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    <title>うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ</title>
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    <title>移転しました。</title>
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    <published>2011-10-16T16:09:20Z</published>
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    <summary>すごく今さらですが、Movable Typeって更新面倒だなと思ったので、移転し...</summary>
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        すごく今さらですが、Movable Typeって更新面倒だなと思ったので、移転します。
http://d.hatena.ne.jp/at_akada/


ここはとりあえず残しておきますが、新しい記事ははてなダイアリーに書くと思います。


最近の記事で、比較的ましなもの一覧にリンクをはっておきます。
-つくろう！ゲティアケース
--http://www.at-akada.org/blog/2011/06/post-307.html
--「ゲティアケースのつくり方」というのはそれはもう知識の哲学を学ぶ人が全員知っていてよいことであるかと思うんですが、この記事以外に日本語で解説してるものを見たことがないというのはよくない状況ですね。
-美的価値と倫理的価値
--http://www.at-akada.org/blog/2011/05/post-306.html
-害の哲学
--http://www.at-akada.org/blog/2011/04/post-305.html
--来年くらいにどっかでちゃんと発表しようかと思います。
-絶対的に大きなものはあるか
--http://www.at-akada.org/blog/2010/05/post-301.html
--この問題、あとで読み直したら、すごくおもしろかったですね。今でも、意外と重要な問題なんじゃないかという気がしています。文脈的な表現が文脈による制限を受けなくなる瞬間というのがたぶんあって、それはもっと広範な哲学的問題にかかわるものだろうと思います。
-ラマルク「作者の死」
--http://www.at-akada.org/blog/2010/03/post-300.html
-愛の哲学
--http://www.at-akada.org/blog/2010/02/post-299.html
--愛の哲学ももっと勉強したいです。

        
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    <title>読書メモ</title>
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    <published>2011-08-27T16:12:11Z</published>
    <updated>2011-08-27T16:23:18Z</updated>

    <summary>&amp;#9632; 哲学入門 理論構築をベースにした哲学入門ってないかな。 ここで「...</summary>
    <author>
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    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[* 哲学入門
理論構築をベースにした哲学入門ってないかな。
ここで「理論構築」ということで考えているのは比較的テクニカルなものからもう少しゆるいものまで幅広い対象を念頭に置いている。
今適当に思いつくままに書くと、指示の因果説、二次元意味論、超付値による解決、四次元主義。「理論をつくって解決しよう」というのは、分析哲学のわりと重要な部分であるような気がするのだけど、それを平易に説明して、何なら「きみもつくってみよう」というくらいの本は無いだろうか。
哲学における「理論」というものがもっている独特の役割を知りたいと思ってもいる。



* 哲学に対するよくある誤解
哲学に対するよくある誤解のうち、大きなものの1つは「哲学者の仕事は新しい魅力的な世界観を提示することだ」というものではないだろうか。
しかし、大半の哲学者は(分析哲学者はといった方がよいかもしれないが)、それが自分の仕事だと考えてはいないと思う。というか、個人的には、哲学者が言っていることについて、その「結論」に注目することはあまり有益ではないと思う。
偉大な哲学者というのは、共感できる・魅力的な・新しい世界観を提示した人ではない。少なくともわたしは、自分が偉大だと思う哲学者の大半について、魅力的な世界観を提示しているとはまったく思わないし、それどころか結論に賛成すらしていない場合が多い。
すばらしい哲学者というのは、「新しいことを言った人」ではなく、新しいことでも古いことでも何でもいいけれど、それを擁護するための「新しい議論を考えた人」であると思う。とにかくわたしは丁寧に議論する人が好きだ。



* Zangwill, "Fashion,Illusion,and Alianation" 「ファッション、幻想、疎外」
 http://www.dur.ac.uk/nick.zangwill/PDFs/Wolfendale_c02.pdf

たまたま目についたので読んだ。一般向けの本の一章として書かれたものらしく、短かいし、内容も平易。おもしろかった。
個人的な趣味であるが、哲学者が少し変わった話題について書いたものには好きな文章が多い。トマス・ネーゲルなど、変な話題であればあるほどおもしろいものを書くのではないかとさえ思える。


簡単に要約すると、一人称視点から流行について考えるとき、それはまずクールなものとして体験される。一方、一人称の視点を離れ、流行について考えるとき、流行は社会学的・関係的な性質として理解される。その2つの視点にいやおうなく分離することによって、流行は人を疎外に誘う。


ただ一人称視点と三人称視点の分離といった話題は、流行にかぎったものではなく、価値概念一般に言えることではないのだろうか(かならずしもそうではないという考え方もできそうだが)。もしそれが価値概念一般ないし、より広いものの見方について成り立つことであれば、それによって流行に特有の現象(この場合疎外)を説明するのは難しいだろう。



* Fred Feldman "Confrontations with the Reaper"「死神との対面」
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0195089286/atakada-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51XEJAGOa3L._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="Confrontations With the Reaper: A Philosophical Study of the Nature and Value of Death" title="Confrontations With the Reaper: A Philosophical Study of the Nature and Value of Death" /></a><br clear="all" />
-<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0195089286/atakada-22">Confrontations With the Reaper</a>


kindle storeにあったので買った。まだ前書きしか読んでいない。
この人が擁護したい主張の1つに「死がミステリアスであること」というのがあるのだけど、「ミステリアスであることの論証」をどのようにやるのだろう。



* Beebe, "Constraints on Sceptical Hypotheses"「懐疑論的仮説の制約」
http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/Constraints%20on%20Skeptical%20Hypotheses.pdf


これは今読書会(ゆるふわモテ形而上学)で読んだ論文。懐疑論のシナリオが満たすべき条件を論じる(懐疑論のつくり方)。
白眉は懐疑論のシナリオは形而上学的・論理的に可能である必要はないと主張するあたり。


一言もデイヴィドソンやパトナムには触れていないのだが、デイヴィドソンやパトナムみたいなタイプの議論に対しておもしろい批判になっているように思える。


懐疑論については、いくつか読んだら、何となく議論の潮流と自分の趣味は見えてきたような感じで楽しくなってきた。
個人的には、懐疑論への応答のなかでは、新ムーア主義とか素朴実在論系の回答が好きなように思う。


しかしこの膨大な議論の量と、とにかく細かくなっていく議論の流れを見ると、とても自分で新しいことが言えるような気はしない。これにひってきする蓄積のある問題というと、「自由意志」くらいじゃないだろうか。



* Beebe, "A Priori Skepticism"「アプリオリ懐疑論」
http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/APSKEP.pdf


「懐疑論的仮説の制約」と同じ著者による。また読んでない。


]]>
        
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    <title>Beebe「懐疑論の仮説の制約」</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2011/08/beebe.html" />
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    <published>2011-08-27T15:59:26Z</published>
    <updated>2011-08-27T16:03:30Z</updated>

    <summary>読書会のレジメをおきます。 元論文はドラフトがWebで公開されてます。 http...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[読書会のレジメをおきます。


元論文はドラフトがWebで公開されてます。
http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/Constraints%20on%20Skeptical%20Hypotheses.pdf


Beebe "Constraints on Skeptical Hypotheses"
The Philosophical Quarterly Vol.60 No.240


*懐疑論に関する関心の移り変わり
伝統的な懐疑論の問題設定
-知識の基礎付け
-カント的問題(認識はなぜリアリティと接触を持てるのか)


最近の懐疑論の問題設定
-知識のパズル
--いくつかの常識的な仮定から、馬鹿げた結論が出てきてしまうという意味での哲学的パズル
--知識に関する理解が問題


*問題意識
-過小決定underdeterminationの問題
 過小決定: 経験だけからは1つの理論を決定できない。経験を説明する複数の理論がある。
 クワインの過小決定: 経験的に等価な複数の理論がある
 Yalcinの過小決定: 認識的に等価な複数の理論がある
 Yalcin, 1992, Skeptical Arguments From Underdetermination.


 一方われわれの経験によって支持される理論の内には、非常に奇妙なものがある

<pre>
[S]: 懐疑論の仮説(水槽脳, 世界五分前仮説)
[D]: 日常的知識

[S]  <-- 決定不可能 --> [~S]
 ↑
 競合
 ↓
[D]
</pre>


懐疑論の仮説とは、(1)排除できない(Sなのか~Sなのかわからない)、(2)にもかかわらず日常的知識の大部分と競合するような種類の仮説。
例えば世界五分前仮説は、過去の知識と競合する。水槽脳は外的世界の知識(わたしは今駒場にいるとか)と競合する。
懐疑論とは、懐疑論的仮説を用いて、ある種の知識(外的世界の知識、過去の知識等)が大部分成立していないとする論証。 



*事前に知っておくとよいかもしれないこと1
必然的 / アプリオリ
伝統的には同じような意味だと考えられてきたが、クリプキが反論。クリプキ『名指しと必然性』
-アプリオリな命題: 調べなくてもわかること。「物には形がある」とか。
-必然的な命題: 認識から独立した形で、偽であることが不可能な命題。

アプリオリで偶然的な命題「切り裂きジャックは殺人犯である」
アポステリオリで必然的な命題「熱は分子運動である」



*事前に知っておくとよいかもしれないこと2
「真である」は知識の必要条件の内の1つでしかない。
すべての懐疑論が「真である」という条件を攻撃するわけではない。
cf. Schaffer "debasing demon"
-debasing demon(基づかなくする悪霊)


デカルトの欺く悪霊がひきおこすのは以下の2点
-本当は偽である
-本当は偽であるのに真であると思い込む

Schafferのdebasing demonは以下の2点をひきおこす
-本当は証拠に基づかない
-本当は証拠に基づかないのに、証拠に基づくと思い込む

ポイント:
debasing demonタイプの懐疑論は、「偽である」ことが不可能な命題にも適用できる。



*序
この論文のテーマ: 「懐疑論をつくる」
懐疑論の仮説が満たすべき制約をあげることで懐疑論の仮説のつくり方を説明


[Sceptical hypotheses]
懐疑論的仮説は、(1)通常の状況と主観的には区別できない、(2)にもかかわらずわれわれが知識を持たないような状況を描く
懐疑論の制約について、広く信じられているが間違っていること
(i)懐疑論的仮説はわれわれの信念が偽であるような状況を描く
(ii)懐疑論のシナリオは論理的・形而上学的に可能でなければならない


[In this article]
[I begin in $1]
1節: 懐疑論の仮説は信念と矛盾しなくてもよい。知識を持たずに信じることがなぜ生じたかだけを説明すればよい。
2節: 必然的な命題に対しても懐疑論できる。
3節: アプリオリな命題に対しても懐疑論できる。
4節: 懐疑論の仮説は論理的・形而上学的に不可能でもよい。
5節: 懐疑論の仮説は認識論的に可能である必要もない。
6節: 「主観的に区別できない」という条件の明確化。

 # 2,3,4節がまぎらわしいので注意
 # 2と3は懐疑の対象となる信念の方を問題にしており、4は懐疑論の仮説側を問題にしている


[It is important]
この論文では、懐疑論のつくり方は説明するが、懐疑論に答える方法は扱わない。



*1節
1節: 懐疑論の仮説は信念と矛盾しなくてもよい。知識を持たずに信じることがなぜ生じたかだけを説明すればよい。


[The most familiar]
●閉包原理(CP)による懐疑論の定式化

CP:
もしSがpことを知っており、Sがpがqを含意することを知っているならば、Sはqことを知っている

<pre>
Kp  K(p→q)
 ------------
Kq
</pre>


例:
-太郎はカエルが両生類であることを知っている
-太郎はカエルが両生類であればカエルが哺乳類でないことを知っている
-ゆえに太郎はカエルが哺乳類でないことを知っている


CPによる懐疑論
D: 日常的知識
SK: 懐疑論の仮説
とすると、私はDならばnot-SKであることを知っているので、

1.1: もし私がDを知っているならば、私はnot-SKを知っている
1.2: 私はnot-SKを知らない
1.3: ゆえに私はDを知らない



●過小決定原理(UP)による懐疑論の定式化
CPよりUPの方が弱いと言われている
CPはUPを含意する


UP:
pとqはSにとって認識的に等価(Sがpことを信じる証拠がpことをqことより支持しない)
Sがqこととpことが両立しないことを知っている
ならばSの証拠はpことを信じることを正当化しない。

<pre>
K(p → ~q)  ~F(p,~q)
 --------------------
~J(p)
</pre>




例:
-花子が持っている証拠は、太郎が次郎を殺したことを、三郎が次郎を殺したことよりも支持しない。
-花子は太郎が次郎を殺したことと三郎が次郎を殺したことが両立しないことを知っている。
-ゆえに花子の証拠は太郎が次郎を殺したことを正当化しない。
-ゆえに花子は太郎が次郎を殺したことを知らない



UPによる懐疑論
2.1: もしDを信じる証拠がDを他の仮説SKより支持せず、DとSKが両立しないならば、私の証拠はDを信じることを正当化しない
2.2: 私のDを信じる証拠はSKよりDを支持するわけではない
2.3: 私がDを信じることは正当化されていない
2.4: 私はDを知らない



[Although many epistemologists]
多くの認識論者はCPとUPに基く懐疑論的議論が歴史的な懐疑論的挑戦の芯をとらえていると主張するが、CPとUPは以下の条件を満たす懐疑論の仮説でなければ使えない。

SH1(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKはpと両立しないものでなければならない。
 # 長いので「知識pに重大な懐疑論的挑戦をもたらす懐疑論の仮説であるために」の略として「pに懐疑論する」を採用


しかし夢仮説はこの制約を満たさない。
-私が自分が立っている夢を見ている(SK)
-私は夢を見ながら実際に立っている(p)
の両方が真であることは可能

一方「私がpことを夢に見る」ことで、pことを知ることはできない。「私がpことを夢に見る」ならば「私はpことを知らない」。
懐疑論者は、Sはpことを知るために夢仮説を排除する必要があると主張できる。


歴史的には、夢による論証も、水槽の中の脳などの論証同様のもっともらしさを持つものとして扱われてきた。
-4.1 もし私が自分が手を持っていることを知っているならば、私は自分は水槽の中の脳ではないことを知っている。
-4.2 私は自分が水槽の中の脳ではないことを知っている。
-4.3 ゆえに私は自分が手を持っていることを知らない。

-5.1 もし私が自分が立っていることを知っているならば、私は自分が立っている夢を見ているだけではないことを知っている。
-5.2 私は自分が立っている夢を見ているだけではないことを知らない。
-5.3 ゆえに私は自分が立っていることを知らない。


この論証を一般的な原理の形で定式化するのは非常に難しい。以下のCPの高階バージョンのような原理には欠陥がある。
Kp & K(Kp → q)] → Kq


これを認めるとKK原理(というやや強すぎる原理)が導出される
-K(Kp → q) →(Kp → Kq) と変形
-K(Kp → Kp) → (Kp → KKp)   # qにKpを代入
-Kp → KKp                    # K(Kp → Kp) より



[The following condition]
以下もまちがっている。
SH2(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKはpと両立しないものであれば十分である。

フレッドは自分の目の前のおりにいる動物がシマウマであることを信じている。以下の命題はすべてフレッドの信念と矛盾する。
6.1 このおりの動物はライオンである。
6.2 このおりの動物はシマウマではない。
6.3 このおりの動物は巧妙にシマウマに偽装されたラバである。


6.1と6.2は懐疑論的仮説ではない。6.3だけが懐疑論的仮説たりえるように思える。6.3は以下の制約を満たす。

SH3(o): Sの知識pに懐疑論するために、SKはいかにしてSがSの証拠のもとでpことを信じつつ、しかもpことを知らないのかをしめさなければならない。

これは妥当な制約。


*II
2節: 必然的な命題に対しても懐疑論できる。
反例: 神
 # この節はわりとわかりにくいですが、Gが必然的かnot-Gが必然的かいずれかであり、どちらの場合でも懐疑論できるという場合分けになっています。
 # また、「真な信念だけど、知識ではないものがあるよね」という前提から必然的な命題に対する懐疑論を考えてます。
 # この辺の例を見ると、著者が「懐疑論」をかなり広い意味で理解していることがわかります。



[An erroneous condition]
以下の条件も広く信じられているがまちがっている。
SH4(x): Sの知識pに懐疑論するために、pが偽であることは論理的・形而上学的に可能でなければならない。


有神論と無神論の対立を以下のように理解する。

有神論: 必然的神的対象は存在する
無神論: 必然的神的対象は存在しない

このときG(必然的神的対象は存在する)は、必然的に真であるか必然的に偽であるかのいずれかである。
SH4によれば、Gが正しければGに対する懐疑論は実現できないし、Gが偽であればnot-Gに対する懐疑論は実現できない。
これはバカげている。


[Freud offered an]
フロイトの過小決定的宗教論
フロイトによれば、われわれは願望充足を目的とした心理機構によって神の存在を信じるようになった。
 # コメント: 
 # もしある信念Pが、願望充足を目的とした心理機構によって生じたものであれば、Pは知識とは呼べないだろう。
 # 「家に帰ればアイスが用意されていてほしい。用意されているはずだ。用意されていなければおかしい」
 # => 仮に真であったとしても、こういう仕方で形成された信念を知識とは呼ばない。


[Accordingly, a religious]
もしGが正しく、Gが必然的に真だとしてもGに対して懐疑論できる。

-7.1: 私はもし神が存在することを知っているならば、神に対する信念は願望充足を目的とした心理機構が生んだものでないことを知らなければならない。
-7.2: 私は神に対する信念は願望充足を目的とした心理機構が生んだものでないことを知らない。
-7.3: ゆえに私は神が存在することを知らない。



[It is rarely]
もしnot-Gが正しく、Gが必然的に偽だとしてもnot-Gに対して懐疑論できる。
プランティンガ「神覚sensus divinitatis」
神覚は原罪によって歪められている


神が信じられないのは、神覚が歪んでいるから。
-私はもし神が存在しないことを知らないならば、神が存在しないという信念は、原罪による神覚の歪みが生んだものでないことを知らなければならない。
-私は神が存在しないという信念は、原罪による神覚の歪みが生んだものでないことを知らない。
-ゆえに私は神が存在しないことを知らない。



*III
3節: アプリオリな命題に対しても懐疑論できる。


[All of the]
アポステリオリな命題に対してじゃないと懐疑論できないと思われてきた

SH5(x): Sの知識pに懐疑論するために、pはアポステリオリでなければならない。


[Suppose a bumbling]
みじめな悪霊からの論証

modus ponensのようなアプリオリな命題は「正しさの感じ」を持っている
後件肯定のようなまちがった命題は「まちがった感じ」を持っている

みじめな悪霊はこの2つの感覚を入れ換えようとしたが、欺きの術に長けていないため、modus ponensを正しく思わせ、後件肯定をまちがっているように思わせてしまった。
この状況では、「正しさの感じ」「まちがった感じ」は悪霊によってつくりだされたものであるため、この偽の感覚によって形成された信念は知識とは言えない。
これはアプリオリな知識についてのゲティアケース、らしい。
 # ほんとか？
 # というかこの例、悪霊が感覚を交換した結果modus ponensを信じるようになったという設定じゃだめなのだろうか...
 # おそらくは4節の例と分けるためか
 # 3節: アプリオリな命題が真であるが、なおもわれわれがその命題を知りそこねる状況
 # 4節: アプリオリな命題が偽であるが、なおもわれわれがその命題を信じている状況


-8.1: もし私がmodus ponensが正しいことを知っているならば、私はmodus ponensが正しいという信念はみじめ悪霊によってつくられた偽の直観的経験のせいではないことを知っている。
-8.2: 私はmodus ponensが正しいという信念はみじめ悪霊によってつくられた偽の直観的経験のせいではないことを知らない。
-8.3: ゆえに私はmodus ponensが正しいことを知らない。



*IV
4節: 懐疑論の仮説は論理的・形而上学的に不可能でもよい。
# 今回のハイライト
# 「この必然的命題が間違っている状況は想像できないけれど、それでも間違っていることはありえる」と考えることは許されてしかるべきではないか(未知の論理の想像可能性)
# しかし、このような思考をどう捉えればよいのか

[Most of the]
SH6(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKが真であることは論理的・形而上学的に可能でなければならない

[I begin by]
デカルト: 全能の存在ならば、単純な算術の命題などについてでも欺けるかもしれない。2+3=5は本当は誤りなのに、欺かれた結果そう信じてしまったのかもしれない。


[An analogous but]
ウィトゲンシュタイン:
数学および論理学の必然的に真に見える命題が偽であることはわれわれには想像できない。
にもかかわらずわれわれ以外の生物にとってそうした他の選択肢は可能である。


[Describing his reflections]
9.7: われわれのような生物にとって、正しい計算、推論、計測を構成しているものが何であるかについての直観は避けがたい一方、それらの直観は正しい計算、推論、計測が何であるかについての事実と本質的なつながりを持っていない。

9.7は(後述する意味で)可能である。9.7の可能性と、われわれが必然的真理について知識を持っていることは両立しないので、われわれは論理的・数学的真理を知るために、9.7のような可能性を排除しなければならない。
ウィトゲンシュタインの実際の意図はともかく、ウィトゲンシュタイン的な論理的必然性についての考え方は懐疑論の仮説として機能する。


[Decartes and Wittgenstein]
デカルトおよびウィトゲンシュタインが描いている状況においては、アプリオリな命題が自己明証的にself-evidently真であると思えるような心のエピソードが生じつつ、それらの命題は真ではない。
DW: アプリオリな命題について大規模かつ恒常的に誤っている主体

アプリオリ懐疑論
-10.1: もし私が2+3=5を知っているならば、私は自分がDWでないことを知っている。
-10.2: 私は自分がDWでないことを知らない。
-10.3: ゆえに私は2+3=5を知らない。


[One cannot prevent]
デカルトおよびウィトゲンシュタインの懐疑論的仮説が不可能であると主張するだけではアプリオリ懐疑論への反論にはならない。
これらの仮説が不可能であるという信念はアプリオリな信念であり、それこそアプリオリ懐疑論の仮説が疑問としている当の信念である。
帰納的証拠を集めるだけでは帰納の問題の反論にはならない
証言による証拠を集めるだけは他人の心の問題の反論にはならない
同様にアプリオリ懐疑論の不可能性に関するアプリオリな信念だけではアプリオリ懐疑論への反論にはならない
 # じゃあどういう反論ならよいのか？


# 以下コメント
# [TA]
# not-P は思考可能ではない
# ゆえにpは形而上学的に必然的である(と考える十分な理由がある)
# [UA]
# にもかかわらず not-P かもしれない
# 
# [TA]と[UA]を両方認めることはできるのではないだろうか。
# 少なくとも形而上学的必然性について可謬主義を取るなら、形而上学的必然性を主張する命題の多くは間違っていることがありえるだろう。
# では、[UA]の「可能性」をどう理解すればよいのか



*V
5節: 懐疑論の仮説は認識論的に可能である必要もない。
[I shall call]
可能性の要請: 懐疑論の仮説は真であることが可能でなければならない。懐疑論のターゲットは偽であることが可能でなければならない。
論理的・形而上学的可能性は必要ない。
認識論的可能性も必要ない。
主観的区別不可能性という特別な種類の様相だけが必要。


[We often speak]
われわれはしばしば必然命題が偽である可能性について語る
-フェルマーの最終定理は偽であるかもしれない
-(古代ローマの人々が)ヘスペラスはフォスペラスではないかもしれない
われわれがフェルマーの最終定理が真であること、ヘスペラスとフォスペラスが同一であることを知っていたとしても、これらの主張は適切である。
われわれの知識は、その情報を欠いた人々がこれらの文を発話することで、真である何事かを言うことをさまたげない。

もしこれらの命題が形而上学的必然性を主張しているとすれば、偽であるだろう。
これらの命題の正しさは話者が知っていることと関係があるので、認識論的可能性とされる。
DeRose「認識論的可能性」「単純な「かもしれない」の指標詞的可能性と開かれた未来」「そうでなかったかもしれないにもかかわらずそうであるだろうことがありえるか」


[Sceptics try to]
懐疑論者は非懐疑論者に以下の命題のペアの内1つめだけは認めるようにせまる。
 # 後者が形而上学的必然性か

-12.1 私はBIVかもしれない
-12.1' 私はBIVであったかもしれない

-12.2 modus ponensは正しくないかもしれない
-12.2' modus ponensは正しくなかったかもしれない

-12.3 2+3=5は真ではないかもしれない
-12.3' 2+3=5は真ではなかったかもしれない

後者の命題が正しいことかどうか知るには、われわれは自分がどんな世界に住んでいるのか知る必要がある。
もし「普通の」世界に住んでいれば12.1'は偽である。もしBIV世界に住んでいれば真である。
 # なんで？ BIVではない人がBIVであることは、形而上学的に不可能であると想定しているのか？ 

しかし懐疑論者も非懐疑論者も、少なくともある文脈では、われわれが住んでいる世界についての知識について論点先取に陥ることなしに、前者が正しいことに同意できる。
懐疑論者がBIVや悪霊の可能性をもちだすとき、念頭に置いているのは、認識論的可能性であることが示唆される。

SH7(x): Sの知識pに懐疑論するために、pが偽であることは認識論的に可能でなければならない。
SH8(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKが真であることは認識論的に可能でなければならない。

しかし認識論的可能性の通常の理解では、可能性の要請を説明する助けにならない。


[Perhaps the most]
通常の定義
>>
pはSにとって認識論的に可能 iff p はSが知っていることと両立する
<<

もし私が自分が手を持っていることを知っているとすれば、私があざむかれて自分が手をもっているとあやまって信じていることは認識論的に可能ではなくなる。
これはありそうにない。もし私が自分が手をもっていることを知っている場合でも、懐疑論は可能である。
私の知識が懐疑論の挑戦に応答する助けになるとしても、事前に挑戦をふせぐことはできない。
われわれが自分が知っていると思っていることを知っているかどうかがある意味でオープンクエスチョンであることを認めたとしても、かならずしもBIVであることが世界について知っていることとと両立するかどうかを認めたわけではない。

 # なんかややこしい。「わたしは自分に手があることを知っている」はまさに懐疑論が否定する命題なのであるが、
 # もし懐疑論が間違っており、自分に手があることをわたしが知っている世界にいたとしても、懐疑論の挑戦は可
 # 能でなければならないということかな？
 # NS世界(懐疑論が偽であり、わたしは自分に手があることを知っている世界)において、
 # 懐疑論の挑戦を受けとめ、知識をもっているかどうかをオープンクエスチョンとする。
 # このときわたしが保留したのは、「自分が知識をもっていることを知っている」という
 # 高階の知識だけであり、依然として「わたしは自分に手があることを知っている」は真である。
 # ゆえにこの状況でも、BIV仮説は依然認識論的に可能ではない...と理解すればよいだろうか


[Similar difficulties beset]
他の定義を採用しても同様の困難に陥る。

13.2 pはSにとって認識論的に可能 iff Sはpが偽であることを知らない
13.3 pは関連する共同体にとって認識論的に可能 iff 関連する共同体の誰もpが偽であることを知らず、共同体のメンバーがそれによってpが偽であることを確定できるような実行可能な調査がない。
 Hacking, DeRose
13.4 pは関連する共同体にとって認識論的に可能 iff 関連する共同体Cの誰もpが偽であることを知らず、もし仮にCのメンバーによって知られているすべての知識を知れば、その知識をもとにpが偽であることを知ることができるようなCのメンバーはいない。
 P. Teller
13.5 pはSにとって認識論的に可能 iff Sが知っていることで、Sにとって明らかな仕方でnot-pを帰結するものはない。
 J. Stanley
13.6 pはSにとって認識論的に可能 iff not-p はSにとって知っているとされてはおらず、アプリオリに形而上学的に不可能と認めることができない
 D. Edgington
13.7 pはSにとって認識論的に可能 iff pが真であるかSはnot-pに対してpを無視できるのに十分な正当化をいていないかSのnot-pに対する正当化はゲティア証明ではない。
 Huemer 
13.8 「pことは可能である」の使用はある評価の文脈で真である iff その使用によって表現された命題は、評価の主体が知っていることによって排除されえない
 J. MacFarlen
13.9 pはSにとって認識論的に可能 iff pはアプリオリな推論で排除されえない
 Charmars

13.9以外とSH7,SH8を組み合わせると知識に数えられるような信念には懐疑論できない。
13.9は大抵の懐疑論的挑戦を許容するが、アプリオリ懐疑論が可能であることが説明できない。


*VI
6節: 「主観的に区別できない」という条件の明確化。


[I propose that]
可能性の要請は主観的区別不可能性として理解されるべき。
Lewisの「Sの証拠によって排除されない可能性」の定義

14.1 wはSにとっての可能性である iff Sの知覚経験と記憶は現実のSの知覚経験と記憶に一致する

Lewisによればこれは「主体の知覚経験と記憶が現実にある通りである」可能性である。
世界全体がいかにあるかについての可能性ではなく、自己と今についての可能性、つまり個別の主体によって中心化された可能性である。
中心化された可能性は、世界と住人のペアと考えられる。
 # 世界全体は同一であるが、自分がそのなかの誰であるかだけであるかが異なる2つの世界がある


[Because Lewis allows]
アプリオリな懐疑論の仮説も考慮したいので、知覚経験だけではなく直観などの経験も含めるために一般化する。

14.2 wはSにとっての可能性である iff Sの経験と記憶は現実のSの経験と記憶に一致する

この種の可能性を「経験的可能性」と呼ぶ。Lewisは14.1の可能性を、形而上学的・論理的に可能なことに限定していたが、懐疑論の仮説は形而上学的・論理的に不可能でもよいので、14.2は形而上学的・論理的に不可能なことも含む。


[I contend that]
SH9(o): Sの知識pに懐疑論するために、pが偽であることは経験的に可能でなければならない。
SH10(o): Sの知識pに懐疑論するために、SKが真であることは経験的に可能でなければならない。

BIVや悪霊の可能性は経験的に可能である。
帰納の懐疑論者の未来が過去に似ていない世界は、法則的にも認識論的にも不可能かもしれないが、経験的に可能である。


[Even when sceptical]
内的精神状態の知識に対する懐疑論についても、主観的区別不可能性が重要な役割を果たす。
Hans Reichenbachの懐疑論
>>
記憶が混乱し、今日見えたある記憶のイメージは、昨日見た緑のものにひきおこされたにもかかわらず、昨日見た赤いものに似ている。一方今日見えたある記憶のイメージは、昨日見た赤いものにひきおこされたにもかかわらず、昨日見た緑のものに似ている。比較ができないので混乱に気づくことができない。
<<
 # 記憶だけの逆転スペクトル？
この例でも主観的区別不可能性が懐疑論的要素をもたらしている


Williamsonの明晰テーゼ(われわれは自分が何らかの精神的状態にあることを確実に知れる立場にある)への攻撃を一種の懐疑論的議論と見なすなら、そこでも主観的区別不可能性が不可欠の役割をはたす。

>>
朝は寒いと感じていたが、だんだん暖くなり、正午には暑いと感じた。
はじめは、寒いと感じているし、自分が寒いと感じていることを知る立場にあるが、だんだん自信がなくなってきて、「寒いと感じるか？」という質問にも答えられなくなり、最終的にはノーと答える。
<<

「寒いと感じる」と「暑いと感じる」の主観的区別不可能性が重要。
SH9, SH10 は内的精神状態に対する懐疑論を阻まない。


[The reason for]
主体に中心化された世界を用いる理由は、懐疑論が用いられてきた伝統的な仕方(特に外的世界の懐疑論)による。
わたしにとっての外的世界は、あなたの心を含む。あなたにとっての外的世界はわたしの心を含む。
伝統的な懐疑論の挑戦のエゴ中心的本質がSH9, SH10に反映されている。

[Let 'U' denote]
U: 私が住んでいる可能世界+不可能世界
V: Uの要素を中心化
W: Vのなかで私が特定の知識を持っていない世界
X: Vのなかで現実世界と主観的に区別できない世界
Y: X∩W
Z: X∩~W
中心化された現実世界は、排他的にYかZの要素である。
懐疑論者の挑戦は、私の証拠は私がY世界にいるのか、Z世界にいるのか決定するのに不十分だというもの。
私ではなく、あなたにむけられる懐疑論の挑戦は中心化された世界の異なる集合を用いるので、懐疑論の挑戦は「パーソナライズされている」とも言える。


[A brief word]

[Because ersatz]


*VII
[I have argued]

]]>
        
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    <title>読書メモ</title>
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    <published>2011-07-24T17:01:54Z</published>
    <updated>2011-07-25T15:59:56Z</updated>

    <summary>&amp;#9632; 若手フォーラム 先日は哲学若手研究者フォーラムに参加してきました...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        * 若手フォーラム
先日は哲学若手研究者フォーラムに参加してきました。
http://www.wakate-forum.org/


多くの発表に触れたり、人と話すことができ、大変刺激を受けるとともに、改めて自分の立ち位置を考えさせられました。
非常にまとまりのない感想で申し訳ないのだけど、個々の発表については当日も質問したし、発表者には自分の意見を伝えているし、改めて書くことが思いつかないな。


 
* 反証不可能について
重要な前提として、わたしはポパーを読んだことがなく、ポパーという名前を聞いただけで吹き出すので、多分変なことを言っているかもしれません。


それはそれとして、健全な仮説の基準として、「反証可能性」が持ち出されることは今でもよくある。
しかし反証可能性という概念の不思議な部分として、「反証不可能な命題」として上げられるもののほとんどは、「反証可能」とされる健全な仮説と両立しない。
たとえば、「世界五分前創造説」は大半の歴史的事実と両立しない。世界が五分前にできたなら、平城京遷都が710年に起きたはずはない(つまらない例でごめんなさい)。従って、見ようによっては、「世界五分前創造説」と、歴史的事実に関する個別の主張とは、競合する2つの仮説である。
しかし一方で、特定の歴史的事実に関する知識が確証を増せば増すほど、世界五分前創造説がそれによって反駁されるという風にはなっていない。しかし、なぜ？ なぜ事態はそのようになっているのか。どうして、水槽の中の脳仮説や世界五分前創造説のような、他の諸説と競合するが競争しない(という言い方がよいかどうかはわからないが)不思議な「説」が存在するのだろう。


最近懐疑論に関心があるのだが、わたしの懐疑論に対する関心の一部は↑こういうところにあるような気がする。



* Schaffer, Jonathan &quot;The debasing demon&quot;
-http://www.jonathanschaffer.org/debasing.pdf

「認識の地獄には、認識論が夢見るよりも多くの悪霊がいる」
これは、夏っぽくてよい。


デカルトの欺く悪霊は、知識の条件のうち、「真であること」という条件を攻撃してくる。欺く悪霊は、真でない事柄を真であるかのように見せかける。
改めて考えると、この「欺くこと」には2つの要素があることがわかる
-(1)実際には、偽である
-(2)偽であるのに、真であるかのように信じてしまう


「全能の悪霊にだまされている」とか「水槽の中の脳である」状態においては、この(1)と(2)の条件が大規模に成立している。その「ハイパー欺かれ状態」と、健全な知識を持った状態を(内省では)区別できないということが、懐疑論が成り立つための重要なポイントの1つである。


一方Schafferのdebasing demonは、知識の条件のうち、「証拠によって基礎付けられている」という条件を攻撃する。debasing demonは、適切な基礎を持たない信念を、適切な証拠によって基礎付けられているかのように見せかけるのである。
Schafferは次の2つが可能であるという。
-(1)(われわれの信念の大部分が)実際には適切な基礎を持っていない
-(2)適切な基礎を持っていないのに、基礎を持っているかのように感じてしまう


debasing demon は真であることではなく、基礎づけられているbasedという条件を攻撃する悪霊である。
Schafferによれば、この悪霊は普遍的(universal demon)であり、一切の知識をおびやかすものだという。実際Schafferは「アプリオリな知識(論理的知識)」「自己の感覚についての知識」「われ思うゆえあり」という従来確実なものとされてきた3種の知識について、debasing demonを使った懐疑論の素描を示している。


しかしなんというか、「悪霊学へむけて」という節タイトルとか、「認識の地獄には、認識論が夢見るよりも多くの悪霊がいる」というシェイクスピアのパロディ(だよね？)とか、いささか悪趣味にも思える。


ところでタイトルの&quot;debasing demon&quot;はどう訳すべきだろう。「欺く悪霊deceiving demon」のもじりだと思うんだけど、よい日本語が思いつかない。「基礎を抜く悪霊」だと手抜き工事みたいでいいかもしれない。



*「部屋Aの壁が緑色であることを知っている」の2つの意味
以下のようなケースを考える。


太郎は部屋Aにいるが、太郎自身は自分が部屋Aにいることを知らない。眠っている間に連れてこられたからである。
一方太郎は自分がいる部屋の壁が緑色であることを見て知っている。


このとき、以下の1だけでなく、2もある解釈では真であるように思われる。
-1: 太郎は自分がいる部屋の壁が緑色であることを知っている。
-2: 太郎は部屋Aの壁が緑色であることを知っている。


というところまで考えたんだけど、何でこれが問題だったんだっけ(←それを忘れたら意味ない)


        
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    <title>読書メモ</title>
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    <published>2011-07-06T23:23:07Z</published>
    <updated>2011-07-08T16:46:46Z</updated>

    <summary>つづくかどうかわからないが読書メモをとることにした。 最近の関心  自己知識  ...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        つづくかどうかわからないが読書メモをとることにした。


最近の関心
- 自己知識
- 他人の心 / 独我論
- 懐疑論



* Lewis, David, &apos;Attitudes De Dicto and De Se&apos;
-http://philpapers.org/rec/LEWADD


読んでいなかったので読んだ。
命題的態度について、(1)命題をつかってうまくいく場合は、性質でもうまくいく。(2)命題でうまくいかないのに性質でうまくいく場合がある、ということで、性質をつかった態度の理論を推す。
途中の2人の神の思考実験がすばらしい。世界に2人の神がおり、2人の神の内、ひとりは最も高い山の上でマナを投げつづけている。もうひとりは最も寒い山の上で稲妻を投げつづけている。ふたりとも全知なので、この世界で成り立つすべての命題を知っている。しかしなお彼らには、まだ知らないことがある。彼らは、自分が2人の内のいずれの神なのか、最も高い山の上にいる神なのか、最も寒い山の上にいる神なのかを知らないのである。つまり、「この世界がどんな世界であるか」についてもっとも詳細な知識をもっていたとしても、「自分がこの世界のどの位置にいるのか」について無知であることがありえるというような。


De Se態度とDe Re態度の関係がよくわからない。De Re態度を自己との見知り関係を通じて同定された対象への性質帰属として理解する。またDe Se態度をDe Re態度の一種として解釈する(見知り関係のなかでももっとも強い関係である同一性関係をとる)という感じでいいのかな。
あと選言的信念や連言的信念などの接続詞はどう処理するのだろう。


これ以外に、自己知識系で次に読もうと思っているのは、以下。
-Howell, R., 2006, &apos;Self-Knowledge and Self-Reference&apos;
--http://rjhjr.com/philosophy/?page_id=18


* Pritchard, Duncan, &apos;Wittgenstein on Scepticism&apos;
-http://www.philosophy.ed.ac.uk/people/full-academic/duncan-pritchard.html

ウィトゲンシュタインの反懐疑論を検討。超勉強になる。ウィトゲンシュタインの言う蝶番命題hinge propositionについての3つの解釈を検討。蝶番命題とは、われわれの認識を支えているが、それ自体としては正当化されていない、にもかかわらず疑うことが合理的ではないような命題(「わたしには手がある」とか)。
3つの解釈とは
-非認識説
-文脈主義
-新ムーア主義


非認識説(蝶番命題を知ることはできない)に対する批判がおもしろい。
Pritchardによれば非認識説は、閉包原理に矛盾する。
たとえば、通常の歴史的知識 p(「1192年に源頼朝は征夷大将軍に任命された」)と蝶番命題q(「世界は5分前にできたわけではない」)を考えよう。pからはqが帰結する。
- わたしはpを知っている。
- わたしはpからqが帰結することを知っている。
閉包原理によれば、この2つから、わたしは蝶番命題q を知っているが帰結する。
非認識説の人は、この自明な内容を否定しなければならない。あまりウィトゲンシュタインが閉包原理にこだわりそうなイメージもないが、蝶番命題が知識ではないという主張はやはりアドホックなものであって、他のいろいろな認識論的原理と整合性をたもてなくなるという例だろうか。


ちょっと気づいたこと。蝶番命題の特徴の1つ、「正当化されていない」は懐疑論に関する議論でよく指摘される「過少決定」の問題にかかわるように思われる(ex. われわれの経験は「水槽の中の脳」説もその否定も支持しない、われわれの経験は世界5分前創造説もその否定も支持しない)。
一方こうした正当化の欠如という条件にもかかわらず------「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのかしらないが------、反懐疑論的知識「われわれは水槽のなかの脳ではない」「世界は5分前にできたわけではない」が実践的に疑いの対象になることはまずない。
これは不思議といえば不思議なことである。正当化とか蓋然性の観点で、2つの命題を区別するものがないならば、合理性の観点で2つの命題の地位がこれほどに異なるのはなぜなのか。


* Pritchard, Duncan, &apos;The Structure of Sceptical Arguments&apos;
-http://www.philosophy.ed.ac.uk/people/full-academic/duncan-pritchard.html

「懐疑論の構造」系。激むず。
従来の閉包原理をつかった懐疑論の定式化に対し、決定不全性原理(underdetermination principle)による定式化の方が弱いということを示す。決定不全性原理による懐疑論は、閉包原理による懐疑論よりも弱い主張であるため、閉包原理に基く懐疑論への反論では十分な応答にならない、らしい。


* Cassam, &quot;Possibility of Knowledge&quot;
- http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/019920831X/atakada-22
認識論における「いかにして可能か」問題(how possible probrem)を扱う。
「他人の心」の章に興味があったので購入(kindle store)。
「いかにして可能か?」という疑問文の分析から入るあたり好感がもてる。


Cassam によれば「いかにして可能か？」という疑問への答えには3つのレベルがある。
-1: 手段
-2: 障害除去(不可能に見える理由をとりのぞく)
-3: 可能性条件(必要条件をあげる)


この3レベルの構成を武器に、認識論に関する「いかにして可能か」問題に答えていく。


Cassamによる「S は xがFことを見る」S see that x is F の必要十分条件の分析
(1)Sはxを見る
(2)xはFである
(3)Sがxを見る条件のもとでは、もしxがFでなければ、x は現にあるようには見えなかっただろう
(4)(3)の条件を信じたので、SはxがFであると考える


わたしは鉄が熱くなっているのを見る iff 
-(1)わたしは鉄を見る
-(2)鉄は熱くなっている
-(3)わたしが鉄を見る条件のもとでは、もし鉄が熱くなっていなければ、鉄は現にあるようには見えなかっただろう
-(4)(3)の条件を信じたので、わたしは鉄が熱くなっていると考える


正しそうな気もするが、誰か反例をあげてないのだろうか。



しかし、懐疑論に関する文献が膨大にあるのと対照的に、独我論と他人の心についての文献は少ないなあ。

        
    </content>
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    <title>つくろう！ゲティアケース</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2011/06/post-307.html" />
    <id>tag:www.at-akada.org,2011:/blog//1.1030</id>

    <published>2011-06-06T15:52:27Z</published>
    <updated>2011-06-06T16:20:58Z</updated>

    <summary>  Duncan Pritchard, &quot;What is this thing ...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0415552982/atakada-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51wiZ1heefL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="What is this thing called Knowledge?" title="What is this thing called Knowledge?" /></a>
<br clear="all" />
- Duncan Pritchard, "<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0415552982/atakada-22">What is this thing called Knowledge?</a>"

この本は学部生向けの認識論の教科書です。日本語で(分析的)認識論を解説した本があまりないので、この本を読んでいました。認識論についていいかげんなことを書いてしまいがちなのでちょっとは勉強しようという試みです。
なお、これは<a href="http://nonameblog.seesaa.net/article/139663992.html">笠木さんのブログ</a>で紹介されていた本です。ちなみに、ゲティアケースについても<a href="http://nonameblog.seesaa.net/article/192599324.html">笠木さんがもっとちゃんとした記事を書いている</a>ので、まじめに関心のある人はそっちを読んだ方がよいですよ。


この本は非常にうすくて内容もやさしいのですが、「知識の定義」や「合理性」「懐疑論」といった認識論の主要な問題はもちろん、「知識の価値」「徳認識論」や、めずらしいところでは「道徳的知識」など、比較的新しい(らしい)テーマも含んでいます。


そんなわけで非常によい本なんですが、読んでいたら、ゲティアケースのつくり方が解説されているのを見つけました。
ゲティアケースというのは、解説もやっかいですが、知識の古典的定義(知識とは正当化された真な信念のことである)の反例として有名なものです。哲学史上でも、非常に有名な事例の1つといってよいでしょう。
- google検索: [google:ゲティア問題]


著者のPritchardによれば、すべてのゲティアケースには共通の形式があって、それを知りさえすればいくらでも新しいケースをつくることができるとのことです。簡単なつくり方が紹介されていましたので、さっそくつくってみたいと思います。
ちなみに、わたしはこういう手を動かして何かをつくる課題が好きなんです。哲学だとあまりその手の課題が出てこないのが残念なんですが。


はじめに、ゲティアケースすべてのポイントとなるのは、「正当化された<em>偽な</em>信念」です。要するに、正当化されており、ちゃんと根拠があるけれどもまちがっている。そういう信念の存在が前提となっています。
以下4ステップでつくっていきます。認識論ともゲティアとも何も関係ないですが、完結記念ということで、漫画『スティール・ボール・ラン』から事例を取ることにします。


<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/408873601X/atakada-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21GBV3BAV6L._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス" title="スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス" /></a>
<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/408873601X/atakada-22">スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス</a>


ルーシー・スティールが大統領夫人に化けるエピソードは、13巻あたりにあります。
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4088744209/atakada-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ZO99XS8SL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="STEEL BALL RUN vol.13―ジョジョの奇妙な冒険Part7 (13) (ジャンプコミックス)" title="STEEL BALL RUN vol.13―ジョジョの奇妙な冒険Part7 (13) (ジャンプコミックス)" /></a>
<br clear="all" />


* ステップ0(準備)
適当なエージェント(主人公)と、その信念を考えましょう。
ここでは、作中にはでてこない大統領の護衛のひとりを取り上げ、その信念「大統領夫人は人を殺した」を考えます。


* ステップ1: <em>通常であれば偽な信念を持ってしまう方法で信念を形成する</em>
まず、ふつうであれば「正当化された偽な信念」を抱きそうな状況を考えます。まちがった証拠や根拠を考えてみればよいでしょう。


ここでは、作中にそういう場面はないのですが、大統領の護衛のひとりが、大統領夫人が死体を始末するところを見てしまい、「大統領夫人は人を殺した」という信念を抱いたということにします。しかしこの護衛はかんちがいをしています。この人が大統領夫人だと思っているのは、実際には大統領夫人に化けたルーシー・スティールです。護衛は、大統領夫人に化けたルーシーの行動を見て、大統領夫人に関する信念を抱いてしまったのです。


* ステップ2: <em>しかし信念は正当化されていることを確認する</em>
しかし一方で、この根拠や証拠は十分もっともらしいものであり、特に疑う理由はないという風に設定します。


護衛はかんちがいをしていますが、護衛の信念はきちんと正当化されており、疑う理由は特にありません。まず、護衛は大統領夫人の顔をはっきり見たものとします。作中では、ルーシー・スティールはホット・パンツの能力で大統領夫人の姿に化けているので、顔を見てもちがいはわからないのですが、そんなことを知らない護衛にとっては、特にこの目撃を疑う理由はないはずです。


* ステップ3: <em>今回はたまたま真だったことにする</em>
エージェントの根拠はまちがっているのですが、偶然真だったという風に設定します。本来正当化された偽な信念となるはずだったものが、まぐれで正解だったことにします。


護衛の目撃したのは、大統領夫人ではなく、夫人に化けたルーシー・スティールです。しかし、実際に大統領夫人は過去に殺人を犯したことがあったということにしましょう。つまり、護衛の信念は根拠がまちがっているだけで実際に正しいわけです。


* 確認しよう
さて、以上で新しいゲティアケースをつくることができました。では、ここで改めて、これが知識の古典的定義の反例になっているかどうかを確認しましょう。もちろん「ゲティアケースは反例として認められない」という反論はいろいろありうるので、判定は難しいのですが、事例をつくることが目的なので、反例になっているように見えればOKです。


反例であるためには、「知識とは呼べないものである」ことと、「知識の古典的定義を満たす」ことの両方が必要です。


まず、前者からいきましょう。通常、われわれは、まぐれあたりの信念を「知識」とは呼びません。
たとえば「おれ知ってるよ。あの事件の犯人は、あいつだ」と言いつつ、「理由はなんとなく」という人がいれば、「知らないんじゃないか」と言われてしまうでしょう。もしその指摘が偶然正しかったことがあとでわかったとしても、「実は知っていた」ということにはなりません。偶然は、信念を知識には変えません。
同様に、ここでの護衛の信念も、ただのまぐれあたりであり、知識と呼ぶのは難しいでしょう。これについては、実際にこの状況を頭に描きつつ、その状況で自分が「知識」とか「知る」という言葉を使うかどうか考えてみましょう。たとえば護衛が「わたしは知っている。見たんだ」と言っていたとして、その「知っている」は正当な使用法であるかどうか。
わたしであれば「いや、本当は知ってはいない」と言いたくなります。


次に、この事例が知識の古典的定義を満たすこと。護衛は信念を抱いています。次にこれまで確認してきたように、その信念は正当化されています。そして真でもあります。つまり、護衛は「正当化された真な信念」を持っています。


以上、われわれはどうやら新しいゲティアケースをつくることに成功したようです。簡単ですね。いろいろ条件を変えてつくってみれば、もっと新しい発見があるかもしれません。
きみも自分なりのゲティアケースをつくってみよう！
]]>
        
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    <title>美的価値と倫理的価値</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2011/05/post-306.html" />
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    <published>2011-05-26T01:13:47Z</published>
    <updated>2011-05-26T01:18:47Z</updated>

    <summary>&amp;#9632; 美的価値と倫理的価値 twitterで芸術作品の美的価値と倫理的...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[* 美的価値と倫理的価値
twitterで芸術作品の美的価値と倫理的価値の話をしていたのですが、意外と反響があったので、参照点とすることを目的に、少しだけ整理を残しておきます。最初にしていた話はtogetterにまとめてくれた人がいたので以下を参照してください(直接は関係ないのですが)。
http://togetter.com/li/139909


問題になっているのは「倫理的に良い部分が作品を美的によいものにすることがあるか」「倫理的に悪い部分が作品の美的に悪いものにすることがあるか」という美学上の論争です。


以下は、
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0742564118/atakada-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/4119BNmVRzL._SL75_.jpg" style="border:0px;" alt="Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction (Elements of Philosophy)" title="Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction (Elements of Philosophy)" /></a><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0742564118/atakada-22">Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction (Elements of Philosophy)</a>
の12章に従ってまとめます。


Steckerはこの議論にかかわる陣営を3つに分けています。

:自律主義(autonomism): 倫理的価値から美的価値への作用は<em>決して</em>起こらない。
:倫理主義(ethism): 倫理的価値から美的価値への作用はときに起きる。ただし、起きる場合はつねに、倫理的な長所は美的な長所となり、倫理的な欠陥は美的な欠陥となる。
:不道徳主義(immoralism): 倫理的欠陥が作品を美的によいものにしたり、倫理的長所が作品を美的に悪いものにすることがありえる。


議論の焦点は、
-作品の倫理性が作品の美的な部分に影響を与えることがあるか
-影響を与えることがあるとして、倫理的欠陥のせいで、いっそう美的によい作品であるということがあるのか


というあたりです。
少しだけ注意しなければならないのは、ここで「自律主義」と呼ばれているのはかなり強い立場で、「倫理的な事柄が美的な事柄に影響を与えることなど絶対にない」と主張しています。一方「倫理主義」はやや穏健な主張で、「影響を与えることもあるだろう」と主張しています。この対立については、自律主義は非常に強い立場なので、1つの反例だけでも十分な反論となります。
要するに、倫理主義とここで呼ばれる立場は別に「道徳的な作品はつねに美的に良い作品だ」というおそろしく単純な主張を擁護しているわけではないことに注意してください。


Steckerがあげている例を少し単純化してひきましょう。
たとえば、ある小説作品が共感的に描いている登場人物が、誤った倫理的態度を是認していたならばどうでしょう。「人のよい人物」として出てきた登場人物が、殺人や窃盗を賛美していたなら、読者は反感を抱き、作品世界にそれ以上没頭する気をなくしてしまうかもしれません。
あるいは小説が主人公の道徳的葛藤を描いているのにもかかわらず、その登場人物の道徳的態度がまったく是認できないものであれば、読者はその葛藤を真剣に受け取ることをやめてしまうかもしれません。
自律主義に従うなら、こうした事例は、「道徳的欠陥が美的な欠陥をひきおこしている」以外の形で説明される必要があります。


もちろん、われわれは、とても共感できないような道徳的価値観に基いた古代の作品さえもたのしんで読むことがあります。倫理的欠陥はおそらくつねに美的な欠陥となるわけではないでしょう。しかし、倫理主義が主張しているのは、「倫理的欠陥が作品の美的欠陥になっている<em>こともあるだろう</em>」というだけです。これを否定するのはそれなりに難しいでしょう。



* 感情反応論法
Steckerが倫理主義の擁護と自律主義の否定のために持ち出す議論のひとつ感情反応論法[affective response argument]は、以下のようなものです(Steckerの独創ではなく、よく用いられる議論のようです)。この論証が失敗しているのではないかという疑いをもったので、書き残しておきます。(いつもそうですが)わりと細かい話です。


-(1)ある種の特徴は作品が鑑賞者に要求している反応をさまたげる
-(2)倫理的欠陥はしばしば、作品が鑑賞者に要求している反応をさまたげる
-(3)作品が鑑賞者に要求している反応を作品の一部がさまたげているとき、その部分は作品の美的欠陥となる
-(結論)倫理的欠陥はしばしば美的欠陥を帰結する


(1)の具体的な例は、「スリラー作品なのに、邪悪な人物を邪悪な人物として描き切れておらず、(怖がるべきところで)読者が怖がらない」などがあげられるでしょう。もう少し(2)に近い例でいうと、「ヒーローが道徳的に悪い態度を是認しているので、読者が尊敬できない」という例などがあげられるでしょう。
こうした事柄が、<em>ときに</em>美的な欠陥であるということは多くの人が認めるのではないでしょうか。
なお「作品が鑑賞者に要求している反応をさまたげる」というフレーズは非常に長くで煩雑なので、以下「妨害的となる」と書きます。


Steckerは(2)の例として、前節であげたようなもの、「道徳的葛藤を描いた小説なのに道徳的でない」「共感すべき語り手が道徳的でない」という作品をあげます。
しかし(2)の事例は、Steckerがやっているよりももう少しきびしい基準でチェックされるべきです。(2)が要求しているものをもう少しはっきりと言い表すようにすると、以下のようになります。


-(2')倫理的欠陥はしばしば、まさに倫理的欠陥であることによって、妨害的となる


どうしてこれが必要なのでしょうか。ややくどいですが、丁寧に書きましょう。
(2)の例として集められた事例たちをTsと呼びましょう。Tsに属する作品群は、どれも道徳的価値が低く、妨害的なものだとします。われわれは、道徳的価値が低く、妨害的な作品群を集めてくれば、(2)の根拠として十分なのでしょうか？
そんなことはないでしょう。もしも、Ts の作品群がすべて、偶然に道徳的価値が低いのだとしても、作品が妨害的である理由が「登場人物の名前がこっけいだから」などであれば、(2)の根拠にはなりません。その場合、作品を妨害的としている要素は、倫理的欠陥ではなく、「こっけいな名前」だからです。(2)の根拠には、「倫理的欠陥によって妨害的な作品」が必要です。


では、Steckerの事例において、作品を妨害的としているものは本当に倫理的欠陥なのでしょうか？
わたしは違うのではないかと思います。なぜなら、それらの事例でSteckerが問題にしているのは結局、「鑑賞者が共感できるかどうか」「社会通念に反するかどうか」以上ではないからです。


ひょっとすると、「共感できない」も「倫理的欠陥がある」も同じではないかという反論があるかもしれません。しかし、この反論には問題があります。なるほど、共感や社会通念と倫理は、多少は重なるかもしれません。ですが、
>>
同時代の多くの人間にとって共感しづらいが、倫理的に正しい立場もある。
<<
>>
同時代の社会通念に反するが、倫理的に正しい立場もある。
<<

というのはわれわれの多くが認めるような事柄でしょう。たとえば公民権運動以前のアメリカで、人種差別の反対を訴えたとしても、同時代の人間にとっては共感しづらく、社会通念に反してしまうかもしれません。しかしそれが倫理的に間違っているという風に考える人はあまりいないでしょう。


一方倫理的な欠陥をもっておらず、単に社会通念に反するような態度でも妨害的となるのであれば、結局それらの作品は「倫理的欠陥によって妨害的となっている」わけではないという疑いが生じます。Steckerの論証はこの部分で失敗しているのではないかという疑いをもったので書き残しておきます。
]]>
        
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    <title>害の哲学</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2011/04/post-305.html" />
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    <published>2011-04-09T10:10:15Z</published>
    <updated>2011-04-09T10:24:47Z</updated>

    <summary>ひさびさにログインしたら、ずいぶん長いこと放置してたみたいでごめんなさい。 この...</summary>
    <author>
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    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        ひさびさにログインしたら、ずいぶん長いこと放置してたみたいでごめんなさい。

このあいだ「ゆるふわ形而上学特別編」ということで、小規模な研究会を行ないました。
そこで「害の哲学」というテーマで発表させてもらったので、その原稿を共有します。
https://docs.google.com/document/d/1nK8Igise5qUF3vOMadpXTiqBziMFw3C8UfIbxsj3Zy0/edit?hl=en


災害とか、事故みたいな「害」についての哲学的議論を扱ってます。
個人的には、害の哲学は、価値、道徳、様相、出来事の存在論、行為などが絡みあうおもしろい分野だと思うのですが、日本で研究してる人はまだあまり見かけないので、ぜひそのおもしろさだけでも知ってもらえればこれにまさるよろこびはありません。
        
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    <title>『インセプション』と夢論証</title>
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    <published>2010-08-05T16:33:33Z</published>
    <updated>2010-08-05T17:18:52Z</updated>

    <summary>&amp;#9632; 前置き 架空の裁判状況を考えましょう。 裁判官がわたしに質問しま...</summary>
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    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[* 前置き
架空の裁判状況を考えましょう。
裁判官がわたしに質問します。「5月12日の午後7時頃、確かにその男を東京で見たのか」と。
「見た」とわたしは答えますが、裁判官はさらに疑いの念を向けてきます。
「本当は夢で見たのではありませんか？ そのとき自分が見ていたものが夢でないと確認することができますか？」と。わたしは何と答ええるべきかわからなくなって沈黙します。


現実の裁判で裁判官が夢の可能性について疑いはじめることがどれだけあるのかわかりませんが、『インセプション』のなかでなら、「これは夢かもしれない」という疑いはありふれたものです。日常的な状況で「それは夢だったかもしれない」と言うことは哲学的なジョーク以上のものではないかもしれませんが、『インセプション』のような状況に置かれれば、われわれはまったく自然に「これは夢かもしれない」と疑います。哲学的疑問「これは夢かもしれない」と『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」の違いは、もしそういう違いがあるとすれば、致命的なものです。


http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/mainsite/

話題の映画、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』を観ました。
以下はネタバレを含むので、まだ観ていない人は、まず映画を観に行きましょう。おすすめです。
『インセプション』はとても手の込んだエンターテイメント作品です。「夢のなかで夢を見る」みたいなややこしい話がちゃんとしたハリウッド映画になるなんて、この映画を観るまではちょっと想像できないんじゃないかと思います。


この映画は「夢と現実の区別」という特別にややこしいテーマを扱っています。映画のなかでコブ(デカプリオ)やアリアドネ(エレン・ペイジ)は、自分が夢にいるのか現実にいるのかを知るためにいろいろな工夫をこらします。コマの形の「トーテム」や「パラドックス(だまし絵)」を利用するシーンが印象的です。
「これは夢じゃないのか？」という問題は、17世紀にデカルトという哲学者が考えた有名な問題でした。この問題の起源は古くはプラトンにまで遡るそうですが、デカルトが集中的に扱って以来数百年、「夢」の問題は哲学のホットトピックでありつづけました。現在でもまだ、精力的にこの問題を扱っている哲学者は絶えません(若干嘘かも)。



「これは夢じゃないのか？」問題は、懐疑論や外の世界の知識といったテーマとの関連で重要になります。かつてデカルトが問題にした論証は、夢論証[dream argument]と呼ばれます。この論証では、なんと「われわれを取り巻く物理世界について、われわれは何も知らない」という超破壊的な結論が導かれてしまいます。
単純に言って、わたしは今、自分がネットブックを前にしてキーボードを叩いていると思っているし、思っているだけではなく、そう<em>知っている</em>と考えています。ところがこの論証は、「それは嘘だ」「そんなことは知らないはずだ」と主張します。
「この世の中に確かなものなんて何もない」と言えば、何らかの教訓がありそうにも思えますが、懐疑論は人生に対する教訓を唱えているわけではありません。そうではなく、哲学的懐疑論は、日常目にするまわりのものについて、すべての人は何も知らないと主張します。しかも、「彼女はニューヨークについて何も知らない」などというのと同じ、まったく日常的な意味で何も知らないと主張します。



* 本
懐疑論と夢の論証については日本語でも以下のような本が読めます。

<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323122/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/416Y6FT3Y8L._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義 (現代哲学への招待Great Works)" title="君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義 (現代哲学への招待Great Works)" /></a>
<br clear="all" />
-バリー・ストラウド『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323122/ref=nosim/atakadaorg-22">君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義 (現代哲学への招待Great Works)</a>』
大部な上に細かいですが、説明は丁寧だし文章はわりとわかりやすいと思います。根気があれば読める本です。


<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089659/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51W3ZY4810L._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="省察 (ちくま学芸文庫)" title="省察 (ちくま学芸文庫)" /></a>
<br clear="all" />
-ルネ・デカルト『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089659/ref=nosim/atakadaorg-22">省察 (ちくま学芸文庫)</a>』
デカルトのオリジナルはこちら。


<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4782802080/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/4121BBRG2KL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)" title="知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)" /></a>
<br clear="all" />
-戸田山和久『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4782802080/ref=nosim/atakadaorg-22">知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)</a>』
夢論証についてはそれほどページを割いていませんが、知識の哲学と懐疑主義について丁寧かつわかりやすく解説しており、「懐疑主義について考える」ということがどういうことなのか理解するたすけになると思います。



* 夢論証
夢論証のような歴史ある厄介な問題を紹介するのは大変ですが、簡単な紹介を試みてみましょう。
基本的なストーリーは以下のようなものです。


夢論証
-(1)われわれがまわりの世界について何かを知るためには、われわれは自分が夢を見ているのでは<em>ない</em>と知る必要がある。
-(2)われわれが夢を見ているのではないと知ることはできない。
-結論: われわれはまわりの世界について何も知らない。


基本的には、「もし夢を見ているのだとすれば、『わたしがネットブックのキーボードを打っている』などなどの信念はすべて知識ではない。夢を見ているという可能性が退けられないかぎり、知識を持つことはできない。しかし夢を見ているという可能性を退けることはできないのだから、やっぱり知識を持つことはできないのだ...」ということです。


よく似た議論である「培養槽のなかの脳[Brain in a vat]」や「欺く神(全能の悪霊)[Dieu Trompeur]」について聞いたことがある人もいるでしょう。
形式はどれもよく似ており、知識の必要条件として、「われわれは今夢を見ているのではない」「われわれは培養槽のなかの脳ではない」「われわれは全能の悪霊にだまされているわけではない」...などの知識を要求します。この要求には、「しかしこの必要条件は満たされない」という不可能の判定がつづき、最終的には大部分の知識が成立しないというグローバルな懐疑論に到達します。戸田山和久さんは、前述の本のなかで、この形式の議論を「懐疑の水増し戦略」と呼んでいました。もっともらしく思われた小さな疑いを、グローバルな懐疑にまで発展させるからです。
ただし、似ているのは形式だけで、細かい対処法や性格は個々の議論ごとに異なります。夢論証であれば、「夢」というものに対する捉え方が議論の成否に強い影響を及ぼします。



私見では、いずれに論証においても、懐疑主義者は次の二点の要求に答えなければなりません。
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
(ii)懐疑主義者が提案するシナリオは、十分にありそうなものでなければならない。


(i)が必要なのは、こういうことです。もし懐疑主義の言う「知識の不可能」が、ものすごく特殊な意味での「知っている」概念に基づくなら、そもそも問題はそんなに深刻ではありません。「人間は存在しない」と言われればびっくりしますが、「ここで言う人間というのは100メートルを5秒以内で走り、100か国語を話すようなもののことだ」と言われれば別の意味でしかびっくりしません。
こうした意味で、懐疑主義者の提案する
-外側の世界について、何かを知るためには、自分が夢を見ているのではないことを知らなければならない
-外側の世界について、何かを知るためには、自分が培養槽のなかの脳ではないことを知らなければならない

などの主張は、それが「(日常的な意味での)知識に対する一般的条件として妥当なものか」という観点で厳しく精査されなければなりません。一方、「培養槽のなかの脳」や「全能の悪霊」などのシナリオは、しばしば「その可能性はあまりに突飛なので、知識を持つためにそんなおかしな可能性を排除する必要はない」という批判を受けます。要するに、実現している確率がほとんどない選択肢は、あらためて排除する必要もないかもしれません。


夢論証のアドバンテージは、夢を見ているという可能性がありふれたものであることです。われわれは一日のうちの半分近くは寝ているわけですから、「これは夢かもしれない」という選択肢は、全能の悪霊にだまされて変な幻覚を見せられているという可能性よりは、はるかにありそうなものに思えます。



* 『インセプション』と夢論証
ようやく本題に入ります。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているというシナリオが現実に「近い」ことです。一方、『インセプション』は、夢を見ている可能性が、これまでよりもさらに「近く」なった状況を描いています。
ということは、次のように言えないでしょうか。
>>
『インセプション』のような状況でさえ、夢の可能性を否定できるならば、夢論証の前提「夢ではないと知ることはできない」は否定されてよい。
<<

『インセプション』的状況は、夢の確率がふつうより高い状況です。確率がふつうより高い状況でさえ、夢と現実の区別がつくならば、夢の確率がより低いわれわれの日常においては、さらに簡単に夢を見ている可能性を否定できるのではないでしょうか。


『インセプション』には、夢と現実を区別するたくさんの方法が登場します。
-カーペットの材質(映画の冒頭で、サイトウはカーペットの材質が現実とちがうことをきっかけに、「これは夢である」と気がつきます)。
-記憶をたどる(コブがアリアドネに教えたように、夢のなかではしばしば「どうしてここにいるのか」という記憶の連続性が途絶えます)。
-トーテム(夢は現実の物理法則を正確に再現しないので、手触りや重みや動きを正確に覚えている物であれば違いに気がつきやすい)。
-パラドックス(夢のなかでは、エッシャーの階段のような不可能な構造物が実現する)。


これらの内、「記憶をたどる」とかトーテムを利用する方法は現実にも適用できるように思います。
冒頭にかかげたような問い「そのときあなたは夢のなかにいたのではないか？」を向けられたとしても、『インセプション』の登場人物ならば、いろいろな証拠をあげて、「夢のなかにいたのではない」と答えることができるはずです。「トーテムを確認した」だけでも答えとしては十分かもしれません。何より、われわれはごく自然に「サイトウは夢のなかにいることを<em>知った</em>」とか「モルは自分が夢のなかにいるという<em>知識</em>を忘れようとした」と言うことができるでしょう*。
<div class="note">* なお夢論証の前提が「夢と現実は<em>つねに</em>区別できない」であることに注意してください。もし頻繁に区別できるなら、「知識は頻繁に成立する」ということになり、懐疑主義の擁護は失敗します。
同様に『インセプション』のなかでも、区別できない場合があることは、それほど問題にならないと思います。おそらく夢のなかで50年すごした際のサイトウは、夢と現実を区別できない状況にあったでしょうが、「区別できる場合が多い」だけでも夢論証への反論としては十分です。
</div>


つまり、わたしは次のように考えます。
>>
『インセプション』に現われる夢と現実を区別する方法は、デカルトの夢論証に対し、きちんとした反例となっている。
<<
馬鹿げていると思うかもしれませんが、「夢と現実を区別する方法はある」という立場に基づいて夢論証に反論する人はそれなりに存在します。
たとえばJ.L.オースティンは、小説や絵画に対して「夢のよう」などとよく言われるように、「夢らしい質感」というものがあるので、夢と現実はだいぶ印象が異なっており、区別できると主張しています(J.L.オースティン『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326198745/ref=nosim/atakadaorg-22">知覚の言語―センスとセンシビリア</a>』)。


それに対して、「いや、それでも夢の可能性は否定できない。トーテムを確認しても間違えるかもしれない」と反論するならば、夢論証の支持者にとって状況はもっと悪くなるかもしれません。先述した「懐疑主義者への要求」
>>
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
<<
が満たされなくなるからです。つまり、われわれがごく自然にモルやサイトウの「知識」に言及するにもかかわらず、あくまでも「それは知識ではない」「本当は知らない」と主張するなら、懐疑主義者の言う「知識」は日常的な意味での知識ではないと疑われてしかるべきです(あるいはこのとき懐疑主義者は「錯覚論証」という別の論証に移行しています)。


最初に述べたように、ひょっとするとわれわれは、哲学的疑問「これは夢かもしれない」と、『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」を違う種類の疑問だと受け取るかもしれません。しかし、もしもその2つに違いがあるとすれば、その違いは、懐疑主義者にとって、致命的なものになりかねないでしょう。一方もし違いがないとすれば、われわれはまさに『インセプション』の登場人物がしたように、夢と現実の違いを確かめればよいことになります。




]]>
        

* 補足
以下は哲学者向けの英語論文。
philpapersに「夢と懐疑主義」の項目がありました。
-http://philpapers.org/browse/dreams-and-skepticism


Sosa とIchikawa による比較的最近の論文がWeb で読めるようです。
-Ernest Sosa (2005) Dreams and Philosophy
--http://homepage.mac.com/ernestsosa/DREAMSandPHILOSOPHY%20-latest.doc
-Jonathan Ichikawa (2008) Skepticism and the Imagination Model of Dreaming
--http://jonathanichikawa.net/papers/simd.pdf

Sosa が「夢の想像モデル」(われわれは夢のなかで誤った信念を持つことはない。そもそも何の信念も持たない。夢のなかでは単に想像しているだけ)という新しい夢のモデルに基いて、夢論証を否定する議論を行なっており、Ichikawa の論文はそれに対する反論です。
夢に対する捉え方しだいで、夢論証の成否も大きく変わってくるという一例だと思います。





    </content>
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    <title>大きいもの: 反論や補足など</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2010/05/post-303.html" />
    <id>tag:www.at-akada.org,2010:/blog//1.1026</id>

    <published>2010-05-25T16:33:26Z</published>
    <updated>2010-06-01T16:20:12Z</updated>

    <summary>以下、補足や反論に対するコメントなどをここに書いていこうかなーと思いました。 世...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[以下、補足や反論に対するコメントなどをここに書いていこうかなーと思いました。

>>
世界にたった一つしか無いものは「大きい」とも言えるし「小さい」とも言える。絶対的な価値はその意味を失うと思うよ。
<<
http://b.hatena.ne.jp/steam_heart/20100525#bookmark-21779105


id:steam_heart さんから、はてブでこういうコメントを頂きました。


これ、シンプルな反論だけど、ちょっと答えてみたくなったので答えます。

>>
世界にたった一つしか無いものは「大きい」とも言えるし「小さい」とも言える。
<<
これはおそらく「宇宙」という種類のものは1つしかないということですよね。


とりあえずものの種類は置いておいて、ものを1つだけ含む集合について考えてみましょう。
「at_akada 一人だけを含む集合で、at_akada は大きいか、そうではないか？」
「この蟻一匹だけを含む集合で、この蟻は大きいか、そうではないか？」


この質問には答えがありそうにありません。「大きい」という形容詞は、ものを複数含む集合を前にしたときしか使えないようです(ちらっと書いたけど、複数であるという条件と、差が分散しているという条件が必要です)。
よって「宇宙は大きいか」というのが、「宇宙1つだけを含む集合のなかで、宇宙は大きいか」という意味であれば答えはありません。


となると問題は、「宇宙」に対して「大きい」という形容詞を適用する際に、ターゲットとなる集合は同じ種類のものだけからなる集合(この場合だと宇宙は1つしかないので、この宇宙1つだけを含む集合)でなければならないのかという点です。


しかし、「大きい」のターゲットとなる集合は、同じ種類のものからなる集合だけとはかぎりません。
前の記事でも、「大きい」は物の種類と相性がよいと書きましたが、それはデフォルトの解釈で同じ種類の対象の集合が選ばれるというだけであって、もっと違う風に使うこともできます。


たとえば「...と比べれば」という表現を導入すると、新しい文脈を創造できるようになります。
>>
木星はマグロと比べれば大きい。
<<
>>
パンダは食パンと比べれ大きい。
<<
どっちも、正しいように聞こえますし、まったく意味のない文にも見えません。しかし木星とマグロ、パンダと食パンは別に何らかの共通の種に属するというわけではないでしょう。


こういう現象を見ると、「大きい」の適用ターゲットとなる集合にはほとんど制限がないのではないかと思います。実際、「これとこれとこれを含む集合のなかでは、これが大きい」って言えますし。
なので「宇宙はあらゆるもののなかで大きい」という表現は実際に使えるし、真だろうと思ったわけです。
宇宙という種類のものが1つしかないことは、特に障害とはならないでしょう。


* ブログへのコメント
このブログのコメント欄見づらいのでこっちにも載せます。宇宙の大きさは無限という人は結構いるようです。
>>
# minori 『

「包み込みの原理」についてちょっと疑問に思ったのですが、直感的にみてｘがｙより大きいにもかかわらず、ｙがポップコーンみたいに膨張したり、あるいはビローンと伸びたりしてｘを包み込んでしまう、というようなケースに関して、この原理は「ビローンと伸ばすのは禁止」といった条項を含んだものとして理解すべきだということなのでしょうか。
それからまた、部分－全体に関係の論理としてのメレオロジーにおいては、「大きさ」の概念についてはせいぜい「部分は、それを含む全体より大きくはない」ということが言える程度だと思うので、「包み込みの原理」はメレオロジーとはまた独立したものとして考えるべきなのではないかとも思うのですが。
』 (2010/05/26 3:18)
<<
>>
# ま　きや 『

あんまり本筋と関係ない気もするが宇宙のことには突っ込まずにはいられない。

>現在観測されている限界を宇宙の限界とし、その外には何も
>ないとする仮説には、一応は観察に基づいた根拠がある。
この"観察に基づいた根拠"って具体的になにがあるのでしょう。
観測限界はただの観測限界にすぎず、その外がどうなっているかは誰にもわからないのではないでしょうか。

>一方、宇宙に無限の大きさがあるという仮説には、特に何の根
>拠も理由もない。
現在の宇宙物理学的には「宇宙は無限の大きさをもつ」となっている（と思う）。
大雑把にいうと、
まず観測事実として地球から見て大スケールでは宇宙は一様等方である（空のどの方向をみても特別な方向がない）。
->地球がたまたま宇宙の中心にあればこの事を説明できるが、それは不自然。むしろ、宇宙に中心はなく、どの点から見ても一様等方とした方が自然である。
->宇宙には中心がない。端もない。
->宇宙は無限大。
という感じ。
「宇宙は一様等方で、特別な場所を持たない」という考えは宇宙原理と呼ばれていて、現代の標準的な宇宙論はこの仮説に基づいて構築されています。

>宇宙が無限の大きさを持つのであれば、無限の大きさを持
>つものに「大きい」という形容はあてはまらないから、大
>きいものはないのである。
ここがよくわからなかった。
無限の大きさをもつものは、それ自身以外のあらゆるものを包み込めるはずで、「大きい」と形容してもいいのでは、と思いました。

>わたしが知らないだけで、宇宙に無限の広さがあるという
>仮説が広く受け入れられているのであればあやまりたい
というわけで謝って下さい。
』 (2010/05/26 17:19)
<<
>>
# at-akada 『

>minori さん

素敵なコメントをありがとうございます。
ビローンと伸びるケースについては単に考えてませんでした。そういう条項は必要ですね。メレオロジーについては、移動をどう定義すべきか悩んだので、もう少し勉強した方がいいなと思ったのでした。


> まきや
とりあえず謝ります。すいません。

で、ほんとによくわからないのだけど、宇宙って無限なの？

->地球がたまたま宇宙の中心にあればこの事を説明できるが、それは不自然。むしろ、宇宙に中心はなく、どの点から見ても一様等方とした方が自然である。
->宇宙には中心がない。端もない。
->宇宙は無限大。
そうなのか。。


』 (2010/05/26 20:15)
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 # http://www.hatena.ne.jp/kugyo/  『

　こんにちは。楽しく拝読いたしました。3点、思いついたことを書きます。
　1点めに、宇宙の大きさについては、私もそれほど詳しくないのですが、宇宙が観測限界よりも十分大きければ、宇宙のなかの多くの場所にとって、そこからの観測範囲は一様になってていいので、地球もその多くの場所の1つであって何の不思議もないと思います。

宇宙→　(×○○○○×）

　観測限界を1マスとして、こういうモデルを考えると、×以外の全ての場所で、宇宙には端などないように見えるはずで、確率的にいって、地球が×のような特殊な場所にある可能性はとても低かったはずですから。
　乏しい知識から申しますと、宇宙が一様等方であると見なされる理由には、宇宙背景放射の一様性があったと思うのですが、あれも微小なゆらぎがある（方向によって偏りがある）ので、その偏りから宇宙の大きさを推定するのかな、と想像していました。

　2点めに、空間の体積は、長さ同様慣性系のとりかたに相対的ではないか、ということを考えました。しかし、この場合でもやはり、宇宙は最大の大きさを持つといえそうです。これは、どのように慣性系をとっても、同じ空間を占める2つのものが別の長さになることはないためです（ここでの「占める」はとてもラフな言いかたですが）。
　鉄球と、それを実際に（隙間なく）包んでいる風船とを考えます。このとき、どのように慣性系をとって観測しようと、鉄球の直径が風船の直径より長くなることはないはずです（2つの直径は同様に変化するので）。同様に、どのように慣性系をとったとしても、宇宙のなかのものが宇宙より大きくなることはないように思います。

　3点めに、「宇宙の3倍の大きさ」のような抽象概念には大きさがあるかどうか、という論点については、態度を決めかねています。もちろん、問題なのは抽象概念それ自体の大きさではなく、その指示対象の大きさだと思いますが。ここで、時空的関係を持たない2つの宇宙があったとして、これらの大きさの合計を持つもの、というのは、この2つの宇宙をあわせた世界に存在することになるでしょうか。
　「存在する黄金の山」という抽象概念について、そういう概念の指示対象は、存在するという性質を持たない（存在は性質でない）という解決と同様に考えては解決できないかもしれないな、と思っています。

　以上です。
』 (2010/05/27 6:39) 
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# at-akada 『

pubkugyoさん、コメントありがとう

>2点目
それは少しだけ考えました。実際体積が慣性系に相対的だとしても、「より大きい」という関係の順序が変化しないかぎりは問題ないと思います。


>3点目
これはちょっとよくわからなかった。
「問題なのは抽象概念それ自体の大きさではなく、その指示対象の大きさだと思いますが。」
これはその通りだと思います。
しかし「宇宙の三倍の大きさを持つもの」が(たとえば)記述句だとすると、その指示対象は存在しないので、やはり大きさは持たないだろうと思います。言い方を変えると「宇宙の3倍の大きさを持つもの」という思考対象が、【実際に宇宙より大きい】という事態が成立するためには、「その思考対象が存在すること」「その思考対象が宇宙の3倍の大きさという性質を(宇宙と同じ意味で)例化すること」という2つが必要に思われますが、これは無理だろうと思ったわけです。
時空関係を持たない島宇宙については、そのメレオロジカルサムの存在を認めるかどうかに依存すると思います。しかしどちらの結論をとった場合にも、わたしの所論には影響ありません(「2つの島宇宙の内、より大きい方は大きい」と言うか、「2つの島宇宙のメレオロジカルサムは大きい」と言えばよいことだからです)。


』 (2010/05/29 2:48)
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# minori 『

先日のコメントがやや言葉足らずなままだったので、もう一言だけ。とはいえ詳述する余裕がないので、またしてもオレ様コメント風になってしまうのはご容赦ください。
「包み込みの原理」についてですが、「ビローン問題」その他の問題を切り抜けるための最も単純なやり方は、この原理を事物それ自体の大きさに関する原理としてでなく、ある時点に事物が占有している領域に関する原理として読み替える、というものではないかと思います。
しかしこのやり方には二つの問題がありようにも感じられます。一つは、このようなやり方をとる場合には、絶対的に大きなものが存在するという主張はかなりトリヴィアルになってしまうのではないか、ということです。たとえば、空間的な大きさに関する説得的な公理を古典的なメレオロジーに付け加えた拡張体系においては、絶対的に大きなものとしての宇宙（存在する全てのものからなるmereological sum）の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか。（つづく）
』 (2010/05/28 16:52)
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# minori 『

もう一つは、このような考え方からすると、大きさの相対性云々という問題と、価値その他の相対性という問題とのアナロジーは希薄になってしまうのではないか、ということです。先の記事での言い方を借用すると、「相対性が失われる瞬間」というのは、大きさに関してはあまりに早く訪れてしまうのではないでしょうか。というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度（mensura）があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、commensurableかどうか、という問題だろうからです。
』 (2010/05/28 16:54)
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# at-akada 『

コメントありがとうございます。

かなり重要なコメントだと思います。


ええと、まず「包み込みの原理」そのものは「x は y より大きい」ことの、必要条件ではなく十分条件にすぎないことは確認しておきたいと思います。包み込みの原理を満たさず他方が大きいことは、(特に文脈限定的な場面では)十分ありえます。


その上で、一点目。
>絶対的に大きなものとしての宇宙（存在する全てのものからなるmereological sum）の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか
これは無制限構成を認めた場合ですよね？ しかし無制限構成自体が議論の対象であるからこそ、世界の存在が問題になりえるのだし、自明とまでは言えないと思います。
(その意味ではニヒリズムへの反論をちゃんと扱った方がよかったですが、これはこれでひとつのテーマになってしまうのでほぼ省略しました)。


二点目。こちらの方が重要ですが、
>というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度（mensura）があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、 commensurableかどうか、という問題だろうからです。

わたしはまず「大きい」に関しても、尺度は共約可能commensurable ではないと思います。
たとえば、
太郎: 165cm で横幅が広い
次郎: 170cm でやせ型
という二人を比べたとき、

ある状況(日常会話で身長を問題にするときなど)では、「次郎は太郎よりも大きい」が真でしょうが、また別の状況(狭い車のなかに人を詰めこむときなど)、では「太郎は次郎よりも大きい」が真となるでしょう。

この意味で、「大きさ」の順序関係も文脈に依存的であると考えます。しかし、その順序関係はいかなる文脈においても包み込みの原理を満たすような構造をとると思います。

つまりわたしは、
-大きさの順序は文脈相対的であるが、
-包み込み原理からの帰結(「木星は地球より大きい」など)は、両者をドメインに含むようないかなる文脈でも真である。
と主張してます。

同様に、価値に関して、それが文脈依存的であるとしても、すべての文脈に関して満たされるような順序構造があるということは決して不可能ではないでしょう。
わたしがこの問題を通して考えたかったことの1つは、相対性の問題を尺度の共約可能性の問題からずらすことだと思います。たとえば、いかなる文脈でも真となるような順序構造を発見すれば、そこから再び相対性に対する反論を擁護できるでしょう。このことが明らかになるだけでも、意味はあると思います。
』 (2010/05/29 3:11)
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>>

# minori 『

リプライに感謝します。
第一点についてですが、問題は、「宇宙は存在する」という定言的な主張の自明さではなく、「もし宇宙が存在するならば、それは絶対的に大きい」という仮言的な主張の自明さにあるのではないでしょうか。
第二点目については、大きさについて語られる文脈と、価値について述べられる文脈と、その二種類の文脈について果たして同一の仕方、あるいは類比的な仕方でうまく取り扱えるものかどうか、僕にはまだちょっとよく分かりません。
あまり中身のないコメントですが、以上は補足ということで。
』 (2010/06/ 1 21:53)
<<


* 修正点など
修正が必要な箇所をメモしておく。


「包み込みの原理」は修正が必要。まず「ビローンと伸びるもの」を防ぐ条項が必要。
あと指摘されて気づいたが、木星と地球などは文字通りに部分を共有するわけではないので、メレオロジーはそのままの形では使えない。
(「x を y の位置していた空間に移動させるという操作を考えたときに、他方が占めていた空間の部分を包み込んであまりあるならば、x は y よりも大きい」とかそういう方向で考えなければならない)。


あと宇宙が無限に広いという説はそれなりに信じられているようなので、その点ももっと考慮する必要がある。



* 補足
2010年6月2日(水)の追記。
わたしがはじめに混乱していたために、他の人たちにも多くの誤解を生んだようである。
議論している内に、いくらか頭がクリアになったので、そのことをメモしておく。「大きい」の文脈依存性ということで、以下の3つが考慮されるべきであった(わたしも当初この3つを混同していた)。


-比較クラスの相対性(何を比較クラスにとるかで、「大きい」ものが変動する)
-関心の相対性(関心の持ち方によって、比較クラスのなかの「大きさ」の順序が変動する)
-曖昧性(中間領域に関して、どこから上が「大きく」、どこから下が「大きくない」のかが決定しがたい)


これら3つの問題は、関連するけれども別の問題である。
そしてわたしの主張は、「すべてのもののなかで(比較クラスを越えて)、あらゆる関心に即して(関心の相対性を越えて)、曖昧でなく、大きいものがある」という風に定式化されるべきであった*。
<div class="note">* 「関心」はまだクリアになりきっていない表現であるが、「大きさの比較方法を変化させるような文脈的条件」というくらいのつもりで使っている。</div>



たとえば、他の文脈依存性(可能性とか)については、わたしは特に何も言っていない。文脈依存性という便利な言葉にたよったことでこの辺がぼやけてしまったきらいがある。
ただし、この3つの条件は段階的形容詞一般について重要なものであると思う。そのことがわかっただけでも、自分としては重要な収穫であった。



* twitterでもらったコメントなど
一部ブログのコメントと交差してます。
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    </content>
</entry>

<entry>
    <title>曖昧性について考えたことなど</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2010/05/post-302.html" />
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    <published>2010-05-25T15:52:46Z</published>
    <updated>2010-05-25T15:59:21Z</updated>

    <summary> 昨日の記事を書いていてちょっと思いついたこと。 [1]Kennedy, Chr...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[
昨日の記事を書いていてちょっと思いついたこと。


-[1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar"
http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html


この文献で、著者は不正確性と曖昧性を区別している。

あまり定義ははっきり述べていないが、「不正確だが曖昧でない」語もあるということ。
例としてあげられているのは(絶対的段階的形容詞と呼ばれているのだが)、dry, transparent, bent, straightなど。


これらは比較の形でも使えるが、肯定形でふつうに使うときは曖昧でない。
>>
1. この棒はbentだ
<<
>>
2. この棒はstraightだ
<<

一番素朴な読みを採用すると、棒がちょっとでも曲ってたら1は真になるし、2は偽になる。
あるいは、
>>
Aの棒はBの棒よりもstraightだ。だからBの棒はstraightじゃない。
<<
こういう推論もそこまでは変じゃない。一方「広い」とか「長い」で同じことをやると変。
(「この棒はあの棒よりも長い。だからあの棒は長くない」って変でしょう)。



しかし日常的にbent, straightを使うときは、もっとズレを許容するような使い方をしている。
つまり「曖昧じゃないけど不正確だよね」ということらしい。




次。分析哲学、特に形而上学方面で人気のある曖昧性についての説明に「超付値による解決」というのがある。
デイヴィド・ルイスが「たくさんだけど、ほとんど一つ」という論文で採用して以降？(歴史はよく知らない)、頻繁に見かける。
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199482/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41D1SWPP2QL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)" title="現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)" /></a><br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199482/ref=nosim/atakadaorg-22">現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)</a>


ざっくり説明すると、基本的な考え方は、「曖昧な文というのは、語の外延指示が複数考えられ、その内のどの解釈をとるかが曖昧である。言語が曖昧なだけであって、決して世界そのものが曖昧なわけじゃない」というもの。


たとえば「富士山」は境界が曖昧なわけだが、富士山そのものが「曖昧な実体」というわけではない。曖昧な実体などというものはこの世界にはない。そうじゃなくて、「富士山」という語の指示対象が、ある解釈では「この範囲からこの範囲」、また別の解釈では「あの範囲からあの範囲」という風になって、一体どの指示対象について語っているのかが曖昧である。
述語に関しても同様。「山である」という述語は、ある場合には、これこれの対象を含めるし、ある場合にはこれこれの対象を含めるという風に述語に対する外延の割り当てが複数あって、どの解釈を使っているのかが曖昧である。


で、何を思ったかというと、この解決方法って、要するに「曖昧性は不正確性だ」という説明なのかもしれないと思ったのである。
本来は曖昧でない語を、われわれは多少のズレを許容する形で使っているという意味で。




一方、超付値による解決は、段階的形容詞に適用すると、ちょっと変なことになる。
「この棒は長い」の曖昧さという現象に対し、この解決をそのまま採用すると、「長い」という語が、ある場合には「3m以上」を意味し、ある場合には「4m以上」を意味する、そしてどの意味で使っているのかがよくわからないから曖昧なのであるという風になる。でもこれは少し変だ。
「富士山」や「山である」を正確化することはできるし、日常会話で実際にそういうことをすることもある。しかし「長い」を正確化することはまずない。「長い」について、曖昧でない複数の解釈があって、その内のどれを採用するかが不明であるから曖昧なのだという説明には、だいぶ違和感がある。


段階的形容詞以外の名前や述語の場合、曖昧性はキャンセル可能である。しかし段階的形容詞の曖昧性はキャンセルできず、語自体の意味に組み込まれているように思う。


-富士山、というのは、ここでは、ここからここまでの範囲を指すのだが...
-山、というのは、ここでは、これこれの対象を指すのだが...
-長い、というのは、ここでは、2.34m以上のことを指すのだが...
最初の2つは自然だが、最後の1つは結構変だ。
最初の2つは「富士山」や「山」について、少し説明を付け加えているだけのように聞こえるが、最後の1つは「長い」にかわって新しい単語をつくってしまっているように聞こえる。


というわけで段階的形容詞の曖昧性は、他の場合よりも厄介だなあと思ったのだった。
結論や新しいアイデアは特に無いが、このように考えたのでメモしておく。

<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0415139805/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41NhxQnibxL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="Vagueness (Problems of Philosophy (Routledge (Firm)).)" title="Vagueness (Problems of Philosophy (Routledge (Firm)).)" /></a>
<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0415139805/ref=nosim/atakadaorg-22">Vagueness (Problems of Philosophy (Routledge (Firm)).)</a>
以前読んだウィリアムソンの曖昧性についてのサーベイが啓発的だったので、これも読もうと思っていたのである。


あとスタンフォード哲学事典の「曖昧性」の項目も。
-http://plato.stanford.edu/entries/vagueness/]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>絶対的に大きなものはあるか</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.at-akada.org/blog/2010/05/post-301.html" />
    <id>tag:www.at-akada.org,2010:/blog//1.1024</id>

    <published>2010-05-24T15:25:31Z</published>
    <updated>2010-05-24T23:38:04Z</updated>

    <summary> 先日「抽象的な話をする会(抽象会)」というものを開きました(3回目です)。抽象...</summary>
    <author>
        <name>at-akada</name>
        
    </author>
    
    <category term="哲学" label="哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[
先日「抽象的な話をする会(抽象会)」というものを開きました(3回目です)。抽象的なテーマについて議論し、最終的には多数決で結論を出すという趣旨の会です。
そのときのテーマのひとつに「絶対的に大きなものはあるか」という問題をあげました。これについては、わりと議論も用意していたのですが、当日あまり説明しきれませんでした。説明しきれなかった悔いと、考えていたことのログを残したいという思いと、まとめておけば誰かコメントをくれるかもしれないという思いをこめ、まとまった記事として残すことにしました。
なお、抽象会のログは以下で見ることができます。
http://youkoseki.com/diary/2010/05/05#p5


(書いてたら、やたらと時間がかかった上に長くなってしまいました。かくも細かく、切迫性もほとんど無いテーマに興味をもつ人がどれだけいるのかわかりませんが、公開はしておこうと思います。「既存の学に基かぬ論」((c)@pubkugyo) になってしまっているかと思いますが、ご意見あればおよせください)。




* 関心
以前よりわたしが抱いている基本的な関心のひとつに「相対性」という主題がある。わたしにとって、真理に関する相対主義、存在に関する相対主義、概念に関する相対主義、価値に関する相対主義などのテーマは、常に気になるものである。共感よりも、相対主義への懐疑の方が強いのだが、それでもなお、相対主義は様々な問題に際し、重要なオプションのひとつでありつづけている。


もう少し言うと、わたしは相対性が失われる瞬間というものに興味を抱いている。
そして「大きい」という概念については相対性はどこかの段階で消えているのではないかと考えている。価値のような概念に比べると、大きさは比較の意味が明確で扱いやすい概念である。これを媒介とすることで、相対性について、より十全に把握することができるだろう。
また「大きい」のような比較の形を持った形容詞は、段階的形容詞gradable adjectiveと呼ばれる。段階的形容詞には相対性、曖昧性などいくつかの重要な特徴がある。この問題に対するわたしの関心の軸のひとつは「相対性」であるが、もうひとつの関心の軸は、段階的形容詞に対する適切な形而上学的扱いである。「大きい」についての形而上学的説明を手に入れることでわれわれは、やはり段階的形容詞であるように思われる「良い」や「美しい」に対する対処法をも学ぶことができるかもしれない。



* 絶対的 / 相対的
相対的に、ということで、ここでは主として「文脈に相対的に」ということを考える。相対的な概念というのは、ある文脈のなかでという限定を付けた場合にのみ意味をもつ概念のことである。
たとえば「相対的な価値」というのは、ある時代・ある文化のなかでのみ成り立つ価値のことである。たとえばある時代の文化に相対的な価値、「19世紀ヨーロッパのなかでの価値」「16世紀の日本のなかでの価値」というものがあるだろう。19世紀ヨーロッパに価値あるものが、16世紀の日本でも価値があるとはかぎらない。あるいは、関心に相対的な価値というのもあるだろう。「病気を治すことにとって価値がある」とか「資金を増やすことにとって価値がある」というのがそれである。この場合も、特定の関心に応じて、異なる種類のものが選ばれ、異なる価値付けを受けるだろう。
異なる文脈が異なる対象の集まりを選び出し、異なる評価の基準が適用される。相対的な概念とは、複数の集まりに分割された概念のことであり、相対的な概念の適用に際しては、必ず、対象の集まりを特定するパラメーターが補完される必要がある。


価値というものが、もし仮に<em>本質的に</em>相対的なものであれば、「価値がある」というのは文脈による限定を付けないかぎり意味がない言明である(ここでは説明上そう仮定しているだけであって、本当に価値がそういうものであるかどうかは問わない)。このとき、どのような価値のあるものも、あるグループのなかで・そのグループ特有の基準によって価値を持つのであり、ただ端的に「価値がある」ものは存在しないことになる。


相対的でない概念はあるか。たとえば形は(よほど特殊な立場に立たないかぎり)相対的ではない*。あるものが丸いとか四角いとか言うとき、あるグループのなかでのみ成り立つ丸さや四角さなどというものはない。ものは端的に丸いし、端的に四角い。「現代では丸い」とか「彼らにとって四角い」と限定つきで言うことはできるが、その限定に何かの意味があるようには思えない。この意味で、形はおそらく絶対的である。
<div class="note">* 「形は時点に相対的である」という立場はありえるだろうが、ここでは説明のために例をあげたいだけなので置いておく。もしどうしても気になる場合は「時点tに四角い」というすでにパラメーターを補完された性質を考えてほしい。形が時点に相対的だとしても、すでに時点を補完された性質はおそらくもう相対的ではないだろう。</div>


ふつうわれわれが「大きい」という言葉を使うとき、その「大きいこと」は相対的である。たとえば「このネズミは大きい」という。しかし「大きいネズミ」は「小さな象」よりもおそらく小さい。同様に「大きい分子構造」はおそらく「大きい惑星」より小さいだろう。「大きいネズミ」が大きいことや「大きい分子構造」が大きいことは、ネズミや分子構造という種や、われわれの関心に応じてのみ意味を持つ。
あるいは、「うちの家族はみんな大きい」という言明について考えてみよう*。この言明は、「うちの家族のメンバーは全員ある一定水準以上の大きさを持っている」という意味<em>ではない</em>。たとえば「妹は小学生としては大きい、父は成人男子としては大きい...」という場合にもこの表現を使うことはできる。このケースでは、妹はひょっとすると身長140cm程度であり、他の家族のメンバーと同じ基準で大きいわけではないかもしれない。「うちの家族はみんな」とひとしなみに言っているのにもかかわらず、家族のメンバーそれぞれが属するグループに相対的な大きさの基準が適用される。「大きい」という概念は、少なくともこの程度には強い相対性への選好を持っている。
<div class="note">* この例は[1]の文献から取った。</div>


では、相対的でなく、無限定に、端的に大きいものはあるだろうか。わたしは「ある」と考えている。
注意しておきたいが、「絶対的」という言葉には、「他との比較によって成立するわけではない」という意味もある。しかしこの用法はここでは使わない。どう考えても大きさは比較から離れることのできない概念である。どんな種類の「大きい」でも、他のものの大きさとの比較によってはじめて意味のある概念となる。この意味では、「大きい」は相対的な概念である。しかし、考えたいのはそういうことではない。


考えたいのは、いかなる種類のグループとも関係なく、端的に大きいものはあるかということである。
単純に考えて、「あらゆるもの」というグループのなかで大きいものがあれば、それは絶対的に大きいと言えるだろう。たとえば、クジラは地球の動物のなかで大きい。しかし、絶対的に大きなものは、あらゆるもののなかで大きい。「あらゆるもののなかで」という限定は、もはや限定として意味をなさないだろうから、絶対的に大きなものは、単純に大きいのである。絶対的に大きなもの以外のどんな大きなものも、本当はいずれかのグループのなかでだけ大きい。しかし、絶対的に大きなものは、端的に大きいことになる。


別の言い方をすれば、「大きいこと」という性質は関係的性質である。大きいことは、他のものとの関係なしにはありえない。しかしそれは二次性質(主観的な性質)ではなく、この世界の構造だけによって定まる性質である。「何が大きいか」は、比較のターゲットとなる対象のグループと、そのグループに属する対象のサイズの分布のみによって決まる。そしてわれわれの住むこの世界は偶然にも、普遍的なドメインのなかに「大きいもの」が存在するような世界であると考える。
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><a href="http://www.at-akada.org/blog/2010/05/25/images/relative.png"><img alt="relative.png" src="http://www.at-akada.org/blog/assets_c/2010/05/relative-thumb-500x311.png" width="500" height="311" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;"/></a></span>
<br clear="both"/>
相対的な比較概念
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><a href="http://www.at-akada.org/blog/2010/05/25/images/absolute.png"><img alt="absolute.png" src="http://www.at-akada.org/blog/assets_c/2010/05/absolute-thumb-200x231.png" width="200" height="231" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;"/></a></span>
<br clear="both"/>
絶対的な比較概念



* 大きさの比較
二者を比較して、「こちらの方があちらよりも大きい」ということが、「大きい」のための基礎を与えている。わたしがこの記事で考えたい「大きい」は比較形の「...よりも大きいbigger」ではなく単純な形「大きいis big」であるが、単純な形について考えるためには、まず比較形について考える必要がある。
「大きい」という言葉は、他の大多数のものよりも際立って大きいものについて使われる。たとえば、他の大多数のネズミよりも際立って大きいネズミが「大きいネズミ」である。相対的な大きさの場合は、あるグループのなかの大多数のものよりも際立って大きなものであれば、そのグループのなかで大きい。絶対的な大きさの場合も、あらゆるもののなかの大多数のものよりも際立って大きければ「大きい」と言えるだろう。「大多数のものよりも際立って大きい」という言明は、二者の比較を繰返すことで真となる。従って、二者の比較が、「大きい」について考えるためにも必要となる。


二者の大きさの比較はどう行なうのかについても考察の余地はある。
一番単純なのは体積を比較することである。この場合は、半径3メートルの風船と、半径3メートルの中心までつまった鉄の球では、鉄の球の方が大きいことになるかもしれない。風船の中空部分を除いて大きさを体積を測るなら、風船の大きさは見かけよりずっと小さくなる。しかし、こうした大きさ比較の方法は、多少直観に反するところがある。
実際には、異なる種によって異なる大きさ比較の方法が適用されるように思われる。たとえば人間であれば、身長が重要な要因の1つとなるだろう。同じくらいの体格であれば、他方の横幅が多少広くても、身長が高い方を大きいと見なすかもしれない。一方惑星や分子構造のようなものであれば、まったく異なる基準が用いられることになるだろう。大きさについては、二者の比較の基準も、ある程度は関心と種に相対的に決まるのである。


しかしどのような大きさ比較の方法を取ったとしても、次のことは言えるだろう。


:包み込みの原理: 有限の大きさをもつ2つの対象について、重ね合わせたとき、一方が他方を完全に包み込んであまりあるならば、包み込む側の方が大きい。*


<div class="note">* この辺はメレオロジーをもう少し勉強してから、再度きちんと定式化できるようにしたい。一応なるべく正確に書いておくと、以下のようになる。

[ 任意の x と y について、ある移動の仕方 m が存在し、m のもとでは、任意の p が x の部分ならば、p は y の部分であり、かつ、ある q が存在し、q は y の部分であるが、x の部分ではない」 => y は x より大きい

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><a href="http://www.at-akada.org/blog/2010/05/25/images/cap.png"><img alt="cap.png" src="http://www.at-akada.org/blog/assets_c/2010/05/cap-thumb-500x15.png" width="500" height="15" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;"/></a></span><br clear="both" />
「P(x, y)」 は, 「x は y の部分である」, 
「x < y」 は「y は x より大きい」と読む.
</div>


たとえば木星と地球ならば、木星が完全に地球を包み込むため、木星の方が大きい。成長しきった象と成長しきった人間ならば、象が人間を包み込むため、象の方が大きい。いかなる大きさ理論も、このことを認めなければならない。
ひょっとすると無限の大きさを持つようなものについては、これは成立しないかもしれない*。しかし、有限の大きさを持つどんなものについても成立するだろう。この意味で大きさは決着を付けやすい概念である。大きさの比較が難しい2つのものはあるが、他方が他方を包み込む場合には、大きさの勝敗は明確に決まる。
この原理について、直観的にはもっともらしく思えるという以外の議論は特に無い。しかし今のところわたしには、この原理の反例は思いつかない。
<div class="note">* たとえば2つの無限集合については、一方が他方の真部分集合であっても、濃度が等しいという場合がある。無限の大きさを持つ2つのものについても同様のことが起こりえるかもしれない。</div>


なお、このような原理が普遍的に成立することは、大きさ概念の興味深いところであると思う。多くの場合について、種に相対的な比較の方法が適用されるにもかかわらず、普遍的に一方が他方を負かす方法があるのだから。大きさについては、種や関心に横断的な比較の方法は、つねにある程度担保されているのである。




* 極大に大きいものは大きい
それよりも大きいものがないようなものは大きい。以下では、「それよりも大きいものがない」状態のものを「極大に大きい」と呼ぶことにする*。「a < b < ... < n」という大きさの序列があったとき、n のように、極大に大きいものについては、「n は大きい」と言われてしかるべきである。以下ではそのことを論じよう。
<div class="note">* 「極大に大きい」は「最大」とは違う。極大に大きいものが複数存在することを許すからである。</div>


|名前|身長|
|A|180cm|
|B|165cm|
|C|170cm|


上はA, B, C の身長を示す表である。この身長の分布を与えられたとき、以下のような言明は不可能であると思われる。もしもそのように言う人がいれば、わたしにはその人の言うことが理解できない。
>>
A, B, C の3人について言えば、A は大きくない。
<<


むしろ3人のなかでは、A は明らかに大きい。そのことはこの身長の分布から明らかであると思う。
もし「A が大きくない」と言えるとすれば、それは次のような場合である。
「D は身長190cmであり、E は身長195cmである。D やE を考え合わせれば、A は大きくない」
しかしこの場合、反対者は「A, B, C の3人について」言っているのではない。「A, B, C, D, E の5人について」言っている。少なくとも最初にあげた3人について言えば、A は大きい。


ただしこれは180cmという数字が比較的身長が大きい部類に属するために、そう言えるのではないかという反論もありえるだろう。同じことが130cmや140cmの場合にも言えるだろうか？ 言えるのではないかと思う。もし130cmの人間を「大きい」と言うことにためらいがあるとすれば、「D, E」を含めた場合のように、他の多くの人間を比較対象に含めてしまっているからである。


「うちの家族はみんな」の事例にも見られたように、「大きい」は対象が属する種と結びつきやすい語である。われわれは、「大きい」について考える際、なかなか対象の種類によるバイアスから離れることができない。従って、バイアスから離れられるようにするために、世界に3体しかいない種類の対象について考えてみよう。以下世界には、A竜とB竜とC竜の3体の竜しかいないものと仮定する。


|名前|体長|
|A竜|47m|
|B竜|35m|
|C竜|41m|


この場合にも、明らかにA竜は大きい。われわれが竜についてこれ以上の細部を知らなかったとしても、A竜が大きいことを否定するのは難しいだろう。
竜よりもはるかに小さいもの、たとえば虫を考えた場合にも、以下の A虫 は大きいだろう。


|名前|体長|
|A虫|168mm|
|B虫|155mm|
|C虫|145mm|


以上のような事例は、比較対象のクラスを固定したとき、「そのなかに大きいものはない」と言うことは奇妙であるということを示している。
わたしは、大きいことについての原理として、以下を認めたいと思っている。


:大きいものの存在原理: 複数の対象を含む、大きさに関して十分に分散している任意の集まりについて、必ず大きいものと大きくないものが存在する。
:より大きいものの原理: x が大きく、かつ、y は x よりも大きいならば、y は大きい。


後者はほとんど自明だろう。ある文脈において x が大きいとされ、同じ文脈で x より大きい y について問われたならば、当然 y は大きい。前者は比較対象のクラスを固定したときに、必ず大きいものが1つ以上あることを示している。
両者を合わせれば、(複数の対象を含み、かつ十分に差のある)比較対象のクラスを固定したとき、極大に大きいものは必ず大きいことになる。
ただし、分布が十分に分散していることは必要な条件である。


|名前|身長|
|D|145.1cm|
|E|145.2cm|
|F|145.1cm|


上のような場合については、必ずしも大きなものは存在しない。こういう分布を見ると、「D, E, F について言えば、みんな大きくはない」とか「みんな大きい」と言いたくなる(「みんな大きい」というか「みんな大きくない」と言うかは標準との関係によって決まるように思う)。つまり大きさについては、大きいものの存在原理に加え、以下の原理が存在する。


:曖昧性の原理: 複数の対象を含む、大きさに関して十分に分散していない任意の集まりについて、集まりに含まれる対象はすべて大きいか、またはすべて大きくない。



しかし先の表のようなあきらかに差があるケースで、「大きいものはない」と言うことは難しいだろう。後者のような事例は、「大きい」のような段階的形容詞の曖昧性に由来する現象であると考える。われわれは、「大きい」ものと「大きくない」ものとの間に、明確な境界が引かれることを避ける傾向がある。ほとんど大きさに差がない事例で、他方が「大きい」と言ってしまうと、「大きい」ものと「大きくない」ものとの境界線を決めなければならなくなる。しかしわれわれの多くはそうしたコミットメントを避けるのである。
このことをもって、「大きい」は主観的であると言う論者もあるかもしれない。しかし曖昧性は主観性とは区別される概念である。われわれは、たとえば「A竜は大きい」というときに、個々人の感じ方に左右されているわけではない*。
<div class="note">* より正確に言えば、中くらいの領域での境界設定に主観性がかかわることがあるとしても、極大なもののケースでは、主観性は問題にはならないだろうと考えている。</div>


十分に差のあるクラスについては、以下のように言えるのではないかと思う。「大きい」に関する曖昧性が生じるのは中くらいの領域のどれを大きいとするかに関してのみである。一方極大の極に関しては、曖昧性なく、大きいことが定まる。
「大きい」のような事例については、文脈の役割は、比較の対象となる集まりを固定することと、中くらいの領域に関する境界設定だけであると考える。それ以外の条件、たとえば「極大に大きいものは必ず大きい」ということについては、サイズの分散だけが関係する事実である。



* 宇宙より大きいものはない
宇宙は、他のあらゆるものを包み込んであまりある。従って宇宙より大きなものはない。
ここで、「宇宙」というのは、存在するもののすべてと、それを包み込む空間領域のことである*。
<div class="note">* なお「未来の宇宙」も存在するという立場の者は、以下「宇宙」という言葉を、「最大限膨張しきった時点での宇宙」という意味で捉えてほしい。</div>


もし(1)宇宙というものが存在し、(2)宇宙が、現在多くの人が想定するように、有限の大きさを持ったものであれば、(3)宇宙より大きなものは無い。宇宙をすべてのものとそれを包み込む空間領域のことであると定義したため、包み込みの原理によれば、宇宙より大きなものはない。
(1)と(2)に関する反対を含め、種々の反論については以下で論じよう。ひとまずは(1)(2)を前提すると、(3)が導かれることを確認しておきたい。


ここまでの論旨をまとめておく。
-(a)「x は絶対的に大きい」というのは、x はすべてのもののなかで大きいということである。
-(b) x が極大に大きいならば、x は大きい。
-(c) 宇宙はすべてのもののなかで、極大に大きい。
-(d) b, c より宇宙はすべてのもののなかで大きい。
-(e) a, d より宇宙は絶対的に大きい。
宇宙が大きさの序列の上限であれば、宇宙は絶対的に大きいだろう。そして実際に宇宙はそれ以上大きなものがないくらいに大きい。よって、絶対的に大きなものはある。これがわたしの主張の要点である。


基本的な論旨は以上でつきているが、以下では想定される反論に答えていく。



* 反論: 宇宙と同じ大きさのものがある
以下のような反論も考えられる(この反論については、@pubkugyoに感謝する)。
>>
心は大きさを持たない。そしてこの宇宙からすべての心を取り除いたものは、重要な要素が失われているのだから、もはやこの宇宙とは別の対象である。しかしこの宇宙と同じ大きさを持つ。ゆえに宇宙は(唯一の)一番大きなものではない。
<<


しかしこのことには問題がない。それ以上に大きなネズミがないくらい大きいネズミが二匹以上いたとしても、それらはすべて「大きいネズミ」である。同様に、宇宙も宇宙と同じ大きさのものも、すべて端的な「大きいもの」になるだろう。
わたしの主張は「最大の大きなものがある」ではなく、「端的に大きいものがある」である。従って、それ以上ないくらい大きな対象がいくつあっても、反論にはならない。




* 反論: 宇宙よりも大きなものを考えることができる
宇宙よりも大きなものについて考えることができる。たとえば、宇宙の3倍の広さの空間について考えることができるし、そうした空間が存在することは可能であっただろう。よって宇宙の大きさは、最大の大きさではないし、宇宙は絶対的に大きいわけではないと主張する論者もいるかもしれない。
しかしこの反論は的を外している。「宇宙は大きい」というのは、あくまでもこの現実世界についての言明であり、この宇宙が必然的に大きいことを言っているわけではない。「太郎は高校生としては大きい」という言明に対し、2メートルや3メートルの高校生が思考可能であることを持ち出しても反論にはならないだろう。従って、単なる思考可能性は宇宙の大きさに対する反論にはならない。


だが、この方向を押し進めることでさらに洗練された反論を考えることもできる。
反論者は次のように言うかもしれない。
>>
われわれは、宇宙の3倍の体積や10倍の体積について、この現実の世界で思考することができる。その大きさを分割したり計算したり足し合わせたり、操作することができる。よって宇宙の3倍の体積や10倍の体積は、この現実世界に存在するのである。そして、われわれが思考・操作できる大きさには上限がないから、大きいものの上限はこの世界には存在しないのである。
<<
これは、単なる思考可能性に訴える反論ではなく、宇宙を上回る大きさがこの世界に存在するという反論である。しかしこれに対しては、「そんなものはない」と答えておこう(より正確にはわたしの再反論は「あるかもしれないが、大きさは持たない」である)。
確かに、宇宙以上の体積について思考・操作することはできるかもしれない。しかしそうした思考の対象はあくまでも抽象概念であって、実際の大きさを持つものではないだろう。われわれは抽象概念に大きさを帰属しているのであって、抽象概念が実際に大きさを持っているわけではない。宇宙の10倍の体積に、抽象的でない対象を収容することはできない。それが宇宙の10倍の大きさを持つというのは、あくまでも抽象的な想定である。もし、そのようなものがある意味で存在しているとしても、抽象概念である以上は、その実際の大きさは0であると考えるべきだろう。
一方、抽象概念が、現実に存在する具体的な対象とまったく同じ意味で大きさを持つという主張にはあまり説得力がない。反論者は、抽象概念が実際に大きいと考える根拠を提示すべきである。



* 反論: 宇宙より大きいものを想定できる文脈がある
前節の反論に似ているが、以下のように主張される場合もあるかもしれない。
>>
たとえば、以下のような文脈を考えよう。「バベルの図書館をおさめるには、宇宙さえも小さすぎる」。このような言明はまったく正当なものであるのだから、宇宙が大きくないということは、ある文脈では正しい。よって宇宙があらゆる文脈で絶対的に大きいなどということは無いのである。
<<
いくつかの文脈のもとでは、確かに宇宙が大きくないと言うこともありえるだろう。
しかし、そのような事例は、「反事実的な想定の文脈」であることに注意すべきである。反事実的条件を用いて正確に述べなおすならば、問題となっている事例は「もし仮にバベルの図書館が存在するならば、宇宙は大きくない」というものであろう。
しかし、もし反事実的条件法を用いた言明
>>
もし仮にP ならば、Q ではない.
<<
が真であったとしても、
>>
Q ではない.
<<
が真であるとはかぎらない。
>>
もし仮にわたしがアメリカに住んでいれば、お茶を飲む習慣は無いだろう.
<<
が真であったとしても、
>>
わたしにはお茶を飲む習慣は無い.
<<
は真でない。
反事実的条件法を用いた文脈では、後件は必ずしも現実に関する言明ではないのだから、これは反例にならないのである。



* 反論: 宇宙より大きなものがある
思考可能性としてではなく、実際に宇宙よりも大きなものがあるという反論も考えられるだろう。
たとえばこの世界は、多くの宇宙から成るかもしれない*。世界が実際には、複数の宇宙によって構成されているならば、それらすべての宇宙を足し合わせたものは、宇宙より大きい。しかし、宇宙よりも大きな(有限の大きさをもつ)ものがあるという反論に対しては、「いずれにしても、絶対的に大きなものがある」と答えたいと思う。
<div class="note">* たとえば人間原理からの多宇宙論はそう主張している。
<a href="[]http://ja.wikipedia.org/wiki/[]人間原理">[]http://ja.wikipedia.org/wiki/[]人間原理
</a></div>
もしこの世界が複数の宇宙から成るとしても、複数の宇宙から成る全体が「すべてを包み込む絶対的に大きなもの」と見なされるだけであり、わたしの所論には影響しない。ただし、これらの内、宇宙の外側にさらに無限の広さがあるという反論に対しては、後で答えることにする。



* 反論: 宇宙には無限の大きさがある
反論者は次のように言うかもしれない。
>>
宇宙が有限の大きさを持つという主張には確固たる保証はない。実際には宇宙はわれわれの観測範囲を越えて無限に広がっているかもしれない。宇宙が無限の大きさを持つのであれば、無限の大きさを持つものに「大きい」という形容はあてはまらないから、大きいものはないのである。
<<

宇宙に無限の大きさがある可能性は否定できない。現在の物理学が解き明かしておらず、われわれが知らないだけであって、宇宙には無限の大きさがあるのかもしれない。
しかし宇宙に無限の大きさがある「可能性がある」だけでは反論にならない。反論になるのは、宇宙に無限の大きさがあるという仮説が、(わたしが依拠している)宇宙には有限の大きさしかないという仮説よりも確からしい場合である。


現在観測されている限界を宇宙の限界とし、その外には何もないとする仮説には、一応は観察に基づいた根拠がある。一方、宇宙に無限の大きさがあるという仮説には、特に何の根拠も理由もない。人間原理からくる多宇宙説のようなものも一応あるが、それはやはり有限の広さの有限の多宇宙の存在を主張するだけであって、知るかぎりでは、宇宙に無限の広さがあるという説は特にない*。もちろん、可能性は否定できない。しかし可能性にわずらわされる必要もないだろう。わたしは、宇宙は有限の大きさを持つという仮説が必然的に正しいと主張しているわけではない。そちらの方がもっともらしいために、そちらを信じようと言っているだけである。
<div class="note">* わたしが知らないだけで、宇宙に無限の広さがあるという仮説が広く受け入れられているのであればあやまりたい</div>



また、宇宙に無限の広さがあった場合、本当に大きいものが存在しないことになるかどうかも疑わしい。たとえば自然数には上限がない。しかし10の1000乗は大きい数であるし、10の10000乗はいっそう大きい数である。上限がないとしても、ある程度大きい数はすべて「大きい数」と判断すべきかもしれない。同様に、宇宙の大きさには上限がない場合にも、ある程度よりも大きな領域はすべて「大きい」と見なしてよいかもしれない。
ただし恣意的でない境界の設定は難しいだろうし、多少直観から外れる部分があることも認めよう。しかし、大きさの上限がないからと言って、大きいものが存在しなくなるともかぎらないのである。



* 反論: 宇宙に大きさはない
反論者は言うかもしれない。
>>
宇宙は惑星や分子構造や人や素粒子のような本当の意味での対象ではない。もし「存在するもののすべて」というものがあるとしても、それが大きさを持つことは依然疑わしい。
<<

しかし、われわれは通常宇宙の一部が大きさを持つことを認めている。太陽系同士の大きさを比較することはできるだろうし、島宇宙の大きさを測定したり、比較することもできるだろう。宇宙自体の大きさを推測したり、宇宙とその一部を比較することも当然してよいように思われる。もちろんわれわれが通常大きさを持つと見なしているからと言って、実際に大きさを持つことが結論されるわけでもない。しかし「われわれが通常そう見なしている」ことはひとつの判断基準である。
もちろん宇宙それ自体と宇宙の一部は違う。宇宙にはその外には何もないという明確な特徴がある。従って百歩譲って、宇宙自体が大きさを持たないとしても、宇宙の一部が大きさを持つことには依然問題がない。よって宇宙自体が大きさを持たないとしても、やはり、それ以上ないくらいに大きな宇宙の一部が存在するという説は否定されたわけではないし、わたしの所論にとってはそれで十分である。
しかし、反論者は、宇宙それ自体に大きさがないだけではなく、宇宙の部分には最大のものがないという風に反論を進めるかもしれない。これについては、次の節で別途答えることにしよう。



* 反論: 宇宙は開いた境界をもつ
宇宙それ自体が大きさを持つかという問題とは別に、「宇宙の境界は宇宙の一部なのか」という問題もある。
やはり数を例にあげて考えると、たとえば「3未満の実数」というのは、境界を含まない実数の集合の例である。「3未満の実数」の場合、3に近いいかなる実数も集合の一部であるが、その「端」は集合の一部ではない。実数は連続的だから、どれほど3に近い実数を考えてもそれよりもなお3に近い実数が存在する。
同様に、宇宙も連続的であるかもしれない。実際、多くの場合われわれは空間を連続的なものと見なしている(物理学的には、現実の物理空間は連続的ではないそうだが、それでもなお理論的な空間の連続性を主張することはできるかもしれない)。また、宇宙の境界が宇宙の一部であるかどうかについては、わたしには判断する材料が一切ないが、「宇宙は境界を含まない」という説が不可能であるとも思えない。
宇宙の連続性と、宇宙が境界を含まないことを仮定すれば、最大の大きさを持つ宇宙の一部は存在しないことになる。どれほど宇宙の境界に近い領域を選んでも、なおそれよりも大きく、宇宙の境界に近い領域が存在する。


このケースについても反論をくわえておこう。ただし、このケースがあくまでも特殊な仮定のもとでの条件を扱うことは忘れてはならない。実際には境界は宇宙の一部であるかもしれないし、宇宙は不連続かもしれない。そもそもこの反論の条件自体が成立しない方が確からしいという想定もできるのである。
宇宙が無限に大きいケースとの違いは、「開いた境界」の場合には上限があることである。このケースでは、宇宙の大きさには限界がある。ただわれわれは最大のものを1つ選び出すことができないだけである。ある一定以上のものはすべて大きいという説は、このケースにおいては、無限の大きさのケースよりも説得力を持つだろうと思う。3未満の実数が無限にあり、2.99より大きい実数が無限にあるとしても、2.99はやはり「大きい」のではないだろうか。2.99より大きい実数は、それよりもさらに大きいが、その差はそれほど広いものではない。「広い」かどうかも曖昧であるが、少なくとも3に近づけば近づくほどその差は小さなものになっていく。
すでに存在するネズミの最大のものが全長30cmだったとしよう。すでに存在したネズミにくわえ、31cm未満の非可算無限匹のネズミを増やしたとする。これによってネズミは、問題となっている宇宙と同様に、大きさの最大値を持たなくなる。しかし、新しい無限匹のネズミが増えたことで、大きなネズミはその「大きさ」を失うだろうか。いささかあやしいように思われる。30cmから31cmの間に無限匹のネズミがいるとしても、30cmから31cmの区間にあるネズミは依然大きいのではないだろうか。



* 反論: 宇宙より大きなものがないとしても、絶対的に大きなものがあるわけではない
反論者は、わたしの所論のほとんどを認め、結論だけを否定するかもしれない。宇宙より大きなものはなく、宇宙は有限の大きさを持つ。しかし、にもかかわらず、絶対的に大きなものは無い。この立場を理解することは難しいが、想定は可能である。
反論者は、大きさの概念が本質的に相対的であると主張するかもしれない。
>>
「大きさ」という概念はわれわれの実際の使用と離れて意味を持つことはない。そしてわれわれがその概念を使用するほとんどすべてのケースで、相対的な概念として使用されているのである。種や関心に相対的な限定をすべて取り払った「大きい」にはもはや意味はない。たとえば、ネジの大きさを比較するとき、「このネジの方が大きい」というのは、実際にはこのネジならネジ穴にはまるだろうということであり、それ以上の意味はない。同様に「このネズミは大きい」というのは、何らかの生物学的関心に支えられてはじめて意味を持つ。
何らかの関心や種に相対的な意味では、宇宙はやはり大きいだろう。しかし「端的に大きい」という言い方には意味がない。われわれの関心を離れた端的な大きさというものはないのである。
<<
これは、一番根本的な反論であるが、議論によって答えるのは非常に難しい。「大きさは本質的に相対的であるわけではない」というのはわたしが根本的に前提していることであり、反論者はこれに対して異議を唱えている。平行線をたどりそうな対立だが、できるかぎり反論を試みてみよう。


大きさが本質的に相対的であるという説の難点は、どんなもの同士でも実際には大きさを比較できる点である。木星とマグロなら木星の方が大きいし、わたしと銀河系ならば銀河系の方が大きい。こうした比較をするとき、わたしは何をしているのだろう？ 木星とマグロ、わたしと銀河系を統合する種があるのだろうか。もしあるとすれば、それはもはや「存在するもの」といった何の制限も与えないような「種」ではないだろうか。
また、わたしは何の関心もなく、単に時間を持てあまして大きさを比較することもできる。何の目的も抱かずに木星とマグロを比較するとき、わたしが使う「大きい」には本当に意味がないのだろうか。もしそうだとすれば、わたしはどれくらい関心を持てば、「大きさ」の概念を正当に使用できるのか。実際「正当な関心に基づかないから、その言葉には意味がない」という批判は奇妙である。われわれはほとんど何の関心もなしに多くの言葉を使っている。むしろ、言葉を意味を持って使うには、正当な関心が必要であるという前提の方が疑わしいだろう。正当な関心に基づく概念使用と、関心に基づかない概念使用の間に本質的な差があるようには思えない。どちらも同じ意味で同じ概念を使用しているように見える。反論者は、せめてこの「見かけの同義性」について説明すべきだろう。



一方、時間つぶしさえ、ある意味では正当な関心だということもできるだろう。しかし「関心」という言葉をそこまで広義に使うなら、批判はトリビアルなものとなる。その際には、そもそもわれわれは関心の無いことなどしないのである。
実際に大きさの比較をするときには、つねに何らかの関心に相対的に比較しているという指摘は興味深いが、そのポイントがどこにあるのか把握するのは難しい。しかし、反論者があくまでも「『大きい』は本質的に相対的だ」と主張するならば、「種によって相対的」や「関心によって相対的」ということで、何らかの実質的な制限が与えられるのでなければならないだろう。
本質的に相対的と言いながら、すべてのものを対象として概念を使用することが許されており、しかも、ほとんど何の関心も無しに当の概念を使用できるなら、そのような批判は何も言っていないに等しい。それが「本質的に相対的」の意味するところならば、おおよそすべての概念はそうだろう。
しかし反論者が、宇宙が実際にすべてのもののなかで極大に大きいと認めるならば、そのような制限は存在しないように思われる。すべてのものを対象とする大きさの比較はすでに行なわれ、勝者は決まったのである。
もちろん、反論者はすべての概念は本質的に相対的であると、あくまでも主張するかもしれない。しかし、わたしが退けなければならなかった相手はもっと実質的な内容をもった反論である。わたしが述べたのはこうだった。ある文脈のなかでのみ意味を持つ概念(わたしの言う「相対的」な概念)と、そうではない概念があること。「大きい」には後者の用法があり、しかも、その用法で大きいと言うことができる対象が存在すること。一方すべての概念が本質的に相対的であるという、希釈された反論が、依然わたしの所論にとって障害となるかどうかは疑わしい。



* 展望
以上「現実に極大に大きいものが存在する」によって「絶対的に大きいものはある」を擁護するような議論をしてきた。
同様に、絶対的な美しさの存在を主張したり、絶対的な良さの存在を主張することはできるのだろうか。
極大に美しいものや極大に良いものの存在を認めることは、極大に大きいものの存在を認めることよりも難しいだろうが、そのような議論を想定することは決して不可能ではないように思う。
個人的には、「価値の相対性」のようなテーマが政治的に深刻に捉えられるあまり、不毛な平行線をたどりがちなことが気になっている。むしろ「相対性」が何を意味するのかにまで立ち返って議論することが必要だろうと思う。



* 参考文献
参考文献らしい参考文献は特に無いのですが、関連するトピックについて2つだけ。
-[1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar"
http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html

段階的形容詞の意味論については主としてこちらを参考にしました。
曖昧な段階的形容詞と曖昧でない段階的形容詞の区別を提唱していたりなど、非常におもしろいです。
なおこの文献については @wataruu さんに教えてもらいました。


-[2]菅沼聡「世界全体は存在するか」
http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=philosophy1952&cdvol=2000&noissue=51&startpage=278

この記事にとってサブトピックの1つだった「世界全体は存在するか」というのはそれなりに論じられてきているテーマのようです。残念ながらわたしはこの論文にはあまり賛成できませんでしたが、問題への導入にはよいかもしれません。
この文献については @tsagis さんに教えてもらいました。



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    <title>GCOEワークショップ　フィクションの哲学</title>
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    <published>2010-03-20T12:25:12Z</published>
    <updated>2010-03-20T12:27:25Z</updated>

    <summary>GCOEワークショップ　フィクションの哲学 http://www.carls.k...</summary>
    <author>
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        GCOEワークショップ　フィクションの哲学
http://www.carls.keio.ac.jp/2010/03/gcoe2010327.html
&gt;&gt;
昨年末に清塚邦彦氏が上梓し、大きな注目を集めている
フィクション論『フィクションの哲学』（勁草書房、2009年）をめぐるワークショップを行います。
参加無料・登録不要ですので、ぜひご参加ください。

 

日時：2010年3月27日（土）14:30～18:00
場所：慶應義塾大学三田キャンパス東館4階セミナー室


【提題者】
清塚邦彦（山形大学人文学部　教授）
森功次   （東京大学大学院博士課程）
鈴木生郎（慶應義塾大学大学院博士課程）

【司会】
飯田隆　（慶應義塾大学文学部　教授）
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万難を排して出席することにしました。
        
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    <title>ラマルク「作者の死」</title>
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    <published>2010-03-02T17:37:10Z</published>
    <updated>2010-03-13T01:34:04Z</updated>

    <summary>Peter Lamarque, &quot;The Death of the Author...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.at-akada.org/blog/">
        <![CDATA[Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," <i>British Journal Of Aesthetics,</i> 40:4(1990), pp. 319-31.


<i>Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology</i>, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41.
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1405105828/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41AGR53T82L._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)" title="Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)" /></a>
<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1405105828/ref=nosim/atakadaorg-22">Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)</a>


ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を読みました。
ラマルクは、分析美学(分析哲学の中の美学・芸術哲学)の研究者です。サブタイトルに「分析的検死」とあるように、本論文は、分析哲学というフランス現代思想とはずいぶん異なった学問的伝統に属するラマルクが、フーコーとバルトの著名な「作者の死」の議論を、分析哲学の流儀でまじめに取り扱ったものです。
対象となる論文は、フーコー「作者とは何か」、バルト「作者の死」の2本です。


<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462200481X/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/318KUKwd1YL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="物語の構造分析" title="物語の構造分析" /></a>
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089934/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51AZfC4TBPL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)" title="フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)" /></a>
<br clear="all" />


わたしも改めてこの2本の論文を翻訳で読んだのですが、この辺りの論文は、2人の書いたもののなかでも、特にアジテーションの色彩の強いもので、ほとんど論証しているようには見えません。
ところがラマルクは、これを非常にベタな哲学的議論として再構成し、検討と反論をくわえています。あれだけふわふわした文章をよくここまで再構成したと、個人的には非常に感心しました。


以下簡単に要約を。
まず、フーコー、バルトの論文では、歴史的に誕生し、死んだ(死ぬべきだ)と言われている「作者」は3通りに解釈できることが指摘されます。
-1. あるカテゴリーの人 (writer-as-author)
-2. あるカテゴリーの批評(author-based criticism)
-3. あるカテゴリーのテクスト(authored text)

これらのうち、1番目と2番目の解釈だと、彼らの主張はもっともらしく、穏当でもあるが、ごくふつうの主張になります。ところがこれは、3番目の解釈とは結びつかないし、どうもフーコー、バルトの本当の意見のようには見えません。

一方3番目の解釈で読むと、彼らのテーゼは非常に過激であり、おもしろくもあるが、非常に極端で同意しがたい意見となり、あげられている議論も失敗していると、ラマルクは主張します。


20年前、10年前にとっくに紹介されているべきものだったと思います(発表は1990年)が、今読んでも十分におもしろいです。



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        <![CDATA[■ ラマルク「作者の死 - 分析的検死」
I
ロラン・バルトが「作者の死」を宣言して以来20年以上になり、このフレーズは、事実というわけではないにしても、文学批評の共同体では十分に地位を得ている。しかしそれが意味することは明確さからはほど遠いままである。多くのアングロアメリカンの美学者は、バルトの定式化に対し、意識的にしろそうでないにしろ、自分たちが主張してきたより穏健な「意図の誤謬」のフランス的な誇張にすぎないものとして肩をすくめ、それ以上関心を持たない傾向にあると思われる。実際には、私が以下で示すように、「作者の死」の根底にある重要な主張は、意図に関するやかましい議論とはかけ離れたものであり、その洞察は謙虚な作者たちだけではなく、文学の概念それ自体や意味の概念にさえ向けられているのである。


私の目的は、関連する主張の生産的な参照点となっている二本の論文の主要なテーゼを同定し、分析することである。二本の論文とは、ロラン・バルトの「作者の死」とミシェル・フーコーの「作者とは何か」である((以下の版を参照する。Roland Barthes, "The Death of the Author" in <i>Image-Music-Text</i>, essays selected by and trans. Sthephen Heath(London,1977), Michel Foucault, "What Is an Author?" in <i>The Foucault Reader</i>, ed. Paul Rbinow(Harmondsworth, England, 1986))。以下では、これらのテーゼが何を意味し、それが真であるか検討する。思想の一般的潮流との関係や二人の理論家のその他の仕事との関係といった、論文のより広い文脈について詳細を論じることはしない。私が関心を持っているのは、議論であり、著者たちではない。これらの論文で定式化されたアイデア(オーサーシップ、テクスト、書くこと、読むことについてのアイデア)は、ポスト構造主義と呼ばれる運動の基礎となっているが、不正確に表現され、しばしば誤解されていると考える。これらのアイデアに分析的研究を与えることは、ポスト構造主義に懐疑的な人々だけではなく、正確な含意についてはっきりしていないかもしれない支持者にとっても、興味を引くだろうことを望む。


ここでは、私にとって顕著なものと思われる4つの主要なテーゼにフォーカスを当てることにしよう。これら4つのテーゼを、私は、歴史主義のテーゼ、死のテーゼ、作者機能のテーゼ、エクリチュールのテーゼと名付ける。これらはすべて密接に織り合わされており、それぞれに詳細な検討の必要のある部分が含まれている。ただしバルトとフーコーがすべての点で合意しあっていると主張するつもりはない。明らかに両者は合意しあっていないが、テクストと作者について両者が提示したケースは、ともに現代思想のひとつの学派全体の発展に強い影響を及ぼしたものなのである。



II
バルト自身の言葉が歴史主義のテーゼの一般的な特徴付けを与えている。
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作者というのはわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。("Death of the Author", p.142)
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フーコーは「観念の歴史の中の(特定の)モーメント」における「作者という概念の誕生」について語っている("What Is an Author?"p.101)。両者は作者の誕生を、ポスト中世の時代、宗教改革から哲学的啓蒙の個人の勃興のはじまりに位置付けている。私は歴史主義のテーゼの歴史的詳細よりは、その地位(と意味)に関心がある。書かれた作品は歴史のある特定の時代にのみ作者を獲得したというアイデアには、明らかに説明が必要である。私は、相互に排他的ではない、少なくとも3つの可能な説明が与えられることを示すが、これらの説明は議論全体の中でその他のテーゼの解釈の仕方に作用する。歴史主義のテーゼの単なる語源学的解釈、つまりこのテーゼを「作者」という語についてのテーゼと見なすような解釈は興味を引かないので、扱わないことにする。私は「作者」という語以前に作者が存在しえたことを、「書き手」という語以前に書き手が存在しえたことや「思想」という語以前に思想が存在しえたことと同様に、当然とみなす。疑いなく、これについてさえ議論の余地はあるだろうが、私はバルトやフーコーが歴史主義のテーゼを擁護したとき、語源学を念頭に置いていたとは考えない。

最初の(もっともらしい)解釈はこうである。
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書き手についての特定の把握conception(作者としての書き手writer-as-author)は、近代のものである。
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フーコーにとってこの把握とは、非常に限定されたもの、つまり、オーサーシップについての法的・社会的把握のことである。作者は、財産の所有者、市場の商品の生産者と見なされ、それらの商品に権利と責任を持つと見なされる。「テクストや書物や言説が現実に作者というものをもちはじめる...作者が処罰の対象となるほどまでに」とフーコーは述べる(p108)。似た調子で、バルトも作者を「資本主義のイデオロギー」と理解する(p143)。この解釈によれば、歴史のある決定された段階において、(ある種のテクストの)書き手が新しい社会的地位と、それに対応した法的・文化的認知を得ることになるという点で、私は歴史主義のテーゼのこの解釈を「社会的把握」と呼ぶことにする。

繰返しになるが、私はこの歴史的主張の真実については論じず(実際の詳細は、しっかりした精査には耐えないのではないかと思うが)、かわりに理論的含意についてだけコメントする。例えば、この解釈には、「それ自体としての書き手」(書いている人)という限定なしの概念と、「作者としての書き手」という限定された概念の区別という帰結があるが、この後者の限定された概念の方が社会的あるいはイデオロギー的な用語として理解されている。この区別は単なる書く行為(砂に書くとか、封筒に走り書きするとか)が作者を作らないことを示すのに便利である。ここで指示された作者は、法的権利と社会的立場とを持ったより重い人物像であり、価値を持つと見なされるテクストの生産者なのである。重要なのは、この解釈のもとでは、歴史主義のテーゼは、社会的慣習と、特定の行為に従事する人々のクラスについてのテーゼだということである。それは、ペルソナや、虚構のキャラクターや、テクストの構築についてのテーゼではない。何しろ作者の個人的地位についてのテーゼなのだから、このテーゼは、以下で見る作者機能のテーゼに対しても、エクリチュールのテーゼに対しても、直接的な根拠を与えられない。それらのテーゼはどちらも作者を非個人的なものとして理解するからである。

歴史主義のテーゼの二つ目の解釈を、私は「批評的把握」と呼ぶことにする。
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批評についての特定の把握(作者に基づく批評author-based criticism)は、近代のものである。
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ここでの趣旨は、歴史のある段階において、批評の焦点が作者のパーソナリティーに向けられるということである。「日常的な文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人物、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している。批評は今でも、たいていの場合、ボートレールの作品とはボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている。」とバルトは書く(p143)。バルトによれば、この事態は、個人に卓越を与えたブルジョワ革命の後でのみ生じた。われわれは、著者に基づく批評の歴史的発展についての議論は歴史家に任せておこう。当然ながら、歴史のそれぞれの時代において、作者の伝記的背景や人格にどれだけの批評的重要性が置かれるかは程度の問題である。人(書き手、原因、起源など)としての作者は、この解釈でもまた喚起されているが、にもかかわらず「社会的把握」とは区別される。作者がテクストに権利を持つようになったという事実から、批評についての直接的な含意は導かれないからである。作者に堅固な法的・社会的アイデンティティが認められるという事態と、純粋な形式主義的批評は両立可能である。


三番目の解釈は、最も論争を呼ぶが、最も興味深いものである。
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テクストについての特定の把握(作者を持つテクストthe authored text)は、近代のものである。
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これを私は歴史主義のテーゼの「テクスト的把握」と呼ぼう。趣旨は、歴史のある時点で、(書かれた)テクストが「作者を持つ」ということによって意義を獲得するということである。「今日われわれが『文学』と呼んでいるテクスト類(物語、小説、叙事詩、悲劇、喜劇)が、それらの作者を問題にすることなく受けとられ、流通し、価値をあたえられていた時代があった」(p109)。フーコーはこれを、中世には、名指された起源(ヒポクラテスやプリニウスや誰であれ)に権威を負っていた科学の言説のケースと対比している。フーコーの主張によれば、17世紀と18世紀に根底的な変化が起こり、文学的テクストは本質的に「作者を持つ」ものと見なされるようになり、一方科学的文書は匿名であっても権威を担いうるようになった。

この大まかな一般化は、真面目な観念の歴史家からの実質的な限定を必要としている。ここでの目的のためには、さらなる分類が必要である。テクスト的把握はそれ自体、異なった解釈に開かれている。もっとも単純な形では、それは歴史のある時点で(おそらく異なる言説のそれぞれで異なる時点だろうが)、テクストが作者に帰属されていることが重要になったという主張にすぎない。より強い主張として見れば、この帰属がテクストの理解のされ方を実際に変えたということになる。すなわち、そのテクストは、<em>誰々による</em>by so-and-soという以外の仕方では、適切に理解することができないのである。作者に帰属することが、おそらくは、個人的な暴露や、信仰告白や、権威のしるしなどとして、その意味を担う。フーコーはおそらく、少なくともこの後者の主張を念頭に置いていただろう。しかし、あとで見る作者機能のテーゼという証拠からすれば、フーコーはさらにそれ以上のものをテクスト的把握に対して望んでいたようである。あとで見るように、フーコーが示唆するのは、作者帰属の、人に関する側面がともに消えてしまうことである。作者を持つテクストと作者を持たないテクストの違いをしるしづけるのは、実際の因果的起源ではなく、テクストそれ自体の特定の(創発的)性質である。作者を持つテクストは、創造的行為の発現と見なされるが、重要なことは、それが産出あるいはアクセス可能にするのは、ある特有の種類の統一、完成、意味、関心、価値だということである。それらの[統一性などの]質が作者の個別の行為遂行に対して持つ関係ではなく、これらの質それ自体が、この強められたバージョンの歴史主義のテーゼでは、卓越したものとされる。

こうしてテクスト的把握には、単にテクストと作者を結びつけることから、ある種の目的の達成、意味の表現、価値の創出へと分類可能な作品として、テクストをより完全に把握していくことへの移行が存在する。歴史主義のテーゼのもっともらしさは、この尺度にそって進んでいくにつれ弱められていくことを示唆しておこう。言い換えれば、文章の特定の断片を、意味や統一や価値を持つものとして把握することは、単に作者の帰属を強調するような傾向に比べて、歴史的に日付けを特定するのがよりいっそう困難に思われる(そうした把握が存在しなかった時代などこれまであったのだろうか)。


III
この背景のもとで、われわれは今や二つ目の実質的テーゼに向うことができる。このテーゼを私は死のテーゼと呼ぶ。もっとも単純には、それが主張するのは
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作者は死んだ
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ということだけである。
この主張の意味とその真偽の評価は、歴史主義のテーゼと、その異なった解釈に相対的にのみ決定されうる。根底にある発想はこうである。もしある特定の把握(作者、テクストなどの把握)がはっきりした歴史的はじまりを持つならば、------もしそれが確定的な歴史的条件のもとで生じるならば------原理的には、その歴史的条件が変化すればそれは終わりをむかえることがありえるのである。

複雑なのは、死のテーゼが事実の言明としても、希望的思考としても読める、つまり現在の事態の記述(単純にある特定の仕方で理解された作者はもはや<em>いない</em>)としても、未来に対する指令(もはやその仕方で理解された作者は<em>必要ない</em>し、それらなしでも済ませられる)としても読めることである((似た多義性は死のテーゼの起源、つまりニーチェの「神は死んだ」という宣言にもある。ニーチェはすでに明白となっていた新しい人間の意識を記述したのか、過去からの根底的な断絶を告知したのか。))。バルトとフーコーのどちらも記述なのか指令なのかという問題について揺れているようである。バルトは例えば、「作者の支配は今なお非常に強い」(p143)と認めているが、作者と対比された「現代の書き手」について述べており(pp145,146)、(現代の)文章はもはや作者の生産物とは見なされないことを示唆している。同様にフーコーも、「作者の消滅によって空無のまま残された空間を位置付けなければならない」(p105)と述べ、作者の消滅を当然としているが、論文の最後では、自身の作者の概念である作者機能についても、「われわれの社会が変化の過程にあ」り、いつか未来には「消滅するだろう」と述べている。

死のテーゼがどうなるかを見るために、異なる組合せに目を通しておこう。

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作者としての書き手は死んだ、あるいは死ぬべきである(歴史主義のテーゼの社会的把握から導かれるもの)
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作者としての書き手を、特定の社会的・法的地位を持ったものとして把握することは、今も有効だろうか。確かに有効である。作者は現在でも、フーコーの言葉にあるように、「処罰の対象」である(死刑さえ宣告されうる)。著作権法や冒涜法があり、作者は中傷や盗作で訴訟されうるし、伝記やゴシップの関心をひく。この把握のもとでの作者は確かに死んではいない。では彼らは殺されるべきなのだろうか。われわれは挑戦し、自分たちをこの把握から自由にすべきだろうか。この問題は政治的、道徳的なものであり、哲学的なものではない。われわれはすべての文章が匿名であるような社会、書き手がいかなる法的地位も義務も持たないような社会を推進すべきだろうか。そうかもしれない。しかしこの問題は、エクリチュールや作者機能についてのどんな理論的議論とも完全に独立である。というのも、これは政治的・法的システムの中の現実の人々の取り扱いをめぐる問題だからである。


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作者に基づく批評は死んだ、あるいは死ぬべきである(歴史主義のテーゼの批評的解釈から導かれるもの)
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ここで、われわれは、反意図主義が死のテーゼのこのバージョンを押し進めたものと見なされるという点で、意図の誤謬にもっとも近づく。しかし、まず、反意図主義は、オーサーシップの社会的把握に基づくバージョンや、テキスト的把握にはコミットしないことに注意しよう。また次に、反意図主義がコミットするのは規範的な要素(作者に基づく批評は死ぬべきである)だけであり、記述的要素(事実作者は死んでいる)にはコミットしない。

ここには確かに、反意図主義とバルトとフーコーの間に重なりがあるのだが、これが唯一の接触点に思われる。もし死のテーゼが単純に、素朴な作者に基づく批評の衰退を記録し、裏付けているのであれば、それは控えめな理論的関心にしか値しない。文学批評における作者の意図の適切な役割については議論がつづいているが、純粋な伝記的要素------いわゆる作者のパーソナリティー------に集中することは、真剣な批評の規律にとって不可欠ではないということには、一般的に合意が得られるように思われる(この問題は少なくとも、1919年のT.S.Eliotにまでさかのぼる)。事実、あとで見るように、バルトとフーコーが死のテーゼを押し進めるとき、その眼中にはもっと実質的なものがあったことは疑いない。にもかかわらず、このテーゼに対する信頼の大部分は、疑いようもなく、純粋な作者に基づく批評を公式の標的としてきた文学批評の、コミュニティのより堅固な直観から得られたものである。だからこそ、バルトとフーコーによって意図された本当の死のテーゼを認識し、誤った解釈のせいで賛成せざるをえなくなるなどということのないようにしなければならない。

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作者を持つテクストは死んだ、あるいは死ぬべきである(歴史主義のテーゼのテクスト的把握から導かれるもの)
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作者を持つテクストという把握は現在も浸透しているだろうか、つまり、テクストは現在も、確定された意味を持ち、創造的行為の発現であると考えられているだろうか。確かに、統一性や表現の豊かさや創造的な想像力といった質は現在も文学作品に求められ、価値あるものと考えられている。実際これらの質は文学の概念そのものと結び付けられている。これらの特性を持つことが、何かが作者を持つテクストであるための十分条件であるとすれば、作者を持つテクストは死んでいない。ただし、作者を持つテクストは、強い解釈によれば、その実際の作者(人としての作者)との関係とは独立に定義されることを思い出そう。作者を持つテクストの意味と統一性は、現実の創造行為や、確定的な心理学的起源ではなく、テクストそれ自体にそれらを投影することとしてのみ説明される。これは作者機能のテーゼにとって重要である。

フーコーは、文学批評が作者を持つ批評という把握を現在も維持していることを認めるだろう。実際、フーコーはこの把握を文学批評の基礎として見ている。ゆえに死のテーゼは、このバージョンでは、記述ではなく指令と見なされなければならない。フーコーのプロジェクトは作者を持つテクストそれ自体(それに付随する意味、解釈、統一性、表現、価値の観念も合わせ)からの解放である。作者機能は、作者を持つテクストに特有の特徴であり、フーコーによれば、「イデオロギーの産物」(p119)であり、抑圧と制限をくわえる「意味の増殖における倹約原理」(p118)なのである。実際、フーコーの死の指令は文学批評の実践を支える文学作品その概念そのものに向けられている(より広範には、それは、類似した解釈と価値評価の制限を受ける作品の任意のクラスに向けられている)。指令は人としての作者の役割や地位とはほとんど関係ない。

これに照らして考えると、文学の制度はずいぶん前に作者のパーソナリティーを卓越させるのをやめていると指摘することは、フーコーの攻撃からの擁護にはなってない。そうすることは、弱いバージョンの死のテーゼを不当に強調している。フーコーが新しい反意図主義者にすぎないという自己満足な発想の余地はない。一方、フーコー自身も、素朴な作者に基づく批評が不十分だと訴えるだけでは、作者を持つテクストへの攻撃の根拠を見出すことはできない。実際には、フーコーは議論を作者を完全に越えるところまで進めたのである。


IV
作者機能のテーゼは、死のテーゼの強いバージョン(「作者を持つテクストは死んだ」というバージョン)にさらなる支持を与えるべく意図されている。この発想はフーコーによって明示的に述べられることは一度もなかったが、中心的なアイデアは作者機能は言説(またはテクスト)の性質であり、単に書かれているとか、(どんな地位のものであれ)ある人によって作られたという以上のもののになるということである。「作者という機能を備えた若干数の言説があり、一方、他の言説はこの機能を備えていない 」(p107)。

「作者機能」という観念を明確化する助けになるような、このテーゼの独立した一連の構成要素を同定できる。一つめは区別の申立てである。

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(1)作者機能は、人としての作者(または書き手)からは区別される。
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フーコーは作者機能が「現実の個人を純粋に単純に指示するわけではない」ことを明確にしている(p113)。フーコーがしばしばこの用語を「作者なるものthe author」と互換的に使うために説明は複雑になっている。しかし「作者」という用語それ自体は個人を直接指示するものとして意図されているわけではない。フーコーは、「作者を現実の書き手と同一視するのは誤りであろう」とし(p112)、作者を「ある種の機能原理」として述べている(p119)。

個人概念から区別された、非個人的な作者の概念を仮定することを、何が支持するのか。フーコーは、文学批評でいう「内在的作者」の観念、つまり、現実の作者と共有されているかもしれないし、されていないかもしれないような、作品に情報をもたらす一連の態度を単純に念頭に置いているわけではない。ひとつには、フーコーの作者機能は、個別的な作品を構築するわけではなく、全体的作品群oeuvreをひとつに結びつけるかもしれない。また、内在的作者は、作品内の虚構のキャラクターのひとりのようなものであるのに対し、作者機能は、より広範には、作品それ自体の本質を決定するものと考えられている((私はここで、またこの論文全体を通して、Alexander Nehamas, "Writer, Text, Work, Author," in <i>Literature and The Question of Philosophy</i>, ed. Anthony J. Cascardi(Baltimore, 1987)の有益な議論を参考にしている。))。

フーコーが、区別の申立て(1)のために提示する議論のひとつは------ それは作者を「イデオロギーの産物」と述べることへの正当化にもなっているのだが------、われわれが通常、人としての作者について考える仕方(天才、創造者、意味を増殖させる者)と、テクストが作者を持つと考える仕方(テクストの意味が抑制され、適用のされ方にも制限がくわえられているというような)の不一致を想定することに依存している。しかし、この議論は単純で満足できるものではない。なぜならそんな不一致など無いからである。われわれが作者を、「組み尽しえぬ意味作用の世界」(p118)をもたらすもの、意味を増殖させるものと考えているなら、彼または彼女が創造した作品にも同じことを期待するだろう。

フーコーが「作者」という用語の、半専門的な意味、つまり以下の原理に従うような意味を提案していると読むのはより有望である。
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「作者を持つauthored」は関係的述語(ある作品とある人との関係を特徴付ける述語)ではなく、単項述語(ある種の作品を特徴付ける述語)である。
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この原理が示すのは「Xにはある作者がいるhas an author」から「Xは作者を持つauthored」への移行、あるいは明示的に「XにはYという作者がいる」(関係的述語)から「XはY-作者を持つ」(単項述語)への移行である。作者機能はあるテクストとある人との関係ではなく、あるテクストまたは言説の性質となる。われわれは、単項述語「作者を持つ」または「Y-作者を持つ」が、現実にこの特殊な用法で何を意味するのか問う必要がある。

ただし、まず(2)をパラフレーズまたは還元として精確化しておくのが有意義だろう。
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(3)人としての作者とテクストの関係に関するすべての関連する主張は、作者を持つテクストについての主張に還元できる。
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こうして、パラフレーズによる存在論的還元と比較可能なプロセスを通じて、作者は消失する。例えば、「作品はある作者の創造的行為の産物である」というかわりに、われわれは「作品は作者を持つテクストである」と置換えることができ、それでも前者の重要な認知的内容はなお維持されている。しかしこうした意味論的仕掛けは、(人としての)作者が冗長であると示すよう意図されているわけではない。せいぜいその目的は、<em>批評の言説に関しては</em>、作者に対する指示は、意義ある内容を失なうことなく削除されうると示すことでしかない。私はこうしたテーゼが次のようなフーコーの言明の根底にあるものと見なす。「個人のなかで、人を作者たらしめているものして指示される側面は、テクストに加えられる処理を、つまり、われわれが作り出した結合、われわれが適切なものとした特徴、われわれが認知する連続性、われわれが実践する排除などいったものを、多少なりとも心理学的な用語で言えば、投影しているのである」(p110)。フーコーはそうした側面を、それによって作者がテクストに情報を与えるような意味、統一性、表現と同様の、作者の「デザイン」「創造的パワー」と考える。すでに見たように、フーコーは、これらの特徴が、人としての作者を遡及的に参照することなく、作者を持つテクストに直接的に付与されうると考えている。これが作者機能のテーゼの核心である。

(2)と(3)の命題にはどんな根拠を与えられるだろう。結局のところ、これらの命題は明らかに真というわけではないし、より馴染みのある「作者」の意味からは離れている。フーコーが提示する主要な論理的根拠は、作者の名前に関する議論である。作者の名前は、純粋に指示的に作用するわけではない、とフーコーは示唆する。特定の個人をピックアップするかわりに、それは、「分類機能」を持ち、「言説のある種の様態を特徴づけるという機能をはたす」(p107)とフーコーは言う。彼が念頭に置いていたのは次のようなことであると思う。
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(4)(作者の名前を用いた)(ある種の)作者の帰属は非外延的である。
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ある戯曲がシェイクスピア作であると言うとき、われわれが意味し、あるいは言外に含んでいるのは、戯曲がある個人(シェイクスピア)によって書かれたという以上のことである。ひとつにはわれわれはその戯曲にある賛美される質を割り当てている(これは注目に値する戯曲のようだ)。また、戯曲を、ハムレット、リア王、十二夜などのより広範な作品群と関係させている。「シェイクスピア作」であることは外在的関係ではなく内在的特徴づけを示す。われわれは「Xはシェイクスピア作by Shakespeareの戯曲である」から、「Xはシェイクスピア戯曲Shakespeare playである」あるいは「Xはシェイクスピア的Shakespeareanである」にまで移行する。後者の定式化は、指示を同じくする名前と置き換えることがいつも許されるわけではない(真理値を保存しない)という意味で、非外延的である------少なくとも非外延的読みをもつ。もし仮にシェイクスピアの正体がベーコンだったとしても、戯曲がベーコン的だったことは導かれない。なぜならその表現には他の含みがあるからである。

この議論のように述べることに何かメリットがあると仮定しておこう。この議論は作者機能のテーゼを根拠づけているだろうか。確かに、この議論は関係的述語から単項述語への移行、この場合には「シェイクスピア作by Shakespeare」から「シェイクスピア的であるShakespeare」への移行を、素描として示している。これは「XにはYという作者がいる」から「XはY-作者を持つ」への移行の個別例なのだろうか。そうかもしれない。しかし、それが示しているのは移行するべきだということではない。「Xにはシェイクスピアという作者がいる」は非外延的な分類的意味<em>と</em>完全に外延的な関係的意味を持つ。言い換えれば、シェイクスピアという人への指示はなお持ちこたえている。作者の名前の分類機能を指摘することは実に正当であるが、フーコーは、このこと自体が指示機能を失なわせると誤って仮定している。


(2)の「Xにはある作者がいるhas an author」から「Xは作者を持つauthored」への移行についてはどうだろうか。この移行は、作者の名前からの議論によって直接に根拠を与えられるわけではないが、「作者を持つテクストauthored text」という独特の概念に依存している。ここで、歴史主義のテーゼに戻らなければならない。すでに見たようにフーコーは、あるテクストに単に作者を帰属することを念頭に置いていたわけではないし、テクストは非外延的帰属によって分類されるというような、(4)の洗練されたバージョンを念頭に置いていたわけでもない。フーコーは作者を持つテクストという観念をより広範に捉えている。
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(5)作者を持つテクストは、解釈を受け、意味を制限され、統一性と一貫性を示し、価値のシステムの中に位置付けられる。
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フーコーが作者機能を攻撃する際、まさに攻撃しようとしているのはこの考え方である。しかし今やわれわれはここまでのピースが合わさると、どれほどフーコーにとって都合の悪いことになるかを見ることにしよう。人としての作者------パーソナリティー、伝記、法的地位、社会的立場を持つもの------は、(5)では何の役割も果たさない。これに関わってくるのは還元的なテーゼ(2)と(3)、および区別のテーゼ(1)である。実際フーコーは、作者機能と作者を持つテクストを仮定する際、(5)の[意味の制限、統一性などの]質が、(文学の観念の一部である)<em>制度に基礎付けられた</em>質であり、(個人的心理学的態度によって定式化される)<em>個人に基礎付けられた</em>ものではないことに気がついていた。解釈の制限、統一性や一貫性の源泉、価値の基準を、直接的に個人(人としての作者author as person)に帰属可能なものと見なす必要はない((文学いの文脈における制度的質についての有益な説明としては、Stein Haugom Olsen, "Literary Aesthetics and Literary Practice," in <i>The End of Literary Theory</i>(Cambridge, 1987)を見よ。))。

これが作者機能のテーゼのポイントであるとすれば、それは反意図主義の批評理論の中でよく確立され繰返された立場ではあるものの、それなりに力のあるものである。しかしフーコーは、両方の仕方でテーゼを主張することはできない。人としての作者から、作者を持つテクストを切り離しておきながら、同時に、作者を持つテクストを、個人というブルジョワイデオロギーを永続化させ、作者を神のごとき力と権威を持ち、法によって祭られる立場に高めるものであるというかどで攻撃することはできない。あたかもフーコーは、自らの作者機能のテーゼの含意を十分に受け入れられないかのようである。フーコーは、自分の主要なターゲットがなお、作品の後に作品を越えてあり、作品に秘密の内なる意味を与える、人としての作者であるかのように語る。おそらく問題の源泉は、「作者機能」と「作者を持つテクスト」の中に、誤解を招くように作者を引き合いにだしてしまったことである。正確には、作者はそれとは何の関係もない。いわゆる作者を持つテクストは、最もはっきりした形で現われれば、制度的に定められた文学作品である。文学作品にはもちろん作者がいる。この作者たちは(現実のエージェントの現実の行為である)創造的行為の産物であるが、解釈の制限、価値と一貫性の決定は、個人としての作者の意志とは独立である。これは、よりもっともらしいバージョンの死のテーゼからえられる教訓であり、作者機能のテーゼの教訓でもあるべきなのである。


V
バルトのバージョンの作者機能は、「テクストと同時に生まれ」る「現代の書き手modern scriptor」と呼ばれるものである(p145)。しかしバルトは関係的作者から非関係的書き手への移行------バルトのバージョンの作者機能のテーゼ------を書くこと(エクリチュール)についてのテーゼによって基礎付けている。私がエクリチュールのテーゼと呼ぶものの基本的な申立ては、バルトの言葉を用いれば以下である。
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書くことはあらゆる声、あらゆる起源を破壊する(p142)
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この含意は、書くことの本質こそが作者(人としての作者)を余計なものにするということである。このテーゼをバルトはどんな議論によって支持するのだろう。

ひとつめは物語からの議論である。「ある事実が、もはや現実に対し直接行為するためにではなく、自動詞的に<em>物語られる</em>やいなや、つまり要するに、記号実践そのものを除き、すべての機能が停止するやいなや...声がその起源を失う」(p142)。「記号実践そのもの」以外の機能を持たないという条件を満たす物語の行為を想像するのは難しい。ほとんどすべての語りにはそれ以上の企図があり、実際その企図は、さまざまな形で「現実に対し直接行為する」ことである。情報を与える、楽しませる、説得する、指図する、などなど。語りは定義上行為であり、いかなる行為も真に理由なきものではない。厳密に言って、物語の議論はここで破綻している。

ただし、寛大にも、ある種のフィクションの語りはバルトの記述に近いと考える者もいるかもしれない。そうした語りでは、遊びに富んでいることこそ至上である。ある種のフィクションは、慣習的に、フィクションとしての地位のみに注目させ、外ではなく内を指し示し、からかうように起源を隠す。しかしもしこうした特殊な事例の場合に、関心の焦点となるのが「記号それ自体」だけであることを認めたとしても、ここには書くこと(あるいは作者)についての一般的テーゼを支持するものは何もない。ひとつには、しばしばフィクションの悪戯とはかけ離れた、異なった種類の慣習が(言語行為としての)書かれた物語に適用されているし、多くのそうした事例では物語の目的(ゆえにその「起源の声」)は明示的である。またすべての書き物が物語形式であるわけでもない。

エクリチュールのテーゼのためのふたつめの議論は、行為遂行的発言performativeとしての書くことの特徴付けである。「<em>書くこと</em>が記録、確認、再現、『描写』...の操作を指すことはもはやありえず、...その発話の行為以外には内容をもたない...行為遂行的発言を指す」(pp145-146)。しかし書くことは行為遂行的発話としての地位を持つという申立ては、エクリチュールのテーゼに根拠を与えるどころか、実際にはそれと直接的に矛盾する。行為遂行的発話が行為と見なされる---約束、結婚、宣戦布告---のは、正確に限定された文脈的条件のもとでのことである。そして、それぞれの事例に不可欠な条件のひとつは、話し手が適切な意図を持つことである。「起源の声」の破壊であるどころか、成功した行為遂行的発言は、話し手の傾向性と誠実さに決定的に依存している。ゆえにこのアナロジーは、ひかえめに言っても、不運なものである。

明らかに、バルトにとって行為遂行的発話が印象的だったのは別の特徴、つまり自己検証性self-validationだろう。「私は約束する」と言うとき、私は何らかの外在的な事実を報告しているわけではなく、正しい条件のもとで、ある事実を生じさせている。しかし話し手の誠実さへの要求を脇において、自己検証性のような特徴だけに着目しても、行為遂行的発言とのアナロジーはなお不十分なものである。バルトは再び、自らが属する事実と世界を創造するようなある種のフィクションの発言を範例とし、平凡な発語内の目的を無視することで、書くことの本質についての根拠のない一般化に陥っている。

みっつめの議論は意味についてのものである。書くことそれ自体は、制限された作者を持つテクストとは対照的に、いかなる確定された意味も産出しないという考え方である。「テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば「神学的」な意味(つまり、作者=神の『メッセージ』ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、意義をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。」(p146)。後半ではエクリチュールについていくらか懐疑的な響きがあるものの、同じアイデアはフーコーにも見られる。「今日書くことは表現という次元から解き放たれ」、「それは記号の遊びであり」、それは「ゲームのように展開する」(p102)。どのようにして、これが書くことが起源の声を破壊するというテーゼを支持するのだろう。議論はおそらく次のように進む。確定的な意味はつねに作者の要求の産物であり、作者もなく確定的な意味もなければ、書くことそれ自体(エクリチュール)はいかなる決定的な意味も持たず(それは単なる記号の戯れであり)、それゆえ書くことそれ自体は作者が余分なものであることを示すのである。この推論は奇妙なものである。その形式的な正当性は疑わしいし、また書くことそれ自体のようなものが本当にあるのかも問題にされなければならない。エクリチュールは実際には、作者を持たず、確定的な意味を欠き、解釈の制限を受けないものとして規約されている。しかしこのまさにエクリチュールという概念自体が疑うべきものなのである。

鍵は「テクスト」の観念である。「テクスト」は、バルトの考えでは、エクリチュールのある特定の仕方での発現である。それは「作品」と対比される。作品はジャンルに属し、その意味は制限され、作者を持ち、分類を受ける。バルトが言うには、テクストは「つねにパラドキシカル」である。それは「シニフィエの無限の延期を遂行する」((Roland Barthes, "From Work to Text," in <i>Image-Music-Text</i>))。「それはたとえ自由な解釈であっても解釈に属することはありえず、爆発に、散布に属する」(「作品からテクストへ」p159)。「それは階級制度によっても、単なるジャンル区分によってもとらえられない」(p157)。「生命の『尊重』はテクストにとってはまったく不要である。テクストは<em>砕く</em>ことができる」(p161)。この無制限の意味の爆発、起源もなく目的もないものとしてのテクストの観念は理論家のフィクションである。抽象作用によって、書き物をこういう仕方で見ることはできるかもしれないが、やってみてもきわめて退屈なことだろう。それはモーツァルトの交響曲を単なる構造化されていない音の連なりとして聞こうと試みるようなものである。ただしより重要なことは、書くこと(あるいは言語)の概念のいかなる部分にも、そんな風に見るべきであるなどということは含まれていないということである。書くことは、話すことや、「遂行」されたどんな言語とも同様に、不可避にして適切に、目的をもったものと見なされる。言語を意味ある言説として使用することは言語行為の遂行である。言説を理解することは、最小限、何の言語行為を遂行したのか把握することである。バルトは、自らのエクリチュールとテクストに対する見方において、言語を、それに生命を与える当の機能から切り離そうとしてしまっている。

バルトとフーコー両者が暗に仮定しているのは、フーコーが「意味の増殖」と呼ぶものの内に内在的な長所があるということである。おそらく彼らのプログラムに対する根本的な反対意見となるのは、この仮定には支えがなく、擁護不可能であるということである。作者の死を指令し、作品に対するテクストの優越を進めることで、両者は自分たちが、不自然で望ましからぬ制限から意味を解放していると見なす。ふたりとも、多ければ多いほどよいと考えている。問題の一部は、彼らが理由もなく不適切な政治的語彙の罠にかかっていることである。「抑圧」「権威」「支配」などなど。しかしそれでもなお、彼らは、独特の不毛な形式、おそらくはウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』のいくつかの節で例示され、バルト自身の『S/Z』で不条理なまでに強調されたものに対する文学批評の偏愛を明らかにしている。そこでは文学作品は、限界も制限もない含みとほのめかしの源泉と見なされている。反対すべきことは、彼らがこの概念を、批評だけではなく、最悪にも、読むことそれ自体の範例に設定したことである。

広義の批評のコミュニティは、単純な意味の増殖にはすぐ飽きてしまい、文学の制度の外にも、それは足場を見出せない。科学、歴史、哲学の言説をエクリチュールと見なすことには見込みがない---不可能ではないとしても無意味である。意味を強固にし、構造と一貫性を探し求め、作品を伝統と実践の中に位置付けることは、常にそれよりも興味深く、より労力も多く、理解によって得られることも多い。そうすることは、威張りちらした権威主義の作者を復位させることとは何の関係もない。しかしそれならば、そのような人物は常に単なるフィクションだったのである。
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    <title>愛の哲学</title>
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    <published>2010-02-14T15:47:53Z</published>
    <updated>2010-02-14T16:27:02Z</updated>

    <summary>皆様、愛していますか。 つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタイ...</summary>
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        <![CDATA[皆様、愛していますか。


つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタインデーなので(24時すぎましたけど)、以前より関心のあった 愛の哲学について少しだけまとめてみます。


日本には、愛を哲学的に研究している人はあまりいません。哲学史家の人が、プラトンの愛の概念について述べていたり、バタイユのエロティシズムについて述べていたりなどの事例が少しあるくらいのものです。
しかし英語圏の分析哲学の世界では、愛の研究というのはそれなりにさかんです。主として倫理学的関心から論じられることが多いようですが、哲学史研究ではなく、愛そのものの哲学的研究がかなりの数存在します。


スタンフォード哲学事典の「love」の項目を中心にいくつかの論文を読んだので、それを中心にまとめます。
http://plato.stanford.edu/entries/love/index.html


「愛」のようなきわめて個人的な問題が哲学的探求の対象になるというのは、人によっては違和感もあるでしょう。しかし、愛は serious probrem であり、真剣な哲学的探求に値する重要な現象であると、少なくともわたしは考えます。愛についての心理学や社会学や歴史学ももちろん必要でしょうが、他の重要な問題と同様に、哲学的研究も必要なはずです。他の分野の研究とは違って、哲学的研究の場合、主として「愛の定義」や、「愛はわれわれにどういう規範を要求しているか」などといった論理的・概念的な事柄が問題にされます。
こうした議論を通じて、愛について改めて考えを深めることができれば、すばらしいことではないかと思います。



* 用語
ここでいう愛は、恋人や配偶者への愛を中心として、友人に対する友愛や家族への愛までを含むものです。ただし、主として人に対する愛のみを対象としています。


また、細かい話になりますが、日本語で「愛する人」と書くと、「whom I love わたしが愛を向けている人」を指しているのか「who loves someone 誰かを愛している人」を指しているのか曖昧になってしまいます。ゆえに、日本語として不恰好ですが、ここでは「愛をしている人」「愛をされている人」という表現を用いることにします。
花子が太郎を愛しているとき、花子は愛をしている人であり、太郎は愛をされている人です。愛が相互に成立している場合には、これがお互いにとってお互いに成り立ちます。つまり、花子は「太郎に対して愛をしている人」である一方、太郎も花子を愛しているならば、花子は「太郎の愛をされている人」でもあります。



* 愛の定義
Helm の記事は、これまでに提出された愛の定義を「合一(union)説」「強固な関心(robust concern)説」「価値付け(valuing)説」「感情(emotion)説」の4つに分類しています。これは排他的な分類でも網羅的な分類でもないのですが、主として愛を「個人的態度」として定義する立場と、「人の関係性」によって定義する立場の2つに分かれるようです。すべてを紹介するのは大変なので、ざっくりと2つの方向性に分けて紹介してみましょう。



** 個人的態度としての愛
愛を愛をしている人の個人的態度によって定義する場合、一番シンプルで分かりやすいのは、Helm が「強固な関心説」と呼んでいるものです。強固な関心説は、愛を、利他的な関心によって定義します。この立場としてあげられているのは、Frankfurt, Taylor, Sobleなどです。

たとえば、「太郎が花子が愛している」を、「太郎は、花子のための花子の利益に関心を持つ」という風に定義するわけです。

孫引きになりますが、Taylorの定義を紹介します。
>>
要約: もし x が y を愛しているならば、x は y の利益や y とともにあることなどを望み、また x がこれらの望みを(少なくともそのいくつかを)持つのは、x は y がいくつかの確定的な特徴ψを持っていると信じており、その特徴のために y が利益を得たり、y とともにあることは価値のあることだと考えるからである。x はこれらの望みを充足することを、目的と見なしており、他の何らかの目的に対する手段とは見なしていない。
To summarize: if x loves y then x wants to benefit and be with y etc., and he has these wants (or at least some of them) because he believes y has some determinate characteristics ψ in virtue of which he thinks it worth while to benefit and be with y. He regards satisfaction of these wants as an end and not as a means towards some other end. 
<<

「確定的な特徴ψ」という部分がわかりにくいですが、この部分は、愛の対象となる人に価値を与えているような肯定的な特徴のことを言っていると思われます。たとえば「花子の笑顔がかわいいので、花子が幸せになるのは価値のあることだ」と太郎が考えているなら、太郎は花子を愛しているのです。



価値付け説や感情説も(少なくとも個人主義的なバージョンのそれは)、大きくは異なりません。
それらの立場は、愛をされている人の利益を望むことを、ある種の「感情」と呼んだり、愛をされている人が持っている「価値」と考える点で区別されます。どの立場も、「役に立つから利用してやれ」という道具的な欲求とは区別された、愛の対象それ自体の利益を問題にします。
なお、価値付け説に関しておもしろいのは「価値の発見」と「価値の創造」が区別されていることです。愛をされている人が利益を享受するだけの価値を持っているとして、その「価値」は、元々その人が持っていた価値を「発見」したのか、それとも「創造」したのか。つまり価値があるから愛するのか、愛するから価値があるのか。
これは、後述する「愛は正当化できるか」という問題との関係で重要になってきます。



Helm は、愛を個人の態度に還元するような定義に対し、一面では真実をついていることを認めながら、厳しい評価を下しています。
Helm にとって最大の問題は、これらの定義は弱すぎて、愛の「深さ」を説明できないことらしいです。単に利他的な関心を持つことが愛なのであれば、それは「好意」や「尊敬」とあまり変わりないことになります。しかし愛というのはわれわれ自身を大きくゆさぶり、人生を変えてしまうようなものではないかと言いたいようです。
Helm の議論はともかく、Kolodny(2003)のケースがおもしろいです。
>>
Kolodny が、娘のクラスメイト、フレッド・サイモンを助けたいという基礎的衝動を抱いて目をさましたと仮定しよう。フレッドは Kolodony にとって、クラス名簿で名前を見たことがあるという以外、まったくの他人である。
Kolodny には、フレッド個人を助けることにこだわるようなポイントは特に何もない。ただ気がつくと、「サイモン坊やを...助け...なければ」と考えているだけである。
Kolodny はフレッドを愛していないように思われる。Kolodny がフレッドに対してとっている態度がいかなるものであろうとも、それは Kolodny の自分の娘に対する愛と同じ種類のものではない。
<<
このケースのように、利他的な関心を何の理由もなく突然抱いた場合、その関心がどれほど利他的なものであっても、愛とは呼べないように思われます。この批判は、独立した精神的態度を一つ取り上げることで愛を定義する困難さをうまく突いています。
一方、単純な関心によって愛を定義する試みを不十分に感じる論者は、愛を、人の関係性に注目することによって定義しようとします。




** 関係としての愛
合一説は、愛を「わたしたち we」の形成(あるいは形成したいという欲望)によって定義します。
わたしのためでもなく、あなたのためでもなく、<em>わたしたちのため</em>に行為する一人称複数の主体の形成こそが愛の本質であるという立場です。Scruton, Solomon, Nozick などがこの立場らしいです。
極端な立場になると、「わたしとあなたの境界が消滅する」とか「両者の魂が融合する」などとうわごとのようなことを言いだしますが、少なくとも、「わたしたちのため」に行為するような集合的な利益主体を想定することは、それほど奇妙には思えません。


しかし、この説にも批判はあります。まずこの「わたしたち」が一体何なのかを明らかにしないかぎり、まともな説明とは言えないでしょう。一部の論者はこれをただの比喩としていますが、別の論者は、「わたしたち」は文字通り世界に現われた新しい事物であると考えます。
そうした存在論的問題以外にも、この説を取ると、「愛による自己犠牲が理解できなくなる」という批判があります。合一説の場合、愛をされている人の関心は、私たちの関心となり、愛をしている人自身の関心にもなってしまうので、私たちのための行為はすべて本人が望んでやっていることになります。つまり、愛する人のために何かを我慢したり断念したりすることは、<em>定義上存在しない</em>ことになります。これは奇妙な帰結でしょう*。
<div class="note">* ただし、自己犠牲というのは本来、すべてそのようなものであるという議論は可能でしょう。つまり、自己犠牲とは、「わたしたち」の利益を「わたし」の利益よりも優先することを言うのです。確か、柏端達也さんが自己犠牲についてその種の議論をしていたはずです。
『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199164/ref=nosim/atakadaorg-22">自己欺瞞と自己犠牲</a>』
</div>


また「私たち」の形成は、愛の特徴付けとしては弱すぎるように思われます。たとえば、会社のような法人組織も、個々のメンバーの利益とは区別された「わたしたち」の利益を追求するはずですが、会社組織のメンバーが愛によって結ばれているとはかぎらないでしょう。愛を定義するためには、形成される「わたしたち」についてもっと踏み込む必要があります。



Helm や Kolodny は愛を形成するような関係性が歴史を持つものであることを問題にしています。
家族や友人や恋人たちがともに過した際の心理や活動がそれらの関係性の内実を形づくっています。また、Rorty(1986/1993)も、愛の定義としてではないですが、歴史的に変動していくような愛を、豊富な事例とともに描いています。


Helm(2009)は愛を、人を焦点とすることで結びつく一連の感情の複合体として定義しています。これらの感情複合体は両者の関心の共有や相互依存によって形成されています。
Kolodny(2003)は、愛を、家族や友人や恋人の関係性を理由とする(従ってこれらの関係性によって正当化される)一連の心理学的状態としています。この際、恋人や友人同士の歴史的関係性を背景として、それらの関係性自体や愛される人を価値付け、特定の関心を持つことが愛の構成要素となります(本当はもっとだいぶ細かい定義がありますが)。
細部をどうやって定義するのかが難しいですが、個人的には、この方向で定義を与えるのが一番うまくいきそうに思えます。Helm の議論は「焦点」という概念が明確でないように思われましたが、Kolodony の議論はおもしろいです。




* 愛は正当化できるか？
哲学の世界では、しばしば「原因による説明」と「理由による正当化」が区別されます。
原因による説明とは、原因を示すことで、何かが起らなければならないことであると述べます。一方理由による正当化は、理由を示すことで、何かがすべきことであると述べます。要するに、理由による正当化は、物理的現象の説明ではなく、社会的な規範にかかわるものであるわけです。


しばしば愛に原因はあっても理由はないと主張する論者がいます。つまり愛にはきっかけはあるが、特定の愛を正当化するような理由は無い。この主張は一見もっともらしく思われますが、愛には理由があるという議論にも説得力があります。
Kolodny(2003) は、愛に理由があるという主張を擁護するために3つの議論を提出しています。


** (1)一人称視点からの議論
愛を経験する人としての、一人称視点から見ると、愛を構成する感情や動機は、適切なものに思われます。たとえば、恋人に幸せになってほしいと願うとき、その欲求は、何の根拠も持たないものではなく、規範にかなった適切なものとして感じられます。煎じつめれば、「理由があるような感じがするだろ！」ってことですが、これも理由説を信じる動機の1つにはなるでしょう。


** (2)三人称視点からの議論
われわれはしばしば三人称視点で、愛を不適切であると主張したり、愛が無いことを不適切であると主張します。
不実な夫を愛する妻に苦言を呈したり、子どもを愛さない親に不満を述べたりします。愛に理由が無いのだとすると、これらの倫理的主張は何を述べているのでしょう。


** (3)感情や動機には理由がある
感情や価値付けや動機が愛の構成要素であると言われますが、これらの精神的状態には、ふつう理由があります。よって愛にも理由があるはずだという議論です。
一例として、感情はしばしば認知的な内容を前提としており、これが感情の理由であると言われます。

たとえば、わたしが、近所の犬を「噛みつくかもしれない」という理由で怖がっているとします。ところが、このとき「この犬は噛みつくかもしれない」という評価がわたしの恐怖の理由となっています。しかし、実は近所の犬は老犬で、人に噛みつくことなどありえないことが明らかになったとしましょう。このとき、わたしの恐怖は認知的な支えを失い、理由のない不適切なものであったことが判明します。
感情に理由があるならば、愛を構成する感情にも理由があるはずであり、よって愛には理由があるはずです。


さらに Kolodny のような論者は、愛を理由によって個別化されるものとして定義するので、「理由説を認めれば、そうした定義が可能になる」というのも、理由説の動機になるでしょう。


一方、理由説には以下のような批判があります。これに対する反批判も紹介しておきます。


** 人は、特定の理由をもとに人を愛することを選択するわけではない。
複数の理由を比較考量し、「よしこの人を愛そう」などと決断する人はあまりいません。「恋に落ちる」と言われるように、人はむしろ非選択的に誰かを愛するようになります。これは、一見すると、「愛に理由がある」ことと矛盾するように思えます。

しかし、何かが意志的でないことは、必ずしも理由の不在を意味するわけではありません。たとえば、先に例にあげた「感情」はふつう選択的に抱かれるものではなく、非意志的に湧き起こるものです。感情に理由があるとすれば、愛に理由があることも不可能ではないでしょう。



** 愛の対象は代替不可能である。
誰かを愛することが特定の理由によって正当化されるとすると、それらの理由をよりよく満たす人々もまた愛の対象として同様にふさわしいことになります。

たとえば、「花子はとても眼鏡が似合う」というのが、太郎が花子を愛する理由だったとしましょう。太郎の愛がこの理由のみによって正当化されるとすると、花子よりも眼鏡が似合う良子は、太郎の愛の対象としてよりふさわしいことになります。太郎は花子への愛を捨て、良子を愛すべきなのでしょうか。
無論現実には、「そばにいてくれれば誰でもよかった」とか「かっこいい方がいい」とか「お金を持っている方がいい」ということはあるでしょうが、愛の対象を代替することはふつう倫理的によろしくないこととされています。理由による正当化が愛に関する規範だとすると、この愛の対象の代替不可能性は何によって生じるのでしょう。


しかし、すでに述べたようにKolodny のような論者は、愛を正当化する要素を、歴史的関係性としています。「眼鏡が似合う」「かわいい」「若い」などのような個人的特質と違い、花子と太郎がこれまでに築いた関係性は、歴史を書き換えないかぎり、他の人間によって満たされることはありません。
よって代替不可能性の問題は、理由の不在を示す証拠にはなりません(ただし、Kolodny はこの代替不可能性と、正当化に必要な一般性を両立させようとしていろいろ苦労しているようです。この辺りの議論が成功しているかどうかは判断が分かれるところかもしれません)。


以上、きわめて不十分ですが、愛に関する哲学的議論のさわりを紹介しました。愛に関する哲学研究がもっと盛り上がりますように！



* 文献
-Helm, B. W., 2009, "Love, Identification, and the Emotions", American Philosophical Quarterly, 46:39-59.http://edisk.fandm.edu/bennett.helm/Papers/Helm-Love_Identification_and_Emotions.pdf
-Helm, B. W., 2009b, "Love" http://plato.stanford.edu/entries/love/
-Kolodny, N., 2003, "Love as Valuing a Relationship", The Philosophical Review, 112:135-89.http://sophos.berkeley.edu/kolodny/LVR.pdf
-Rorty, A. O., 1986/1993, "The Historicity of Psychological Attitudes: Love is Not Love Which Alters Not When It Alteration Finds", in Badhwar (1993), 73-88.
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