的主張の問題点が明らかになった。
- 間違えることができるというのは自信につながった。
- (このときは言わなかったが、あとで考えると)自然言語の扱いが単純に進歩したというのもあるよね。「自然言語は曖昧であり、明確な定義や真偽はない」って言われたときに、「それは単純におまえが努力してないからだ。様相文の分析も、時制の分析も、行為文の分析も、反事実的条件法の分析も、みんなできるようになったじゃないか」と言えるようになったというか。
- 一番素朴に見える立場をきちんと批判するのがいかに難しいかというのを噛みしめる日々なので、こういう風にふだん会わない専攻の人と話すと新鮮。
- 「いやわたしは全然勝てると思ってるので」ということで、テクスト論との対決をちょっとする。
- 擁護したい主張は、「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」などであった。
- 懐疑主義への対応よろしく、「何でもあり派」「複数の矛盾する解釈を許す派」「読者を変数にする派」などに分けて対応する。
- しかし改めて考えると、ほとんど教科書的な懐疑主義への対応に近いものになった。「相手は過剰な不可謬性か極端な懐疑の二択を要求してくるので、そもそも不可謬性は必要ないことを確認する。可謬的な主張の中でよりましなものを選べばよいことを確認する。しかも極端な懐疑はなかでも特にもっともらしくないものであることを確認する」とか。
- この辺の話は、それぞれの業界においていろんな常識があるよねみたいな大人な対応とか、ベタに論争しようとする人とか、対立点をずらそうとする人とか、いろんな言説戦略があっておもしろかった。
- というか、「本質主義」の否定として持ち出されていたのは、繰り返し何度も見たような「柄谷行人が流行らせた過剰に懐疑主義的な観察決定論(行為の事後決定論)」だった気がする。「端的な主張というものはなく、観察者によって主張とされているものだけがある」みたいな。
- kugyo氏は、「解釈に真偽はなく、おもしろい解釈とつまらない解釈があるだけ」という立場らしい。
- 『こころ』を読んであきらかにまったく関係のない小説の内容を読み取る読者(『こころ』を読んでるのに『ももたろう』だと思ってしまう人)は、間違ってるのではなく、極端におもしろくない解釈である、のか?
- じゃあ『こころ』を読んで、全然別のストーリーを読み取ってしまうんだけど、そのストーリーがすごくおもしろかったらどうする?
- 『こころ』についての言明であるということを確保するのが、まずかなり大きな問題になるらしい(細部はよくわからなかった)。
- 意図に言及しないで、どうやってあるテクストを個別化するの?
- 徹底したテクスト論者なので、『こころ』を文字の途中とかで切ったものも『こころ』のテクストらしい。厳密に一致はしないんだけど、一致する部分がかなりあるので、何とか同じテクストについて語ってるように見える?
- 最終的には、独我論 + 心に関する機能主義 + 汎テクスト主義みたいなものになるらしい...。そんな過激な立場だったとは知らなんだ。
- 解釈言明が真理値を持つとして真理メーカーはどこにあるの?と言われる。
- そういえば、David Lewisの"Radical Interpretation"は、デイヴィドソンの話はあまりしないんだけど、「根源的解釈」を「意味に関する事実は物理的事実にスーパーヴィーンするか」問題への解答として理解するという感じの内容だった気がする。
- http://philpapers.org/rec/LEWRI
- 善意の原則とか、いろんなルールを駆使して、欲求、信念、意味に関する事実を相互に決定していくイメージ。
- 細かい部分はともかく、わりとこんな感じで決まるんじゃないかというイメージは持ってるかなー。このプロセスって結局最終的には、本人の生物学的状態とか行動(not 行為)から決まるはずなので、それが真理メーカーになるかな。いや、正直そんなに自信はないけど。あとこれはもちろんフィクションにそのまま適用できる話ではない。
- うまくいくかどうかわからないこの手の試みをあげるより、もっと、なぜ(現状では、有効な真偽の決定手順など無いのに)「それでも真偽はあるはずだと期待するのか?」という話をした方がよいような気もする。
- 人がふだん行なっている解釈(解釈という言葉もあまり好きではないので別の言い方をすれば理解)は、おもしろさではなく、真偽を問題にしているように思える。「この文書で太郎はpと主張している」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろい」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは真である」と言っているように見えるし、その否定、「この文書で太郎はpと主張していない」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろくない」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは偽である」と言っているように見える。
- そして、それらの言明と、それらの言明に対する判定が、まったく何の合理性も持たない行きあたりばったりの判定を行なっているようには見えない、というあたりがポイントか。
- あと「解釈のおもしろさ」が問題になることがあるのはわかるのだが、それってかなり限定された特殊な文脈であって、常にそうではないよねと思っているかな。
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