以下、補足や反論に対するコメントなどをここに書いていこうかなーと思いました。

世界にたった一つしか無いものは「大きい」とも言えるし「小さい」とも言える。絶対的な価値はその意味を失うと思うよ。

http://b.hatena.ne.jp/steam_heart/20100525#bookmark-21779105


id:steam_heart さんから、はてブでこういうコメントを頂きました。


これ、シンプルな反論だけど、ちょっと答えてみたくなったので答えます。

世界にたった一つしか無いものは「大きい」とも言えるし「小さい」とも言える。

これはおそらく「宇宙」という種類のものは1つしかないということですよね。


とりあえずものの種類は置いておいて、ものを1つだけ含む集合について考えてみましょう。

「at_akada 一人だけを含む集合で、at_akada は大きいか、そうではないか?」

「この蟻一匹だけを含む集合で、この蟻は大きいか、そうではないか?」


この質問には答えがありそうにありません。「大きい」という形容詞は、ものを複数含む集合を前にしたときしか使えないようです(ちらっと書いたけど、複数であるという条件と、差が分散しているという条件が必要です)。

よって「宇宙は大きいか」というのが、「宇宙1つだけを含む集合のなかで、宇宙は大きいか」という意味であれば答えはありません。


となると問題は、「宇宙」に対して「大きい」という形容詞を適用する際に、ターゲットとなる集合は同じ種類のものだけからなる集合(この場合だと宇宙は1つしかないので、この宇宙1つだけを含む集合)でなければならないのかという点です。


しかし、「大きい」のターゲットとなる集合は、同じ種類のものからなる集合だけとはかぎりません。

前の記事でも、「大きい」は物の種類と相性がよいと書きましたが、それはデフォルトの解釈で同じ種類の対象の集合が選ばれるというだけであって、もっと違う風に使うこともできます。


たとえば「...と比べれば」という表現を導入すると、新しい文脈を創造できるようになります。

木星はマグロと比べれば大きい。

パンダは食パンと比べれ大きい。

どっちも、正しいように聞こえますし、まったく意味のない文にも見えません。しかし木星とマグロ、パンダと食パンは別に何らかの共通の種に属するというわけではないでしょう。


こういう現象を見ると、「大きい」の適用ターゲットとなる集合にはほとんど制限がないのではないかと思います。実際、「これとこれとこれを含む集合のなかでは、これが大きい」って言えますし。

なので「宇宙はあらゆるもののなかで大きい」という表現は実際に使えるし、真だろうと思ったわけです。

宇宙という種類のものが1つしかないことは、特に障害とはならないでしょう。


ブログへのコメント

このブログのコメント欄見づらいのでこっちにも載せます。宇宙の大きさは無限という人は結構いるようです。

# minori 『

「包み込みの原理」についてちょっと疑問に思ったのですが、直感的にみてxがyより大きいにもかかわらず、yがポップコーンみたいに膨張したり、あるいはビローンと伸びたりしてxを包み込んでしまう、というようなケースに関して、この原理は「ビローンと伸ばすのは禁止」といった条項を含んだものとして理解すべきだということなのでしょうか。

それからまた、部分-全体に関係の論理としてのメレオロジーにおいては、「大きさ」の概念についてはせいぜい「部分は、それを含む全体より大きくはない」ということが言える程度だと思うので、「包み込みの原理」はメレオロジーとはまた独立したものとして考えるべきなのではないかとも思うのですが。

』 (2010/05/26 3:18)

# ま きや 『

あんまり本筋と関係ない気もするが宇宙のことには突っ込まずにはいられない。

>現在観測されている限界を宇宙の限界とし、その外には何も

>ないとする仮説には、一応は観察に基づいた根拠がある。

この"観察に基づいた根拠"って具体的になにがあるのでしょう。

観測限界はただの観測限界にすぎず、その外がどうなっているかは誰にもわからないのではないでしょうか。

>一方、宇宙に無限の大きさがあるという仮説には、特に何の根

>拠も理由もない。

現在の宇宙物理学的には「宇宙は無限の大きさをもつ」となっている(と思う)。

大雑把にいうと、

まず観測事実として地球から見て大スケールでは宇宙は一様等方である(空のどの方向をみても特別な方向がない)。

  • >地球がたまたま宇宙の中心にあればこの事を説明できるが、それは不自然。むしろ、宇宙に中心はなく、どの点から見ても一様等方とした方が自然である。
  • >宇宙には中心がない。端もない。
  • >宇宙は無限大。

という感じ。

「宇宙は一様等方で、特別な場所を持たない」という考えは宇宙原理と呼ばれていて、現代の標準的な宇宙論はこの仮説に基づいて構築されています。

>宇宙が無限の大きさを持つのであれば、無限の大きさを持

>つものに「大きい」という形容はあてはまらないから、大

>きいものはないのである。

ここがよくわからなかった。

無限の大きさをもつものは、それ自身以外のあらゆるものを包み込めるはずで、「大きい」と形容してもいいのでは、と思いました。

>わたしが知らないだけで、宇宙に無限の広さがあるという

>仮説が広く受け入れられているのであればあやまりたい

というわけで謝って下さい。

』 (2010/05/26 17:19)

# at-akada 『

>minori さん

素敵なコメントをありがとうございます。

ビローンと伸びるケースについては単に考えてませんでした。そういう条項は必要ですね。メレオロジーについては、移動をどう定義すべきか悩んだので、もう少し勉強した方がいいなと思ったのでした。


> まきや

とりあえず謝ります。すいません。

で、ほんとによくわからないのだけど、宇宙って無限なの?

  • >地球がたまたま宇宙の中心にあればこの事を説明できるが、それは不自然。むしろ、宇宙に中心はなく、どの点から見ても一様等方とした方が自然である。
  • >宇宙には中心がない。端もない。
  • >宇宙は無限大。

そうなのか。。


』 (2010/05/26 20:15)

# http://www.hatena.ne.jp/kugyo/ 『

 こんにちは。楽しく拝読いたしました。3点、思いついたことを書きます。

 1点めに、宇宙の大きさについては、私もそれほど詳しくないのですが、宇宙が観測限界よりも十分大きければ、宇宙のなかの多くの場所にとって、そこからの観測範囲は一様になってていいので、地球もその多くの場所の1つであって何の不思議もないと思います。

宇宙→ (×○○○○×)

 観測限界を1マスとして、こういうモデルを考えると、×以外の全ての場所で、宇宙には端などないように見えるはずで、確率的にいって、地球が×のような特殊な場所にある可能性はとても低かったはずですから。

 乏しい知識から申しますと、宇宙が一様等方であると見なされる理由には、宇宙背景放射の一様性があったと思うのですが、あれも微小なゆらぎがある(方向によって偏りがある)ので、その偏りから宇宙の大きさを推定するのかな、と想像していました。

 2点めに、空間の体積は、長さ同様慣性系のとりかたに相対的ではないか、ということを考えました。しかし、この場合でもやはり、宇宙は最大の大きさを持つといえそうです。これは、どのように慣性系をとっても、同じ空間を占める2つのものが別の長さになることはないためです(ここでの「占める」はとてもラフな言いかたですが)。

 鉄球と、それを実際に(隙間なく)包んでいる風船とを考えます。このとき、どのように慣性系をとって観測しようと、鉄球の直径が風船の直径より長くなることはないはずです(2つの直径は同様に変化するので)。同様に、どのように慣性系をとったとしても、宇宙のなかのものが宇宙より大きくなることはないように思います。

 3点めに、「宇宙の3倍の大きさ」のような抽象概念には大きさがあるかどうか、という論点については、態度を決めかねています。もちろん、問題なのは抽象概念それ自体の大きさではなく、その指示対象の大きさだと思いますが。ここで、時空的関係を持たない2つの宇宙があったとして、これらの大きさの合計を持つもの、というのは、この2つの宇宙をあわせた世界に存在することになるでしょうか。

 「存在する黄金の山」という抽象概念について、そういう概念の指示対象は、存在するという性質を持たない(存在は性質でない)という解決と同様に考えては解決できないかもしれないな、と思っています。

 以上です。

』 (2010/05/27 6:39)

# at-akada 『

pubkugyoさん、コメントありがとう

>2点目

それは少しだけ考えました。実際体積が慣性系に相対的だとしても、「より大きい」という関係の順序が変化しないかぎりは問題ないと思います。


>3点目

これはちょっとよくわからなかった。

「問題なのは抽象概念それ自体の大きさではなく、その指示対象の大きさだと思いますが。」

これはその通りだと思います。

しかし「宇宙の三倍の大きさを持つもの」が(たとえば)記述句だとすると、その指示対象は存在しないので、やはり大きさは持たないだろうと思います。言い方を変えると「宇宙の3倍の大きさを持つもの」という思考対象が、【実際に宇宙より大きい】という事態が成立するためには、「その思考対象が存在すること」「その思考対象が宇宙の3倍の大きさという性質を(宇宙と同じ意味で)例化すること」という2つが必要に思われますが、これは無理だろうと思ったわけです。

時空関係を持たない島宇宙については、そのメレオロジカルサムの存在を認めるかどうかに依存すると思います。しかしどちらの結論をとった場合にも、わたしの所論には影響ありません(「2つの島宇宙の内、より大きい方は大きい」と言うか、「2つの島宇宙のメレオロジカルサムは大きい」と言えばよいことだからです)。


』 (2010/05/29 2:48)

# minori 『

先日のコメントがやや言葉足らずなままだったので、もう一言だけ。とはいえ詳述する余裕がないので、またしてもオレ様コメント風になってしまうのはご容赦ください。

「包み込みの原理」についてですが、「ビローン問題」その他の問題を切り抜けるための最も単純なやり方は、この原理を事物それ自体の大きさに関する原理としてでなく、ある時点に事物が占有している領域に関する原理として読み替える、というものではないかと思います。

しかしこのやり方には二つの問題がありようにも感じられます。一つは、このようなやり方をとる場合には、絶対的に大きなものが存在するという主張はかなりトリヴィアルになってしまうのではないか、ということです。たとえば、空間的な大きさに関する説得的な公理を古典的なメレオロジーに付け加えた拡張体系においては、絶対的に大きなものとしての宇宙(存在する全てのものからなるmereological sum)の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか。(つづく)

』 (2010/05/28 16:52)

# minori 『

もう一つは、このような考え方からすると、大きさの相対性云々という問題と、価値その他の相対性という問題とのアナロジーは希薄になってしまうのではないか、ということです。先の記事での言い方を借用すると、「相対性が失われる瞬間」というのは、大きさに関してはあまりに早く訪れてしまうのではないでしょうか。というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度(mensura)があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、commensurableかどうか、という問題だろうからです。

』 (2010/05/28 16:54)

# at-akada 『

コメントありがとうございます。

かなり重要なコメントだと思います。


ええと、まず「包み込みの原理」そのものは「x は y より大きい」ことの、必要条件ではなく十分条件にすぎないことは確認しておきたいと思います。包み込みの原理を満たさず他方が大きいことは、(特に文脈限定的な場面では)十分ありえます。


その上で、一点目。

>絶対的に大きなものとしての宇宙(存在する全てのものからなるmereological sum)の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか

これは無制限構成を認めた場合ですよね? しかし無制限構成自体が議論の対象であるからこそ、世界の存在が問題になりえるのだし、自明とまでは言えないと思います。

(その意味ではニヒリズムへの反論をちゃんと扱った方がよかったですが、これはこれでひとつのテーマになってしまうのでほぼ省略しました)。


二点目。こちらの方が重要ですが、

>というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度(mensura)があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、 commensurableかどうか、という問題だろうからです。

わたしはまず「大きい」に関しても、尺度は共約可能commensurable ではないと思います。

たとえば、

太郎: 165cm で横幅が広い

次郎: 170cm でやせ型

という二人を比べたとき、

ある状況(日常会話で身長を問題にするときなど)では、「次郎は太郎よりも大きい」が真でしょうが、また別の状況(狭い車のなかに人を詰めこむときなど)、では「太郎は次郎よりも大きい」が真となるでしょう。

この意味で、「大きさ」の順序関係も文脈に依存的であると考えます。しかし、その順序関係はいかなる文脈においても包み込みの原理を満たすような構造をとると思います。

つまりわたしは、

  • 大きさの順序は文脈相対的であるが、
  • 包み込み原理からの帰結(「木星は地球より大きい」など)は、両者をドメインに含むようないかなる文脈でも真である。

と主張してます。

同様に、価値に関して、それが文脈依存的であるとしても、すべての文脈に関して満たされるような順序構造があるということは決して不可能ではないでしょう。

わたしがこの問題を通して考えたかったことの1つは、相対性の問題を尺度の共約可能性の問題からずらすことだと思います。たとえば、いかなる文脈でも真となるような順序構造を発見すれば、そこから再び相対性に対する反論を擁護できるでしょう。このことが明らかになるだけでも、意味はあると思います。

』 (2010/05/29 3:11)

# minori 『

リプライに感謝します。

第一点についてですが、問題は、「宇宙は存在する」という定言的な主張の自明さではなく、「もし宇宙が存在するならば、それは絶対的に大きい」という仮言的な主張の自明さにあるのではないでしょうか。

第二点目については、大きさについて語られる文脈と、価値について述べられる文脈と、その二種類の文脈について果たして同一の仕方、あるいは類比的な仕方でうまく取り扱えるものかどうか、僕にはまだちょっとよく分かりません。

あまり中身のないコメントですが、以上は補足ということで。

』 (2010/06/ 1 21:53)


修正点など

修正が必要な箇所をメモしておく。


「包み込みの原理」は修正が必要。まず「ビローンと伸びるもの」を防ぐ条項が必要。

あと指摘されて気づいたが、木星と地球などは文字通りに部分を共有するわけではないので、メレオロジーはそのままの形では使えない。

(「x を y の位置していた空間に移動させるという操作を考えたときに、他方が占めていた空間の部分を包み込んであまりあるならば、x は y よりも大きい」とかそういう方向で考えなければならない)。


あと宇宙が無限に広いという説はそれなりに信じられているようなので、その点ももっと考慮する必要がある。



補足

2010年6月2日(水)の追記。

わたしがはじめに混乱していたために、他の人たちにも多くの誤解を生んだようである。

議論している内に、いくらか頭がクリアになったので、そのことをメモしておく。「大きい」の文脈依存性ということで、以下の3つが考慮されるべきであった(わたしも当初この3つを混同していた)。


  • 比較クラスの相対性(何を比較クラスにとるかで、「大きい」ものが変動する)
  • 関心の相対性(関心の持ち方によって、比較クラスのなかの「大きさ」の順序が変動する)
  • 曖昧性(中間領域に関して、どこから上が「大きく」、どこから下が「大きくない」のかが決定しがたい)

これら3つの問題は、関連するけれども別の問題である。

そしてわたしの主張は、「すべてのもののなかで(比較クラスを越えて)、あらゆる関心に即して(関心の相対性を越えて)、曖昧でなく、大きいものがある」という風に定式化されるべきであった*。

* 「関心」はまだクリアになりきっていない表現であるが、「大きさの比較方法を変化させるような文脈的条件」というくらいのつもりで使っている。



たとえば、他の文脈依存性(可能性とか)については、わたしは特に何も言っていない。文脈依存性という便利な言葉にたよったことでこの辺がぼやけてしまったきらいがある。

ただし、この3つの条件は段階的形容詞一般について重要なものであると思う。そのことがわかっただけでも、自分としては重要な収穫であった。



twitterでもらったコメントなど

一部ブログのコメントと交差してます。

コメント(4)

# minori

先日のコメントがやや言葉足らずなままだったので、もう一言だけ。とはいえ詳述する余裕がないので、またしてもオレ様コメント風になってしまうのはご容赦ください。
「包み込みの原理」についてですが、「ビローン問題」その他の問題を切り抜けるための最も単純なやり方は、この原理を事物それ自体の大きさに関する原理としてでなく、ある時点に事物が占有している領域に関する原理として読み替える、というものではないかと思います。
しかしこのやり方には二つの問題がありようにも感じられます。一つは、このようなやり方をとる場合には、絶対的に大きなものが存在するという主張はかなりトリヴィアルになってしまうのではないか、ということです。たとえば、空間的な大きさに関する説得的な公理を古典的なメレオロジーに付け加えた拡張体系においては、絶対的に大きなものとしての宇宙(存在する全てのものからなるmereological sum)の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか。(つづく)

(2010/05/28 16:52)
# minori

もう一つは、このような考え方からすると、大きさの相対性云々という問題と、価値その他の相対性という問題とのアナロジーは希薄になってしまうのではないか、ということです。先の記事での言い方を借用すると、「相対性が失われる瞬間」というのは、大きさに関してはあまりに早く訪れてしまうのではないでしょうか。というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度(mensura)があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、commensurableかどうか、という問題だろうからです。

(2010/05/28 16:54)
# at-akada

コメントありがとうございます。

かなり重要なコメントだと思います。


ええと、まず「包み込みの原理」そのものは「x は y より大きい」ことの、必要条件ではなく十分条件にすぎないことは確認しておきたいと思います。包み込みの原理を満たさず他方が大きいことは、(特に文脈限定的な場面では)十分ありえます。


その上で、一点目。
>絶対的に大きなものとしての宇宙(存在する全てのものからなるmereological sum)の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか
これは無制限構成を認めた場合ですよね? しかし無制限構成自体が議論の対象であるからこそ、世界の存在が問題になりえるのだし、自明とまでは言えないと思います。
(その意味ではニヒリズムへの反論をちゃんと扱った方がよかったですが、これはこれでひとつのテーマになってしまうのでほぼ省略しました)。


二点目。こちらの方が重要ですが、
>というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度(mensura)があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、 commensurableかどうか、という問題だろうからです。

わたしはまず「大きい」に関しても、尺度は共約可能commensurable ではないと思います。
たとえば、
太郎: 165cm で横幅が広い
次郎: 170cm でやせ型
という二人を比べたとき、

ある状況(日常会話で身長を問題にするときなど)では、「次郎は太郎よりも大きい」が真でしょうが、また別の状況(狭い車のなかに人を詰めこむときなど)、では「次郎は太郎よりも大きい」が真となるでしょう。

この意味で、「大きさ」の順序関係も文脈に依存的であると考えます。しかし、その順序関係はいかなる文脈においても包み込みの原理を満たすような構造をとると思います。

つまりわたしは、
-大きさの順序は文脈相対的であるが、
-包み込み原理からの帰結(「木星は地球より大きい」など)は、両者をドメインに含むようないかなる文脈でも真である。
と主張してます。

同様に、価値に関して、それが文脈依存的であるとしても、すべての文脈に関して満たされるような順序構造があるということは決して不可能ではないでしょう。
わたしがこの問題を通して考えたかったことの1つは、相対性の問題を尺度の共約可能性の問題からずらすことだと思います。たとえば、いかなる文脈でも真となるような順序構造を発見すれば、そこから再び相対性に対する反論を擁護できるだろうと思います。

(2010/05/29 3:11)
# minori

リプライに感謝します。
第一点についてですが、問題は、「宇宙は存在する」という定言的な主張の自明さではなく、「もし宇宙が存在するならば、それは絶対的に大きい」という仮言的な主張の自明さにあるのではないでしょうか。
第二点目については、大きさについて語られる文脈と、価値について述べられる文脈と、その二種類の文脈について果たして同一の仕方、あるいは類比的な仕方でうまく取り扱えるものかどうか、僕にはまだちょっとよく分かりません。
あまり中身のないコメントですが、以上は補足ということで。

(2010/06/ 1 21:53)

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