■ 前置き
架空の裁判状況を考えましょう。
裁判官がわたしに質問します。「5月12日の午後7時頃、確かにその男を東京で見たのか」と。
「見た」とわたしは答えますが、裁判官はさらに疑いの念を向けてきます。
「本当は夢で見たのではありませんか? そのとき自分が見ていたものが夢でないと確認することができますか?」と。わたしは何と答ええるべきかわからなくなって沈黙します。
現実の裁判で裁判官が夢の可能性について疑いはじめることがどれだけあるのかわかりませんが、『インセプション』のなかでなら、「これは夢かもしれない」という疑いはありふれたものです。日常的な状況で「それは夢だったかもしれない」と言うことは哲学的なジョーク以上のものではないかもしれませんが、『インセプション』のような状況に置かれれば、われわれはまったく自然に「これは夢かもしれない」と疑います。哲学的疑問「これは夢かもしれない」と『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」の違いは、もしそういう違いがあるとすれば、致命的なものです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/mainsite/
話題の映画、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』を観ました。
以下はネタバレを含むので、まだ観ていない人は、まず映画を観に行きましょう。おすすめです。
『インセプション』はとても手の込んだエンターテイメント作品です。「夢のなかで夢を見る」みたいなややこしい話がちゃんとしたハリウッド映画になるなんて、この映画を観るまではちょっと想像できないんじゃないかと思います。
この映画は「夢と現実の区別」という特別にややこしいテーマを扱っています。映画のなかでコブ(デカプリオ)やアリアドネ(エレン・ペイジ)は、自分が夢にいるのか現実にいるのかを知るためにいろいろな工夫をこらします。コマの形の「トーテム」や「パラドックス(だまし絵)」を利用するシーンが印象的です。
「これは夢じゃないのか?」という問題は、17世紀にデカルトという哲学者が考えた有名な問題でした。この問題の起源は古くはプラトンにまで遡るそうですが、デカルトが集中的に扱って以来数百年、「夢」の問題は哲学のホットトピックでありつづけました。現在でもまだ、精力的にこの問題を扱っている哲学者は絶えません(若干嘘かも)。
「これは夢じゃないのか?」問題は、懐疑論や外の世界の知識といったテーマとの関連で重要になります。かつてデカルトが問題にした論証は、夢論証[dream argument]と呼ばれます。この論証では、なんと「われわれを取り巻く物理世界について、われわれは何も知らない」という超破壊的な結論が導かれてしまいます。
単純に言って、わたしは今、自分がネットブックを前にしてキーボードを叩いていると思っているし、思っているだけではなく、そう知っていると考えています。ところがこの論証は、「それは嘘だ」「そんなことは知らないはずだ」と主張します。
「この世の中に確かなものなんて何もない」と言えば、何らかの教訓がありそうにも思えますが、懐疑論は人生に対する教訓を唱えているわけではありません。そうではなく、哲学的懐疑論は、日常目にするまわりのものについて、すべての人は何も知らないと主張します。しかも、「彼女はニューヨークについて何も知らない」などというのと同じ、まったく日常的な意味で何も知らないと主張します。
■ 本
懐疑論と夢の論証については日本語でも以下のような本が読めます。
大部な上に細かいですが、説明は丁寧だし文章はわりとわかりやすいと思います。根気があれば読める本です。
- ルネ・デカルト『省察 (ちくま学芸文庫)』
デカルトのオリジナルはこちら。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
夢論証についてはそれほどページを割いていませんが、知識の哲学と懐疑主義について丁寧かつわかりやすく解説しており、「懐疑主義について考える」ということがどういうことなのか理解するたすけになると思います。
■ 夢論証
夢論証のような歴史ある厄介な問題を紹介するのは大変ですが、簡単な紹介を試みてみましょう。
基本的なストーリーは以下のようなものです。
夢論証
- (1)われわれがまわりの世界について何かを知るためには、われわれは自分が夢を見ているのではないと知る必要がある。
- (2)われわれが夢を見ているのではないと知ることはできない。
- 結論: われわれはまわりの世界について何も知らない。
基本的には、「もし夢を見ているのだとすれば、『わたしがネットブックのキーボードを打っている』などなどの信念はすべて知識ではない。夢を見ているという可能性が退けられないかぎり、知識を持つことはできない。しかし夢を見ているという可能性を退けることはできないのだから、やっぱり知識を持つことはできないのだ...」ということです。
よく似た議論である「培養槽のなかの脳[Brain in a vat]」や「欺く神(全能の悪霊)[Dieu Trompeur]」について聞いたことがある人もいるでしょう。
形式はどれもよく似ており、知識の必要条件として、「われわれは今夢を見ているのではない」「われわれは培養槽のなかの脳ではない」「われわれは全能の悪霊にだまされているわけではない」...などの知識を要求します。この要求には、「しかしこの必要条件は満たされない」という不可能の判定がつづき、最終的には大部分の知識が成立しないというグローバルな懐疑論に到達します。戸田山和久さんは、前述の本のなかで、この形式の議論を「懐疑の水増し戦略」と呼んでいました。もっともらしく思われた小さな疑いを、グローバルな懐疑にまで発展させるからです。
ただし、似ているのは形式だけで、細かい対処法や性格は個々の議論ごとに異なります。夢論証であれば、「夢」というものに対する捉え方が議論の成否に強い影響を及ぼします。
私見では、いずれに論証においても、懐疑主義者は次の二点の要求に答えなければなりません。
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
(ii)懐疑主義者が提案するシナリオは、十分にありそうなものでなければならない。
(i)が必要なのは、こういうことです。もし懐疑主義の言う「知識の不可能」が、ものすごく特殊な意味での「知っている」概念に基づくなら、そもそも問題はそんなに深刻ではありません。「人間は存在しない」と言われればびっくりしますが、「ここで言う人間というのは100メートルを5秒以内で走り、100か国語を話すようなもののことだ」と言われれば別の意味でしかびっくりしません。
こうした意味で、懐疑主義者の提案する
- 外側の世界について、何かを知るためには、自分が夢を見ているのではないことを知らなければならない
- 外側の世界について、何かを知るためには、自分が培養槽のなかの脳ではないことを知らなければならない
などの主張は、それが「(日常的な意味での)知識に対する一般的条件として妥当なものか」という観点で厳しく精査されなければなりません。一方、「培養槽のなかの脳」や「全能の悪霊」などのシナリオは、しばしば「その可能性はあまりに突飛なので、知識を持つためにそんなおかしな可能性を排除する必要はない」という批判を受けます。要するに、実現している確率がほとんどない選択肢は、あらためて排除する必要もないかもしれません。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているという可能性がありふれたものであることです。われわれは一日のうちの半分近くは寝ているわけですから、「これは夢かもしれない」という選択肢は、全能の悪霊にだまされて変な幻覚を見せられているという可能性よりは、はるかにありそうなものに思えます。
■ 『インセプション』と夢論証
ようやく本題に入ります。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているというシナリオが現実に「近い」ことです。一方、『インセプション』は、夢を見ている可能性が、これまでよりもさらに「近く」なった状況を描いています。
ということは、次のように言えないでしょうか。
『インセプション』のような状況でさえ、夢の可能性を否定できるならば、夢論証の前提「夢ではないと知ることはできない」は否定されてよい。
『インセプション』的状況は、夢の確率がふつうより高い状況です。確率がふつうより高い状況でさえ、夢と現実の区別がつくならば、夢の確率がより低いわれわれの日常においては、さらに簡単に夢を見ている可能性を否定できるのではないでしょうか。
『インセプション』には、夢と現実を区別するたくさんの方法が登場します。
- カーペットの材質(映画の冒頭で、サイトウはカーペットの材質が現実とちがうことをきっかけに、「これは夢である」と気がつきます)。
- 記憶をたどる(コブがアリアドネに教えたように、夢のなかではしばしば「どうしてここにいるのか」という記憶の連続性が途絶えます)。
- トーテム(夢は現実の物理法則を正確に再現しないので、手触りや重みや動きを正確に覚えている物であれば違いに気がつきやすい)。
- パラドックス(夢のなかでは、エッシャーの階段のような不可能な構造物が実現する)。
これらの内、「記憶をたどる」とかトーテムを利用する方法は現実にも適用できるように思います。
冒頭にかかげたような問い「そのときあなたは夢のなかにいたのではないか?」を向けられたとしても、『インセプション』の登場人物ならば、いろいろな証拠をあげて、「夢のなかにいたのではない」と答えることができるはずです。「トーテムを確認した」だけでも答えとしては十分かもしれません。何より、われわれはごく自然に「サイトウは夢のなかにいることを知った」とか「モルは自分が夢のなかにいるという知識を忘れようとした」と言うことができるでしょう*。
同様に『インセプション』のなかでも、区別できない場合があることは、それほど問題にならないと思います。おそらく夢のなかで50年すごした際のサイトウは、夢と現実を区別できない状況にあったでしょうが、「区別できる場合が多い」だけでも夢論証への反論としては十分です。
つまり、わたしは次のように考えます。
『インセプション』に現われる夢と現実を区別する方法は、デカルトの夢論証に対し、きちんとした反例となっている。
馬鹿げていると思うかもしれませんが、「夢と現実を区別する方法はある」という立場に基づいて夢論証に反論する人はそれなりに存在します。
たとえばJ.L.オースティンは、小説や絵画に対して「夢のよう」などとよく言われるように、「夢らしい質感」というものがあるので、夢と現実はだいぶ印象が異なっており、区別できると主張しています(J.L.オースティン『知覚の言語―センスとセンシビリア』)。
それに対して、「いや、それでも夢の可能性は否定できない。トーテムを確認しても間違えるかもしれない」と反論するならば、夢論証の支持者にとって状況はもっと悪くなるかもしれません。先述した「懐疑主義者への要求」
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
が満たされなくなるからです。つまり、われわれがごく自然にモルやサイトウの「知識」に言及するにもかかわらず、あくまでも「それは知識ではない」「本当は知らない」と主張するなら、懐疑主義者の言う「知識」は日常的な意味での知識ではないと疑われてしかるべきです(あるいはこのとき懐疑主義者は「錯覚論証」という別の論証に移行しています)。
最初に述べたように、ひょっとするとわれわれは、哲学的疑問「これは夢かもしれない」と、『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」を違う種類の疑問だと受け取るかもしれません。しかし、もしもその2つに違いがあるとすれば、その違いは、懐疑主義者にとって、致命的なものになりかねないでしょう。一方もし違いがないとすれば、われわれはまさに『インセプション』の登場人物がしたように、夢と現実の違いを確かめればよいことになります。
■ 補足
以下は哲学者向けの英語論文。
philpapersに「夢と懐疑主義」の項目がありました。
Sosa とIchikawa による比較的最近の論文がWeb で読めるようです。
- Ernest Sosa (2005) Dreams and Philosophy
- Jonathan Ichikawa (2008) Skepticism and the Imagination Model of Dreaming
Sosa が「夢の想像モデル」(われわれは夢のなかで誤った信念を持つことはない。そもそも何の信念も持たない。夢のなかでは単に想像しているだけ)という新しい夢のモデルに基いて、夢論証を否定する議論を行なっており、Ichikawa の論文はそれに対する反論です。
夢に対する捉え方しだいで、夢論証の成否も大きく変わってくるという一例だと思います。
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> (i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
これで話は尽きていると思う。
「知識」という言葉のソクラテス的用法に固執する人には、別に反対はしないし、好きにすればとしか言いようがない。
一つの語法を「厳密な」「本当の意味で」などの形容詞で特権化するのは、それも含めてその人の勝手でしょう。
私は昨日のプロ野球の試合結果を確かに知っています。
』 (2010/08/ 9 15:40)そのことには夢に関する言及は暗黙にさえ含んでいません。
マスコミの報道が絶対正しいとかそういう話でないのと同じです。
>ソクラテス用法に固執する人
』 (2010/08/10 9:45)これはいわゆる知識の古典的定義(正当化された信念)のことですか?
だとすると、どの立場の人のことを言っているのでしょう。古典的定義を採用するのは懐疑主義者ばかりではないですし、懐疑主義と古典的定義は独立の問題ではないでしょうか。
>私は昨日のプロ野球の試合結果を確かに知っています。
>そのことには夢に関する言及は暗黙にさえ含んでいません。
うーん、ここがまさに争点ですね。「暗黙にさえ含んでいない」というのをどうやって示すか。たとえばこの例にしても、他の知識を必要条件として要求すること自体はあるように思います。
たとえば、昨日のプロ野球の試合結果を知るためには、「昨日やっていた中継が再放送ではなかったことを知っている」必要があるかもしれません。だとすると、「再放送ではなかった」の知識は必要なのに、「夢ではなかった」の知識は必要でないのは、なぜなのか?とかね
いや、もちろんわたしは懐疑主義者ではないんですが、懐疑主義にこたえることは、知識の本性を説明することなので、そこまで簡単ではありません。反論者側も、「知識とはこういうものだ」というのをある程度提示する必要があります。
(もっとも、懐疑主義者の側も、もう少し主張を細かく規定してあげた方がよいかもしれません。この記事では概要だけになってしまっているので。。)
>>ソクラテス用法に固執する人
>これはいわゆる知識の古典的定義(正当化された信念)のことですか?
そうですね。
今夢を見ているのかどうかについて、知っているのかいないのか
どちらだ?という問いが有意味に思えるなら、
それはソクラテス以来の、哲学者の伝統的?語法に引きずり込まれていると思う。
普通の用法では、そんな問いはカテゴリーミステイクです。
「今夢を見ていないと信じている」だったら問題ないですけど。
いわゆる古典的定義は、知識と信念の根本的な文法的違いが見えてない。
知識とは関係ないけど、私も(このコメントの書き込みを含めて)
今夢を見ている可能性自体は認めてもいいです。
もっとも、その可能性を少しでも考慮に入れた行動は結局何も
しないから、口先だけということがおのずからバレているけど。
何かについて知っていると言うときは、その人はそれなりに必ず
その発話の結果あるいは効果を引き受けている。
口先だけではない。
言葉が仕事をする(機能する)というのはそういうことでしょう。
> 懐疑主義にこたえることは、知識の本性を説明することなので
こたえなければいけない、と思った時点で負けかも…
』 (2010/08/10 11:23)問題提起と「知識」という言葉にすでにバイアスがかかっていると思う。
コメント連投済みません。
この記事の「前置き」の架空の裁判状況の事例についてです。
これよほど文脈を補わないと、「あんた認知症じゃないの」と
あまり変わらない失礼な発言になるというのは
わりと大事なポイントだと思います。
「昨日のプロ野球の試合結果」の事例では、
普通に中継かスポーツニュースで見たとして、
経過や結果に一喜一憂しながら見ていたような状況で、
「再放送と間違った」なんて考えられません。
(例えば嘘に対する弁解として採用されない)
それでも以下のように驚愕的な可能性は確かにあります。
・放送局が誤って過去のニュースを放送した。
・放送局がなぜか虚偽のニュースを放送した。
・夢を見ていた。
・頭が一時的に狂っていた。
しかしだからといって「知っているのかいないのか?」
』 (2010/08/12 10:50)という二分法に乗せられて「本当は知ってませんでした。」
などと言う必要はありません。
知識概念を適用できる場面ではない、というのが正解と思います。
お返事遅れました。
とりあえずkomugikoさんの主張は何となくわかったのですが、わりと根本的なところがよくわかりません。
わたしは先に以下のように書きました。
「> 懐疑主義にこたえることは、知識の本性を説明することなので」
これに対し、komugikoさんは「答える必要はない」と言っていますが、一方で、知識の本性に踏み込むような発言もしています。
「何かについて知っていると言うときは、その人はそれなりに必ず
その発話の結果あるいは効果を引き受けている。
口先だけではない。
言葉が仕事をする(機能する)というのはそういうことでしょう。」
↑こちらの書き込みは知識概念に対する一定の見解を示しているでしょう。
また、すでに何度か「知っている」について、二分法を適用する必要はないと述べておられます。これも、知識概念に対するひとつの見解でしょう。
まとめると、
』 (2010/08/12 12:01)-知識概念に対するある種の機能主義
-知識概念に対する二分法の否定
komugikoさんは、この2つの見解をもとに懐疑主義に反対する議論を行なっているんですよね?
これがまず確認したいことです。
(これが確認できないと、他の疑問も反論もあげようがないので、とりあえずこの質問だけ答えてくれるとうれしいです)。
「夢を見る」というのは普通、「夜眠っている間に生じる様々なイメージ」のことで、人は目が覚めてから夢について思い出す。ここでは夢と現実が区別されている。
ところが懐疑論者が「これ(現実)は夢かもしれない」という時の「夢」は、普通の意味での「現実と夢」という区別が成り立つ枠組みそのものをひっくるめた、言わば高階の<夢>であるというわけだ。でもこの場合何が第一階(?)の、即ち普通の「現実」に対応する第二階の<現実>なのか、が永久に分からない・・・はずではないか。
確かにこの現実は(第二階の)<夢>かもしれない。しかしその<夢>から<現実>に覚めたのなら、そもそもそれは第二階の<夢>などではなく、ただの第一階の、だから普通の「夢」だった、という過去形になるだけの話ではないか?
「この世界は全て夢かもしれない」・・・・しかしこの表現はその<夢>から覚めた<現実>があって初めて成り立つのではないか?そしてひとたび目が覚めてしまえば、それはただの「夢」だったことになる・・・・だからこの懐疑は真になる時、偽になるし、偽である時、真であるはずだ・・・
』 (2010/10/29 22:36)などと取りとめも無く考えました。
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本の内容については上でまかなえるとして、本には題名があるというところ。
』 (2011/01/24 3:13)そして「題名がある」以外の題名に関する記述がないため、結局バベルの図書館は無限の蔵書を誇るしかないのです。