うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“メモ”タグの付いているブログ記事

今日は眠れない感じなのでいろいろ書いてみる。


■なぜか finalvent の人のブログを過去ログにさかのぼって読んでいた。ウィトゲンシュタインの感覚日記の話が書いてあって、「感覚A」「感覚A」と言ってたので「Eだろ」とつっこみたくなった。しかしつっこんでもしょうがないのでいいや。いやいや、われわれはアルファブロガーのブログとかみると、「アルファブロガーって何でもよく知ってるんだナー」と頭から信じそうになってしまうじゃないか (おれだけか)。しかし、もちろんそんなわけないのでいいかげんなこともよく書いてるし、そうじゃないとやっていけないと思うのだが、読者は間違いを見つけると鬼の首を取ったかのごとく指摘したくなる。それでアルファブロガーの人もいろいろと大変だなと思った次第。様相論理についても間違ったことを書いていたように思ったが、これは指摘するとまた自分が間違ってそうで恐いからいいや。

いや、「A か E か」というレベルじゃなくて、そもそも感覚日記の議論の要点を外したようなことを書いていたように思ったのだが、そもそも私が感覚日記の議論の要点をよくわかってないので、あんまり何も言わんとこ。


■構造主義はどこで間違えたか。

これは一言で言える。「行為者のレリバンスを無視した」から。もっと砕いて言うと「構造を評価する基準が無かった」から。たとえば「~のような構造が」とか「~のようなルールが」と誰かが言い出したとき、「その構造・そのルールが本当に使用されているのか」を評価する基準がなければ研究にも何にもならないから。

自分なりの言い方で言う。「構造」とか「ルール」みたいな話をするときに、一個の基準になりうるのは、そのルールが破られたとき、ルールに従ってる人々にとって「破られたことがわかるか」ということだと思う。会話の格率だとか、ターン取得の規則はこれを満たしているのでよい。認知系に入り込んだ人たちだとまた別の基準があるんだと思うけど、私が知ってるのはそのくらい。

基本的にそれだけの話であり、「どうやって研究を評価するか」というテクニカルで世俗的な部分で議論はつきている。「構造がー」とか「力がー」とか「差異がー」とか思想的な話を読み込むべきところではない。


■時々無性にポモの人とか、人文系のイヤな部分を書き立てたくなるが自重している。

遠回しに書こうっと。カルスタの人は、むしろ正しい。馬鹿にされてることあるけど、非政治的なポモの人とか、運動しないでいまだにポスト構造主義言ってる人とかよりはだいぶまし。「構造主義」がどうしたとか「ポスト構造主義」がどうしたとかいう話は、むしろ政治的な文脈でしか救えないだろうと思う。これについて finalvent の人が「構造=ソ連」って言ってて、そういう理解はそれはそれで正当なのではないかと思った。


■買った

それで思い出した。マーケットプレースで安かったので買った。

ソール・A.クリプキ(著), 黒崎宏(訳)

産業図書、1983


↓こっちも読まなきゃだけど、後で図書館ででも読もうっと。

ウィトゲンシュタインの言語論―クリプキに抗して


■フロギストンはマイナスの質料を持つ。

「フロギストンはマイナスの質料を持つ」って誰かが言い出したとき、「じゃあフロギストンって概念は使うのを止めよう」と言い出す勇気が必要。デイヴィッドソンが「言語なんて存在しない」と言ったとき、(広義の)「言語」というカテゴリーは捨てるべきだった。クリプキが「ルールなんて存在しない」と言ったとき、「ルール」という概念も捨てるべきだったかもしれない。じゃあ何が残るかっていうのはわからないけれど。


■形式的なものが好きだ。

好きでたまらない。人によってはああいうものがとても無味乾燥に見えたりするのかと思う。自分にとっては形式的なものが無味乾燥に見えたことがほとんどない。うっかり文系になってしまったので入学以後勉強しなかったけど、基本的に数学好きなんだよね。

昔ある人と話してて「哲学も数学みたいなもんだなと思って興味がなくなってしまった」みたいなことを言われたことがある。たぶんその人は「形式的で無味乾燥としている (実存的じゃない)」みたいなことが言いたかったのだと思う。私はそういう感覚がよくわからなかったので、これはちょっとびっくりした。哲学も文学もある意味では数学みたいなもんだし、そうじゃなかったらつまらないと思うんだけど。


■何かを書くと必ずあとで後悔する。

基本的に自分の書くことがいつも恥ずかしくてしょうがない。なんつうかこうものすごい「恥の感覚」があるのだが、人が恥じているのを見ると、「そんなに恥ずかしくないのに」と思う。きっと自分のことも第三者として見れば、そう言うと思うのだが、やぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。「生まれてごめんなさい」みたいな感覚がたまーにおそってくる。ときどき衝動的にブログとかサイトとか丸ごと消したくなる。数年のうちにはきっと耐えられなくなって消すと思う (一度消してるし)。ブログをずっとつづけている人はそういうの無いのかな。あっても克服しているのだろうか。それはすごいなといつも思う。

いや、もっと恥をかいて、とことん恥をかいてずうずうしくなるべきなのか。ときどきそういうことも考える。

吹っ切れることもあるけど、しばらくすると冷静になるので、やっぱり自己嫌悪してあまり長続きしない。

スタイルが未完成なことが問題なのかもしれない。1から2年くらいで考え方が変わってしまうことがある。そういうとき「考え方が変わった。これこれと言ってたのは間違いだった」みたいなことを説明するのもめんどうくさい。「昔書いたこと」と「自分が今思ってること」の落差が広がっていくと、昔書いたものが公開されていることに嫌気がさしてくる。

でもだからと言ってそれを消すのもヘンな話ではある。人に対してだったらそういうと思う。しかし堂々と残しておくのもそれはそれで難しい。年を取れば堂々とできるのか。できるかもしれない。


■最近トゥイッターやってる。トゥイッターは無責任なので今のところすごい書くのが楽。読んでる人も少ないし。

基本的に私はものすごくあがり症だ。多くの人 (数十人以上) が読んでるとか見てるとか思うとやたらに緊張してしまう。早くあがり症だけは克服したい。たまに暴走と悪のりの力でヘンなことができることもあるが、長続きしない。


■就職

私は積極的に「就職したい」と思っており、研究者には積極的に「なりたくない」と思っている。ある種の院生の人と話していると、もしかしてその辺が理解されていないのではないかと思うことがある。彼・彼女らのなかでは働くのは「イヤなこと」であり、皆が皆「研究者になりたい」と思っているのではないかと、(思いたくないけど) 思ってしまうことがある。

アレはいったい何なのだろう。働くのは研究よりもよっぽど楽で楽しいことだと思うけどな。


■プラグマティズム

思うに、プラグマティックであるとは、「高尚で深遠で形而上学的な問題を、世俗的で経験的な問題の中に解消したい・解消する」という志向を持つこと。「他者の根源的な理解不可能性」に悩む人に対し、「モテる方法」「頭が良いと思われるための話し方」という本を手渡すこと。

ところで、世の中には、アンチ・プラグマティスト、すなわち「世俗的で経験的な問題の中に、高尚で深遠で形而上学的な問題を見つけようとする人」がいる。この人たちは、「喋るのが下手で悩んでる」という人に対し、「他者の根源的な理解不可能性」みたいなことを吹き込もうとする。皮肉なことに、後者はたまにプラグマティストのことを仲間だと思い込んでしまうが、プラグマティストからすれば、こいつらこそ敵に他ならない。

しかし、両者がよく似ているのも確かだと思われる。多くのプラグマティストは、一度はアンチ・プラグマティストの道をもたどりかけ、転向の結果プラグマティストになるのではないかと思う。プラグマティストとアンチ・プラグマティストの区別に敏感なのは、プラグマティストだけであり、そもそもどちらにも関心がない大多数の人々にはあまり両者の区別がつかない。

そしてプラグマティストもアンチ・プラグマティストも基本的に負け続けている。

ちなみに私はどちらかというとプラグマティストなので注意してください。

発表一個\(^o^)/オワタ。

あー、当然そういうことを言われるよなー、という感じのことを言われてしまった。自分のなかで「ここは遠回りしてでも頭を整理しておきたい」みたいなところがあって、でもそんなのこっちの都合だから、「なんで遠回りするの?」と言われるのもわかるし、あー、どっちにしろこの時点でそうなるのはどうしようもないみたいなことを思った。


今日覚えた素敵な表現。

「両手で数えられるほどしかない (2進法で)」

使って良い条件は、1024 (2の10乗) 以下のとき、かつそのときのみ。


or と unless が同値である件

これは不思議だと思うのだがどうか。

たとえば、

1A: "I am happy unless it is raining."(「雨が降ってなければ幸せです」)

は、

1B: "I am happy or it is raining."(「私が幸せであるか、または雨が降ってるかどちらかです」)

と同じ命題、同じ事態にリファーしているのだということになる。


不思議だが、理屈としてはわかる。「雨が降ってなければ幸せです」ということは、「晴れならば、幸せである」ってことだ。「幸せならば雨は降ってない」とは言ってないので、雨が降ってて幸せなこともあるかもしれない (テストに受かったとかそういうとき)。場合分けで言うと、「雨で不幸せ」「雨で幸せ」「晴れで幸せ」はありえる。しかし、「晴れで不幸せ」ということだけはない。必ず「雨」か「幸せ」かどっちかだけはある、と。

一方、"or" というのは「どっちかは成り立つ」ってことだ。「両方ダメってことはない」ってことだ。だからやっぱり「雨」か「幸せ」かどっちかはあるってことになる。


他方、

「偶数でなければ、奇数である」

から、

「偶数であるか、または奇数である」

を導くのは自然な感じがする。

ほかにも、

「結婚してないならば、独身である」

から、

「結婚しているか、または独身である」

を導くのはやっぱり自然な感じがする。


不自然な例を考える。

2A: 「この曲の良さがわからないやつはゆとり」

(この曲の良さがわからないならば、ゆとり教育を受けた世代である)

これは、

2B: 「この曲の良さがわかるか、ゆとりであるかどちらかである」

と同値。


2B のようなことを言われると、なんでそんな回りくどいことを言うのか、みたいな感じがするな。しばらく考えないと、2A と同じかどうかわからない。頭が論理的なゲシュタルト崩壊を起こしそうな感じ。


別な例。

3A:「次のテストで1位をとれなかったら、部活をやめる」

これは

3B:「次のテストで1位をとるか、部活をやめるかどちらかである」

と同値だ。

「1位をとるか部活をやめるかどっちかだ!」って言われたら、「とれなかったらやめるんだろうな」と思うだろうから、この例はそこまでヘンではないな。

問題は上のようなことを言ったとき、「1位を取れたけど、やめる」というのは、やっぱり少しヘンな感じがするということだ。矛盾はしてないのだが、「結局やめんのかよ!」みたいなことを言いたくなる。


自然な場合とヘンな場合の差を考える。

大体 2A のようなことを言われれば、「ゆとりはみんなわからないんだろうなー」と思うけど、実は「わからないならばゆとり」としか言ってないので、「ゆとりだけどわかる」ということはあってもよい、という点が盲点になってそうだ。

一方、偶数の場合は、「偶数かつ奇数」という数がないから、「または」が自然に排他的 (両方は成り立たないという) 意味で通用するので自然な感じがするのだと思う。


3AB (次のテストで1位をとるか、部活をやめる) が 1AB とか 2AB よりは自然に見えるのはなぜだろう。

(3)「1位をとれなかったらやめる」というとき、「1位を取れたけどやめる」

というケースを想定するのは、そこまで難しくない。

しかし、

(1)「雨が降ってなければ幸せ」というとき、「雨が降ってても幸せ」

というケースを想定したり、

(2)「わからなければゆとり」というとき、「ゆとりだけどわかる」

というケースを想定するのは難しい。


3 の場合、言われていることは条件法で、「取れないならやめる」という条件が主張されている。このとき、「取れたらどうするかについては何も言ってない」というのは想定の範囲内だろう。

しかし、1 とか 2 は、条件法ではなく、「晴れ - 幸せ」「雨 - 不幸」「わかる - 非ゆとり」「わからない - ゆとり」という対立を主張しているように見える。

つまり、「雨が降ってなければ幸せです」「この曲の良さがわからないやつはゆとり」

ということを言われたとき、条件法とか包含の関係ではなく、「雨は不幸」「ゆとりはわかんない」みたいなことを言っているように感じてしまう。


...なぜか。

(というところまで考えたところで、夜遅くなったのでやめる)。

コピー! コピー! すべてはコピー!


図書館の人が自分の代わりに論文をコピーしてくれるという、すばらしいサービスに登録したのだが、自分とこの図書館にあるやつと、PDF で読めるやつはコピーしてくれないらしい。


  • 「信念のパズル」

Saul Kripke 著 ; 信原 幸弘 訳解説

「現代思想」

1989/03

「他者とは何か--コミュニケーションと意味」特集


  • 「隠喩は何を意味するのか」

D.でイヴィッドソン著;

「現代思想」vol.15-6

1987/05

「メタファーの修辞学」特集


  • 西阪仰「関連性理論の限界」

『言語』24 (4): 64-72.

1995


  • 上谷香陽「社会的実践としてのテレビ番組視聴」

「マス・コミュニケーション研究」No.49

1996/07/31

http://ci.nii.ac.jp/naid/110002954621/

↑PDFでダウンロード可。

コピーすべき論文を書いておく。


  • ウェス・シャロック&クアム・バトン(池谷のぞみ 訳)「正しいことをなさい!──規則有限主義と規則懐疑主義、そして規則に従うこと」

『文化と社会』第2号、2000


  • 石井幸夫「意味と力――言語行為論をめぐる一考察」

『社会学評論』、Vol.40, No.2、1999


  • 芦川晋「発話行為の理論とは何か,また何であるべきか--コミュニケ-ションとは何か,また何であるべきか」

『社会学年誌』通号 36、1995/03


  • Jonathan Benett'Real'

K. T. Fann ed. "Symposium on J. L. Austin", 1969

法・図


  • Jayyusi, L, 'Towards a Socio-Logic of the Film Text'

"Semiotica", 68 (3/4), 1988

文・図

私が本屋で発見したことを書く。

ちくま学芸文庫の新刊。

W.V.クワイン(著), 吉田夏彦(訳), 野崎昭弘(訳)

ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2007

昔出てたやつの再版らしい。軽い読み物風。


レスター・エンブリー(著), 和田渡(訳), 李晟台(訳)

ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2007

どうなのか。


本屋と関係なく、気がついたこと。

しょこたん☆ブログを読んでいたら、しょこたんこと中川翔子さんがホーリーマウンテンを観ていたのでえらいなあと思った。

日本語文法の基礎くらいは学んでおきたいなと思っている。

日本語の文法

高橋太郎(著)

ひつじ書房、2005

よさげ。


新しい日本語学入門―ことばのしくみを考える

庵功雄(著)

スリーエーネットワーク、2001

初学者にはいいかも。


初級を教える人のための日本語文法ハンドブック

庵功雄(著), 松岡弘(著), 中西久実子(著), 山田敏弘(著), 高梨信乃(著)

スリーエーネットワーク、2000

中上級もある。いいかもしれない。


「物」と「場所」の対立―知覚語彙の意味体系

久島茂(著)

くろしお出版、2001

おもしろそうなのだが、どうか。

伝記系

星新一―一〇〇一話をつくった人

最相葉月(著)

新潮社、2007

気にはなっている。


セクシーボイスアンドロボ1

黒田硫黄(著)

小学館、2001

セクシーボイスアンドロボ 2 (2)

黒田硫黄(著)

小学館、2003


ドラマ化されるらしい。

http://www.ntv.co.jp/sexyvoice/

ドラマ化に興味はないが、そういえば最後まで読んでなかったかもしれない、と思い出した。読み直したいなあ。


バーナード レイトナー(著), Bernhard Leitner(原著), 磯崎新(訳)

青土社、1996

カクカクしている。

「赤」の誘惑―フィクション論序説

蓮實重彦(著)

新潮社、2007

でてんのかー。じゃあ買わなきゃなー。

アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学

ジョン・ノイバウアー(著), John Neubauer(原著), 原研二(訳)

ありな書房、1999

テーマはおもしろそうなのだが、内容はどうだろうか。


The Possible and the Actual: Readings in the Metaphysics of Modality

Michael J. Loux(編)

Cornell Univ Pr 1979

有名なアンソロジー。グーグルブックサーチで序文などが読めるようだ。


佐藤文広(著)

日本評論社、1994

http://www.members.tripod.com/~yoshino/socio/

「フィクションに対する態度~~A・シュッツの文学分析への一考察」など。


自己欺瞞と自己犠牲

柏端達也(著)

勁草書房、2007

買おうかどうか悩み中。読むべき本が処理できなくなりつつあるので、基本的に新しい本は買わないようにしようと思っている。


何が社会的に構成されるのか

イアン・ハッキング(著), 出口康夫(著), 久米暁(著)

岩波書店、2006

こっちはそのうち買うと思うが、とりあえずペンディング。


Lena Jayyusi(著)

Routledge Kegan & Paul, 1984

今この人の写真論*1を読んでいるのだが(これは非常におもしろい)、英語を読む遅さにわれながらびっくり。ぜんぜん終わらない。ので、この本まで読むのは無理だと思う。

司氏に聞いた話。

明子という名前の人がいるのだが、由来は「諸葛亮孔明」らしい。孔明の「明」をとったそうだ。

宣言すれば引用になる(し、しなければ誰も気づかない)、という例。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%90%86%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6

論理式から論理式を導き出す推論規則には、たとえば論理式 A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則がある。これはいわゆる三段論法である。

この部分が間違っているような。 「A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則」は MP(modus ponens)、日本語で除去規則と呼ばれるもので、三段論法とは関係ない気がする。

もちろん Wikipedia の記述に文句をつけるくらいなら、自分で直せばいいわけだが、アカウント持ってないし、とりあえずメモしておく。


ついでだから、論理学トリビア。どんな教科書でも最初に載ってるような基礎的な内容だけど。

「トートロジー」というのは、論理学的な概念だと思われてそうだが、論理学でいう「トートロジー」と日常語(むしろ修辞学の概念?)のトートロジーはだいぶ意味がちがう。

論理学以外でトートロジーというと、あまりよい意味ではない。「きみの議論はトートロジーだ」って言われたら、たいてい馬鹿にされてるのだ。一方論理学的トートロジーには悪い意味はまったくない。むしろトートロジーこそ論理学固有の対象であり、妥当な推論はすべてトートロジーであるとされる。

この「妥当な推論はすべてトートロジー」というのは、最初ちょっと戸惑うが、原因は「ならば」の働きにある。

推論は「(前提1)、(前提2)、(前提3)、ならば(結論)」という形をとる。このとき、推論が妥当なら、前提が真のとき結論も真であり、推論全体は真になる。前提が間違ってるなら、ありえない前提のもとでの推論なので、推論全体はやはり真になる。というわけで、妥当な推論はつねに真になる(=トートロジー)。一方妥当でない推論は、前提がすべて正しくても結論が偽になることがある(反例をふくむ)ので、トートロジーではない。


追記:

別のところにも変なのを発見した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AB%96%E7%90%86

直観論理(ちょっかんろんり)あるいは直観主義論理(ちょっかんしゅぎろんり)とは、従来の論理学(古典論理)は全てのものの真偽が明確になる「神の論理」であるとして、もっと慎ましやかに人間の立場の論理学を考えようということで提唱されたものである。

慎ましやかは関係がないのではないか。もしかしたら私が知らないだけでブラウワーがこう言ってるのかもしれないが、ふつう教科書的には直観主義論理は以下のように説明される。

直観主義論理学は排中律を認めない。排中律、すなわち「すべての命題は真か偽かいずれかである」ということを認めるには、対象はすでに決定ずみだと考えなければならない。しかし、未来のことや無限について、これが認められるかどうかは怪しい。たとえば「明日は雨だ」が真か偽かいずれかだというのは、未来がすでに決定ずみだという前提に立たないかぎり認められない。同様に、無限につづく数、たとえば円周率について「円周率には7の7連続が含まれる」などの命題が真か偽かのどちらかだと考えるのは、「神の立場」に立たないかぎり不可能だ。少なくとも人間の認識を基礎におくかぎり、これらの命題は真とも偽ともいえない。そこで、真でも偽でもない命題の存在を認め、排中律を持たない新しい論理としてつくられたのが直観主義論理。

(特に直観的にわかりやすい内容でもないため、直観主義論理という名前がふさわしいかどうかは知らない)。

事実・虚構・予言

N.グッドマン(著), 雨宮 民雄(訳)

勁草書房、1987

これ、タイトルには虚構と入ってるものの、フィクションとはほとんど関係ない。ちなみに『表象の奈落』を読むと、ハスミン先生もタイトルのせいで間違えてこの本を読んだことがわかって楽しい。間違えて読んだうえに、(「可能なもの」という概念に対する批判の書である本書を) 可能世界型の虚構論といっしょくたにして論じているのはどうかと思うが。

実際のテーマは反実仮想と帰納的判断。フィクションは単にタイトルの語呂合わせで出てきただけだと思われる(正確に言うと、「反実仮想」や「可能なもの」はフィクションと決して無関係ではないので、かすってはいるが、内容としてはホントにかすってるだけ)。


グルーのパラドックス - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

それはそれとして。グルーというのは、本書に出てくる有名な概念だ。

グルー(grue)とは、緑を意味する英語グリーン(green)と、青を意味する英語ブルー(blue)から作った言葉で、たとえば、「2050年までに初めて観察されたものについては緑(green)を指し、2050年以降に初めて観察されたものについては青(blue)を指す」と定義される(グルーは、緑と青の切れ目にどの時点をとるかで無数の定義がありうる)。

このようにグルーを定義すると、2050年までに緑色のエメラルドが観察されたという事実が、「すべてのエメラルドはグルーである」という仮説を支持することになってしまう (従って「2060年にすべてのエメラルドはブルーである」という仮説も支持されることになってしまう)。この種のヘンな述語を帰納的判断から排除するのは、実はとっても大変だよというのが本書の主なストーリー。

(結論としては、「ブルーが過去何度も使用されてきた概念であり、グルーはそうでない」という語の使用の歴史に訴えかけないかぎり、グルー型の推論を排除することができない)。

この本の議論自体はいいのだが、私は「グルー」が架空の概念であることが気になっている。この種の議論はなるべく架空でない例に基づくべきだと思う。

もちろん議論の趣旨は、「語の歴史が帰納的判断に影響する」というものだから、「(歴史を持たない) 架空の語が排除される」ということ自体は議論の筋にもあっているのだが。似たような概念で、実際に使われているものがあれば、もっとうまいこと説明できるんじゃないかなあと思うのだ。

というわけで、グルーに似た概念をずっと考えているのだがなかなかいいのが思いつかない。

一個だけ思いついたのは、「子午線上の」(子午線をどこに置くかは時期によって違う)。しかし、すべての時期における子午線が「同一」とされているわけでもないので、これもちょっとすっきりしない。ある言語では同一とされるのに、別の言語では時間によって異なる名前を持つものなどがいいと思うのだけど。

大変ベタな例だが、「金星」と「宵の明星」「明けの明星」は似てなくもないかな。「宵の明星」「明けの明星」を同一と思わない人々にとって、宵の明星に関する観察から、明けの明星に関する判断を引き出すことは不当な判断でしかない。その際、「金星」という語は、「朝は明の明星、夜は宵の明星を指す」と定義できるが、これは、グルー並に不自然な語に感じられるだろう。従って「金星」という概念を認めるかどうかで妥当な帰納的推論のあり方も変わってくることになる。

まだいい例がありそうだが、思いつかない。


余談だが、本書にたくさん出てくるグルーの変種たちのうち、私が一番好きなのは「エフェルビー(Eifferuby)」だ。これは、ある時点より前には「エッフェル塔」を、ある時点より後には「ルビー」を指す語。

ドラえもん長編映画『のび太の新魔界大冒険

http://dora-magic.com/top/index.html


観に行きたい。ふと思ったが、SF におけるパラレルワールドというのは、様相論理の可能世界意味論や物理学の多世界説とちがい、なかなか出所がどこであるのかよくわからない概念であるな。タイムトラベルから派生した概念なのかな。

もしもボックスによる世界というのは、「もしも…だったら」という形式からして、様相論理の可能世界概念に近いようにも思う。だとすると、数学的真理が異なった世界などにはもしもボックスでも行きつけないのか。よくわからない。

旧魔界大冒険では、「魔法の世界」自体がもしもボックスによって生み出された世界であるにもかかわらず、魔法の世界をなかったことにすることはできないというのび太の心理的葛藤が描かれていた。しかし、よく考えてみると、もしもボックスによる世界すべての「実在」を認めるなら、魔法の世界においてドラえもんが壊れたままになった世界や、魔界の侵略が実現した世界などもすべて実在することになり、のび太が何をしても悲惨な結果を回避することは―多世界レベルで見ると―できないわけで...うんぬんかんぬんと思ったが、それ以上あまり考えが発展しなかった。

自分用。


  • Jayyusi, L"The Reflexive Nexus:Photo-practice and Natural History"

Continuum: The Australian Journal of Media & Culture, 6-2, 1991

ジェユッシ、L「反省的ネクサス: 写真-実践と自然史」

実践エスノメソドロジー入門』より。

↓HTML で入手可。

http://wwwmcc.murdoch.edu.au/ReadingRoom/6.2/Jayyusi.html

個人的には PDF 版がほしいなあ。自分でつくるか。


意味と世界―言語哲学論考

野本和幸(著)

法政大学出版局、1997


現代の論理的意味論―フレーゲからクリプキまで

野本和幸(著)

岩波書店、1988

たぶん読んだ方がいいのだが、ちょっと後回し。


  • 吉野ヒロ子「犯人は告白する : 推理小説の社会学」

ソシオロジカル・ペーパーズ、vol.6, 1997


  • 吉野ヒロ子「テクストのエスノメソドロジー : D・スミスとA・マクホールを中心に」

早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊, 哲学・東洋哲学・心理学・社会学・教育学, vol.43, 1997


  • 吉野ヒロ子「<修士論文概要> 虚構のリアリティ : アルフレッド・シュッツの文学分析への一考察」

早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊, 哲学・東洋哲学・心理学・社会学・教育学, vol.41, 1995

もの・言葉・思考―形而上学と論理

三上真司(著)

東信堂、2007


2007/06/09訂正:

以下に書いたことは間違いであるか、少なくとも誤解を招くものでした。すいません。http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html

↑訂正記事



同一性記号と変項の扱いについて、明らかに間違ったことが書いてある箇所があったので書き記しておく。というか間違いを書いた後でほめようと思っていたのだが、間違いについて長々書いているうちに眠くなってしまったので、ほめるのは明日以降に延期する。

同一性は「もの」と「もの」との関係なのだろうか。もしそうならば、それはいかなる関係なのか。「もの」とそれ自身の関係なのか、それとも「もの」と別の「もの」の関係なのか。もし前者ならば、同一性を言い表す言明は必然的に真であり、しかもこのうえなくつまらない同語反復でしかない (a=a)。もし後者ならば、それは必然的に偽である。それ自身とは別のものと同じであるようなものはないからである (a≠b)。p123-124

論理学には同一性を「『もの』と『もの』の関係」として把握する傾向が内在している。もし通例通り同一性の記号が「もの」と「もの」の関係として把握されるならば、それは上述のパラドックスに帰着する。p124

これは、かなり怪しい表現。

同一性記号を「ものとものの関係」だと把握すれば、確かにパラドックスでも何でも起きるかもしれないが、それは単に同一性記号に関する理解が間違っているからだ。同一性記号は「ものとものの関係」については特に何も言ってない。

同一性記号が意味するのは、「二つの名前が同じものを指示する」ということだ。

戸田山本から同一性記号の定義を引いてみよう。ただし、メタ言語のイコールとごちゃごちゃになってややこしいので、ここでは同一性記号には半角の「=」を使う。メタ言語のイコールには全角の「=」を使う。またギリシャ文字は使いたくないので、漢字に置き換えておく。

任意の個体定項甲、乙について、VM(甲=乙)=1 ⇔ V(甲)=V(乙)

p203

これが意味するのは、『モデルMのもとで、論理式「甲=乙」が真となるのは、定項「甲」に割り当てられる個体と定項「乙」に割り当てられる個体が同じとき、かつそのときのみですよー』ということだ。

以上のように同一性はあくまでも「2つの記号と1つのもの」の話なので、1つのものについてつねに1つの名前だけを割り当てるようにすれば、「a=b」などの文は必要がなくなる。このあたりは著者の言うとおり。

ただし、同一性記号が無意味になるのは定項の場合にかぎる。名前がつねに一個だけだとしても、自由な変項に関する同一性記号は無意味ではない。

たとえば、以下のようなモデルを考えよう。

議論領域: {1, 2, 3}
個体定項
a: 1
b: 2
c: 3
述語
2x: x が偶数である。

このとき、論理式「2b∧∀x(2x→x=b))」は無意味ではない。

これは「偶数なのはbだけですよー」という意味だ。無意味どころか、同一性記号を使わないとこの文は表現できない。

もう少し細かく言ってみよう。x は変項だ。変「数」であるということは、「そこに入る数が様々に変わる」ということを意味している。これと同様に、変「項」であるということは、「そこに入る『項』(記号)が様々に変わる」ということを意味している。つまり、「∀x(2x→x=b)」は、「どんな記号を x に入れてみても、(2x→x=b) が成り立ちますよ」という風に読める。今記号は、a と b と c しかないから、「∀x(2x→x=b)」が意味するのは、「a, b, c を順番に x に入れてみなさい。2x が成り立つなら、その記号は b と同一ですよ」ということだ。

だから文全体は「bは偶数であり、かつすべての記号について、その記号の指示先が偶数ならば、その記号の指示先は b と同じですよ」という風に読める。これを短く言うと、「偶数なのはbだけですよー」となる。これはトートロジーでも矛盾でもない。モデルによって真偽がかわる文であり、この場合はたまたま真になっている。

著者はおそらく変項というものについてよくわかっていないのだと思う。それがはっきりとわかる箇所は以下。

ただし、「二人の人が『ウェイヴァリー』を書いたことはなかった」も「二人の人が『マーミオン』を書いたことはなかった」も他とは独立した内容なので、すでに使われている変項を重複して述べることはできない。それを回避するならば、「『ウェイヴァリー』の著者は、『マーミオン』の著者と同一人物である」は次のように表すことができる。

(4) ∃x(Px∧Qx)∧¬∃y∃z{(Py∧Pz)∧¬(y=z)}∧¬∃v∃w{(Qv∧Qw)∧¬(v=w)}

p141-142

著者はできないと言っているが、(4)は以下のように書いてもかまわないし、ふつうはこう書くと思う。

∃x(Px∧Qx)∧¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}∧¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}

なぜこう書いてかまわないかというと、誤解の可能性がないからだ。この文を日本語で読むと次のようになる。「(Px∧Qx) に入れると成り立つような記号があります。かつ {(Px∧Py)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません。かつ {(Qx∧Qy)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません」。

ややこしいから、三つに分けよう。

ア: ∃x(Px∧Qx)

イ: ¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}

ウ: ¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}

ここでア、イ、ウはそれぞれ別の量化子のスコープ内にある。

アの部分は一個の記号 x について述べているが、括弧が閉じることによって x の話はいったん終わっている。だからイとウでもう一回 x を使っても誤解の可能性はない。

一方、これと違いイのなかの x と y は区別されなければならない。ここでは、∃x∃y という二つの量化子のスコープが重なっている。これは x と y という二つの記号について述べているのだと考えなければならない。x と y は同じかもしれないし、べつかもしれないし、どっちかわかんないから二つの記号を使うのだ。

∃x∃y(Px∧Py) が真であるのは、二つの違うものが 'P(...)' を充たすときである。「二つの違うもの」の差異は、'x' と 'y' という違った記号を使用することですでに尽きているのだから、¬(x=y) をその後に付加するのは余計なだけである。p143-144

ここは明らかに間違っている。x, y は違うものかもしれないが、同じものであってもかまわないのだ。

さっき私があげたモデルで、2x が成り立つ記号はひとつしかないが、「∃x∃y(2x∧2y)」は真になる。なぜなら「2b∧2b」は真だからだ。ここでは x と y が同一であるか別であるかについて何も言われていないため、x=y の可能性を排除できない。

権威付けのために教科書を参照しておくと、x, y が同じものであってもいいということは例えば、戸田山本の p179 などにかなりはっきりと書いてある。

というかだね。「同一性記号が役に立つのは、量化子のスコープのなかでだ(自由な変項についてだ)」というのはむしろ「視線の重ね合わせ」という著者の主張に適合しやすいことだと思われるのだ。そのため、こういう基礎的なレベルで間違いをおかされるのは、本書の読者としては残念でならない。このあたりの話をからめさえすれば、同一性に関する議論はもっとずっと深められたはずであったと思う。

http://www.nicovideo.jp/

M川に聞いて知った。10万人までの申込者は、ニコニコ動画クローズドガンマサービスに参加できるらしい。

申し込んだ。もう10万人突破してたw

ハスミン

表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

蓮實重彦(著)

青土社、2006

  • エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン
  • 「『赤』の誘惑をめぐって」

2つの論考のみ目を通す。

なお、「フィクション」をめぐっては、来年二月に刊行予定の『「赤」の誘惑――フィクション論序説』(新潮社)により詳細な議論が展開されることになるだろう。

p365

予告篇だった YO!

ちなみに発売は3月末になったらしい。

http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-10-304351-5&Sza_id=MM


感想。

小説も哲学論文も関係なく、「赤」というテーマでテーマ論的に横断してしまうハスミンには、「テクスト」概念があればよかったのであって、「フィクション」の概念はまったく必要なかったのではないかと思った。タイトルも対象も、「フィクション」とか「フィクション論」になっているのに、フィクション概念が論考中で何の役割も果たしていない。

↓ハスミン先生はなんでわざわざフィクションを論じようと思ったのかと探していたら、こんなインタビューを見つけた。

蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2

http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php

──どうして今、フィクションという主題で書こうと思われたのですか。

蓮實:ひとつには、いまいったように、まだまとめきれずにいる『「ボヴァリー夫人」論』を完成するにあたってフィクションというものを近代の散文の一形式としてどうしてもおさえておかなければいけないという意識がありました。それには、ミシェル・フーコーのいう「近代」における言語の露呈との関係で「近代小説」をとらえざるをえないということなのですが、現在のフロベール研究はそうした視点を重視してはおらず、かろうじて、局外者のジャック・ランシエールがその種の視点に立っている。言語の露呈とフィクションとの関係を結果としてうまくおさえられたかどうかはわかりませんが、多くの西欧の理論家たちがフィクションを論ずると、論ずる主体が無意識のうちにフィクション化していく。論ずる主体がフィクション化していくってことは、ほとんど自分の言葉を語ることができず、言葉に語らされることで主体が希薄化していくということです。アメリカの言語哲学者のほとんど全員がそれにあてはまっている。それと、いまは「可能世界論」的なフィクション論が盛んなんですが、そうした視点からフィクションを論じようとするひとの大半は、論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。語っているひとたちは間違いなく存在しているにも関わらず、彼らの言説は対象を欠き、ほとんど存在していないかのような曖昧なものになっていく。ですから、「フィクション論者のフィクション化論」というような話になります(笑)。

「論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。」

これ、論考のなかでも同じことを言っていた。

すでに見たように、彼らの大半は文学作品の「有名性」に依存しており、テクストを読むことに関しては、「素人」の域を出るものではないからである。

p288

ハスミンが「フィクション」を論じつつ、ここでは読まれる対象が「作品」、「テクスト」となっていることに注意しよう。

私は「フィクション」論のいいところ(の一部)は、すごい読みじゃなくてふつうの人の読みをあつかったところだと思う。「作品」とか「テクスト」という概念と違って、フィクションという概念のいいところは、それが文学的でも何でもない、すごくふつうの概念であるところだと思う。

それに対しハスミンの論考は、ハスミンがあくまでも作品とテクストの人であって、フィクションの人ではないということを劇的に示していて、おもしろいと思った。この辺の対照化はもうちょっとうまく言えそうだが、なかなかむずかしい。


可能世界・人工知能・物語理論

マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)

水声社、2006

前半は虚構論、後半は物語理論。後半の方がおもしろいと見た。しかし物語理論は後回しにする。

いくらか検討した結果、この著者はおそらく可能世界という概念があまりよくわかっていないのだという結論に達した。

簡単にメモ書きしておく。

一番あやしいのは認識に関する可能世界や、義務に関する可能世界や、物語の展開に関する可能世界などなどを同時に与えているところ。「物語は、義務に関する可能世界や認識に関する可能世界...などからなる」と言っているように見える。これはおかしい。これは「人間は、男と女、子供と老人、20歳以上と20歳未満、50歳以上と50歳未満、本州に住む人とそれ以外に住む人などなどからなる」という発言と同じくらいあやしげな表現。つまり、同時に使ってはいけないカテゴリーを同時に使っている。

可能世界意味論は、義務の分析にも、認識の分析にも、物語の展開に関する分析にも、それぞれ使えるものであるが、だからと言って、それらの可能世界を同時に与える必要はない。必要はないどころか、同時に与えてはいけないのだ。なぜなら、「認識の分析に使われる可能世界」、「義務の分析に使われる可能世界」などなどは全部まったく異なったものであり、それぞれまったく違ったフレームを持つのであるから。

この本自体はいい本だと思うけど、「可能世界」をタイトルに関した文学理論書でもこのくらいのもんであるということで私は安心したのだった。

ライアン本1章

可能世界・人工知能・物語理論

マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)

水声社、2006

  • 1 虚構の中心移動

読み直し。様相論の基礎を勉強してから読み直すとやはりまったく印象がちがう。

とりあえず1章。

これホントは「可能世界」概念なくてもいいんじゃないだろうか。著者は「テクスト宇宙がたくさんの可能世界からなる」と言うが、それって要するに「テクスト宇宙」と「可能世界」という2つの概念が互いに独立したものだというだけの話だろう。もともと関係ない話がいろいろ混ざっているために、余計にややこしいことになっているように見える。

著者のあげる方針は、まとめると「可能世界概念はわりと役立つ」けど「可能世界を虚構性の分析【には】使わない」ということだろう。その辺がわからないと激しく混乱すると思われる。というか私が混乱していた。

1章でかかげられた方針は解きほぐすと以下のようになるはず。

  • 認識・様相について。
    • 可能世界は従来通り、様相(必然/可能)や認識の分析に使いましょう。
      • エーコその他がやったように、小説内における可能性の分析や認識の分析に使うならば、可能世界の概念は有益なものです。
  • 虚構性について
    • 可能世界=虚構世界ではありません。
    • しかし、「現実に actual」が指標的 [indexical] な語だというルイスの指摘は、虚構性の分析に役立ちます。
    • 虚構とは、「『現実に』の指示先が変わること」、すなわち「中心移動」です。
  • 虚構に関する言説について
    • ルイスらの言うとおり、虚構作品に関する言説の真理条件を定義するために可能世界を使ってもいいのかもしれません。

  • 「可能世界概念を、虚構作品における認識・様相の分析に使う」
  • 「虚構性を、中心移動によって定義する」
  • 「虚構作品に関する命題の真理条件を可能世界概念によって分析する」

この3つは完全に独立した話なので、混ぜるのは混乱のもと。

ただしバラバラにでてくるなら、どれもまともな方針だと思う。


訳について。

基本的には読みやすいよい訳だ。

豆知識。訳者さんの裏の顔は『文藝ガーリッシュ』。

文藝ガーリッシュ素敵な本に選ばれたくて。

千野帽子(著)

河出書房新社、2006


ただし数学用語の訳はすこしあやしい。

「秩序づけられた三重対」

p39

原文は見てないが、これは数学用語の「順序3組」だと思われる。

メモ。

可能世界の心理

ジェローム・S. ブルーナー(著), Jerome S. Bruner(原著), 田中一彦(訳)

みすず書房、1998

ブルーナーは1950年代から60年代にかけて起こった認知革命の火付け役として知られ、思考研究や乳児研究においても常に時代をリードしてきた。しかしその後立場を変え、認知科学の動向にむしろ批判的になる。本書はその新しい立脚点と眺望を示す論文集。ネルソン・グッドマンの「構築主義」を手がかりに、一個別科学を超え、ギアーツの人類学、バルトの文学批評、ヴィゴツキーの言語学などと手を携えた文化心理学へと深まった。文字通り、心理学に新しい地平を拓いた、意欲あふれる一冊。

サッチマン『プランと状況的行為』の参考文献にあがっていた。


以下は買った本。

R.C. ホルブ(著), 鈴木聡(訳)

勁草書房、1986

受容美学のその後の展開が紹介されているらしい。

メモしようと思ったら、マーケットプレイスに出てたので買った。

エスノメソロジー系の本と言語哲学系の本を交互に読んでいくとなかなか楽しいことがわかった。とりわけ以下の2つの部分はきれいに対照を描いていておもしろい。


プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

ルーシー・A. サッチマン(著), Lucy A. Suchman (原著), 佐伯胖(訳), 水川喜文(訳), 上野直樹(訳), 鈴木栄幸(訳)

産業図書、1999

表現の意味はいつも実際にいわれていることをこえているゆえに、表現の解釈はその慣習的な、あるいは定義的な意味やある前提の集まりだけではなく、語られないその使用状況にも依存している。(…)哲学者は、この事実を命題の真理条件にかかわる問題であると思い込んでいた。つまり、ある主張が真である条件は、常に背景に関係しており、そしてこの背景は文そのものの意味内容の一部を形成しているわけではないとしていたのである(Searle, 1979)。さらに、原理にかかわることとして言語哲学者を悩ませてきた同じ問題は、いま認知科学者にとっての実践的問題になっている。(…)背景の仮定を意味内容としての叙述に含めようという実際の試みは、しかしながら与えられた叙述の基礎にある仮定の定まった集合はないという事実に遭遇した。結果として、背景的仮定の精緻化は、基本的にその都度なされるものであり、また恣意的なものなのである。そして、原則として仮定のそれぞれの精緻化は、精緻化されるべきさらなる仮定を無限に導入するのである。

邦訳p59-60

背景の仮定を列挙するのは無理ですよ。


パースは、サインの意味がそれが指示する出来事や対象に依存しているだけではなく、サインが実際、指示対象の構成要素であることを"インデックス"という言葉で表した。それで、状況に埋め込まれた言語は、より一般的にはその使用状況に係留されているだけではなく、大いにその使用状況を構成しているのである。エスノメソドロジーはこの言語の構成的機能をさらに行為にまで一般化する。(…)「"文脈一般"なる概念が存在しないだけではなく、例外なくすべての"文脈"の使用はそれ自体本質的にインデックス的であるとしたならば、文脈的行為 (action-in-context) の分析可能性をもたらすのは、まさにこれらの実践なのである」(Garfinkel, 1967; p.10)

邦訳p61

言語(および行為)は文脈に依存するだけでなく、文脈を構成しますよ。


意図の形式を一組の必要十分な観察データで正確に定義できるような、文脈と独立した何らかの行動の意図を認定するための論理の公式は存在しないし、また特定の文脈の固有事実を行動の記述に結びつけるような認識アルゴリズムなるものもない(Coulter, 1983; pp. 162-163 を見よ)。

行為の解釈のための普遍的ルールが存在しないとすると、エスノメソドロジーのプログラムは、特定の状況におけるドキュメンタリー的方法の使用を研究し、また記述することである。

邦訳 p63

だから、むしろ特定の状況から出発し、そこにおける方法を記述しましょう。


一方、この本いわく、

言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

飯田隆(著)

勁草書房、1995


モンターギュの例がひとつの典型とみなせるが、自然言語に対する論理学者・哲学者の態度は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけて大きく変わった。それにはいくつかの要因が挙げられるが、そのひとつは、様相論理の意味論をはじめとする、標準的論理以外のさまざまな論理に関する研究が、一九六〇年代以降いっせいに開花したことである。これらの研究は、形式意味論、もっと限定して言えば、モデル論と呼ばれる分野に属する。形式的取り扱いを拒否すると考えられていた自然言語の特徴、とくに文脈依存性が、非標準的論理の意味論において開発された手法のもとで手なずけることができることの発見は、なかでも重要である。この成功に気を良くして、自然言語の「論理的欠陥」の現れとして、これまでの論理学では意識的に排除されてきた特徴を、形式的に扱おうとする試みがさまざまになされた。たとえば、非形式論理学の必要性の根拠としてライルが挙げた表現のほとんどすえてが、こうした形式的取り扱いの対象となった*。そして、こうした発展のいわば頂点にあるのが、モンターギュ文法である。

* Cf. N.U.Salmon, Reference and Essence. pp.26f.

p173-174

(強調はわたし)


EM のひとたちは、「文脈の形式化は無理」だが、「形式化できなくても別に困らん」という言ってるように見える。他方、ある種の哲学者(および言語学者)が、形式論理を拡張して文脈的要素を扱おうとするのは、「文脈を形式的にあつかえないと困る」とおそらく思っているからなのだろう。

いうなれば、「特定の状況から出発し、そこにおける雑多な論理と方法をとらえようとする人々」と、「形式論理の拡張によって個別の状況にせまろうとする人々」となるのか。両者の中間にライル(と、たぶんウィトゲンシュタイン)がいるというのもなかなかおもしろいことである。

どちらの人々についても初学者以上の者ではない私には、これ以上あまり何も言えないのが歯がゆいところだが。後者に関して素朴に疑問なのは、「拡張しすぎると結局日常言語になるのでは?」というか「日常言語になるまで拡張しないのならば、結局、出てきた論理を個別の状況とどう関係づけるのかという問題が生じるのではないか?」という点。この点については結局勉強するしかないのだろうけど、とりあえずメモしておく。

今、コピーしにいきます

メモ。じぶん用。

○は図書館にあるもの。


追記:

図書館しまってた...。


  • 西阪仰「普遍的語用論の周縁」○

『ハーバーマスと現代』

新評論, 1987


  • 「参与フレームの身体的組織化」○

『社会学評論』43(1)

1992


  • 「現代思想」○

1995/4

「可能世界/固有名」特集


  • 「信念のパズル」○

Saul Kripke 著 ; 信原 幸弘 訳解説

「現代思想」

1989/03

「他者とは何か--コミュニケーションと意味」特集


  • 飯田隆『虚構世界の存在論』書評○

「科学哲学」vol.29

理想社、1996


  • "The Possible and the actual : readings in the metaphysics of modality"

ed. Loux, Michael J.

Cornell University Press, 1979


  • "Reference and modality"○

ed. Linsky, Leonard

Oxford University Press, 1971


  • 戸田山和久「ウィトゲンシュタイン的科学論」○

岩波講座現代思想 (10)

新田義弘編

岩波書店、1994


  • 安川一「"ヴィジュアル"の"わかりづらさ"――ヴィジュアル表現の社会学へ(上)――」○

『言語』27(8): 10-16.

大修館書店、1998


  • 安川一「"わかりやすさ"の陥穽――ヴィジュアル表現の社会学へ(中)――」○

『言語』27(9): 10-15.

大修館書店、1998


  • 安川一「ヴィジュアル文化の読み解き方――ヴィジュアル表現の社会学へ(下)――」○

『言語』27(10): 10-15.

大修館書店、1998c


  • 安川一「マンガの情景――ヴィジュアルの循環――」○

メディアの現在形

香内三郎(著), 広瀬英彦(著), 安川一(著), 林利隆(著), 真鍋一史(著), 花田達朗(著), 小玉美意子(著), 山本武利(著), 吉見俊哉(著), 田村穣生(著), 古賀豊(著)

新曜社、1993


  • 前田泰樹「行為の記述・動機の帰属・実践の編成」○

『社会学評論』56(3)

2005

ふしぎの国のアリス スペシャル・エディション

  • 『ふしぎの国のアリス スペシャル・エディション』

チェシャ猫のテーマソング "I'm odd" など未収録映像をふくむスペシャル・エディション。

また、マッドハッターが案内役を務めるユニークなゲーム「バーチャル・ティーパーティー」もお勧めです。最先端の技術を使った楽しい特典で、アニメーションのキャラクターたちだけでなく、実写の子供たちともゲームをやりとりして、自分だけのバーチャル・パーティーを楽しむ事が出来ます。オーケストラを指揮したり、お誕生日じゃない日のケーキのキャンドルを吹き消したり、マッドハッターのなぞなぞに答えたり、と盛り沢山のアクティビティが含まれています。

な...! 「オーケストラを指揮したり、お誕生日じゃない日のケーキのキャンドルを吹き消したり、マッドハッターのなぞなぞに答えたり、と盛り沢山のアクティビティ」...! ほしい。

しかしレビューいわく。

やっぱりアリスは本当に最高!!!しかし☆3つの理由はどうしても昔から慣れ親しんでいる吹き替えが印象強くやっぱり馴染めないんです!大好きなんですけど、何故吹き替えかえてしまったんだーって言いたいです┐('ー`)┌

吹き替えかわってるのかよ...。


ルイス・キャロルの古典を映画化した、想像力に富んでいるが、やや寒々としたこの1951年のディズニー作品は、ほどよくシュールではある。

内容紹介が妙に辛辣だ。嘘つけ、『不思議の国のアリス』がディズニーの頂点に決まってるじゃねえかよ。

マスカレード

  • ドラジビュス "マスカレード"

これは買う予定。


昔の現代詩手帳の表紙とか描いてた人。機関車がせーらー服着た絵とか。

いくかも。

メモしてたら分量が増えた。ミステリ百科事典とハリウッドのやつはよさげ。


作文がすらすら書けちゃう本―宮川俊彦のノリノリ授業

小学館、1997

↓で薦められていた。

http://hiki.cre.jp/write/?BookOfHowToWrite

学校で出される課題作文や読書感想文に困ったとき、書き方がパッとわかる、とっても便利な「作文トラのまき」。作文名人へのポイントを、ドラえもんのまんがでおもしろ解説

ドラえもんはどれくらい出てくるのか。


ファンタジー映画を書きたい!―夢と冒険のストーリー術

セイブル・ジャック(著), Sable Jak(原著), 廣木明子(訳)

フィルムアート社、2005


島田荘司のミステリー教室

南雲堂、2007


ミステリーはこう書く!―最新完全メソッド

文芸社、2002


ミステリ百科事典 文春文庫

文春文庫、2005


夢を語る技術〈5〉神話の法則―ライターズ・ジャーニー

ストーリーアーツ&サイエンス研究所、2002

クリストファー・ボグラー(著), Christopher Voglar(原著),岡田勲(訳), 講元美香(訳)


リンダ・シガー(著), Linda Seger(原著), フィルムメディア研究所(訳), 田中裕之(訳)

フィルムアンドメディア研究所、2000


http://hiki.cre.jp/write/?YumeWoKataruGijyutu

シリーズものらしい。

論理文法って何かしらー。とりあえず引用だけしておく。

コンチェルトの例が何だかわからん。


心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点

ジェフ クルター (著), Jeff Coulter (原著), 西阪 仰 (訳)

新曜社、1998


その1

心にかかわるふるまいの諸概念・諸述語が論じられることになるわけだが、その分析にあたり、まずは日常的な情況においてことばが、どのようにしかるべきしかたで使用されているかを、丹念に調べることから出発しなければならない。それぞれの概念は一定範囲の他の諸概念とは有意味な・理解可能なしかたで結びつくのに、別の諸概念とはそのように結びつくことがない。様々な概念について、それぞれの概念がどの概念とどう結びつくのかを示すこと、これが論理文法分析の目標である。論理文法は、「弁別的」とか「必要にして十分」とか「本質的」といった諸特徴の一覧表にしたがって、名〔もしくは概念〕を対象に結びつける、というものではない。それは、むしろ、

「〔その当の (クルターによる挿入)〕概念に様々な概念を関係づける。ある人がある概念(たとえば、本とか鳥という概念、ことばの意味という概念、なにかを知っているというのはどういうことかということ)を習得しているといえるためには、その人はその概念を、他の諸概念と関係づけながら使用することができなければならない。つまり、その当の概念と有意味な結びつきがあるのはどの概念で、そのような結びつきがないのはどの概念か、をその人は知っていなければならない。それだけではない。当の概念と有意味に結びついている諸概念は様々である。そして、その様々な諸概念をそれぞれどのようなコンテクストで使用するべきかは、その諸概念がどのような種類の概念と一緒に使用されるかに応じて、そのつど異なってくる。それがどういうふうであるかも、その人は知っていなければならない」*。

* Stanley Cavell, 'The Claim to Rationality: Knowledge and the Basis of Morality', Unpublished Doctral Dissertation(Harvard University, 1961-2)

引用者(赤田)註: 改訂されて↓これになったらしい。

ASIN:019513107X

p11


その2

たとえば、「本」という概念を把握するためには(本とは何かを知るためには)、その概念が、たとえば、「神」「背」「読書」「繕う」「文字」といった諸概念と、それぞれ違ったしかたで、またそのつどのコンテクストに応じて、どのように関係し合うか、を知らなければならない。「破る」という概念を把握するばあいには、こんどはその概念が「本」「約束」「平和」のいずれと関係づけられるかに応じて、それぞれどのような事態を表すことになるか、を知らなければならない。

p12


その3

多くのばあい、概念的誤謬とは、概念どうしを誤ったしかたで結びつけることにほかならず、またそこからさらに、どのような事態が表されるかについて誤った推論をおこなうことにほかならない。もちろん、それぞれの概念についてどの範囲での使用なら理にかなっているとみなされるかには、いつも一定の幅がある。しかしたほう、この幅はやはり規範的に限定されているのである。この点について、カヴェルが簡単な例を示してくれている。「もしかりに、こんなことを言い出す者がいたとしたらどうだろうか。あの人はヴァイオリンのパートだけしか弾かなかったのだから、まだブラームスのコンチェルトを全部演奏しきっていない、と。そのときわたしたちは、この者の『コンチェルトの演奏』という概念はちょっと奇異だ、などとは思わない。むしろ端的に、こいつはそのような概念をもっていないと思うだろう」**。

** Ibid., p244 カヴェルは、変則的な言語使用のうまい例をいくつか挙げている。通常の表現がどのような事態を表わすかは、規範に依存している。この規範に反して言語がもちいられると、いかに奇妙なことになるか。これを、カヴェルは巧みな例で示している。

日常言語は、規範的に組織されているのであって、決定論的なしかたでコントロールされてはいない。じっさい、もし望むなら、あるいは無知のゆえに、わたしたちはそれを濫用したり誤用したりできる。ところで、ある概念が誤用されているのかどうかを判断するとき、もちろんちょっと見ただけですぐわかるばあいもあるけれども、実際にそれがどのような情況でもちいられているのかを注意深く丹念に分析しなければならないことも、しばしばある。このことは、ごく標準的な表現のばあいにもいえる。つまり、カテゴリーや表現がどのような情況で使用されるかということ、このことは、カテゴリー・表現の論理文法の一部なのである。

p12-13


その4

〔概念の〕擬似的革新には二とおりある。(i)概念を構成することが、それ以前から使用されている概念の論理文法を侵害しているばあい。(ii)概念を構成するとき、その概念構成の前提としてもちいられている概念が、新たな「革新的」主張と真っ向から矛盾する内容をもつばあい。

p19


その5

分析家たちは、わたしたちの心的概念の論理文法(この種の概念の使用機会ならびに使用様式)を明らかにしようとするとき、たいてい、ありきたりの社会状況から例を拾ってくる。

p71


その6

ところで、この解明作業にさいして、かれらは、たいてい、以前から哲学者たちが概念の「論理文法」と呼び慣わしてきたものについて、論じている。つまり、動機というカテゴリーが理にかなったしかたで適用できるための、ア・プリオリな条件について、論じている。

p110

今日のようつべ、つづき(←1時間でやめられなかった)。

探したら、アンドレアス・ドラウ関係がいっぱいあった。言葉の意味はわからんが楽しげである。


  • Andreas Dorau "Demokratie"

http://www.youtube.com/watch?v=RQKlel-CUIs

  • Die Doraus & Die Marinas "Die Welt ist schlecht"

http://www.youtube.com/watch?v=i93B3VeTx84

  • Der Plan & Andreas Dorau "Junger Mann"

http://www.youtube.com/watch?v=TtR5yjw-mnQ


  • Buggles "Video Killed the Radio Star"

http://www.youtube.com/watch?v=npxcf9rc1OM

ラジオスターの悲劇も見つけた。


  • The Broad Band "Internet Killed The Video Star"

ビデオスターの悲劇も見つけた。

うしろゆびさされ組 うたの大百科 その1 うしろゆびさされ組

うしろゆびさされ組『うたの大百科 その1 うしろゆびさされ組』

ポニーキャニオン、2004


DVD『マジカルうしろゆびツアー』がついてるらしい。

監督は堤幸彦らしい。

ほしいけどうしろゆびさされ組に5000円も払っていいのかなあ。


おまけ:

ゆうゆが大好きな安室奈美恵さん(小学校6年生)

http://www.youtube.com/watch?v=AXzDW8WNodA

あとでまたほしくなりそうなのでメモ。

ダブル・ファンタジー

キララとウララ『ダブル・ファンタジー』


予約受付中になっているが、再発するということだろうか。

Amazon によるとダブルユーが"センチ・メタル・ボーイ"をカバーしているのだそうだ。ほー、知らなかった。


スターボーI たんぽぽ畑でつかまえて(紙ジャケット仕様)

スターボー『たんぽぽ畑でつかまえて(紙ジャケット仕様)』


これもほしいかもしれない。

あけぼの子どもの森(埼玉県飯能市)

http://www.city.hanno.saitama.jp/akebono/

この公園は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンさんの『ムーミン童話』の世界を取り入れ、「自然との共生・自我と自由の尊重」という『ムーミン童話』に通ずる理念を掲げています。

(ちょっと形のちがう)ムーミン屋敷があるようである。

いつか行こう。

ku:nel の「ムーミンのひみつ。」特集結構よかった。ヤンソン島の写真がたまらない。というか今日、テレビでムーミン特集をやっているそうだが、テレビがないので見られない私がいる。


以下は何の関係もないメモ。

ゾンビ映画大事典

ゾンビ映画大事典

伊東美和

洋泉社、2003


持っていると(たとえ話など)何かに役立ちそうな予感がするのだが、今のところ用途が思いつかないでいる。


おぼっちゃまくん (1)

おぼっちゃまくん (1)

小林よしのり

幻冬舎、2001


なるほど、現在は幻冬舎から出ているのだな。

今こそ読み返すべき時ではないだろうか。

(今、という部分に特に理由づけはないが)。

クトゥルー神話

〈史上最小のクトゥルー神話賞〉公募のお知らせ - 幻妖ブックブログ

http://blog.bk1.co.jp/genyo/archives/2007/01/post_797.php


募集中らしい。


クトゥルー神話事典 第3版

クトゥルー神話事典 第3版

学習研究社、2007


参考文献らしい。

旧版(『クトゥルー神話事典』)の Amazon レビューによると、村上龍もクトゥルー神話ものを書いているそうだ。へー、そうなのか。意外。


ところで、Amazon の内容紹介には↓こうある。

怪奇作家ラヴクラフトが創造した暗黒と戦慄のクトゥルー神話大系

これは不正確な言い方だと思う。時に誤解されているが、ラヴクラフトはクトゥルー神話体系を創造していない。

基本的には、ラブクラフトは色んな小説に同じ名前のガジェットをちりばめただけ。「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルフ」「ナイアルラトホテップ」などの「名前」は、ラブクラフトの小説に共通して出てくるが、特にその背景については明らかにされていない。これらの名前の背後には一貫した「体系」があったかもしれないし、なかったかもしれない。たぶんなかったが、いずれにせよラブクラフト自身はそれを明らかにしていない。

クトゥルー神話というのは、「ラブクラフトの小説の背景には、一貫した世界観があるにちがいない」という仮定のもとで、これらのアイテムをつぎはぎして、オーガスト・ダーレスその他の弟子の人がつくったもの。いわば『磯野家の謎』みたいなものだ。

基本的にはこういう話なので、「怪奇作家ラヴクラフトが創造したクトゥルー神話大系」という言い方はアウトだろう。

しかし、ここからが微妙な話になる。

ラブクラフトはクトゥルー神話をつくってない。ではラブクラフト自身は、クトゥルー神話もののようなシェアード・ワールドものの制作にまったく参与してなかったのかというと、そうでもない。生前から、ラブクラフト的小説を他の人が書いたり、合作でラブクラフト的小説を書いたり、という交流は行われていた。つまり、「ラブクラフト的小説」のような定型はラブクラフト自身によってつくられ、この「ラブクラフト的小説」はラブクラフト以外の人にも書けるものだったわけだ。

そしてそこにはやっぱり、「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルフ」「ナイアルラトホテップ」などといった「名前」が出てくる。ただし「クトゥルー神話」という名前と、一貫した体系は存在しなかった。

あるいはこういう話なのかもしれない。マクガフィンという言葉があるそうだ。

マクガフィンは、

作品の登場人物は非常に重要なものだと考えているにも関わらず、観客にはほとんど説明されなかったり、説明されたとしても価値が疑わしいような「なにか」のことである。

マクガフィン - Wikipedia

この説明だけだとよくわからないが、名前だけ出てきて内実が明らかでないものはマクガフィンでいいのかな。そういうことにしよう。

「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルー」「ナイアルラトホテップ」などといった名前は元々マクガフィンだったのに、ラブクラフトの死後、オーガスト・ダーレスらによって中身を与えられた。クトゥルー神話とは非マクガフィン化されたマクガフィンである、みたいな。

「空気」の研究

山本七平『「空気」の研究

文春文庫、1983

いわゆる「空気読め」の「空気」。

私は読めないので知らないのだが、空気を読ませようとする輩が多いところを見ると、空気にはさぞかし面白いことが書いてあるのだろう。などと韜晦してみせることもしばしばだが、正直に言うと空気について考えようとするたび、にわかに怨念が高まり、まったく素面では語れない。にっくき空気め! 空気め!

生来の敵とも言える空気のことが少しでもわかるならばぜひ読んでみたい。


ぴかぴかすりこぎ団の騎士

以前名前にひかれて購入した『ぴかぴかすりこぎ団の騎士』が届いた。「エリザベス朝喜劇10選」というシリーズの一冊だったらしい。その名の通りエリザベス朝喜劇の戯曲だった。

http://www.waseda-up.co.jp/bhtml/90205.html

ロリータ

ロリータ

ウラジーミル・ナボコフ, Vladimir Nabokov, 若島 正

新潮文庫

ロリータ新訳版はもう文庫になったのか。


となりの801ちゃん

となりの801ちゃん

小島アジコ

宙出版

うーん、おもしろそうかも。


認知物語論とは何か?

西田谷洋『認知物語論とは何か?

ひつじ書房、2006

文学というものは、なにゆえに文学なのだろうか。文学という営みは人間的な行為である。人の持つ、イメージ、ストーリー、認識の構造がそこにはある。文学はただ単に「近代文学研究」が前提として捉えているような意味で存在しているのだろうか?本書は、認知科学、認知言語学の視点から、人間の認知活動として文学・物語を捉え直すラディカルな(根元的な)問題設定の試みである。

http://www.hituzi.co.jp/books/278.html

えい! えい!

だんだんブログが自分用の本メモになりつつある。

Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics

"Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics"

Frank Sibley, John Benson, Betty Redfern, Jeremy Roxbee Cox

音楽作品の記述に関する議論が載っているらしい。

あとで買う。そのうち。

Verbal Icon Studies in the Meaning of Poetry

"Verbal Icon Studies in the Meaning of Poetry"

ついでにメモ。「意図への誤信」が入っている本。


聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

増田聡『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

さらにメモ。音楽批評論をもっとマメに読んだ方がいい気がした。

三人の名探偵のための事件

三人の名探偵のための事件

レオ・ブルース (著), Leo Bruce (原著), 小林晋(訳)

セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿、クリスティのエルキュール・ポアロ、チェスタトンのブラウン神父のパロディである3人の探偵が出てくるらしい。おもしろそうかも。



これは買わないとどうしようもないだろうと思った。買った。本当に届くのかどうか不安だ。

とりあえずアフィリエイト ID は直したのだが、Amazon アフィリエイトの仕組みがまだよくわからない。いっぱいリンクを貼っているわりに「0件」と出るし、相変わらずクリック数も 0 のままだ。

ちょっと試しに、色んなリンクタイプを貼ってみる。

現代哲学
現代哲学
posted with amazlet on 07.01.20
門脇 俊介
産業図書
売り上げランキング: 295095

"DiY"(Do it yourself) は、なぜ、いつ頃から「日曜大工」の意味になったのだろうか。

調べ方が難しい。DiY で検索しても日曜大工関係の記事ばかりだし、DiY パンクで検索すると、パンク修理の記事が出てくる。

http://wwwz.fujitv.co.jp/takeshi/column/mouriyoshitaka/mouriyoshitaka01.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF

夏休みに、「【ルーマン・フォーラム】むかしの論文検討会【夏休み企画】」(ルーマン・フォーラム)という読書会に参加した。

昨日ふと思い出したが、そこで「複雑性」という概念を問題にした後、放置したままになっている。まず何が問題だったのか思い出すところからはじめねばならないが、何とかしようという気がわいてきた。

→きっかけはこれに入っている西阪氏の論文だったはず。

ルーマン 来るべき知

ルーマン 来るべき知

→参考文献はこれに入ってる西阪氏訳の論文。

社会システムと時間論―社会学的啓蒙

ぴかぴかすりこぎ団の騎士

フランシス・ボーモント(著)、大井邦雄(訳)


ぴかぴかすりこぎ団!

タイトルがあまりに気になった。ユーズド価格400円だったのでうっかり買ってみた。

(うっかり Amazon にならってユーズドと逝ってしまったが本って「use」するものなんだろうか)

ついでに小説の書き方本をいくつか買ってみる。

小説について考えたかったら下手な文学理論より小説の書き方本を読むのがよい、というのが私の持論である。

もっとも、上手い小説ハウツー本を探すのは、上手な文学理論を探すのと同様むずかしいのだけど。

小説書き方本の見分け方はひとつあって、「物事を多面的に見よう」とか「感性を大切にしよう」って書いてある本はダメである。それ書き方じゃないしな*1

具体的なアドバイスが書いてあれば書いてあるほど良い本であることが多い。

ベストセラー小説の書き方

ベストセラー小説の書き方

これはおもしろかった。「一人称の小説はダメである」「本当にすぐれた小説はすべて三人称かつ複数の視点で書かれている」という意見が述べられており、びっくりした。

でもまじめに書き方本を書こうと思ったら、まず「どんな小説を書くか」を限定するのは有効なんだろう。この本はそういう方針で成功しているように見えた。関係ないが、すごい表紙だ。

そういう意味ではジャンル小説の書き方本の方がおもしろいんじゃないかと思うのだ。

スペース・オペラの書き方―宇宙SF冒険大活劇への試み

野田昌宏『スペース・オペラの書き方 - 宇宙SF冒険大活劇への試み

早川文庫

買った。実態は書き方本じゃないらしいが、著者が著者だけに資料として。


ミステリの書き方

H.R.F.キーティング, H.R.F. Keating , 長野 きよみ『ミステリの書き方

早川文庫

これは良さそうなのだが、品切れでマーケットプレイス価格も高い。何とかして入手したいが、図書館にはないかもしれない。


ミステリの書き方12講

野崎六助『ミステリの書き方12講

青弓社

これは本屋で探せばいいや。


ミステリーの書き方

ミステリーの書き方

アメリカ探偵作家クラブ (著), Mystery Writers of America (著), L. トリート (編集), 大出 健 (翻訳)

講談社文庫、1998

これは資料になりそうだなあ。


上手なミステリの書き方教えます

浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます

講談社ノベルス

よく見たら小説だった。


マンガでわかる小説入門

すがやみつる、横山えいじ『マンガでわかる小説入門

斬新なコンセプト。

  • *1: もっとも小説を書くのとそれを職業にするのは別のことなので、職業にしたい場合心構えこそが大切なのかもしれないが。しかしこの例はそもそも心構えとしてもダメだし

ゼロの使い魔』を大プッシュしてくる Amazon たん。

今回のおすすめ内容:

  • ゼロの使い魔〈4〉誓約の水精霊
  • ゼロの使い魔 (5) トリスタニアの休日
  • ゼロの使い魔〈3〉始祖の祈祷書
  • ゼロの使い魔(7)
  • ALL YOU NEED IS KILL
  • ゼロの使い魔〈8〉望郷の小夜曲(セレナーデ)
  • ゼロの使い魔〈9〉双月の舞踏会
  • とらドラ!

ゼロの使い魔

ヤマグチノボルって昔ヘクサゴンというサイトをやってた(訂正: まだあった)人だよね。高校生の頃愛読していたよ。桑島由一氏ともどもブレイクしてよかったなあ。

↓これはファウストに東浩紀が書いてたゲーム的リアリズム論考に出てくる奴だね。『よくわかる現代魔法』は一巻だけ読んであまりピンとこなかったんだがどうなんだろう*1

ALL YOU NEED IS KILL

ALL YOU NEED IS KILL

  • *1: 魔法 + プログラミングというネタは絶対もっとおもしろくなるはずだろうと思った

Wladyslaw Tatarkiewicz "History of Aesthetics"

(タタルキェヴィチ『美学史』全三巻)

佐々木健一で思い出した。佐々木氏はよくこの本を元ネタにしている。そしてこの本を元ネタにした論述はたいていおもしろい。

以前から、買おうか買うまいか悩んでいる。ユーズド価格75,998円テラタカス。買ってもどうせ読めないしなー。

"Twentieth Century Philosophy, 1900-50"

今発見したが、この本は安い。買ってみてもいいが、基本的に本を買いすぎなのでとりあえずカートに入れて放置。かくしてカートの中身ばかりが増えていく...。

こう考えると生きることが嬉しくなる

タタルキェヴィチの翻訳はこの本だけという罠。

(そう言えば確認したことがないが、そもそもこのタタルキェヴィチは美学史のタタルキェヴィチと同一人物なのだろうか)

男ごころ「らしさ」を超えて(6)他人見下す「仮想的有能感」

http://www.yomiuri.co.jp/feature/otokogokoro/fe_ot_07011001.htm?from=yoltop

偶然見た記事。

「電池を交換したが、カメラが動かない」という問い合わせに、担当者が「電池のプラスとマイナスの入れ方は間違っていませんよね」と確認した途端、男性がキレた。

20年以上もクレーム対応を続け、それを著書「社長をだせ!」にまとめた川田茂雄さんは「バカにされたと感じて、突然キレるのは男性に多い。会社では偉くなくても、消費者として企業に対するときは、強くなれる。そんな人たちのはけ口にもなっているんです」。


クレーム対応のことを書いた本らしい。おもしろそうだ。

宝島社文庫「社長をだせ!」

ただのメモ。
今から図書館に行く。


哲学者の虚構論(昔の)
  • -フレーゲ、ゴットロープ「意義と意味について」 (in 土屋俊、坂本百大編『現代哲学基本論文集』) 勁草書房
  • -ラッセル、バートランド『数理哲学序説』 岩波文庫

哲学者の虚構論(最近の)
  • -Lewis, David 'Truth in Fiction'("Philosophical Papers I", Oxford U.P., 1983)
  • -サール、ジョン・R『表現と意味』 誠信書房、2006
  • -三浦俊彦「虚構」(『事典 哲学の木』講談社、2002)

その他
  • -遠藤知巳「言語・複数性・境界」(『思想』940、岩波書店、2002)
  • -「メディアそして/あるいはリアリティ」(『思想』、岩波書店、2003)
  • -佐藤俊樹「「社会システム」は何でありうるか」(『理論と方法』15(1))
  • -「言説、権力、社会、そして言葉」(『年報社会学論』15)
  • -ガーフィンケル「カラートラブル」(好井裕明『エスノメソドロジーの現実』世界思想社,1992)
→入ってなかった。ガーフィンケルの小説がこれに入ってるって何かで見た気がするんだが。妄想か?