2010年2月

皆様、愛していますか。


つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタインデーなので(24時すぎましたけど)、以前より関心のあった 愛の哲学について少しだけまとめてみます。


日本には、愛を哲学的に研究している人はあまりいません。哲学史家の人が、プラトンの愛の概念について述べていたり、バタイユのエロティシズムについて述べていたりなどの事例が少しあるくらいのものです。

しかし英語圏の分析哲学の世界では、愛の研究というのはそれなりにさかんです。主として倫理学的関心から論じられることが多いようですが、哲学史研究ではなく、愛そのものの哲学的研究がかなりの数存在します。


スタンフォード哲学事典の「love」の項目を中心にいくつかの論文を読んだので、それを中心にまとめます。

http://plato.stanford.edu/entries/love/index.html


「愛」のようなきわめて個人的な問題が哲学的探求の対象になるというのは、人によっては違和感もあるでしょう。しかし、愛は serious probrem であり、真剣な哲学的探求に値する重要な現象であると、少なくともわたしは考えます。愛についての心理学や社会学や歴史学ももちろん必要でしょうが、他の重要な問題と同様に、哲学的研究も必要なはずです。他の分野の研究とは違って、哲学的研究の場合、主として「愛の定義」や、「愛はわれわれにどういう規範を要求しているか」などといった論理的・概念的な事柄が問題にされます。

こうした議論を通じて、愛について改めて考えを深めることができれば、すばらしいことではないかと思います。



用語

ここでいう愛は、恋人や配偶者への愛を中心として、友人に対する友愛や家族への愛までを含むものです。ただし、主として人に対する愛のみを対象としています。


また、細かい話になりますが、日本語で「愛する人」と書くと、「whom I love わたしが愛を向けている人」を指しているのか「who loves someone 誰かを愛している人」を指しているのか曖昧になってしまいます。ゆえに、日本語として不恰好ですが、ここでは「愛をしている人」「愛をされている人」という表現を用いることにします。

花子が太郎を愛しているとき、花子は愛をしている人であり、太郎は愛をされている人です。愛が相互に成立している場合には、これがお互いにとってお互いに成り立ちます。つまり、花子は「太郎に対して愛をしている人」である一方、太郎も花子を愛しているならば、花子は「太郎の愛をされている人」でもあります。



愛の定義

Helm の記事は、これまでに提出された愛の定義を「合一(union)説」「強固な関心(robust concern)説」「価値付け(valuing)説」「感情(emotion)説」の4つに分類しています。これは排他的な分類でも網羅的な分類でもないのですが、主として愛を「個人的態度」として定義する立場と、「人の関係性」によって定義する立場の2つに分かれるようです。すべてを紹介するのは大変なので、ざっくりと2つの方向性に分けて紹介してみましょう。



個人的態度としての愛

愛を愛をしている人の個人的態度によって定義する場合、一番シンプルで分かりやすいのは、Helm が「強固な関心説」と呼んでいるものです。強固な関心説は、愛を、利他的な関心によって定義します。この立場としてあげられているのは、Frankfurt, Taylor, Sobleなどです。

たとえば、「太郎が花子が愛している」を、「太郎は、花子のための花子の利益に関心を持つ」という風に定義するわけです。

孫引きになりますが、Taylorの定義を紹介します。

要約: もし x が y を愛しているならば、x は y の利益や y とともにあることなどを望み、また x がこれらの望みを(少なくともそのいくつかを)持つのは、x は y がいくつかの確定的な特徴ψを持っていると信じており、その特徴のために y が利益を得たり、y とともにあることは価値のあることだと考えるからである。x はこれらの望みを充足することを、目的と見なしており、他の何らかの目的に対する手段とは見なしていない。

To summarize: if x loves y then x wants to benefit and be with y etc., and he has these wants (or at least some of them) because he believes y has some determinate characteristics ψ in virtue of which he thinks it worth while to benefit and be with y. He regards satisfaction of these wants as an end and not as a means towards some other end.

「確定的な特徴ψ」という部分がわかりにくいですが、この部分は、愛の対象となる人に価値を与えているような肯定的な特徴のことを言っていると思われます。たとえば「花子の笑顔がかわいいので、花子が幸せになるのは価値のあることだ」と太郎が考えているなら、太郎は花子を愛しているのです。



価値付け説や感情説も(少なくとも個人主義的なバージョンのそれは)、大きくは異なりません。

それらの立場は、愛をされている人の利益を望むことを、ある種の「感情」と呼んだり、愛をされている人が持っている「価値」と考える点で区別されます。どの立場も、「役に立つから利用してやれ」という道具的な欲求とは区別された、愛の対象それ自体の利益を問題にします。

なお、価値付け説に関しておもしろいのは「価値の発見」と「価値の創造」が区別されていることです。愛をされている人が利益を享受するだけの価値を持っているとして、その「価値」は、元々その人が持っていた価値を「発見」したのか、それとも「創造」したのか。つまり価値があるから愛するのか、愛するから価値があるのか。

これは、後述する「愛は正当化できるか」という問題との関係で重要になってきます。



Helm は、愛を個人の態度に還元するような定義に対し、一面では真実をついていることを認めながら、厳しい評価を下しています。

Helm にとって最大の問題は、これらの定義は弱すぎて、愛の「深さ」を説明できないことらしいです。単に利他的な関心を持つことが愛なのであれば、それは「好意」や「尊敬」とあまり変わりないことになります。しかし愛というのはわれわれ自身を大きくゆさぶり、人生を変えてしまうようなものではないかと言いたいようです。

Helm の議論はともかく、Kolodny(2003)のケースがおもしろいです。

Kolodny が、娘のクラスメイト、フレッド・サイモンを助けたいという基礎的衝動を抱いて目をさましたと仮定しよう。フレッドは Kolodony にとって、クラス名簿で名前を見たことがあるという以外、まったくの他人である。

Kolodny には、フレッド個人を助けることにこだわるようなポイントは特に何もない。ただ気がつくと、「サイモン坊やを...助け...なければ」と考えているだけである。

Kolodny はフレッドを愛していないように思われる。Kolodny がフレッドに対してとっている態度がいかなるものであろうとも、それは Kolodny の自分の娘に対する愛と同じ種類のものではない。

このケースのように、利他的な関心を何の理由もなく突然抱いた場合、その関心がどれほど利他的なものであっても、愛とは呼べないように思われます。この批判は、独立した精神的態度を一つ取り上げることで愛を定義する困難さをうまく突いています。

一方、単純な関心によって愛を定義する試みを不十分に感じる論者は、愛を、人の関係性に注目することによって定義しようとします。




関係としての愛

合一説は、愛を「わたしたち we」の形成(あるいは形成したいという欲望)によって定義します。

わたしのためでもなく、あなたのためでもなく、わたしたちのために行為する一人称複数の主体の形成こそが愛の本質であるという立場です。Scruton, Solomon, Nozick などがこの立場らしいです。

極端な立場になると、「わたしとあなたの境界が消滅する」とか「両者の魂が融合する」などとうわごとのようなことを言いだしますが、少なくとも、「わたしたちのため」に行為するような集合的な利益主体を想定することは、それほど奇妙には思えません。


しかし、この説にも批判はあります。まずこの「わたしたち」が一体何なのかを明らかにしないかぎり、まともな説明とは言えないでしょう。一部の論者はこれをただの比喩としていますが、別の論者は、「わたしたち」は文字通り世界に現われた新しい事物であると考えます。

そうした存在論的問題以外にも、この説を取ると、「愛による自己犠牲が理解できなくなる」という批判があります。合一説の場合、愛をされている人の関心は、私たちの関心となり、愛をしている人自身の関心にもなってしまうので、私たちのための行為はすべて本人が望んでやっていることになります。つまり、愛する人のために何かを我慢したり断念したりすることは、定義上存在しないことになります。これは奇妙な帰結でしょう*。

* ただし、自己犠牲というのは本来、すべてそのようなものであるという議論は可能でしょう。つまり、自己犠牲とは、「わたしたち」の利益を「わたし」の利益よりも優先することを言うのです。確か、柏端達也さんが自己犠牲についてその種の議論をしていたはずです。

自己欺瞞と自己犠牲


また「私たち」の形成は、愛の特徴付けとしては弱すぎるように思われます。たとえば、会社のような法人組織も、個々のメンバーの利益とは区別された「わたしたち」の利益を追求するはずですが、会社組織のメンバーが愛によって結ばれているとはかぎらないでしょう。愛を定義するためには、形成される「わたしたち」についてもっと踏み込む必要があります。



Helm や Kolodny は愛を形成するような関係性が歴史を持つものであることを問題にしています。

家族や友人や恋人たちがともに過した際の心理や活動がそれらの関係性の内実を形づくっています。また、Rorty(1986/1993)も、愛の定義としてではないですが、歴史的に変動していくような愛を、豊富な事例とともに描いています。


Helm(2009)は愛を、人を焦点とすることで結びつく一連の感情の複合体として定義しています。これらの感情複合体は両者の関心の共有や相互依存によって形成されています。

Kolodny(2003)は、愛を、家族や友人や恋人の関係性を理由とする(従ってこれらの関係性によって正当化される)一連の心理学的状態としています。この際、恋人や友人同士の歴史的関係性を背景として、それらの関係性自体や愛される人を価値付け、特定の関心を持つことが愛の構成要素となります(本当はもっとだいぶ細かい定義がありますが)。

細部をどうやって定義するのかが難しいですが、個人的には、この方向で定義を与えるのが一番うまくいきそうに思えます。Helm の議論は「焦点」という概念が明確でないように思われましたが、Kolodony の議論はおもしろいです。




愛は正当化できるか?

哲学の世界では、しばしば「原因による説明」と「理由による正当化」が区別されます。

原因による説明とは、原因を示すことで、何かが起らなければならないことであると述べます。一方理由による正当化は、理由を示すことで、何かがすべきことであると述べます。要するに、理由による正当化は、物理的現象の説明ではなく、社会的な規範にかかわるものであるわけです。


しばしば愛に原因はあっても理由はないと主張する論者がいます。つまり愛にはきっかけはあるが、特定の愛を正当化するような理由は無い。この主張は一見もっともらしく思われますが、愛には理由があるという議論にも説得力があります。

Kolodny(2003) は、愛に理由があるという主張を擁護するために3つの議論を提出しています。


(1)一人称視点からの議論

愛を経験する人としての、一人称視点から見ると、愛を構成する感情や動機は、適切なものに思われます。たとえば、恋人に幸せになってほしいと願うとき、その欲求は、何の根拠も持たないものではなく、規範にかなった適切なものとして感じられます。煎じつめれば、「理由があるような感じがするだろ!」ってことですが、これも理由説を信じる動機の1つにはなるでしょう。


(2)三人称視点からの議論

われわれはしばしば三人称視点で、愛を不適切であると主張したり、愛が無いことを不適切であると主張します。

不実な夫を愛する妻に苦言を呈したり、子どもを愛さない親に不満を述べたりします。愛に理由が無いのだとすると、これらの倫理的主張は何を述べているのでしょう。


(3)感情や動機には理由がある

感情や価値付けや動機が愛の構成要素であると言われますが、これらの精神的状態には、ふつう理由があります。よって愛にも理由があるはずだという議論です。

一例として、感情はしばしば認知的な内容を前提としており、これが感情の理由であると言われます。

たとえば、わたしが、近所の犬を「噛みつくかもしれない」という理由で怖がっているとします。ところが、このとき「この犬は噛みつくかもしれない」という評価がわたしの恐怖の理由となっています。しかし、実は近所の犬は老犬で、人に噛みつくことなどありえないことが明らかになったとしましょう。このとき、わたしの恐怖は認知的な支えを失い、理由のない不適切なものであったことが判明します。

感情に理由があるならば、愛を構成する感情にも理由があるはずであり、よって愛には理由があるはずです。


さらに Kolodny のような論者は、愛を理由によって個別化されるものとして定義するので、「理由説を認めれば、そうした定義が可能になる」というのも、理由説の動機になるでしょう。


一方、理由説には以下のような批判があります。これに対する反批判も紹介しておきます。


人は、特定の理由をもとに人を愛することを選択するわけではない。

複数の理由を比較考量し、「よしこの人を愛そう」などと決断する人はあまりいません。「恋に落ちる」と言われるように、人はむしろ非選択的に誰かを愛するようになります。これは、一見すると、「愛に理由がある」ことと矛盾するように思えます。

しかし、何かが意志的でないことは、必ずしも理由の不在を意味するわけではありません。たとえば、先に例にあげた「感情」はふつう選択的に抱かれるものではなく、非意志的に湧き起こるものです。感情に理由があるとすれば、愛に理由があることも不可能ではないでしょう。



愛の対象は代替不可能である。

誰かを愛することが特定の理由によって正当化されるとすると、それらの理由をよりよく満たす人々もまた愛の対象として同様にふさわしいことになります。

たとえば、「花子はとても眼鏡が似合う」というのが、太郎が花子を愛する理由だったとしましょう。太郎の愛がこの理由のみによって正当化されるとすると、花子よりも眼鏡が似合う良子は、太郎の愛の対象としてよりふさわしいことになります。太郎は花子への愛を捨て、良子を愛すべきなのでしょうか。

無論現実には、「そばにいてくれれば誰でもよかった」とか「かっこいい方がいい」とか「お金を持っている方がいい」ということはあるでしょうが、愛の対象を代替することはふつう倫理的によろしくないこととされています。理由による正当化が愛に関する規範だとすると、この愛の対象の代替不可能性は何によって生じるのでしょう。


しかし、すでに述べたようにKolodny のような論者は、愛を正当化する要素を、歴史的関係性としています。「眼鏡が似合う」「かわいい」「若い」などのような個人的特質と違い、花子と太郎がこれまでに築いた関係性は、歴史を書き換えないかぎり、他の人間によって満たされることはありません。

よって代替不可能性の問題は、理由の不在を示す証拠にはなりません(ただし、Kolodny はこの代替不可能性と、正当化に必要な一般性を両立させようとしていろいろ苦労しているようです。この辺りの議論が成功しているかどうかは判断が分かれるところかもしれません)。


以上、きわめて不十分ですが、愛に関する哲学的議論のさわりを紹介しました。愛に関する哲学研究がもっと盛り上がりますように!



文献

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