Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," British Journal Of Aesthetics, 40:4(1990), pp. 319-31.


Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41.

Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)


Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)


ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を読みました。

ラマルクは、分析美学(分析哲学の中の美学・芸術哲学)の研究者です。サブタイトルに「分析的検死」とあるように、本論文は、分析哲学というフランス現代思想とはずいぶん異なった学問的伝統に属するラマルクが、フーコーとバルトの著名な「作者の死」の議論を、分析哲学の流儀でまじめに取り扱ったものです。

対象となる論文は、フーコー「作者とは何か」、バルト「作者の死」の2本です。


物語の構造分析

フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)



わたしも改めてこの2本の論文を翻訳で読んだのですが、この辺りの論文は、2人の書いたもののなかでも、特にアジテーションの色彩の強いもので、ほとんど論証しているようには見えません。

ところがラマルクは、これを非常にベタな哲学的議論として再構成し、検討と反論をくわえています。あれだけふわふわした文章をよくここまで再構成したと、個人的には非常に感心しました。


以下簡単に要約を。

まず、フーコー、バルトの論文では、歴史的に誕生し、死んだ(死ぬべきだ)と言われている「作者」は3通りに解釈できることが指摘されます。

  • 1. あるカテゴリーの人 (writer-as-author)
  • 2. あるカテゴリーの批評(author-based criticism)
  • 3. あるカテゴリーのテクスト(authored text)

これらのうち、1番目と2番目の解釈だと、彼らの主張はもっともらしく、穏当でもあるが、ごくふつうの主張になります。ところがこれは、3番目の解釈とは結びつかないし、どうもフーコー、バルトの本当の意見のようには見えません。

一方3番目の解釈で読むと、彼らのテーゼは非常に過激であり、おもしろくもあるが、非常に極端で同意しがたい意見となり、あげられている議論も失敗していると、ラマルクは主張します。


20年前、10年前にとっくに紹介されているべきものだったと思います(発表は1990年)が、今読んでも十分におもしろいです。

■ ラマルク「作者の死 - 分析的検死」

I

ロラン・バルトが「作者の死」を宣言して以来20年以上になり、このフレーズは、事実というわけではないにしても、文学批評の共同体では十分に地位を得ている。しかしそれが意味することは明確さからはほど遠いままである。多くのアングロアメリカンの美学者は、バルトの定式化に対し、意識的にしろそうでないにしろ、自分たちが主張してきたより穏健な「意図の誤謬」のフランス的な誇張にすぎないものとして肩をすくめ、それ以上関心を持たない傾向にあると思われる。実際には、私が以下で示すように、「作者の死」の根底にある重要な主張は、意図に関するやかましい議論とはかけ離れたものであり、その洞察は謙虚な作者たちだけではなく、文学の概念それ自体や意味の概念にさえ向けられているのである。


私の目的は、関連する主張の生産的な参照点となっている二本の論文の主要なテーゼを同定し、分析することである。二本の論文とは、ロラン・バルトの「作者の死」とミシェル・フーコーの「作者とは何か」である*1。以下では、これらのテーゼが何を意味し、それが真であるか検討する。思想の一般的潮流との関係や二人の理論家のその他の仕事との関係といった、論文のより広い文脈について詳細を論じることはしない。私が関心を持っているのは、議論であり、著者たちではない。これらの論文で定式化されたアイデア(オーサーシップ、テクスト、書くこと、読むことについてのアイデア)は、ポスト構造主義と呼ばれる運動の基礎となっているが、不正確に表現され、しばしば誤解されていると考える。これらのアイデアに分析的研究を与えることは、ポスト構造主義に懐疑的な人々だけではなく、正確な含意についてはっきりしていないかもしれない支持者にとっても、興味を引くだろうことを望む。


ここでは、私にとって顕著なものと思われる4つの主要なテーゼにフォーカスを当てることにしよう。これら4つのテーゼを、私は、歴史主義のテーゼ、死のテーゼ、作者機能のテーゼ、エクリチュールのテーゼと名付ける。これらはすべて密接に織り合わされており、それぞれに詳細な検討の必要のある部分が含まれている。ただしバルトとフーコーがすべての点で合意しあっていると主張するつもりはない。明らかに両者は合意しあっていないが、テクストと作者について両者が提示したケースは、ともに現代思想のひとつの学派全体の発展に強い影響を及ぼしたものなのである。



II

バルト自身の言葉が歴史主義のテーゼの一般的な特徴付けを与えている。

作者というのはわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。("Death of the Author", p.142)

フーコーは「観念の歴史の中の(特定の)モーメント」における「作者という概念の誕生」について語っている("What Is an Author?"p.101)。両者は作者の誕生を、ポスト中世の時代、宗教改革から哲学的啓蒙の個人の勃興のはじまりに位置付けている。私は歴史主義のテーゼの歴史的詳細よりは、その地位(と意味)に関心がある。書かれた作品は歴史のある特定の時代にのみ作者を獲得したというアイデアには、明らかに説明が必要である。私は、相互に排他的ではない、少なくとも3つの可能な説明が与えられることを示すが、これらの説明は議論全体の中でその他のテーゼの解釈の仕方に作用する。歴史主義のテーゼの単なる語源学的解釈、つまりこのテーゼを「作者」という語についてのテーゼと見なすような解釈は興味を引かないので、扱わないことにする。私は「作者」という語以前に作者が存在しえたことを、「書き手」という語以前に書き手が存在しえたことや「思想」という語以前に思想が存在しえたことと同様に、当然とみなす。疑いなく、これについてさえ議論の余地はあるだろうが、私はバルトやフーコーが歴史主義のテーゼを擁護したとき、語源学を念頭に置いていたとは考えない。

最初の(もっともらしい)解釈はこうである。

書き手についての特定の把握conception(作者としての書き手writer-as-author)は、近代のものである。

フーコーにとってこの把握とは、非常に限定されたもの、つまり、オーサーシップについての法的・社会的把握のことである。作者は、財産の所有者、市場の商品の生産者と見なされ、それらの商品に権利と責任を持つと見なされる。「テクストや書物や言説が現実に作者というものをもちはじめる...作者が処罰の対象となるほどまでに」とフーコーは述べる(p108)。似た調子で、バルトも作者を「資本主義のイデオロギー」と理解する(p143)。この解釈によれば、歴史のある決定された段階において、(ある種のテクストの)書き手が新しい社会的地位と、それに対応した法的・文化的認知を得ることになるという点で、私は歴史主義のテーゼのこの解釈を「社会的把握」と呼ぶことにする。

繰返しになるが、私はこの歴史的主張の真実については論じず(実際の詳細は、しっかりした精査には耐えないのではないかと思うが)、かわりに理論的含意についてだけコメントする。例えば、この解釈には、「それ自体としての書き手」(書いている人)という限定なしの概念と、「作者としての書き手」という限定された概念の区別という帰結があるが、この後者の限定された概念の方が社会的あるいはイデオロギー的な用語として理解されている。この区別は単なる書く行為(砂に書くとか、封筒に走り書きするとか)が作者を作らないことを示すのに便利である。ここで指示された作者は、法的権利と社会的立場とを持ったより重い人物像であり、価値を持つと見なされるテクストの生産者なのである。重要なのは、この解釈のもとでは、歴史主義のテーゼは、社会的慣習と、特定の行為に従事する人々のクラスについてのテーゼだということである。それは、ペルソナや、虚構のキャラクターや、テクストの構築についてのテーゼではない。何しろ作者の個人的地位についてのテーゼなのだから、このテーゼは、以下で見る作者機能のテーゼに対しても、エクリチュールのテーゼに対しても、直接的な根拠を与えられない。それらのテーゼはどちらも作者を非個人的なものとして理解するからである。

歴史主義のテーゼの二つ目の解釈を、私は「批評的把握」と呼ぶことにする。

批評についての特定の把握(作者に基づく批評author-based criticism)は、近代のものである。

ここでの趣旨は、歴史のある段階において、批評の焦点が作者のパーソナリティーに向けられるということである。「日常的な文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人物、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している。批評は今でも、たいていの場合、ボートレールの作品とはボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている。」とバルトは書く(p143)。バルトによれば、この事態は、個人に卓越を与えたブルジョワ革命の後でのみ生じた。われわれは、著者に基づく批評の歴史的発展についての議論は歴史家に任せておこう。当然ながら、歴史のそれぞれの時代において、作者の伝記的背景や人格にどれだけの批評的重要性が置かれるかは程度の問題である。人(書き手、原因、起源など)としての作者は、この解釈でもまた喚起されているが、にもかかわらず「社会的把握」とは区別される。作者がテクストに権利を持つようになったという事実から、批評についての直接的な含意は導かれないからである。作者に堅固な法的・社会的アイデンティティが認められるという事態と、純粋な形式主義的批評は両立可能である。


三番目の解釈は、最も論争を呼ぶが、最も興味深いものである。

テクストについての特定の把握(作者を持つテクストthe authored text)は、近代のものである。

これを私は歴史主義のテーゼの「テクスト的把握」と呼ぼう。趣旨は、歴史のある時点で、(書かれた)テクストが「作者を持つ」ということによって意義を獲得するということである。「今日われわれが『文学』と呼んでいるテクスト類(物語、小説、叙事詩、悲劇、喜劇)が、それらの作者を問題にすることなく受けとられ、流通し、価値をあたえられていた時代があった」(p109)。フーコーはこれを、中世には、名指された起源(ヒポクラテスやプリニウスや誰であれ)に権威を負っていた科学の言説のケースと対比している。フーコーの主張によれば、17世紀と18世紀に根底的な変化が起こり、文学的テクストは本質的に「作者を持つ」ものと見なされるようになり、一方科学的文書は匿名であっても権威を担いうるようになった。

この大まかな一般化は、真面目な観念の歴史家からの実質的な限定を必要としている。ここでの目的のためには、さらなる分類が必要である。テクスト的把握はそれ自体、異なった解釈に開かれている。もっとも単純な形では、それは歴史のある時点で(おそらく異なる言説のそれぞれで異なる時点だろうが)、テクストが作者に帰属されていることが重要になったという主張にすぎない。より強い主張として見れば、この帰属がテクストの理解のされ方を実際に変えたということになる。すなわち、そのテクストは、誰々によるby so-and-soという以外の仕方では、適切に理解することができないのである。作者に帰属することが、おそらくは、個人的な暴露や、信仰告白や、権威のしるしなどとして、その意味を担う。フーコーはおそらく、少なくともこの後者の主張を念頭に置いていただろう。しかし、あとで見る作者機能のテーゼという証拠からすれば、フーコーはさらにそれ以上のものをテクスト的把握に対して望んでいたようである。あとで見るように、フーコーが示唆するのは、作者帰属の、人に関する側面がともに消えてしまうことである。作者を持つテクストと作者を持たないテクストの違いをしるしづけるのは、実際の因果的起源ではなく、テクストそれ自体の特定の(創発的)性質である。作者を持つテクストは、創造的行為の発現と見なされるが、重要なことは、それが産出あるいはアクセス可能にするのは、ある特有の種類の統一、完成、意味、関心、価値だということである。それらの[統一性などの]質が作者の個別の行為遂行に対して持つ関係ではなく、これらの質それ自体が、この強められたバージョンの歴史主義のテーゼでは、卓越したものとされる。

こうしてテクスト的把握には、単にテクストと作者を結びつけることから、ある種の目的の達成、意味の表現、価値の創出へと分類可能な作品として、テクストをより完全に把握していくことへの移行が存在する。歴史主義のテーゼのもっともらしさは、この尺度にそって進んでいくにつれ弱められていくことを示唆しておこう。言い換えれば、文章の特定の断片を、意味や統一や価値を持つものとして把握することは、単に作者の帰属を強調するような傾向に比べて、歴史的に日付けを特定するのがよりいっそう困難に思われる(そうした把握が存在しなかった時代などこれまであったのだろうか)。


III

この背景のもとで、われわれは今や二つ目の実質的テーゼに向うことができる。このテーゼを私は死のテーゼと呼ぶ。もっとも単純には、それが主張するのは

作者は死んだ

ということだけである。

この主張の意味とその真偽の評価は、歴史主義のテーゼと、その異なった解釈に相対的にのみ決定されうる。根底にある発想はこうである。もしある特定の把握(作者、テクストなどの把握)がはっきりした歴史的はじまりを持つならば、------もしそれが確定的な歴史的条件のもとで生じるならば------原理的には、その歴史的条件が変化すればそれは終わりをむかえることがありえるのである。

複雑なのは、死のテーゼが事実の言明としても、希望的思考としても読める、つまり現在の事態の記述(単純にある特定の仕方で理解された作者はもはやいない)としても、未来に対する指令(もはやその仕方で理解された作者は必要ないし、それらなしでも済ませられる)としても読めることである*2。バルトとフーコーのどちらも記述なのか指令なのかという問題について揺れているようである。バルトは例えば、「作者の支配は今なお非常に強い」(p143)と認めているが、作者と対比された「現代の書き手」について述べており(pp145,146)、(現代の)文章はもはや作者の生産物とは見なされないことを示唆している。同様にフーコーも、「作者の消滅によって空無のまま残された空間を位置付けなければならない」(p105)と述べ、作者の消滅を当然としているが、論文の最後では、自身の作者の概念である作者機能についても、「われわれの社会が変化の過程にあ」り、いつか未来には「消滅するだろう」と述べている。

死のテーゼがどうなるかを見るために、異なる組合せに目を通しておこう。

作者としての書き手は死んだ、あるいは死ぬべきである(歴史主義のテーゼの社会的把握から導かれるもの)

作者としての書き手を、特定の社会的・法的地位を持ったものとして把握することは、今も有効だろうか。確かに有効である。作者は現在でも、フーコーの言葉にあるように、「処罰の対象」である(死刑さえ宣告されうる)。著作権法や冒涜法があり、作者は中傷や盗作で訴訟されうるし、伝記やゴシップの関心をひく。この把握のもとでの作者は確かに死んではいない。では彼らは殺されるべきなのだろうか。われわれは挑戦し、自分たちをこの把握から自由にすべきだろうか。この問題は政治的、道徳的なものであり、哲学的なものではない。われわれはすべての文章が匿名であるような社会、書き手がいかなる法的地位も義務も持たないような社会を推進すべきだろうか。そうかもしれない。しかしこの問題は、エクリチュールや作者機能についてのどんな理論的議論とも完全に独立である。というのも、これは政治的・法的システムの中の現実の人々の取り扱いをめぐる問題だからである。


作者に基づく批評は死んだ、あるいは死ぬべきである(歴史主義のテーゼの批評的解釈から導かれるもの)

ここで、われわれは、反意図主義が死のテーゼのこのバージョンを押し進めたものと見なされるという点で、意図の誤謬にもっとも近づく。しかし、まず、反意図主義は、オーサーシップの社会的把握に基づくバージョンや、テキスト的把握にはコミットしないことに注意しよう。また次に、反意図主義がコミットするのは規範的な要素(作者に基づく批評は死ぬべきである)だけであり、記述的要素(事実作者は死んでいる)にはコミットしない。

ここには確かに、反意図主義とバルトとフーコーの間に重なりがあるのだが、これが唯一の接触点に思われる。もし死のテーゼが単純に、素朴な作者に基づく批評の衰退を記録し、裏付けているのであれば、それは控えめな理論的関心にしか値しない。文学批評における作者の意図の適切な役割については議論がつづいているが、純粋な伝記的要素------いわゆる作者のパーソナリティー------に集中することは、真剣な批評の規律にとって不可欠ではないということには、一般的に合意が得られるように思われる(この問題は少なくとも、1919年のT.S.Eliotにまでさかのぼる)。事実、あとで見るように、バルトとフーコーが死のテーゼを押し進めるとき、その眼中にはもっと実質的なものがあったことは疑いない。にもかかわらず、このテーゼに対する信頼の大部分は、疑いようもなく、純粋な作者に基づく批評を公式の標的としてきた文学批評の、コミュニティのより堅固な直観から得られたものである。だからこそ、バルトとフーコーによって意図された本当の死のテーゼを認識し、誤った解釈のせいで賛成せざるをえなくなるなどということのないようにしなければならない。

作者を持つテクストは死んだ、あるいは死ぬべきである(歴史主義のテーゼのテクスト的把握から導かれるもの)

作者を持つテクストという把握は現在も浸透しているだろうか、つまり、テクストは現在も、確定された意味を持ち、創造的行為の発現であると考えられているだろうか。確かに、統一性や表現の豊かさや創造的な想像力といった質は現在も文学作品に求められ、価値あるものと考えられている。実際これらの質は文学の概念そのものと結び付けられている。これらの特性を持つことが、何かが作者を持つテクストであるための十分条件であるとすれば、作者を持つテクストは死んでいない。ただし、作者を持つテクストは、強い解釈によれば、その実際の作者(人としての作者)との関係とは独立に定義されることを思い出そう。作者を持つテクストの意味と統一性は、現実の創造行為や、確定的な心理学的起源ではなく、テクストそれ自体にそれらを投影することとしてのみ説明される。これは作者機能のテーゼにとって重要である。

フーコーは、文学批評が作者を持つ批評という把握を現在も維持していることを認めるだろう。実際、フーコーはこの把握を文学批評の基礎として見ている。ゆえに死のテーゼは、このバージョンでは、記述ではなく指令と見なされなければならない。フーコーのプロジェクトは作者を持つテクストそれ自体(それに付随する意味、解釈、統一性、表現、価値の観念も合わせ)からの解放である。作者機能は、作者を持つテクストに特有の特徴であり、フーコーによれば、「イデオロギーの産物」(p119)であり、抑圧と制限をくわえる「意味の増殖における倹約原理」(p118)なのである。実際、フーコーの死の指令は文学批評の実践を支える文学作品その概念そのものに向けられている(より広範には、それは、類似した解釈と価値評価の制限を受ける作品の任意のクラスに向けられている)。指令は人としての作者の役割や地位とはほとんど関係ない。

これに照らして考えると、文学の制度はずいぶん前に作者のパーソナリティーを卓越させるのをやめていると指摘することは、フーコーの攻撃からの擁護にはなってない。そうすることは、弱いバージョンの死のテーゼを不当に強調している。フーコーが新しい反意図主義者にすぎないという自己満足な発想の余地はない。一方、フーコー自身も、素朴な作者に基づく批評が不十分だと訴えるだけでは、作者を持つテクストへの攻撃の根拠を見出すことはできない。実際には、フーコーは議論を作者を完全に越えるところまで進めたのである。


IV

作者機能のテーゼは、死のテーゼの強いバージョン(「作者を持つテクストは死んだ」というバージョン)にさらなる支持を与えるべく意図されている。この発想はフーコーによって明示的に述べられることは一度もなかったが、中心的なアイデアは作者機能は言説(またはテクスト)の性質であり、単に書かれているとか、(どんな地位のものであれ)ある人によって作られたという以上のもののになるということである。「作者という機能を備えた若干数の言説があり、一方、他の言説はこの機能を備えていない 」(p107)。

「作者機能」という観念を明確化する助けになるような、このテーゼの独立した一連の構成要素を同定できる。一つめは区別の申立てである。

(1)作者機能は、人としての作者(または書き手)からは区別される。

フーコーは作者機能が「現実の個人を純粋に単純に指示するわけではない」ことを明確にしている(p113)。フーコーがしばしばこの用語を「作者なるものthe author」と互換的に使うために説明は複雑になっている。しかし「作者」という用語それ自体は個人を直接指示するものとして意図されているわけではない。フーコーは、「作者を現実の書き手と同一視するのは誤りであろう」とし(p112)、作者を「ある種の機能原理」として述べている(p119)。

個人概念から区別された、非個人的な作者の概念を仮定することを、何が支持するのか。フーコーは、文学批評でいう「内在的作者」の観念、つまり、現実の作者と共有されているかもしれないし、されていないかもしれないような、作品に情報をもたらす一連の態度を単純に念頭に置いているわけではない。ひとつには、フーコーの作者機能は、個別的な作品を構築するわけではなく、全体的作品群oeuvreをひとつに結びつけるかもしれない。また、内在的作者は、作品内の虚構のキャラクターのひとりのようなものであるのに対し、作者機能は、より広範には、作品それ自体の本質を決定するものと考えられている*3

フーコーが、区別の申立て(1)のために提示する議論のひとつは------ それは作者を「イデオロギーの産物」と述べることへの正当化にもなっているのだが------、われわれが通常、人としての作者について考える仕方(天才、創造者、意味を増殖させる者)と、テクストが作者を持つと考える仕方(テクストの意味が抑制され、適用のされ方にも制限がくわえられているというような)の不一致を想定することに依存している。しかし、この議論は単純で満足できるものではない。なぜならそんな不一致など無いからである。われわれが作者を、「組み尽しえぬ意味作用の世界」(p118)をもたらすもの、意味を増殖させるものと考えているなら、彼または彼女が創造した作品にも同じことを期待するだろう。

フーコーが「作者」という用語の、半専門的な意味、つまり以下の原理に従うような意味を提案していると読むのはより有望である。

「作者を持つauthored」は関係的述語(ある作品とある人との関係を特徴付ける述語)ではなく、単項述語(ある種の作品を特徴付ける述語)である。

この原理が示すのは「Xにはある作者がいるhas an author」から「Xは作者を持つauthored」への移行、あるいは明示的に「XにはYという作者がいる」(関係的述語)から「XはY-作者を持つ」(単項述語)への移行である。作者機能はあるテクストとある人との関係ではなく、あるテクストまたは言説の性質となる。われわれは、単項述語「作者を持つ」または「Y-作者を持つ」が、現実にこの特殊な用法で何を意味するのか問う必要がある。

ただし、まず(2)をパラフレーズまたは還元として精確化しておくのが有意義だろう。

(3)人としての作者とテクストの関係に関するすべての関連する主張は、作者を持つテクストについての主張に還元できる。

こうして、パラフレーズによる存在論的還元と比較可能なプロセスを通じて、作者は消失する。例えば、「作品はある作者の創造的行為の産物である」というかわりに、われわれは「作品は作者を持つテクストである」と置換えることができ、それでも前者の重要な認知的内容はなお維持されている。しかしこうした意味論的仕掛けは、(人としての)作者が冗長であると示すよう意図されているわけではない。せいぜいその目的は、批評の言説に関しては、作者に対する指示は、意義ある内容を失なうことなく削除されうると示すことでしかない。私はこうしたテーゼが次のようなフーコーの言明の根底にあるものと見なす。「個人のなかで、人を作者たらしめているものして指示される側面は、テクストに加えられる処理を、つまり、われわれが作り出した結合、われわれが適切なものとした特徴、われわれが認知する連続性、われわれが実践する排除などいったものを、多少なりとも心理学的な用語で言えば、投影しているのである」(p110)。フーコーはそうした側面を、それによって作者がテクストに情報を与えるような意味、統一性、表現と同様の、作者の「デザイン」「創造的パワー」と考える。すでに見たように、フーコーは、これらの特徴が、人としての作者を遡及的に参照することなく、作者を持つテクストに直接的に付与されうると考えている。これが作者機能のテーゼの核心である。

(2)と(3)の命題にはどんな根拠を与えられるだろう。結局のところ、これらの命題は明らかに真というわけではないし、より馴染みのある「作者」の意味からは離れている。フーコーが提示する主要な論理的根拠は、作者の名前に関する議論である。作者の名前は、純粋に指示的に作用するわけではない、とフーコーは示唆する。特定の個人をピックアップするかわりに、それは、「分類機能」を持ち、「言説のある種の様態を特徴づけるという機能をはたす」(p107)とフーコーは言う。彼が念頭に置いていたのは次のようなことであると思う。

(4)(作者の名前を用いた)(ある種の)作者の帰属は非外延的である。

ある戯曲がシェイクスピア作であると言うとき、われわれが意味し、あるいは言外に含んでいるのは、戯曲がある個人(シェイクスピア)によって書かれたという以上のことである。ひとつにはわれわれはその戯曲にある賛美される質を割り当てている(これは注目に値する戯曲のようだ)。また、戯曲を、ハムレット、リア王、十二夜などのより広範な作品群と関係させている。「シェイクスピア作」であることは外在的関係ではなく内在的特徴づけを示す。われわれは「Xはシェイクスピア作by Shakespeareの戯曲である」から、「Xはシェイクスピア戯曲Shakespeare playである」あるいは「Xはシェイクスピア的Shakespeareanである」にまで移行する。後者の定式化は、指示を同じくする名前と置き換えることがいつも許されるわけではない(真理値を保存しない)という意味で、非外延的である------少なくとも非外延的読みをもつ。もし仮にシェイクスピアの正体がベーコンだったとしても、戯曲がベーコン的だったことは導かれない。なぜならその表現には他の含みがあるからである。

この議論のように述べることに何かメリットがあると仮定しておこう。この議論は作者機能のテーゼを根拠づけているだろうか。確かに、この議論は関係的述語から単項述語への移行、この場合には「シェイクスピア作by Shakespeare」から「シェイクスピア的であるShakespeare」への移行を、素描として示している。これは「XにはYという作者がいる」から「XはY-作者を持つ」への移行の個別例なのだろうか。そうかもしれない。しかし、それが示しているのは移行するべきだということではない。「Xにはシェイクスピアという作者がいる」は非外延的な分類的意味完全に外延的な関係的意味を持つ。言い換えれば、シェイクスピアという人への指示はなお持ちこたえている。作者の名前の分類機能を指摘することは実に正当であるが、フーコーは、このこと自体が指示機能を失なわせると誤って仮定している。


(2)の「Xにはある作者がいるhas an author」から「Xは作者を持つauthored」への移行についてはどうだろうか。この移行は、作者の名前からの議論によって直接に根拠を与えられるわけではないが、「作者を持つテクストauthored text」という独特の概念に依存している。ここで、歴史主義のテーゼに戻らなければならない。すでに見たようにフーコーは、あるテクストに単に作者を帰属することを念頭に置いていたわけではないし、テクストは非外延的帰属によって分類されるというような、(4)の洗練されたバージョンを念頭に置いていたわけでもない。フーコーは作者を持つテクストという観念をより広範に捉えている。

(5)作者を持つテクストは、解釈を受け、意味を制限され、統一性と一貫性を示し、価値のシステムの中に位置付けられる。

フーコーが作者機能を攻撃する際、まさに攻撃しようとしているのはこの考え方である。しかし今やわれわれはここまでのピースが合わさると、どれほどフーコーにとって都合の悪いことになるかを見ることにしよう。人としての作者------パーソナリティー、伝記、法的地位、社会的立場を持つもの------は、(5)では何の役割も果たさない。これに関わってくるのは還元的なテーゼ(2)と(3)、および区別のテーゼ(1)である。実際フーコーは、作者機能と作者を持つテクストを仮定する際、(5)の[意味の制限、統一性などの]質が、(文学の観念の一部である)制度に基礎付けられた質であり、(個人的心理学的態度によって定式化される)個人に基礎付けられたものではないことに気がついていた。解釈の制限、統一性や一貫性の源泉、価値の基準を、直接的に個人(人としての作者author as person)に帰属可能なものと見なす必要はない*4

これが作者機能のテーゼのポイントであるとすれば、それは反意図主義の批評理論の中でよく確立され繰返された立場ではあるものの、それなりに力のあるものである。しかしフーコーは、両方の仕方でテーゼを主張することはできない。人としての作者から、作者を持つテクストを切り離しておきながら、同時に、作者を持つテクストを、個人というブルジョワイデオロギーを永続化させ、作者を神のごとき力と権威を持ち、法によって祭られる立場に高めるものであるというかどで攻撃することはできない。あたかもフーコーは、自らの作者機能のテーゼの含意を十分に受け入れられないかのようである。フーコーは、自分の主要なターゲットがなお、作品の後に作品を越えてあり、作品に秘密の内なる意味を与える、人としての作者であるかのように語る。おそらく問題の源泉は、「作者機能」と「作者を持つテクスト」の中に、誤解を招くように作者を引き合いにだしてしまったことである。正確には、作者はそれとは何の関係もない。いわゆる作者を持つテクストは、最もはっきりした形で現われれば、制度的に定められた文学作品である。文学作品にはもちろん作者がいる。この作者たちは(現実のエージェントの現実の行為である)創造的行為の産物であるが、解釈の制限、価値と一貫性の決定は、個人としての作者の意志とは独立である。これは、よりもっともらしいバージョンの死のテーゼからえられる教訓であり、作者機能のテーゼの教訓でもあるべきなのである。


V

バルトのバージョンの作者機能は、「テクストと同時に生まれ」る「現代の書き手modern scriptor」と呼ばれるものである(p145)。しかしバルトは関係的作者から非関係的書き手への移行------バルトのバージョンの作者機能のテーゼ------を書くこと(エクリチュール)についてのテーゼによって基礎付けている。私がエクリチュールのテーゼと呼ぶものの基本的な申立ては、バルトの言葉を用いれば以下である。

書くことはあらゆる声、あらゆる起源を破壊する(p142)

この含意は、書くことの本質こそが作者(人としての作者)を余計なものにするということである。このテーゼをバルトはどんな議論によって支持するのだろう。

ひとつめは物語からの議論である。「ある事実が、もはや現実に対し直接行為するためにではなく、自動詞的に物語られるやいなや、つまり要するに、記号実践そのものを除き、すべての機能が停止するやいなや...声がその起源を失う」(p142)。「記号実践そのもの」以外の機能を持たないという条件を満たす物語の行為を想像するのは難しい。ほとんどすべての語りにはそれ以上の企図があり、実際その企図は、さまざまな形で「現実に対し直接行為する」ことである。情報を与える、楽しませる、説得する、指図する、などなど。語りは定義上行為であり、いかなる行為も真に理由なきものではない。厳密に言って、物語の議論はここで破綻している。

ただし、寛大にも、ある種のフィクションの語りはバルトの記述に近いと考える者もいるかもしれない。そうした語りでは、遊びに富んでいることこそ至上である。ある種のフィクションは、慣習的に、フィクションとしての地位のみに注目させ、外ではなく内を指し示し、からかうように起源を隠す。しかしもしこうした特殊な事例の場合に、関心の焦点となるのが「記号それ自体」だけであることを認めたとしても、ここには書くこと(あるいは作者)についての一般的テーゼを支持するものは何もない。ひとつには、しばしばフィクションの悪戯とはかけ離れた、異なった種類の慣習が(言語行為としての)書かれた物語に適用されているし、多くのそうした事例では物語の目的(ゆえにその「起源の声」)は明示的である。またすべての書き物が物語形式であるわけでもない。

エクリチュールのテーゼのためのふたつめの議論は、行為遂行的発言performativeとしての書くことの特徴付けである。「書くことが記録、確認、再現、『描写』...の操作を指すことはもはやありえず、...その発話の行為以外には内容をもたない...行為遂行的発言を指す」(pp145-146)。しかし書くことは行為遂行的発話としての地位を持つという申立ては、エクリチュールのテーゼに根拠を与えるどころか、実際にはそれと直接的に矛盾する。行為遂行的発話が行為と見なされる---約束、結婚、宣戦布告---のは、正確に限定された文脈的条件のもとでのことである。そして、それぞれの事例に不可欠な条件のひとつは、話し手が適切な意図を持つことである。「起源の声」の破壊であるどころか、成功した行為遂行的発言は、話し手の傾向性と誠実さに決定的に依存している。ゆえにこのアナロジーは、ひかえめに言っても、不運なものである。

明らかに、バルトにとって行為遂行的発話が印象的だったのは別の特徴、つまり自己検証性self-validationだろう。「私は約束する」と言うとき、私は何らかの外在的な事実を報告しているわけではなく、正しい条件のもとで、ある事実を生じさせている。しかし話し手の誠実さへの要求を脇において、自己検証性のような特徴だけに着目しても、行為遂行的発言とのアナロジーはなお不十分なものである。バルトは再び、自らが属する事実と世界を創造するようなある種のフィクションの発言を範例とし、平凡な発語内の目的を無視することで、書くことの本質についての根拠のない一般化に陥っている。

みっつめの議論は意味についてのものである。書くことそれ自体は、制限された作者を持つテクストとは対照的に、いかなる確定された意味も産出しないという考え方である。「テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば「神学的」な意味(つまり、作者=神の『メッセージ』ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、意義をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。」(p146)。後半ではエクリチュールについていくらか懐疑的な響きがあるものの、同じアイデアはフーコーにも見られる。「今日書くことは表現という次元から解き放たれ」、「それは記号の遊びであり」、それは「ゲームのように展開する」(p102)。どのようにして、これが書くことが起源の声を破壊するというテーゼを支持するのだろう。議論はおそらく次のように進む。確定的な意味はつねに作者の要求の産物であり、作者もなく確定的な意味もなければ、書くことそれ自体(エクリチュール)はいかなる決定的な意味も持たず(それは単なる記号の戯れであり)、それゆえ書くことそれ自体は作者が余分なものであることを示すのである。この推論は奇妙なものである。その形式的な正当性は疑わしいし、また書くことそれ自体のようなものが本当にあるのかも問題にされなければならない。エクリチュールは実際には、作者を持たず、確定的な意味を欠き、解釈の制限を受けないものとして規約されている。しかしこのまさにエクリチュールという概念自体が疑うべきものなのである。

鍵は「テクスト」の観念である。「テクスト」は、バルトの考えでは、エクリチュールのある特定の仕方での発現である。それは「作品」と対比される。作品はジャンルに属し、その意味は制限され、作者を持ち、分類を受ける。バルトが言うには、テクストは「つねにパラドキシカル」である。それは「シニフィエの無限の延期を遂行する」*5。「それはたとえ自由な解釈であっても解釈に属することはありえず、爆発に、散布に属する」(「作品からテクストへ」p159)。「それは階級制度によっても、単なるジャンル区分によってもとらえられない」(p157)。「生命の『尊重』はテクストにとってはまったく不要である。テクストは砕くことができる」(p161)。この無制限の意味の爆発、起源もなく目的もないものとしてのテクストの観念は理論家のフィクションである。抽象作用によって、書き物をこういう仕方で見ることはできるかもしれないが、やってみてもきわめて退屈なことだろう。それはモーツァルトの交響曲を単なる構造化されていない音の連なりとして聞こうと試みるようなものである。ただしより重要なことは、書くこと(あるいは言語)の概念のいかなる部分にも、そんな風に見るべきであるなどということは含まれていないということである。書くことは、話すことや、「遂行」されたどんな言語とも同様に、不可避にして適切に、目的をもったものと見なされる。言語を意味ある言説として使用することは言語行為の遂行である。言説を理解することは、最小限、何の言語行為を遂行したのか把握することである。バルトは、自らのエクリチュールとテクストに対する見方において、言語を、それに生命を与える当の機能から切り離そうとしてしまっている。

バルトとフーコー両者が暗に仮定しているのは、フーコーが「意味の増殖」と呼ぶものの内に内在的な長所があるということである。おそらく彼らのプログラムに対する根本的な反対意見となるのは、この仮定には支えがなく、擁護不可能であるということである。作者の死を指令し、作品に対するテクストの優越を進めることで、両者は自分たちが、不自然で望ましからぬ制限から意味を解放していると見なす。ふたりとも、多ければ多いほどよいと考えている。問題の一部は、彼らが理由もなく不適切な政治的語彙の罠にかかっていることである。「抑圧」「権威」「支配」などなど。しかしそれでもなお、彼らは、独特の不毛な形式、おそらくはウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』のいくつかの節で例示され、バルト自身の『S/Z』で不条理なまでに強調されたものに対する文学批評の偏愛を明らかにしている。そこでは文学作品は、限界も制限もない含みとほのめかしの源泉と見なされている。反対すべきことは、彼らがこの概念を、批評だけではなく、最悪にも、読むことそれ自体の範例に設定したことである。

広義の批評のコミュニティは、単純な意味の増殖にはすぐ飽きてしまい、文学の制度の外にも、それは足場を見出せない。科学、歴史、哲学の言説をエクリチュールと見なすことには見込みがない---不可能ではないとしても無意味である。意味を強固にし、構造と一貫性を探し求め、作品を伝統と実践の中に位置付けることは、常にそれよりも興味深く、より労力も多く、理解によって得られることも多い。そうすることは、威張りちらした権威主義の作者を復位させることとは何の関係もない。しかしそれならば、そのような人物は常に単なるフィクションだったのである。

  • *1: 以下の版を参照する。Roland Barthes, "The Death of the Author" in Image-Music-Text, essays selected by and trans. Sthephen Heath(London,1977), Michel Foucault, "What Is an Author?" in The Foucault Reader, ed. Paul Rbinow(Harmondsworth, England, 1986
  • *2: 似た多義性は死のテーゼの起源、つまりニーチェの「神は死んだ」という宣言にもある。ニーチェはすでに明白となっていた新しい人間の意識を記述したのか、過去からの根底的な断絶を告知したのか。
  • *3: 私はここで、またこの論文全体を通して、Alexander Nehamas, "Writer, Text, Work, Author," in Literature and The Question of Philosophy, ed. Anthony J. Cascardi(Baltimore, 1987)の有益な議論を参考にしている。
  • *4: 文学いの文脈における制度的質についての有益な説明としては、Stein Haugom Olsen, "Literary Aesthetics and Literary Practice," in The End of Literary Theory(Cambridge, 1987)を見よ。
  • *5: Roland Barthes, "From Work to Text," in Image-Music-Text

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