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        <title>うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ</title>
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        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2010</copyright>
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            <title>ラマルク「作者の死」</title>
            <description><![CDATA[Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," <i>British Journal Of Aesthetics,</i> 40:4(1990), pp. 319-31.


<i>Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology</i>, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41.
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1405105828/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41AGR53T82L._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)" title="Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)" /></a>
<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1405105828/ref=nosim/atakadaorg-22">Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)</a>


ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を読みました。
ラマルクは、分析美学(分析哲学の中の美学・芸術哲学)の研究者です。サブタイトルに「分析的検死」とあるように、本論文は、分析哲学というフランス現代思想とはずいぶん異なった学問的伝統に属するラマルクが、フーコーとバルトの著名な「作者の死」の議論を、分析哲学の流儀でまじめに取り扱ったものです。
対象となる論文は、フーコー「作者とは何か」、バルト「作者の死」の2本です。


<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462200481X/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/318KUKwd1YL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="物語の構造分析" title="物語の構造分析" /></a>
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089934/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51AZfC4TBPL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)" title="フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)" /></a>
<br clear="all" />


わたしも改めてこの2本の論文を翻訳で読んだのですが、この辺りの論文は、2人の書いたもののなかでも、特にアジテーションの色彩の強いもので、ほとんど論証しているようには見えません。
ところがラマルクは、これを非常にベタな哲学的議論として再構成し、検討と反論をくわえています。あれだけふわふわした文章をよくここまで再構成したと、個人的には非常に感心しました。


以下簡単に要約を。
まず、フーコー、バルトの論文では、歴史的に誕生し、死んだ(死ぬべきだ)と言われている「作者」は3通りに解釈できることが指摘されます。
-1. あるカテゴリーの人 (writer-as-author)
-2. あるカテゴリーの批評(author-based criticism)
-3. あるカテゴリーのテクスト(authored text)

これらのうち、1番目と2番目の解釈だと、彼らの主張はもっともらしく、穏当でもあるが、ごくふつうの主張になります。ところがこれは、3番目の解釈とは結びつかないし、どうもフーコー、バルトの本当の意見のようには見えません。

一方3番目の解釈で読むと、彼らのテーゼは非常に過激であり、おもしろくもあるが、非常に極端で同意しがたい意見となり、あげられている議論も失敗していると、ラマルクは主張します。


20年前、10年前にとっく紹介されているべきものだったと思います(発表は1990年)が、今読んでも十分におもしろいです。

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            <link>http://www.at-akada.org/blog/2010/03/post-300.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Wed, 03 Mar 2010 02:37:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>愛の哲学</title>
            <description><![CDATA[皆様、愛していますか。


つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタインデーなので(24時すぎましたけど)、以前より関心のあった 愛の哲学について少しだけまとめてみます。


日本には、愛を哲学的に研究している人はあまりいません。哲学史家の人が、プラトンの愛の概念について述べていたり、バタイユのエロティシズムについて述べていたりなどの事例が少しあるくらいのものです。
しかし英語圏の分析哲学の世界では、愛の研究というのはそれなりにさかんです。主として倫理学的関心から論じられることが多いようですが、哲学史研究ではなく、愛そのものの哲学的研究がかなりの数存在します。


スタンフォード哲学事典の「love」の項目を中心にいくつかの論文を読んだので、それを中心にまとめます。
http://plato.stanford.edu/entries/love/index.html


「愛」のようなきわめて個人的な問題が哲学的探求の対象になるというのは、人によっては違和感もあるでしょう。しかし、愛は serious probrem であり、真剣な哲学的探求に値する重要な現象であると、少なくともわたしは考えます。愛についての心理学や社会学や歴史学ももちろん必要でしょうが、他の重要な問題と同様に、哲学的研究も必要なはずです。他の分野の研究とは違って、哲学的研究の場合、主として「愛の定義」や、「愛はわれわれにどういう規範を要求しているか」などといった論理的・概念的な事柄が問題にされます。
こうした議論を通じて、愛について改めて考えを深めることができれば、すばらしいことではないかと思います。



* 用語
ここでいう愛は、恋人や配偶者への愛を中心として、友人に対する友愛や家族への愛までを含むものです。ただし、主として人に対する愛のみを対象としています。


また、細かい話になりますが、日本語で「愛する人」と書くと、「whom I love わたしが愛を向けている人」を指しているのか「who loves someone 誰かを愛している人」を指しているのか曖昧になってしまいます。ゆえに、日本語として不恰好ですが、ここでは「愛をしている人」「愛をされている人」という表現を用いることにします。
花子が太郎を愛しているとき、花子は愛をしている人であり、太郎は愛をされている人です。愛が相互に成立している場合には、これがお互いにとってお互いに成り立ちます。つまり、花子は「太郎に対して愛をしている人」である一方、太郎も花子を愛しているならば、花子は「太郎の愛をされている人」でもあります。



* 愛の定義
Helm の記事は、これまでに提出された愛の定義を「合一(union)説」「強固な関心(robust concern)説」「価値付け(valuing)説」「感情(emotion)説」の4つに分類しています。これは排他的な分類でも網羅的な分類でもないのですが、主として愛を「個人的態度」として定義する立場と、「人の関係性」によって定義する立場の2つに分かれるようです。すべてを紹介するのは大変なので、ざっくりと2つの方向性に分けて紹介してみましょう。



** 個人的態度としての愛
愛を愛をしている人の個人的態度によって定義する場合、一番シンプルで分かりやすいのは、Helm が「強固な関心説」と呼んでいるものです。強固な関心説は、愛を、利他的な関心によって定義します。この立場としてあげられているのは、Frankfurt, Taylor, Sobleなどです。

たとえば、「太郎が花子が愛している」を、「太郎は、花子のための花子の利益に関心を持つ」という風に定義するわけです。

孫引きになりますが、Taylorの定義を紹介します。
>>
要約: もし x が y を愛しているならば、x は y の利益や y とともにあることなどを望み、また x がこれらの望みを(少なくともそのいくつかを)持つのは、x は y がいくつかの確定的な特徴ψを持っていると信じており、その特徴のために y が利益を得たり、y とともにあることは価値のあることだと考えるからである。x はこれらの望みを充足することを、目的と見なしており、他の何らかの目的に対する手段とは見なしていない。
To summarize: if x loves y then x wants to benefit and be with y etc., and he has these wants (or at least some of them) because he believes y has some determinate characteristics ψ in virtue of which he thinks it worth while to benefit and be with y. He regards satisfaction of these wants as an end and not as a means towards some other end. 
<<

「確定的な特徴ψ」という部分がわかりにくいですが、この部分は、愛の対象となる人に価値を与えているような肯定的な特徴のことを言っていると思われます。たとえば「花子の笑顔がかわいいので、花子が幸せになるのは価値のあることだ」と太郎が考えているなら、太郎は花子を愛しているのです。



価値付け説や感情説も(少なくとも個人主義的なバージョンのそれは)、大きくは異なりません。
それらの立場は、愛をされている人の利益を望むことを、ある種の「感情」と呼んだり、愛をされている人が持っている「価値」と考える点で区別されます。どの立場も、「役に立つから利用してやれ」という道具的な欲求とは区別された、愛の対象それ自体の利益を問題にします。
なお、価値付け説に関しておもしろいのは「価値の発見」と「価値の創造」が区別されていることです。愛をされている人が利益を享受するだけの価値を持っているとして、その「価値」は、元々その人が持っていた価値を「発見」したのか、それとも「創造」したのか。つまり価値があるから愛するのか、愛するから価値があるのか。
これは、後述する「愛は正当化できるか」という問題との関係で重要になってきます。



Helm は、愛を個人の態度に還元するような定義に対し、一面では真実をついていることを認めながら、厳しい評価を下しています。
Helm にとって最大の問題は、これらの定義は弱すぎて、愛の「深さ」を説明できないことらしいです。単に利他的な関心を持つことが愛なのであれば、それは「好意」や「尊敬」とあまり変わりないことになります。しかし愛というのはわれわれ自身を大きくゆさぶり、人生を変えてしまうようなものではないかと言いたいようです。
Helm の議論はともかく、Kolodny(2003)のケースがおもしろいです。
>>
Kolodny が、娘のクラスメイト、フレッド・サイモンを助けたいという基礎的衝動を抱いて目をさましたと仮定しよう。フレッドは Kolodony にとって、クラス名簿で名前を見たことがあるという以外、まったくの他人である。
Kolodny には、フレッド個人を助けることにこだわるようなポイントは特に何もない。ただ気がつくと、「サイモン坊やを...助け...なければ」と考えているだけである。
Kolodny はフレッドを愛していないように思われる。Kolodny がフレッドに対してとっている態度がいかなるものであろうとも、それは Kolodny の自分の娘に対する愛と同じ種類のものではない。
<<
このケースのように、利他的な関心を何の理由もなく突然抱いた場合、その関心がどれほど利他的なものであっても、愛とは呼べないように思われます。この批判は、独立した精神的態度を一つ取り上げることで愛を定義する困難さをうまく突いています。
一方、単純な関心によって愛を定義する試みを不十分に感じる論者は、愛を、人の関係性に注目することによって定義しようとします。




** 関係としての愛
合一説は、愛を「わたしたち we」の形成(あるいは形成したいという欲望)によって定義します。
わたしのためでもなく、あなたのためでもなく、<em>わたしたちのため</em>に行為する一人称複数の主体の形成こそが愛の本質であるという立場です。Scruton, Solomon, Nozick などがこの立場らしいです。
極端な立場になると、「わたしとあなたの境界が消滅する」とか「両者の魂が融合する」などとうわごとのようなことを言いだしますが、少なくとも、「わたしたちのため」に行為するような集合的な利益主体を想定することは、それほど奇妙には思えません。


しかし、この説にも批判はあります。まずこの「わたしたち」が一体何なのかを明らかにしないかぎり、まともな説明とは言えないでしょう。一部の論者はこれをただの比喩としていますが、別の論者は、「わたしたち」は文字通り世界に現われた新しい事物であると考えます。
そうした存在論的問題以外にも、この説を取ると、「愛による自己犠牲が理解できなくなる」という批判があります。合一説の場合、愛をされている人の関心は、私たちの関心となり、愛をしている人自身の関心にもなってしまうので、私たちのための行為はすべて本人が望んでやっていることになります。つまり、愛する人のために何かを我慢したり断念したりすることは、<em>定義上存在しない</em>ことになります。これは奇妙な帰結でしょう*。
<div class="note">* ただし、自己犠牲というのは本来、すべてそのようなものであるという議論は可能でしょう。つまり、自己犠牲とは、「わたしたち」の利益を「わたし」の利益よりも優先することを言うのです。確か、柏端達也さんが自己犠牲についてその種の議論をしていたはずです。
『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199164/ref=nosim/atakadaorg-22">自己欺瞞と自己犠牲</a>』
</div>


また「私たち」の形成は、愛の特徴付けとしては弱すぎるように思われます。たとえば、会社のような法人組織も、個々のメンバーの利益とは区別された「わたしたち」の利益を追求するはずですが、会社組織のメンバーが愛によって結ばれているとはかぎらないでしょう。愛を定義するためには、形成される「わたしたち」についてもっと踏み込む必要があります。



Helm や Kolodny は愛を形成するような関係性が歴史を持つものであることを問題にしています。
家族や友人や恋人たちがともに過した際の心理や活動がそれらの関係性の内実を形づくっています。また、Rorty(1986/1993)も、愛の定義としてではないですが、歴史的に変動していくような愛を、豊富な事例とともに描いています。


Helm(2009)は愛を、人を焦点とすることで結びつく一連の感情の複合体として定義しています。これらの感情複合体は両者の関心の共有や相互依存によって形成されています。
Kolodny(2003)は、愛を、家族や友人や恋人の関係性を理由とする(従ってこれらの関係性によって正当化される)一連の心理学的状態としています。この際、恋人や友人同士の歴史的関係性を背景として、それらの関係性自体や愛される人を価値付け、特定の関心を持つことが愛の構成要素となります(本当はもっとだいぶ細かい定義がありますが)。
細部をどうやって定義するのかが難しいですが、個人的には、この方向で定義を与えるのが一番うまくいきそうに思えます。Helm の議論は「焦点」という概念が明確でないように思われましたが、Kolodony の議論はおもしろいです。




* 愛は正当化できるか？
哲学の世界では、しばしば「原因による説明」と「理由による正当化」が区別されます。
原因による説明とは、原因を示すことで、何かが起らなければならないことであると述べます。一方理由による正当化は、理由を示すことで、何かがすべきことであると述べます。要するに、理由による正当化は、物理的現象の説明ではなく、社会的な規範にかかわるものであるわけです。


しばしば愛に原因はあっても理由はないと主張する論者がいます。つまり愛にはきっかけはあるが、特定の愛を正当化するような理由は無い。この主張は一見もっともらしく思われますが、愛には理由があるという議論にも説得力があります。
Kolodny(2003) は、愛に理由があるという主張を擁護するために3つの議論を提出しています。


** (1)一人称視点からの議論
愛を経験する人としての、一人称視点から見ると、愛を構成する感情や動機は、適切なものに思われます。たとえば、恋人に幸せになってほしいと願うとき、その欲求は、何の根拠も持たないものではなく、規範にかなった適切なものとして感じられます。煎じつめれば、「理由があるような感じがするだろ！」ってことですが、これも理由説を信じる動機の1つにはなるでしょう。


** (2)三人称視点からの議論
われわれはしばしば三人称視点で、愛を不適切であると主張したり、愛が無いことを不適切であると主張します。
不実な夫を愛する妻に苦言を呈したり、子どもを愛さない親に不満を述べたりします。愛に理由が無いのだとすると、これらの倫理的主張は何を述べているのでしょう。


** (3)感情や動機には理由がある
感情や価値付けや動機が愛の構成要素であると言われますが、これらの精神的状態には、ふつう理由があります。よって愛にも理由があるはずだという議論です。
一例として、感情はしばしば認知的な内容を前提としており、これが感情の理由であると言われます。

たとえば、わたしが、近所の犬を「噛みつくかもしれない」という理由で怖がっているとします。ところが、このとき「この犬は噛みつくかもしれない」という評価がわたしの恐怖の理由となっています。しかし、実は近所の犬は老犬で、人に噛みつくことなどありえないことが明らかになったとしましょう。このとき、わたしの恐怖は認知的な支えを失い、理由のない不適切なものであったことが判明します。
感情に理由があるならば、愛を構成する感情にも理由があるはずであり、よって愛には理由があるはずです。


さらに Kolodny のような論者は、愛を理由によって個別化されるものとして定義するので、「理由説を認めれば、そうした定義が可能になる」というのも、理由説の動機になるでしょう。


一方、理由説には以下のような批判があります。これに対する反批判も紹介しておきます。


** 人は、特定の理由をもとに人を愛することを選択するわけではない。
複数の理由を比較考量し、「よしこの人を愛そう」などと決断する人はあまりいません。「恋に落ちる」と言われるように、人はむしろ非選択的に誰かを愛するようになります。これは、一見すると、「愛に理由がある」ことと矛盾するように思えます。

しかし、何かが意志的でないことは、必ずしも理由の不在を意味するわけではありません。たとえば、先に例にあげた「感情」はふつう選択的に抱かれるものではなく、非意志的に湧き起こるものです。感情に理由があるとすれば、愛に理由があることも不可能ではないでしょう。



** 愛の対象は代替不可能である。
誰かを愛することが特定の理由によって正当化されるとすると、それらの理由をよりよく満たす人々もまた愛の対象として同様にふさわしいことになります。

たとえば、「花子はとても眼鏡が似合う」というのが、太郎が花子を愛する理由だったとしましょう。太郎の愛がこの理由のみによって正当化されるとすると、花子よりも眼鏡が似合う良子は、太郎の愛の対象としてよりふさわしいことになります。太郎は花子への愛を捨て、良子を愛すべきなのでしょうか。
無論現実には、「そばにいてくれれば誰でもよかった」とか「かっこいい方がいい」とか「お金を持っている方がいい」ということはあるでしょうが、愛の対象を代替することはふつう倫理的によろしくないこととされています。理由による正当化が愛に関する規範だとすると、この愛の対象の代替不可能性は何によって生じるのでしょう。


しかし、すでに述べたようにKolodny のような論者は、愛を正当化する要素を、歴史的関係性としています。「眼鏡が似合う」「かわいい」「若い」などのような個人的特質と違い、花子と太郎がこれまでに築いた関係性は、歴史を書き換えないかぎり、他の人間によって満たされることはありません。
よって代替不可能性の問題は、理由の不在を示す証拠にはなりません(ただし、Kolodny はこの代替不可能性と、正当化に必要な一般性を両立させようとしていろいろ苦労しているようです。この辺りの議論が成功しているかどうかは判断が分かれるところかもしれません)。


以上、きわめて不十分ですが、愛に関する哲学的議論のさわりを紹介しました。愛に関する哲学研究がもっと盛り上がりますように！



* 文献
-Helm, B. W., 2009, "Love, Identification, and the Emotions", American Philosophical Quarterly, 46:39-59.http://edisk.fandm.edu/bennett.helm/Papers/Helm-Love_Identification_and_Emotions.pdf
-Helm, B. W., 2009b, "Love" http://plato.stanford.edu/entries/love/
-Kolodny, N., 2003, "Love as Valuing a Relationship", The Philosophical Review, 112:135-89.http://sophos.berkeley.edu/kolodny/LVR.pdf
-Rorty, A. O., 1986/1993, "The Historicity of Psychological Attitudes: Love is Not Love Which Alters Not When It Alteration Finds", in Badhwar (1993), 73-88.
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Mon, 15 Feb 2010 00:47:53 +0900</pubDate>
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            <title>『フィクションの哲学』検討会の雑感</title>
            <description>* 感想
ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。
本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。
なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ！



* 『フィクションの哲学』について
-前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか？
--1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない)
--もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか
---ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。
-この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。
--しかもかなり大胆な主張してるよね。
-この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない？
-ウォルトン+清塚の立場って、なんで非主張説のバリエーションじゃないの？
--作者の関与を認めないから？
-ウォルトン+清塚的には、フィクションというのは「想像を指定する道具」で、使用目的に沿った「公認の想像」が作品の内容とされる。
--道具の目的は何によって決まるの？というところで、作り手の意図を持ち出したくならないのだろうか？
--ウォルトン+清塚的には、「岩に入ったひび割れがフィクションの機能を持つかもしれない」(スワンプテクスト by kugyo)
--しかしたとえば、アマゾンの奥地で、「鉛筆の機能を持った木の枝」が発見されたとして、それを「鉛筆」と呼ぶか？
--(言わなかったけど)最近の慣習論とか機能論だと、機能を意図に還元しないで、「機能は複製元となった祖先との因果作用によって決まる」という説もある。ただその場合でも、清塚+ウォルトンの「岩に入ったひび割れがフィクションに見える」(スワンプテクスト)は、フィクションの機能を持たないはず。
--あと、岩に入ったひび割れがフィクションに見える例って、アニミズム信仰みたいな話であって、「擬人化」してないか？というのも気になる。「想像を指定する作者を想像してる」のでは？
-conchucame氏の「語り手を想定するのはなぜなの？」という話。
-フィクションの読み方がわからない読者というのも、かつてはたくさんいたはずで、近代読者の誕生みたいな話とも無関係ではないよね、とか。
-あと、最終的には「慣習」を持ち出して、説明が打ち切られるんだけど、慣習って何？って話はもう少しつめたいかな。「規約」だとすると、明示的な合意が必要なので、結局意図に訴えるしかないんじゃないか？とか。




* 打ち上げにて
-ベタに「本質主義」(に見える立場)を擁護しており、しかも勝てると思ってる人たちがいるというところで驚かれる(主にわたしですが))。
-分析哲学は「本質主義」を恐れない。
-なぜか？(以下「本質主義」という言葉はとてもルーズに使います)
--論理実証主義以来、ずっと対決してきた。分析美学の人たちも、「作者の死」を云々するヨーロッパ系の人たちとずっと対決しつつ作者や意図みたいな概念を復活させてきた。
-あと、論理実証主義がある種の「形而上学批判」を徹底させた上に、失敗して派手に死んでくれたおかげで、形而上学批判の問題点がクリアになったという側面もある。
--論理実証主義は歴史上はじめての「間違えることができた哲学運動」。
--間違えることができるくらいに明晰な主張をし、しかも研究プログラムをしっかり遂行しようとした(そして頓挫した)。
--そのおかげで、「検証主義」「知覚への還元主義」「規約主義」などというひとつひとつはもっともに見える哲学的主張の問題点が明らかになった。
--間違えることができるというのは自信につながった。
-(このときは言わなかったが、あとで考えると)自然言語の扱いが単純に進歩したというのもあるよね。「自然言語は曖昧であり、明確な定義や真偽はない」って言われたときに、「それは単純におまえが努力してないからだ。様相文の分析も、時制の分析も、行為文の分析も、反事実的条件法の分析も、みんなできるようになったじゃないか」と言えるようになったというか。
-一番素朴に見える立場をきちんと批判するのがいかに難しいかというのを噛みしめる日々なので、こういう風にふだん会わない専攻の人と話すと新鮮。
-「いやわたしは全然勝てると思ってるので」ということで、テクスト論との対決をちょっとする。
--擁護したい主張は、「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」などであった。
--懐疑主義への対応よろしく、「何でもあり派」「複数の矛盾する解釈を許す派」「読者を変数にする派」などに分けて対応する。
--しかし改めて考えると、ほとんど教科書的な懐疑主義への対応に近いものになった。「相手は過剰な不可謬性か極端な懐疑の二択を要求してくるので、そもそも不可謬性は必要ないことを確認する。可謬的な主張の中でよりましなものを選べばよいことを確認する。しかも極端な懐疑はなかでも特にもっともらしくないものであることを確認する」とか。
-この辺の話は、それぞれの業界においていろんな常識があるよねみたいな大人な対応とか、ベタに論争しようとする人とか、対立点をずらそうとする人とか、いろんな言説戦略があっておもしろかった。
--というか、「本質主義」の否定として持ち出されていたのは、繰り返し何度も見たような「柄谷行人が流行らせた過剰に懐疑主義的な観察決定論(行為の事後決定論)」だった気がする。「端的な主張というものはなく、観察者によって主張とされているものだけがある」みたいな。
-kugyo氏は、「解釈に真偽はなく、おもしろい解釈とつまらない解釈があるだけ」という立場らしい。
--『こころ』を読んであきらかにまったく関係のない小説の内容を読み取る読者(『こころ』を読んでるのに『ももたろう』だと思ってしまう人)は、間違ってるのではなく、極端におもしろくない解釈である、のか？
--じゃあ『こころ』を読んで、全然別のストーリーを読み取ってしまうんだけど、そのストーリーがすごくおもしろかったらどうする？
--『こころ』についての言明であるということを確保するのが、まずかなり大きな問題になるらしい(細部はよくわからなかった)。
--意図に言及しないで、どうやってあるテクストを個別化するの？
--徹底したテクスト論者なので、『こころ』を文字の途中とかで切ったものも『こころ』のテクストらしい。厳密に一致はしないんだけど、一致する部分がかなりあるので、何とか同じテクストについて語ってるように見える？
--最終的には、独我論 + 心に関する機能主義 + 汎テクスト主義みたいなものになるらしい...。そんな過激な立場だったとは知らなんだ。
-解釈言明が真理値を持つとして真理メーカーはどこにあるの？と言われる。
--そういえば、David Lewisの&quot;Radical Interpretation&quot;は、デイヴィドソンの話はあまりしないんだけど、「根源的解釈」を「意味に関する事実は物理的事実にスーパーヴィーンするか」問題への解答として理解するという感じの内容だった気がする。
--http://philpapers.org/rec/LEWRI
--善意の原則とか、いろんなルールを駆使して、欲求、信念、意味に関する事実を相互に決定していくイメージ。
--細かい部分はともかく、わりとこんな感じで決まるんじゃないかというイメージは持ってるかなー。このプロセスって結局最終的には、本人の生物学的状態とか行動(not 行為)から決まるはずなので、それが真理メーカーになるかな。いや、正直そんなに自信はないけど。あとこれはもちろんフィクションにそのまま適用できる話ではない。
--うまくいくかどうかわからないこの手の試みをあげるより、もっと、なぜ(現状では、有効な真偽の決定手順など無いのに)「それでも真偽はあるはずだと期待するのか？」という話をした方がよいような気もする。
-人がふだん行なっている解釈(解釈という言葉もあまり好きではないので別の言い方をすれば理解)は、おもしろさではなく、真偽を問題にしているように思える。「この文書で太郎はpと主張している」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろい」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは真である」と言っているように見えるし、その否定、「この文書で太郎はpと主張していない」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろくない」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは偽である」と言っているように見える。
--そして、それらの言明と、それらの言明に対する判定が、まったく何の合理性も持たない行きあたりばったりの判定を行なっているようには見えない、というあたりがポイントか。
--あと「解釈のおもしろさ」が問題になることがあるのはわかるのだが、それってかなり限定された特殊な文脈であって、常にそうではないよねと思っているかな。
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">もよおし</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Tue, 26 Jan 2010 10:19:57 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>清塚邦彦『フィクションの哲学』検討会のためのレジメ</title>
            <description><![CDATA[あしたの検討会のためのレジメです。

-検討会で人に見せたら変更したくなると思うけど取りあえずアップしておきます。
-書き方がえらそうでごめんなさい。



* 本書の目的
「フィクションの概念分析」

** フィクションの概念分析とは何か
「フィクション」という概念に関する諸原理を明らかにする。
ただし、
「フィクション」は多義的である。
たとえばフィクションには以下のような相異なる意味がある。
-(1)虚偽
-(2)実在と対応しないもの
-(3)文学作品

本書は、
(3)の意味を基本としつつ、
-より包括的で
-より見通しのよい
フィクション概念を提案する。


より包括的であるとはどういうことか？
-絵画、彫刻、演劇、映画などの非言語的作品も包括する。


より見通しのよいとはどういうことか？
-問題領域についてよりよい理解が得られる
--一貫したシンプルな原理によってフィクション概念の本質を捉える
--フィクションにかかわる諸事象を説明できる



** 評価の観点
「より見通しのよい展望」(P17)について、本書にはあまり説明がない。
しかし、アドホックで非一貫的な概念の拡張は、明らかに理解を阻むものである。
また「見通しのよい」というからには、フィクションにかかわる事象をうまく説明できなければならない。
従って、
-一貫したシンプルな原理に従う概念を提示しているかどうか
-フィクションにかかわる事象をうまく説明できるかどうか
が本書に対する評価の観点になる。


フィクションにかかわる事象をうまく説明するとはどういうことか？
「線引き問題」(ある対象をフィクションに含めるかどうか)については以下のような対応が求められるはずである。
-「非フィクション」とされてきた対象を新たにフィクションに含める場合は、
--従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
--より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれること
を論じるべきである。
-「フィクション」とされてきた対象を非フィクションとする場合は、
--従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
--より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれないこと
を論じるべきである。


それ以外の問題(作者の問題、フィクションの特徴はあるか...etc.)については、以下のような対応が求められるはずである。
-シンプルな原理によって明確な説明を与えること
-なるべく非直観的な結論に陥らないこと




** 本書の結論
本書の議論は、以下のように要約される。
-文学的フィクションの基本的な特徴は「作者と語り手の分離」である。
-「作者と語り手の分離」はごっこ遊びの理論によって説明できる。
-非言語的フィクションはごっこ遊びの理論によって説明できる。
-従ってごっこ遊びの理論に基づくフィクション概念こそが、より見通しがよくより包括的なフィクション概念である。


従って、議論の検討のためには、清塚の「ごっこ遊びの理論」が上にあげた要請に従っているかをチェックすればよい。



* 1章 フィクションの統語論
** 本書の結論
-フィクションを定義づけるような一連の統語論的特徴(虚構記号)はある。
-それらの統語論的特徴は、必要十分条件群を構成する。
-それらの統語論的特徴は、「作者と語り手の分離」の表れである。
-しかし統語論的考察のみによってフィクション概念を明らかにすることはできない。


統語論的特徴としてあげられているもの
-(a)過去を表現しない過去形
-(b)体験話法 / 自由間接話法
-(c)作者と語り手の名前の不一致


従って、本書によれば、
(xがaをもつ) OR (xがbをもつ) OR (xがcをもつ) <==> xはフィクションである。


以下のような事例がこれに対する反例となる
十分性に対する反例:
a, b, c のいずれかを持つが、フィクションでないもの
必要性に対する反例:
a, b, c をいずれも持たないが、フィクションであるもの



** 慣習的特徴と統語論的特徴
慣習的特徴とは？
必ずしも必要ではないが、それを持つことによっていかなる行為をしているか理解しやすくなるもの。
-おじぎの際に、帽子を脱ぐこと
-警察官が職務の際に制服を着用すること
-「わたしは約束する」

帽子を脱がなくてもおじぎできるし、制服を着用しなくても警察官の職務を遂行できるし、「わたしは約束する」という文を使わなくても約束できるが、それらがあることによって「何をしているか」を容易に理解させられる。


統語論的特徴とは？
本書が何を統語論的特徴と呼んでいるのかわかりにくいが、一般に統語論的特徴を問題にできるのは、反事実的条件法が過去形によって表現されるケースなど、意味論的構造と統語の構造が密接に結びついたケースであると想像される。
これは、「なくてもよい」という性格のものではないだろう。

たとえば「約束」には慣習的特徴はあっても、統語論的特徴は存在しないように思われる。


疑問
フィクションの統語論的特徴はあるのか？ 清塚があげている虚構記号は慣習的特徴ではないか？



** a: 過去を表現しない過去形について
「明日は...だった」という文はフィクション以外にも登場する。たとえば、フィクションではない過去の思い出話をするときにも、この表現を用いることはある。

ex. 「2年前の今日、僕は修論の準備をしていた。まだ半分しか書けておらず、とてもあせっていた。何しろ明日が修論の締め切りだったのだから」
以上のような語りの「僕」は文字通り話者を意味しており、語り手と話者の分離は生じていないように見える。
「(フィクションを含め、語りの臨場感を表現したい場合に)臨場感を増すために、『その日』や『次の日』ではなく『今日』や『明日』などの表現を使う」という方が自然な説明ではないだろうか。



** b: 体験話法 / 自由間接話法について
他人の内面についての詳細な記述や、誰もいない場所からの記述など、「語りえない文」について。
>>
われわれはふつう、自分が考えていることや考えていたことについてならば権威をもって断定的に語りうるが、他人が考えていることや考えていた事柄については、間接的な証拠にもとづいてしか語ることができない。p28
<<
「語ることができない」というのはどういう意味か。「慎重な人ならばそのような断定は避けるべきだ」という倫理的な主張や「避けることが多い」という頻度の主張なら理解できるが、われわれにはそのような語りを行なう言語的能力がないという意味なら、明白に間違っていると思われる。
「間接的な証拠にもとづいてしか語ることができないp28」「推測的にしか語れないp29」というのはどういう意味か？ 見間違いの可能性などを考えれば、われわれの語りの内のほぼすべてがそうである。しかし疑いを持つ十分な理由がない場合には、可謬的な主張を断定的に語ることはおかしくない。フィクションの場合に、他人の内面に関する詳細な記述が多いのは事実だろうが、程度の違い、量の違いにすぎないように思われる。


たとえば、
>>
わたしの目の前の人物は、蠅がまとわりついてきて不快だと思っている。
<<
この文がフィクション以外の文章に表われたとしても、統語論的な規則に違反しているとは言えない。
さらに言えば、自分の読心能力に自信を持っている人ならば、フィクション以外の場面でも他人の内面についても詳細な記述をくわえようとするだろう。自称読心家は、話者と語り手の分離をすることなく、周囲の人間の内面の詳細について真剣に主張する。
自称読心家は愚かかもしれないが、統語論的規則を犯しているわけではない。


また、「物語の内容に照らせばだれもいないはずの視点から、延々と克明な記述が展開されることになる」ような語り(p30)も「語りえない文」であると言われているが、これも疑わしい。
この議論は、「われわれは直接目で見たものしか報告できない」という奇妙な前提に立っているように思われる。しかし後から密室の状況について報告を受け、特に疑う理由がなければ、密室の状況に関する記述を断定的に行なってもおかしくない。もしそれが「語りえない文」であり、フィクションのなかにしか登場しないのならば、自分が生まれた以前の事柄について述べる歴史家もフィクションを語っていることになってしまう。
通常考えられないほど他人の内面や状況について詳細な記述があるというのは、単に「話を盛り上げるための大げさな語り口」ではないだろうか。



** c: 作者と語り手の名前の不一致
「作者と語り手の分離」を満たすものがフィクションであるとすれば、フィクション以外に、作者と語り手の名前の不一致が生じるものはないだろう。現実の話者と語り手が同一であるにもかかわらず、名前が異なるというのはまるで意味がわからないからである。
しかし「名前」はそもそも統語論的特徴なのだろうか。
仮にそれが統語論的特徴なら、問題にすべきなのは、単なる記号の列としての「名前」であり、指示された人物ではない。
つまり、作者と語り手が同性同名であった場合には、両者の名前は同じなのだから、この虚構記号は存在しないことになる。

p34周辺には「作品は解釈されたテキストである」という主張がでてくるが、仮にこの主張が正しいとしても、「解釈」や「文脈」は意味論や語用論に属するものであって、統語論的特徴ではない。

ただし、この要素を、フィクションの十分条件と見なすことについては異論はない。



** ノンフィクションはフィクションか
ノンフィクションにも虚構記号は表われるという主張に対し、清塚は以下のように反論している。
>>
キャロルがこの種の事例の具体例として想定しているいわゆる「ノンフィクション小説」は、本章で見てきた一連の虚構記号をふんだんに用いている。つまり、そこには過去を表さない過去形や、自由間接話法や、作者と語り手の名前の相違といった特徴がごく普通に登場する。そのかぎりで、これらの作品は、現実の作者その人によるストレートな事実報告とはみなしがたい非現実の語りによって構成されていると考えざるをえない。p45
<<
この中で、唯一「名前の相違」だけは、フィクションであることの十分条件になっていると思われる。しかし作者と語り手の名前が異なるノンフィクションというのは想像しがたいのだが、どういう作品を想定しているのだろう。
一方「過去を表わさない過去形」や「自由間接話法」については、それらが「語られえない」という議論の方が疑わしい。


しかもノンフィクション小説に書かれていることは、通常直接の著者の語りと見なされているし、作者と語り手の分離は生じないのではないだろうか。
たとえば、トルーマン・カポーティの『詩神の声聞こゆ』に登場する「私」は普通カポーティ自身と見なされている。
>>
外交官の訓示を聞きに行くのに、私はミセス・アイラ・ガーシュインと、元ボクサーでいま歌手のジェリー・ローズという角刈りの筋骨たくましい男と、一台のタクシーに同乗した。
<<

三島の『仮面の告白』などとは違い、この「私」を著者自身と解することにためらいは無い。
「私」が登場しないタイプの三人称的ノンフィクションの場合でも、地の文は著者の意見と見なされるのが普通だろう。知りえないと思われる状況について詳細な記述があったとしても「著者自身が大げさな記述を行なっている」と見なされるだけではないだろうか。不正確な記述について著者自身に問いただすことがあってもおかしくはない。問いただすことに対して「野暮である」とか「何を大袈裟な」という反応は返ってくるかもしれないが、フィクションの語り手の責任を著者に問いただすようなカテゴリーミステイクは生じていない。
またわれわれが不用意な断定を「大めに見る」ことが多いとしても、それはわれわれが日常そこまで正確さを要求しないというだけのことにすぎない。フィクション概念とは何の関係も無いように思われる。



[補足と疑問]
清塚の言う「作者と語り手の分離」を狭く解釈した場合、清塚のあげている虚構記号は(論理和としても)まったく必要十分条件になっていないように思える。清塚のあげている要素の内、「過去形」と「体験話法」は単に語りを盛り上げるための技法であって、フィクションの場合以外にも表われるように思える。
ひょっとして著者は、「物語的語り口」それ自体を広い意味での「語り手と作者の分離」と見なしており、「物語的語り口全般」をフィクションと見なしているのだろうか？
しかし歴史書や日記はフィクションに含めないと書いてある(p4)。
おそらく、この点は「作品をおしなべてフィクションとして扱う」というウォルトン流の方針と一貫しているのだろう。ゆえに、後半にまとめて検討した方がいいように思われる。






* 2章: フィクションの意味論
** 存在に関する立場
-(A)xがフィクションである <=> xは指示しない名前しか含まない
-(B)xがフィクションである <=> xは指示しない名前も含む
-(C)フィクションであるかどうかと指示しない名前を含むかどうかは独立

本書の立場は(C)である。


(C)に関する清塚の議論
C-1: 非現実の対象を指示しても虚構的な発言とはかぎらない。
(虚構に関する発言と虚構的な発言の違い)。

C-2: 非存在を指示するわけではない虚構的な発言もある。
a) 実在の登場人物だけが登場する小説。
b) 非存在の出来事が一つもない小説。

著者によれば、ノンフィクションもフィクションなので、存在するもの・出来事しか指示しないフィクションもあるらしいが、この議論自体がかなり疑わしく思える。
ただし、ノンフィクションもフィクションであるという見解に対する議論はすでに扱ったのでここでは置いておく



** 真偽に関する立場
虚偽説(虚構的言明は虚偽である)の否定。
省略



* 3章
省略



* 4章 フィクションの言語行為論
本章では虚構的言説を言語行為(発語内行為)として分析する立場が検討される。
著者はこれらの分析に対して否定的な立場を取っている。

著者は言語行為論的なフィクション論を寄生説と独自説の二つに分けているが、独自説を否定する議論だけで、議論はつきていると思われるので、その議論のみを扱う。


カリーやラマルクなどの論者によれば、虚構的言説は独自の発語内行為であり、以下のような意図を持って発話される。
-(1)受け手が、文面どおりの発語内行為が行われている、とごっこ遊び的に想像すること、
-(2)受け手がUの意図(1)を認識すること、
-(3)受け手がUの意図(1)を認識し、そのことにもとづいて、意図(1)のとおりのごっこ遊び的想像を行うこと


著者の反論
-意図による分析ではフィクションを扱いづらい。
-なぜなら、多くのフィクションには間接的な形で受け手に情報を伝達しようという意図が伴っているからである。


著者は、カリーやラマルクと自身の対立点は、ノンフィクション(間接的情報伝達意図が伴うもの)をフィクションに含めるかどうかだと弁明するが、これはよくわからない(そもそも意図による区別は、後での議論でも否定しているのではないか)。
-まず、フィクションだろうと間接的な形で情報伝達意図を伴うことがある(経済小説のような場合)。
-しかし「間接的」「直接的」という区別ができているのであれば、それを明確にしていけばよいだけである。


たとえば、「間接的」な意図によって実現される情報伝達は、発語内行為というよりは発語媒介行為のように思われる。よって、虚構的言明は、上記の意図をもってなされる発語内行為であるが、それが発語媒介行為の意図をも伴うことがあると言えばよい。




* 第5章 ごっこ遊びの理論
ウォルトンのごっこ遊びの理論に依拠する清塚によれば、フィクション作品は想像によって構成されるごっこ遊びmake-believeのゲームである。
想像とごっこ遊びについて簡単にまとめると、
-想像は命題的な内容を持つことがある。
-想像はその対象を持つことがある。 ex. 切り株を熊にみたてる。
-ごっこ遊びのゲームとは、与えられた小道具propを対象として、特定の想像に興じるゲームである。
--その際、ごっこ遊びのゲームにおいては、背景的規則(生成原理)が対象と想像を結びつける。
--また、ごっこ遊びのゲームにおいては、小道具が指定する公式の機能による公認の想像と非公認の想像がある。
-フィクション作品はごっこ遊びの小道具である。



** 想像が命題的な内容を持つとはどういうことか？
命題的な想像とは、「想像する」という語が完結した文の形を目的語に持つ場合に言及されているような想像のことである。
ex. 「太郎は熊がダンスすることを想像する」


ここで想像は、命題的態度と呼ばれるもののバリエーションとなっている。
この命題的想像の概念がウォルトンの議論のひとつのポイントになっている。


この際、「想像」はなぜ命題的内容を持つと言われるのか？
清塚はあまり踏み込んでないが、何かが「命題的」であるということは、それほど自明ではないだろう。
以下、レジメ作成者がポイントだと思う点をあげておく。


【真偽】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は真偽を持つ。
「太郎は熊がダンスすることを想像する」のような場合でも、太郎の想像は真であったり偽であったりするように思われる。ゆえに想像は真偽を持つ。このことは、「命題的な内容を持つ」と言われることの一つの理由になるだろう。


【帰結】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は論理的帰結を持つ。
ex. 「熊がダンスをする」 -> 「何かがダンスをする」


一般に、q が p の論理的帰結であるとき、以下の p', q'についても q'はp'の論理的帰結であるように思われる。ゆえに想像は帰結を持つし、論理的帰結について閉じていると考えられる。これもまた想像が命題的な内容を持つと言われる理由になるだろう。
p': 「x が p を想像する」
q': 「x が q を想像する」


たとえば、太郎が熊がダンスをすることを想像しているとき、太郎は何かがダンスをすることを想像している。
後者の想像は太郎によって意識されてはいないかもしれない。しかし何かがダンスをすることを想像せずに、熊がダンスすることを想像することは不可能であるように思われる。




** 評価
命題的想像という概念を持ち出すことによって何が可能になっているか？
=>「作品世界」やフィクションの「内容」という困難な概念に、より詳細な規定を与えられる
=> 視覚的なフィクションについても内容を扱える
なお、「世界」も「内容」も「命題」と相性のよい概念である。


フィクションと呼ばれる作品は、一般に、「ストーリー」や「作品世界」と呼ばれるような一連の内容を持っているように思われる。
想像の命題的な内容に注目することによって、これを簡単に規定できる。
つまり、
鑑賞者が想像する内容の内で、作品が指定した「公認の想像」の命題的内容こそが、作品の内容である。
と言えばよい。


それ以外の方法で同じことを規定するのは難しい。
たとえば、「作者が意図した内容」に注目する場合、作品の内容を規定する叙述と、より間接的な意図の違いを規定するのが難しくなる。
テキストに注目した場合は、「文」と「内容」の関係を扱うのが困難であるし、作品世界についての単純な叙述と、それ以外の主張や命令や疑問などの違いを区別するのが難しい。
また視覚的作品を同じ方法で扱うことはほぼ不可能だろう。



逆に、この議論の中で、理論的負荷がかかっているのは、「公認の想像」と「非公認の想像」を分ける部分だと思われる。清塚やウォルトンは慣習を持ち出すことで説明を済ませているが、その詳細はあまり明らかにされていない。





* 6章: 視覚的なフィクションをめぐって
** フィクション/ノンフィクションの連続性を巡る議論
清塚は、フィクションとノンフィクションの連続性について以下のように主張する
-清塚の依拠するフィクション概念は、ごっこ遊びの理論によって明確な規定を与えられている。
--ただしそこにフィクションとノンフィクションの区別は存在せず、作品のかなりの部分がフィクションとして説明される。
-一方、フィクションとノンフィクションを区別すべきだという論者は、区別のための明確な説明を欠いている。
-一貫した説明を与えようとすれば、フィクションを清塚のように扱うべきである。

しかし、フィクション / ノンフィクションの区別については、もう少し追求できると思うので、この区別を擁護する議論のバリエーションを2つ提出する。



** 意図による議論
まず「信じつつ想像する」ことと「真偽に頓着せずに想像する」ことを区別しよう。
真偽に頓着せずに想像するとは、想像の真偽を気にせずに想像することである。
信じつつ想像するとは、「50年前、この場所は草原だったんだ」と言われて想像する場合のように、信じている命題を想像することである。歴史史料館にあるような人形による再現風景のような小道具は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームを構成する。


さて、ある作品がノンフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「信じつつ想像すること」だけを求める場合である。一方ある作品がフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「真偽に頓着せずに想像すること」を求める場合もあるときである。



** 作品の機能による議論
ウォルトンや清塚も、作品によって促される想像のなかには、作品の機能によって規定された「公認の想像」と「非公認の想像」があることを認めている。
作品がある想像を公認し、ある想像を公認しないというというケースを認めるなら、作品が「信じつつ想像する」ことを公認し、「真偽に頓着せずに想像する」ことを公認しないというケースもあってよいように思われる。ノンフィクションと呼ばれるような作品は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームをその機能とする。
ある作品がノンフィクションであるとは、作品によって規定された「公認の想像」が「信じつつ想像する」ことだけであるときである。




* 7章 
省略




* 本書への評価
感想的にちらほらと。
いくつかの議論は、受け入れがたい。特に「ノンフィクションもフィクションである」というあたりは何を言っているのかわからない。
しかし「語り手と作者の分離」という規定とごっこ遊びの理論を結びつけるあたりはうまく機能していると思った。統語論的特徴や意味論的特徴にこだわるのはやめて、「語り手と作者の分離」について、ごっこ遊びの理論との関係を直接詳細に論じておくべきではなかったのか？
ウォルトンの議論を全面的に受け入れるのはやめて、真偽とフィクションの関係についてもう少し踏み込むこともできたのではないか？という部分が残念。
]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2010/01/post-297.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Sat, 23 Jan 2010 22:28:35 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>清塚邦彦『フィクションの哲学』（非公式）合評会</title>
            <description>「清塚邦彦『フィクションの哲学』（非公式）合評会」というのをやります。


内輪で数人で検討するだけですが、興味のある方はぜひ。
わたしもレジメを書く予定です。
&gt;&gt;
清塚邦彦『フィクションの哲学』（非公式）合評会

日時　1月24日（日曜日）

　　　13：00より

場所　東京大学本郷キャンパス

　　　法文二号館2213

　　　美学芸術学研究室
&lt;&lt;
http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20100114/p1#</description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2010/01/post-296.html</link>
            <guid>http://www.at-akada.org/blog/2010/01/post-296.html</guid>
            
            
            <pubDate>Sun, 17 Jan 2010 23:56:37 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>コニー、サイダー『形而上学レッスン(存在のなぞなぞ)』</title>
            <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323173/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41f1ib9FpiL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)" title="形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)" /></a>
<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323173/ref=nosim/atakadaorg-22">形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)</a>

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<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0199215189/ref=nosim/atakadaorg-22">Riddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics</a>

論争ばかりしているのもどうかと思ったので本の紹介でも(いや、論争は論争でたのしいし有益ですよ)。
ついに、日本語で(比較的)平易に読める「(分析哲学的)形而上学の入門書」がでました。すばらしい！

売れてほしいので紹介しておきます。
これはこの分野に関心があれば(なくても関心のあるトピックがあれば)、必読ではないですかね。
以下のようなトピックについて、主流の説いくつかとそれを批判する論点が紹介されています。
日本語の最近の入門書などは、どの分野でも文献紹介がきちんとしてないものも多く非常に遺憾ですが、この本は文献紹介も各章ごとについています。興味のあるトピックがあれば、その章だけ読むこともできますし、各問題への入り口としても適切ではないでしょうか。
>>
目次
-第1章 人の同一性
-第2章 宿命論
-第3章 時間
-第4章 神
-第5章 何かがあるのはどうしてか
-第6章 自由意志と決定論
-第7章 物体の構成
-第8章 普遍者
-第9章 必然性・可能性
-第10章 形而上学とは何か
<<


まず、サイダーの担当した章はどれも啓発的で大変素晴しかったです。
「人の同一性」にしても「時間」にしても「自由意志と決定論」にしても、必ずひとつふたつくらいはよく知らない論点や目のさめる指摘があり、「おおーなるほどー」と思わされました。どのトピックについてもぐっと引き込まれるような書き方をしてくれているので、興味を持つきっかけとしても良いです。

コニーの章はやや癖があって、わかりにくい部分も見られましたが*、個人的にはなじみのない議論を紹介してくれており興味深かったです。特に神学的議論は知識が欠けているところなので、勉強になりました。
しょうもない話ですが、「神が存在するのでー」とかはじまると、わたしは「もうダメだ！ 論理的な話が通じない！」と思考停止しがちなのですが、「神の存在」からはじまる議論に対しても、「いや、神が存在するとしても、これこれこういう理由で、必然性の定義には役立たない」みたいなロジカルな反論を提出するところはさすがアメリカの哲学者だなというところです。


<div class="note">
 * 特に、「これ日本語で書いてあるけど、きっとこういう論理式を想定しているのかなー」などといちいち想像しなければならないのが大変でした(二章など)。本の制約上式を入れたくないのはわかるのですが、ぎこちなく感じてしまう部分が多かったです。その点サイダーの「時間」の章などは、図の使い方がたくみでした。
</div>



以下、いくつかの章で扱われる問題と、(誰も知りたくないでしょうが)わたしの個人的な意見について触れます。
-第1章 人の同一性
文字通り、「人の同一性は何によって決まるのか」という問題です。

主として「魂説」と「時空的連続性説」「心理的連続性説」が検討されます。
そしてすべてを破壊する「分裂」の議論。大抵どんな基準をとっても、個人が二人に分裂するケースを考えることができてしまい、やっかいなことになります。
一番SF的な魅力のある章かもしれません。
個人的には、「人間の同一性は身体のみによって決まる」という説に若干魅力を感じるのですが、説得力があると思うのは「脳」と「心理」。分裂の議論に対しては、「人の同一性は数的同一性ではない」と答えるしかないのかな......という方に傾いています。これについては、パーフィットの説に従うと、倫理の方も大変なことになる...というのがもっと紹介されていると、うっかりパーフィットに賛成しがたくなって、緊張感が増すと思います。


-第3章 時間
「時間と空間は同じようなものであり、時間は空間と同じように広がっているのか？ それとも空間と違って動いているのか？」という問題が議論されます。
時間と空間の対称性を丁寧に議論していて、たのしいです。
わたしは、「時間と空間は同じように広がっている」(B理論とか永遠主義・時点主義と呼ばれる立場)の方を支持します。


-第4章 神
「神は存在するか」を扱った章。神の存在に関する論証がいろいろ扱われます。
「第一原因による論証」「デザインに訴える論証」「存在論的論証」など、有名な議論がたくさんでてきます。
個人的には、「アンセルムスの存在論的論証」が好きです。
去年でしたか翻訳がでた『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488188028/ref=nosim/atakadaorg-22">麗しのオルタンス</a>』という小説に、このパロディの「理想の男性が存在することの証明」が出てくるのですが、これもすばらしかったですね。
「もしわたしの理想の男性が存在しないとすれば、彼は他の男より劣ることになってしまう。しかしわたしの理想の男性は他のどんな男性よりも素晴しいのだから、彼はきっと存在しているはず！」という感じ。


この議論のどこに問題があるかは中で紹介されています(ここはもう少し丁寧に論じてほしい気もしましたが)。
個人的には、受け入れている神の存在証明は特に無いですし、神の存在は信じていません。


-第6章 自由意志と決定論
「すべての出来事が物理的に決定されているとすれば、われわれには自由など無いと思われる。しかしわれわれは自分のことも他人のことも自由意志を持って行動しているかのように扱っている。なぜか？」という問題です。
古典的だけど、全然解決らしい解決の無いやっかいな問題です。
「人間はほんとは自由じゃない！(強い(ハードな)決定論)」
「人間は物理に支配されてなくてすごい自由(自由意志論)」
「その二つは両立する(弱い(ソフトな)決定論)」
などの立場が紹介されます。量子力学の非決定性を持ちだしてもダメだというのをきちんと論じているのは好感度高いです。
個人的には、両立説とソフトな決定論以外の道は無いと思っています(が、この道も大変ですね)。


-第7章 物体の構成
「物とその素材の関係」を問うた章。
たとえば、粘土でできた塑像について、「塑像と粘土の固まりは別のものなのか、同じものなのか？」という問題です。

この問題は、「身近なところに、きわめてやっかいな哲学的問題がある」というのの好例で、わたしは大好きです。
個人的には「粘土と塑像の固まりは別々に存在する」という解答は避けたいと思っており、「粘土と塑像の固まりは同じであるか部分を共有する」という方向に持っていきたいです。この論文の中で言えば四次元主義による解答を取りたいですね。


-第9章 必然性・可能性
「世界には「可能なものごと」「必然的なものごと」というものがあるように思われる。では、これはいったい何なのか？」という問題です。
本論文では、「自然法則」について、「規則性説」と「普遍者による必然化説」が論じられ、
「絶対的必然性」について、「可能世界説(様相実在論)」と「規約説」が論じられます。


ちなみに「可能世界説」というのは、「平行世界(みたいなもの)がたくさんあるのでそれによって可能性や必然性が決まる」というヤバい説です。デイヴィド・ルイスという天才が一人で提唱し、ほとんど誰も信じてないのに、いまだに決定的な反論が無いという大変な説です。わたしも反論が思いつかないので、体調が悪いときなど、ときどき信じそうになって我に返るということを繰り返しています。
なお、本書では紹介されていないですが、「様相次元主義」という「可能性・必然性は第五の次元である」というこれまたすごい説もあるそうです。
個人的には、どの立場も全然取りたくないので、困っています。


]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2010/01/post-295.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Sun, 03 Jan 2010 00:06:53 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>おへんじ2</title>
            <description><![CDATA[
新年になってしまいましたが、お返事を書きます。


これまでのやつ。
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-294.html


ひとまず前エントリのコメント欄から議論の整理と反論をはじめます。
こみやさんの発言
>>
　そうではなく、私の主張は
c）意図への言及による行為の説明の説明力は、因果説明の説明力に依存していない（むしろ、記述どうしの意味連関に依存する）
というものなのです。
<<


思うに、この主張には弱いバージョンと強いバージョンがあり、こみやさん自身は「弱いバージョン」を採用しつつも両者の間でゆれているように見えます。
わたしは弱いバージョンには同意できますが、強いバージョンには同意できません。


弱いバージョン。
>>
意図に言及することが行為の説明になるのは、しばしば意図を明示することで、言葉の意味によって行為を説明することができるからである。

たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」は、「妻の食事に薬を入れる」という男の行為を特定の意図と結びつけることで、「妻を殺そうと意図している」という言葉の意味によって、行為を説明している。
<<


強いバージョン。
(副詞へのパラフレーズはひょっとすると強すぎるかもしれないですが、主張の勘所をわかりやすくするために付け加えました)。
>>
意図というものは、言葉の意味によって行為を説明する。そして意図というのはそれだけのものなのである。意図に言及するのは為された行為を補足的に説明するために、特殊な言葉使いをするだけのことであり、「意図」という概念によって指示されている対象などそもそも存在しないのである。

たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」というのは、正確に言えば、
「男は、<em>&lt;妻を殺そうと意図している的な仕方で&gt;</em>、妻の食事に薬を入れる」という意味であり、意図に対する言及は行為を副詞的に修飾するだけの表現なのである。
<<


これは、「行為・理由・原因」でデイヴィドソンがとっている「意図は共範疇語である」というのと同じような立場です。
もしこの強いバージョンの方を取るなら、「行為に結びつかない意図」の存在は依然として謎のままに留まります。
意図が行為の説明のためだけの概念だとすれば、行為なき意図のような言明が何を述べているのかわからないからです。



こみやさんは強いバージョンの主張を明示的には採っておられないようですので、以下ターゲットを弱いバージョンにしぼります。
以下弱いバージョンについて。
もしこみやさんの主張が、「行為の説明には因果的<em>でないものもある</em>」というものであれば、わたしには特に異論はありません。
前回書いたように、たとえば「男は芝居の練習をしているので、刀を振る」は、「刀を振る」という行為の種類を説明しているだけですし、その説明を「言葉の意味によって説明している」と言うこともできるかもしれません。




しかし、おそらくこみやさんのターゲットは、「行為・理由・原因」などにおけるデイヴィドソンの「理由と行為の結びつきは因果的なものである」というものですよね。
しかし「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という主張を否定するには、「行為の説明には因果的でないものもある」だけでは弱すぎるのではないでしょうか。


というより、「因果的であるかどうか」と「説明力が何に由来するか」というのは、別の水準に属する事柄ではないかと思います。
デイヴィドソンも論じている通り、「理由を述べることによって行為を説明するとき、われわれはその行為を再記述している」という見解と、「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解は特に矛盾しません。

そして懸念されるような矛盾が無いなら、もっとずっと弱い理由であっても「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解を採用する理由になります(それこそ「直観」でもよいわけです)。
しかしこういう点に関して言えば、もう少しデイヴィドソンの論文に即して論じた方がよいかもしれません。




* 自分の見解の説明
以下こみやさんの質問に答えます。
こみやさんの発言
>>
　しかしながら、トークン同一説が
・行為者の状態は、物理状態のトークンとして記述を与えることができる
ということを意味するにすぎないのなら、これはある意味ではあたりまえにすぎる主張です。何であれ、私たちが生活しているときには、脳はいつも何らかの状態にあるのですから。
<<
一応、その「あたりまえ」の主張をしたつもりです。
ただし、わたしは「脳」に限定してよいものかどうかは少し迷っていて、「体」と言いたいです。


こみやさんの発言
>>
トークン同一説にもとづいて因果説を主張するのであれば、物理状態のトークンとして同定される行為者の状態が、行為の「原因である」ということの意味を積極的に明らかにする責任が立論者に生じるように私には思われます。それは「特定の脳の状態のタイプが行為を引き起こす」という主張よりも、はるかにわかりにくい主張です（物理状態のタイプとしてはバラバラであるような「行為者の状態」は、いったいどのように、他ならぬその「行為者の状態」として因果的効力を発揮することができるのでしょうか）。
<<
因果関係というのは基本的には個別的な出来事同士の関係であると思います。
もちろん「水素の燃焼が水の生成を引こ起こす」のようなタイプ同士の因果関係もありますが、これはどちらかと言えば「法則」とでも言うべきものでしょう(あるいは、「しばしばXがYを引き起こす」のような統計的事実)。


「窓に石が当ったことが、窓が壊れることを引き起こした」のような言明は基本的には、個別的な石の衝突と個別的な窓の破損について述べています。そして石の衝突はいつも窓の破損を引き起こすわけではありません(ゆっくりぶつかれば壊れません)。
「北京の蝶のはばたきがメキシコでハリケーンを引こ起こした」のように、到底タイプ同士の関係があるとは思えないような言明だってあります。


もっと言えば「それ」とか「あれ」という表現によって指示されるものであっても、因果的な効力を持つことは当然あるわけです。
「それが引き起こした」と言うことはできますし、それほど珍しくもありません。


ですから、指示対象を固定するためにどんな表現が用いられるかということはそれ自体としては重要ではないと思います。
因果的な効力を持つために重要なのはむしろ「何が指示されているか」です。
この辺少し深くつっこむと「決定論と自由意志の問題」というやっかいな問題に突入しそうで怖いですが。



* 補足
論点としては脇道ですが、ちょっと気になった点。
こみやさんの発言
>>
・意図の帰属とは、「思い」の帰属ではなく、意図と行為の意味連関に関する知識の帰属である
<<
知識があまりに欠如している場合は、意図の帰属が取り消されるという論点自体は賛成なのですが、「なすべきことを知っていること」が意図を持つことだという風に定義してしまうと、「学校へ行くべきだと知っているけど(学校へ行く方法も知っているけど)、学校へ行くつもりはない」みたいな場合はどうするんですかね？
この定義だと、この人はこの場合にも学校へ行く意図を持っていることになってしまうのではないでしょうか。



あともう1つ。
こみやさんの発言
>>
私の考えでは、「会社を辞めよう」と自分が意図していることについて本人が「知っている」というときのその知識は、自分の心や脳が（タイプ同一的にであれトークン同一的にであれ）いかなる状態にあるかについての経験的知識ではありません。自分の脳の状態を見て「私は初めて自分が○○しようとしていたと知った」「私は○○しようと思っていたが脳を見る限り私は間違っていたようだ」などと言うのは奇妙なことです。
<<
以下がこみやさんの立場に抵触するかどうかわかりませんが、念のために確認しておきます。
まず「意図についての知識がいかにして得られるか」と「意図とは何か」は別問題であると思います。


こみやさんの意見は、アンスコムなどの言う「観察を媒介にしない知識」についての議論を参照しておられるのではないかと思いますが、「観察を媒介にしない知識」には、「わたしの右腕がどこにあるか」のような種類の知識も含まれていることを忘れないでください。
-「わたしの右腕がどこにあるか」が通常、観察を媒介にせずに知られること
-わざわざ自分の右腕を見てから、「わたしの右腕は上がっていた」と言うことが奇妙であること
などから、

「わたしの右腕について、経験的な知ることはできない」であるとか、ましてや「わたしの右腕は物理的には存在しない」
などという推論をすることはできません。


知識の種類や知識がどうやって得られるかを問うことは重要だと思いますが、「Xの知識」がどんなものであるかと「Xが何であるか」は基本的に無関係であると思います。




]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2010/01/2-19.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Sat, 02 Jan 2010 22:33:09 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>心と原因のつづき</title>
            <description><![CDATA[
少し間が空きましたが、こみやさんへの返事をまとめます。前のエントリーのコメント欄は長くなりすぎたのでこちらで。
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html



以下構成としては、(1)補足的な論点、(2)両者の立場の定式化、(3)わたしの立場を擁護する議論という順に進めます。




* 「行為・理由・原因」
こみやさんの念頭にあったのはもともとデイヴィドソンの「行為・理由・原因」という論文の議論だったと思うのですが、わたしはずいぶん前に読んだまま内容を忘れていたので改めて読み返しました(翻訳ですが)。
もちろんデイヴィドソン解釈について議論していたわけではないのですが、こみやさんはこちらの議論を頭に置いていたと思うので、わたしがこちらを参照しないことで無駄に論点が複雑になってしまったきらいもあるかと思われます。ですからまずこちらについて触れておきます。


<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326100826/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/31QWZ14WYVL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="行為と出来事" title="行為と出来事" /></a>
<br clear="all" />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326100826/ref=nosim/atakadaorg-22">行為と出来事</a>


確かにデイヴィドソンは「傾向性は原因ではない」と書いています。また、「意図は原因ではない」と書いてます。
この内、後者については、デイヴィドソンは「行為・理由・原因」における「意図は共範疇語であり、それ自体としては意味を持たない」という見解を後に取り下げています。しばらく後に「意図することは賛成的態度の一種である」という見解を取ったようですので、取り下げた見解を直接扱う必要はないと思われます(邦訳第四章、原著第5論文)*。
<div class="note">
 * ここはわたしがデイヴィドソンの議論を参照しなかったので進め方をまちがえた部分です。デイヴィドソンの議論に即して論じるなら最初から「賛成的態度(-したいこと)」が原因になりえるかどうかという論じ方をした方がシンプルでした。デイヴィドソンが「理由は原因である」という論じ方をするときに念頭に置いているのは意図ではなく賛成的態度ですから。</div>



前者については、実はちょっと迷っています。
こみやさんの言う通り、
>>
「そのグラスは脆かったので割れた」
<<
は因果説明として不十分に感じるというのは、直観的な感覚としては理解できます。
しかしその「不十分」が傾向性に由来するものだとはあまり思っておらず、
>>
「壁が黄色いので目がチカチカする」
<<
の方は、不十分とは感じません。
この「違い」をうまく言い表わせればいいのですが、これ自体「脇道」の議論なので、これ以上は深めないことにします。
これまでの議論については、納得がいく部分も納得がいかない部分もいろいろあるのですが、今や立場の違いがわりとはっきりしていますので、ひとまず「本筋」の議論に集中したいと思います。




* 立場の違い
わたしとこみやさんの立場の違いをまとめます。
まず、対象になっているのは、以下のような「意図」を「ので」の前件に持つ文です。
>>
「xがFと意図しているので、xはG」
<<
具体例
「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」


論点は
-(1)これらの文を使って述べられるのは、因果関係の言明であるのか
-(2)これらの文が因果関係の言明であるとして、「ので」の前件「xがFと意図していること」が原因であり、後件「xはGこと」が結果であるのか
わたしはどちらの問いにもイエスと答えますし、こみやさんはノーと答えます。



両者の立場の違いはこれらの言明に対する捉え方の違いに由来します。


わたしは、「xがFと意図していること」に対応する物理状態のタイプが存在しないことを認めます。しかしこの表現は、文脈依存的に、物理的にも記述できるようなxの状態を指示すると考えます。
以下のように定式化してもよいでしょう。

わたしは、
「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」
のような言明は以下のようにパラフレーズできると思っています。
(少なくとも前者は後者を含意すると思っています)。


>>
この文脈で、男は「男は妻を殺そうと意図している」と適切に記述できるような状態にある。この状態が男が妻の食事に薬を入れることを引き起こす。
<<

「男は妻を殺そうと意図している」というのは男の状態について述べる表現だと考えているわけです。



一方、こみやさんはそう考えていません。
>>
私の考えでは、「男は妻を殺そうという意図している」は、いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません。むしろ、それは単に、「男は妻を殺そうとしている」の異なった表現（言いかえ）である、と主張します。そして、「妻を殺そうとしている」は、男の状態の指示ではなく、「毎日妻の食事に薬を入れる」という男の行為の再記述です。したがって私の考えでは、「男は妻を殺そうとしている」は、男の状態を指示しているのではなく、毎日の男の行為に解釈を与えているのです。
<<
こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図している」と「男は妻の食事に薬を入れる」は、同じ行為を異なった仕方で記述していると考えています。

少しわたしなりに解釈すると、「意図について述べることは、その意図のもとでなされた当の行為がどういう種類の行為であるのかを明示することで、行為について説明しようとしている」という立場だと思われます。
こみやさんのあげている例より、以下のようなものがふさわしいのではないかと考えます*。
>>
男は芝居の練習中なので、刀を振っている。
<<

<div class="note">
 * こみやさんは「「なんで授業がないのか」と問われて「夏休みだから」」という応答を例にあげていますが、これはあまり適切な例だとは思いません。なぜなら「夏休みだから授業がない」の場合、「夏休みであること」は、「授業がないこと」の十分条件であり、論理的な推論を述べていると解釈できますが、「殺そうと意図すること」は「食事に薬を入れること」の十分条件ではないでしょう(殺そうと意図してても別の殺し方を選ぶことは考えられます)。
</div>


この種の言明は因果関係の言明ではなく、男の「刀を振る」という行為が「芝居の練習」という種類の行為であると明示することで行為を説明しています。
こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」もまた、「妻の食事に薬を入れること」が、「妻を殺そうと意図してする行為」という種類の行為であることを明示することで行為を説明していると言いたいのでしょう。




* 状態説の擁護
以上で、
-わたしの立場は「xがFと意図することは、xの状態を指示している」、
-こみやさんの立場は「xがFと意図することは、行為の種類を明示している」
と定式化できました。


ここからわたしの立場を擁護する議論をはじめます。
両者の立場をながめると、こみやさんのような立場をとった場合、xがFと意図することは、xがFと意図しながら、それによってFが実現できると考えて実行したような<em>何らかの行為を必要とします</em>。もしも「意図すること」が行為の再記述であり、行為の種類について述べているのだとすれば、行為なき意図というのは意味をなさなくなります。


よってわたしは、この立場に対する反例として、「意図するが行為しない人のケース」を持ち出したいと思います。
たとえば、以下のような人がいてもおかしくないでしょう。
ある人は会社を辞めようと意図しているが、まったくそれを実行に移さないし、誰にも相談したことがない。自分では何度も会社を辞めようとしているが、人に言ったことはないので本人以外は誰もそれを知らない。その内、会社での立場が変わったので、会社を辞めようと意図すること自体を止めてしまった。



この人は、意図していますが、まったく行為していません。意図することが行為の再記述だとすれば、この人について「会社を辞めようと意図していた」と述べることは、この人のどんな行為について述べているのでしょう。
わたしのような立場を取った場合は、このようなケースに直面しても特に困りません。たとえば、その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができます。


「誰にも話していないのに、どうしてその意図について知ることができるのか」という反論も成立しません。なぜなら、誰にも話していなくても本人は知っているはずですし、「意図するのを止めたあとで話す」ということはありえるからです。会社を辞めようと意図するのを止めてしまった後で、「実は去年会社を辞めようとしていた」と他人に話すのはおかしなことではないでしょう*。

<div class="note">
 * 細かくなりますが、そもそも「他人には話さなかった」という部分を変えても類似のケースは成立します。なぜなら仮に他人に相談していたとしても、相談するという行為自体は、「会社を辞めようという意図」を実現するためになされているわけではないからです。こみやさんの説は、「妻を殺そうという意図」は、当の意図を実現するために実行した「男が妻の食事に薬を入れる」という行為の再記述であるというものです。ゆえに意図の実現と関係なく意図を説明したという事実があっても、意図の実現のために何もしていないなら、意図が説明すべき当の行為は空のままです。
</div>



以上、簡単ですが、「意図するが行為しない人」の事例を、「xがFと意図すること」はxの状態について述べているという説の根拠としたいと思います。
]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-294.html</link>
            <guid>http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-294.html</guid>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Sun, 20 Dec 2009 23:28:16 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>心と原因</title>
            <description><![CDATA[某所でこみやさんと議論になったのでそれについて書きます。
多くの人にとっては、「こみやさん」との議論も読めませんし、「こみやさん」も知りませんし、意味がわかりにくいでしょうが、主としてこみやさんへの返答を意図しています。



テーマは、「心的なもの(あるいは命題的態度)は原因になりえるか」です。
わたしは「心だって物事の原因になる派」。こみやさんは「心は物事の原因にならない派」です。


正確に言えば、こみやさんの結論は、「行為の説明は因果関係による説明になっていなければ説明として完結していないというデイヴィドソンの主張はおかしい」という部分にあるようです。
これについては、わたしはまだ主張の要点がよくわかっておりませんので判断は保留します。


ただ、その結論を述べる過程で、こみやさんは、「心は原因にならない」という立場をとっておられるようです。また「彼は怒ったので急に立ち上がった」のような日常的な文は、「因果関係を述べるものではない」と主張しておられる。
一方、わたしは、「心だって原因になることがある」派であり、
-「彼は怒ったので急に立ち上がった」
のような文は、
-「彼が怒ったこと」を原因として
-「彼が急に立ち上がったこと」が生じた
という因果関係の言明であると見なしています。この点が対立しています。


>|
「彼は怒ったので急に立ち上がった」は因果関係の言明だよ派
　　├─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切であるよ派 --> わたし
　　└─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切でないよ派

「彼は怒ったので急に立ち上がった」は因果関係の言明じゃないよ派
　　├─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切であるよ派 --> こみやさん
　　└─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切でないよ派
|<
正確に言えば、「彼は怒ったので急に立ち上がった」は「間違った因果関係の言明である」という立場もありえると思うのですが、こみやさんのとっておられる主張は、「これは因果関係以外の何か別のことを述べている」というものです。
<div class="note">
なお、上の図を作成するために「派閥ジェネレーター」を利用しました。
http://howdyworld.org/habastu/
</div>



一方わたしはこみやさんが「因果関係の言明であるために必要な条件」としてあげているものは強すぎて、あまりに多くのものが因果関係の言明と見なせなくなってしまうと考えています。これについては後述します。





* ケース: 殺意のある男
心的なものが原因にならないという主張のために小宮さんが持ち出したケースがあります。


>>
ある男がいて、何かの薬を買ってきて毎日少しずつ妻の食事に混ぜている。男は妻を殺そうと意図しているため、毎日少しずつ薬を妻の食事に混ぜている。
<<


このとき、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」という文は、
-「男が妻を殺そうと意図していること」を原因とし、
-「男が妻の食事に薬を混ぜる」を結果とするような、
因果関係の言明なのでしょうか？


わたしはイエスと答えます。
一方こみやさんはノーと答えます。こみやさんがノーと答える理由は、わたしなりに再構成すれば以下のようなものです。
-男が妻を殺そうと意図していることが脳の物理状態のような、特定の物理状態のタイプに対応するという想定は疑わしい。
-男が殺そうという意図を持っていた期間が、たとえば1ヶ月であったとしよう。
--この一ヶ月の間、男の脳が特定の物理状態にあったと言えるだろうか。そう考えるためには、寝ている間も、他のことを考えている間も、男の脳内である物理状態のタイプ(殺意スイッチがオンであるというような状態)が実現されていなければならないように思われる。
--なぜなら、われわれが「その男が殺そうという意図を持っていたのはいつからいつまでなのか？」と問われたならば、「その一ヶ月の間ずっと」と答えるであろうから、「殺そうという意図」に対応する物理状態があるなら、それはその一ヶ月間ずっと続いていたのでなければならない。
--しかし、そのようなことはありそうにない。
-ゆえに、「男が妻を殺そうと意図していること」に対応する物理状態は存在しない。
-対応する物理状態が存在しないのならば、その出来事は原因となることはない*。
-ゆえに、「男が妻を殺そうと意図していること」は原因ではありえない。
-しかし、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」はこの場合正しい文であるように見える。
-ところが、原因ではありえないものを原因の位置に起く因果関係の言明が正しいはずがない。
-ゆえに「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」は因果関係の言明ではない。


<div class="note">* ちなみにここでこみやさんは実際には「出来事ではない」と述べていますが、これはわたしと「出来事」という言葉の用法が違うためだと思われます。わたしは、そもそも日本語で「...こと」と書かれるような語句はすべて(トリビアルに)出来事を指示するという前提で、「出来事」という概念を使っています(というか、その手の語句が指示するもののことを「出来事」と呼んでいます)。</div>


さて、以上の論証の過程でこみやさんは次の条件を用いています。
>>
条件C: 「xがFこと」という出来事について、Fに対応する自然な物理状態のタイプが存在しないならば、「xがFこと」は他の出来事の原因となることはできない。
<<


わたしは、この条件は強すぎると考えています。これを認めなければならないとすると、われわれが日常的に因果関係の言明であると考えている多くの言明が、実は因果関係の言明ではなかったことになってしまいます。



* 反例: 傾向性
条件Cは、ある出来事が原因となるために必要な条件としては強すぎます。
これは、「心」をどう捉えるか以前の問題であり、心以外の様々なものがこの条件によって原因の地位を奪われることになってしまいます。


ひとつの例は、「傾向性」です。
傾向性について詳しくは説明しませんが、「可塑性」「弾性」「赤さ」「脆さ」など、反事実的条件文によって表現されるような性質のことです(「一定の力をくわえれば変形する」「一定の速さで衝突すればはねる」「一定の光のもとで見れば赤く見える」「一定の衝撃を与えればこわれる」...)。


こみやさんが利用した条件Cが正しいなら、傾向性に言及する出来事は、原因であることができません。
-このボールは弾性をもつので、地面に落ちたあと高く跳びあがった。
-壁が黄色いので目がチカチカする。
-このグラスは脆いので、倒れただけで割れてしまった。
...
どれも通常の因果関係の言明に見えます。
しかし、「このボールが弾性をもつこと」「壁が黄色いこと」などに対応する物理状態のタイプは存在しません。
ゆえに条件Cのもとでは、これらも因果関係の言明ではないことになります。


なぜ「壁が黄色いこと」に対応する物理状態のタイプは存在しないのか？
たとえば、壁がy化鉄という物質を表面に含んでいるために黄色いのだとしてみましょう。
「壁の表面がy化鉄を含む」は「壁が黄色いこと」に対応しません。
なぜなら、壁はy化鉄を含まなくても、(他の適切な物質を含んでいれば)黄色いからです。「男が妻を殺そうと意図する」に対応するケースをつくるなら、「途中で構成物質が完全に入れ替わるが、一ヶ月間ずっと黄色い壁」というものを考えることもできるでしょう。
わたしは一ヶ月間あるオフィスに通い、オフィスの壁が黄色いせいで目がチカチカし、目の痛みに悩まされるのですが、その一ヶ月の途中に工事があって、オフィスの壁はまるまる他の材質に変えられているのです。


「y化鉄を含む」は「壁が黄色いこと」に寄与するかもしれませんが、「y化鉄を含む」と「壁が黄色いこと」はぴったり対応しません。そもそも「黄色い」という性質は、人間のような感覚器官を持った生物がいて、はじめて意味をなす性質です。そのような性質にぴったり対応するような物理状態のタイプというものが考えられるでしょうか？



「対応する物理状態が存在しない」というのは言葉のあやであり、「y化鉄を含む」が「壁が黄色いこと」に寄与するだけで、原因であるための条件としては十分なのだと主張することもできません。
もしそう主張できるなら、「男が妻を殺そうと意図すること」についても同じことが主張できます。
「男が妻を殺そうと意図している」が適切であるためには、様々な事実が必要ですし、多くの物理的な性質もそれに寄与しています。
「男が妻を殺そうと意図している」が適切であるのは、たとえば男が手を動かしサイフからお金を取り出して薬を購入したこと、男はその薬が毒薬であるという文を読んでいたこと、男が自分の手を動かし薬を朝食に混ぜたことなどの事実があった場合です。そこに物理的な性質が一切関与していないなどということがあるでしょうか？




* わたしの立場
以上で、こみやさんの反論としては十分であると思いますが、わたしの立場についてももう少し説明しておきます。



** 出来事が原因でありうるためには、どんな条件を満たすべきなのか？
「そんな条件はない」というのがわたしの解答です。
「どんな出来事が原因でありえるのか？」「すべて！」というのがわたしの意見です。
現実に原因ではなかった出来事はありますが、原因であることが不可能な出来事は存在しないと考えます。


たとえば「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」というのは、わたしの祖先に実際に起きた出来事ですが、これが何か他の出来事を引き起こしたとは考えづらいです。
しかし、「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」が、他の出来事の原因であることは可能であったと思います。
わたしの祖先は、何らかの理由で「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」を知り、デイヴィドソンの読者の祖先であることを積極的に引き受けようとするかもしれません。
それによって「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」の内実が変化し、他のさまざな出来事がその一部になる。
「出来事」という概念はそういった事態を許容するくらい柔軟なものであるとわたしは考えます。




** 「...こと」という語句によって指示されているのは何なのか？
「壁が黄色いこと」
「男が妻を殺そうと意図していること」
「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」
などが出来事を指示するとして、ではそれらの語句が指示するものは一体何なのか？出来事ってそもそも何？という疑問に触れます。


これに答えるのはとても難しいことです。
わたしは、これらの「こと」語句によって指示されているものがあると考えますし、それを「出来事」と呼びますが、その正体が何であるかを説明することは困難です。
これを説明するのは、「出来事に関する体系的な理論をつくる」作業になってしまうと思われます。


しかしそれを説明しないと納得感は得られそうにないので、答えることを試みてみます。


ところで、ある語句が何かを指示するというとき、われわれは語句が何を指示しているのかを説明するために言語を用いなければなりません。
わたしは、物理的性質・関係を指示する述語しか持たない架空の物理的言語を想定し、それを用いて記述するとすればこうなるだろうという仮定のもとで説明してみます。
(ややこしいですが、出来事は物理的なものだと言ってるわけではありません。物理的言語によって記述すればこうなるだろうと言ってるだけです)。



-「xがF」が真である場合
--物理的言語によって記述される事実の内で、「xがF」という文トークンを真にする諸事実がある。
--「xがFこと」という語句(トークン)が指示するのは、これらの諸事実の内のxに関するもの、「xがG」という形式のものの集合である。
-「xがF」が偽である場合
--「xがFこと」は何も指示しない。


「壁が黄色いこと」の場合、「壁がy化鉄を含む」という事実は(物理的言語がその文を許容するなら)、「壁が黄色いこと」によって指示される事実の一部です。
「男が妻を殺そうと意図していること」の場合、「男がある薬を購入した」「男はその薬が毒薬であると書いてある本を読んだ」という事実は(物理的言語がその文を許容するなら)、「男が妻を殺そうと意図していること」によって指示される事実の一部です。


「xがG」という形式のものだけを選ぶ理由は、出来事の主体と関係ない事実が入ってくると変だからです。
(たとえば、他の条件だけだと、男が妻の食事に混入していた薬を発明した人とか、その薬が毒薬であるという本を書いた人とか、そういう人に関する事実が混ざってしまう可能性がある。しかしそういう事実も指示されるっていうのは変じゃないかと思うわけです)。


なお、「壁が黄色いこと」と「壁がy化鉄を含む」が<em>同じことを言っている</em>とは言っていません。
「壁が黄色いこと」によって指示される事実の一部が「壁がy化鉄を含む」によって指示される事実であると言っています。つまり<em>同じことについて言っている</em>と主張しています。
すっごくわかりにくいと思いますが、「<em>同じことを言っている</em>」のと、「<em>同じことについて言っている</em>」の対比はこの場合重要であると考えています。



正直この返答については、もっと細部を詰める必要があるでしょう。
xが物理的言語に現われない名前だった場合どうするんだとか、「文を真にする諸事実」ってどういうものだとか、そういうことを明確にしなければなりませんが、この記事を書くためにそういう細部が必要だとも思えませんので以上で止めておきます。というかそれをはじめると「出来事に関する体系的な理論をつくる」はめになります。



]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Sun, 13 Dec 2009 23:35:23 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>主観的、間主観的、客観的</title>
            <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323076/ref=nosim/atakadaorg-22"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41HgZT2rpWL._SL75_.jpg" style="border:0px; float:left;" alt="主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)" title="主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)" /></a>
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323076/ref=nosim/atakadaorg-22">主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)</a>
<br clear="all" />


上の本を読んで取っていたメモ。


* ヤマアラシ
日本語の「ヤマアラシ」という語には、「ハリモグラ」や「ハリネズミ」は含まれない。
Wikipediaによれば、
>>
ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目（カモノハシ目）、ヤマアラシは齧歯目（ネズミ目）であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である。
<<

http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリネズミ



さて今、わたしがそのことを知らず、ヤマアラシを前にして、「ハリネズミがいる」とつぶやく。
わたしは「ヤマアラシ」と「ハリネズミ」の区別を知らず、ハリのある哺乳類は皆「ハリネズミ」と呼ばれるのだと思っている。つまりわたしは、この言葉は、「ハリのある哺乳類」というくらいの意味だと思っている。
私は、「ハリネズミがいる」と思っている。


問題は、このとき私の言葉「ハリネズミ」は何を指示するのかということ。
主として二通りの可能性があるだろう。


-(1)赤田の言葉「ハリネズミ」はヤマアラシとハリネズミの両方を指示する。
-(2)赤田の言葉「ハリネズミ」はハリネズミを指示する。



** (1)の選択肢を取ったケース
(1)の選択肢を取りたくなる理由の1つは、「私がそう意図しているから」というものだろう。
この場合、赤田語の
-「ハリネズミがいる」
は日本語では、
-「針のある哺乳類がいる」
という意味であり、真である。
-？「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
は、日本語の文としては偽であり、赤田語の文としては真である。



** (2)の選択肢を取ったケース
赤田は日本語を喋ってるんだから、日本語として解釈すべきだろ！という立場。
この場合、赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるように見えるが、それほど問題はない。


ただし以下は偽である(そこにいるのは、ヤマアラシなのだから)。
-F 「ハリネズミがいる」


しかし、以下の主張はどちらも真になる。
-T「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
-T「わたしは、ハリネズミがいると思っている」(赤田によって発話された場合)

下が真になるのは、どちらも日本語の文であり、三人称を一人称に変えたくらいで真偽が変化するはずがない、ということから明らかだろう。つまり、この場合でも、「赤田は自分の考えていることを知っている」という前提は崩れない。
赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるのは確かかもしれないが、いずれにしても私は自分の心について正確に知っていることになる。



* 結論
デイヴィドソンの主張は以下のようなものに見える。これは同意できる。
>>
(1)でも(2)でも、そんなに問題はないんだよ。どっちの要素もわれわれの言語の中にはあるんだから、そのどっちかを排除するような議論はそもそもおかしいよ。
<<




* 他のメモ
信念に対する、デイヴィドソンの立場は、
>>
信念というのは心の状態のことで、発話(or文)によって特定される。
<<
というもののようだ。


「赤田は、ハリネズミがいると思っている」という主張は、「ハリネズミがいる」という文を使って、赤田のある心の状態を特定しているという感じの立場。
これはわりと納得。



* 心のタイプ同一説
また別のメモ。
タイプ同一説について。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6#.E5.90.8C.E4.B8.80.E8.AA.AC


強い意味でのタイプ同一説を信じる人ってほとんどいないと思うんだ。
>>
ハリネズミがいると思っている人は、誰でも脳が同じような物理的状態になっている。
(「ハリネズミがいる」的脳状態も存在するし、人間が心に抱くようなあらゆる命題タイプについて、それに対応する脳状態が存在する)
<<
みたいな立場ね。


しかし弱い意味でのタイプ同一説ということになると、「心の科学」にかかわるほとんどの人が信じている立場なのではないだろうか。
弱い意味でのタイプ同一説というのは、
-痛みに対応する脳状態が存在する。
-記憶の想起に対応する脳状態が存在する。
みたいな発想のこと。
(トークン同一説とは別)。


「ハリネズミがいると思っている」のような主張はフォークセオリーに属するものなので、心の科学者にとってはどうでもよい事柄かもしれない。しかしフォークセオリーから選ばれた・心の科学者にとっても受容可能な・「心の状態の記述」を脳状態と関係づけることは大いにありそうだ。

むしろ心の科学者の仕事は、「心の状態」を被説明項としてとり、「脳の状態」を説明項としてとり、前者を後者によって説明することにあるように見える。

ところが、デイヴィドソンの議論だと、それさえ排除されてしまうように思える。
どのような心の記述であっても、フォークセオリーから離れることはできず、それゆえ脳状態とタイプ的に同一であることはできないとデイヴィドソンは考えているようだ。


この点については、一応自分の中で落しどころは見えている。
デイヴィドソンの主張は、あくまでも、
>>
物理学ほど厳密な法則性は望めない。
<<
>>
厳密な同一性は望めない。
<<
というくらいのものである。
しかし、哲学者が考えるような同一性や厳密な法則性を心の科学者が必要としているとは思えない。
哲学者の言う同一性はとても強い関係である。


「厳密に同一でない」という説は、心の状態と脳の状態の間に因果関係や相関関係が存在することを否定するものではない。
そして心の科学者にとっては、同一性よりずっと弱い因果関係や相関関係で十分なのではないかと思う。
]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-292.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Tue, 08 Dec 2009 23:33:38 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>雑記</title>
            <description><![CDATA[なかなかブログを更新できないから、書き方のスタイルを変えようと思い、雑記風にライプニッツの「モナドは世界を表象する」テーゼと圏論について適当に書き流してみた。
しばらく後で見直してみて、これはこれで悪くないが気が向かなかった。もう少し淡々と書きたい。


最近はHaskellを触っていて、そのついでに触りだけは知っておこうと思って圏論をやったりしている。
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130120573/ref=nosim/"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/4124JTU2H8L._SL75_.jpg" alt="圏論による論理学―高階論理とトポス" title="圏論による論理学―高階論理とトポス" /></a>
-<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130120573/ref=nosim/">圏論による論理学</a>
読んでいる。
1章は型付きラムダ式あり高階論理で、2章以降で圏論のトポスとラムダ高階論理の対応を学ぶ。細かいところでよくわからない箇所はあるものの、コンパクトで読みやすいとは思う。著者の言う普遍論理云々はどこまで本気なのかよくわからない(きっと本気なのだろうが、なかなか共感は抱きがたい)が、トポスのスライスが再びトポスになるという辺りの証明がお気にいり。著者のように表現するかどうかはともかくこれはライプニッツふうではある。


といっても圏論はまだまだ全然わからない。


証明を追うときに、頭の中でHaskellのコードを思い描くと理解しやすくなることがあった。一応後半まで読み進めてはいるが、プルバックやmonoやepiなどの基礎的な概念の証明にもっと習熟しないと消化しがたいだろうという感覚が残っている。


Haskellはとっかかりは乗り越え、Monadを簡単に使うくらいのことはできるようになってきた(HaskellのMonadに慣れるには、do記法に習熟するのが一番の早道のようだ)。Parsecライブラリのありがたみもわかった。
ただAllowあたりのライブラリはまだ難しく感じるし、高度な技法が出てくると頭が混乱してしまう。遅延評価の評価順序にもまだ馴染めていない。


-Haskell側から見ると Monad はシンプルで、Arrow や Category は複雑。
-圏論側から見るとふつうの射はもちろんシンプルだけどモナドは複雑。
という両面があっておもしろい。Haskellのモナドは何となく理解できたけど、圏論のモナドはまだわからないし。
両側から少しずつ理解が進んでいく感じが気持ちよくもある。



圏論が落ちついたら今度はまた形而上学、特に前から関心のあった可能的対象の非同一性問題について調べてみようと思う。
それでは、次の更新がいつになるのかわからないけど、皆様ごきげんよう。
]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/09/post-291.html</link>
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            <pubDate>Wed, 30 Sep 2009 01:22:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>Robert Adams「原始的このもの性と原始的同一性」 Primitive Thisness and Primitive Identity</title>
            <description><![CDATA[-Robert Merrihew Adams (1979). Primitive Thisness and Primitive Identity. Journal of Philosophy 76 (1):5-26.
http://philpapers.org/rec/ADAPTA


最近更新をさぼりがちなので、読書メモでも残します。
クリプキ『名指しと必然性』の議論を「個のかけがえなさ」についての議論だと思っちゃってる人(柄谷行人とか)は、ちゃんとこっちも読もう、な古典論文。
もちろん関連はするけれど、クリプキの議論はあくまでも「名前」についての言語哲学的議論。「個体が何であるか」という形而上学的議論はそれとは別。で、それを論じているのがたとえばこの論文である。


このもの性というのは、質的な(ふつうの)性質に還元できない、個を個たらしめる性質のこと。
たとえば赤田のこのもの性は「赤田と同一である」という性質であり、赤田だけがこれを持っている(逆にいえばこれを持っているものが赤田である)。



*感想
個人的には、「このもの性」はあんまり認めたくないかな。
しかしAdamsが出してくる例はいろいろ大変なケースばかりで、いっそこのもの性を認めれば楽なのだろう、とは思う。



* 目次
>>
1. このもの性(thisness)とこれこれ性(suchness)
2. ライプニッツ的立場
3. 不可識別者の同一性に対する離散的議論
4. ほとんど識別不可能な双子の可能性からの議論
5. 原始的慣世界的同一性
6. このもの性と必然性
<<


* 要約
個体は質的な性質の集まりだっていう説もあるけど、やっぱり性質に還元不可能なこのもの性ってあるとAdamsは主張する。
このもの性を擁護する議論は基本的に2つ。


** A 「離散的議論」と呼ばれるもの。
まったく同じ性質を持つけど、空間的・時間的に離れているものってあるよね。自分自身と空間的・時間的に離れることはできないから、同じ性質を持つ別のものたちが存在できる。


Max Blackによる不可識別者同一性の原理*に対する反例。
<div class="note">* 不可識別者同一性の原理: 同じ性質を持つものは同じものである。</div>


-Black 「宇宙に、大きさも形も同一な二つの鉄の球だけが浮いていると考えてみよう。こういう宇宙は少なくとも論理的には可能そうに見える。ところがこのとき、二つの鉄の球は元素も大きさも距離も形も同じで、まったく同じ性質を持つ。しかし二つの球は同じではない」
これについてはIan Hackingの批判があるらしい。
-Hacking「球が一つしかないけど空間が非ユークリッド的で歪んでる宇宙を考えよう。この宇宙では、空間が歪んでるので、球から少し離れると同じ球のところに戻る。二つ球だけがある宇宙と、一つの球だけがあって空間が歪んでる宇宙の区別はできない」
Hackingによる批判のポイントは、以下。
Black的な反例はいずれも「空間的・時間的に離れたところに、同じ性質を持つ複数のものがある」という形をとる。
ところが、このいずれの反例についても「時間や空間がゆがんでいて、実際にはものが1つしかない」という状況を想定できてしまう。
「だから、やっぱり同じ性質を持つ複数のものなんて無いんだよ」というのがHacking。
Adamsはそれに対し、Hackingの主張は常識的直観に反すると述べる。「いやーやっぱり2つの球がある宇宙と1つの球しかない宇宙は別でしょ。両者を性質の面で区別できないなら、性質以外に還元不可能なこのもの性があって、それによって両者を区別できると考えるべきでしょ」
-Ian Hacking (1975). The Identity of Indiscernibles. Journal of Philosophy 72 (9):249-256.
http://philpapers.org/rec/HACTIO


** B 「ほとんど識別不可能な双子の可能性からの議論」と呼ばれるもの。
宇宙のすっごく離れたところに、この宇宙にそっくりな場所があって、そこに自分に似ているけど少し違った生物がいる可能性ってあるよね。少なくとも論理的に不可能ではないよね。
じゃあ少し違った生物を少しだけ変更させて、「自分とまったく一緒な生物」がいる可能性もあるよね。だって、「少しちがったらOK」で、「少しもちがわないならNG」って変じゃないか。少し違うコピーが可能なら、まったく同じコピーも可能でしょ。まったく同じコピーをどうやって区別する？ このもの性によってでしょう。


]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/08/robert-adams-primitive-thisnes.html</link>
            <guid>http://www.at-akada.org/blog/2009/08/robert-adams-primitive-thisnes.html</guid>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Thu, 06 Aug 2009 23:16:15 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>哲学若手研究者フォーラム</title>
            <description>哲学若手研究者フォーラムいってきました。
肝心の発表はそれほどたくさん聞けなかったのですが、いろんな人と話せて楽しかったです。最近仕事がいそがしいのもあって、勉強もさぼりがちだったのですが、やはりよい発表を聞いたり人と話すことは刺激になりますね。
http://www.wakate-forum.org/data/2009/forum-schedule.php






あと↓ここでの議論が地味につづいています。
http://www.at-akada.org/blog/2009/06/post-289.html#comments

</description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/07/post-290.html</link>
            <guid>http://www.at-akada.org/blog/2009/07/post-290.html</guid>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">もよおし</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Mon, 27 Jul 2009 10:14:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>勝手批評さんのコメントに</title>
            <description><![CDATA[お返事遅れましたが、勝手批評さんのコメントに答えます。


* 1つめのコメント
まず1つめのコメントについてですが、以下の2つの論点が述べられていると思いましたので、これについて答えます。
-A: 祥子の問題は名前の問題にすぎないのではないか？
-B: これは様相論理の問題ではないのではないか？


まずAについて。
>>
特に赤田さんが例としてあげた｢祥子｣議論について言うと、ここで時点１・時点２・時点３を貫いているのは（クリプキが言うような固定指示子なんてことではなく）｢祥子｣という（単なる）名前であるのは明らかではないでしょうか？
<<

勝手批評さんのコメントが述べておられるのは、「時点1に言及された祥子」、「時点2に実際に誕生した祥子」に共通するのは名前だけであり、<em>両者はまったくの別人である</em>ということでしょうか。

だとすれば、<em>「この子があのとき話していた子どもだよ」</em>という友人の発言は、文字通りの意味では「間違い」であると考えるべきでしょう。なぜならば友人は、両者の同一性を主張している(ように見える)からです。
一方わたしの動機の1つは、「この友人の発言を文字通りの真として受け取りたい」という点にあります。なぜなら見たところ、この友人のようなタイプの発言は比喩やつくり話や皮肉などではなく、文字通りに受け取るべきもののように思えるからです。


別の方向から言えば、わたしには、以下のような直観があります。

これから生まれる祥子について話すとき、また、「この子があのとき話していた子どもだよ」と語るとき、話者は<em>単に名前の話をしているのではなく、そのような名前が付けられた子供の話をしている</em>。
そして、ここで問題にしているのは時点1に言及された<em>子供</em>と時点2に誕生した<em>子供</em>が同一であるという論点です。
単に「名前」の話をしているのではなく、「子供」の話をしている以上、両者の同一性を問題にすることが奇妙だとは思いません。
われわれは、同じ「祥子」という名前が付けられた子供であっても、1月10日生まれの祥子と、2月10日生まれの祥子は「別人である」と考えるのではないでしょうか。「同じ名前がついた子供は同じ子供である」というのは、可能的対象について考えた場合でさえ、明らかに間違った主張であると考えます。われわれは「祥子の誕生日が1月10日生まれである未来」と「祥子の誕生日が2月10日である未来」を別の未来として区別することができますし、1月10日生まれの祥子と2月10日生まれの祥子は、数的に別個の存在であるように思えます。



繰り返し定式化するとわたしの問題は以下の通りです。
以下の条件はどれも、それほど違和感のない直観にあったものに思えます。
-(1)時点1に言及された祥子と時点2に誕生する祥子は同一である。
-(2)時点1には、祥子aが生まれてくるのか、祥子bが生まれてくるのか、祥子cが生まれてくるのか...わからない。
-(3)祥子a, 祥子b, 祥子c...は別人である。
-(4)時点1において言及される祥子はただ1人であり、祥子a, 祥子b, 祥子c...などのいずれか1人だけである。
-(5)祥子a, 祥子b, 祥子c...のいずれが生まれてくるのかわからないならば、未来の時点で生まれてくる祥子をただ1人だけ選び出して言及するなどということはできない。


ところが鋭く対立させるなら、(1)と(5)は矛盾を引き起こします。
(1)は、時点1における話者が「正しい祥子」を選び出し言及できると述べています。
(5)は、話者にはそんなことはできないと述べています。


これに対し、わたしの提案は、(4)の条件を否定することです。<em>時点1における話者は複数の祥子に言及していた</em>と考えるならば、上記の問題は生じません。
反事実的条件法を持ち出したのは、それが複数の祥子に同時に言及するための「自然な方法」だからです。



次にBについて。
>>
そもそもの問題としてこれは様相論理を持ち出して考えるべきことなのか、という根本的な疑問があるのです。全く論理の言葉を用いないで考えるべき問題なのではないか、と。
<<
こちらについては、勝手批評さんが、「論理の言葉を用いることで何が失なわれると考えているのか」がまだよくわかっていません。
わたしの方では、あまり論理の言葉に依存する考察を行なっているつもりはないのですが。




* 2つめのコメント
2つめのコメントには以下の2つが述べられていると理解しました。
-C: 可能的な対象に向けられた謝罪は本当に謝罪なのか？
-D: 現在の@pubkugyoと未来の@pubkugyoには違いがない。
>>

まあ、正直言ってこれは謝罪というより単に最初に言い訳をしておいて批判を封じ込めているという感じで｢Aさんに悪いことをした｣→｢Aさんに謝罪する｣という正当な（何が｢悪いこと｣なのか、何が正当なのかが問題になるけど）手順を踏んでないので｢『可能的対象』に対する謝罪｣として良い実例になっているのか疑問だ。
<<
こちらについてもわたしは、「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」は、謝罪であるという直観を持ちますし、この直観を擁護する方向で考えたいと思っています。
これは不特定多数の人々へ向けられた謝罪かもしれませんが、それでも謝罪であると考えます。



>>
という主張なんですけど、｢私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyo さんへ伝えることを意図したもの｣である、とどうして未来の@pubkugyoさんにわかるのかなあ。｢意図｣なるものが何かのテレパシーであるわけではないのだし、これでは正当化されたとは言えないのでは。｢祥子｣議論で書いたことに似てますけど、字面が同じ｢@pubkugyo｣である以上、そしてそれ以外に違いが無い以上、混同は避けられないんじゃないんでしょうか。
<<
これについては、現在存在する@pubkugyoさんと、未来の@pubkugyoさんの間には字面以上の違いがあると考えます。
そもそもこの両者はまったく別個の人間です。
たとえば現在存在する@pubkugyoさんは、id:kugyoというidではてなダイアリーにブログを開設しており、デイヴィド・ルイスを敬愛していますが、たぶん未来の@pubkugyoさんはそのような性質を持たないでしょう。
1つめのコメントの場合と同様に、「@pubkugyo」という名前の話をしているわけではなく、わたしはそのような名前のついた<em>人</em>の話をしており、両者の間にはたくさんの違いがあるという風にわたしは思っています。


以上です。
]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/06/post-289.html</link>
            <guid>http://www.at-akada.org/blog/2009/06/post-289.html</guid>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Sat, 13 Jun 2009 01:56:45 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>反事実的存在仮定(ロングバージョン)</title>
            <description><![CDATA[* 前置き
<a href="http://d.hatena.ne.jp/kugyo/">id:kugyo</a>さんと論争をしています。
http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090509/1241807293


論争の一部は、シノハラユウキさんと夏目陽さんの「Twitter本」に掲載されたのですが、わたしとkugyoさんは、ページ数の都合により、この論争はまだ決着を見てないと考えています。そこで「Twitter本」にも書いた通り、Webで論争のつづきをはじめたいと思います。
http://twitter.g.hatena.ne.jp/sakstyle/20090429/1240992769



Twitter本を読んでない方には何が何だかわからないかと思われますが、なるべく周辺事情を丁寧に説明しつつ、論争をつづけるようにしましょう。



* 何の論争か
この論争は、「@shoukou5」という非存在のTwitterアカウントが「可能的対象」なのか、「虚構的対象」なのかを争うものです。
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序
@shoukou5とは、二○○九年一月一三日にTwitter上で@pubkugyoが@shokou5と間違えて言及したアカウントである(注一)。当時 Twitter上には@shoukou5というアカウントは存在しなかった。@pubkugyoは、@shoukou5に「誤って呼び出して」しまったことを謝罪し、@shoukou5は虚構的対象であると主張した。一方、@at_akadaは@shoukou5は虚構的対象ではなく可能的対象であると反論した。可能的対象とは存在しうる、あるいは存在しえた対象のことであり、虚構的対象とは虚構に登場する対象のことである。このような重要な意見の対立があった以上、われわれは盛大にMetaphysical Partyを開催し、決着をつけるべきだろう。


<div class="note">注一: Twitter上では@のあとにアカウント名を書くことで対象ユーザーのページにリンクが張られる。</div>
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「Twitter本」には、わたしとkugyoさんの主張をまとめた文章とふたりの短かい応答が掲載されました。
-「未知・反実・虚構」 kugyo
-「@shoukou5に関する可能説」 at_akada
-「結局@shoukou5合計何人だ？」kugyoの応答
-「反事実的存在仮定説」at_akadaの応答


論点のまとめも用意してあります。
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@pubkugyo論点まとめ
-可能説と虚構説との対立は本物の問題である
-可能説内部には未知説と反実説との区別がある
-可能な@shoukou5という説明はtwitterアカウントの説明として不適格


@at_akada論点まとめ
-可能的対象に対する謝罪は成立する
-@pubkugyoは可能な@shoukou5に謝罪すべきである
-可能な@shoukou5に謝罪すべき状況であるのに、虚構の@shoukou5に謝罪するのは奇妙である


@pubkugyoによる対論まとめ
-可能的対象に対する謝罪も成立する
-謝罪する相手が複数になるような議論はやはり受け入れがたい


@at_akada反論を受けて
-可能的対象の人数の問題は、可能的対象についての語りを、前件が存在命題の反事実的条件文と捉えれば解決する
-可能な@shoukou5についての語りは複数の世界の複数の対象に言及するが、いずれの可能世界でもただ一つの@shoukou5だけに言及する 
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ここには、わたしからの応答文である「反事実的存在仮定説」ロングバージョンを掲載するところからはじめたいと思います。



* 反事実的存在仮定説
@pubkugyoさんの言葉で言えば、わたしの立論は「未知説」に分類されるものです。未知説をとった上で、可能な人物への謝罪が成立すると見なすことがポイントになっています。
これに対し、@pubkugyoさんの反論は、大きく以下の2つに分類されるかと思います。
(1)現に存在するアカウントとの整合性
(2)可能な人物の人数の問題
これらの内(1)が致命的な問題とは思いません。悪事が発生し、謝罪が成立するのは、単に相手に害を為しただけではなく、その危害が正当化されていない場合であると考えます。たとえば未来のある時点に「@pubkugyo」というアカウントが別人によって使用されるようになったケースを考えてみましょう。その場合にも未来の@pubkugyoさんは、過去の@pubkugyoさんへの紛らわしい言及によって害を受けることがありえます。しかし、これに対する謝罪は必要とされません。なぜなら、現在の時点には別の@pubkugyoさんが存在し、私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyoさんへ伝えることを意図したものであるという理由によって、正当化されています。この場合、害は存在しますが、正当化によって害が悪事ではなくなっていると判断します。一方、@pubkugyoさんの@shoukou5さんへの言及は、単純なタイプミスによるものであり、正当化されていません。よって、現に存在するアカウントとの不整合は、様相の違いによるものではなく、リプライを送った際の<em>理由</em>の違いによるものであると主張します。

一方(2)はきわめて難しい問題を提起しています。こちらは最初の論考でも問題となった論点です(注 一)。

可能的対象の同一性は古くからある哲学の問題の一つです。しかし幸運にも私は、この問題に対する一つの解答をすでに思いついています。私の理論は、紙幅の都合上不十分な説明しか与えられませんし、多くの部分が未完成に留まっていることを認めます。しかし、あえて理論を提出する野蛮の方が、謙虚さよりも対話を生産的なものにすると信じます。


@shoukou5の数が問題を引き起すのは、どちらももっともらしく思える以下の2つの直観が対立するからです。
(1)@pubkugyoが語りかけ、われわれが言及している@shoukou5はただ1人の可能的な対象である。
(2)@shoukou5に該当する人物は複数想定できる。

私は、この2つの見かけ上の対立は、適切なパラフレーズをほどこすことによって、語法の問題に還元できるだろうと考えています。



まずわれわれが可能的対象について語るとき、ただ一つの対象を指しているとしか思えない場合があることを確認しておきたいと思います。
現在の@shoukou5のケースに少し似た以下のケースを考えてみましょう。

-時点1
私が友人のK夫妻と、2人の間に将来生まれてくる子どもについて話している。2人はこれから生まれてくる子どもが女の子だったら「祥子」という名前を付けたいと話す。夫妻はこの時点ではまだ妊娠していない。
-時点2
およそ一年後、子どもは実際に生まれ、実際に「祥子」と名付けられる。
-時点3
子どもの誕生後、生まれてきた子どもに対面した私に、友人は「<em>この子があのとき話していた子どもだよ</em>」と語る。


時点3に、「あのとき話していた子どもだよ」と語る友人Kは、時点1には「可能な子ども」でしかなかった祥子と、時点3における「現実の子ども」祥子との同一性を主張しているように見えます。
私はこの友人の発言が文字通りの真理であることを認めたいと思います。時点1の可能的対象である祥子は、時点2に現実性を獲得し、現実の子どもになったと考えます。
もちろん時点1の可能的対象と時点2や時点3の現実の対象は異なった性質を例化しますから、厳密に同一の対象ではありえないでしょう。しかしそれは、同一の人物が異なる時点に異なる性質を例化しうるという慣時間的な同一性の問題のバリエーションにすぎず、可能的対象に特有の問題ではありません。ともに現実的な対象である時点2と時点3の祥子も、異なった性質を例化するでしょう。われわれはたとえば四次元主義的な解決を採用し、時点1の「可能な祥子」と時点2の「現実の祥子」は、祥子という同一の人物の異なる時間的部分だと言えば済むことです。可能的対象の問題はもっと別のところにあります。
問題は、時点1には、<em>どの</em>祥子が生まれてくるかがわからない点にあります。たとえば、異なる精子と卵子の組み合わせからは異なる人物が生まれてくると仮定しましょう。時点2の現実の祥子を生み出したものを精子a、卵子aと名付けるとすると、われわれは精子b、卵子bから生まれてくる別の祥子を想像することができます。時点1の段階で、将来に祥子a(精子a+卵子a)が生まれてくるのか、それとも祥子b(精子b+卵子b)が生まれてくるのかを知る方法はありません。「異なる精子と卵子の組み合わせからは異なる人物が生まれてくる」という仮定が強すぎると見なすならば、これを「誕生日が1月ずれると異なる人物が生まれてくる」という仮定に変えてもかまいません。1月10日に生まれる祥子を祥子a、2月10日に生まれる祥子を祥子bと名付けるとすると、やはり時点1の段階では、将来に祥子aと祥子bのいずれが生まれてくるかを決定する方法はありません。

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="shoukou5.png" src="http://www.at-akada.org/blog/2009/05/29/images/shoukou5.png" width="300" height="300"/></span>
話を単純化するため、想定される未来がa, b, c, d, eの5つしかないと仮定しましょう(図参照)。祥子aから祥子eは異なる精子卵子あるいは異なる誕生日を持った異なる人物です。またここでは、生まれてくる子どもが双子である場合や三つ子である場合は、考えないものとします。
時点1に未来の可能な祥子の話をしていたとき、われわれは5人の祥子(すなわち祥子5)について話していたのでしょうか、それとも祥子a, 祥子b, 祥子c, 祥子d, 祥子eのいずれかについて話していたのでしょうか。


祥子a, 祥子b, 祥子c, 祥子d, 祥子eのいずれか1つについて話していたわけではありません。私と友人Kはどの祥子が現実化するか知るすべがありませんし、ここで1人の祥子だけを特権化する理由はどこにも無いからです。この際私は「可能的対象とは、いずれか1つの可能世界に存在する具体的な対象のことである」というしばしば見られる前提を疑っています。少なくとも、可能的対象についての語りの内のいくつかは、それとは異なったものだろうと考えます。
さらに、いかなる意味でも5人の祥子について話していたわけではありません。われわれはただ1人の祥子について話していたのであって、5人の祥子が属する集合について話していたわけではありません。たとえば、時点1に私が「祥子はきっと美人になるだろう」と言う場合、私は5人の祥子の集合が美人になるだろうと述べたわけではありません。
ただし、祥子aから祥子eまでの<em>いずれも</em>が私と友人によって言及されたことになるという直観は正しく思えます。未来aを考えると、時点2に祥子aが現実化したとき、祥子aは、時点1に私によって言及されたという関係を例化します。未来bにおける祥子bも同様に、私によって言及されたという関係を例化するでしょう。このことは、時点1の可能な祥子と、時点2時点3の現実の祥子が同一の対象であるという先の主張から帰結します。


以上を踏まえ、私は以下の直観を提示したいと思います。
直観I: 私と友人は、「友人に女の子が生まれたら」という反事実的仮定のもとで、当の対象について話している。


それほど丁寧には論じられませんが、この直観によって問題は解決されるだろうと考えます(以下はLewis[1973, 1986]の反事実的条件文の分析、およびLewis[1993]の超付値による解決にヒントを得ています)。
デイヴィド・ルイスの分析に従い、反事実的条件文は、可変的な厳密条件文であるとしましょう。ルイス流の方法では、反事実的条件文は可能世界の集合(圏域[sphere])への量化によって真理条件を与えられます。

S1: ∃xφx □→ ∀y(φy→ψy)
(もし仮にφxところのxが存在するならば、それに該当するものはψだろう)


上の反事実的条件式が空虚でなく真であるのは、以下の場合かつ以下の場合のみです。
-ある可能世界の圏域Sが存在し、Sの中の∃xφxが真であるすべての世界で、∀y(φy⊃ψy)も真である

以上が意味するのは、ある範囲の可能世界の集合の中では、φxを充足する対象が存在するなら、φxを充足する対象はすべてψxも充足するだろうということです。以上の定式化は、私の直観(1)、すなわち「ある種の対象が存在するという反事実的仮定のもとで、当の対象について語る」ことを許すように思えます。
上のケースに適用してみましょう。「祥子は美人だろう」という語りは以下のように分析されます。

S2: ∃xSx □→ ∀y(Sy→By)
「もし仮にK夫妻の娘であり、時点1からおよそ一年後に生まれ、祥子という名前を持つxが存在したならば、それに該当するすべてのyは美人だろう」


祥子がただ1人しか存在しないという条件を付け加えたい場合は反事実的条件法の前件を確定記述句に変えればよいはずです。
∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→Bz)
「もし仮にK夫妻の娘であり、時点1からおよそ一年後に生まれ、祥子という名前を持つただ1つのxが存在したならば、それに該当するすべてのzは美人だろう」

可能な祥子についてのすべての語りを同様にパラフレーズすることができるでしょう。まず祥子という語句をすべて変数zに置き換え、次に置き換え後の文を以下の「...」の箇所に代入することでわれわれは望みの文を手に入れることができます。
S2-1: ∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→...)


この際後件の変項は非常に複雑なふるまいをとります。複数の世界の複数の対象が後件の変数を充足するのですが、対象のドメインは前件の仮定と想定される可能性の範囲によって限定されています。
こうした文の中で、われわれは、ある意味では複数の世界と複数の対象について語っています。しかしわれわれが語るいかなる対象も、それぞれの世界の中では曖昧でなく限定されています(多くの場合はただ1人です)。ここで反事実的条件法の後件に同一性記号(=)を置くことも許されるでしょう。可能的対象の同一性に関する混乱した印象は、この文脈に置き直してみることで取り払われるのではないかというのが私のアイデアです。複数の対象について語っているが、そのつどただ1人の対象だけについて語っているという可能的対象の奇妙さは、平凡な反事実的条件文の語法に回収されているように見えます。
この際可能な祥子について語ることは、祥子aから祥子eまでのすべての祥子(あるいはその部分集合)の<em>いずれもが</em>例化する性質や関係について語ることに他なりません。わたしは、<em>このこと</em>こそが未知の対象について語るときにわれわれが語っていることであると考えます。


@shoukou5問題の解決に向いましょう。
「@shoukou5はただ1つ存在する」という主張は以下のように分析されます。
S3-1: ∃xSx □→ ∀y(Sy→∀z(Sz→y=z))
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、shoukou5というTwitterアカウントはただ1つ存在する」

あるいは
S3-2: ∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→∀q(Sq→z=q))
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントがただ1つ存在するなら、shoukou5というTwitterアカウントはただ1つ存在する」


S3-2は自明に真です。shoukou5についての反事実的な仮定として、「shoukou5はただ1つ存在する」という仮定をもしもわれわれが立てていたならば、shoukou5というアカウントがただ1つであることは瑣末に帰結するでしょう。
一方S3-1は、shoukou5という名前のアカウントがTwitter上に存在するとしてもそれはただ1つしか存在しないだろうということを述べています。Twitterのシステムは同名のアカウントが2つ存在することを許しませんから、異常なバグなどを想定しないかぎり後件は真でしょう。「Twitterには同名のアカウントは2つ存在しない」ことを一種の法則的な事実と見なせばこの反事実的条件文も真となります。
私はS3-1とS3-2のどちらかが、可能な@shoukou5はただ一つしか存在しないという主張が述べることであると考えます。わたしは、このどちらも真だろうと判断します。
なおここでは2人以上の人間が共同で1つのアカウントを使う可能性は想定していません。しかしそういうケースは十分にありえますし、現に現在shoukou5のアカウントはわれわれ2人が連絡用に使用しています。この可能性に言及しなかったのは、仮に2人以上の人間が共同で使用していたとしても、「謝罪すべきである」という論点にも、「謝罪できる」という論点にも影響しないからです。共同で使用されているアカウントであったとしても誤言及した場合は謝罪すべきであるという点に違いが生じるとは思いません。


@pubkugyoは@shoukou5に謝罪すべきであるという主張は以下のように分析されます。
S4: ∃xSx □→ ∀y(Sy→Apy)
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、@pubkugyoはshoukou5というTwitterアカウントに謝罪すべきである」

後件のSy、すなわち可能な@shoukou5は、複数の世界にいる複数の個体でありえますが、しかしいずれの世界においても曖昧ではありません。私はS4は真だろうと判断します。


謝罪の言葉はおおよそ以下のようになるでしょう。
S5: もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、私はshoukou5というTwitterアカウントの使用者に謝罪する

この謝罪の言葉はいささか奇妙ですが、それは表面だけのものだと考えます。たとえば「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」という言い方は反事実的条件法を利用していますが、その謝罪におかしなところがあるとは思いません。反事実的な存在仮定の下で当の対象に対し謝罪することは、依然として可能であり、われわれが日常的に行なっていることの1つであると見なします。


<div class="note">（注一）可能的対象の同一性について、古典的批判はQuine[1980]に見られます。</div>


Lewis, David, 1973, 1986, Counterfactuals, Basil Blackwell.(デイヴィド・ルイス, 吉満昭宏訳, 2007, 『反事実的条件法』, 勁草書房)
Lewis, David, 1993, "Many, but Almost One", (デイヴィド・ルイス、「たくさんだけどほとんど1つ」、『現代形而上学論文集』, 勁草書房) 
Quine, W.V., 1980 "On What There Is" in From a Logical Point Of View, Harvard University Press.(クワイン、飯田隆訳『論理的観点から』, 1992, 勁草書房)

]]></description>
            <link>http://www.at-akada.org/blog/2009/05/post-288.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">哲学</category>
            
            <pubDate>Fri, 29 May 2009 09:10:21 +0900</pubDate>
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