うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“哲学”タグの付いているブログ記事
■ 前置き
架空の裁判状況を考えましょう。
裁判官がわたしに質問します。「5月12日の午後7時頃、確かにその男を東京で見たのか」と。
「見た」とわたしは答えますが、裁判官はさらに疑いの念を向けてきます。
「本当は夢で見たのではありませんか? そのとき自分が見ていたものが夢でないと確認することができますか?」と。わたしは何と答ええるべきかわからなくなって沈黙します。
現実の裁判で裁判官が夢の可能性について疑いはじめることがどれだけあるのかわかりませんが、『インセプション』のなかでなら、「これは夢かもしれない」という疑いはありふれたものです。日常的な状況で「それは夢だったかもしれない」と言うことは哲学的なジョーク以上のものではないかもしれませんが、『インセプション』のような状況に置かれれば、われわれはまったく自然に「これは夢かもしれない」と疑います。哲学的疑問「これは夢かもしれない」と『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」の違いは、もしそういう違いがあるとすれば、致命的なものです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/mainsite/
話題の映画、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』を観ました。
以下はネタバレを含むので、まだ観ていない人は、まず映画を観に行きましょう。おすすめです。
『インセプション』はとても手の込んだエンターテイメント作品です。「夢のなかで夢を見る」みたいなややこしい話がちゃんとしたハリウッド映画になるなんて、この映画を観るまではちょっと想像できないんじゃないかと思います。
この映画は「夢と現実の区別」という特別にややこしいテーマを扱っています。映画のなかでコブ(デカプリオ)やアリアドネ(エレン・ペイジ)は、自分が夢にいるのか現実にいるのかを知るためにいろいろな工夫をこらします。コマの形の「トーテム」や「パラドックス(だまし絵)」を利用するシーンが印象的です。
「これは夢じゃないのか?」という問題は、17世紀にデカルトという哲学者が考えた有名な問題でした。この問題の起源は古くはプラトンにまで遡るそうですが、デカルトが集中的に扱って以来数百年、「夢」の問題は哲学のホットトピックでありつづけました。現在でもまだ、精力的にこの問題を扱っている哲学者は絶えません(若干嘘かも)。
「これは夢じゃないのか?」問題は、懐疑論や外の世界の知識といったテーマとの関連で重要になります。かつてデカルトが問題にした論証は、夢論証[dream argument]と呼ばれます。この論証では、なんと「われわれを取り巻く物理世界について、われわれは何も知らない」という超破壊的な結論が導かれてしまいます。
単純に言って、わたしは今、自分がネットブックを前にしてキーボードを叩いていると思っているし、思っているだけではなく、そう知っていると考えています。ところがこの論証は、「それは嘘だ」「そんなことは知らないはずだ」と主張します。
「この世の中に確かなものなんて何もない」と言えば、何らかの教訓がありそうにも思えますが、懐疑論は人生に対する教訓を唱えているわけではありません。そうではなく、哲学的懐疑論は、日常目にするまわりのものについて、すべての人は何も知らないと主張します。しかも、「彼女はニューヨークについて何も知らない」などというのと同じ、まったく日常的な意味で何も知らないと主張します。
■ 本
懐疑論と夢の論証については日本語でも以下のような本が読めます。
大部な上に細かいですが、説明は丁寧だし文章はわりとわかりやすいと思います。根気があれば読める本です。
- ルネ・デカルト『省察 (ちくま学芸文庫)』
デカルトのオリジナルはこちら。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
夢論証についてはそれほどページを割いていませんが、知識の哲学と懐疑主義について丁寧かつわかりやすく解説しており、「懐疑主義について考える」ということがどういうことなのか理解するたすけになると思います。
■ 夢論証
夢論証のような歴史ある厄介な問題を紹介するのは大変ですが、簡単な紹介を試みてみましょう。
基本的なストーリーは以下のようなものです。
夢論証
- (1)われわれがまわりの世界について何かを知るためには、われわれは自分が夢を見ているのではないと知る必要がある。
- (2)われわれが夢を見ているのではないと知ることはできない。
- 結論: われわれはまわりの世界について何も知らない。
基本的には、「もし夢を見ているのだとすれば、『わたしがネットブックのキーボードを打っている』などなどの信念はすべて知識ではない。夢を見ているという可能性が退けられないかぎり、知識を持つことはできない。しかし夢を見ているという可能性を退けることはできないのだから、やっぱり知識を持つことはできないのだ...」ということです。
よく似た議論である「培養槽のなかの脳[Brain in a vat]」や「欺く神(全能の悪霊)[Dieu Trompeur]」について聞いたことがある人もいるでしょう。
形式はどれもよく似ており、知識の必要条件として、「われわれは今夢を見ているのではない」「われわれは培養槽のなかの脳ではない」「われわれは全能の悪霊にだまされているわけではない」...などの知識を要求します。この要求には、「しかしこの必要条件は満たされない」という不可能の判定がつづき、最終的には大部分の知識が成立しないというグローバルな懐疑論に到達します。戸田山和久さんは、前述の本のなかで、この形式の議論を「懐疑の水増し戦略」と呼んでいました。もっともらしく思われた小さな疑いを、グローバルな懐疑にまで発展させるからです。
ただし、似ているのは形式だけで、細かい対処法や性格は個々の議論ごとに異なります。夢論証であれば、「夢」というものに対する捉え方が議論の成否に強い影響を及ぼします。
私見では、いずれに論証においても、懐疑主義者は次の二点の要求に答えなければなりません。
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
(ii)懐疑主義者が提案するシナリオは、十分にありそうなものでなければならない。
(i)が必要なのは、こういうことです。もし懐疑主義の言う「知識の不可能」が、ものすごく特殊な意味での「知っている」概念に基づくなら、そもそも問題はそんなに深刻ではありません。「人間は存在しない」と言われればびっくりしますが、「ここで言う人間というのは100メートルを5秒以内で走り、100か国語を話すようなもののことだ」と言われれば別の意味でしかびっくりしません。
こうした意味で、懐疑主義者の提案する
- 外側の世界について、何かを知るためには、自分が夢を見ているのではないことを知らなければならない
- 外側の世界について、何かを知るためには、自分が培養槽のなかの脳ではないことを知らなければならない
などの主張は、それが「(日常的な意味での)知識に対する一般的条件として妥当なものか」という観点で厳しく精査されなければなりません。一方、「培養槽のなかの脳」や「全能の悪霊」などのシナリオは、しばしば「その可能性はあまりに突飛なので、知識を持つためにそんなおかしな可能性を排除する必要はない」という批判を受けます。要するに、実現している確率がほとんどない選択肢は、あらためて排除する必要もないかもしれません。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているという可能性がありふれたものであることです。われわれは一日のうちの半分近くは寝ているわけですから、「これは夢かもしれない」という選択肢は、全能の悪霊にだまされて変な幻覚を見せられているという可能性よりは、はるかにありそうなものに思えます。
■ 『インセプション』と夢論証
ようやく本題に入ります。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているというシナリオが現実に「近い」ことです。一方、『インセプション』は、夢を見ている可能性が、これまでよりもさらに「近く」なった状況を描いています。
ということは、次のように言えないでしょうか。
『インセプション』のような状況でさえ、夢の可能性を否定できるならば、夢論証の前提「夢ではないと知ることはできない」は否定されてよい。
『インセプション』的状況は、夢の確率がふつうより高い状況です。確率がふつうより高い状況でさえ、夢と現実の区別がつくならば、夢の確率がより低いわれわれの日常においては、さらに簡単に夢を見ている可能性を否定できるのではないでしょうか。
『インセプション』には、夢と現実を区別するたくさんの方法が登場します。
- カーペットの材質(映画の冒頭で、サイトウはカーペットの材質が現実とちがうことをきっかけに、「これは夢である」と気がつきます)。
- 記憶をたどる(コブがアリアドネに教えたように、夢のなかではしばしば「どうしてここにいるのか」という記憶の連続性が途絶えます)。
- トーテム(夢は現実の物理法則を正確に再現しないので、手触りや重みや動きを正確に覚えている物であれば違いに気がつきやすい)。
- パラドックス(夢のなかでは、エッシャーの階段のような不可能な構造物が実現する)。
これらの内、「記憶をたどる」とかトーテムを利用する方法は現実にも適用できるように思います。
冒頭にかかげたような問い「そのときあなたは夢のなかにいたのではないか?」を向けられたとしても、『インセプション』の登場人物ならば、いろいろな証拠をあげて、「夢のなかにいたのではない」と答えることができるはずです。「トーテムを確認した」だけでも答えとしては十分かもしれません。何より、われわれはごく自然に「サイトウは夢のなかにいることを知った」とか「モルは自分が夢のなかにいるという知識を忘れようとした」と言うことができるでしょう*。
同様に『インセプション』のなかでも、区別できない場合があることは、それほど問題にならないと思います。おそらく夢のなかで50年すごした際のサイトウは、夢と現実を区別できない状況にあったでしょうが、「区別できる場合が多い」だけでも夢論証への反論としては十分です。
つまり、わたしは次のように考えます。
『インセプション』に現われる夢と現実を区別する方法は、デカルトの夢論証に対し、きちんとした反例となっている。
馬鹿げていると思うかもしれませんが、「夢と現実を区別する方法はある」という立場に基づいて夢論証に反論する人はそれなりに存在します。
たとえばJ.L.オースティンは、小説や絵画に対して「夢のよう」などとよく言われるように、「夢らしい質感」というものがあるので、夢と現実はだいぶ印象が異なっており、区別できると主張しています(J.L.オースティン『知覚の言語―センスとセンシビリア』)。
それに対して、「いや、それでも夢の可能性は否定できない。トーテムを確認しても間違えるかもしれない」と反論するならば、夢論証の支持者にとって状況はもっと悪くなるかもしれません。先述した「懐疑主義者への要求」
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
が満たされなくなるからです。つまり、われわれがごく自然にモルやサイトウの「知識」に言及するにもかかわらず、あくまでも「それは知識ではない」「本当は知らない」と主張するなら、懐疑主義者の言う「知識」は日常的な意味での知識ではないと疑われてしかるべきです(あるいはこのとき懐疑主義者は「錯覚論証」という別の論証に移行しています)。
最初に述べたように、ひょっとするとわれわれは、哲学的疑問「これは夢かもしれない」と、『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」を違う種類の疑問だと受け取るかもしれません。しかし、もしもその2つに違いがあるとすれば、その違いは、懐疑主義者にとって、致命的なものになりかねないでしょう。一方もし違いがないとすれば、われわれはまさに『インセプション』の登場人物がしたように、夢と現実の違いを確かめればよいことになります。
昨日の記事を書いていてちょっと思いついたこと。
- [1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar"
http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html
この文献で、著者は不正確性と曖昧性を区別している。
あまり定義ははっきり述べていないが、「不正確だが曖昧でない」語もあるということ。
例としてあげられているのは(絶対的段階的形容詞と呼ばれているのだが)、dry, transparent, bent, straightなど。
これらは比較の形でも使えるが、肯定形でふつうに使うときは曖昧でない。
1. この棒はbentだ
2. この棒はstraightだ
一番素朴な読みを採用すると、棒がちょっとでも曲ってたら1は真になるし、2は偽になる。
あるいは、
Aの棒はBの棒よりもstraightだ。だからBの棒はstraightじゃない。
こういう推論もそこまでは変じゃない。一方「広い」とか「長い」で同じことをやると変。
(「この棒はあの棒よりも長い。だからあの棒は長くない」って変でしょう)。
しかし日常的にbent, straightを使うときは、もっとズレを許容するような使い方をしている。
つまり「曖昧じゃないけど不正確だよね」ということらしい。
次。分析哲学、特に形而上学方面で人気のある曖昧性についての説明に「超付値による解決」というのがある。
デイヴィド・ルイスが「たくさんだけど、ほとんど一つ」という論文で採用して以降?(歴史はよく知らない)、頻繁に見かける。
ざっくり説明すると、基本的な考え方は、「曖昧な文というのは、語の外延指示が複数考えられ、その内のどの解釈をとるかが曖昧である。言語が曖昧なだけであって、決して世界そのものが曖昧なわけじゃない」というもの。
たとえば「富士山」は境界が曖昧なわけだが、富士山そのものが「曖昧な実体」というわけではない。曖昧な実体などというものはこの世界にはない。そうじゃなくて、「富士山」という語の指示対象が、ある解釈では「この範囲からこの範囲」、また別の解釈では「あの範囲からあの範囲」という風になって、一体どの指示対象について語っているのかが曖昧である。
述語に関しても同様。「山である」という述語は、ある場合には、これこれの対象を含めるし、ある場合にはこれこれの対象を含めるという風に述語に対する外延の割り当てが複数あって、どの解釈を使っているのかが曖昧である。
で、何を思ったかというと、この解決方法って、要するに「曖昧性は不正確性だ」という説明なのかもしれないと思ったのである。
本来は曖昧でない語を、われわれは多少のズレを許容する形で使っているという意味で。
一方、超付値による解決は、段階的形容詞に適用すると、ちょっと変なことになる。
「この棒は長い」の曖昧さという現象に対し、この解決をそのまま採用すると、「長い」という語が、ある場合には「3m以上」を意味し、ある場合には「4m以上」を意味する、そしてどの意味で使っているのかがよくわからないから曖昧なのであるという風になる。でもこれは少し変だ。
「富士山」や「山である」を正確化することはできるし、日常会話で実際にそういうことをすることもある。しかし「長い」を正確化することはまずない。「長い」について、曖昧でない複数の解釈があって、その内のどれを採用するかが不明であるから曖昧なのだという説明には、だいぶ違和感がある。
段階的形容詞以外の名前や述語の場合、曖昧性はキャンセル可能である。しかし段階的形容詞の曖昧性はキャンセルできず、語自体の意味に組み込まれているように思う。
- 富士山、というのは、ここでは、ここからここまでの範囲を指すのだが...
- 山、というのは、ここでは、これこれの対象を指すのだが...
- 長い、というのは、ここでは、2.34m以上のことを指すのだが...
最初の2つは自然だが、最後の1つは結構変だ。
最初の2つは「富士山」や「山」について、少し説明を付け加えているだけのように聞こえるが、最後の1つは「長い」にかわって新しい単語をつくってしまっているように聞こえる。
というわけで段階的形容詞の曖昧性は、他の場合よりも厄介だなあと思ったのだった。
結論や新しいアイデアは特に無いが、このように考えたのでメモしておく。
Vagueness (Problems of Philosophy (Routledge (Firm)).)
以前読んだウィリアムソンの曖昧性についてのサーベイが啓発的だったので、これも読もうと思っていたのである。
あとスタンフォード哲学事典の「曖昧性」の項目も。
先日「抽象的な話をする会(抽象会)」というものを開きました(3回目です)。抽象的なテーマについて議論し、最終的には多数決で結論を出すという趣旨の会です。
そのときのテーマのひとつに「絶対的に大きなものはあるか」という問題をあげました。これについては、わりと議論も用意していたのですが、当日あまり説明しきれませんでした。説明しきれなかった悔いと、考えていたことのログを残したいという思いと、まとめておけば誰かコメントをくれるかもしれないという思いをこめ、まとまった記事として残すことにしました。
なお、抽象会のログは以下で見ることができます。
http://youkoseki.com/diary/2010/05/05#p5
(書いてたら、やたらと時間がかかった上に長くなってしまいました。かくも細かく、切迫性もほとんど無いテーマに興味をもつ人がどれだけいるのかわかりませんが、公開はしておこうと思います。「既存の学に基かぬ論」((c)@pubkugyo) になってしまっているかと思いますが、ご意見あればおよせください)。
■ 関心
以前よりわたしが抱いている基本的な関心のひとつに「相対性」という主題がある。わたしにとって、真理に関する相対主義、存在に関する相対主義、概念に関する相対主義、価値に関する相対主義などのテーマは、常に気になるものである。共感よりも、相対主義への懐疑の方が強いのだが、それでもなお、相対主義は様々な問題に際し、重要なオプションのひとつでありつづけている。
もう少し言うと、わたしは相対性が失われる瞬間というものに興味を抱いている。
そして「大きい」という概念については相対性はどこかの段階で消えているのではないかと考えている。価値のような概念に比べると、大きさは比較の意味が明確で扱いやすい概念である。これを媒介とすることで、相対性について、より十全に把握することができるだろう。
また「大きい」のような比較の形を持った形容詞は、段階的形容詞gradable adjectiveと呼ばれる。段階的形容詞には相対性、曖昧性などいくつかの重要な特徴がある。この問題に対するわたしの関心の軸のひとつは「相対性」であるが、もうひとつの関心の軸は、段階的形容詞に対する適切な形而上学的扱いである。「大きい」についての形而上学的説明を手に入れることでわれわれは、やはり段階的形容詞であるように思われる「良い」や「美しい」に対する対処法をも学ぶことができるかもしれない。
■ 絶対的 / 相対的
相対的に、ということで、ここでは主として「文脈に相対的に」ということを考える。相対的な概念というのは、ある文脈のなかでという限定を付けた場合にのみ意味をもつ概念のことである。
たとえば「相対的な価値」というのは、ある時代・ある文化のなかでのみ成り立つ価値のことである。たとえばある時代の文化に相対的な価値、「19世紀ヨーロッパのなかでの価値」「16世紀の日本のなかでの価値」というものがあるだろう。19世紀ヨーロッパに価値あるものが、16世紀の日本でも価値があるとはかぎらない。あるいは、関心に相対的な価値というのもあるだろう。「病気を治すことにとって価値がある」とか「資金を増やすことにとって価値がある」というのがそれである。この場合も、特定の関心に応じて、異なる種類のものが選ばれ、異なる価値付けを受けるだろう。
異なる文脈が異なる対象の集まりを選び出し、異なる評価の基準が適用される。相対的な概念とは、複数の集まりに分割された概念のことであり、相対的な概念の適用に際しては、必ず、対象の集まりを特定するパラメーターが補完される必要がある。
価値というものが、もし仮に本質的に相対的なものであれば、「価値がある」というのは文脈による限定を付けないかぎり意味がない言明である(ここでは説明上そう仮定しているだけであって、本当に価値がそういうものであるかどうかは問わない)。このとき、どのような価値のあるものも、あるグループのなかで・そのグループ特有の基準によって価値を持つのであり、ただ端的に「価値がある」ものは存在しないことになる。
相対的でない概念はあるか。たとえば形は(よほど特殊な立場に立たないかぎり)相対的ではない*。あるものが丸いとか四角いとか言うとき、あるグループのなかでのみ成り立つ丸さや四角さなどというものはない。ものは端的に丸いし、端的に四角い。「現代では丸い」とか「彼らにとって四角い」と限定つきで言うことはできるが、その限定に何かの意味があるようには思えない。この意味で、形はおそらく絶対的である。
ふつうわれわれが「大きい」という言葉を使うとき、その「大きいこと」は相対的である。たとえば「このネズミは大きい」という。しかし「大きいネズミ」は「小さな象」よりもおそらく小さい。同様に「大きい分子構造」はおそらく「大きい惑星」より小さいだろう。「大きいネズミ」が大きいことや「大きい分子構造」が大きいことは、ネズミや分子構造という種や、われわれの関心に応じてのみ意味を持つ。
あるいは、「うちの家族はみんな大きい」という言明について考えてみよう*。この言明は、「うちの家族のメンバーは全員ある一定水準以上の大きさを持っている」という意味ではない。たとえば「妹は小学生としては大きい、父は成人男子としては大きい...」という場合にもこの表現を使うことはできる。このケースでは、妹はひょっとすると身長140cm程度であり、他の家族のメンバーと同じ基準で大きいわけではないかもしれない。「うちの家族はみんな」とひとしなみに言っているのにもかかわらず、家族のメンバーそれぞれが属するグループに相対的な大きさの基準が適用される。「大きい」という概念は、少なくともこの程度には強い相対性への選好を持っている。
では、相対的でなく、無限定に、端的に大きいものはあるだろうか。わたしは「ある」と考えている。
注意しておきたいが、「絶対的」という言葉には、「他との比較によって成立するわけではない」という意味もある。しかしこの用法はここでは使わない。どう考えても大きさは比較から離れることのできない概念である。どんな種類の「大きい」でも、他のものの大きさとの比較によってはじめて意味のある概念となる。この意味では、「大きい」は相対的な概念である。しかし、考えたいのはそういうことではない。
考えたいのは、いかなる種類のグループとも関係なく、端的に大きいものはあるかということである。
単純に考えて、「あらゆるもの」というグループのなかで大きいものがあれば、それは絶対的に大きいと言えるだろう。たとえば、クジラは地球の動物のなかで大きい。しかし、絶対的に大きなものは、あらゆるもののなかで大きい。「あらゆるもののなかで」という限定は、もはや限定として意味をなさないだろうから、絶対的に大きなものは、単純に大きいのである。絶対的に大きなもの以外のどんな大きなものも、本当はいずれかのグループのなかでだけ大きい。しかし、絶対的に大きなものは、端的に大きいことになる。
別の言い方をすれば、「大きいこと」という性質は関係的性質である。大きいことは、他のものとの関係なしにはありえない。しかしそれは二次性質(主観的な性質)ではなく、この世界の構造だけによって定まる性質である。「何が大きいか」は、比較のターゲットとなる対象のグループと、そのグループに属する対象のサイズの分布のみによって決まる。そしてわれわれの住むこの世界は偶然にも、普遍的なドメインのなかに「大きいもの」が存在するような世界であると考える。
相対的な比較概念
絶対的な比較概念
■ 大きさの比較
二者を比較して、「こちらの方があちらよりも大きい」ということが、「大きい」のための基礎を与えている。わたしがこの記事で考えたい「大きい」は比較形の「...よりも大きいbigger」ではなく単純な形「大きいis big」であるが、単純な形について考えるためには、まず比較形について考える必要がある。
「大きい」という言葉は、他の大多数のものよりも際立って大きいものについて使われる。たとえば、他の大多数のネズミよりも際立って大きいネズミが「大きいネズミ」である。相対的な大きさの場合は、あるグループのなかの大多数のものよりも際立って大きなものであれば、そのグループのなかで大きい。絶対的な大きさの場合も、あらゆるもののなかの大多数のものよりも際立って大きければ「大きい」と言えるだろう。「大多数のものよりも際立って大きい」という言明は、二者の比較を繰返すことで真となる。従って、二者の比較が、「大きい」について考えるためにも必要となる。
二者の大きさの比較はどう行なうのかについても考察の余地はある。
一番単純なのは体積を比較することである。この場合は、半径3メートルの風船と、半径3メートルの中心までつまった鉄の球では、鉄の球の方が大きいことになるかもしれない。風船の中空部分を除いて大きさを体積を測るなら、風船の大きさは見かけよりずっと小さくなる。しかし、こうした大きさ比較の方法は、多少直観に反するところがある。
実際には、異なる種によって異なる大きさ比較の方法が適用されるように思われる。たとえば人間であれば、身長が重要な要因の1つとなるだろう。同じくらいの体格であれば、他方の横幅が多少広くても、身長が高い方を大きいと見なすかもしれない。一方惑星や分子構造のようなものであれば、まったく異なる基準が用いられることになるだろう。大きさについては、二者の比較の基準も、ある程度は関心と種に相対的に決まるのである。
しかしどのような大きさ比較の方法を取ったとしても、次のことは言えるだろう。
- 包み込みの原理
- 有限の大きさをもつ2つの対象について、重ね合わせたとき、一方が他方を完全に包み込んであまりあるならば、包み込む側の方が大きい。*
[ 任意の x と y について、ある移動の仕方 m が存在し、m のもとでは、任意の p が x の部分ならば、p は y の部分であり、かつ、ある q が存在し、q は y の部分であるが、x の部分ではない」 => y は x より大きい
「P(x, y)」 は, 「x は y の部分である」,
「x < y」 は「y は x より大きい」と読む.
たとえば木星と地球ならば、木星が完全に地球を包み込むため、木星の方が大きい。成長しきった象と成長しきった人間ならば、象が人間を包み込むため、象の方が大きい。いかなる大きさ理論も、このことを認めなければならない。
ひょっとすると無限の大きさを持つようなものについては、これは成立しないかもしれない*。しかし、有限の大きさを持つどんなものについても成立するだろう。この意味で大きさは決着を付けやすい概念である。大きさの比較が難しい2つのものはあるが、他方が他方を包み込む場合には、大きさの勝敗は明確に決まる。
この原理について、直観的にはもっともらしく思えるという以外の議論は特に無い。しかし今のところわたしには、この原理の反例は思いつかない。
なお、このような原理が普遍的に成立することは、大きさ概念の興味深いところであると思う。多くの場合について、種に相対的な比較の方法が適用されるにもかかわらず、普遍的に一方が他方を負かす方法があるのだから。大きさについては、種や関心に横断的な比較の方法は、つねにある程度担保されているのである。
■ 極大に大きいものは大きい
それよりも大きいものがないようなものは大きい。以下では、「それよりも大きいものがない」状態のものを「極大に大きい」と呼ぶことにする*。「a < b < ... < n」という大きさの序列があったとき、n のように、極大に大きいものについては、「n は大きい」と言われてしかるべきである。以下ではそのことを論じよう。
| 名前 | 身長 |
| A | 180cm |
| B | 165cm |
| C | 170cm |
上はA, B, C の身長を示す表である。この身長の分布を与えられたとき、以下のような言明は不可能であると思われる。もしもそのように言う人がいれば、わたしにはその人の言うことが理解できない。
A, B, C の3人について言えば、A は大きくない。
むしろ3人のなかでは、A は明らかに大きい。そのことはこの身長の分布から明らかであると思う。
もし「A が大きくない」と言えるとすれば、それは次のような場合である。
「D は身長190cmであり、E は身長195cmである。D やE を考え合わせれば、A は大きくない」
しかしこの場合、反対者は「A, B, C の3人について」言っているのではない。「A, B, C, D, E の5人について」言っている。少なくとも最初にあげた3人について言えば、A は大きい。
ただしこれは180cmという数字が比較的身長が大きい部類に属するために、そう言えるのではないかという反論もありえるだろう。同じことが130cmや140cmの場合にも言えるだろうか? 言えるのではないかと思う。もし130cmの人間を「大きい」と言うことにためらいがあるとすれば、「D, E」を含めた場合のように、他の多くの人間を比較対象に含めてしまっているからである。
「うちの家族はみんな」の事例にも見られたように、「大きい」は対象が属する種と結びつきやすい語である。われわれは、「大きい」について考える際、なかなか対象の種類によるバイアスから離れることができない。従って、バイアスから離れられるようにするために、世界に3体しかいない種類の対象について考えてみよう。以下世界には、A竜とB竜とC竜の3体の竜しかいないものと仮定する。
| 名前 | 体長 |
| A竜 | 47m |
| B竜 | 35m |
| C竜 | 41m |
この場合にも、明らかにA竜は大きい。われわれが竜についてこれ以上の細部を知らなかったとしても、A竜が大きいことを否定するのは難しいだろう。
竜よりもはるかに小さいもの、たとえば虫を考えた場合にも、以下の A虫 は大きいだろう。
| 名前 | 体長 |
| A虫 | 168mm |
| B虫 | 155mm |
| C虫 | 145mm |
以上のような事例は、比較対象のクラスを固定したとき、「そのなかに大きいものはない」と言うことは奇妙であるということを示している。
わたしは、大きいことについての原理として、以下を認めたいと思っている。
- 大きいものの存在原理
- 複数の対象を含む、大きさに関して十分に分散している任意の集まりについて、必ず大きいものと大きくないものが存在する。
- より大きいものの原理
- x が大きく、かつ、y は x よりも大きいならば、y は大きい。
後者はほとんど自明だろう。ある文脈において x が大きいとされ、同じ文脈で x より大きい y について問われたならば、当然 y は大きい。前者は比較対象のクラスを固定したときに、必ず大きいものが1つ以上あることを示している。
両者を合わせれば、(複数の対象を含み、かつ十分に差のある)比較対象のクラスを固定したとき、極大に大きいものは必ず大きいことになる。
ただし、分布が十分に分散していることは必要な条件である。
| 名前 | 身長 |
| D | 145.1cm |
| E | 145.2cm |
| F | 145.1cm |
上のような場合については、必ずしも大きなものは存在しない。こういう分布を見ると、「D, E, F について言えば、みんな大きくはない」とか「みんな大きい」と言いたくなる(「みんな大きい」というか「みんな大きくない」と言うかは標準との関係によって決まるように思う)。つまり大きさについては、大きいものの存在原理に加え、以下の原理が存在する。
- 曖昧性の原理
- 複数の対象を含む、大きさに関して十分に分散していない任意の集まりについて、集まりに含まれる対象はすべて大きいか、またはすべて大きくない。
しかし先の表のようなあきらかに差があるケースで、「大きいものはない」と言うことは難しいだろう。後者のような事例は、「大きい」のような段階的形容詞の曖昧性に由来する現象であると考える。われわれは、「大きい」ものと「大きくない」ものとの間に、明確な境界が引かれることを避ける傾向がある。ほとんど大きさに差がない事例で、他方が「大きい」と言ってしまうと、「大きい」ものと「大きくない」ものとの境界線を決めなければならなくなる。しかしわれわれの多くはそうしたコミットメントを避けるのである。
このことをもって、「大きい」は主観的であると言う論者もあるかもしれない。しかし曖昧性は主観性とは区別される概念である。われわれは、たとえば「A竜は大きい」というときに、個々人の感じ方に左右されているわけではない*。
十分に差のあるクラスについては、以下のように言えるのではないかと思う。「大きい」に関する曖昧性が生じるのは中くらいの領域のどれを大きいとするかに関してのみである。一方極大の極に関しては、曖昧性なく、大きいことが定まる。
「大きい」のような事例については、文脈の役割は、比較の対象となる集まりを固定することと、中くらいの領域に関する境界設定だけであると考える。それ以外の条件、たとえば「極大に大きいものは必ず大きい」ということについては、サイズの分散だけが関係する事実である。
■ 宇宙より大きいものはない
宇宙は、他のあらゆるものを包み込んであまりある。従って宇宙より大きなものはない。
ここで、「宇宙」というのは、存在するもののすべてと、それを包み込む空間領域のことである*。
もし(1)宇宙というものが存在し、(2)宇宙が、現在多くの人が想定するように、有限の大きさを持ったものであれば、(3)宇宙より大きなものは無い。宇宙をすべてのものとそれを包み込む空間領域のことであると定義したため、包み込みの原理によれば、宇宙より大きなものはない。
(1)と(2)に関する反対を含め、種々の反論については以下で論じよう。ひとまずは(1)(2)を前提すると、(3)が導かれることを確認しておきたい。
ここまでの論旨をまとめておく。
- (a)「x は絶対的に大きい」というのは、x はすべてのもののなかで大きいということである。
- (b) x が極大に大きいならば、x は大きい。
- (c) 宇宙はすべてのもののなかで、極大に大きい。
- (d) b, c より宇宙はすべてのもののなかで大きい。
- (e) a, d より宇宙は絶対的に大きい。
宇宙が大きさの序列の上限であれば、宇宙は絶対的に大きいだろう。そして実際に宇宙はそれ以上大きなものがないくらいに大きい。よって、絶対的に大きなものはある。これがわたしの主張の要点である。
基本的な論旨は以上でつきているが、以下では想定される反論に答えていく。
■ 反論: 宇宙と同じ大きさのものがある
以下のような反論も考えられる(この反論については、@pubkugyoに感謝する)。
心は大きさを持たない。そしてこの宇宙からすべての心を取り除いたものは、重要な要素が失われているのだから、もはやこの宇宙とは別の対象である。しかしこの宇宙と同じ大きさを持つ。ゆえに宇宙は(唯一の)一番大きなものではない。
しかしこのことには問題がない。それ以上に大きなネズミがないくらい大きいネズミが二匹以上いたとしても、それらはすべて「大きいネズミ」である。同様に、宇宙も宇宙と同じ大きさのものも、すべて端的な「大きいもの」になるだろう。
わたしの主張は「最大の大きなものがある」ではなく、「端的に大きいものがある」である。従って、それ以上ないくらい大きな対象がいくつあっても、反論にはならない。
■ 反論: 宇宙よりも大きなものを考えることができる
宇宙よりも大きなものについて考えることができる。たとえば、宇宙の3倍の広さの空間について考えることができるし、そうした空間が存在することは可能であっただろう。よって宇宙の大きさは、最大の大きさではないし、宇宙は絶対的に大きいわけではないと主張する論者もいるかもしれない。
しかしこの反論は的を外している。「宇宙は大きい」というのは、あくまでもこの現実世界についての言明であり、この宇宙が必然的に大きいことを言っているわけではない。「太郎は高校生としては大きい」という言明に対し、2メートルや3メートルの高校生が思考可能であることを持ち出しても反論にはならないだろう。従って、単なる思考可能性は宇宙の大きさに対する反論にはならない。
だが、この方向を押し進めることでさらに洗練された反論を考えることもできる。
反論者は次のように言うかもしれない。
われわれは、宇宙の3倍の体積や10倍の体積について、この現実の世界で思考することができる。その大きさを分割したり計算したり足し合わせたり、操作することができる。よって宇宙の3倍の体積や10倍の体積は、この現実世界に存在するのである。そして、われわれが思考・操作できる大きさには上限がないから、大きいものの上限はこの世界には存在しないのである。
これは、単なる思考可能性に訴える反論ではなく、宇宙を上回る大きさがこの世界に存在するという反論である。しかしこれに対しては、「そんなものはない」と答えておこう(より正確にはわたしの再反論は「あるかもしれないが、大きさは持たない」である)。
確かに、宇宙以上の体積について思考・操作することはできるかもしれない。しかしそうした思考の対象はあくまでも抽象概念であって、実際の大きさを持つものではないだろう。われわれは抽象概念に大きさを帰属しているのであって、抽象概念が実際に大きさを持っているわけではない。宇宙の10倍の体積に、抽象的でない対象を収容することはできない。それが宇宙の10倍の大きさを持つというのは、あくまでも抽象的な想定である。もし、そのようなものがある意味で存在しているとしても、抽象概念である以上は、その実際の大きさは0であると考えるべきだろう。
一方、抽象概念が、現実に存在する具体的な対象とまったく同じ意味で大きさを持つという主張にはあまり説得力がない。反論者は、抽象概念が実際に大きいと考える根拠を提示すべきである。
■ 反論: 宇宙より大きいものを想定できる文脈がある
前節の反論に似ているが、以下のように主張される場合もあるかもしれない。
たとえば、以下のような文脈を考えよう。「バベルの図書館をおさめるには、宇宙さえも小さすぎる」。このような言明はまったく正当なものであるのだから、宇宙が大きくないということは、ある文脈では正しい。よって宇宙があらゆる文脈で絶対的に大きいなどということは無いのである。
いくつかの文脈のもとでは、確かに宇宙が大きくないと言うこともありえるだろう。
しかし、そのような事例は、「反事実的な想定の文脈」であることに注意すべきである。反事実的条件を用いて正確に述べなおすならば、問題となっている事例は「もし仮にバベルの図書館が存在するならば、宇宙は大きくない」というものであろう。
しかし、もし反事実的条件法を用いた言明
もし仮にP ならば、Q ではない.
が真であったとしても、
Q ではない.
が真であるとはかぎらない。
もし仮にわたしがアメリカに住んでいれば、お茶を飲む習慣は無いだろう.
が真であったとしても、
わたしにはお茶を飲む習慣は無い.
は真でない。
反事実的条件法を用いた文脈では、後件は必ずしも現実に関する言明ではないのだから、これは反例にならないのである。
■ 反論: 宇宙より大きなものがある
思考可能性としてではなく、実際に宇宙よりも大きなものがあるという反論も考えられるだろう。
たとえばこの世界は、多くの宇宙から成るかもしれない*。世界が実際には、複数の宇宙によって構成されているならば、それらすべての宇宙を足し合わせたものは、宇宙より大きい。しかし、宇宙よりも大きな(有限の大きさをもつ)ものがあるという反論に対しては、「いずれにしても、絶対的に大きなものがある」と答えたいと思う。
もしこの世界が複数の宇宙から成るとしても、複数の宇宙から成る全体が「すべてを包み込む絶対的に大きなもの」と見なされるだけであり、わたしの所論には影響しない。ただし、これらの内、宇宙の外側にさらに無限の広さがあるという反論に対しては、後で答えることにする。
■ 反論: 宇宙には無限の大きさがある
反論者は次のように言うかもしれない。
宇宙が有限の大きさを持つという主張には確固たる保証はない。実際には宇宙はわれわれの観測範囲を越えて無限に広がっているかもしれない。宇宙が無限の大きさを持つのであれば、無限の大きさを持つものに「大きい」という形容はあてはまらないから、大きいものはないのである。
宇宙に無限の大きさがある可能性は否定できない。現在の物理学が解き明かしておらず、われわれが知らないだけであって、宇宙には無限の大きさがあるのかもしれない。
しかし宇宙に無限の大きさがある「可能性がある」だけでは反論にならない。反論になるのは、宇宙に無限の大きさがあるという仮説が、(わたしが依拠している)宇宙には有限の大きさしかないという仮説よりも確からしい場合である。
現在観測されている限界を宇宙の限界とし、その外には何もないとする仮説には、一応は観察に基づいた根拠がある。一方、宇宙に無限の大きさがあるという仮説には、特に何の根拠も理由もない。人間原理からくる多宇宙説のようなものも一応あるが、それはやはり有限の広さの有限の多宇宙の存在を主張するだけであって、知るかぎりでは、宇宙に無限の広さがあるという説は特にない*。もちろん、可能性は否定できない。しかし可能性にわずらわされる必要もないだろう。わたしは、宇宙は有限の大きさを持つという仮説が必然的に正しいと主張しているわけではない。そちらの方がもっともらしいために、そちらを信じようと言っているだけである。
また、宇宙に無限の広さがあった場合、本当に大きいものが存在しないことになるかどうかも疑わしい。たとえば自然数には上限がない。しかし10の1000乗は大きい数であるし、10の10000乗はいっそう大きい数である。上限がないとしても、ある程度大きい数はすべて「大きい数」と判断すべきかもしれない。同様に、宇宙の大きさには上限がない場合にも、ある程度よりも大きな領域はすべて「大きい」と見なしてよいかもしれない。
ただし恣意的でない境界の設定は難しいだろうし、多少直観から外れる部分があることも認めよう。しかし、大きさの上限がないからと言って、大きいものが存在しなくなるともかぎらないのである。
■ 反論: 宇宙に大きさはない
反論者は言うかもしれない。
宇宙は惑星や分子構造や人や素粒子のような本当の意味での対象ではない。もし「存在するもののすべて」というものがあるとしても、それが大きさを持つことは依然疑わしい。
しかし、われわれは通常宇宙の一部が大きさを持つことを認めている。太陽系同士の大きさを比較することはできるだろうし、島宇宙の大きさを測定したり、比較することもできるだろう。宇宙自体の大きさを推測したり、宇宙とその一部を比較することも当然してよいように思われる。もちろんわれわれが通常大きさを持つと見なしているからと言って、実際に大きさを持つことが結論されるわけでもない。しかし「われわれが通常そう見なしている」ことはひとつの判断基準である。
もちろん宇宙それ自体と宇宙の一部は違う。宇宙にはその外には何もないという明確な特徴がある。従って百歩譲って、宇宙自体が大きさを持たないとしても、宇宙の一部が大きさを持つことには依然問題がない。よって宇宙自体が大きさを持たないとしても、やはり、それ以上ないくらいに大きな宇宙の一部が存在するという説は否定されたわけではないし、わたしの所論にとってはそれで十分である。
しかし、反論者は、宇宙それ自体に大きさがないだけではなく、宇宙の部分には最大のものがないという風に反論を進めるかもしれない。これについては、次の節で別途答えることにしよう。
■ 反論: 宇宙は開いた境界をもつ
宇宙それ自体が大きさを持つかという問題とは別に、「宇宙の境界は宇宙の一部なのか」という問題もある。
やはり数を例にあげて考えると、たとえば「3未満の実数」というのは、境界を含まない実数の集合の例である。「3未満の実数」の場合、3に近いいかなる実数も集合の一部であるが、その「端」は集合の一部ではない。実数は連続的だから、どれほど3に近い実数を考えてもそれよりもなお3に近い実数が存在する。
同様に、宇宙も連続的であるかもしれない。実際、多くの場合われわれは空間を連続的なものと見なしている(物理学的には、現実の物理空間は連続的ではないそうだが、それでもなお理論的な空間の連続性を主張することはできるかもしれない)。また、宇宙の境界が宇宙の一部であるかどうかについては、わたしには判断する材料が一切ないが、「宇宙は境界を含まない」という説が不可能であるとも思えない。
宇宙の連続性と、宇宙が境界を含まないことを仮定すれば、最大の大きさを持つ宇宙の一部は存在しないことになる。どれほど宇宙の境界に近い領域を選んでも、なおそれよりも大きく、宇宙の境界に近い領域が存在する。
このケースについても反論をくわえておこう。ただし、このケースがあくまでも特殊な仮定のもとでの条件を扱うことは忘れてはならない。実際には境界は宇宙の一部であるかもしれないし、宇宙は不連続かもしれない。そもそもこの反論の条件自体が成立しない方が確からしいという想定もできるのである。
宇宙が無限に大きいケースとの違いは、「開いた境界」の場合には上限があることである。このケースでは、宇宙の大きさには限界がある。ただわれわれは最大のものを1つ選び出すことができないだけである。ある一定以上のものはすべて大きいという説は、このケースにおいては、無限の大きさのケースよりも説得力を持つだろうと思う。3未満の実数が無限にあり、2.99より大きい実数が無限にあるとしても、2.99はやはり「大きい」のではないだろうか。2.99より大きい実数は、それよりもさらに大きいが、その差はそれほど広いものではない。「広い」かどうかも曖昧であるが、少なくとも3に近づけば近づくほどその差は小さなものになっていく。
すでに存在するネズミの最大のものが全長30cmだったとしよう。すでに存在したネズミにくわえ、31cm未満の非可算無限匹のネズミを増やしたとする。これによってネズミは、問題となっている宇宙と同様に、大きさの最大値を持たなくなる。しかし、新しい無限匹のネズミが増えたことで、大きなネズミはその「大きさ」を失うだろうか。いささかあやしいように思われる。30cmから31cmの間に無限匹のネズミがいるとしても、30cmから31cmの区間にあるネズミは依然大きいのではないだろうか。
■ 反論: 宇宙より大きなものがないとしても、絶対的に大きなものがあるわけではない
反論者は、わたしの所論のほとんどを認め、結論だけを否定するかもしれない。宇宙より大きなものはなく、宇宙は有限の大きさを持つ。しかし、にもかかわらず、絶対的に大きなものは無い。この立場を理解することは難しいが、想定は可能である。
反論者は、大きさの概念が本質的に相対的であると主張するかもしれない。
「大きさ」という概念はわれわれの実際の使用と離れて意味を持つことはない。そしてわれわれがその概念を使用するほとんどすべてのケースで、相対的な概念として使用されているのである。種や関心に相対的な限定をすべて取り払った「大きい」にはもはや意味はない。たとえば、ネジの大きさを比較するとき、「このネジの方が大きい」というのは、実際にはこのネジならネジ穴にはまるだろうということであり、それ以上の意味はない。同様に「このネズミは大きい」というのは、何らかの生物学的関心に支えられてはじめて意味を持つ。
何らかの関心や種に相対的な意味では、宇宙はやはり大きいだろう。しかし「端的に大きい」という言い方には意味がない。われわれの関心を離れた端的な大きさというものはないのである。
これは、一番根本的な反論であるが、議論によって答えるのは非常に難しい。「大きさは本質的に相対的であるわけではない」というのはわたしが根本的に前提していることであり、反論者はこれに対して異議を唱えている。平行線をたどりそうな対立だが、できるかぎり反論を試みてみよう。
大きさが本質的に相対的であるという説の難点は、どんなもの同士でも実際には大きさを比較できる点である。木星とマグロなら木星の方が大きいし、わたしと銀河系ならば銀河系の方が大きい。こうした比較をするとき、わたしは何をしているのだろう? 木星とマグロ、わたしと銀河系を統合する種があるのだろうか。もしあるとすれば、それはもはや「存在するもの」といった何の制限も与えないような「種」ではないだろうか。
また、わたしは何の関心もなく、単に時間を持てあまして大きさを比較することもできる。何の目的も抱かずに木星とマグロを比較するとき、わたしが使う「大きい」には本当に意味がないのだろうか。もしそうだとすれば、わたしはどれくらい関心を持てば、「大きさ」の概念を正当に使用できるのか。実際「正当な関心に基づかないから、その言葉には意味がない」という批判は奇妙である。われわれはほとんど何の関心もなしに多くの言葉を使っている。むしろ、言葉を意味を持って使うには、正当な関心が必要であるという前提の方が疑わしいだろう。正当な関心に基づく概念使用と、関心に基づかない概念使用の間に本質的な差があるようには思えない。どちらも同じ意味で同じ概念を使用しているように見える。反論者は、せめてこの「見かけの同義性」について説明すべきだろう。
一方、時間つぶしさえ、ある意味では正当な関心だということもできるだろう。しかし「関心」という言葉をそこまで広義に使うなら、批判はトリビアルなものとなる。その際には、そもそもわれわれは関心の無いことなどしないのである。
実際に大きさの比較をするときには、つねに何らかの関心に相対的に比較しているという指摘は興味深いが、そのポイントがどこにあるのか把握するのは難しい。しかし、反論者があくまでも「『大きい』は本質的に相対的だ」と主張するならば、「種によって相対的」や「関心によって相対的」ということで、何らかの実質的な制限が与えられるのでなければならないだろう。
本質的に相対的と言いながら、すべてのものを対象として概念を使用することが許されており、しかも、ほとんど何の関心も無しに当の概念を使用できるなら、そのような批判は何も言っていないに等しい。それが「本質的に相対的」の意味するところならば、おおよそすべての概念はそうだろう。
しかし反論者が、宇宙が実際にすべてのもののなかで極大に大きいと認めるならば、そのような制限は存在しないように思われる。すべてのものを対象とする大きさの比較はすでに行なわれ、勝者は決まったのである。
もちろん、反論者はすべての概念は本質的に相対的であると、あくまでも主張するかもしれない。しかし、わたしが退けなければならなかった相手はもっと実質的な内容をもった反論である。わたしが述べたのはこうだった。ある文脈のなかでのみ意味を持つ概念(わたしの言う「相対的」な概念)と、そうではない概念があること。「大きい」には後者の用法があり、しかも、その用法で大きいと言うことができる対象が存在すること。一方すべての概念が本質的に相対的であるという、希釈された反論が、依然わたしの所論にとって障害となるかどうかは疑わしい。
■ 展望
以上「現実に極大に大きいものが存在する」によって「絶対的に大きいものはある」を擁護するような議論をしてきた。
同様に、絶対的な美しさの存在を主張したり、絶対的な良さの存在を主張することはできるのだろうか。
極大に美しいものや極大に良いものの存在を認めることは、極大に大きいものの存在を認めることよりも難しいだろうが、そのような議論を想定することは決して不可能ではないように思う。
個人的には、「価値の相対性」のようなテーマが政治的に深刻に捉えられるあまり、不毛な平行線をたどりがちなことが気になっている。むしろ「相対性」が何を意味するのかにまで立ち返って議論することが必要だろうと思う。
■ 参考文献
参考文献らしい参考文献は特に無いのですが、関連するトピックについて2つだけ。
- [1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar"
http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html
段階的形容詞の意味論については主としてこちらを参考にしました。
曖昧な段階的形容詞と曖昧でない段階的形容詞の区別を提唱していたりなど、非常におもしろいです。
なおこの文献については @wataruu さんに教えてもらいました。
- [2]菅沼聡「世界全体は存在するか」
この記事にとってサブトピックの1つだった「世界全体は存在するか」というのはそれなりに論じられてきているテーマのようです。残念ながらわたしはこの論文にはあまり賛成できませんでしたが、問題への導入にはよいかもしれません。
この文献については @tsagis さんに教えてもらいました。
GCOEワークショップ フィクションの哲学
http://www.carls.keio.ac.jp/2010/03/gcoe2010327.html
昨年末に清塚邦彦氏が上梓し、大きな注目を集めている
フィクション論『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)をめぐるワークショップを行います。
参加無料・登録不要ですので、ぜひご参加ください。
日時:2010年3月27日(土)14:30~18:00
場所:慶應義塾大学三田キャンパス東館4階セミナー室
【提題者】
清塚邦彦(山形大学人文学部 教授)
森功次 (東京大学大学院博士課程)
鈴木生郎(慶應義塾大学大学院博士課程)
【司会】
飯田隆 (慶應義塾大学文学部 教授)
万難を排して出席することにしました。
Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," British Journal Of Aesthetics, 40:4(1990), pp. 319-31.
Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41.
ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を読みました。
ラマルクは、分析美学(分析哲学の中の美学・芸術哲学)の研究者です。サブタイトルに「分析的検死」とあるように、本論文は、分析哲学というフランス現代思想とはずいぶん異なった学問的伝統に属するラマルクが、フーコーとバルトの著名な「作者の死」の議論を、分析哲学の流儀でまじめに取り扱ったものです。
対象となる論文は、フーコー「作者とは何か」、バルト「作者の死」の2本です。
わたしも改めてこの2本の論文を翻訳で読んだのですが、この辺りの論文は、2人の書いたもののなかでも、特にアジテーションの色彩の強いもので、ほとんど論証しているようには見えません。
ところがラマルクは、これを非常にベタな哲学的議論として再構成し、検討と反論をくわえています。あれだけふわふわした文章をよくここまで再構成したと、個人的には非常に感心しました。
以下簡単に要約を。
まず、フーコー、バルトの論文では、歴史的に誕生し、死んだ(死ぬべきだ)と言われている「作者」は3通りに解釈できることが指摘されます。
- 1. あるカテゴリーの人 (writer-as-author)
- 2. あるカテゴリーの批評(author-based criticism)
- 3. あるカテゴリーのテクスト(authored text)
これらのうち、1番目と2番目の解釈だと、彼らの主張はもっともらしく、穏当でもあるが、ごくふつうの主張になります。ところがこれは、3番目の解釈とは結びつかないし、どうもフーコー、バルトの本当の意見のようには見えません。
一方3番目の解釈で読むと、彼らのテーゼは非常に過激であり、おもしろくもあるが、非常に極端で同意しがたい意見となり、あげられている議論も失敗していると、ラマルクは主張します。
20年前、10年前にとっくに紹介されているべきものだったと思います(発表は1990年)が、今読んでも十分におもしろいです。
皆様、愛していますか。
つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタインデーなので(24時すぎましたけど)、以前より関心のあった 愛の哲学について少しだけまとめてみます。
日本には、愛を哲学的に研究している人はあまりいません。哲学史家の人が、プラトンの愛の概念について述べていたり、バタイユのエロティシズムについて述べていたりなどの事例が少しあるくらいのものです。
しかし英語圏の分析哲学の世界では、愛の研究というのはそれなりにさかんです。主として倫理学的関心から論じられることが多いようですが、哲学史研究ではなく、愛そのものの哲学的研究がかなりの数存在します。
スタンフォード哲学事典の「love」の項目を中心にいくつかの論文を読んだので、それを中心にまとめます。
http://plato.stanford.edu/entries/love/index.html
「愛」のようなきわめて個人的な問題が哲学的探求の対象になるというのは、人によっては違和感もあるでしょう。しかし、愛は serious probrem であり、真剣な哲学的探求に値する重要な現象であると、少なくともわたしは考えます。愛についての心理学や社会学や歴史学ももちろん必要でしょうが、他の重要な問題と同様に、哲学的研究も必要なはずです。他の分野の研究とは違って、哲学的研究の場合、主として「愛の定義」や、「愛はわれわれにどういう規範を要求しているか」などといった論理的・概念的な事柄が問題にされます。
こうした議論を通じて、愛について改めて考えを深めることができれば、すばらしいことではないかと思います。
■ 用語
ここでいう愛は、恋人や配偶者への愛を中心として、友人に対する友愛や家族への愛までを含むものです。ただし、主として人に対する愛のみを対象としています。
また、細かい話になりますが、日本語で「愛する人」と書くと、「whom I love わたしが愛を向けている人」を指しているのか「who loves someone 誰かを愛している人」を指しているのか曖昧になってしまいます。ゆえに、日本語として不恰好ですが、ここでは「愛をしている人」「愛をされている人」という表現を用いることにします。
花子が太郎を愛しているとき、花子は愛をしている人であり、太郎は愛をされている人です。愛が相互に成立している場合には、これがお互いにとってお互いに成り立ちます。つまり、花子は「太郎に対して愛をしている人」である一方、太郎も花子を愛しているならば、花子は「太郎の愛をされている人」でもあります。
■ 愛の定義
Helm の記事は、これまでに提出された愛の定義を「合一(union)説」「強固な関心(robust concern)説」「価値付け(valuing)説」「感情(emotion)説」の4つに分類しています。これは排他的な分類でも網羅的な分類でもないのですが、主として愛を「個人的態度」として定義する立場と、「人の関係性」によって定義する立場の2つに分かれるようです。すべてを紹介するのは大変なので、ざっくりと2つの方向性に分けて紹介してみましょう。
■ 個人的態度としての愛
愛を愛をしている人の個人的態度によって定義する場合、一番シンプルで分かりやすいのは、Helm が「強固な関心説」と呼んでいるものです。強固な関心説は、愛を、利他的な関心によって定義します。この立場としてあげられているのは、Frankfurt, Taylor, Sobleなどです。
たとえば、「太郎が花子が愛している」を、「太郎は、花子のための花子の利益に関心を持つ」という風に定義するわけです。
孫引きになりますが、Taylorの定義を紹介します。
要約: もし x が y を愛しているならば、x は y の利益や y とともにあることなどを望み、また x がこれらの望みを(少なくともそのいくつかを)持つのは、x は y がいくつかの確定的な特徴ψを持っていると信じており、その特徴のために y が利益を得たり、y とともにあることは価値のあることだと考えるからである。x はこれらの望みを充足することを、目的と見なしており、他の何らかの目的に対する手段とは見なしていない。
To summarize: if x loves y then x wants to benefit and be with y etc., and he has these wants (or at least some of them) because he believes y has some determinate characteristics ψ in virtue of which he thinks it worth while to benefit and be with y. He regards satisfaction of these wants as an end and not as a means towards some other end.
「確定的な特徴ψ」という部分がわかりにくいですが、この部分は、愛の対象となる人に価値を与えているような肯定的な特徴のことを言っていると思われます。たとえば「花子の笑顔がかわいいので、花子が幸せになるのは価値のあることだ」と太郎が考えているなら、太郎は花子を愛しているのです。
価値付け説や感情説も(少なくとも個人主義的なバージョンのそれは)、大きくは異なりません。
それらの立場は、愛をされている人の利益を望むことを、ある種の「感情」と呼んだり、愛をされている人が持っている「価値」と考える点で区別されます。どの立場も、「役に立つから利用してやれ」という道具的な欲求とは区別された、愛の対象それ自体の利益を問題にします。
なお、価値付け説に関しておもしろいのは「価値の発見」と「価値の創造」が区別されていることです。愛をされている人が利益を享受するだけの価値を持っているとして、その「価値」は、元々その人が持っていた価値を「発見」したのか、それとも「創造」したのか。つまり価値があるから愛するのか、愛するから価値があるのか。
これは、後述する「愛は正当化できるか」という問題との関係で重要になってきます。
Helm は、愛を個人の態度に還元するような定義に対し、一面では真実をついていることを認めながら、厳しい評価を下しています。
Helm にとって最大の問題は、これらの定義は弱すぎて、愛の「深さ」を説明できないことらしいです。単に利他的な関心を持つことが愛なのであれば、それは「好意」や「尊敬」とあまり変わりないことになります。しかし愛というのはわれわれ自身を大きくゆさぶり、人生を変えてしまうようなものではないかと言いたいようです。
Helm の議論はともかく、Kolodny(2003)のケースがおもしろいです。
Kolodny が、娘のクラスメイト、フレッド・サイモンを助けたいという基礎的衝動を抱いて目をさましたと仮定しよう。フレッドは Kolodony にとって、クラス名簿で名前を見たことがあるという以外、まったくの他人である。
Kolodny には、フレッド個人を助けることにこだわるようなポイントは特に何もない。ただ気がつくと、「サイモン坊やを...助け...なければ」と考えているだけである。
Kolodny はフレッドを愛していないように思われる。Kolodny がフレッドに対してとっている態度がいかなるものであろうとも、それは Kolodny の自分の娘に対する愛と同じ種類のものではない。
このケースのように、利他的な関心を何の理由もなく突然抱いた場合、その関心がどれほど利他的なものであっても、愛とは呼べないように思われます。この批判は、独立した精神的態度を一つ取り上げることで愛を定義する困難さをうまく突いています。
一方、単純な関心によって愛を定義する試みを不十分に感じる論者は、愛を、人の関係性に注目することによって定義しようとします。
■ 関係としての愛
合一説は、愛を「わたしたち we」の形成(あるいは形成したいという欲望)によって定義します。
わたしのためでもなく、あなたのためでもなく、わたしたちのために行為する一人称複数の主体の形成こそが愛の本質であるという立場です。Scruton, Solomon, Nozick などがこの立場らしいです。
極端な立場になると、「わたしとあなたの境界が消滅する」とか「両者の魂が融合する」などとうわごとのようなことを言いだしますが、少なくとも、「わたしたちのため」に行為するような集合的な利益主体を想定することは、それほど奇妙には思えません。
しかし、この説にも批判はあります。まずこの「わたしたち」が一体何なのかを明らかにしないかぎり、まともな説明とは言えないでしょう。一部の論者はこれをただの比喩としていますが、別の論者は、「わたしたち」は文字通り世界に現われた新しい事物であると考えます。
そうした存在論的問題以外にも、この説を取ると、「愛による自己犠牲が理解できなくなる」という批判があります。合一説の場合、愛をされている人の関心は、私たちの関心となり、愛をしている人自身の関心にもなってしまうので、私たちのための行為はすべて本人が望んでやっていることになります。つまり、愛する人のために何かを我慢したり断念したりすることは、定義上存在しないことになります。これは奇妙な帰結でしょう*。
また「私たち」の形成は、愛の特徴付けとしては弱すぎるように思われます。たとえば、会社のような法人組織も、個々のメンバーの利益とは区別された「わたしたち」の利益を追求するはずですが、会社組織のメンバーが愛によって結ばれているとはかぎらないでしょう。愛を定義するためには、形成される「わたしたち」についてもっと踏み込む必要があります。
Helm や Kolodny は愛を形成するような関係性が歴史を持つものであることを問題にしています。
家族や友人や恋人たちがともに過した際の心理や活動がそれらの関係性の内実を形づくっています。また、Rorty(1986/1993)も、愛の定義としてではないですが、歴史的に変動していくような愛を、豊富な事例とともに描いています。
Helm(2009)は愛を、人を焦点とすることで結びつく一連の感情の複合体として定義しています。これらの感情複合体は両者の関心の共有や相互依存によって形成されています。
Kolodny(2003)は、愛を、家族や友人や恋人の関係性を理由とする(従ってこれらの関係性によって正当化される)一連の心理学的状態としています。この際、恋人や友人同士の歴史的関係性を背景として、それらの関係性自体や愛される人を価値付け、特定の関心を持つことが愛の構成要素となります(本当はもっとだいぶ細かい定義がありますが)。
細部をどうやって定義するのかが難しいですが、個人的には、この方向で定義を与えるのが一番うまくいきそうに思えます。Helm の議論は「焦点」という概念が明確でないように思われましたが、Kolodony の議論はおもしろいです。
■ 愛は正当化できるか?
哲学の世界では、しばしば「原因による説明」と「理由による正当化」が区別されます。
原因による説明とは、原因を示すことで、何かが起らなければならないことであると述べます。一方理由による正当化は、理由を示すことで、何かがすべきことであると述べます。要するに、理由による正当化は、物理的現象の説明ではなく、社会的な規範にかかわるものであるわけです。
しばしば愛に原因はあっても理由はないと主張する論者がいます。つまり愛にはきっかけはあるが、特定の愛を正当化するような理由は無い。この主張は一見もっともらしく思われますが、愛には理由があるという議論にも説得力があります。
Kolodny(2003) は、愛に理由があるという主張を擁護するために3つの議論を提出しています。
■ (1)一人称視点からの議論
愛を経験する人としての、一人称視点から見ると、愛を構成する感情や動機は、適切なものに思われます。たとえば、恋人に幸せになってほしいと願うとき、その欲求は、何の根拠も持たないものではなく、規範にかなった適切なものとして感じられます。煎じつめれば、「理由があるような感じがするだろ!」ってことですが、これも理由説を信じる動機の1つにはなるでしょう。
■ (2)三人称視点からの議論
われわれはしばしば三人称視点で、愛を不適切であると主張したり、愛が無いことを不適切であると主張します。
不実な夫を愛する妻に苦言を呈したり、子どもを愛さない親に不満を述べたりします。愛に理由が無いのだとすると、これらの倫理的主張は何を述べているのでしょう。
■ (3)感情や動機には理由がある
感情や価値付けや動機が愛の構成要素であると言われますが、これらの精神的状態には、ふつう理由があります。よって愛にも理由があるはずだという議論です。
一例として、感情はしばしば認知的な内容を前提としており、これが感情の理由であると言われます。
たとえば、わたしが、近所の犬を「噛みつくかもしれない」という理由で怖がっているとします。ところが、このとき「この犬は噛みつくかもしれない」という評価がわたしの恐怖の理由となっています。しかし、実は近所の犬は老犬で、人に噛みつくことなどありえないことが明らかになったとしましょう。このとき、わたしの恐怖は認知的な支えを失い、理由のない不適切なものであったことが判明します。
感情に理由があるならば、愛を構成する感情にも理由があるはずであり、よって愛には理由があるはずです。
さらに Kolodny のような論者は、愛を理由によって個別化されるものとして定義するので、「理由説を認めれば、そうした定義が可能になる」というのも、理由説の動機になるでしょう。
一方、理由説には以下のような批判があります。これに対する反批判も紹介しておきます。
■ 人は、特定の理由をもとに人を愛することを選択するわけではない。
複数の理由を比較考量し、「よしこの人を愛そう」などと決断する人はあまりいません。「恋に落ちる」と言われるように、人はむしろ非選択的に誰かを愛するようになります。これは、一見すると、「愛に理由がある」ことと矛盾するように思えます。
しかし、何かが意志的でないことは、必ずしも理由の不在を意味するわけではありません。たとえば、先に例にあげた「感情」はふつう選択的に抱かれるものではなく、非意志的に湧き起こるものです。感情に理由があるとすれば、愛に理由があることも不可能ではないでしょう。
■ 愛の対象は代替不可能である。
誰かを愛することが特定の理由によって正当化されるとすると、それらの理由をよりよく満たす人々もまた愛の対象として同様にふさわしいことになります。
たとえば、「花子はとても眼鏡が似合う」というのが、太郎が花子を愛する理由だったとしましょう。太郎の愛がこの理由のみによって正当化されるとすると、花子よりも眼鏡が似合う良子は、太郎の愛の対象としてよりふさわしいことになります。太郎は花子への愛を捨て、良子を愛すべきなのでしょうか。
無論現実には、「そばにいてくれれば誰でもよかった」とか「かっこいい方がいい」とか「お金を持っている方がいい」ということはあるでしょうが、愛の対象を代替することはふつう倫理的によろしくないこととされています。理由による正当化が愛に関する規範だとすると、この愛の対象の代替不可能性は何によって生じるのでしょう。
しかし、すでに述べたようにKolodny のような論者は、愛を正当化する要素を、歴史的関係性としています。「眼鏡が似合う」「かわいい」「若い」などのような個人的特質と違い、花子と太郎がこれまでに築いた関係性は、歴史を書き換えないかぎり、他の人間によって満たされることはありません。
よって代替不可能性の問題は、理由の不在を示す証拠にはなりません(ただし、Kolodny はこの代替不可能性と、正当化に必要な一般性を両立させようとしていろいろ苦労しているようです。この辺りの議論が成功しているかどうかは判断が分かれるところかもしれません)。
以上、きわめて不十分ですが、愛に関する哲学的議論のさわりを紹介しました。愛に関する哲学研究がもっと盛り上がりますように!
■ 文献
- Helm, B. W., 2009, "Love, Identification, and the Emotions", American Philosophical Quarterly, 46:39-59.http://edisk.fandm.edu/bennett.helm/Papers/Helm-Love_Identification_and_Emotions.pdf
- Helm, B. W., 2009b, "Love" http://plato.stanford.edu/entries/love/
- Kolodny, N., 2003, "Love as Valuing a Relationship", The Philosophical Review, 112:135-89.http://sophos.berkeley.edu/kolodny/LVR.pdf
- Rorty, A. O., 1986/1993, "The Historicity of Psychological Attitudes: Love is Not Love Which Alters Not When It Alteration Finds", in Badhwar (1993), 73-88.
■ 感想
ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。
本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。
なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ!
■ 『フィクションの哲学』について
- 前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか?
- 1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない)
- もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか
- ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。
- この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。
- しかもかなり大胆な主張してるよね。
- この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない?
- ウォルトン+清塚の立場って、なんで非主張説のバリエーションじゃないの?
- 作者の関与を認めないから?
- ウォルトン+清塚的には、フィクションというのは「想像を指定する道具」で、使用目的に沿った「公認の想像」が作品の内容とされる。
- 道具の目的は何によって決まるの?というところで、作り手の意図を持ち出したくならないのだろうか?
- ウォルトン+清塚的には、「岩に入ったひび割れがフィクションの機能を持つかもしれない」(スワンプテクスト by kugyo)
- しかしたとえば、アマゾンの奥地で、「鉛筆の機能を持った木の枝」が発見されたとして、それを「鉛筆」と呼ぶか?
- (言わなかったけど)最近の慣習論とか機能論だと、機能を意図に還元しないで、「機能は複製元となった祖先との因果作用によって決まる」という説もある。ただその場合でも、清塚+ウォルトンの「岩に入ったひび割れがフィクションに見える」(スワンプテクスト)は、フィクションの機能を持たないはず。
- あと、岩に入ったひび割れがフィクションに見える例って、アニミズム信仰みたいな話であって、「擬人化」してないか?というのも気になる。「想像を指定する作者を想像してる」のでは?
- conchucame氏の「語り手を想定するのはなぜなの?」という話。
- フィクションの読み方がわからない読者というのも、かつてはたくさんいたはずで、近代読者の誕生みたいな話とも無関係ではないよね、とか。
- あと、最終的には「慣習」を持ち出して、説明が打ち切られるんだけど、慣習って何?って話はもう少しつめたいかな。「規約」だとすると、明示的な合意が必要なので、結局意図に訴えるしかないんじゃないか?とか。
■ 打ち上げにて
- ベタに「本質主義」(に見える立場)を擁護しており、しかも勝てると思ってる人たちがいるというところで驚かれる(主にわたしですが))。
- 分析哲学は「本質主義」を恐れない。
- なぜか?(以下「本質主義」という言葉はとてもルーズに使います)
- 論理実証主義以来、ずっと対決してきた。分析美学の人たちも、「作者の死」を云々するヨーロッパ系の人たちとずっと対決しつつ作者や意図みたいな概念を復活させてきた。
- あと、論理実証主義がある種の「形而上学批判」を徹底させた上に、失敗して派手に死んでくれたおかげで、形而上学批判の問題点がクリアになったという側面もある。
- 論理実証主義は歴史上はじめての「間違えることができた哲学運動」。
- 間違えることができるくらいに明晰な主張をし、しかも研究プログラムをしっかり遂行しようとした(そして頓挫した)。
- そのおかげで、「検証主義」「知覚への還元主義」「規約主義」などというひとつひとつはもっともに見える哲学的主張の問題点が明らかになった。
- 間違えることができるというのは自信につながった。
- (このときは言わなかったが、あとで考えると)自然言語の扱いが単純に進歩したというのもあるよね。「自然言語は曖昧であり、明確な定義や真偽はない」って言われたときに、「それは単純におまえが努力してないからだ。様相文の分析も、時制の分析も、行為文の分析も、反事実的条件法の分析も、みんなできるようになったじゃないか」と言えるようになったというか。
- 一番素朴に見える立場をきちんと批判するのがいかに難しいかというのを噛みしめる日々なので、こういう風にふだん会わない専攻の人と話すと新鮮。
- 「いやわたしは全然勝てると思ってるので」ということで、テクスト論との対決をちょっとする。
- 擁護したい主張は、「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」などであった。
- 懐疑主義への対応よろしく、「何でもあり派」「複数の矛盾する解釈を許す派」「読者を変数にする派」などに分けて対応する。
- しかし改めて考えると、ほとんど教科書的な懐疑主義への対応に近いものになった。「相手は過剰な不可謬性か極端な懐疑の二択を要求してくるので、そもそも不可謬性は必要ないことを確認する。可謬的な主張の中でよりましなものを選べばよいことを確認する。しかも極端な懐疑はなかでも特にもっともらしくないものであることを確認する」とか。
- この辺の話は、それぞれの業界においていろんな常識があるよねみたいな大人な対応とか、ベタに論争しようとする人とか、対立点をずらそうとする人とか、いろんな言説戦略があっておもしろかった。
- というか、「本質主義」の否定として持ち出されていたのは、繰り返し何度も見たような「柄谷行人が流行らせた過剰に懐疑主義的な観察決定論(行為の事後決定論)」だった気がする。「端的な主張というものはなく、観察者によって主張とされているものだけがある」みたいな。
- kugyo氏は、「解釈に真偽はなく、おもしろい解釈とつまらない解釈があるだけ」という立場らしい。
- 『こころ』を読んであきらかにまったく関係のない小説の内容を読み取る読者(『こころ』を読んでるのに『ももたろう』だと思ってしまう人)は、間違ってるのではなく、極端におもしろくない解釈である、のか?
- じゃあ『こころ』を読んで、全然別のストーリーを読み取ってしまうんだけど、そのストーリーがすごくおもしろかったらどうする?
- 『こころ』についての言明であるということを確保するのが、まずかなり大きな問題になるらしい(細部はよくわからなかった)。
- 意図に言及しないで、どうやってあるテクストを個別化するの?
- 徹底したテクスト論者なので、『こころ』を文字の途中とかで切ったものも『こころ』のテクストらしい。厳密に一致はしないんだけど、一致する部分がかなりあるので、何とか同じテクストについて語ってるように見える?
- 最終的には、独我論 + 心に関する機能主義 + 汎テクスト主義みたいなものになるらしい...。そんな過激な立場だったとは知らなんだ。
- 解釈言明が真理値を持つとして真理メーカーはどこにあるの?と言われる。
- そういえば、David Lewisの"Radical Interpretation"は、デイヴィドソンの話はあまりしないんだけど、「根源的解釈」を「意味に関する事実は物理的事実にスーパーヴィーンするか」問題への解答として理解するという感じの内容だった気がする。
- http://philpapers.org/rec/LEWRI
- 善意の原則とか、いろんなルールを駆使して、欲求、信念、意味に関する事実を相互に決定していくイメージ。
- 細かい部分はともかく、わりとこんな感じで決まるんじゃないかというイメージは持ってるかなー。このプロセスって結局最終的には、本人の生物学的状態とか行動(not 行為)から決まるはずなので、それが真理メーカーになるかな。いや、正直そんなに自信はないけど。あとこれはもちろんフィクションにそのまま適用できる話ではない。
- うまくいくかどうかわからないこの手の試みをあげるより、もっと、なぜ(現状では、有効な真偽の決定手順など無いのに)「それでも真偽はあるはずだと期待するのか?」という話をした方がよいような気もする。
- 人がふだん行なっている解釈(解釈という言葉もあまり好きではないので別の言い方をすれば理解)は、おもしろさではなく、真偽を問題にしているように思える。「この文書で太郎はpと主張している」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろい」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは真である」と言っているように見えるし、その否定、「この文書で太郎はpと主張していない」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろくない」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは偽である」と言っているように見える。
- そして、それらの言明と、それらの言明に対する判定が、まったく何の合理性も持たない行きあたりばったりの判定を行なっているようには見えない、というあたりがポイントか。
- あと「解釈のおもしろさ」が問題になることがあるのはわかるのだが、それってかなり限定された特殊な文脈であって、常にそうではないよねと思っているかな。
あしたの検討会のためのレジメです。
- 検討会で人に見せたら変更したくなると思うけど取りあえずアップしておきます。
- 書き方がえらそうでごめんなさい。
■ 本書の目的
「フィクションの概念分析」
■ フィクションの概念分析とは何か
「フィクション」という概念に関する諸原理を明らかにする。
ただし、
「フィクション」は多義的である。
たとえばフィクションには以下のような相異なる意味がある。
- (1)虚偽
- (2)実在と対応しないもの
- (3)文学作品
本書は、
(3)の意味を基本としつつ、
- より包括的で
- より見通しのよい
フィクション概念を提案する。
より包括的であるとはどういうことか?
- 絵画、彫刻、演劇、映画などの非言語的作品も包括する。
より見通しのよいとはどういうことか?
- 問題領域についてよりよい理解が得られる
- 一貫したシンプルな原理によってフィクション概念の本質を捉える
- フィクションにかかわる諸事象を説明できる
■ 評価の観点
「より見通しのよい展望」(P17)について、本書にはあまり説明がない。
しかし、アドホックで非一貫的な概念の拡張は、明らかに理解を阻むものである。
また「見通しのよい」というからには、フィクションにかかわる事象をうまく説明できなければならない。
従って、
- 一貫したシンプルな原理に従う概念を提示しているかどうか
- フィクションにかかわる事象をうまく説明できるかどうか
が本書に対する評価の観点になる。
フィクションにかかわる事象をうまく説明するとはどういうことか?
「線引き問題」(ある対象をフィクションに含めるかどうか)については以下のような対応が求められるはずである。
- 「非フィクション」とされてきた対象を新たにフィクションに含める場合は、
- 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
- より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれること
を論じるべきである。
- 「フィクション」とされてきた対象を非フィクションとする場合は、
- 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
- より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれないこと
を論じるべきである。
それ以外の問題(作者の問題、フィクションの特徴はあるか...etc.)については、以下のような対応が求められるはずである。
- シンプルな原理によって明確な説明を与えること
- なるべく非直観的な結論に陥らないこと
■ 本書の結論
本書の議論は、以下のように要約される。
- 文学的フィクションの基本的な特徴は「作者と語り手の分離」である。
- 「作者と語り手の分離」はごっこ遊びの理論によって説明できる。
- 非言語的フィクションはごっこ遊びの理論によって説明できる。
- 従ってごっこ遊びの理論に基づくフィクション概念こそが、より見通しがよくより包括的なフィクション概念である。
従って、議論の検討のためには、清塚の「ごっこ遊びの理論」が上にあげた要請に従っているかをチェックすればよい。
■ 1章 フィクションの統語論
■ 本書の結論
- フィクションを定義づけるような一連の統語論的特徴(虚構記号)はある。
- それらの統語論的特徴は、必要十分条件群を構成する。
- それらの統語論的特徴は、「作者と語り手の分離」の表れである。
- しかし統語論的考察のみによってフィクション概念を明らかにすることはできない。
統語論的特徴としてあげられているもの
- (a)過去を表現しない過去形
- (b)体験話法 / 自由間接話法
- (c)作者と語り手の名前の不一致
従って、本書によれば、
(xがaをもつ) OR (xがbをもつ) OR (xがcをもつ) <==> xはフィクションである。
以下のような事例がこれに対する反例となる
十分性に対する反例:
a, b, c のいずれかを持つが、フィクションでないもの
必要性に対する反例:
a, b, c をいずれも持たないが、フィクションであるもの
■ 慣習的特徴と統語論的特徴
慣習的特徴とは?
必ずしも必要ではないが、それを持つことによっていかなる行為をしているか理解しやすくなるもの。
- おじぎの際に、帽子を脱ぐこと
- 警察官が職務の際に制服を着用すること
- 「わたしは約束する」
帽子を脱がなくてもおじぎできるし、制服を着用しなくても警察官の職務を遂行できるし、「わたしは約束する」という文を使わなくても約束できるが、それらがあることによって「何をしているか」を容易に理解させられる。
統語論的特徴とは?
本書が何を統語論的特徴と呼んでいるのかわかりにくいが、一般に統語論的特徴を問題にできるのは、反事実的条件法が過去形によって表現されるケースなど、意味論的構造と統語の構造が密接に結びついたケースであると想像される。
これは、「なくてもよい」という性格のものではないだろう。
たとえば「約束」には慣習的特徴はあっても、統語論的特徴は存在しないように思われる。
疑問
フィクションの統語論的特徴はあるのか? 清塚があげている虚構記号は慣習的特徴ではないか?
■ a: 過去を表現しない過去形について
「明日は...だった」という文はフィクション以外にも登場する。たとえば、フィクションではない過去の思い出話をするときにも、この表現を用いることはある。
ex. 「2年前の今日、僕は修論の準備をしていた。まだ半分しか書けておらず、とてもあせっていた。何しろ明日が修論の締め切りだったのだから」
以上のような語りの「僕」は文字通り話者を意味しており、語り手と話者の分離は生じていないように見える。
「(フィクションを含め、語りの臨場感を表現したい場合に)臨場感を増すために、『その日』や『次の日』ではなく『今日』や『明日』などの表現を使う」という方が自然な説明ではないだろうか。
■ b: 体験話法 / 自由間接話法について
他人の内面についての詳細な記述や、誰もいない場所からの記述など、「語りえない文」について。
われわれはふつう、自分が考えていることや考えていたことについてならば権威をもって断定的に語りうるが、他人が考えていることや考えていた事柄については、間接的な証拠にもとづいてしか語ることができない。p28
「語ることができない」というのはどういう意味か。「慎重な人ならばそのような断定は避けるべきだ」という倫理的な主張や「避けることが多い」という頻度の主張なら理解できるが、われわれにはそのような語りを行なう言語的能力がないという意味なら、明白に間違っていると思われる。
「間接的な証拠にもとづいてしか語ることができないp28」「推測的にしか語れないp29」というのはどういう意味か? 見間違いの可能性などを考えれば、われわれの語りの内のほぼすべてがそうである。しかし疑いを持つ十分な理由がない場合には、可謬的な主張を断定的に語ることはおかしくない。フィクションの場合に、他人の内面に関する詳細な記述が多いのは事実だろうが、程度の違い、量の違いにすぎないように思われる。
たとえば、
わたしの目の前の人物は、蠅がまとわりついてきて不快だと思っている。
この文がフィクション以外の文章に表われたとしても、統語論的な規則に違反しているとは言えない。
さらに言えば、自分の読心能力に自信を持っている人ならば、フィクション以外の場面でも他人の内面についても詳細な記述をくわえようとするだろう。自称読心家は、話者と語り手の分離をすることなく、周囲の人間の内面の詳細について真剣に主張する。
自称読心家は愚かかもしれないが、統語論的規則を犯しているわけではない。
また、「物語の内容に照らせばだれもいないはずの視点から、延々と克明な記述が展開されることになる」ような語り(p30)も「語りえない文」であると言われているが、これも疑わしい。
この議論は、「われわれは直接目で見たものしか報告できない」という奇妙な前提に立っているように思われる。しかし後から密室の状況について報告を受け、特に疑う理由がなければ、密室の状況に関する記述を断定的に行なってもおかしくない。もしそれが「語りえない文」であり、フィクションのなかにしか登場しないのならば、自分が生まれた以前の事柄について述べる歴史家もフィクションを語っていることになってしまう。
通常考えられないほど他人の内面や状況について詳細な記述があるというのは、単に「話を盛り上げるための大げさな語り口」ではないだろうか。
■ c: 作者と語り手の名前の不一致
「作者と語り手の分離」を満たすものがフィクションであるとすれば、フィクション以外に、作者と語り手の名前の不一致が生じるものはないだろう。現実の話者と語り手が同一であるにもかかわらず、名前が異なるというのはまるで意味がわからないからである。
しかし「名前」はそもそも統語論的特徴なのだろうか。
仮にそれが統語論的特徴なら、問題にすべきなのは、単なる記号の列としての「名前」であり、指示された人物ではない。
つまり、作者と語り手が同性同名であった場合には、両者の名前は同じなのだから、この虚構記号は存在しないことになる。
p34周辺には「作品は解釈されたテキストである」という主張がでてくるが、仮にこの主張が正しいとしても、「解釈」や「文脈」は意味論や語用論に属するものであって、統語論的特徴ではない。
ただし、この要素を、フィクションの十分条件と見なすことについては異論はない。
■ ノンフィクションはフィクションか
ノンフィクションにも虚構記号は表われるという主張に対し、清塚は以下のように反論している。
キャロルがこの種の事例の具体例として想定しているいわゆる「ノンフィクション小説」は、本章で見てきた一連の虚構記号をふんだんに用いている。つまり、そこには過去を表さない過去形や、自由間接話法や、作者と語り手の名前の相違といった特徴がごく普通に登場する。そのかぎりで、これらの作品は、現実の作者その人によるストレートな事実報告とはみなしがたい非現実の語りによって構成されていると考えざるをえない。p45
この中で、唯一「名前の相違」だけは、フィクションであることの十分条件になっていると思われる。しかし作者と語り手の名前が異なるノンフィクションというのは想像しがたいのだが、どういう作品を想定しているのだろう。
一方「過去を表わさない過去形」や「自由間接話法」については、それらが「語られえない」という議論の方が疑わしい。
しかもノンフィクション小説に書かれていることは、通常直接の著者の語りと見なされているし、作者と語り手の分離は生じないのではないだろうか。
たとえば、トルーマン・カポーティの『詩神の声聞こゆ』に登場する「私」は普通カポーティ自身と見なされている。
外交官の訓示を聞きに行くのに、私はミセス・アイラ・ガーシュインと、元ボクサーでいま歌手のジェリー・ローズという角刈りの筋骨たくましい男と、一台のタクシーに同乗した。
三島の『仮面の告白』などとは違い、この「私」を著者自身と解することにためらいは無い。
「私」が登場しないタイプの三人称的ノンフィクションの場合でも、地の文は著者の意見と見なされるのが普通だろう。知りえないと思われる状況について詳細な記述があったとしても「著者自身が大げさな記述を行なっている」と見なされるだけではないだろうか。不正確な記述について著者自身に問いただすことがあってもおかしくはない。問いただすことに対して「野暮である」とか「何を大袈裟な」という反応は返ってくるかもしれないが、フィクションの語り手の責任を著者に問いただすようなカテゴリーミステイクは生じていない。
またわれわれが不用意な断定を「大めに見る」ことが多いとしても、それはわれわれが日常そこまで正確さを要求しないというだけのことにすぎない。フィクション概念とは何の関係も無いように思われる。
[補足と疑問]
清塚の言う「作者と語り手の分離」を狭く解釈した場合、清塚のあげている虚構記号は(論理和としても)まったく必要十分条件になっていないように思える。清塚のあげている要素の内、「過去形」と「体験話法」は単に語りを盛り上げるための技法であって、フィクションの場合以外にも表われるように思える。
ひょっとして著者は、「物語的語り口」それ自体を広い意味での「語り手と作者の分離」と見なしており、「物語的語り口全般」をフィクションと見なしているのだろうか?
しかし歴史書や日記はフィクションに含めないと書いてある(p4)。
おそらく、この点は「作品をおしなべてフィクションとして扱う」というウォルトン流の方針と一貫しているのだろう。ゆえに、後半にまとめて検討した方がいいように思われる。
■ 2章: フィクションの意味論
■ 存在に関する立場
- (A)xがフィクションである <=> xは指示しない名前しか含まない
- (B)xがフィクションである <=> xは指示しない名前も含む
- (C)フィクションであるかどうかと指示しない名前を含むかどうかは独立
本書の立場は(C)である。
(C)に関する清塚の議論
C-1: 非現実の対象を指示しても虚構的な発言とはかぎらない。
(虚構に関する発言と虚構的な発言の違い)。
C-2: 非存在を指示するわけではない虚構的な発言もある。
a) 実在の登場人物だけが登場する小説。
b) 非存在の出来事が一つもない小説。
著者によれば、ノンフィクションもフィクションなので、存在するもの・出来事しか指示しないフィクションもあるらしいが、この議論自体がかなり疑わしく思える。
ただし、ノンフィクションもフィクションであるという見解に対する議論はすでに扱ったのでここでは置いておく
■ 真偽に関する立場
虚偽説(虚構的言明は虚偽である)の否定。
省略
■ 3章
省略
■ 4章 フィクションの言語行為論
本章では虚構的言説を言語行為(発語内行為)として分析する立場が検討される。
著者はこれらの分析に対して否定的な立場を取っている。
著者は言語行為論的なフィクション論を寄生説と独自説の二つに分けているが、独自説を否定する議論だけで、議論はつきていると思われるので、その議論のみを扱う。
カリーやラマルクなどの論者によれば、虚構的言説は独自の発語内行為であり、以下のような意図を持って発話される。
- (1)受け手が、文面どおりの発語内行為が行われている、とごっこ遊び的に想像すること、
- (2)受け手がUの意図(1)を認識すること、
- (3)受け手がUの意図(1)を認識し、そのことにもとづいて、意図(1)のとおりのごっこ遊び的想像を行うこと
著者の反論
- 意図による分析ではフィクションを扱いづらい。
- なぜなら、多くのフィクションには間接的な形で受け手に情報を伝達しようという意図が伴っているからである。
著者は、カリーやラマルクと自身の対立点は、ノンフィクション(間接的情報伝達意図が伴うもの)をフィクションに含めるかどうかだと弁明するが、これはよくわからない(そもそも意図による区別は、後での議論でも否定しているのではないか)。
- まず、フィクションだろうと間接的な形で情報伝達意図を伴うことがある(経済小説のような場合)。
- しかし「間接的」「直接的」という区別ができているのであれば、それを明確にしていけばよいだけである。
たとえば、「間接的」な意図によって実現される情報伝達は、発語内行為というよりは発語媒介行為のように思われる。よって、虚構的言明は、上記の意図をもってなされる発語内行為であるが、それが発語媒介行為の意図をも伴うことがあると言えばよい。
■ 第5章 ごっこ遊びの理論
ウォルトンのごっこ遊びの理論に依拠する清塚によれば、フィクション作品は想像によって構成されるごっこ遊びmake-believeのゲームである。
想像とごっこ遊びについて簡単にまとめると、
- 想像は命題的な内容を持つことがある。
- 想像はその対象を持つことがある。 ex. 切り株を熊にみたてる。
- ごっこ遊びのゲームとは、与えられた小道具propを対象として、特定の想像に興じるゲームである。
- その際、ごっこ遊びのゲームにおいては、背景的規則(生成原理)が対象と想像を結びつける。
- また、ごっこ遊びのゲームにおいては、小道具が指定する公式の機能による公認の想像と非公認の想像がある。
- フィクション作品はごっこ遊びの小道具である。
■ 想像が命題的な内容を持つとはどういうことか?
命題的な想像とは、「想像する」という語が完結した文の形を目的語に持つ場合に言及されているような想像のことである。
ex. 「太郎は熊がダンスすることを想像する」
ここで想像は、命題的態度と呼ばれるもののバリエーションとなっている。
この命題的想像の概念がウォルトンの議論のひとつのポイントになっている。
この際、「想像」はなぜ命題的内容を持つと言われるのか?
清塚はあまり踏み込んでないが、何かが「命題的」であるということは、それほど自明ではないだろう。
以下、レジメ作成者がポイントだと思う点をあげておく。
【真偽】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は真偽を持つ。
「太郎は熊がダンスすることを想像する」のような場合でも、太郎の想像は真であったり偽であったりするように思われる。ゆえに想像は真偽を持つ。このことは、「命題的な内容を持つ」と言われることの一つの理由になるだろう。
【帰結】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は論理的帰結を持つ。
ex. 「熊がダンスをする」 -> 「何かがダンスをする」
一般に、q が p の論理的帰結であるとき、以下の p', q'についても q'はp'の論理的帰結であるように思われる。ゆえに想像は帰結を持つし、論理的帰結について閉じていると考えられる。これもまた想像が命題的な内容を持つと言われる理由になるだろう。
p': 「x が p を想像する」
q': 「x が q を想像する」
たとえば、太郎が熊がダンスをすることを想像しているとき、太郎は何かがダンスをすることを想像している。
後者の想像は太郎によって意識されてはいないかもしれない。しかし何かがダンスをすることを想像せずに、熊がダンスすることを想像することは不可能であるように思われる。
■ 評価
命題的想像という概念を持ち出すことによって何が可能になっているか?
=>「作品世界」やフィクションの「内容」という困難な概念に、より詳細な規定を与えられる
=> 視覚的なフィクションについても内容を扱える
なお、「世界」も「内容」も「命題」と相性のよい概念である。
フィクションと呼ばれる作品は、一般に、「ストーリー」や「作品世界」と呼ばれるような一連の内容を持っているように思われる。
想像の命題的な内容に注目することによって、これを簡単に規定できる。
つまり、
鑑賞者が想像する内容の内で、作品が指定した「公認の想像」の命題的内容こそが、作品の内容である。
と言えばよい。
それ以外の方法で同じことを規定するのは難しい。
たとえば、「作者が意図した内容」に注目する場合、作品の内容を規定する叙述と、より間接的な意図の違いを規定するのが難しくなる。
テキストに注目した場合は、「文」と「内容」の関係を扱うのが困難であるし、作品世界についての単純な叙述と、それ以外の主張や命令や疑問などの違いを区別するのが難しい。
また視覚的作品を同じ方法で扱うことはほぼ不可能だろう。
逆に、この議論の中で、理論的負荷がかかっているのは、「公認の想像」と「非公認の想像」を分ける部分だと思われる。清塚やウォルトンは慣習を持ち出すことで説明を済ませているが、その詳細はあまり明らかにされていない。
■ 6章: 視覚的なフィクションをめぐって
■ フィクション/ノンフィクションの連続性を巡る議論
清塚は、フィクションとノンフィクションの連続性について以下のように主張する
- 清塚の依拠するフィクション概念は、ごっこ遊びの理論によって明確な規定を与えられている。
- ただしそこにフィクションとノンフィクションの区別は存在せず、作品のかなりの部分がフィクションとして説明される。
- 一方、フィクションとノンフィクションを区別すべきだという論者は、区別のための明確な説明を欠いている。
- 一貫した説明を与えようとすれば、フィクションを清塚のように扱うべきである。
しかし、フィクション / ノンフィクションの区別については、もう少し追求できると思うので、この区別を擁護する議論のバリエーションを2つ提出する。
■ 意図による議論
まず「信じつつ想像する」ことと「真偽に頓着せずに想像する」ことを区別しよう。
真偽に頓着せずに想像するとは、想像の真偽を気にせずに想像することである。
信じつつ想像するとは、「50年前、この場所は草原だったんだ」と言われて想像する場合のように、信じている命題を想像することである。歴史史料館にあるような人形による再現風景のような小道具は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームを構成する。
さて、ある作品がノンフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「信じつつ想像すること」だけを求める場合である。一方ある作品がフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「真偽に頓着せずに想像すること」を求める場合もあるときである。
■ 作品の機能による議論
ウォルトンや清塚も、作品によって促される想像のなかには、作品の機能によって規定された「公認の想像」と「非公認の想像」があることを認めている。
作品がある想像を公認し、ある想像を公認しないというというケースを認めるなら、作品が「信じつつ想像する」ことを公認し、「真偽に頓着せずに想像する」ことを公認しないというケースもあってよいように思われる。ノンフィクションと呼ばれるような作品は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームをその機能とする。
ある作品がノンフィクションであるとは、作品によって規定された「公認の想像」が「信じつつ想像する」ことだけであるときである。
■ 7章
省略
■ 本書への評価
感想的にちらほらと。
いくつかの議論は、受け入れがたい。特に「ノンフィクションもフィクションである」というあたりは何を言っているのかわからない。
しかし「語り手と作者の分離」という規定とごっこ遊びの理論を結びつけるあたりはうまく機能していると思った。統語論的特徴や意味論的特徴にこだわるのはやめて、「語り手と作者の分離」について、ごっこ遊びの理論との関係を直接詳細に論じておくべきではなかったのか?
ウォルトンの議論を全面的に受け入れるのはやめて、真偽とフィクションの関係についてもう少し踏み込むこともできたのではないか?という部分が残念。
形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)
Riddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics
論争ばかりしているのもどうかと思ったので本の紹介でも(いや、論争は論争でたのしいし有益ですよ)。
ついに、日本語で(比較的)平易に読める「(分析哲学的)形而上学の入門書」がでました。すばらしい!
売れてほしいので紹介しておきます。
これはこの分野に関心があれば(なくても関心のあるトピックがあれば)、必読ではないですかね。
以下のようなトピックについて、主流の説いくつかとそれを批判する論点が紹介されています。
日本語の最近の入門書などは、どの分野でも文献紹介がきちんとしてないものも多く非常に遺憾ですが、この本は文献紹介も各章ごとについています。興味のあるトピックがあれば、その章だけ読むこともできますし、各問題への入り口としても適切ではないでしょうか。
目次
- 第1章 人の同一性
- 第2章 宿命論
- 第3章 時間
- 第4章 神
- 第5章 何かがあるのはどうしてか
- 第6章 自由意志と決定論
- 第7章 物体の構成
- 第8章 普遍者
- 第9章 必然性・可能性
- 第10章 形而上学とは何か
まず、サイダーの担当した章はどれも啓発的で大変素晴しかったです。
「人の同一性」にしても「時間」にしても「自由意志と決定論」にしても、必ずひとつふたつくらいはよく知らない論点や目のさめる指摘があり、「おおーなるほどー」と思わされました。どのトピックについてもぐっと引き込まれるような書き方をしてくれているので、興味を持つきっかけとしても良いです。
コニーの章はやや癖があって、わかりにくい部分も見られましたが*、個人的にはなじみのない議論を紹介してくれており興味深かったです。特に神学的議論は知識が欠けているところなので、勉強になりました。
しょうもない話ですが、「神が存在するのでー」とかはじまると、わたしは「もうダメだ! 論理的な話が通じない!」と思考停止しがちなのですが、「神の存在」からはじまる議論に対しても、「いや、神が存在するとしても、これこれこういう理由で、必然性の定義には役立たない」みたいなロジカルな反論を提出するところはさすがアメリカの哲学者だなというところです。
* 特に、「これ日本語で書いてあるけど、きっとこういう論理式を想定しているのかなー」などといちいち想像しなければならないのが大変でした(二章など)。本の制約上式を入れたくないのはわかるのですが、ぎこちなく感じてしまう部分が多かったです。その点サイダーの「時間」の章などは、図の使い方がたくみでした。
以下、いくつかの章で扱われる問題と、(誰も知りたくないでしょうが)わたしの個人的な意見について触れます。
- 第1章 人の同一性
文字通り、「人の同一性は何によって決まるのか」という問題です。
主として「魂説」と「時空的連続性説」「心理的連続性説」が検討されます。
そしてすべてを破壊する「分裂」の議論。大抵どんな基準をとっても、個人が二人に分裂するケースを考えることができてしまい、やっかいなことになります。
一番SF的な魅力のある章かもしれません。
個人的には、「人間の同一性は身体のみによって決まる」という説に若干魅力を感じるのですが、説得力があると思うのは「脳」と「心理」。分裂の議論に対しては、「人の同一性は数的同一性ではない」と答えるしかないのかな......という方に傾いています。これについては、パーフィットの説に従うと、倫理の方も大変なことになる...というのがもっと紹介されていると、うっかりパーフィットに賛成しがたくなって、緊張感が増すと思います。
- 第3章 時間
「時間と空間は同じようなものであり、時間は空間と同じように広がっているのか? それとも空間と違って動いているのか?」という問題が議論されます。
時間と空間の対称性を丁寧に議論していて、たのしいです。
わたしは、「時間と空間は同じように広がっている」(B理論とか永遠主義・時点主義と呼ばれる立場)の方を支持します。
- 第4章 神
「神は存在するか」を扱った章。神の存在に関する論証がいろいろ扱われます。
「第一原因による論証」「デザインに訴える論証」「存在論的論証」など、有名な議論がたくさんでてきます。
個人的には、「アンセルムスの存在論的論証」が好きです。
去年でしたか翻訳がでた『麗しのオルタンス』という小説に、このパロディの「理想の男性が存在することの証明」が出てくるのですが、これもすばらしかったですね。
「もしわたしの理想の男性が存在しないとすれば、彼は他の男より劣ることになってしまう。しかしわたしの理想の男性は他のどんな男性よりも素晴しいのだから、彼はきっと存在しているはず!」という感じ。
この議論のどこに問題があるかは中で紹介されています(ここはもう少し丁寧に論じてほしい気もしましたが)。
個人的には、受け入れている神の存在証明は特に無いですし、神の存在は信じていません。
- 第6章 自由意志と決定論
「すべての出来事が物理的に決定されているとすれば、われわれには自由など無いと思われる。しかしわれわれは自分のことも他人のことも自由意志を持って行動しているかのように扱っている。なぜか?」という問題です。
古典的だけど、全然解決らしい解決の無いやっかいな問題です。
「人間はほんとは自由じゃない!(強い(ハードな)決定論)」
「人間は物理に支配されてなくてすごい自由(自由意志論)」
「その二つは両立する(弱い(ソフトな)決定論)」
などの立場が紹介されます。量子力学の非決定性を持ちだしてもダメだというのをきちんと論じているのは好感度高いです。
個人的には、両立説とソフトな決定論以外の道は無いと思っています(が、この道も大変ですね)。
- 第7章 物体の構成
「物とその素材の関係」を問うた章。
たとえば、粘土でできた塑像について、「塑像と粘土の固まりは別のものなのか、同じものなのか?」という問題です。
この問題は、「身近なところに、きわめてやっかいな哲学的問題がある」というのの好例で、わたしは大好きです。
個人的には「粘土と塑像の固まりは別々に存在する」という解答は避けたいと思っており、「粘土と塑像の固まりは同じであるか部分を共有する」という方向に持っていきたいです。この論文の中で言えば四次元主義による解答を取りたいですね。
- 第9章 必然性・可能性
「世界には「可能なものごと」「必然的なものごと」というものがあるように思われる。では、これはいったい何なのか?」という問題です。
本論文では、「自然法則」について、「規則性説」と「普遍者による必然化説」が論じられ、
「絶対的必然性」について、「可能世界説(様相実在論)」と「規約説」が論じられます。
ちなみに「可能世界説」というのは、「平行世界(みたいなもの)がたくさんあるのでそれによって可能性や必然性が決まる」というヤバい説です。デイヴィド・ルイスという天才が一人で提唱し、ほとんど誰も信じてないのに、いまだに決定的な反論が無いという大変な説です。わたしも反論が思いつかないので、体調が悪いときなど、ときどき信じそうになって我に返るということを繰り返しています。
なお、本書では紹介されていないですが、「様相次元主義」という「可能性・必然性は第五の次元である」というこれまたすごい説もあるそうです。
個人的には、どの立場も全然取りたくないので、困っています。
新年になってしまいましたが、お返事を書きます。
これまでのやつ。
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-294.html
ひとまず前エントリのコメント欄から議論の整理と反論をはじめます。
こみやさんの発言
そうではなく、私の主張は
c)意図への言及による行為の説明の説明力は、因果説明の説明力に依存していない(むしろ、記述どうしの意味連関に依存する)
というものなのです。
思うに、この主張には弱いバージョンと強いバージョンがあり、こみやさん自身は「弱いバージョン」を採用しつつも両者の間でゆれているように見えます。
わたしは弱いバージョンには同意できますが、強いバージョンには同意できません。
弱いバージョン。
意図に言及することが行為の説明になるのは、しばしば意図を明示することで、言葉の意味によって行為を説明することができるからである。
たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」は、「妻の食事に薬を入れる」という男の行為を特定の意図と結びつけることで、「妻を殺そうと意図している」という言葉の意味によって、行為を説明している。
強いバージョン。
(副詞へのパラフレーズはひょっとすると強すぎるかもしれないですが、主張の勘所をわかりやすくするために付け加えました)。
意図というものは、言葉の意味によって行為を説明する。そして意図というのはそれだけのものなのである。意図に言及するのは為された行為を補足的に説明するために、特殊な言葉使いをするだけのことであり、「意図」という概念によって指示されている対象などそもそも存在しないのである。
たとえば、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」というのは、正確に言えば、
「男は、<妻を殺そうと意図している的な仕方で>、妻の食事に薬を入れる」という意味であり、意図に対する言及は行為を副詞的に修飾するだけの表現なのである。
これは、「行為・理由・原因」でデイヴィドソンがとっている「意図は共範疇語である」というのと同じような立場です。
もしこの強いバージョンの方を取るなら、「行為に結びつかない意図」の存在は依然として謎のままに留まります。
意図が行為の説明のためだけの概念だとすれば、行為なき意図のような言明が何を述べているのかわからないからです。
こみやさんは強いバージョンの主張を明示的には採っておられないようですので、以下ターゲットを弱いバージョンにしぼります。
以下弱いバージョンについて。
もしこみやさんの主張が、「行為の説明には因果的でないものもある」というものであれば、わたしには特に異論はありません。
前回書いたように、たとえば「男は芝居の練習をしているので、刀を振る」は、「刀を振る」という行為の種類を説明しているだけですし、その説明を「言葉の意味によって説明している」と言うこともできるかもしれません。
しかし、おそらくこみやさんのターゲットは、「行為・理由・原因」などにおけるデイヴィドソンの「理由と行為の結びつきは因果的なものである」というものですよね。
しかし「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という主張を否定するには、「行為の説明には因果的でないものもある」だけでは弱すぎるのではないでしょうか。
というより、「因果的であるかどうか」と「説明力が何に由来するか」というのは、別の水準に属する事柄ではないかと思います。
デイヴィドソンも論じている通り、「理由を述べることによって行為を説明するとき、われわれはその行為を再記述している」という見解と、「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解は特に矛盾しません。
そして懸念されるような矛盾が無いなら、もっとずっと弱い理由であっても「理由と行為の結びつきは因果的なものである」という見解を採用する理由になります(それこそ「直観」でもよいわけです)。
しかしこういう点に関して言えば、もう少しデイヴィドソンの論文に即して論じた方がよいかもしれません。
■ 自分の見解の説明
以下こみやさんの質問に答えます。
こみやさんの発言
しかしながら、トークン同一説が
・行為者の状態は、物理状態のトークンとして記述を与えることができる
ということを意味するにすぎないのなら、これはある意味ではあたりまえにすぎる主張です。何であれ、私たちが生活しているときには、脳はいつも何らかの状態にあるのですから。
一応、その「あたりまえ」の主張をしたつもりです。
ただし、わたしは「脳」に限定してよいものかどうかは少し迷っていて、「体」と言いたいです。
こみやさんの発言
トークン同一説にもとづいて因果説を主張するのであれば、物理状態のトークンとして同定される行為者の状態が、行為の「原因である」ということの意味を積極的に明らかにする責任が立論者に生じるように私には思われます。それは「特定の脳の状態のタイプが行為を引き起こす」という主張よりも、はるかにわかりにくい主張です(物理状態のタイプとしてはバラバラであるような「行為者の状態」は、いったいどのように、他ならぬその「行為者の状態」として因果的効力を発揮することができるのでしょうか)。
因果関係というのは基本的には個別的な出来事同士の関係であると思います。
もちろん「水素の燃焼が水の生成を引こ起こす」のようなタイプ同士の因果関係もありますが、これはどちらかと言えば「法則」とでも言うべきものでしょう(あるいは、「しばしばXがYを引き起こす」のような統計的事実)。
「窓に石が当ったことが、窓が壊れることを引き起こした」のような言明は基本的には、個別的な石の衝突と個別的な窓の破損について述べています。そして石の衝突はいつも窓の破損を引き起こすわけではありません(ゆっくりぶつかれば壊れません)。
「北京の蝶のはばたきがメキシコでハリケーンを引こ起こした」のように、到底タイプ同士の関係があるとは思えないような言明だってあります。
もっと言えば「それ」とか「あれ」という表現によって指示されるものであっても、因果的な効力を持つことは当然あるわけです。
「それが引き起こした」と言うことはできますし、それほど珍しくもありません。
ですから、指示対象を固定するためにどんな表現が用いられるかということはそれ自体としては重要ではないと思います。
因果的な効力を持つために重要なのはむしろ「何が指示されているか」です。
この辺少し深くつっこむと「決定論と自由意志の問題」というやっかいな問題に突入しそうで怖いですが。
■ 補足
論点としては脇道ですが、ちょっと気になった点。
こみやさんの発言
・意図の帰属とは、「思い」の帰属ではなく、意図と行為の意味連関に関する知識の帰属である
知識があまりに欠如している場合は、意図の帰属が取り消されるという論点自体は賛成なのですが、「なすべきことを知っていること」が意図を持つことだという風に定義してしまうと、「学校へ行くべきだと知っているけど(学校へ行く方法も知っているけど)、学校へ行くつもりはない」みたいな場合はどうするんですかね?
この定義だと、この人はこの場合にも学校へ行く意図を持っていることになってしまうのではないでしょうか。
あともう1つ。
こみやさんの発言
私の考えでは、「会社を辞めよう」と自分が意図していることについて本人が「知っている」というときのその知識は、自分の心や脳が(タイプ同一的にであれトークン同一的にであれ)いかなる状態にあるかについての経験的知識ではありません。自分の脳の状態を見て「私は初めて自分が○○しようとしていたと知った」「私は○○しようと思っていたが脳を見る限り私は間違っていたようだ」などと言うのは奇妙なことです。
以下がこみやさんの立場に抵触するかどうかわかりませんが、念のために確認しておきます。
まず「意図についての知識がいかにして得られるか」と「意図とは何か」は別問題であると思います。
こみやさんの意見は、アンスコムなどの言う「観察を媒介にしない知識」についての議論を参照しておられるのではないかと思いますが、「観察を媒介にしない知識」には、「わたしの右腕がどこにあるか」のような種類の知識も含まれていることを忘れないでください。
- 「わたしの右腕がどこにあるか」が通常、観察を媒介にせずに知られること
- わざわざ自分の右腕を見てから、「わたしの右腕は上がっていた」と言うことが奇妙であること
などから、
「わたしの右腕について、経験的な知ることはできない」であるとか、ましてや「わたしの右腕は物理的には存在しない」
などという推論をすることはできません。
知識の種類や知識がどうやって得られるかを問うことは重要だと思いますが、「Xの知識」がどんなものであるかと「Xが何であるか」は基本的に無関係であると思います。
少し間が空きましたが、こみやさんへの返事をまとめます。前のエントリーのコメント欄は長くなりすぎたのでこちらで。
http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html
以下構成としては、(1)補足的な論点、(2)両者の立場の定式化、(3)わたしの立場を擁護する議論という順に進めます。
■ 「行為・理由・原因」
こみやさんの念頭にあったのはもともとデイヴィドソンの「行為・理由・原因」という論文の議論だったと思うのですが、わたしはずいぶん前に読んだまま内容を忘れていたので改めて読み返しました(翻訳ですが)。
もちろんデイヴィドソン解釈について議論していたわけではないのですが、こみやさんはこちらの議論を頭に置いていたと思うので、わたしがこちらを参照しないことで無駄に論点が複雑になってしまったきらいもあるかと思われます。ですからまずこちらについて触れておきます。
確かにデイヴィドソンは「傾向性は原因ではない」と書いています。また、「意図は原因ではない」と書いてます。
この内、後者については、デイヴィドソンは「行為・理由・原因」における「意図は共範疇語であり、それ自体としては意味を持たない」という見解を後に取り下げています。しばらく後に「意図することは賛成的態度の一種である」という見解を取ったようですので、取り下げた見解を直接扱う必要はないと思われます(邦訳第四章、原著第5論文)*。
* ここはわたしがデイヴィドソンの議論を参照しなかったので進め方をまちがえた部分です。デイヴィドソンの議論に即して論じるなら最初から「賛成的態度(-したいこと)」が原因になりえるかどうかという論じ方をした方がシンプルでした。デイヴィドソンが「理由は原因である」という論じ方をするときに念頭に置いているのは意図ではなく賛成的態度ですから。
前者については、実はちょっと迷っています。
こみやさんの言う通り、
「そのグラスは脆かったので割れた」
は因果説明として不十分に感じるというのは、直観的な感覚としては理解できます。
しかしその「不十分」が傾向性に由来するものだとはあまり思っておらず、
「壁が黄色いので目がチカチカする」
の方は、不十分とは感じません。
この「違い」をうまく言い表わせればいいのですが、これ自体「脇道」の議論なので、これ以上は深めないことにします。
これまでの議論については、納得がいく部分も納得がいかない部分もいろいろあるのですが、今や立場の違いがわりとはっきりしていますので、ひとまず「本筋」の議論に集中したいと思います。
■ 立場の違い
わたしとこみやさんの立場の違いをまとめます。
まず、対象になっているのは、以下のような「意図」を「ので」の前件に持つ文です。
「xがFと意図しているので、xはG」
具体例
「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」
論点は
- (1)これらの文を使って述べられるのは、因果関係の言明であるのか
- (2)これらの文が因果関係の言明であるとして、「ので」の前件「xがFと意図していること」が原因であり、後件「xはGこと」が結果であるのか
わたしはどちらの問いにもイエスと答えますし、こみやさんはノーと答えます。
両者の立場の違いはこれらの言明に対する捉え方の違いに由来します。
わたしは、「xがFと意図していること」に対応する物理状態のタイプが存在しないことを認めます。しかしこの表現は、文脈依存的に、物理的にも記述できるようなxの状態を指示すると考えます。
以下のように定式化してもよいでしょう。
わたしは、
「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」
のような言明は以下のようにパラフレーズできると思っています。
(少なくとも前者は後者を含意すると思っています)。
この文脈で、男は「男は妻を殺そうと意図している」と適切に記述できるような状態にある。この状態が男が妻の食事に薬を入れることを引き起こす。
「男は妻を殺そうと意図している」というのは男の状態について述べる表現だと考えているわけです。
一方、こみやさんはそう考えていません。
私の考えでは、「男は妻を殺そうという意図している」は、いかなる意味でも、男の状態を指示してはいません。むしろ、それは単に、「男は妻を殺そうとしている」の異なった表現(言いかえ)である、と主張します。そして、「妻を殺そうとしている」は、男の状態の指示ではなく、「毎日妻の食事に薬を入れる」という男の行為の再記述です。したがって私の考えでは、「男は妻を殺そうとしている」は、男の状態を指示しているのではなく、毎日の男の行為に解釈を与えているのです。
こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図している」と「男は妻の食事に薬を入れる」は、同じ行為を異なった仕方で記述していると考えています。
少しわたしなりに解釈すると、「意図について述べることは、その意図のもとでなされた当の行為がどういう種類の行為であるのかを明示することで、行為について説明しようとしている」という立場だと思われます。
こみやさんのあげている例より、以下のようなものがふさわしいのではないかと考えます*。
男は芝居の練習中なので、刀を振っている。
* こみやさんは「「なんで授業がないのか」と問われて「夏休みだから」」という応答を例にあげていますが、これはあまり適切な例だとは思いません。なぜなら「夏休みだから授業がない」の場合、「夏休みであること」は、「授業がないこと」の十分条件であり、論理的な推論を述べていると解釈できますが、「殺そうと意図すること」は「食事に薬を入れること」の十分条件ではないでしょう(殺そうと意図してても別の殺し方を選ぶことは考えられます)。
この種の言明は因果関係の言明ではなく、男の「刀を振る」という行為が「芝居の練習」という種類の行為であると明示することで行為を説明しています。
こみやさんは、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を入れる」もまた、「妻の食事に薬を入れること」が、「妻を殺そうと意図してする行為」という種類の行為であることを明示することで行為を説明していると言いたいのでしょう。
■ 状態説の擁護
以上で、
- わたしの立場は「xがFと意図することは、xの状態を指示している」、
- こみやさんの立場は「xがFと意図することは、行為の種類を明示している」
と定式化できました。
ここからわたしの立場を擁護する議論をはじめます。
両者の立場をながめると、こみやさんのような立場をとった場合、xがFと意図することは、xがFと意図しながら、それによってFが実現できると考えて実行したような何らかの行為を必要とします。もしも「意図すること」が行為の再記述であり、行為の種類について述べているのだとすれば、行為なき意図というのは意味をなさなくなります。
よってわたしは、この立場に対する反例として、「意図するが行為しない人のケース」を持ち出したいと思います。
たとえば、以下のような人がいてもおかしくないでしょう。
ある人は会社を辞めようと意図しているが、まったくそれを実行に移さないし、誰にも相談したことがない。自分では何度も会社を辞めようとしているが、人に言ったことはないので本人以外は誰もそれを知らない。その内、会社での立場が変わったので、会社を辞めようと意図すること自体を止めてしまった。
この人は、意図していますが、まったく行為していません。意図することが行為の再記述だとすれば、この人について「会社を辞めようと意図していた」と述べることは、この人のどんな行為について述べているのでしょう。
わたしのような立場を取った場合は、このようなケースに直面しても特に困りません。たとえば、その人が何度も心の中で「会社を辞めよう」と思っていたというだけで、その人が「会社を辞めようと意図していた」と適切に記述できる状態にあったと考えることができます。
「誰にも話していないのに、どうしてその意図について知ることができるのか」という反論も成立しません。なぜなら、誰にも話していなくても本人は知っているはずですし、「意図するのを止めたあとで話す」ということはありえるからです。会社を辞めようと意図するのを止めてしまった後で、「実は去年会社を辞めようとしていた」と他人に話すのはおかしなことではないでしょう*。
* 細かくなりますが、そもそも「他人には話さなかった」という部分を変えても類似のケースは成立します。なぜなら仮に他人に相談していたとしても、相談するという行為自体は、「会社を辞めようという意図」を実現するためになされているわけではないからです。こみやさんの説は、「妻を殺そうという意図」は、当の意図を実現するために実行した「男が妻の食事に薬を入れる」という行為の再記述であるというものです。ゆえに意図の実現と関係なく意図を説明したという事実があっても、意図の実現のために何もしていないなら、意図が説明すべき当の行為は空のままです。
以上、簡単ですが、「意図するが行為しない人」の事例を、「xがFと意図すること」はxの状態について述べているという説の根拠としたいと思います。
某所でこみやさんと議論になったのでそれについて書きます。
多くの人にとっては、「こみやさん」との議論も読めませんし、「こみやさん」も知りませんし、意味がわかりにくいでしょうが、主としてこみやさんへの返答を意図しています。
テーマは、「心的なもの(あるいは命題的態度)は原因になりえるか」です。
わたしは「心だって物事の原因になる派」。こみやさんは「心は物事の原因にならない派」です。
正確に言えば、こみやさんの結論は、「行為の説明は因果関係による説明になっていなければ説明として完結していないというデイヴィドソンの主張はおかしい」という部分にあるようです。
これについては、わたしはまだ主張の要点がよくわかっておりませんので判断は保留します。
ただ、その結論を述べる過程で、こみやさんは、「心は原因にならない」という立場をとっておられるようです。また「彼は怒ったので急に立ち上がった」のような日常的な文は、「因果関係を述べるものではない」と主張しておられる。
一方、わたしは、「心だって原因になることがある」派であり、
- 「彼は怒ったので急に立ち上がった」
のような文は、
- 「彼が怒ったこと」を原因として
- 「彼が急に立ち上がったこと」が生じた
という因果関係の言明であると見なしています。この点が対立しています。
「彼は怒ったので急に立ち上がった」は因果関係の言明だよ派 ├─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切であるよ派 --> わたし └─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切でないよ派 「彼は怒ったので急に立ち上がった」は因果関係の言明じゃないよ派 ├─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切であるよ派 --> こみやさん └─「彼は怒ったので急に立ち上がった」は適切でないよ派
正確に言えば、「彼は怒ったので急に立ち上がった」は「間違った因果関係の言明である」という立場もありえると思うのですが、こみやさんのとっておられる主張は、「これは因果関係以外の何か別のことを述べている」というものです。
なお、上の図を作成するために「派閥ジェネレーター」を利用しました。
一方わたしはこみやさんが「因果関係の言明であるために必要な条件」としてあげているものは強すぎて、あまりに多くのものが因果関係の言明と見なせなくなってしまうと考えています。これについては後述します。
■ ケース: 殺意のある男
心的なものが原因にならないという主張のために小宮さんが持ち出したケースがあります。
ある男がいて、何かの薬を買ってきて毎日少しずつ妻の食事に混ぜている。男は妻を殺そうと意図しているため、毎日少しずつ薬を妻の食事に混ぜている。
このとき、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」という文は、
- 「男が妻を殺そうと意図していること」を原因とし、
- 「男が妻の食事に薬を混ぜる」を結果とするような、
因果関係の言明なのでしょうか?
わたしはイエスと答えます。
一方こみやさんはノーと答えます。こみやさんがノーと答える理由は、わたしなりに再構成すれば以下のようなものです。
- 男が妻を殺そうと意図していることが脳の物理状態のような、特定の物理状態のタイプに対応するという想定は疑わしい。
- 男が殺そうという意図を持っていた期間が、たとえば1ヶ月であったとしよう。
- この一ヶ月の間、男の脳が特定の物理状態にあったと言えるだろうか。そう考えるためには、寝ている間も、他のことを考えている間も、男の脳内である物理状態のタイプ(殺意スイッチがオンであるというような状態)が実現されていなければならないように思われる。
- なぜなら、われわれが「その男が殺そうという意図を持っていたのはいつからいつまでなのか?」と問われたならば、「その一ヶ月の間ずっと」と答えるであろうから、「殺そうという意図」に対応する物理状態があるなら、それはその一ヶ月間ずっと続いていたのでなければならない。
- しかし、そのようなことはありそうにない。
- ゆえに、「男が妻を殺そうと意図していること」に対応する物理状態は存在しない。
- 対応する物理状態が存在しないのならば、その出来事は原因となることはない*。
- ゆえに、「男が妻を殺そうと意図していること」は原因ではありえない。
- しかし、「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」はこの場合正しい文であるように見える。
- ところが、原因ではありえないものを原因の位置に起く因果関係の言明が正しいはずがない。
- ゆえに「男は妻を殺そうと意図しているので、妻の食事に薬を混ぜる」は因果関係の言明ではない。
さて、以上の論証の過程でこみやさんは次の条件を用いています。
条件C: 「xがFこと」という出来事について、Fに対応する自然な物理状態のタイプが存在しないならば、「xがFこと」は他の出来事の原因となることはできない。
わたしは、この条件は強すぎると考えています。これを認めなければならないとすると、われわれが日常的に因果関係の言明であると考えている多くの言明が、実は因果関係の言明ではなかったことになってしまいます。
■ 反例: 傾向性
条件Cは、ある出来事が原因となるために必要な条件としては強すぎます。
これは、「心」をどう捉えるか以前の問題であり、心以外の様々なものがこの条件によって原因の地位を奪われることになってしまいます。
ひとつの例は、「傾向性」です。
傾向性について詳しくは説明しませんが、「可塑性」「弾性」「赤さ」「脆さ」など、反事実的条件文によって表現されるような性質のことです(「一定の力をくわえれば変形する」「一定の速さで衝突すればはねる」「一定の光のもとで見れば赤く見える」「一定の衝撃を与えればこわれる」...)。
こみやさんが利用した条件Cが正しいなら、傾向性に言及する出来事は、原因であることができません。
- このボールは弾性をもつので、地面に落ちたあと高く跳びあがった。
- 壁が黄色いので目がチカチカする。
- このグラスは脆いので、倒れただけで割れてしまった。
...
どれも通常の因果関係の言明に見えます。
しかし、「このボールが弾性をもつこと」「壁が黄色いこと」などに対応する物理状態のタイプは存在しません。
ゆえに条件Cのもとでは、これらも因果関係の言明ではないことになります。
なぜ「壁が黄色いこと」に対応する物理状態のタイプは存在しないのか?
たとえば、壁がy化鉄という物質を表面に含んでいるために黄色いのだとしてみましょう。
「壁の表面がy化鉄を含む」は「壁が黄色いこと」に対応しません。
なぜなら、壁はy化鉄を含まなくても、(他の適切な物質を含んでいれば)黄色いからです。「男が妻を殺そうと意図する」に対応するケースをつくるなら、「途中で構成物質が完全に入れ替わるが、一ヶ月間ずっと黄色い壁」というものを考えることもできるでしょう。
わたしは一ヶ月間あるオフィスに通い、オフィスの壁が黄色いせいで目がチカチカし、目の痛みに悩まされるのですが、その一ヶ月の途中に工事があって、オフィスの壁はまるまる他の材質に変えられているのです。
「y化鉄を含む」は「壁が黄色いこと」に寄与するかもしれませんが、「y化鉄を含む」と「壁が黄色いこと」はぴったり対応しません。そもそも「黄色い」という性質は、人間のような感覚器官を持った生物がいて、はじめて意味をなす性質です。そのような性質にぴったり対応するような物理状態のタイプというものが考えられるでしょうか?
「対応する物理状態が存在しない」というのは言葉のあやであり、「y化鉄を含む」が「壁が黄色いこと」に寄与するだけで、原因であるための条件としては十分なのだと主張することもできません。
もしそう主張できるなら、「男が妻を殺そうと意図すること」についても同じことが主張できます。
「男が妻を殺そうと意図している」が適切であるためには、様々な事実が必要ですし、多くの物理的な性質もそれに寄与しています。
「男が妻を殺そうと意図している」が適切であるのは、たとえば男が手を動かしサイフからお金を取り出して薬を購入したこと、男はその薬が毒薬であるという文を読んでいたこと、男が自分の手を動かし薬を朝食に混ぜたことなどの事実があった場合です。そこに物理的な性質が一切関与していないなどということがあるでしょうか?
■ わたしの立場
以上で、こみやさんの反論としては十分であると思いますが、わたしの立場についてももう少し説明しておきます。
■ 出来事が原因でありうるためには、どんな条件を満たすべきなのか?
「そんな条件はない」というのがわたしの解答です。
「どんな出来事が原因でありえるのか?」「すべて!」というのがわたしの意見です。
現実に原因ではなかった出来事はありますが、原因であることが不可能な出来事は存在しないと考えます。
たとえば「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」というのは、わたしの祖先に実際に起きた出来事ですが、これが何か他の出来事を引き起こしたとは考えづらいです。
しかし、「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」が、他の出来事の原因であることは可能であったと思います。
わたしの祖先は、何らかの理由で「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」を知り、デイヴィドソンの読者の祖先であることを積極的に引き受けようとするかもしれません。
それによって「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」の内実が変化し、他のさまざな出来事がその一部になる。
「出来事」という概念はそういった事態を許容するくらい柔軟なものであるとわたしは考えます。
■ 「...こと」という語句によって指示されているのは何なのか?
「壁が黄色いこと」
「男が妻を殺そうと意図していること」
「三世代あとの子孫がデイヴィッドソンの読者であること」
などが出来事を指示するとして、ではそれらの語句が指示するものは一体何なのか?出来事ってそもそも何?という疑問に触れます。
これに答えるのはとても難しいことです。
わたしは、これらの「こと」語句によって指示されているものがあると考えますし、それを「出来事」と呼びますが、その正体が何であるかを説明することは困難です。
これを説明するのは、「出来事に関する体系的な理論をつくる」作業になってしまうと思われます。
しかしそれを説明しないと納得感は得られそうにないので、答えることを試みてみます。
ところで、ある語句が何かを指示するというとき、われわれは語句が何を指示しているのかを説明するために言語を用いなければなりません。
わたしは、物理的性質・関係を指示する述語しか持たない架空の物理的言語を想定し、それを用いて記述するとすればこうなるだろうという仮定のもとで説明してみます。
(ややこしいですが、出来事は物理的なものだと言ってるわけではありません。物理的言語によって記述すればこうなるだろうと言ってるだけです)。
- 「xがF」が真である場合
- 物理的言語によって記述される事実の内で、「xがF」という文トークンを真にする諸事実がある。
- 「xがFこと」という語句(トークン)が指示するのは、これらの諸事実の内のxに関するもの、「xがG」という形式のものの集合である。
- 「xがF」が偽である場合
- 「xがFこと」は何も指示しない。
「壁が黄色いこと」の場合、「壁がy化鉄を含む」という事実は(物理的言語がその文を許容するなら)、「壁が黄色いこと」によって指示される事実の一部です。
「男が妻を殺そうと意図していること」の場合、「男がある薬を購入した」「男はその薬が毒薬であると書いてある本を読んだ」という事実は(物理的言語がその文を許容するなら)、「男が妻を殺そうと意図していること」によって指示される事実の一部です。
「xがG」という形式のものだけを選ぶ理由は、出来事の主体と関係ない事実が入ってくると変だからです。
(たとえば、他の条件だけだと、男が妻の食事に混入していた薬を発明した人とか、その薬が毒薬であるという本を書いた人とか、そういう人に関する事実が混ざってしまう可能性がある。しかしそういう事実も指示されるっていうのは変じゃないかと思うわけです)。
なお、「壁が黄色いこと」と「壁がy化鉄を含む」が同じことを言っているとは言っていません。
「壁が黄色いこと」によって指示される事実の一部が「壁がy化鉄を含む」によって指示される事実であると言っています。つまり同じことについて言っていると主張しています。
すっごくわかりにくいと思いますが、「同じことを言っている」のと、「同じことについて言っている」の対比はこの場合重要であると考えています。
正直この返答については、もっと細部を詰める必要があるでしょう。
xが物理的言語に現われない名前だった場合どうするんだとか、「文を真にする諸事実」ってどういうものだとか、そういうことを明確にしなければなりませんが、この記事を書くためにそういう細部が必要だとも思えませんので以上で止めておきます。というかそれをはじめると「出来事に関する体系的な理論をつくる」はめになります。
主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)
上の本を読んで取っていたメモ。
■ ヤマアラシ
日本語の「ヤマアラシ」という語には、「ハリモグラ」や「ハリネズミ」は含まれない。
Wikipediaによれば、
ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリネズミ
さて今、わたしがそのことを知らず、ヤマアラシを前にして、「ハリネズミがいる」とつぶやく。
わたしは「ヤマアラシ」と「ハリネズミ」の区別を知らず、ハリのある哺乳類は皆「ハリネズミ」と呼ばれるのだと思っている。つまりわたしは、この言葉は、「ハリのある哺乳類」というくらいの意味だと思っている。
私は、「ハリネズミがいる」と思っている。
問題は、このとき私の言葉「ハリネズミ」は何を指示するのかということ。
主として二通りの可能性があるだろう。
- (1)赤田の言葉「ハリネズミ」はヤマアラシとハリネズミの両方を指示する。
- (2)赤田の言葉「ハリネズミ」はハリネズミを指示する。
■ (1)の選択肢を取ったケース
(1)の選択肢を取りたくなる理由の1つは、「私がそう意図しているから」というものだろう。
この場合、赤田語の
- 「ハリネズミがいる」
は日本語では、
- 「針のある哺乳類がいる」
という意味であり、真である。
- ?「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
は、日本語の文としては偽であり、赤田語の文としては真である。
■ (2)の選択肢を取ったケース
赤田は日本語を喋ってるんだから、日本語として解釈すべきだろ!という立場。
この場合、赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるように見えるが、それほど問題はない。
ただし以下は偽である(そこにいるのは、ヤマアラシなのだから)。
- F 「ハリネズミがいる」
しかし、以下の主張はどちらも真になる。
- T「赤田は、ハリネズミがいると思っている」
- T「わたしは、ハリネズミがいると思っている」(赤田によって発話された場合)
下が真になるのは、どちらも日本語の文であり、三人称を一人称に変えたくらいで真偽が変化するはずがない、ということから明らかだろう。つまり、この場合でも、「赤田は自分の考えていることを知っている」という前提は崩れない。
赤田の心に、赤田の介入しない要素が入ってくるのは確かかもしれないが、いずれにしても私は自分の心について正確に知っていることになる。
■ 結論
デイヴィドソンの主張は以下のようなものに見える。これは同意できる。
(1)でも(2)でも、そんなに問題はないんだよ。どっちの要素もわれわれの言語の中にはあるんだから、そのどっちかを排除するような議論はそもそもおかしいよ。
■ 他のメモ
信念に対する、デイヴィドソンの立場は、
信念というのは心の状態のことで、発話(or文)によって特定される。
というもののようだ。
「赤田は、ハリネズミがいると思っている」という主張は、「ハリネズミがいる」という文を使って、赤田のある心の状態を特定しているという感じの立場。
これはわりと納得。
■ 心のタイプ同一説
また別のメモ。
タイプ同一説について。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6#.E5.90.8C.E4.B8.80.E8.AA.AC
強い意味でのタイプ同一説を信じる人ってほとんどいないと思うんだ。
ハリネズミがいると思っている人は、誰でも脳が同じような物理的状態になっている。
(「ハリネズミがいる」的脳状態も存在するし、人間が心に抱くようなあらゆる命題タイプについて、それに対応する脳状態が存在する)
みたいな立場ね。
しかし弱い意味でのタイプ同一説ということになると、「心の科学」にかかわるほとんどの人が信じている立場なのではないだろうか。
弱い意味でのタイプ同一説というのは、
- 痛みに対応する脳状態が存在する。
- 記憶の想起に対応する脳状態が存在する。
みたいな発想のこと。
(トークン同一説とは別)。
「ハリネズミがいると思っている」のような主張はフォークセオリーに属するものなので、心の科学者にとってはどうでもよい事柄かもしれない。しかしフォークセオリーから選ばれた・心の科学者にとっても受容可能な・「心の状態の記述」を脳状態と関係づけることは大いにありそうだ。
むしろ心の科学者の仕事は、「心の状態」を被説明項としてとり、「脳の状態」を説明項としてとり、前者を後者によって説明することにあるように見える。
ところが、デイヴィドソンの議論だと、それさえ排除されてしまうように思える。
どのような心の記述であっても、フォークセオリーから離れることはできず、それゆえ脳状態とタイプ的に同一であることはできないとデイヴィドソンは考えているようだ。
この点については、一応自分の中で落しどころは見えている。
デイヴィドソンの主張は、あくまでも、
物理学ほど厳密な法則性は望めない。
厳密な同一性は望めない。
というくらいのものである。
しかし、哲学者が考えるような同一性や厳密な法則性を心の科学者が必要としているとは思えない。
哲学者の言う同一性はとても強い関係である。
「厳密に同一でない」という説は、心の状態と脳の状態の間に因果関係や相関関係が存在することを否定するものではない。
そして心の科学者にとっては、同一性よりずっと弱い因果関係や相関関係で十分なのではないかと思う。
- Robert Merrihew Adams (1979). Primitive Thisness and Primitive Identity. Journal of Philosophy 76 (1):5-26.
http://philpapers.org/rec/ADAPTA
最近更新をさぼりがちなので、読書メモでも残します。
クリプキ『名指しと必然性』の議論を「個のかけがえなさ」についての議論だと思っちゃってる人(柄谷行人とか)は、ちゃんとこっちも読もう、な古典論文。
もちろん関連はするけれど、クリプキの議論はあくまでも「名前」についての言語哲学的議論。「個体が何であるか」という形而上学的議論はそれとは別。で、それを論じているのがたとえばこの論文である。
このもの性というのは、質的な(ふつうの)性質に還元できない、個を個たらしめる性質のこと。
たとえば赤田のこのもの性は「赤田と同一である」という性質であり、赤田だけがこれを持っている(逆にいえばこれを持っているものが赤田である)。
■感想
個人的には、「このもの性」はあんまり認めたくないかな。
しかしAdamsが出してくる例はいろいろ大変なケースばかりで、いっそこのもの性を認めれば楽なのだろう、とは思う。
■ 目次
1. このもの性(thisness)とこれこれ性(suchness)
2. ライプニッツ的立場
3. 不可識別者の同一性に対する離散的議論
4. ほとんど識別不可能な双子の可能性からの議論
5. 原始的慣世界的同一性
6. このもの性と必然性
■ 要約
個体は質的な性質の集まりだっていう説もあるけど、やっぱり性質に還元不可能なこのもの性ってあるとAdamsは主張する。
このもの性を擁護する議論は基本的に2つ。
■ A 「離散的議論」と呼ばれるもの。
まったく同じ性質を持つけど、空間的・時間的に離れているものってあるよね。自分自身と空間的・時間的に離れることはできないから、同じ性質を持つ別のものたちが存在できる。
Max Blackによる不可識別者同一性の原理*に対する反例。
- Black 「宇宙に、大きさも形も同一な二つの鉄の球だけが浮いていると考えてみよう。こういう宇宙は少なくとも論理的には可能そうに見える。ところがこのとき、二つの鉄の球は元素も大きさも距離も形も同じで、まったく同じ性質を持つ。しかし二つの球は同じではない」
これについてはIan Hackingの批判があるらしい。
- Hacking「球が一つしかないけど空間が非ユークリッド的で歪んでる宇宙を考えよう。この宇宙では、空間が歪んでるので、球から少し離れると同じ球のところに戻る。二つ球だけがある宇宙と、一つの球だけがあって空間が歪んでる宇宙の区別はできない」
Hackingによる批判のポイントは、以下。
Black的な反例はいずれも「空間的・時間的に離れたところに、同じ性質を持つ複数のものがある」という形をとる。
ところが、このいずれの反例についても「時間や空間がゆがんでいて、実際にはものが1つしかない」という状況を想定できてしまう。
「だから、やっぱり同じ性質を持つ複数のものなんて無いんだよ」というのがHacking。
Adamsはそれに対し、Hackingの主張は常識的直観に反すると述べる。「いやーやっぱり2つの球がある宇宙と1つの球しかない宇宙は別でしょ。両者を性質の面で区別できないなら、性質以外に還元不可能なこのもの性があって、それによって両者を区別できると考えるべきでしょ」
- Ian Hacking (1975). The Identity of Indiscernibles. Journal of Philosophy 72 (9):249-256.
http://philpapers.org/rec/HACTIO
■ B 「ほとんど識別不可能な双子の可能性からの議論」と呼ばれるもの。
宇宙のすっごく離れたところに、この宇宙にそっくりな場所があって、そこに自分に似ているけど少し違った生物がいる可能性ってあるよね。少なくとも論理的に不可能ではないよね。
じゃあ少し違った生物を少しだけ変更させて、「自分とまったく一緒な生物」がいる可能性もあるよね。だって、「少しちがったらOK」で、「少しもちがわないならNG」って変じゃないか。少し違うコピーが可能なら、まったく同じコピーも可能でしょ。まったく同じコピーをどうやって区別する? このもの性によってでしょう。
哲学若手研究者フォーラムいってきました。
肝心の発表はそれほどたくさん聞けなかったのですが、いろんな人と話せて楽しかったです。最近仕事がいそがしいのもあって、勉強もさぼりがちだったのですが、やはりよい発表を聞いたり人と話すことは刺激になりますね。
http://www.wakate-forum.org/data/2009/forum-schedule.php
あと↓ここでの議論が地味につづいています。
お返事遅れましたが、勝手批評さんのコメントに答えます。
■ 1つめのコメント
まず1つめのコメントについてですが、以下の2つの論点が述べられていると思いましたので、これについて答えます。
- A: 祥子の問題は名前の問題にすぎないのではないか?
- B: これは様相論理の問題ではないのではないか?
まずAについて。
特に赤田さんが例としてあげた「祥子」議論について言うと、ここで時点1・時点2・時点3を貫いているのは(クリプキが言うような固定指示子なんてことではなく)「祥子」という(単なる)名前であるのは明らかではないでしょうか?
勝手批評さんのコメントが述べておられるのは、「時点1に言及された祥子」、「時点2に実際に誕生した祥子」に共通するのは名前だけであり、両者はまったくの別人であるということでしょうか。
だとすれば、「この子があのとき話していた子どもだよ」という友人の発言は、文字通りの意味では「間違い」であると考えるべきでしょう。なぜならば友人は、両者の同一性を主張している(ように見える)からです。
一方わたしの動機の1つは、「この友人の発言を文字通りの真として受け取りたい」という点にあります。なぜなら見たところ、この友人のようなタイプの発言は比喩やつくり話や皮肉などではなく、文字通りに受け取るべきもののように思えるからです。
別の方向から言えば、わたしには、以下のような直観があります。
これから生まれる祥子について話すとき、また、「この子があのとき話していた子どもだよ」と語るとき、話者は単に名前の話をしているのではなく、そのような名前が付けられた子供の話をしている。
そして、ここで問題にしているのは時点1に言及された子供と時点2に誕生した子供が同一であるという論点です。
単に「名前」の話をしているのではなく、「子供」の話をしている以上、両者の同一性を問題にすることが奇妙だとは思いません。
われわれは、同じ「祥子」という名前が付けられた子供であっても、1月10日生まれの祥子と、2月10日生まれの祥子は「別人である」と考えるのではないでしょうか。「同じ名前がついた子供は同じ子供である」というのは、可能的対象について考えた場合でさえ、明らかに間違った主張であると考えます。われわれは「祥子の誕生日が1月10日生まれである未来」と「祥子の誕生日が2月10日である未来」を別の未来として区別することができますし、1月10日生まれの祥子と2月10日生まれの祥子は、数的に別個の存在であるように思えます。
繰り返し定式化するとわたしの問題は以下の通りです。
以下の条件はどれも、それほど違和感のない直観にあったものに思えます。
- (1)時点1に言及された祥子と時点2に誕生する祥子は同一である。
- (2)時点1には、祥子aが生まれてくるのか、祥子bが生まれてくるのか、祥子cが生まれてくるのか...わからない。
- (3)祥子a, 祥子b, 祥子c...は別人である。
- (4)時点1において言及される祥子はただ1人であり、祥子a, 祥子b, 祥子c...などのいずれか1人だけである。
- (5)祥子a, 祥子b, 祥子c...のいずれが生まれてくるのかわからないならば、未来の時点で生まれてくる祥子をただ1人だけ選び出して言及するなどということはできない。
ところが鋭く対立させるなら、(1)と(5)は矛盾を引き起こします。
(1)は、時点1における話者が「正しい祥子」を選び出し言及できると述べています。
(5)は、話者にはそんなことはできないと述べています。
これに対し、わたしの提案は、(4)の条件を否定することです。時点1における話者は複数の祥子に言及していたと考えるならば、上記の問題は生じません。
反事実的条件法を持ち出したのは、それが複数の祥子に同時に言及するための「自然な方法」だからです。
次にBについて。
そもそもの問題としてこれは様相論理を持ち出して考えるべきことなのか、という根本的な疑問があるのです。全く論理の言葉を用いないで考えるべき問題なのではないか、と。
こちらについては、勝手批評さんが、「論理の言葉を用いることで何が失なわれると考えているのか」がまだよくわかっていません。
わたしの方では、あまり論理の言葉に依存する考察を行なっているつもりはないのですが。
■ 2つめのコメント
2つめのコメントには以下の2つが述べられていると理解しました。
- C: 可能的な対象に向けられた謝罪は本当に謝罪なのか?
- D: 現在の@pubkugyoと未来の@pubkugyoには違いがない。
まあ、正直言ってこれは謝罪というより単に最初に言い訳をしておいて批判を封じ込めているという感じで「Aさんに悪いことをした」→「Aさんに謝罪する」という正当な(何が「悪いこと」なのか、何が正当なのかが問題になるけど)手順を踏んでないので「『可能的対象』に対する謝罪」として良い実例になっているのか疑問だ。
こちらについてもわたしは、「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」は、謝罪であるという直観を持ちますし、この直観を擁護する方向で考えたいと思っています。
これは不特定多数の人々へ向けられた謝罪かもしれませんが、それでも謝罪であると考えます。
という主張なんですけど、「私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyo さんへ伝えることを意図したもの」である、とどうして未来の@pubkugyoさんにわかるのかなあ。「意図」なるものが何かのテレパシーであるわけではないのだし、これでは正当化されたとは言えないのでは。「祥子」議論で書いたことに似てますけど、字面が同じ「@pubkugyo」である以上、そしてそれ以外に違いが無い以上、混同は避けられないんじゃないんでしょうか。
これについては、現在存在する@pubkugyoさんと、未来の@pubkugyoさんの間には字面以上の違いがあると考えます。
そもそもこの両者はまったく別個の人間です。
たとえば現在存在する@pubkugyoさんは、id:kugyoというidではてなダイアリーにブログを開設しており、デイヴィド・ルイスを敬愛していますが、たぶん未来の@pubkugyoさんはそのような性質を持たないでしょう。
1つめのコメントの場合と同様に、「@pubkugyo」という名前の話をしているわけではなく、わたしはそのような名前のついた人の話をしており、両者の間にはたくさんの違いがあるという風にわたしは思っています。
以上です。
■ 前置き
id:kugyoさんと論争をしています。
http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090509/1241807293
論争の一部は、シノハラユウキさんと夏目陽さんの「Twitter本」に掲載されたのですが、わたしとkugyoさんは、ページ数の都合により、この論争はまだ決着を見てないと考えています。そこで「Twitter本」にも書いた通り、Webで論争のつづきをはじめたいと思います。
http://twitter.g.hatena.ne.jp/sakstyle/20090429/1240992769
Twitter本を読んでない方には何が何だかわからないかと思われますが、なるべく周辺事情を丁寧に説明しつつ、論争をつづけるようにしましょう。
■ 何の論争か
この論争は、「@shoukou5」という非存在のTwitterアカウントが「可能的対象」なのか、「虚構的対象」なのかを争うものです。
序
@shoukou5とは、二○○九年一月一三日にTwitter上で@pubkugyoが@shokou5と間違えて言及したアカウントである(注一)。当時 Twitter上には@shoukou5というアカウントは存在しなかった。@pubkugyoは、@shoukou5に「誤って呼び出して」しまったことを謝罪し、@shoukou5は虚構的対象であると主張した。一方、@at_akadaは@shoukou5は虚構的対象ではなく可能的対象であると反論した。可能的対象とは存在しうる、あるいは存在しえた対象のことであり、虚構的対象とは虚構に登場する対象のことである。このような重要な意見の対立があった以上、われわれは盛大にMetaphysical Partyを開催し、決着をつけるべきだろう。
注一: Twitter上では@のあとにアカウント名を書くことで対象ユーザーのページにリンクが張られる。
「Twitter本」には、わたしとkugyoさんの主張をまとめた文章とふたりの短かい応答が掲載されました。
- 「未知・反実・虚構」 kugyo
- 「@shoukou5に関する可能説」 at_akada
- 「結局@shoukou5合計何人だ?」kugyoの応答
- 「反事実的存在仮定説」at_akadaの応答
論点のまとめも用意してあります。
@pubkugyo論点まとめ
- 可能説と虚構説との対立は本物の問題である
- 可能説内部には未知説と反実説との区別がある
- 可能な@shoukou5という説明はtwitterアカウントの説明として不適格
@at_akada論点まとめ
- 可能的対象に対する謝罪は成立する
- @pubkugyoは可能な@shoukou5に謝罪すべきである
- 可能な@shoukou5に謝罪すべき状況であるのに、虚構の@shoukou5に謝罪するのは奇妙である
@pubkugyoによる対論まとめ
- 可能的対象に対する謝罪も成立する
- 謝罪する相手が複数になるような議論はやはり受け入れがたい
@at_akada反論を受けて
- 可能的対象の人数の問題は、可能的対象についての語りを、前件が存在命題の反事実的条件文と捉えれば解決する
- 可能な@shoukou5についての語りは複数の世界の複数の対象に言及するが、いずれの可能世界でもただ一つの@shoukou5だけに言及する
ここには、わたしからの応答文である「反事実的存在仮定説」ロングバージョンを掲載するところからはじめたいと思います。
■ 反事実的存在仮定説
@pubkugyoさんの言葉で言えば、わたしの立論は「未知説」に分類されるものです。未知説をとった上で、可能な人物への謝罪が成立すると見なすことがポイントになっています。
これに対し、@pubkugyoさんの反論は、大きく以下の2つに分類されるかと思います。
(1)現に存在するアカウントとの整合性
(2)可能な人物の人数の問題
これらの内(1)が致命的な問題とは思いません。悪事が発生し、謝罪が成立するのは、単に相手に害を為しただけではなく、その危害が正当化されていない場合であると考えます。たとえば未来のある時点に「@pubkugyo」というアカウントが別人によって使用されるようになったケースを考えてみましょう。その場合にも未来の@pubkugyoさんは、過去の@pubkugyoさんへの紛らわしい言及によって害を受けることがありえます。しかし、これに対する謝罪は必要とされません。なぜなら、現在の時点には別の@pubkugyoさんが存在し、私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyoさんへ伝えることを意図したものであるという理由によって、正当化されています。この場合、害は存在しますが、正当化によって害が悪事ではなくなっていると判断します。一方、@pubkugyoさんの@shoukou5さんへの言及は、単純なタイプミスによるものであり、正当化されていません。よって、現に存在するアカウントとの不整合は、様相の違いによるものではなく、リプライを送った際の理由の違いによるものであると主張します。
一方(2)はきわめて難しい問題を提起しています。こちらは最初の論考でも問題となった論点です(注 一)。
可能的対象の同一性は古くからある哲学の問題の一つです。しかし幸運にも私は、この問題に対する一つの解答をすでに思いついています。私の理論は、紙幅の都合上不十分な説明しか与えられませんし、多くの部分が未完成に留まっていることを認めます。しかし、あえて理論を提出する野蛮の方が、謙虚さよりも対話を生産的なものにすると信じます。
@shoukou5の数が問題を引き起すのは、どちらももっともらしく思える以下の2つの直観が対立するからです。
(1)@pubkugyoが語りかけ、われわれが言及している@shoukou5はただ1人の可能的な対象である。
(2)@shoukou5に該当する人物は複数想定できる。
私は、この2つの見かけ上の対立は、適切なパラフレーズをほどこすことによって、語法の問題に還元できるだろうと考えています。
まずわれわれが可能的対象について語るとき、ただ一つの対象を指しているとしか思えない場合があることを確認しておきたいと思います。
現在の@shoukou5のケースに少し似た以下のケースを考えてみましょう。
- 時点1
私が友人のK夫妻と、2人の間に将来生まれてくる子どもについて話している。2人はこれから生まれてくる子どもが女の子だったら「祥子」という名前を付けたいと話す。夫妻はこの時点ではまだ妊娠していない。
- 時点2
およそ一年後、子どもは実際に生まれ、実際に「祥子」と名付けられる。
- 時点3
子どもの誕生後、生まれてきた子どもに対面した私に、友人は「この子があのとき話していた子どもだよ」と語る。
時点3に、「あのとき話していた子どもだよ」と語る友人Kは、時点1には「可能な子ども」でしかなかった祥子と、時点3における「現実の子ども」祥子との同一性を主張しているように見えます。
私はこの友人の発言が文字通りの真理であることを認めたいと思います。時点1の可能的対象である祥子は、時点2に現実性を獲得し、現実の子どもになったと考えます。
もちろん時点1の可能的対象と時点2や時点3の現実の対象は異なった性質を例化しますから、厳密に同一の対象ではありえないでしょう。しかしそれは、同一の人物が異なる時点に異なる性質を例化しうるという慣時間的な同一性の問題のバリエーションにすぎず、可能的対象に特有の問題ではありません。ともに現実的な対象である時点2と時点3の祥子も、異なった性質を例化するでしょう。われわれはたとえば四次元主義的な解決を採用し、時点1の「可能な祥子」と時点2の「現実の祥子」は、祥子という同一の人物の異なる時間的部分だと言えば済むことです。可能的対象の問題はもっと別のところにあります。
問題は、時点1には、どの祥子が生まれてくるかがわからない点にあります。たとえば、異なる精子と卵子の組み合わせからは異なる人物が生まれてくると仮定しましょう。時点2の現実の祥子を生み出したものを精子a、卵子aと名付けるとすると、われわれは精子b、卵子bから生まれてくる別の祥子を想像することができます。時点1の段階で、将来に祥子a(精子a+卵子a)が生まれてくるのか、それとも祥子b(精子b+卵子b)が生まれてくるのかを知る方法はありません。「異なる精子と卵子の組み合わせからは異なる人物が生まれてくる」という仮定が強すぎると見なすならば、これを「誕生日が1月ずれると異なる人物が生まれてくる」という仮定に変えてもかまいません。1月10日に生まれる祥子を祥子a、2月10日に生まれる祥子を祥子bと名付けるとすると、やはり時点1の段階では、将来に祥子aと祥子bのいずれが生まれてくるかを決定する方法はありません。

話を単純化するため、想定される未来がa, b, c, d, eの5つしかないと仮定しましょう(図参照)。祥子aから祥子eは異なる精子卵子あるいは異なる誕生日を持った異なる人物です。またここでは、生まれてくる子どもが双子である場合や三つ子である場合は、考えないものとします。
時点1に未来の可能な祥子の話をしていたとき、われわれは5人の祥子(すなわち祥子5)について話していたのでしょうか、それとも祥子a, 祥子b, 祥子c, 祥子d, 祥子eのいずれかについて話していたのでしょうか。
祥子a, 祥子b, 祥子c, 祥子d, 祥子eのいずれか1つについて話していたわけではありません。私と友人Kはどの祥子が現実化するか知るすべがありませんし、ここで1人の祥子だけを特権化する理由はどこにも無いからです。この際私は「可能的対象とは、いずれか1つの可能世界に存在する具体的な対象のことである」というしばしば見られる前提を疑っています。少なくとも、可能的対象についての語りの内のいくつかは、それとは異なったものだろうと考えます。
さらに、いかなる意味でも5人の祥子について話していたわけではありません。われわれはただ1人の祥子について話していたのであって、5人の祥子が属する集合について話していたわけではありません。たとえば、時点1に私が「祥子はきっと美人になるだろう」と言う場合、私は5人の祥子の集合が美人になるだろうと述べたわけではありません。
ただし、祥子aから祥子eまでのいずれもが私と友人によって言及されたことになるという直観は正しく思えます。未来aを考えると、時点2に祥子aが現実化したとき、祥子aは、時点1に私によって言及されたという関係を例化します。未来bにおける祥子bも同様に、私によって言及されたという関係を例化するでしょう。このことは、時点1の可能な祥子と、時点2時点3の現実の祥子が同一の対象であるという先の主張から帰結します。
以上を踏まえ、私は以下の直観を提示したいと思います。
直観I: 私と友人は、「友人に女の子が生まれたら」という反事実的仮定のもとで、当の対象について話している。
それほど丁寧には論じられませんが、この直観によって問題は解決されるだろうと考えます(以下はLewis[1973, 1986]の反事実的条件文の分析、およびLewis[1993]の超付値による解決にヒントを得ています)。
デイヴィド・ルイスの分析に従い、反事実的条件文は、可変的な厳密条件文であるとしましょう。ルイス流の方法では、反事実的条件文は可能世界の集合(圏域[sphere])への量化によって真理条件を与えられます。
S1: ∃xφx □→ ∀y(φy→ψy)
(もし仮にφxところのxが存在するならば、それに該当するものはψだろう)
上の反事実的条件式が空虚でなく真であるのは、以下の場合かつ以下の場合のみです。
- ある可能世界の圏域Sが存在し、Sの中の∃xφxが真であるすべての世界で、∀y(φy⊃ψy)も真である
以上が意味するのは、ある範囲の可能世界の集合の中では、φxを充足する対象が存在するなら、φxを充足する対象はすべてψxも充足するだろうということです。以上の定式化は、私の直観(1)、すなわち「ある種の対象が存在するという反事実的仮定のもとで、当の対象について語る」ことを許すように思えます。
上のケースに適用してみましょう。「祥子は美人だろう」という語りは以下のように分析されます。
S2: ∃xSx □→ ∀y(Sy→By)
「もし仮にK夫妻の娘であり、時点1からおよそ一年後に生まれ、祥子という名前を持つxが存在したならば、それに該当するすべてのyは美人だろう」
祥子がただ1人しか存在しないという条件を付け加えたい場合は反事実的条件法の前件を確定記述句に変えればよいはずです。
∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→Bz)
「もし仮にK夫妻の娘であり、時点1からおよそ一年後に生まれ、祥子という名前を持つただ1つのxが存在したならば、それに該当するすべてのzは美人だろう」
可能な祥子についてのすべての語りを同様にパラフレーズすることができるでしょう。まず祥子という語句をすべて変数zに置き換え、次に置き換え後の文を以下の「...」の箇所に代入することでわれわれは望みの文を手に入れることができます。
S2-1: ∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→...)
この際後件の変項は非常に複雑なふるまいをとります。複数の世界の複数の対象が後件の変数を充足するのですが、対象のドメインは前件の仮定と想定される可能性の範囲によって限定されています。
こうした文の中で、われわれは、ある意味では複数の世界と複数の対象について語っています。しかしわれわれが語るいかなる対象も、それぞれの世界の中では曖昧でなく限定されています(多くの場合はただ1人です)。ここで反事実的条件法の後件に同一性記号(=)を置くことも許されるでしょう。可能的対象の同一性に関する混乱した印象は、この文脈に置き直してみることで取り払われるのではないかというのが私のアイデアです。複数の対象について語っているが、そのつどただ1人の対象だけについて語っているという可能的対象の奇妙さは、平凡な反事実的条件文の語法に回収されているように見えます。
この際可能な祥子について語ることは、祥子aから祥子eまでのすべての祥子(あるいはその部分集合)のいずれもが例化する性質や関係について語ることに他なりません。わたしは、このことこそが未知の対象について語るときにわれわれが語っていることであると考えます。
@shoukou5問題の解決に向いましょう。
「@shoukou5はただ1つ存在する」という主張は以下のように分析されます。
S3-1: ∃xSx □→ ∀y(Sy→∀z(Sz→y=z))
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、shoukou5というTwitterアカウントはただ1つ存在する」
あるいは
S3-2: ∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→∀q(Sq→z=q))
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントがただ1つ存在するなら、shoukou5というTwitterアカウントはただ1つ存在する」
S3-2は自明に真です。shoukou5についての反事実的な仮定として、「shoukou5はただ1つ存在する」という仮定をもしもわれわれが立てていたならば、shoukou5というアカウントがただ1つであることは瑣末に帰結するでしょう。
一方S3-1は、shoukou5という名前のアカウントがTwitter上に存在するとしてもそれはただ1つしか存在しないだろうということを述べています。Twitterのシステムは同名のアカウントが2つ存在することを許しませんから、異常なバグなどを想定しないかぎり後件は真でしょう。「Twitterには同名のアカウントは2つ存在しない」ことを一種の法則的な事実と見なせばこの反事実的条件文も真となります。
私はS3-1とS3-2のどちらかが、可能な@shoukou5はただ一つしか存在しないという主張が述べることであると考えます。わたしは、このどちらも真だろうと判断します。
なおここでは2人以上の人間が共同で1つのアカウントを使う可能性は想定していません。しかしそういうケースは十分にありえますし、現に現在shoukou5のアカウントはわれわれ2人が連絡用に使用しています。この可能性に言及しなかったのは、仮に2人以上の人間が共同で使用していたとしても、「謝罪すべきである」という論点にも、「謝罪できる」という論点にも影響しないからです。共同で使用されているアカウントであったとしても誤言及した場合は謝罪すべきであるという点に違いが生じるとは思いません。
@pubkugyoは@shoukou5に謝罪すべきであるという主張は以下のように分析されます。
S4: ∃xSx □→ ∀y(Sy→Apy)
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、@pubkugyoはshoukou5というTwitterアカウントに謝罪すべきである」
後件のSy、すなわち可能な@shoukou5は、複数の世界にいる複数の個体でありえますが、しかしいずれの世界においても曖昧ではありません。私はS4は真だろうと判断します。
謝罪の言葉はおおよそ以下のようになるでしょう。
S5: もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、私はshoukou5というTwitterアカウントの使用者に謝罪する
この謝罪の言葉はいささか奇妙ですが、それは表面だけのものだと考えます。たとえば「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」という言い方は反事実的条件法を利用していますが、その謝罪におかしなところがあるとは思いません。反事実的な存在仮定の下で当の対象に対し謝罪することは、依然として可能であり、われわれが日常的に行なっていることの1つであると見なします。
Lewis, David, 1973, 1986, Counterfactuals, Basil Blackwell.(デイヴィド・ルイス, 吉満昭宏訳, 2007, 『反事実的条件法』, 勁草書房)
Lewis, David, 1993, "Many, but Almost One", (デイヴィド・ルイス、「たくさんだけどほとんど1つ」、『現代形而上学論文集』, 勁草書房)
Quine, W.V., 1980 "On What There Is" in From a Logical Point Of View, Harvard University Press.(クワイン、飯田隆訳『論理的観点から』, 1992, 勁草書房)
とりあえず読んだので記事を書く準備をする。
内容はこれから。
様相次元主義(modal dimensionalism)というのがでてくる。何かと思ったら、宇宙には時空にかかわる四次元にくわえて、様相の次元があるという説らしい。
「Ω ΩΩ< な、なんだってー!!」聞いた瞬間にそれは無いだろうと思った。その後しばらく考え、「待てよ、時制論理というのもあるし、時間と様相は似てる。だから様相を次元と見なすこともできるのか?」と思ったが、すぐまた「やっぱ無いわー」と思った。
目次
- それは何?
- 可能世界
- 可能主義実在論
- 対応者理論
- 様相次元主義
- 同一性問題
- 現実主義表象論
- 入れ子問題
- 本質による解決
- 可能主義実在論
- 可能世界以外
- 存立 vs. 存在
- 非存在対象の理論
- エンコーディングの理論
- 存立 vs. 存在
- ユニコーン
- 虚構的対象
- 量化様相論理
立場
- 1. U ⊆ A∩E (すべての対象は現実的であり存在する)
- 2. U ⊆ A (すべての対象は現実的だが、存在するものとしないものがある)
- 3. U ⊆ E (すべての対象は存在するが、現実的なものと現実的でないものがある): 可能主義
- 4. A ⊆ E (現実的なものはすべて存在する)
- 5. E ⊆ A (存在するものはすべて現実的である) : 現実主義
| 派閥 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
|---|---|---|---|---|---|
| 可能主義 | × | × | ○ | ○ | × |
| 様相次元主義 | × | × | ○ | ○ | × |
| 現実主義 | ○ | × | × | ○ | ○ |
| マイノング主義 | × | × | × | ○ | ○ |
最近現代存在論の文献などを読んでいて、もやもやした気持ちを抱えることが多かったのだが、少し整理できたので書きとめておく。
存在論の人々は存在について語る。そしてしばしば、自分たちのやっていることは「概念分析」ではないと言う。つまり、人間の思考の様式や言語や認識について語っているわけではないと言う。
しかし哲学者は別に物理学者が宇宙について語るように、宇宙の経験的な事実を語ろうとしているわけではない。
じゃあ存在論は何をしているんだろう?
わたし自身も、それらの文献を読みながら、「確かにこれは、ある意味では、言語や認識や概念の話ではない。でも何が違うのかをうまく言いあらわせない!」というもやもやを感じていた。
以下のような言い回しを思い出そう。
「彼の頭の中には何があるんだろうね」と言われたとき、われわれは、
「物理的な意味では、脳があるよ」と答えることがある。
饅頭の中には何があるか? 物理的な意味では、餡がある。
腹の中には何があるか? 物理的な意味では、臓器がある。
テレビの中には何があるか? 物理的な意味では、機械がある。
わたしが気がついたのは、こういうニュアンスの「物理的」を「存在論的」に変えても違和感が無いということだ。
少なくとも、現代の(分析哲学的な)存在論は、「頭の中には脳がある」という意味での現実について語りはじめているように思える。
じゃあこの「物理的」ってどういう意味なのだろう。
必ずしも、自然法則や「物理学的」なもののことではないだろう。
言い換えを探ってみると、日本語の「物質」や英語の"material"はちょっとしっくりくる。
時間と空間、ひいてはリアリティの中に場所を占める「マテリアル」にかかわることを「物理的」と言っているような気もする。
たとえば現代存在論の文献には以下のような問題が登場する*。
- 脳と胃を足したものもまた「物理的な物」なのか?
- 「物理的な物」には、空間的な部分だけではなく、時間的な部分もあるのか? 言い換えれば、「過去の物」や「未来の物」も「物」の一部なのか?
また、存在論や現代形而上学の文献を読んでいると、よく「端的にsimpliciter」とか「生のbrute」とか「内在的intrinsic」という語彙がでてくる。ex.「物が端的に持つ性質」
こういう言い方をされると、「わかるんだけど、わかるんだけど、端的にって何だよ!」と言いたくなる。
セオドア・サイダーは、もう少し洗練された言い方を選んでいて、世界に備えつけられた「すべての対象から成る単一の対象領域D」について述べる(それでもまだよくわからないけど)*。
また、デイヴィド・ルイスは、"On the Plurality of Worlds"の序文に、自分がこの本で述べたのは「意味論的能力」や「真理の本質」や「二値性」や「知識の限界」にかかわるテーゼではなく、「ネス湖の怪物がいる」とか「CIAに共産主義者のスパイがいる」とか「フェルマーの予想の反例がある」とか「熾天使がいる」という種類の主張であると書いた**。ある意味では、これが一番わかりやすい。
これらの問題が何を意味するのかを考えるとき、またこれらの語彙が何を意味するのかを考えるとき、「物理的」という語のニュアンスを思い出すと少ししっくりくるなと思ったのだった。
- 『四次元主義の哲学』
セオドア・サイダー、中山康雄(訳), 小山虎(訳), 齋藤暢人(訳), 鈴木生郎(訳)
春秋社、2007
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
ゆるふわMetaphysicians勉強会で読んだ論文2つ目。
ずいぶん時間がかかってしまった。
1つ目の論文に関する記事は以下。
http://www.at-akada.org/blog/2008/12/chris-swoyer.html
一応、論文の要約くらいは毎回載せようかと思っているので感想やまとめなど。
(ずいぶん遅れてしまったので、実はもうこの次の論文も読み終わっている)。
本書は、様々なテーマについて対立する立場に立つ2人の著者が文章を寄せた論集。
1章のテーマは、「抽象的なものはあるか?」。
こちらは「抽象的なものは無い」派の人の論文。
■ 感想
世の中には、悪夢のような論文というものがある。
これは悪夢のような論文であった。まず英語が難しくて何を言っているかよくわからないし、仮に英語が理解できたとしても内容が難しくてよくわからないし、仮に内容が理解できたとしても問題関心がぶっとんでいるので理解しがたい。この論文については、本当に、全員で頭を抱えながら苦しまされる日々であった。
学んだことを強いてあげるとするならば、現代形而上学の争点はこんな感じなのかなーと。
- 現在の自然科学の成果を所与とした上で、じゃあそこから結局どんな世界観が導かれるのか考えてみよう。
- 科学者はいろいろ言ってるが、結局のところ何が存在するのか? 自然法則って何か? 究極的なリアリティは何なのか?
- ひと昔前の分析哲学というのは、いろんな文を分析していこうという言語哲学的なものが主流だったわけだが、形而上学の場合、むしろ言語哲学的技法を使って、世界の究極的リアリティを明らかにしようという方向が目立つ。
(具体的には、文のパラフレーズを使って唯名論の擁護をする、などの事例を想定している)。
■ まとめ
というわけでまとめようがないわけだが、何とかできる範囲でまとめてみる。
- 数が存在するとか、性質が存在するとか、ありえんよ。
- 確かにみんな「数が存在する」とか「性質が存在する」とか言っている。
- でもそれは表面的な意味で「存在する」って言っているだけで、基礎的な意味で「存在する」って言ってるわけじゃないはずだ。
- というわけで、科学者などが抽象的なものに「存在する」って言ってるとしても、それは本当は別の意味で言っているはず。
- こういう「存在する」はガンガンパラフレーズしていくよ。
- 実在論派の人は、「抽象的なものの存在を仮定して、いろんな現象が説明できるなら認めていいんじゃないか」と言う。
- わたしはガンガンパラフレーズするので、そんな説明の能力なんて認めないぞ。
- さて、Tというのが、数学的概念など抽象物の存在にコミットしているように見える科学理論だとしよう。以下のような反事実的条件法を使ったパラフレーズができるはずだ。
T*: もし数学的公理が正しく、具体的世界が今の通りならば、Tは正しいだろう。
- これを使えば、Tの正しさは今のままで、余計な存在論的コミットはしなくて済むってわけ。
- この後、このパラフレーズはダメなパラフレーズに似てるがダメじゃないという議論がつづくがよくわからない。
- 科学理論については、これでいいとして、哲学理論についてはどうしようか。
- 上のようなパラフレーズを適用しようとすると、哲学理論はそもそも反事実的条件法に対して分析を与えたりするので、そのさらに反事実的条件法によるパラフレーズになってわけがわからないことになるよ。
- これについては3つのオプションがある
- (1)そういう分析を受け入れた上で、「あ、それがこういうタイプの文の意味なんだ。じゃあこの文は抽象物が存在するって言ってるわけだから、基礎的な意味では偽だね」と考える。
- (2)別の分析を提示する。
- (3)分析は不可能であり、問題になっていたのはプリミティブな概念だと主張する。
- というわけで、唯名論的な哲学的分析のパラフレーズを提示する。
- 「ベーシックな物理学的述語」の問題を扱う。
- 今ある物理学の概念っていうのは、たいてい他の概念から定義されたりするけれど、もっともっと科学が進めば、それ以上他のものに還元できないベーシックな述語がでてくるだろう。そういうものがでてきたときに、「それでも性質は存在しない」という立場を唯名論は護れるだろうか。
- とりあえずここでは「xは電子である」というのがそういうベーシックな述語であるということにしておくよ。
- アームストロングは、性質の存在を認めているので、「電子であることは、電子性という性質を例化することだ」と分析している。
- こいつをパラフレーズしてやろう。
- アームストロングの定義にはどういういいところがあるか?
- たとえば、上のような「電子であること」の定義と、複製の定義を与えてやると、「電子の複製は電子だ」という文の分析がうまくいくようになる。
- この文はもう見た感じ必然的真理という感じだけど、複製と電子の定義をきちんと与えると、こういう文を論理的真理として説明できるようになる。
- ぼくら唯名論者はこういう分析に対して、以下のような反論を考えられる。
- (1)複製の定義を別な風に与える
- (2)電子の定義を別な風に与える
- (3)「電子の複製が電子だ」という文が必然的であるのは、プリミティブな事実であり、説明できないと主張する
- (1)の方向。ベーシックな述語をぜんぶアンドで結んでやる。「xがyの複製であるとは、xがクォークならyもクォークであり、xが電子ならyも電子であり...」という長い連言を使って複製を定義する。
- とりあえずこれでもうまくいくけど、この場合、「この宇宙にはないけど、他の宇宙で成り立つかもしれない性質」などを認められなくなる。
- (2)の方向。電子と電子の類似を使って、「電子であること」を定義するやり方など。
(この類似性ノミナリズムの理論はちょっと面白かった)。
- (3)の方向。説明を放棄したような方針だけど、これはこれでうまいやり方だとか何とか。
以上。
価値判断の相対主義についてのメモ。
Twitterで「生得説が本質主義だとかよくわからんことを言うやつがいるが、むしろ相対主義じゃね?」とつぶやいていたら意外に感じる人が多いようであったし、つぶやいていたらちょっと考えがまとまったのでメモしておく。
主なテーマは「価値判断に関する諸々の立場の整理」および「価値判断の相対主義はいつ深刻なのか」。
この手の議論に詳しいわけではないので的をはずしているかもしれないが、あくまで自分用メモ。
本当はもっと軽い感じでまとめられればよかったが、書いている内にこむずかしい内容になってしまった。
ここで「価値判断」と呼ぶのは、道徳的判断、美的判断などをひっくるめて、「何かを他のものより良いとする」判断のこと。
実際には、「道徳的判断は普遍的だが、美的判断は普遍的じゃない」とか、それぞれの判断について異なる見解が導かれるかもしれないが、とりあえずどんな立場がありうるか整理しておきたい。
Twitterログ
at_akada:たまに生得説を本質主義と呼ぶ人がいるが、その感覚がよくわからない。進化の偶然的歴史に依存する人間の生物学的特徴に何かを還元するのって、どっちかというと相対主義じゃないだろうか。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232741424
at_akada:道徳は文化によって決まる→道徳は文化に相対的。道徳は人間の生物学的特徴によって決まる→道徳は種に相対的。この2つは「程度の違い」にしか見えない。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232750770
at_akada:問題は宇宙人にどんな道徳を適用すべきかということですよ。そこではじめて明らかになる生得説の相対性。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232797225
at_akada:「道徳的判断(or美的判断...etc)は善というイデアールな実在に対する言明なので、相手が宇宙人だろうと何だろうと普遍的に一致する」というのが本当の本質主義。種に関する相対主義とはまったく違う。 http://twitter.com/at_akada/statuses/1232857944
生得説の相対性は、わたしの感覚からすると当然である。だって人間の体のしくみって進化の偶然的歴史の産物なわけで、そんなものに依存する判断が「本質的」であるはずがない。
(ただし、何ステップか手続きを踏めば、生得説が本質主義になることもありえると思う)。
ただし、わたしはここで「本質主義」という言葉をラフに使っている。「本質主義」という呼び名は「道徳的判断は善というイデアールな実在についての言明である」などの見解のために取っておくべきもののように思う。
ここではむしろ「妥当性の相対性と普遍性」のみを問題にしたい。
これについて実際には、「価値判断は何であるか」、「価値判断の客観性」(検証可能性)、「価値判断の妥当性」(真理条件)など様々な側面が絡み合うように思われる。
たとえば、「価値判断は相対的であるが、客観的である」というのは整合的な立場である。むしろ反対に相対主義は、客観性を要求するように思われる。
「価値判断は文化に相対的」という主張は、「それぞれの文化の内部において、価値判断を客観的に検証できる」という前提が無いと成り立たないのではないだろうか。
■ 個人的なものと普遍的なもの
まず、個人的価値判断と普遍的価値判断を分けておくべきだろう。
個人的価値判断とは、「トマトジュースはわたしにとって好ましく感じられる」などのように、妥当性が問題にされないような判断のこと。線引きの基準をどこに置くかは立場によって変わるだろうが、個人的な価値判断については定義上他人が妥当性に疑問をさしはさむべきではない。
以上は単なる用語法の問題。
たとえば、「料理の好みに対する言明でさえ、他人に対する価値のアピールであり、普遍的妥当性を要求する」という立場はありえるだろう。しかしその場合当の論者は「料理の好みは個人的価値判断ではない」と主張しているものと考えたい。
しかし普遍的妥当性を要求されない個人的価値判断が「間違っている」ことは依然ありえるように思われる。
たとえば、
「aさんはトマトジュースは好ましいと言っていたが、aさんがトマトジュースだと思って飲んでいたのはオレンジジュースであり、それゆえ好ましいと判断されたものはオレンジジュースである」
という場合。しかしこれは、価値判断の妥当性を問題にしているわけではない。
むしろ「トマトジュースは好ましい」という主張の「トマトジュース」の部分に関する解釈を変更したと言う方がふさわしいようにも思われる。
一方、個人的価値判断とは別に、普遍的価値判断というものがありえるように思われる。
「嘘をつくのはよくない」「殺人はよくない」「この絵は美しい」などの場合。
これについても線引きは様々でありえるだろうが、多かれ少なかれ、「自分にとっての価値」というより、他の人にも当てはまるような普遍的な価値について述べているように思われる。
個人的判断は定義上妥当性が問題にならないので、価値判断の妥当性が問題になるのは後者の事例にかぎる。要するに、こうした場合のみ「その判断は間違っている」ということを問題にできる。
相対主義というものがありえるとすれば、後者の型の価値判断についてのみだろう。
なお、以上より、普遍的価値判断は真理値を持つものと考えたい。妥当性=真理値というわけでは必ずしも無いだろうが、妥当性を判断できる以上、「真/偽のようなもの」を持つと考えるのはそれほど変ではないように思われる。ひょっとするとそれは本来の真理値とは別の「疑似真理値」かもしれないが、それもひっくるめて真理値と呼ぼう。
「情緒説」に代表されるような、「価値判断は真理値を持たない」という説は、「普遍的価値判断の事例は存在しない」という説として理解する。
■ 傾向性と妥当性
次に、諸々の価値判断について、
- 「われわれが現に『良い』としているもの」と
- 「『良い』とすべきであるもの」
を区別できるように思われる。
前者については、「どんなものを『良い』とするのか」という、いわば価値判断の傾向性が問題になっている。
後者については、「なにを『良い』とすべきか」という、価値判断の妥当性が問題になっている。
両者はまったくの無関係では無いかもしれないが、「人間が良いと判断している多くのものの大半は実際には悪いものであり、判断を変更すべきである」という主張はひとまず意味を為すように思われる。そして価値判断の相対性と普遍性が問題になるとすれば、後者の側面についてであろう。
「人間はまったく多様な価値判断を行なっており、何を善とするか(何を美とするか/何を快とするか)はまったくバラバラである」という主張は、「それを是とすべきである」という主張を伴なわないかぎり、特にインパクトはない。
たとえば、「道徳的判断は現在のところ文化によって多様であるが、唯一正しい道徳的判断はXというものなので、Xの道徳的判断のみを是とすべきである」という主張のことを「道徳に関する相対主義」とは呼ばないだろう。少なくとも、そのような相対主義は「深刻」ではない。
ゆえに「価値判断についての相対主義」とは、「価値判断の妥当性についての相対主義」である。
■ 相対主義
相対主義とは、価値判断の妥当性が何かに相対的であり、それゆえローカルなものだとする立場である。
「価値判断の妥当性は、文化に固有のものであり、それぞれの文化に相対的である」というのは文化相対主義。
「価値判断の妥当性は、時代に相対的である」というの時代相対主義。
「妥当性の基準は個人によって異なる」とするなら、個人相対主義。
文化相対主義を貫徹するなら、違う文化の人に対し、自らと同様の価値判断を要求すべきではない。
一方時代相対主義を貫徹するなら、異なる時代の人に対し、自らと同様の価値判断を要求すべきではない。
なお、個人相対主義と情緒説のような(主観性を主張する)立場はまったくの別物である。個人相対主義の場合、基準が個人に相対化されるだけであり、(検証可能性と妥当性判断の権限を認めるなら)他人がその妥当性を問題にすることもできる。
相対性と客観性はまったく異なる。「沸点は高度によって異なる(沸点は高度に対し相対的である)」という主張は、「沸点は主観的である」という主張ではない。
上記のように整理してみれば、生得説が相対主義であることはただちに見てとれる。
価値判断の妥当性の源泉を何らかの偶然的でローカルな対象に帰着する説はすべて相対主義なのである。
「価値判断の妥当性は、人間という生物種の固有の特徴によって決まる」という見解は、判断の妥当性の根拠を生物種の特徴に置くかぎり相対主義的である。
具体的に言えば、価値判断の妥当性が生物学的特徴に由来するならば、人間と異なるタイプの宇宙人には自らと同様の価値判断を要求すべきではないだろう。
(価値判断を人間という種に限定されたタイプの判断と捉え、そのような宇宙人が行なうことは「道徳的判断ではない」「美的判断ではない」などと考える立場はありえるだろう。この場合は、自動的にそれらの価値判断のローカルな妥当性が普遍的な妥当性と一致する)。
■ 検証可能性と判定権限
ただし相対主義は、検証不可能性や実行権限限定の要求を伴なわないかぎり、ほとんど無害であり、ただちに普遍主義に吸収されるように思われる。
たとえば「昨日は雨が降っていた」という文の真偽は、日付に相対的である。
しかし、この「相対主義」が深刻な問題であり、対話の可能性を阻むものだなどと嘆く人は滅多にいないだろう。
妥当性がローカルな文脈に束縛されるという主張は、ローカルな文脈の特徴付けを一般的に扱うことさえできればほとんど問題にならない。
たとえば、沸点が高度に相対的であるとしても、われわれは気圧を測ることによって、沸点の算出をより普遍的な基準に統合することができる。その場合、ローカルな文脈に対する束縛は、より普遍的な判断基準にとっての「パラメーター」となるにすぎない。
価値判断が文化に相対的だとしても、文化の特徴付けから当の判断の妥当性を導き出す実効的な手順があれば、誰でも判断の妥当性を問題にすることができる。
その場合われわれは、この実効的な手順を足し合わせたもののことを、「価値判断の妥当性の基準」と呼び、普遍的に妥当する基準と考えるのではないか。
たとえば、「効用関数は文化によって異なるので功利主義は文化相対主義である」という主張は一応理解可能である。しかしこの主張は、効用関数の計算手続きが与えられしだい、より普遍的な基準に吸収されるように思われる。
むしろ問題は「価値判断の妥当性を判定する権利が誰に与えられるか」ではないだろうか。
「価値判断は文化に相対的である」という主張が何らかのインパクトを持ちうるのは、「それゆえ、当の文化の内部の人しか、価値判断の妥当性を判定できない」という主張が付加された場合である。
妥当性の検証可能性を問題にしているのであれば、まだしもアクセスの余地は残る。「当の文化の内情を知らないとよくわからないだろう」と言われれば、知れば済むことである。何しろ、当の文化内部の人たちは妥当性の判断をしているわけなので、原理的に検証不可能などということは無さそうである。
しかし、妥当性判定の実行権限を問題にしているならば---つまり、「当の文化内部の人にしか、価値判断の妥当性を判定する権利が無い」と主張するなら---、外部の人々には妥当性を問題にすることが原理的にできなくなる。
相対主義が深刻であるとされるのは、この場合のみであろう。
価値判断についての相対主義が深刻なものとなるのは、価値判断の妥当性を判定する権利がローカルな文脈の内部でのみ許される場合である。
たとえば、「割礼が悪であるかどうかの判断はユダヤ人にしかできない」という主張を考えてみよう。価値判断の相対主義が深刻なものとなるのは、このような場合であるように思われる。
■ 結論
- 価値判断に関する相対主義とは、価値判断の妥当性がローカルな文脈に束縛されるという立場である。
- ただし、妥当性の判断が普遍的に開かれたものであるかぎり、相対性は無害である。
- 価値判断に関する相対主義が深刻なものとなるのは、価値判断の妥当性を判定する権利が、ローカルな文脈の中に限定される場合である。
タイトルは再びホッテントリメーカーから。
だいぶ間が空きましたが、先日の記事について、はてなブックマークのコメント欄でやりとりがあったので稿を改めてここに書きます。間に引越しを挟んだのでずいぶん時間が経ってしまった。
まずid:contractioさんから「暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけではないか」という質問がありました。
(またこれに関連し、Twitter上でいくつかやりとりがありました。以下の記事はこの辺りのやりとりを踏まえたものです)。
それに対し、私は以下のように答えました。
「日常的に意識的な解釈の必要がないのは、すでに言語理解が完了しているからだ」という理屈になるのではないかと。>id:contractio
http://b.hatena.ne.jp/at_akada/20090130#bookmark-11885983
これに対し、以下のようなお返事がありました。
俺にはこういう議論の構図そのものが理解できないんだな。暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけだよね。/「完了している」は「理論構築」に意味がある為のフィクションでは?> id:at_akada
http://b.hatena.ne.jp/contractio/20090130#bookmark-11885983
まず、どうして上のように答えたのかを説明します。
contractioさんが言っていることが、
「他人の発言について、『こういう意味だろうか、それともこういう意味だろうか?』などと斟酌することは、常に行なわれているわけではないよね?」
という意味であれば、わたしはこれに同意します。その通りだと思います。
ただよくわからないのは、「いつも狭義の解釈をしているわけではない」という主張を、contractioさんがどうしてデイヴィドソンの主張に対置させたかということです。
ひょっとするとcontractioさんはデイヴィドソンの所説を「われわれはいつも根源的解釈をしている」という風に理解したのかと思い、「そうではない。われわれは架空の言語学者とはちがい、他人の言語を(おおむね)理解できる状況にある」という意味で「完了している」と言いました。根源的解釈は文字通り、「特殊な場面」であると思います。
ただ「完了している」という言い方はまずかったです。「われわれが過去に(たとえば乳幼児のころに)、根源的解釈のような作業を行なった」という風に聞こえてしまうからです。デイヴィドソンはそういう主張をしているわけではありません。
「根源的解釈はあくまで架空のシチュエーションであり、実際のコミュニケーションがああいう風に行なわれているわけではない」という件は確認しておくべきでしょう。
少なくとも根源的解釈の不自然さをもって、「だからデイヴィドソンの議論は間違っている」とするのは筋違いではないかと思われます。
(なお、ここが難しいのですが、何もわたしは「デイヴィドソンの議論を全面的に擁護したい」わけではありません。デイヴィドソンは好きな哲学者のひとりですが、「全面的に擁護」しようにもそもそもよく理解できない部分がたぶんにあります。「この議論は怪しげだ」と思う部分もあります。しかし答え方を間違えるとうっかり「全面的に擁護の布陣を張る」羽目になるかと思われるので、それだけは避けたいです)。
■ ここまでのまとめ
- 「根源的解釈」は架空の状況であり、実際の言語理解がああいう風に行なわれるわけではない。
では、根源的解釈の思考実験は何を論じるものなのか?
テキストに立ち返って述べるなら、主要な論点は、「何を言えば、言語の意味について説明したことになるのか?」「言語の意味を説明するとはどういうことなのか?」です*。
『真理と解釈』の冒頭には以下のように書かれています。
- 『真理と解釈』
勁草書房、1991
言葉がそれの意味するものを意味する、とはどういうことなのか。ここに集められた諸論文において、私は、次のふたつの要求を満足するような理論をどのように構成するのかを知るならば、この問題に対するひとつの回答をもつことになるだろう、という考想を探求する。
邦訳、序論iv
先回の記事では、「コミュニケーションにおいて可能なこと・不可能なことを明らかにする」とかいろいろ言いましたが、それらの論点はあくまでも付加的に(そしてどちらかと言えばデイヴィドソンのキャリアの中でも後の方になって)でてきたものであり、第一義の関心が上のように置かれていたことは確認すべきでしょう。
デイヴィドソンの関心は、「個別言語の意味論はどういうことを言うべきなのか」について考えることです。
なおここでの論点とはあまり関係ないですが、デイヴィドソンは、上記の問い
Q: 何を言えば、ある言語の意味について説明したことになるのか?
に対し、
A: 当該言語のすべての文の真理条件
という解答を用意しました。なぜ真理条件が重要かというと、真理条件を与えることによって、複数の文の関係や、単語と文の関係(総じて言えば文の構造)が明らかになるからです。
■ ここまでのまとめ
- 「根源的解釈」の思考実験は、「何を言えば言語の意味について説明したことになるのか?」を論じるためのものです。
- デイヴィドソンの答えは、「すべての文の真理条件」というものでした。
次に、わたしが先に書いた記事のなかで、「信念」および「意味」が「見えないもの」の位置に置かれていたことが、多少誤解を招くものであったようなので、その点について説明します。
この両者が「見えないもの」の側に置かれているのは、論点先取を避けるためです。
さて先に述べたように、デイヴィドソンの主要な論点は、「何を言えば、自然言語(英語)の意味を与えたことになるのか?」です。
では、ある言語の意味を与える際、「自然言語(英語)の意味」を所与の情報として用いることは許されるでしょうか?
われわれはすでに習得した言語をいともたやすく理解しますが、少なくともこの文脈では、それはひとまず「わからない」という風に仮定すべきです。
先のエントリにおいて、言語の意味が「見えないもの」の側に置かれていたのは、日常的に言語の意味がわからないからではなく、論点先取を避けるためにそういう設定になっています。
では、「言語の意味」以外のもの、たとえば「信念・意図・欲求」などは前提してもよいでしょうか?
「よい」という立場の人もいます。
たとえばポール・グライスは、「意図」の概念を使って「意味」の概念を定義しました。
- 『論理と会話』
しかし、これってちょっと変じゃないでしょうか?
他人の言葉をまったく理解できないのに、他人の意図がわかるという状況はありえないもののように思われます。
意図がすべて言語に還元されるかどうかはともかく、われわれの考える「意図」というのは「概念」や「命題」などと密接に結びついています。「概念」や「命題」が言語的なものであるかどうかについては諸説ありますが、少なくとも、所与の前提とするには、あまりにも言語の意味に近すぎるもののように見えます*。前提しないで作業を進めることができるなら、前提すべきではないものです。
ゆえに、論点先取を避けるなら、一切の心的なもの・意味的なものを「見えない」と仮定すべきです。分析哲学者がよく使う表現で言えば「内包的」なものはなるべく前提せずに議論を進めるべきです。繰り返しますが、これらのものが「日常的にも見えない」からではなく、論点先取を避けるために「見えない」と仮定すべきです。
しかし内包的なものをすべて消し去った状態で、言語の意味を理解できるでしょうか?
これは不可能に近い試みです。ここでは詳しく説明しませんが、これがとても困難であるという点については、クワインが丁寧に議論しています。
- 『ことばと対象』
では、いったいどんな条件を認めれば、言語の意味を導出することができるのか?という論点が関心にのぼります。
サールのように、「意味についてきちんとした説明を与えられないからと言って、意味という概念を使っちゃいけないという理由にはならない」という人もいますが、少なくとも「きちんとした説明が与えられた方がよい」というのは当然あってよい発想でしょう。
それに対しデイヴィドソンが提出したのは、「内包性から切り離しがたいが、比較的問題が少なそうに見える要素」(「真と見なす」)を使って、1つの言語の意味論を構成する作業だったわけです。
なお、以上のテキスト的根拠として、先に引用した『真理と解釈』序文の続きを引用しておきます。
言葉がそれの意味するものを意味する、とはどういうことなのか。ここに集められた諸論文において、私は、次のふたつの要求を満足するような理論をどのように構成するのかを知るならば、この問題に対するひとつの回答をもつことになるだろう、という考想を探求する。
その要求とは、
- (1)その理論が、ある話し手ないし話し手のグループの、現実的並びに潜在的な、すべての発話の解釈を提供するであろうということ、
- (2)またその理論は、その話し手の詳細な[信念、欲求、意図等の]命題的態度についての知識なしに、検証可能であろうということ、
のふたつである。
- 第一の条件は、言語理解の全体論的本性を認めている。
- 第二の条件は、その理論の基礎に、意味の概念と余りに密接な類縁性のある諸概念の密輸入を阻止すること、を狙いとする。
この両条件を満足しない理論は、哲学的に有益な仕方で冒頭の問題に答えた、と言うことはできない。
邦訳、序論iv、強調はわたし
■ ここまでのまとめ
- 言語の意味を説明する際は、内包的なものを前提しないことが望ましい。
- しかし内包的なものを前提せずに意味論を研究することはとても難しい。
最後に、id:contractioさんは、「解釈」という概念にひっかかっておられるようでしたので、デイヴィドソンの「解釈」概念に対する態度について触れておきます。
根源的「解釈」は「解釈」という名前がついていますが、「解釈」というのは「意味」という概念同様に、デイヴィドソンが頼るのを避けた概念であり、そのことについてはわりとはっきりと触れています。
もちろん、ある理論がある発話の明示的解釈を産み出すということがいかなることであるかは、なお明らかではない。問題がこのように定式化されれば、われわれはその理論を、独立変数として発話をとり、値として解釈をもつような関数を特定するものと思いたくなるであろう。
しかしの場合には、解釈は[実体化された抽象的存在者としての]意味も同然となり、まさに疑いなくある神秘的な種類の存在者に他ならないことになろう。それゆえ、理論に望まれていることを、意味[なるもの]や解釈[なるもの]に明白に言及せずに記述するのが賢明であるように思われる。つまり、理論を知る者は、その理論が適用される発話を解釈できる、と言えばよい。
『真理と解釈』邦訳p126、強調はわたし
つまり「解釈できる」という言い方は認めてもいいけど、「この発話の解釈がこれこれである」とか「解釈の過程はどういう風に行なわれるか」などといった使い方はしません、と言っているわけです。
■ ここまでのまとめ
- デイヴィドソンは「解釈」という概念は使ってない。
あんまり時間が空いてもアレなので、いったんこれでアップしますが、あといくつか補論を付け加える予定です。
■ 前置き
タイトルはホッテントリメーカーから。
最近ちょこちょこデイヴィドソンの論文を読み返したり読んだりしていたので、デイヴィドソンについて書いてみる。
以下はデイヴィドソン研究者でもなんでもないわたしの理解であるし、しかも「こういった言い方の方がわかりやすいだろう」というわたしバイアスのかかったアレンジをくわえてある。
読者諸氏はそのことに注意されたい。
なおT1,T2,T3という記号が振られたテーゼはデイヴィドソンがあまりはっきり書いてないが、はっきり書いた方がわかりやすいと思ってわたしが付け加えたテーゼである。
まず図を書いてお茶を濁す。

デイヴィドソンは「根源的解釈」と呼ばれる思考実験的なシチュエーションを好んで用いてきた。これはクワインのパクりであり、クワインの「根源的翻訳[Radical translation]」から取って「根源的解釈[Radical interpretaion」と呼ばれている。
根源的解釈のシチュエーションは以下のように設定されている。
- 言語学者が何の手がかりも無い未知の言語を理解しようとしている。
- 言語学者が利用できるリソースは非常に制限されている。
- 彼はさまざまな形式的理論(述語論理や意志決定理論)に訴えかけてこの未知の言語を理解しようとする。
言語学者は、人間というより解釈マシーンのように振舞い、少ない手がかりを使って、未知の言語の解釈を組み立てる。
問題になっているのは、「解釈マシーンにどんな理論と情報を与えれば、未知の言語を理解できるようになるか」ということである。
重要なことは、こういう非現実的な状況を想定することで、デイヴィドソンは何を論じようとしているのかということである。
思うに、これには2つの方向性がある。
(1)哲学的目的
デイヴィドソンの目的の1つは、他人の言葉を理解するという状況、つまりコミュニケーションに課せられた制約を明らかにすることである、とわたしは思う。
思考実験に出てくる言語学者は、不自然なまでに形式理論に熟達しており、誤りの可能性もなく、与えられたリソースをすべて有効に使おうとする。
こうした状況は非現実的だが、この言語学者=解釈マシーンに可能なことは他の人間にとってもおそらく原理的に可能なことであり、この言語学者にとって不可能なことはおそらくわれわれにとっても不可能である。要するに、こういう極端な状況を設定することで、他人の言葉を理解する上でそもそも可能なこと・不可能なことを明らかにしようとしているのである*。
(2)科学的目的
根源的解釈は、哲学的議論のためだけではなく、経験科学のプログラムとして設定されたものでもある(いわゆる「デイヴィドソンのプログラム」)。
デイヴィドソンの提案は、こういう状況設定から出発して、(自然言語の)意味論をやろうぜということである。デイヴィドソンの言うことが正しければ、意味論をやっている途中で心理学のようなことや社会学のようなことも一緒にやらなければならなくなるが、それも一緒にやろうぜということである(これがいわゆる「統一理論」)。
最近の展開についてはよく知らないが、デイヴィドソニアンな言語の研究は、後進の哲学者などを中心に多少は行なわれているらしい。日本でも飯田隆氏が少し試みていますね。
| 見えるもの | 見えないもの |
|---|---|
| 文の発話 | 言葉の意味 |
| 人がある文を真と見なす | 信念 |
| 人がある文を別の文より選好する | 欲求 |
さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。
デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。
わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。
さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。
一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味がわからなくても何となくわかるだろ、ということになっている。
デイヴィドソンの結論は、「真と見なす」「良いもの/悪いものと見なす(選好する)」という目に見える要素に加えて「信念」「欲求」にいくつかの一般的な原則を仮定すれば、言葉の意味がわかるようになるというものだ。また、3つの内どれか1つがわかれば残りの2つもわかるようになるというものだ。
■ 論理学者と宇宙人
- 『真理と解釈』
勁草書房、1991
以下、上の根源的解釈の話を論理パズルっぽい設定で簡単に説明してみよう。これらの議論は主として上の『真理と解釈』などの著作で展開されている。
デイヴィドソンがよく使うのは「未知の社会と言語学者」という設定だけど、「宇宙人と論理学者」にした方がそれっぽいと思うので、そう変えてみた。
ある論理学者が未知の言語を話す宇宙人社会に放り込まれた。論理学者にとって、宇宙人の言葉は何一つわからない。
論理学者は何とかして宇宙人の現地語を理解しようとして、観察を重ね、次のことを発見する。
宇宙人にとって、頷く、首を振るというジェスチャーはわれわれと同じことを意味するらしい。首を縦に振れば肯定であり、首を横に振れば否定である。
この手がかりを使って次のようなことを発見した。雨が降っているときに、しかも雨が降っているときだけ、宇宙人たちは宇宙語の「くぁwせdrftgyふじこlp」という文を真と見なすらしい。
「くぁwせdrftgyふじこlp」と聞くと首を縦に振り、肯定してくれる。
ここから導かれる解釈は「くぁwせdrftgyふじこlp」は、宇宙人語で「雨が降っている」を意味するということだろう。
デイヴィドソンはここからもう少し複雑な議論を行なっていて、単純な文の真偽だけではなく、もっと複雑な文の構造を分析する方法についても論じている*。というかそれがメインである。
しかし基本的なストーリーは上のようなものだ。
ここで考えてみよう。
上のストーリーには、必要な前提が2つある。
- (1)宇宙人がどの文を真と見なしているかがわかる。
- (2)宇宙人は、雨が降っていることを理解している。
(1)が満たされていなければ、上のストーリーがまったく成り立たないのは明らかだろう。要するに宇宙人の「肯定」「否定」がわからないとまったく手がかりがない。
また、仮に雨が降っていても、宇宙人が「雨」という概念を理解できない人たちだったら、やっぱりこのストーリーは成り立たない。宇宙人は、われわれと基本の概念が一致していて、雨が降ってるのを見て「雨が降っている」と認めるくらいに人間に近い生き物でなければならない。つまり宇宙人はわれわれによく似た信念を持っていなければならない。
別に宇宙人の信念について「こういう信念を持っているはずだ」とまで仮定を持ち込む必要はないが、「なるべくわれわれに近い世界観を持っているように、なるべく整合的になるように解釈してやる」という原則を認めれば、言葉の意味を解釈できるようになる。
■ みんな大体同じような世界観を持っている
(1)(2)が満たされれば、上のストーリーのようなやり方を通じて、宇宙語を理解できるようになる。ここまではよいとしよう。
しかしデイヴィドソンが何とか趣向を凝らして論証しようとしているのはこれよりさらに強い主張だ。
T1: これは他人の言葉を理解するための必要条件である。
つまり、共通の世界観(信念)や「真」の概念に訴えかけないかぎり、われわれには他人の言葉を理解する方法がない。それらのリソースは、他人の言葉を理解するためのほとんど唯一の手がかりなのである。
思うに、デイヴィドソンの議論をもって「こういうやり方で言語を理解することが可能だ」とするのはそれなりに説得力のある主張だ。しかし、「言語を理解するためには真理や信念に訴えることが絶対に必要だ」とまで論証できているのかどうかはよくわからない。しかしおそらくデイヴィドソンはそう考えているように思われる。
これはかなり強力な主張だ。これを認めると、(1)(2)は、「他人の言語を理解する」の必要条件ということになる。つまり何らかの言語をわれわれが理解しているなら、(1)(2)の前提は必ず満たされている。
「だから本当は他人の言葉など理解できないんだ」と言いたいわけではない。逆だ。たとえばわたしが日本語を理解しているというのは自明な前提である。デイヴィドソンは、そこから、言葉が通じるすべての人とわたしは、きわめてたくさんの世界観を共有しているという結論を引き出そうとしているのである。
- A. われわれは他人の言葉を大まかに理解している。
- B. われわれは他人が信じている世界観を大まかに理解している。
AもBも日常生活ではそれなりに成り立っているように見える。しかし、ふつうはこの2つは偶然両方とも成り立っているのであって、どちらか1つだけ欠けてもおかしくないかのように思われている。それに対し、デイヴィドソンはAとBは同時にしか成り立たないと言っているのである。
もっと言えば、相手の言葉を理解できるのに、世界が根本的に違うことなどない、しかも、ないというだけではなく、それは論理的に不可能だと言っているのである。
相手の言葉を理解することは、相手と自分が「大体同じような世界観を持っている」という前提のもとで、はじめて可能になる。
■ 信念は大体正しい
さらに強い主張もここから導かれる。
T3: われわれの信念のほとんどは真である。
ここまでの議論を認めたとしよう。
これを認めると、「基本的な世界観を共有していない人たちのことは、思考できない・想像もできない」ということになる(少なくとも、それはわれわれがコミュニケーションを取れるような生物ではない)。
以上を認めた上で、われわれの信念のほとんどが間違っていると仮定して矛盾を導こう。
「われわれの信念が間違っている」状況について具体的に考えていくと、われわれは「雨が降っている」と思っているが、実際には雨は降っていない。われわれは「地球は回っている」と思っているが、実際には地球は回ってない...などとなる。
あれ?
これって、たった今「不可能」と結論したばかりのこと、「基本的な信念を共有していない人たちについて考えること」じゃないだろうか? 今の仮定のなかでは、雨が降っていないということになっていたのに、「仮定の中のわれわれ」は雨が降っていると思っている。また「仮定の中のわれわれ」は地球は回っていないのに、地球が回っていると思っている...など。「仮定の中のわれわれ」とその仮定について考えているわれわれは少しも信念を共有できていない。
要するに、われわれの信念のほとんどが間違っていると仮定すると、「基本的な信念を共有していない人たち」について考えざるをえなくなる。
となると「われわれの信念のほとんどが間違っている」という仮定は、思考可能でない、そもそも矛盾した状況である。
ゆえに、「信念のほとんどは正しい。われわれの考えている世界観は大体あっている」と考えなければならない。
以上の議論が信念の正しさの保証を与えることにはならないが、間違っているという事態を想像もできない・思考できないという結論がでた以上、そう考えるしかないだろう*。
「相手の信念と言葉の解釈が依存しあう」という、ある意味では当り前のように見える主張から、かなり強力な議論が出てきた。
これを認めると「他人が何を考えているかわからない」という他人の心に対する懐疑主義や、「われわれの世界観は大きく間違っているかもしれない」という真理に対する懐疑主義は、完全に間違っていることになる。間違っているだけでなく、そもそも想定している状況がすでに矛盾しているのである。
■ みんなかなり合理的だ
春秋社、2007
以上は主に『真理と解釈』などで展開された議論である。『合理性の諸問題』などの著作では、これに加え「欲求」や「価値」の問題がクローズアップされる。
(実際には『真理と解釈』にも似たようなトピックを扱った論文があるが)。
そこでは、根源的解釈の少し違ったバージョンがでてくる。
さきほどの論理学者がまた別の宇宙人社会に放り込まれたとしよう。
論理学者は今度は、肯定と否定を理解することはできなかったが、宇宙人の「うれしそうな顔」と「嫌がっている顔」を理解できるようになった。
これによって、宇宙人が2つの文の内、どちらを好むのかがわかるようになった。
デイヴィドソンによれば、これだけでも言語の理解は可能になると言う。
これは解説が結構面倒なので詳細は省く。意志決定理論の変形版を用いて、効用から主観確率(信念の強さ)を発見するためのテクニカルな議論が行なわれているということだけ知っておけばよいと思う。
信念の度合いを発見できれば、あとは「真と見なす」とほぼ同じ議論を展開できる。「真と見なす」が「3/4の確率で真と見なしている」などの形に変わるが、それでもあまり議論が変わらないことはイメージできるのではないだろうか。
ここで必要なことは、宇宙人が意志決定理論の仮定からそれほどずれないような合理性を持っていることである。
具体的に言うと、多少われわれと好みがちがうくらいなら問題ないが、トートロジーをはげしく希求したり、論理的に不可能なことを希求するような宇宙人は困る。
「明日が雨であるか雨でないかどちらかであってほしい!」みたいな人がいると、解釈に困難をきたすと思われる。
Richard C. Jeffrey (著)
Univ of Chicago Pr (Tx),1990
なおデイヴィドソンの意志決定理論はこの本で展開されたものの応用である。
わたしも原本にあたったわけではないが、デイヴィドソンの本を読むかぎりだと、通常の意志決定理論のように「賭け」に対する選好を考えるのではなく、「命題」に対する選好を考えることで、論理学と相性のよい体系になっているようだ。
■ 最後に
最後におすすめのFirefoxプラグインを3つ紹介する。残念ながらデイヴィドソンとは無関係である。
HTMLを書くとき、CSSを書くとき、JavaScriptを書くときに便利です。便利っていうか、これが無いとHTMLもCSSもJavaScriptも書くのが大変困難。
携帯サイトをつくるときに便利です。PC上で絵文字の表示もできます。
HTTPヘッダを確認したいときに便利です。同様の機能はProxomitronなどにもあるが若干こちらの方が見やすい気がしないでもない。
- 『意味と様相(上)』
飯田 隆 (著)
勁草書房、1989
言語哲学大河入門書(?)シリーズその2。
実は3しか読んでいなかったので2もはじめて読んだ。
本巻では、論理実証主義、初期ウィトゲンシュタイン、クワインの言語哲学が解説・検討される。
目次
- 序章 必然性小史―アリストテレスからフレーゲまで
- 分析的真理と言語的必然性(論理実証主義の言語哲学)
- 規約による真理
- 分析性の退位―「経験主義のふたつのドグマ」
2章「規約による真理」はかなりの難物。むずかしかった。
「数学的真理は規約によって真である」「論理的真理は規約によって真である」という主張がそれぞれに検討され、さまざまな困難が指摘される。
結論としては両者とも「かなりのブレイクスルーがないかぎり無理」というところだろうか。
言い方を変えれば、「数学の哲学、論理学の哲学においてプラトニズムを避けることがいかに困難であるか」*。
ここで「プラトニズム」とは、「自然数」「集合」「命題」のような抽象的なものが、端的に存在するという立場**。
Theodore Sider, John Hawthorne, Dean W. Zimmerman
Blackwell Pub、2007
ちょうど勉強会で読んでいた論文が「抽象的なものは存在するか」というテーマだったせいもあって、これについて考えていたが、なかなか難しい。
当初の印象では「これは疑似問題ではないのか?」「よほど特殊な立場でないかぎり簡単に片がつきそう」「こんなこと考えて何になるのか」という思いもあったのだが、考えれば考えるほど迷宮入りしてくる。個人的には「存在する派」も「存在しない派」もどちらも直観に合う部分と合わない部分があって、態度決定しがたいなどと思っていたら、考えている内に本当にわけがわからなくなってきた。
飯田氏自身も、論理的必然性については何らかの言語的規約によるものだと考えたいらしいのだが、規約による真理説は、ここでの議論で完膚なきまでに叩きつぶされているように思える。著者自身「哲学のなかに『決定的な』議論といったものがありうるとするならば、それにきわめて近いもの」であるとまで言っている*。
「ウィトゲンシュタイン的」な根源的規約説なるものは、しりぞけられていないことになっているが、これはほとんど反則技というか、規約という概念を無意味なまでに空虚にすることで成り立つ説であるように思える。言っていることは「規約はあるけど、実態としては何でもあり」に近いように見える。直観に反するという点では、プラトニズムとあまり変わらないのではないか。
明示的な規約に替えて、「暗黙的な慣習(convention)」を導入すれば、議論の全体像が少しは変わるのではないかと思わないでもないが、いずれにせよ難しい問題である。
以下、どうして抽象的なものが存在すると考えたくなってしまうのか、簡単に書いてみる。
「自然数」を例にあげる。
トリビアルな意味で自然数が「存在する」のはほぼ問題ない。「自然数が存在する」などという形の命題が取り上げられることは滅多にないが、それは日常的にも受け入れられている多くの命題にとって論理的帰結であったり前提であったりする。
黒いカラスが存在する。
から
カラスが存在する。
を導くのは、妥当な論理的推論だろう。
同様に、
2以上10以下の自然数が存在する。
から
自然数が存在する。
を導くのは、妥当な論理的推論だろう。
また「自然数が存在する。」が偽なら、「2以上10以下の自然数が存在する。」も偽でなければならない。
トリビアルに存在するからと言って本当に存在するわけではないよと言いたい気もするのだが、トリビアルな側を認めつつ、うまいこと抽象的なものの存在だけを除去しようとしてもなかなかうまくいかない。この「トリビアルな意味では存在する」が意外と手強い。
プラトニズムに反する説として次のようなものがある。
「数学が扱うのは抽象的な構造にすぎない。」であるとか「数学は便利な虚構である。」という言い回しに見られるような考え方だ。これはよくある考え方であるし、個人的にはこれが実感に合う気もするのだが、以下の議論には唸らされた。
「抽象的な構造」説、つまり数学とは「もしもこれこれの公理を満足する構造が存在するならば、その構造はしかじかの性質をもつ」ということだけを確立する営みであるという説を取り上げ、飯田氏は以下のような議論を展開している(p146-)。
数学がこうした意味での抽象的な構造を扱うものだとしよう。自然数とは、「自然数論の公理を満すもの」という抽象的な規定にすぎない。
しかし、ここで言う「これこれの公理を満足する構造」は空集合であってはならないはずだ。もしこれらの公理を満たすものが1つもないならば、理論は空虚に真であり、理論の妥当性はどうでもよいことになってしまう。
問題は「そんな公理を満たすものが本当にあるだろうか?」という点である。何しろ、自然数や集合論や実数の公理を満たすものは無限でなければならない。しかし、自然界にそんなものが本当にあるのだろうか? 数学的対象以外に無限なものなんてあるだろうか?
(カントは時間と空間を無限の例としたそうだが、現代においてはそんなことは物理学者の研究によって明らかになることであって、哲学者が勝手に「アプリオリに真」などと決めつけるべきことではないだろう、とも)。
これに対し、うまい答え方はないものかと思うのだが、まったく思いつかない...。
唯名論者の側もすごい。
ハートリー・フィールドという人は、唯名論を擁護するために『Science Without Numbers』という著作で、自然数の存在を前提せずにニュートン力学を再構成したそうだ。詳細はわからないが、とてつもない作業に思える。しかしこれを聞くと逆に、唯名論というのはそんな努力を踏まなければ擁護できないのかと不安になる。
個人的な感慨以上のものではないが、プラトニズム(実在論)の問題点は、仮にそれが正しいとしても、それがどういう意味なのかよくわからないというところにあるのではないか。
「自然数は(or実数はor集合は)存在する」という主張が正しいとしても、「直接目で見ることもできないし、触れることもできないし、時空間のなかに場所を持つこともないけれど存在する」というのはいったいどういう意味なのだろう。天上にイデア界のような場所があり、そこには自然数が鎮座していて...などと考えると少しイメージが湧くが、メタファー以上のものではないだろう。
どういう意味も何も、その通りの意味だよと言われてしまいそうだが、腑に落ちないものは仕方ない。
たとえば命題「自然数は存在する」を認めると、結果としてどんな世界観を持つことになるのか。
そこまで含めて展開されないと、なかなか納得しがたかったりする。
たとえば「自然数や集合は存在するか」という問いを「数学はいかなる意味でリアルであるか」という問いに変えることはできるだろうか。
どうしてこの宇宙の中で自然数論や実数論や集合論を使った議論がうまくいくのかという方向で考え、「ほら、この宇宙ってこういう自然法則が成り立つからさ、だから数学の応用可能性がなりたつんだよ」とか。
いや改めて考えるとこれじゃダメかもしれない。自然数論とかそこまで応用可能性があるわけじゃないようだしなあ。
むしろ人間の認知や実践の部分に自然数を「使いたくなる」ような傾向があると考える方がよいのだろうか。しかしそうなると、「自然数」は人間にとって便利なだけの虚構であり、「数学的真理は文字通りに真であり、自然数がトリビアルに存在する」という直観の方は捨てなければならないかもしれない。
...などといろいろ考えるが、迷宮入りするばかりで、さっぱり考えがまとまらない。
■ 文献
- [B]Field, Hartry H. Science Without Numbers
- [B]Putnam, Hilary. Mathematics, Matter and Method: Philosophical Papers, vol. 1. Cambridge: Cambridge University Press, 1975
- [B]Sider,Theodore. Hawthorne, John. Zimmerman, John. Dean W.(編) Contemporary Debates in Metaphysics, Blackwell Pub, 2007
飯田隆
勁草書房、1987
ようやく読んだ。
フレーゲとラッセルの言語哲学に対する丁寧な注釈。おもしろい。
今見ると、フレーゲとラッセルの読解が丁寧なのはもちろんだが、同時代の英語圏の潮流を睨みながら書かれていることがわかる。
注などに頻出する名前は、マイケル・ダメット、G.エヴァンズ、ベイカー&ハッカー。
巻末のクイズについて。
最後に、本文を読み終えた読者のためにクイズをふたつ。(...)
- 1フレーゲの「Bedeutung」を「指示」と訳すのは、なぜまずいのか?
- 2ラッセルの「denote」を「指示する」と訳すのは、なぜまずいのか?
これらふたつのクイズに答えられれば、本文の理解は十分であると保証する。
p251
はじめいい加減に読み流していたらわからなかったので読み直した。
フレーゲの方はあまり自信がない。
クイズ1の解答:
フレーゲが掲げた「文脈原理」の方針を忠実に守るなら、語のイミ(Bedeutung)に先立って文のイミ(Bedeutung)を決定すべきである。
まず合成原理に従って「文のイミが真理値であるという。」という主張が擁護され、次に「文のイミ」を決定するために貢献する要素を「語」の中に探し求めるべきである。以上のような過程を踏んではじめて「語のイミはその指示対象である。」という主張が擁護される。「語のイミはその指示対象である。」という主張は、文のイミからの推論であり、こちらが前提であってはならない。
しかるに「Bedeutung」を「指示」と訳すと、「語のイミはその指示対象である。」という結論を先取りしてしまうことになる。
ゆえに「Bedeutung」を「指示」と訳してはいけないのである。
クイズ2の解答:
ラッセルにとって『表示(denote)』の問題とは、指示一般の問題とは区別される特殊な問題である。
表示の問題とは以下のような問題である。
『数学の原理』の時代のラッセルにとって、「概念」と「物」は異なった種類の対象である。「ラッセル」「フレーゲ」のような個人の名前は「物」を指示し、「白い」「人間である」などの述語は「概念」を指示する。
しかるに「ある男」「すべての人」などの表現が指示するのは概念である。固有名以外の表現はすべて基本的に概念を指示するのであるし、「ある男」「すべての人」などは、特定の物を指示する表現ではない。にもかかわらず「わたしは昨日ある男に会った。」という文は、わたしが人物に会ったことを述べており、わたしが「概念」に会ったことを述べているわけではない。つまり、概念「ある男」が文中で物を代理しているのである。
このようにして、「概念が物を代理する」という特殊な関係を「表示」と呼ぶ。また物を指示するような特殊な概念を「表示概念」、表示概念を指示する言語表現を「表示句」と言う。
「概念」の存在を前提しない中立的な表現で定式化しなおすならば、
「表示句は直接特定の物を指示する表現ではないにもかかわらず、文中で使用される場合には、物の代理をつとめているように見える。」
これが「表示」の問題である。
ラッセルにとっての「表示denote」の問題とは、以上のような特殊な現象であり、指示一般の問題とは異なる。
ゆえに「denote」を「指示する」と訳してはいけないのである*。
■ 文献
- [B]M. Dummett, Frege: Philosophy of Language. 1973(2nd ed. 1981), Duckworth.
- [B]M. Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy. 1981, Harvard University Press.
- [B]M. Dummett, "Can analytical philosophy be systematic and ought it to be?" in Truth and Other Enigmas. 1978, Duckworth.
- [B]G. Evans, The Varieties of Reference. 1982, Clarendon Press.
- [B]G.P. Baker & P.M.S. Hacker, Language, Sense & Nonsense. 1984, Basil Blackwell.
先日の「形而上学(スタンフォード哲学事典)」に関する訂正と補足。
http://www.at-akada.org/blog/2008/12/post-278.html
「性質」とか「普遍者」とか「クラス」とかについて整理する。
勝手な思い込みで「性質というのは集合のことだ」と思っていたのだが、どうもよく読むとこれは誤解だったらしい。
こういうのは図を書いた方がわかりやすいと思うので、図を描きながら整理する。
■集合とクラス

まず集合とクラスの関係。
「クラス」も「集合」もものの集まりであるが、「クラス」というのは生物種などのように「要素の間に内在的な統一がある集まり」のことだ。集合というのは、「何でもいいからとにかく要素を集めたもの」であるわけだが、それに対して、「ちゃんと必然性のある集まり」のことをクラスと言うらしい。
「クラスは集合の内の特殊なものである」って言ってよいのかどうかよくわからないが、とにかくクラスと集合はちょっとちがう。
もしクラスが特殊な集合であることを認めるなら、
クラス⊆集合
あるいは「コレクション」をものの集まりを表わす中立的な単語として使うことにして、
クラス ⊆ コレクション 集合 ⊆ コレクション
■クラスと性質

性質はクラスではない。
「白いもののクラス」はすべての白い個物を集めたコレクション。
一方、性質というのは、クラスのそれぞれのメンバーの内に「現われている(present in)」ものであるらしい。
先に書いたように「性質」と「クラス」を混同していたのだが、どうも違うらしい。確かに、よく考えると「性質はコレクションである」と言うより、「性質は個物に現われている」という方が自然な発想だろう。
白い個物 ∈ 白いもののクラス 白さという性質 is-present-in 白い個物
あと次、「基底を認めるか」「性質は個物の構成要素であるか」「トロープを認めるか」でいくつかの立場に分かれる。
- 性質は個物の構成要素であるという立場を「構成的存在論」、
- 性質は個物の構成要素ではないという立場を「関係的存在論」と言うらしい。
■ 構成的存在論1

構成的存在論その1。トロープがないバージョン。
普遍者=性質が、個物を直接「構成」している(is a constitute of)。
また、個物からあらゆる性質を除いたときに残るものを「基底(subtrace)」と言う。基底を認める人と認めない人がいる。
構成的存在論という立場がさらに、
- 「個物というのは普遍者の束(bundle)だよ」という立場と、
- 「個物というのは普遍者の束+基底だよ」という立場に分かれるわけだ。
白さの普遍者 is-a-consitute-of 白い個物 白い個物 falling-under 白さの普遍者
■ 構成的存在論2

構成的存在論その2。トロープを認めるバージョン。
普遍者=性質が直接個物を構成するのではなく、「個別的で抽象的な性質」であるところの「個別的性質(トロープ)」が個物を「構成」する。
つまり、「白さ(普遍的白さ)」とは別に「タージ・マハールの白さ(個別的白さ)」なるものがあって、これがタージ・マハールの構成要素なんだよという立場。
(図では一応「∈」にしたけど、個別的白さと普遍的白さの関係はよくわからない)。
個別的白さ in-a-constitute-of 白い個物 白い個物 falling-under 白さの普遍者
■ 関係的存在論

関係的存在論。
性質が個物の構成要素であると認めない立場。
性質と個物の関係は、「外在的で論理的」なものであって、構成要素となっているわけではない。
たぶん「関係的存在論のトロープありバージョン」というのもあるんじゃないかと思う。
ヴァン・インヴァーゲン「形而上学」
http://plato.stanford.edu/entries/metaphysics/
スタンフォード哲学事典の記事を、勉強のために読んでまとめる。今回は、ヴァン・インヴァーゲンさんによる「形而上学」の項目。
インヴァーゲンさんの論文は確か、『現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)』にも入っている。
うろおぼえだが、↑に収録されていたのは「なぜそもそも何かがあるのか」というすごいテーマの論文で、しかも内容は、「世界の可能なあり方のうち、物が1つも存在しない世界は1つしかなく、それ以外の世界は無限にある。よって、ものが存在しない世界が現実化する確率は0だから」というハイデガーが聞いたら卒倒しそうな確率論を使った議論で、「ちからわざww」と思った記憶がある。
次は、
「計算機科学の哲学」の項目を読んでまとめる予定。
The Philosophy of Computer Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
■ 感想
昔は、「分析哲学が形而上学だなんて意外!」と思ったものだったが、今はすっかり、「こういうのアメリカ人(とかオーストラリア人)が好きそう!」と思うようになった。
あんまりうまく言えないが、形而上学にはなんというか大陸的な匂いを感じる。
まったく悪い意味ではないのだが、「退屈さ」に満ちているというか。大陸の壮大な風景を延々と見せられ中にははっと目を瞠るような風景もたくさんあるのだが見ている内にだんだん眠くなってくる...みたいな大味の。刺激に対してだんだん感覚がマヒしてくる感じ?というとちょっと違うか。まあ壮大なゲームに興ずる大陸精神だよね。何言ってんのか自分でもよくわかんないけど。
あと、反形而上学ってジャーナリスティックに人気あるけど、そして論理実証主義って人気ないけど、反形而上学って大抵論理実証主義の親類なんだよね、と思った。
ネルソン・グッドマンなんて本人の自己規定も最後まで「論理実証主義者」だったんじゃないかと思うけど、なぜか論理実証主義がきらいそうな人に人気あるよね。あと後期ウィトゲンシュタインなども依然として典型的に論理実証主義的であると思うが、なぜか論理実証者がきらいそうな人に人気あるよね。
補足: ↑筆がすべって迂闊な放言を吐いてしまったので削除
だから何ということはないが、形而上学も楽しいですよ?的なことを言いたかったのかもしれない。
■ 要約
- 「形而上学」の元々の意味はアリストテレスから来ている。
- 本来の意味は
- 「存在としての存在(being as such)」
- 「事物の第一原因」
- 「変わらないもの」
- を研究する学問である。
現代では、この定義にはあまり意味はない
- 事物の第一原因などなどの存在を否定する人も形而上学に含まれる
- 事物の第一原因などなどとは関係ないテーマも形而上学に含まれる
■ 1. 語「形而上学」と形而上学の概念
- 形而上学というのはアリストテレスの著作のタイトルだが、アリストテレスの時代にはこの名称はなかった。
- アリストテレスの死後100年後に、編者が"xTa meta ta phusika"("the after the physicals")とつけた。
- physicsは「変わるもの」の研究であり、metaphysicsは「変わらないもの」の研究である。
- 「meta(後)」の意味するところは、「physicsを勉強してからこっちを勉強するように」ということである。
- なぜ「存在としての存在」と「第一原因」が同じ形而上学の中に入るかというと、第一原因とふつうのもののあいだには、「ある」という以外に共通点がないからである。
- 17世紀までは形而上学のテーマは「変わらないもの」とか「第一原因」で通用した。
- それ以降はphysicsのテーマだったさまざまなものごとがmetaphysicに分類されるようになった。
- 心身問題、自由意志、個人の同一性...etc
- 同時期「存在としての存在」は ontology のテーマになった。
- ポストライプニッツ学派の合理主義者は形而上学という語の濫用に気づいていた。
- Christian Wolffは一般形而上学と特殊形而上学をわけた。
- しかしこれはこじつけっぽい。
- おそらくmetaphysicsが濫用されるようになったのは、physicsがより限定された意味を持つようになったせいだろう。
- いずれにせよ、古い用法と今の用法はあまり関係ない。
■文献
- アリストテレスの形而上学について。
- Politis, Vasilis (2004): Aristotle and the Metaphysics. London and New York: Routledge.
■ 2 形而上学の問題: 古い形而上学
- 「形而上学」は昔より広い範囲の単語になったが、古い形而上学が扱った問題は今でも形而上学の主題である。
- 「存在としての存在」はどうしたって形而上学のテーマだ。
- こういう↓テーゼは、典型的に形而上学的
- 「あるものはあり、あらぬものはあらぬ(パルメニデス)」
- 「現実の実在は単なる理解の実在よりも大きい(アンセルムス)」
- 「『ある』は真の述語ではなく論理的な述語である(カント)」
- 「存在の述定は数0の否定に他ならない(フレーゲ)」
- 「『ある』とは束縛変項の値であることである(クワイン)」
- などなど
- 存在に関する見解の中には「存在としての存在」の研究に入れていいのか微妙なものもあるけどね(「存在するとは知覚されることである(バークリー)」とか)。
- 「非存在」に関する研究も、「存在としての存在」の研究に入る。
- 「第一原因」「変わらないもの」の研究も古くから形而上学のテーマ。
- 「第一原因はない」とか「変わらないものはない」という主張も形而上学のテーマだから気をつけてね。
- 少なくとも最近の発想では「形而上学的テーゼの否定」も形而上学的テーゼに入れる*。
- 現代の用法では、「反形而上学者」というのは、「形而上学の主題になるようなものの存在を否定する人」じゃなくて「そういうものが存在するかどうか」という問題設定自体を認めない人のことだよ。
■ 2.1 存在のカテゴリー
- 人間はよくものを分類する。
- 「内在的な統一」がないものをわざわざ分類することは滅多にないよね。
- 統一がある集まりのことを「クラス」と呼ぶ(統一がなくてもいいものは「集合」と言うよ)。生物種などが典型だ。
- クラスは大抵「自然」クラスであり、「(自然)種」だ。
- そのメンバーシップが何らかの意味で「斉一uniform」だ。
- ただし「自然なクラスなんて存在しない」というのもきちんとした哲学的テーゼである。
- もしこのテーゼが正しいなら、「存在のカテゴリー」なんて問題設定はダメなわけだけど、ちょっとここでは自然なクラスがあるものと仮定しておこう。
- クラスの内のいくつかは他のものより広い。たとえば「犬」より「動物」、「動物」より「生物」の方が広い
- そこで、「クラスに分類されうるもののクラス」、つまり一番広いクラスを考えよう。
- 包括的なクラスより、ちょっとだけ狭いクラスもあるはずだよね。
- 普遍クラスよりちょっとだけ狭いクラスのことを、「存在のカテゴリー」とか「存在論的カテゴリー」と言うよ。
- 「存在のカテゴリー」は、存在の本質(存在としての存在)と、中世以後形而上学に入るようになった新しい問題の中間に位置する。
- なぜならこいつらは普遍者universalsにかかわるからだ。
- 普遍者というのは、「白さ」とか「可塑性」みたいな「性質」のことだ。
- しかも、クラスのメンバーの「中に現われている」。
- あるいは、普遍者は「の北にある」みたいな「関係」のことだ。
- しかも、ものの組のクラスのメンバーの「中に現われている」*。
難しかったらとりあえず、「性質」「関係」というのは「集合」のことだなと思ってよいと思う。そんで、要素の中に顕現しちゃうような集合のことを「普遍者」と呼ぶんだと思えばいいんじゃないか。
訂正: ごめんなさい。この説明はたぶん間違いでした。「性質」は集合じゃないです。おそらく「白いもののクラス」が「白さという性質」とは別にあって、「白いもののクラスの要素に共通して現われているもの」を「白さという性質=普遍者」と呼ぶのです。
例をあげるのはむずかしいけど、
ちょっと誤訳修正:
- 性質こそ普遍者の例と考えられるのが通例だけど、普遍者は性質以外のものかもしれない。
- 『戦争と平和』という小説はこの小説のすべての印刷の中に現われてるよね。これが普遍者かもしれない。
- 「馬」という語のすべての発話の中に、「馬」という語が現われているよね。これが普遍者かもしれない。
- あるいは「馬」という自然種は、すべての馬の中にある意味では現われているよね。これが普遍者かもしれない。
- 普遍者が何らかの意味で存在するというテーゼのことを、「実在論」とか「プラトニズム」と呼ぶよ。
- 普遍者が存在しないというテーゼのことを、「唯名論」と呼ぶよ。
- この論争は昔からあるけど、クワインによって「存在論的コミットメント」と呼ばれる新しい要素がくわわった。
- われわれが持ってる最良の科学理論を、一階量化言語の標準的記法で書き直そう。
- 多くの場合、理論の帰結の中には、述語Fの存在汎化があるはずだ。
- しかもFを充足するのは、唯名論と矛盾するような対象だけだったりする。
- つまり、われわれの最良の科学理論は、唯名論と矛盾するような対象に対し、「存在論的コミットメント」しているわけだ。
- 例をあげてみよう。
「ある均質な対象があり、その質量は、g/cm^3の密度とg/cm^3の容積の積である」
∃x Hx & ∀x (Hx → Mx = Dx × Vx),
- ここから次が帰結する。
「x = y × z」をみたすx, y, zが存在する。
∃x ∃y ∃z (x = y × z)
- x, y, zを満すのは具体的には「数」だよね。
- つまりこの理論は「数」という抽象的存在者の存在にコミットしてるよね!
- 唯名論者はこの理論を認められないよね!
- 多くの実在論者は、普遍者は存在のカテゴリーの1つをなすと仮定してる。
- 普遍者じゃなくて、それよりも広い「抽象者」こそが存在のカテゴリーだという人もいる。
- しかしいずれにせよ、かなり広い方のカテゴリーだろうとみんな思っている。
- 存在のカテゴリーは、存在のカテゴリーより少し狭いサブカテゴリーを考える上でも重要だ。
- 存在のカテゴリーは、古い意味の形而上学にも属するよ(微妙な部分もあるけど)。
- アリストテレス『形而上学』でもプラトンの形相概念について述べられているし。
- ちなみに、「普遍者は対象に先がけてあるante res」か「普遍者は対象の中にあるin rebus」かというのがアリストテレスの問題だったわけだが、これは21世紀の形而上学でも問題だよ。
- 普遍者とか存在のカテゴリーについてもう少し考えよう。
- 白い2つの個物particularsについて考えてえみよう。タージ・マハールとワシントンのモニュメントとか両方とも白いよね。
- こいつらが白いのは、「白さ」の普遍者と関係を持っているからだ、としてみよう。
- この関係のことを「におさまるfalling under*」と言うことにしよう。
- すべての白いものが、そして白いものだけが、「白さ」におさまっている。
- さあ、この「おさまる」という関係について何が言えるか?
- なんでタージ・マハールが白さにおさまるのか?
- タージ・マハールは「ものに先がけた普遍者」の束であり、タージ・マハールが白いのは、この束の構成素の中に白さの普遍者があるからかもしれない。
- あるいは、タージ・マハールのような個物は、普遍者の束ではなく、普遍者以外のもの=基底(substrace)も含むかもしれない。
- あるいは、タージ・マハールのような個物は、普遍者でも基底でもないものを含むのかもしれない。
- 「具体的な個物」の他に、「抽象的な個物=個別的な性質」(「タージマハールの白さ」とか)があるのかもしれない。
- こういう「抽象的な個物=個別的な性質」のことを、「偶有」とか「トロープ」とか「性質インスタンス」という。
- たとえば、「タージ・マハールの白さ」のような個別的で抽象的な性質があるかもしれない。
- つまり、タージ・マハールは普遍者の束ではなく、偶有の束かもしれない。
- または、基底+偶有の束かもしれない。
- あるいは、アリストテレスが正しくて、「ものの中の普遍者」が存在するかもしれない。
- こういう風に、個体と、普遍者やトロープの関係をあれこれを考える理論を個物の「存在論的構造の理論」と呼ぶ。
- 存在論的構造の理論こそ、形而上学の中心問題だという人もあるくらいなもので、存在論的構造はとても重要だ。
- しかし性質が個物の構成素であるかどうかで、また一悶着ある。
- そもそも性質が個物の構成素じゃないんだったら、「個物の存在論的構造」なんて発想自体がおかしい。
- 性質は、個物の構成素であるという立場を「構成的存在論constitute ontology」、
- 性質は、個物の構成素ではないという立場を「関係的存在論relational ontology」と呼んだりする。
- 「個物に先がけた普遍者」を支持する立場の人は、関係的存在論を取りやすい。
- 関係的存在論の場合、普遍者はとてもたくさんあると考えることが多い。
- 白の普遍者だけじゃなく、「白くて丸くて、キラキラしているかまたは銀でできてはいないこと」の普遍者などもあると考えたりする。
■ 文献
- 普遍者について
- Armstrong, David (1989): Universals: An Opinionated Introduction. Boulder CO: Westview.
- Loux, Michael (2001) (ed.): Metaphysics: Contemporary Readings. London and New York: Routledge.の1部
- http://www.amazon.co.jp/dp/0415261074/ref=nosim/atakadaorg-22
- 存在論的コミットメントについて
- Quine, W. V. O. (1948): "On What There Is". In Quine (1961), 1-19.
- Quine, W. V. O. (1960): Word and Object. Cambridge MA: MIT Press.
- 存在のカテゴリーと存在論的構造について
- Lowe, E. J. (2006): The Four-Category Ontology: A Metaphysical Foundation for Natural Science. Oxford: the Clarendon Press.
- クワイン『ことばと対象』
■ 2.2 実体Substance
- 「笑顔」や「髪型」や「穴」などは、他のものの中にしか現われない。
- こういうものと違って、他のものと独立に存在できるもののことを「実体」と呼ぶ。
- アリストテレス用語では、"(protai) ousia"。
- 実体の特徴
- 述定の主語になるが、それ自体は他のものを述定したりしない*。
- 何らかの事物が実体の中にあることはあっても、実体が他のものの中にあることはない。
- 実体は、決定的なアイデンティティを持っている。
- 言い換えると、
- 「ある時点に存在する実体xと別の時点に存在する実体yが同じものかどうか?」という質問にはちゃんと意味があるし、答えは決定されている。
- 笑顔とか穴にはこういう決定的なアイデンティティがないよね。
- 実体があるかどうかは、依然形而上学の重要なテーマ。
- 実体って何よ?
- 日常的にわれわれが出会うもののうち、どれが実体なのか?
- 実体はいくつあるのか?
- などの問題があるよ。
- しかし「実体」についてはそもそも定義からしてはっきりしない部分がある。
- とりあえず以下のものが実体でないのははっきりしている。
- 普遍者およびその他の抽象者
- 出来事、過程、変化
- 肉、鉄、バターのような物質。
■ 3. 形而上学の問題: 「新しい」形而上学
■ 3.1 様相
- 哲学にとって長い間、真なる命題の内の2つのクラスが問題になってきた
- 偽であったかもしれない命題
- 偽ではありえない命題
- の2つである
- 前者の例は「パリはフランスの首都である。」、後者の例は「1より大きい整数nについて、nと2nの間には素数がある。」
- 中世の哲学者は、「必然的に真」と「偶然的に真」を「真」のmodeと見なしたので、必然とか偶然のことをmodalと呼ぶ。今は単なるラベルになってるのでこの名前にはあまり意味はないよ。
- 様相には、
- 命題の様相(de dicto)
- ものの様相(de re)
- の2種類がある
- 前者は、形而上学というより論理学のテーマだけど、後者は形而上学にかかわる。
- de re様相は、「新しい形而上学」のテーマだ。
- 多くの哲学者が「日常的対象ordinary objects」の様相的特徴を論じている。
- 人間の存在について考えてみよう。
- たとえば誰かふつうの人が「わたしは存在していなかったかもしれない」と言う。
- これ自体は明白な真理に思える。
- ということは、この人は、「偶然的存在」=「存在しなかったかもしれない存在」だ。
- じゃあ逆に考えると、「必然的存在」もあるかもしれない(ないかもしれない)。
- 次は性質について考えてみよう。
- 誰か英語しか喋れない人が「わたしはフランス語しか喋れなかったかもしれない」と言うとする。
- これは明白に真と思える。
- つまり「英語を話す」は偶然的性質だ。
- じゃあ逆に「必然的性質」はあるか。
- 必然的性質(本質的性質)は議論の種になりやすいけど、
- 少なくとも、「ポーチドエッグではない」という性質は、この人の必然的性質なのではないか。
- クワインはde dicto様相もde re様相も批判した。
- de dicto様相を「分析性」の概念に還元し、de re様相はそもそも意味をなさないとした。
- クワインの批判は、以下のようなものだ。
- 「自転車乗りは必然的に二本足だ」というde re様相が認められたとして、「数学者は偶然的に二本足だ」も正しいだろう。では「自転車乗りの数学者」はどうなる?
- これをうまく扱えないなら、de re様相などは無意味だ。
- この議論には、クリプキやプランティンガの批判がある。
- 多くの哲学者は、クワインの批判にはクリプキやプランティンガの応答で十分答えられたと思っている。
- クリプキやプランティンガは「可能世界」を用いた議論を行なった。
- 可能世界を用いた議論は形而上学で典型的に見られるものだ。
- クリプキやプランティンガの言う「可能世界」というのは、可能な事態state of affairsの集合である。
- 「事態xが実現し、かつ事態yが実現しない」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「含むinclude*」と言われる。
- 「事態xが実現し、かつ事態yが実現する」ということが不可能であるとき、事態xは事態yを「排除するpreclude」と言われる。
- 可能世界自体も可能な事態の1つである。
- 「可能世界」とは、「任意の事態xについて、それを含むか排除するかいずれかである」ような(極大な)事態である。
- 「ソクラテスが存在する」を含むすべての可能世界が、「ソクラテスが人間である」という事態も含むとき、「人間である」はソクラテスの本質的な性質である。
- クリプキ+プランティンガのおかげで様相についてはとても明晰になったが、代わりに様相の存在論や可能世界の存在論が必要になった。
- デイヴィド・ルイスの様相存在論では、「可能世界」は具体的な対象である。
- ふつうに言う世界は「現実の世界actual world」であり、他にもたくさんの世界がある。
- ルイスによれば「現実の」という語は、「今」「ここ」などと似たような(自分たちのいる世界を指す)指標的な表現なのである。
- de dicto様相については、クリプキ+プランティンガの理論とルイスの理論に違いはあまりない。
- しかしde re様相については違ってくる。
- なぜならルイスの理論に従えば、対象は必ず1つの世界にのみ存在するからである。
- ソクラテスは現実の世界にしか存在しない。しかしその「対応者counterparts」は他の世界にもいる。
- ソクラテスの対応者すべてが人間ならば、ソクラテスは本質的に人間である。
- 両者の解釈は他の点でも異なる。
- ルイスの理論では、様相は様相的でない概念で定義される。
- クリプキ+プランティンガでは、様相は定義できない。
- ルイスの理論はde re様相の反実在論を含意する。
- なぜなら「対応者関係」は複数あるからである。
- どういう「対応」に注目するかによって、ソクラテスの対応者は異なる。
- 対応者の選択は、語用論的、関心相対的である。
- しかしクリプキ+プランティンガの立場では、ある性質が本質的であるかどうかは客観的に決まる問題である。
■文献
- 様相批判
- Quine, W. V. O. (1960): Word and Object. Cambridge MA: MIT Press.
- 様相肯定
- Plantinga, Alvin (1974): The Nature of Necessity. Oxford: the Clarendon Press.
- Kripke, Saul (1972): Naming and Necessity. Cambridge MA: Harvard University Press.
- 様相実在
- Lewis, David (1986): On the Plurality of Worlds. Oxford: Blackwell.
- クリプキ『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』
■ 3.2 時間と空間
- 古来より時間と空間は密接にかかわる問題として扱われてきた。
- 時間が空間に類似していない部分はいろいろな哲学的問題を呼び起こす。
- 過去と未来の問題がその1つだ。
- 過去と未来は、現在がリアルであるのと同じ意味でリアルなのか?
- 時間の「動き」はリアルなのか幻想なのか?
- 反対に、空間が時間に類似していない部分が問題になることもある
- なんで空間って3次元なの?
- 慣時間的な同一性もよく問題になる。
- 関連して「人の同一性」とか「時間的部分」も問題になる。
- まとめると「時間と空間はリアルなのか?」「どれくらいリアルなのか?」が問題になりがち。
- 時間と空間のリアリティについては、中世までの形而上学と現在の形而上学の違いがよくでている。
- 昔の形而上学者は「ふつうの人の世界観は正しい」と見なしていたが、現代の形而上学者はこれを否定することもある。
- 時間と空間の問題は、中世までの形而上学のテーマではないが神の問題や普遍者の問題にもかかわっている。
- 神は永遠であり偏在するわけだし、普遍者も複数の個物の中に現われると見なされることもある。
■ 文献
- 時間と空間問題のリーディングス
- van Inwagen, Peter and Zimmerman, Dean W. (1998): Metaphysics: The Big Questions. Oxford: Blackwell.
■ 3.3 心身問題
- 人は心的なものと物理的なものを分けがち。
- 理由はおそらく認識論的な問題。思考と感覚は、外的な物理現象とは異なった風に認識される。
- 「異なった風に認識される対象は、異なった種類の対象だろう」というのが自然な発想だろう。
- この推論は妥当なものじゃないけど、そんなの関係ないだろうし。
- しかし、理由は何であれ、「心的なもの」と「物理的なもの」を分ける立場(二元論)を取ると、いろいろ哲学的な問題が生じる。
- 代表的な問題は、因果の問題。
- なんで心的なものと物理的なものは別々なのに、両者の間に因果関係があるの?
- どうして意志が、肉体を動かしたりできるの?
- 物理的な傷のせいで、痛みの感覚が生じるのはなぜ?
- 前者は、二元論者にとってより大きな問題。
- 心的な出来事が物理的な出来事を引き起こせるとすれば、エネルギー保存法則が破れてしまう。
- 宇宙の法則がみだれる!
- こういう心的なものと物理的なものの影響関係のことを「インタラクション問題」という*。
- 二元論の立場からこの問題に答えようとして、さまざまな形而上学的理論が生み出された。
- 心はシナプスの電気抵抗を変化させるので、エネルギー保存法則は乱れない、とか。
- しかし、「シナプスの電気抵抗を変化させる」のにエネルギーを消費しないというのは変な話だよね。
- 非物理的なものが物理的な系を変化させるなら、どうやったって保存法則は破れるよ。
- 一元論的な理論によるインタラクション問題の解決もある。
- 物理的なものの存在を否定: 観念主義
- 心的なものの存在を否定: 物理主義
- 大半の哲学者は物理主義をとる。
- 心がリアルであることを否定するわけじゃない(消去主義以外の)物理主義理論には、解決すべき形而上学的問題がある。
- そういった立場の人たちは、完全に物理的な世界の中に、心的な出来事+心的な状態を位置づけねばならない。
- もっと言うと、心的な出来事+心的な状態は、物理的な出来事+物理的な状態の特殊例だと考えねばならない。
- 心的な出来事と物理的な出来事を同一視する理論を、「同一説」と言うよ!
- 同一説が解決すべき3つの問題
- (1)心的普遍者(心的な出来事タイプ+心的な状態タイプ)は、物理的普遍者と同一であるか?(タイプ同一性)
- (2)物理主義によれば、心的出来事+状態は、因果作用を引き起こさないと本当に言えるのか?
- (3)物理的なものは、非物理的性質を持つことができるのか?
- 「赤を知覚すること」とか「ウィーンについて考えること」は物理的生物の非物理的性質なのか?
- 同一説は、「性質とは何か?」「出来事とは何か?」「状態とは何か?」という形而上学的問題を解決しなければならない。
■ 3.4 自由意志問題
- 自由意志は古くからある問題だけど、17世紀に機械の制作が進歩したせいで、より重要な問題として注目された。
- 未来の状態は、過去の状態+自然法則によって決定されているのかどうか?
- 決定されているとする立場を「決定論」と言う。
- 自由意志問題とは以下のジレンマのこと。
- 自由は、過去に何かを「付加」するものであるはずだ。
- もし決定論が正しければ、過去に付加しうるものは1つしかない。
- =>自由ない
- もし決定論が間違っているならば、未来は複数あるが、その内のどれが実現するかは偶然の問題である。
- 「わたしが嘘をつくか本当のことを言うか」が偶然の問題なら、「わたしが嘘をつくか本当のことを言うか」はわたしのせいじゃない。
- =>自由ない
- 自由意志が可能なら、この両者の少なくともどちらかは間違いでなければならない。
- 自由意志の問題とはこのジレンマを解決すること。
■ 文献
- 自由意志のジレンマ
- Ginet, Carl (1990): On Action. Cambridge: Cambridge University Press.
- 自由意志と形而上学
- van Inwagen, Peter (1998b): "The Mystery of Metaphysical Freedom". In van Inwagen and Zimmerman (1998), 365-374.
■ 3.5 物質的構成の問題
- 次は、「メレオロジー」と「物質的対象の本質」にかかわる諸問題。
- ここでの重要概念は「部分性」と「構成」だ。
- 問題1. 立像と塊問題
- 金の立像は、金の塊と空間的に共外延的である。
- ライプニッツの法則(不可識別者同一の法則の対偶: 識別できるものは同一でない法則)より、立像と塊は異なった対象である。
- なぜなら、塊は立像より以前からある。
- また、立像が壊されても塊は残る。
- つまり、塊は立像と異なった様相的性質を持っている。「変形されても残りうる」という性質である。
- 以上より、空間的に共外延的で、非様相的性質をすべて共有する2つの異なった対象が存在する。と、少なくとも一部の形而上学者は考えている。
- 別の派閥の人は、「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象などありえない」と論じている。
- その場合は、上の議論のどこが間違っているかを明らかにしなければならない。
- 別の派閥の人は、「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象などありえない」と論じている。
- 問題2.ティブとティブルス問題
- ティブルスは猫だ。
- ティブルスの尻尾を「シッポ」と呼び、尻尾以外の部分を「ティブ」と呼ぶことにしよう。
- さて、シッポが切り落されたとしよう。
- ティブルスは当然ながら生きている。
- ティブも存在する。
- ではティブとティブルスは同一なのだろうか?
- 「識別できるなら同一でない性質」に従えば同一ではない。
- これを認めるなら、やはり「空間的に一致し、非様相的性質をすべて共有する2つの対象」があることになる。
- 部分をすべて共有する2つの対象と言ってもよい。
- 以上の問題より、形而上学者の一部は、「部分性と同一性」に加え「構成」の概念が必要であると主張する。
- 先に存在したティブがある時点でティブルスを「構成」することになった。
■ 文献
- Baker, Lynne Rudder (2000): Persons and Bodies: A Constitution View. Cambridge: Cambridge University Press.
- Rea, Michael (ed.) (1997): Material Constitution: A Reader. Lanham MD: Rowman & Littlefield.
■ 形而上学の本質
- いろいろ説明したけど、形而上学の定義はむずかしい。
- ヴァン・インヴァーゲンによれば*、「形而上学の本質は、究極的現実を(十分に一般化された仕方で)描写しようとする試みにある」
- 「究極的現実」とか「十分に一般化された仕方で」にはもう少し説明がついている。
- しかしこの定義は広すぎるので、形而上学以外の科学や、哲学の他の分野まで含むのではないか?
- しかしそもそもきちんとした定義が可能なのかどうかさえ明らかではない。
■ 文献
- 形而上学の本質を定義しようとしているらしい。
- van Inwagen, Peter (1998a): "The Nature of Metaphysics". In Laurence and Macdonald (1998), 11-21.
- Laurence, Stephen and Cynthia Macdonald (eds.) (1998). Contemporary Readings in the Foundations of Metaphysics. Oxford: Blackwell.
■ 形而上学は可能なのか?
- 形而上学は不可能だという人は、ヒュームの時代からずっと存在する。
- 最近の議論ではこんなものがある。
- 「形而上学的主張」と「形而上学的でない主張」を分けられるとしよう。
- 「強い形而上学不可能説」は、
- 「形而上学的主張は無意味である。」
- 「弱い形而上学不可能説」は、
- 「形而上学的主張には意味があるが、人間にはその真偽が判別不可能である。」
- 「強い形而上学不可能説」は、
- 強いバージョンについて考えよう。
- 論理実証主義は、「(非分析的な)主張の意味は、その主張が可能な経験についてどんな予測を生み出すかという部分にある。」と考えた。
- 論理実証主義者はさらに、形而上学的主張は経験について予測しないので、無意味であると考えた。
- しかし、「(非分析的な)主張の意味は、その主張が可能な経験についてどんな予測を生み出すかという部分にある。」という主張自体が、経験的なものではないように思われる。
- この主張が真でも偽でも、世界はまったく同じように見えるのではないだろうか。
- 強い形而上学批判はだいたいこの手の「自己言及的矛盾」に陥ってるように思われる。
- 強い形而上学批判の事例は↓こんな感じかもしれない。
- 強い反形而上学主義者のDr. McZedは、彼女が考案したテストをパスしないテキストはすべて無意味であると主張する。
- テストを通らないテキストは「形而上学的」であると彼女は主張する。
- しかし彼女の主張の重要な部分はこのテストをパスしない。
- 最近の例だと、ファン・フラーセンの批判は洗練されているけれど、やっぱりそんな感じのものであると思える。
- 弱い主張の側はこんな感じ。
- 人間の精神は(あるいはすべての限定合理的なエージェントの精神は)、形而上学的結論に到達できない。
- このタイプの主張はカントくらいまで遡れる。
- この批判の最近のバージョンであるマッギンなどは、カントよりだいぶおとなしい。
- マッギンは、すべての精神ではなく、(進化論的偶然により生じた)人間の精神には、哲学的問題を扱う能力がないと論じた。
- しかしこの主張は人間の認知能力に関する経験的主張であるわりに、経験的裏付けがない。
■ 文献
- 強い形而上学批判
- van Fraassen, Bas C. (2002): The Empirical Stance. New Haven CT: Yale University Press.
- 弱い形而上学批判
- McGinn, Colin (1993): Problems in Philosophy: The Limits of Inquiry. Oxford: Blackwell.
- ファン・フラーセン『科学的世界像』
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
1.1 Chris Swoyer "抽象物(Abstract Entities)"
わたしはレジメ担当者じゃないのでレジメはつくってません。簡単な要約と感想だけ。
この本では、形而上学の様々なテーマについて、賛成反対それぞれの立場に立つ論者が議論を戦わせます。
1章のテーマは「抽象物は存在するか否か」です。1.1は「抽象者は存在する」という派閥の人の論文。
■ あらすじ
- 抽象物っていってもいろいろある。定義はむずかしいけど、『数』とか『性質』とか『命題』とかが抽象物の典型としてあげられる。
- これらの対象は、時空間のなかに位置をもたないとか、通常の因果関係の連鎖からは外れているなどなどの特徴がある。
- ここではこいつらの存在を擁護する議論をとりあげる。
- でも、抽象物っていってもいろいろあるから、「数は存在するけど、性質は存在しない」とかいろんな立場がありえるよ。
- とりあえず何か抽象物の存在を擁護するときの典型的な議論の仕方を紹介するよ。
- 昔の哲学者は、公理からの演繹で抽象物の存在を証明しようとしたよ。
- しかしこのやり方は全然成功しなかった。望みはないと思う。
- 最近のトレンドは、妥当な証明に訴えるのではなく、説得によるラフな議論を利用すること。
- 何かの現象をとりあげ、それを説明する理論をつくる。
- 説明がうまくいっていて、しかもその説明が抽象物の存在を必要としているなら、「やっぱこの抽象物は存在するよ」という説の説得力が増すはず。
- もっとも何がうまくいく説明なのかというのも、厳密な基準はないし、むずかしいんだけどね。
- 基準の1つは有名な「オッカムの剃刀」だけど、オッカムを持ち出して解決することも滅多にない。
- いずれにせよ、抽象者が存在するかどうかというのは、現象をうまく説明できる理論はどれ?というより広い枠組みの中で決まるよ。
■ 感想
序文のレジメで、「究極理論はないけど最善理論はある。なので最善理論の中の存在について語れば存在について語ることができる」みたいなことを書いた。
この論文はもろにそういう話だったので、「お、おれの理解は結構よい線いってるんじゃねえか?」と思った。
しかし「何が存在するかという問題は、結局『何が最善理論なのか』によって決まる」という話であれば、もう最初から理論的説明に飛び込んでいけばよいのであって、「抽象物は存在するか」という問い自体が微妙なんじゃないかと思った。議論の仕方の紹介としては親切な論文だったが、「抽象物は存在するか」という問題の立て方をしてもあんまり盛り上がらないんだなあという印象。
一方後編の「抽象物なんて存在しねえよ」論文がこれにどう応じるのかが興味深い。
あと、できれば個人的には、「存在っていってもいろんな存在の仕方があるよね。『椅子が存在する』のと、『100以下の素数が存在する』のは何か違うでしょう」という問題をもっと取りあげてほしかった。「抽象物は存在するか」と聞かれて、わたしの率直な感想は、「存在するって言ってもいろんな意味があるんだから、それを限定しないと議論にならなくない?」というものだったりするので。
もちろん「存在の意味が違うっていうのは『抽象者はある意味では存在する』って認めてるのと一緒だよね。抽象者が存在するかどうかがここのテーマなんだから、それを認めるならもう『存在する』で決定だよね」と言われれば、確かにそれまでなんだが。
『知識の哲学(The Probrem of Knowledge)』
A.J.エイヤー(著), 神野 慧一郎(訳)
白水社、1981
目次
- 1哲学と知識
- 哲学の方法
- 知識に共有の諸特色
- 知っているとは心が特別な状態にあることなのか
- 方法の論議―哲学と言語
- 知っているとは確信する権利をもつことである
- 2懐疑論と確実性
- 哲学的懐疑論
- 確実性の探究
- 「われ思う、ゆえにわれあり」
- 疑いに対して免疫のある言明は存在するか
- 公的な言語使用と私的な言語使用
- 自分自身の直接経験についての誤りは言葉のうえのものにすぎないのか
- いかにしてわれわれは知るのか
- 事実推理についての懐疑―帰納の問題
- 懐疑論の基本型
- 懐疑論者に応じるさまざまな方法に関するいくつかの所見
- 3知覚
- 物理的対象は直接に知覚されるか
- 錯覚からの議論
- 感覚所与を導入する一つの方法
- 感覚所与の合法性に関して
- 素朴実在論と知覚の因果説
- 現象論
- 物理的対象についての言明の正当化
- 4記憶
- 習慣記憶と出来事の記憶
- 記憶像はなくともよいということ
- 記憶・想起とは何か
- 過去の概念と記憶
- 過去に関する言明の分析について
- 過去と未来―記憶と予知
- なぜ原因は結果のあとに来ることができないのか
- 5私と他者
- 何が人物をして現にあるとおりの人物とするのか
- 人物の同一性の一般的な諸基準。それらは物理身体的なものでなければならないのか
- 経験の私的性格
- われわれは何を他者に伝達しうるか
- 物理主義のテーゼ
- 他者の心についての言明の分析と正当化
近所の図書館に邦訳があったので読んでみた。
すごく細かい議論を自然言語で丁寧に説明し、しかも落ちつくところはすべて穏健な結論というとても地味な本だが、ある意味とても哲学書らしい哲学書だと思う。
たとえば、
- 「センスデータという概念を使って大掛かりな理論を構築する人たち」と
- 「センスデータという概念は無意味であるという人たち」
の両方の主張を丁寧に検討したあげく、結論が
「センスデータという概念は注意して使えば無意味というほどでもないが、あまりメリットがないのでここでは採用しない」
という感じのものだったり。ひさびさに哲学書を堪能した気分。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
↑の本の元ネタ本の1つですね。基礎付け主義の批判の部分などは似てるか?
■ あらすじ
1章は方法論と結論。
知識を持つとは、心の状態ではありえない。なぜなら「...を知っている」ということは何かが真であるということに関わっており、「真である」は心の状態ではありえないからだ。「...を知っている」とは、何かを確信しており、それを確信する「権利を持つ」ことである。そのようにして権利を持つための正当化はさまざまな手段によってなされる。
2章は一般的な議論。
懐疑主義はわれわれの「知識を確信する権利」に疑問を投げかける。これに対し、疑いようのない主張から出発することで、揺ぎない知識を確立しようという哲学的プロジェクトがかつてあった。しかしこれは見込みのないものである。なぜなら、その手のプロジェクトは「偶然的真理」を無理矢理必然のものとして立証しようとしているからである。それによってかえって懐疑主義者の主張(不可謬な知識はありえない)がもっともなものとなってしまう。
しかし、そんなプロジェクト自体を捨ててしまえば懐疑主義者はおそるるに足りない。なぜなら彼等が要求していること(不可謬な知識をつくれ)ははじめから不可能なことなのであるから。
3章から5章は以上のような懐疑主義を遠ざける主張を各トピックごとに展開したもの。3章は知覚、4章は記憶、5章は他者の心に関する懐疑論をとりあげている。
■ もっと立ち入ってみる
地味な本だが、懐疑主義に対する批判はためになった。ある程度本を離れて自分の言葉にしてみると以下のようになる。
■ 知識とは
まず「知っている」とは、何かを信じており、その信念がしかるべき手段によって正当化されているということである(と少なくともエイヤーは考えている。言うまでもなくゲティア問題などは考慮されていない。何しろそれ以前の本だから。懐疑主義にいかに応じるかが大部分を占める本なので「知っているという現象の分析」はあまり重視されていない)。
たとえば、わたしは今自分がPCの前にすわっていることを知っている。そしてこの知識をさまざまな方法で確かめることができる。
- たとえば目をこらしてよく見る。
- さわってPCの感触を確かめる。
- 頭をふって夢でないことを確認する
などである。
もちろんいかなる手段をつくしても、「まだ疑える」と言うことはできるが、通常「目で見てさわって確認した」というのは知識を正当化するための十分な手段として認められている。「本当だって、この目で見たんだから」という場合がたとえばそうである。
これがもっと限定された科学の知識などであれば、よりコントロールされた正当化の方法(実験による観察や権威ある著者の発言など)が利用されるだろう。
以上が示しているのは、主張を確信するための手段はさまざまにあり、それら「正当化の方法」によって確かめられた主張をわれわれは「知識」として受け入れるということである。
■ 懐疑主義とは
一方懐疑主義とは何か。
懐疑主義は、上で説明したような「正当化の方法」の内の一部を否定する主張ではない。
たとえば「クガタチ」という風習があるが、かつて熱湯に手をつっこむことは知識を正当化する手段の一つだったのかもしれない。
しかし、この時代に「クガタチは知識を正当化する手段としてはどうか?嘘なのではないか?」という人がいたとして、それを懐疑主義とは呼ばない。同様に、科学の手法の一部を批判する人は懐疑主義者ではない。たとえば、「言語学における統計的手法は疑わしい」という人がいたとして、それを懐疑主義と呼ぶのは変だ。それは科学の方法論上の対立である。
懐疑主義というのは正当化の方法すべてに一挙に疑いを向けることである。懐疑主義者によればどんな正当化の方法も疑わしいものとされ、われわれの知識すべてが疑わしいものだと主張される。
■ 勝ちはどこにあるか
懐疑主義に対して必要なのは、懐疑主義者を説得し切るだけの論法を用意することではない。それはそもそも不可能である。なぜならば懐疑主義者はあらゆる知識の手段を疑うのだから、どんな論法を持ち出してもそれを懐疑することができてしまう。
目指すべきことは、説得することではなく、
- 「懐疑主義が健全な直観に従った堅固な立場である」
という主張を掘り崩すことである。懐疑主義者の主張を認めるとどれだけ不条理な結論が導かれるかを示し、懐疑主義の説得力をうばうことである。また、よく整理してみれば、懐疑主義の述べることがいかに平凡な主張であるかを示すことである。懐疑主義者はどれだけ不条理な結論を提示されても気にしないかもしれないが、それを認めるたびに懐疑主義の説得力は失なわれる。支持者を増やすことができなければ懐疑主義は無害である。
■ 事態はどのようになっているか

懐疑主義はときに「間違っている可能性」を盾に知識を攻撃する。どれほど確信されたかに見える主張であっても間違いの可能性は存在すると言うのだ。
それは正しい。しかし自明な意味で正しいだけだ。これを真に受けて、「真理をより確実なものに!」などと思ってはいけない。
事態は上のようになっている。十分に正当化され確信された主張も「不可謬である」わけではない。不可謬な主張と確信された主張はまったく別のグループに属する。それどころか、「不可謬な主張」のグループは空集合であるかもしれない。エイヤーは事実そうだと言う。
懐疑主義の主張を真に受け、確信された主張を、何とかして不可謬な主張にしようとしても無駄である。確信された主張の多くは、きわめて確からしいかもしれないが、論理的必然であるわけではない。
- 科学的命題の多く、
- 歴史的命題の多く、
- わたしが確信を持って受けいれている日常的真理は、
「きわめて確からしい」ものであっても、論理的必然ではない。たかだか偶然の真理である。正しい確率が9割になることはあっても10割になることはない。それを何とか不可謬にしようとするのは無駄である。
さらに、いわゆる「論理的必然」たとえば、数学的な証明手続きをへた命題などであっても、それは「必然に思える」だけであって不可謬ではないかもしれない(証明が間違っている可能性も無ではない)*。
そもそも不可謬な主張などというものは存在しないかもしれないのである。
エイヤーは「われ思うゆえにわれあり」と「わたしには赤く見えるように思われる」という2つのタイプの主張を取り上げて検討しているが、どちらも不可謬ではない(それか単に内容のない主張である)としている。
反懐疑主義者が懐疑主義者に対して言うべきことは、「それは通常受け入れられた手段によって正当化されている(私はそれをこの目で見た。こういう資料がある。こういう実験が報告されている...etc)」ということだけである。それは不可謬ではないかもしれないが9割の確率で正しい主張かもしれない。通常はそれで十分なのであり、「1割間違っている可能性がある」ということは大したダメージにもならない。
懐疑主義者がその「正当化の手段」に疑問を投げかけるなら、どんな手段ならよいのかを逆にたずねればよい。それに真面目に答えるなら相手はもはや懐疑主義者ではないし、すべての手段が無駄だというなら、もう相手にする必要もないかもしれない。
■ 人はなぜ懐疑主義者になるのか
エイヤーとは関係ないが、人はなぜ懐疑主義者になるかについて、考えたことを書いておく。
- 1つには、表現手段の貧しさである。
懐疑主義的に思える主張をする人の多くは、よく話を聞いてみると、実はもっと穏当な主張をしたがっているということがよくある。
- 本当は、「時代や社会によって主張を正当化する手段は異なる」という弱い主張をしたいだけなのに、「時代や社会によって真偽は異なる」と言うとか、
- 本当は、「完全に不可謬な主張は存在しない」という弱い主張をしたいだけなのに、「真理は存在しない」と言ってしまう。
どちらの場合も、前者は後者よりはるかに穏当でおそらく正しい主張である。
後者の形で述べた場合は、それを文字通りに認めた場合に発生する諸々の不条理を大量に抱えこまねばならなくなる。要は言い方がまずいせいで、余計なことを言ってしまっているのである。
こういう人は、単に別の言い方を工夫すれば簡単に受け入れられる主張になるのに、それを理解できず無駄に攻撃的な主張をしてしまうのである。
しかも往々にして本人は後者のより穏当な主張をしているつもりだったりするので、余計に話はややこしくなる。本人からすれば当り前のことを言ってるつもりなのに、なぜ周りが否定するか理解できない状態になる。
見方を変えれば後者の過激な言い方は比喩であり、文字通りに受け取るならただの間違いである。しかしそれを自分でわかっていないから話がおかしくなる。要は表現能力の不足であり、うまく使えもしないような比喩に頼ってしまった報いであるかと思う。
- もう1つには、過激な主張をしたいという下心がある。
穏当な主張はたいてい常識に沿ったものであり、おもしろくはない。単に平凡な主張に思えてしまう。
懐疑主義に走るのは若者の方が多いと思われるが、若者の一部は早急であり、平凡な知見を積み上げていくとか地味な実証を重ねるという気の長い工程をいやがる(私の若い頃だけかもしれないが)。
しかし簡単に独創的な主張ができれば苦労はしない。そこで過激な表現に走ることになる。
しかし、独創的も何も間違っているものははなからダメであるし、ろくなことが言えないからと言って過激な表現に走ったところで、やはりろくな意見にはならない。
こうした兆候に対し、効果的な対処法は、
- 「文字通りに受け取ると間違いであると示すこと」
- 「本当は何を主張したいのかを聞き出すこと」
- 「表現手段のまずさに気づかせること」
- 「過激な表現に走るのがいかにかっこ悪いかを効果的に教えること(馬鹿にすること)」
であるかと思われる。
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
先日行われたゆるふわMetaphysicians勉強会第1回のレジメ。↑の本を読んでいます。
最初の方歴史の話をふりたかったので、思いついたことを簡単に喋った。わりといい加減なことを言ってるのであまり本気にしないように。
感想としては、
- 科学と形而上学
- 記述的形而上学でいくか改訂的形而上学でいくか
の2つのトピックが重要視されているなあと思った。
↓ここからレジメ。
■ 感想
科学の話が多い。形而上学の多くの話題は科学哲学から派生した?
■ メモ
■ 歴史
- 古代: 形而上学全盛
- 中世: 形而上学というか神学
- 20世紀初: ラッセルとかフレーゲとか?
- 20世紀: 論理実証主義と言語哲学の時代。形而上学などもってのほか
- 20世紀末から: 形而上学の復活。
■ 形而上学はなぜ復活したのか?
- 形而上学でないものとは?
- =>経験主義
- 経験主義の批判が形而上学の復活を準備した?
■ 哲学は存在について語れない?
- 一昔前はよく「現代哲学は存在について語れない」と言われていた。
- こうした見解はどこにいったのか?
- 存在じゃなくて何について語るのか。
- 言語や理論。
- 言語や理論は特定の存在にコミットする。
- でも言語は取り替え可能だから、存在は相対的と思われていた。
- 本当に取り替え可能なのか?
- 人間はそう都合よく世界観を変えられないよね?
- 基礎的な日常的信念には結局縛られるよね。
- 日常的信念をベースに存在を語る可能性。
- 究極的理論はなくても最善理論はあるよね。
- 最善理論による存在論。
■ クワインとか
- クワイン
- 経験主義者。物理主義者。行動主義者。
- 形而上学には否定的。
- 存在論的コミットメント。
- 最善理論としての物理学=存在論という立場?
- グッドマン
- クワインの兄弟弟子。経験主義?
- 唯名論。
- 多数の世界=多数の真理を認める。
- ルイス
- クワインの弟子。
- 様相実在論。「ライプニッツ以来最大の体系的形而上学者」。
- でも、唯名論で唯物論で物理主義。
- 最善理論としての様相実在論。
↑なんかこの辺に微妙な線がありそう。
■ 要約
■ 形而上学ってなに?
- 形而上学は「世界がどんな風であるか」を問う。
- どうしてそんな抽象的な問いが成り立つの?
- 他の科学は個別的なものの性質について問う
- 形而上学は、そうした細部を抽象する
- ex.「このリンゴは赤い」から個物particularsと性質propertyをとりだす。
- Fact = Particlar + Property(Relation)
- 「世界には個物と性質」があるというとても一般的な事実をとりだした。
- 諸科学は、世界の個別領域で一般化する
- 形而上学は、世界を一般化する
■ 形而上学は何をするの?
哲学なので、ほとんどすべてのトピックは議論のまとになる。
- ex. 唯名論者は「個物と性質の2つが存在する」とは認めない。
- 唯名論者は"is red"という述語は認めるけど、述語は、何の対象も指示しないと考える。
- 1章へ
↑の議論に見られるように、形而上学の仕事は
- (1)見かけの上で多様な現象をパターン化すること
- (2)そのパターンを適切に描写する一般化をすること
■ 具体例
たとえば以下のようなトピックが問題になる
■ 1)必然性
- 科学は法則を主張する
- でも自然法則って何だろう?
- 物理学者は自然法則を「発見」するが、「創造」するわけではない
- 2章へ
- すべてが自然法則に従うとすれば、自由意志は存在するのだろうか?
- 7章へ
- 「電化を帯びた粒子は反発しあうはず」
- この「はずmustness」は何を意味するのだろう?
- 3章へ
■ 2)時間
- あらゆる種類の対象は時間を越えて存在する。
- 時間を越えるってどういうことだ?
- 子どもの頃と50歳の自分は同じ人なのか?
- 4-6章へ
■ 3)存在論
- 異なった種類の科学は異なった対象を記述する。
- 物理学者は、原子より小さな粒子(?)、生物学者は生物。
- でも、これらの対象すべてが存在すると信じなければならないのだろうか?
- 生物学的「対象」があるわけではないのに、生物学的「現象」があるなんて言えるのだろうか?
- 生体システムの構成素は、生物の部分であるpart ofと言われる。
- ↑こういう風に「部分を持った対象」について問うのが存在論の問いだ。
- 8章へ
- 他にも、「性質、数...etcは存在するか」と問うのも存在論の問いだ。
- 「ある種の対象が本当に存在するか?」と調べることが、どんな意味を持って考えるのは、メタ存在論の問いだ。
- 9章へ
■ よくあるパターン
形而上学にはいろんな領域があるけど、いくつかのテーマは繰り返しでてくる。
■ 1)ex. 還元主義 V.S. 「世界をそのままに」主義
- 1-1)ex. 自然法則
- 自然法則は規則性regularityを保証する。
- Jonathan Schafferは還元主義陣営のメンバー。
- 「自然法則には規則性を越えるものは無い!」
- 法則を規則性に還元。
- Jhon W. Carrollは反還元主義陣営のメンバー。
- 「法則の必然性には規則性以上のものがある!」
- 規則性に加えて必然性が必要。
- 1-2)ex.時間の経過
- 時間は(過去から未来に)「動く」ものだと考えられているけど?
- J.J.C. Smart(5.2)は、時間の経過についての還元主義。
- 時間は空間と同様の1つの次元にすぎず、動いているわけではない。
- 単に人間が過去しか記憶できないだけ。
- Dean Zimmermanは、反還元主義。
- 日常的直観の側が正しい。
- 過去は、「離れている」だけではなく、存在しない。
- J.J.C. Smart(5.2)は、時間の経過についての還元主義。
■ 2)ex. 科学と日常的信念の関係
- 科学と日常的信念が対立したらどうする?
- 科学を常識に合わせるべき?
- 常識を科学に合わせるべき?
- そもそも対立するというのが間違い?
- 2-1) ex. 時間
- 科学は時間を空間のように扱っている。
- Smartによれば科学に合わせるべき
- Zimmermanによれば常識に合わせるべき
[余談]
- 「空間が離散的かどうか?」という例もある。
- 「物理学によれば、空間は離散的だからアキレスと亀のパラドックスは生じない」って言われても困っちゃうよねみたいな。
[/余談]
- 2-2) ex. 自由意志と決定論
- 科学は、世界は自然法則に従うと言っている。
- これは、わたしたちの日常的な発想と食いちがう。
- Robert Kane(7.1)は、2つの描画は本当に対立していると論じている。
- 「自由などない!」
- Kadri Vihvelinは、自由についての信念を変える必要はないと言う。
- そもそも対立しているというのが間違いだという意見だ。
■ 科学と形而上学
- 極端はよくないという話
科学に従うか日常的信念に従うかについては両極端がある。
- 一方では、形而上学の仕事は科学をレポートすることだけ。
- もう一方では、形而上学は科学を無視して日常的信念だけに頼ればいい。
- どっちもどっちだ。
(1)科学原理派について。
科学は形而上学のすべての問いを解決するわけじゃない。
(2)日常信念派について
- 科学と日常信念は「別の世界」だよ派
しかしこれだと、信念が改訂される可能性はない。
科学も信念もthe worldについてのものであるはず。
[余談]
グッドマンなども↑こういう見解に入るように見える。
複数の領域=複数の真理が成り立つかどうかはわりと重要なトピックではないか。
哲学的立場としてはアレだが、「別の世界だよ」派は、個別領域の科学にとってはとっつきやすい立場のようにも思える。
(応用オントロジーとか、知識工学っぽいのってどっちかというとプラグマティックに領域相対的な存在論をやってそう)。
↓哲学の人はもっぱら「ゆるやかな改訂主義」みたいな感じか。
[/余談]
- 形而上学は耳を傾けるべきだけど、それがすべてじゃない派
- 日常的信念は出発点だが、改訂されてもいい。
- 日常的信念が相互に矛盾することもある。
- 科学と日常的信念だけではなく。基礎的信念には重みをつけるべきだし、科学に従うべき領域の信念には重みをつけなくていい。
- (血液型占いは信じなくてもいい、とか?)
- 「日常的」なだけでは何の意味もない。
フォース理性を信じよう!
- どっちにしても科学と対話すべき
- 科学はとても成功している。
- とても成功した理論!技術的優越!そして合意!
- 形而上学の歴史は、それにくらべればガチョウのレースみたいなものだ。
- 何千年も合意がえられないままだし、人を月に送ったりできない(笑)。
[余談]
哲学が失敗と非合意を宿命づけられているのは、成功するともう哲学じゃなくなるからという側面もあると思った。
哲学のある分野が成功すると、その成果は経済学とか数学とか認知科学とか言語学とかに引き取られていって経験科学者の仕事になる。
フレーゲとかラムジーとかケインズとかモンタギューが哲学者だったってもう誰も覚えてないよね問題。
あるいは、「昔言語学史見ててたら意味論の始祖のところに『言語学者ラッセル』って書いてあってびっくりしたよ問題」。
哲学=実験農場。
哲学=めんどうな問題に好きこのんで首をつっこむ人の集まり。
成功したものについては、「これは哲学が送り出した成果ですよ!」とか言っていった方がいいのか?
[/余談]
■ 形而上学と経験主義
- 形而上学なんて何の意味もないという哲学者もいる。
- 経験主義者。
- しかしこれは科学についてのナイーブな見方に基づいている。
- 科学者は見たままを報告しているわけではない。
- 科学の理論負荷性。
- 単純さとか包括性とかエレガンスとかで理論を選ぶ。
- もっとリアルな科学観に立てば謙遜して節度を持った形而上学の余地は残されている。
- 形而上学は観察からはじめる。
- そしてより一般的な理論を構築する。
- どの理論がよいかは観察では決まらないけど。
- やっぱり単純さとか包括性とかエレガンスとかで理論を選ぶ。
- 科学との連続性: ペシミズムは捨てよう。
- 科学との非連続性: 謙遜の気持ちを持とう。
- 形而上学の観察は非直接的。
- 理論選択の基準になるほどクリアじゃない。
- 形而上学は思弁的だし、めったに確かさを得られない。他にどんな風にできる?
- 経験主義をとるか形而上学をとるかはむずかしい問題だ。
- でもそれによって形而上学について考えるのをやめるべきじゃない。
- 「哲学はその分野の価値について問うことが、その当の分野の中心的な問いであるような分野なのである」
- 哲学者は自分の仕事に意味があるのかどうか、いつも不安。
- しかしメタな問いにかかずらわるのは後にしよう。
- どうせあれこれの哲学は不可能だなんて言っていた理論はみんな失敗したんだから(笑)。
最近英語の勉強と趣味で、英語圏の哲学ブログを読むようにしている。日本で分析哲学に触れるブログは決して多くないが、さすがに英語圏のブログは数も豊富でなかなか盛り上がっている様子。ブログ上でもいかれた思考実験がくりひろげられてて楽しいです。
最新の話題に触れることができるし、ブログ記事だからそれほど長くもないし、英語圏のブログを読むのはおすすめです。
■ for English people
I want to introduce for Japanese people English philosophy blogs by this post.
■ どうやって哲学ブログを見つけるか
著名な哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが哲学ブログのリンク集をつくっています。
これを見ながら適当におもしろそうなブログを見つけて、さらにそのブログのリンクなどをたどっていくといろいろ見つけられます。ただしリンク切れもいくつかあるので、ちょっと古いかもしれないです。
下で書いたPhilosphers' Carnival をチェックするのもいいかも。
■ グループブログ
日本ではあまり見られないが、英語圏にはなぜか学生などが集団でブログを書くグループブログというものがある。「芸術の哲学を研究している学生が書いてるブログ」とか「ミシガン大の哲学を学ぶ学生が書いているブログ」など。
当然ながら、ぜんぜん更新されないところもあるけど。
なんてもっと更新されてほしいですね。
おもしろいところではExperimental Philosphy(実験哲学)なんてのもある。
恥かしながら最近までこのExperimental Philosphy(X-Phiと略すらしい)について知らなかったのだが、心理学実験のような実験を哲学研究にも取り入れようという潮流だそうです。Wikipediaによると2000年以降にはじまった新しい動きだそうだけど、なかなか盛り上がっていて、今では50人以上も研究者がいるそう。ブログの更新頻度も高いです。
あと哲学ブログが使ってるサービスはwordpressかblogspotが多い印象。日本だとはてなとかでしょうか。
■ Philosphers' Carnival
哲学ブログの数が多いせいかイベントも行なわれている。Philosophers' Carnivalというものが定期的に開催され、「ベスト哲学ポスト」を決めています。Blog Carnivalというツールをつかってるみたいですね。
結構な高頻度で開催されており、2週間おきに部門ごとのベストポストを選んでいるようです。
- epistemology
- logic and language
- metaphysics
- moral philosophy
- political philosophy
- other
の6部門。
こちらが公式サイト。
- ここのフィードで更新をチェックできます。
Blog Carnival - philosophers' carnival
■ Philosphers' Carnival#82
英語圏の哲学ブログの雰囲気を伝えるために最近のPhilosphers' Carnival#82にあげられたエントリを紹介します。ちゃんと読んでないのもあるので、紹介が適当でごめんなさい。
以下が各記事の紹介エントリ。
(毎回ホストを持ち回りにして、受賞したエントリの紹介をしているようです)。
Philosophy, et cetera: Philosophers' Carnival #82
↓以下からがCarnivalにあげられたポストです。
笑った表情や怒った表情に薬品で固定して、それが人の感情にどんな影響を与えるかという実験の話。
内省しなくても自分の心について知識を得ることができるという話。
哲学史。プラトンの教育論について。
哲学史。哲学と喜劇の関係。
哲学史。バークリーの話。ごめんなさい、この辺の哲学史の話ほとんど読んでない。
2つの物体の衝突はありえるかという話。このトピックは『穴と境界』でも紹介されてたなー。
このPossibly Philosphyというブログは、わりとハードな論理の哲学とかMetaphysicsのいかれた思考実験が多く、更新頻度も高めでおもしろいです。むずかしいけど。
錯覚論法や水槽の中の脳論法による懐疑主義をどうやって論破するかという話。
帰納の新しい謎(グルーのパラドックス)の解決について考えてみた話。ツンデレとは関係ない話みたいですね。
ほとんどがグルーのパラドックスの紹介で最後に少し、自分で考えた解決が示唆されています。
科学における分類の話。性質による分類と名前だけの分類とか。これはおもしろかったです。
バイアスの話。peer disagreementというのは同等の立場の2人が非同意になることのようですね。知識の哲学方面の話なのかな。ちょっと知識がない&英文読解があやしくてあまり把握できてないです。























