うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“思いつき”タグの付いているブログ記事
■ ふと思った
「日本一のランナー」と呼ぶか「世界大会最下位のランナー」と呼ぶかで、(たとえ同じ人のことであったとしても)その意味はまったく『異なる』と言う。
一方、「AはBにみかんをあげた」と「BはAにみかんをもらった」という2つの文は『同じ』意味だと言う。
ここで、「異なる」と言われた場合の『意味』と「同じ」と言われた場合の『意味』はそれぞれ同じことをイミしているのだろうか。
ぼかしても仕方ないので、書くと、前者の『意味』はときに『意義』sense(内包)と呼ばれ、後者の『意味』はときに『指示』reference(外延)と呼ばれる*1。「宵の明星」と「明けの明星」は外延(指示対象)は同じ(金星)だが、その内包(意義)は異なると言ったりする。外延は比較的定義しやすい。
もしも「日本一のランナー」と「世界大会最下位のランナー」という表現が同じ外延/指示対象を持つならば、つまり、同じ人物のことを指しているならば、
昨日xに会った。
という文のxの部分にどちらの語を代入しても、文全体の外延的意味は変わらない。これによって「外延的意味」を文の場合にも拡張できる。
つまり==という記号を「外延的意味が等しい」というイミで使うならば、
A,Bがそれぞれ指示表現であり、同じ指示対象を持つならば、 A==B
一方 X==Yならば S_X==S_Y (ただしS_X,S_Yは同じ文の同じ部分をそれぞれX,Yで置き換えたものであり、ともに文法的に適格な文であるものとする)。
ちなみにこれは、わたしが今適当に書いてみただけのいい加減な定義だが、もっとブラッシュアップすること自体は可能だろう。この定義によいところがあるとすれば、一応再帰的な定義になっているので、有限のルールだけを使って、無限のケースをカバーしているところである。
一方、「日本一のランナーに会った」と「世界大会最下位のランナーに会った」という2つの文に何か違いがあるのだとすれば、それは内包的意味の違いであるとされる。
以上は単に『外延的意味』と『内包的意味』という2つの語を定義しただけの話だから、ここで疑いをはさむのはヘンな話だと思う。しかし、どこかにねじくれたものを感じる*2。
問題は、「内包的意味」というものを説明するにあたって、どうしても「内包的意味が同じ場合」ではなく「内包的意味が異なる場合」を参照してしまいたくなることだ。
日常的に「意味が同じ」という形で『意味』という概念を使うとき、対象となるのは、ほぼ外延的意味であるように思われる。日常会話で「内包的意味が異なる」といった趣旨の発言をしているところは想像できるが、「内包的意味が同じ」というのはどんな場合であるかが想像できない*3。
しかし、同一性の条件すらもうまく規定できないならば、「内包的意味」という概念はほとんど役に立たないのではないだろうか。じゃあ内包なんか無いのかというとやっぱりそういうわけでもないし、考えていたらだんだんわけがわからなくなってきた。
外延は「値の同一性」、内包は「個体の同一性」を指しているのだとすればどうだろう。
つまり、
「日本一のランナーに会った。」
「世界大会最下位のランナーに会った。」
というそれぞれの発話を、それぞれ新しい表現を生み出すものとして考える。外延的意味によって比較されるのは、それぞれの表現に属する「値」のみであり、個体としての同一性までは問われない。
擬似的な言語を使って表現すれば、
a = new Expression(); a.reference = ...; b = new Expression(); b.reference = ...;
と解釈する。
a,bは表現クラスに属する別々の個体である。
しかしExpressionは、referenceというプロパティの値によって比較されるので、
このとき
a == b #=> true
となる。
一方、内包的意味が等しいことを===という記号で表現しよう。
a,bは同じ値を持つが、異なった個体(オブジェクト)なので、
a === b #=> false
じゃあ、内包的意味が同じ表現をつくるにはどうすればよいかと言うと「代入」すればよい。
「昨日日本一のランナーに会った。」
「その『日本一のランナー』って表現はなかなかいいね。」
「その『日本一のランナー』って表現」の部分は、「日本一のランナー」という前の発言の引用である。
従って「その『日本一のランナー』って表現」という部分をcとすれば、cが参照する値とaは内包的意味を等しくする(なぜならばcが参照する値はa自身だからである)。
c = a; a === c: #=> true
しかし正確に言えば、cはaと「表現として同一」であるわけではない。cが引用表現として参照する値がa自身であるためa===cとなるのである。
ところがこの際、コンピュータ言語の実装としてならばともかく、自然言語のモデルとして考えるならば、引用表現であるcが表現オブジェクトではないというのは一貫性に欠ける。従ってcを「変数」として特別扱いするのは止め、aをreferenceとして持つ表現と考えよう。
つまり以下のようになる。
c = new Quote(); #QuoteはExpresionのサブクラス c.reference = a;
このとき、cはa自身とは異なる個体であるため a===c は偽となる。
一方
c.reference === a
これはtrueを返す。
つまり、「内包的意味が等しい2つの異なった表現があるか」という問いは、「自然言語に変数はあるか」という別の問いによって置き換えられる...のか。一方「変数」とは何かと言えば「つねに評価された後である記号」のことであり、われわれが変数に出会うのは変数に代入する場合(左辺値としての変数)であるか、すでに評価され値に姿を変えた場合(右辺値としての変数)であり、「変数そのもの」を精査する機会が訪れることはない。従ってあらゆる表現はオブジェクトとして固有の位置を持つにもかかわらず、変数にはそれがない。唯一変数だけが純粋な記号である。そういえばある哲学者は(ある哲学者といえばウィトゲンシュタインのことに決まっているわけだが)、「対象」という謎の概念をさんざん駆使したあげく「対象とは変数(変項)のことである」と吐き捨てたのではなかっただろうか。
しかしLispにはquoteがあるので、Lisp的な世界でのみ、われわれは純粋な記号そして純粋な対象に出会うことができる。問題は自然言語がLispであるかどうかだが、コンピュータ言語CであってもLispであっても原理的に同じプログラムを書くことが可能であるならば言語の違いとは結局、内包的意味の違いにすぎず、再び最初の問いに戻らなければならない...のか。
...何を言ってるのかわからないので、この辺でやめる。
- *1: 個人的には内包的意味のことを「意義」と訳すのはあまり好きではないし、「内包」とか「外延」などというイミのわからない語も好きではない(そもそもこういう言語論的な文脈における「内包」とか「外延」という語の使い方は、この2語の本来のイミとも違うようだし)。本当は前者を「意味」、後者を「指示」とでも訳したいところだが、「意味」という語は「内包」と「外延」の両方をまとめたものに対して使いたいので、結局「内包的意味」「外延的意味」という語を使う
- *2: 自分で定義しておいて疑問を差しはさむのはヘンだが、自分のなかの複数の直観の間に齟齬があるのでこういう書き方になってます。要するに思考過程をメモしているだけなので気にしないでください。
- *3: しいて言えば「ニュアンスがぴったり」という場合だろうが、万人の間で「ニュアンスがぴったり」が一致することなんてあるだろうか
■ 外人のジョークが好きだ
ギャグとかって、自分の身近な感覚よりも疎遠なところから飛んでくる方が飛距離があってよりおもしろいと思うんだ。
というわけで外人のジョークが好きだ。意味がわからないことも多いけど。
そして今日の外人ジョーク。
「人間には、数学がわかる人間と数学がわからない人間の3種類いる」
■ EOP
できごと指向プログラム(EOP)というのを思いついた。
式の集合をできごとと見なすことで、複数のできごと同士の関連を表現することができる。
i = 0
e1 = Event.that{puts i}
#e1 はX というできごと
e1.happen
#e1 がおこる
#=> 0
Event.that{puts i}.happen
#=> 0
#これでも同じ
e2 = Event.that{i += 1}
e2.cause(e1)
# e2はe1を引きおこす
e2.happen
#=> 1
一瞬すごいアイデアのような気がしたのだが、よく考えるとそうでもなかったかもしれない。
なんでそんなことを思いついたかというと、
↓この本に
勁草書房、2004
HがSを信頼しており、自分もHも言語共同体LCに属するとSが信じているとき、SがHにXと言うことがpをHが信じるようになることをSが欲しているとHが思うことを惹き起こすとSが信じているならば、SがHにXと言うことがpをHが信じることを惹き起こすとSは信じている。
p102
という日本語の限界に挑戦した文が載っており、考えていたら頭がプリオンになってきたので
S.believe[( s.say(H, X) ).cause( H.think( S.want( H.believe(p) ) )]
→
S.believe[( s.say(H, X) ).cause( H.believe(p) )]
というのを書いて整理していたせいである。
ちなみによく読むと、元の文は結局、『信頼があるならば、「おれが信じてほしがっているのが伝わったなら、信じてくれるはず」という信念もあるはずだよね』というくらいのことを述べているだけだった。
夏厨です。
■[思いつき] 新しいwiiのゲーム考えた
名付けて「wii衆愚」。
画面のなかで独裁者が演説をするから、タイミングを察し、腕をふりあげたり敬礼したりする。
タイミングよく反応すると演説が盛り上がり、聴衆がしだいに増えていく。
「小政党」→「大政党」→「政権」→「大国の指導者」とだんだん独裁者の格がレベルアップし、それにつれて演説の難易度もあがっていく。
■ 増田
http://anond.hatelabo.jp/20070804125557
従妹を花火大会に連れていく話。釣りっぽいけど、萌え。
つづき
http://anond.hatelabo.jp/20070806150658
今度は、従妹に「婚約指輪」をねだられる話。いっそうの釣り臭が...(でもいい)。
ところで最近増田をよく見ているのだが、増田は学歴と恋愛の話ばっかでちょっとうんざりする。たまにはもっと「好きな味噌汁の具」などについて語ってほしい。「性愛と学歴以外の話をする増田」もあればいいのになー。
■ 今日知ったパターンランゲージ
「釣りでした」→「よかった。病気の子どもはいなかったんだ」
なんどか見たことはあったが、パターンランゲージになっていたことを知らなかった。
元ネタはジョニーウォーカー黒ラベルのCMらしい。
■ パターンランゲージ
パターンランゲージ(デザインパターン)というのは、よい概念だと思う。プログラムだけでなく、作品に対しても使える概念なので(というか元々そういうもんだし)、美学などでももっと使う人が出てくればよい。「小説のパターンランゲージ」みたいな研究があったらぜひ読みたいぞ。
しかし、会話分析でいう隣接ペア(挨拶に対して挨拶を返すとか)みたいに、複数人の間での「応答」に焦点化したような概念も、これとは別にあればよいのになと思う。プログラム文脈の場合、ソースコードそのものをユーザーとやりとりするわけではないから、デザインパターンと言うと「問題解決のための反復可能なパターン」だけが含まれているような感じを受けてしまう。
しかしそれだけではなく、「ぬるぽ」と「ガッ」みたいに、複数人のあいだの定型パターン(の特殊性)まで含めて考えた方がおもしろいと思うんだ。
■ メモ
クリストファー・アレグザンダー (著), 平田翰那(訳)
鹿島出版会、1984
高っ。しかも抄訳?
■ 天皇制的なもの
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070806
こやの先生がいいことを言った。こういう正論大好き。
■ パターンランゲージその2
ゲゲゲの鬼太郎 第5期 第18話
http://www.nicovideo.jp/watch/sm770591
「このロリコンどもめ!」を観に行った。
祭になっている。
お台場おわた!
■ あたらしい概念
感情にふりまわされ、各方面を考慮してもどう考えても自分の得にならないような行動をしている人を見ると、ある種のイノセントを感じ、「大きな声では褒められないが、感動!」みたいな感覚を覚えることがある。
こうした感慨を表現するために、「計算低さ」に相当する良いニュアンスの言葉があればいいのになと思う。
たとえば「朴訥な人です」とか「剛毅だな!」みたいな感じで、「見事な素朴さ! 計算低さよ!」と褒めたたえるの。
■ 生活感
美味しいアイスコーヒーの淹れ方
http://www.nicovideo.jp/watch/1180150739
ニコニコキッチン。これはためになる。
アイスコーヒーって、氷で冷すと薄くなるので、自分ではつくらなかったのだが、水につければいいんだな、なるほど。
つくってみた。
かなり濃くつくらないとダメだなー。しかしがんばればアイスコーヒー代を浮かせられそうなのでがんばろー。
■ かまってちゃん
皆がわたしにかまわざるをえないようなシステムを構築し、かまわれ界の帝王として君臨したい。
- マツゲックリ
松かさのかわりに睫毛が生えている。
カール・ポパーという名前を聞いて笑う人と笑わない人がいる。
私はこの名前、思い出すだけで吹き出しそうになるほどおもしろいと思うのだが、人に説明してもわかってもらえるときとわかってもらえない時がある。おもしろいと思うんだけどなー。だってポパーだってw ちょっwww 何その名前w 名前じゃなくて音かよ! ポパー! ポパー! て角笛かよw
という具合。
前回:
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_108.html
つづかないと書いたが、書いた後考えていると、やっぱり前回書いたことはちがっていたのではないかと思いだした。だから改めて訂正見解を書きたいのだが、コメント欄になぜか「おもしろくない」と書かれてしまったのでつづきが書きにくい。
今訂正見解を書くと、外圧に屈して意見を変えたかのようだ。しかし、外圧に屈する以前に、しむがこのコメントを書くことによって何が言いたいのかがさっぱり伝わってないことを断っておく。もちろん、おもしろくないものにおもしろくないと言って悪いことはないが、ほかの記事があの記事よりも格別おもしろいとも考えがたいので、わざわざあの記事についてだけそう言ってくるからには、何か特別なことが言いたいのだろうか。しかし、いったいどんなおもしろさを期待していたのか。「おもしろくない」というのは、私の説がよくないという意味なのか、個性という語の意味について考えることがおもしろくないと言いたいのか。前者だとすれば、意見が変わった以上、私は早く訂正記事を書くべきだ。一方後者だとすれば、個性に関する記事をさらに増やすことは (しむにとっては) 逆効果でしかないだろう。しかし、よくわからないので、その辺はとりあえず置いておくことにする。いずれにせよ意味がわからないのに何か悪意だけを感じるコメントには意気阻喪させられる。
書いた後、やっぱりちがうかなと思ったのは、「前景化されやすい」だけでは、個性という語の意味を捉えつくせてないかなという点だった。前景化されやすいというのは要するに「目立つ」というだけだが、目立つというのと個性的というのは、少しちがっているように思う。
代案もすでに出ている。「個性」という語が、「あなたらしさ」「その人らしさ」などの表現と互換的に使われることに着目してみた。ここで「個」というのはひょっとすると名前の代わりに使われているのではないだろうか。
「あなたらしさ」「その人らしさ」という表現が意味するのは、「あなた」であるものが共通して持つような「あなた性」「汝性」のことではない。「あなた性」ということであれば、モデムには話しかけづらいが、サボテンには幾分話しかけやすいということで、サボテンは「あなた性」をより多く持つと考えられる。しかし、「あなたらしさを大切にしなさい」などの言葉は、「二人称で話しかけやすい存在でありなさい」という意味ではないだろう。
ここではおそらく、本当は「赤田らしさ」「鈴木らしさ」「田中らしさ」...など、個人それぞれの「らしさ」について言いたいのだが、それを一般的にして「あなたらしさ」などと言っているだけだろう。つまり、「あなたらしさ」は、あなた一般についての「あなたらしさ」を言ってるのではなく、個物としての「あなた」であるものそれぞれについて「らしさ」を言っているのだと考えられる。
個性というのもこれと同じで、本当は「赤田性」「鈴木性」「田中性」...etc. について言及したいのだが、それを一般的にして「個」性と言っているのではないだろうか。かくのごとく考えるなら、「個性を表現しなさい」とは、「あなた (赤田、鈴木、田中 ...etc.) をあなたたらしめているところの本質属性をもっとアピールしなさい」という意味だ。ここで「赤田性」「鈴木性」「田中性」...etc. が単に「赤田である」「鈴木である」「田中である」...etc. を名詞化したものだとは考えにくい。「赤田である」という状態を表現すればいいなら、単に自己紹介をするだけで話はすむ。だが、個性の表現とは、そういう意味ではないだろう。従って、個性はおそらく本質主義的な概念であり、表現されるものはあくまでも当人の本質でなければならないはずだ。個性とは、「赤田、鈴木、田中 ...etc.」がそれを持つことによって、「赤田、鈴木、田中 ...etc.」たらしめられる本質的な性質のことだ。
前回よりさらに当たり前の結論が出たような気もするが、何となく納得がいったのでこれでよしとする。この後には、「何をもって個人それぞれの本質とすればよいか」であるとか、「そもそもそんな性質は存在するのか」といったよりむずかしい問題がひかえているが、今日はもう眠いので気にしないことにする。一応現時点で考えている解答としては、その人を特定するに十分であるような「目立つ要素」が暫定的に「個人を個人たらしめる本質」の代わりをつとめるのではないかと思わないでもない。
少なくともこれでこの語の意味がある程度わかった以上、今後エントリーシートなどで個性を表現することも決して不可能ではないはずだ。今後は、肝心の個性を表現するための方法について考えていきたいと思う。
個性という言葉について考えることがある。そんなことについてはまったく考えなくてもいいし、ブログに書かなくてもいいのだが、現実逃避気味に書いてみる。
「個性」という言葉は文字通りに解すならば、「個である」という性質を指すはずだ。ただし、「個である」という性質といっても、そこにはまだいくらか解釈の余地がある。「個性」というものを、その属性を持つことによって、普遍者が個物たらしめられるような要素であると考えるなら、いくらか形而上学的発想になる(この場合「個性」とは「このもの性」のような概念だと考えられる)。単に「個である」という述語を名詞化しただけだと考えるなら、特に形而上学の余地はない。
(ちなみに、これは私がたった今思いついた説だが、日本語の「性」による名詞化には、因果的な含みを持つものと持たないものがある。「攻撃性」というのはそれを持つことによって攻撃的になる属性のことであり、因果的な含みをもつ。一方、「夜行性」というのは、単に性質を名詞化しただけであって、因果的な含みはない。上の「個性」の二つの解釈はこの「性」の二つの用法に対応する)
しかし、いずれにせよ、人が「個性」という言葉を使っているとき、いちいち「個であること」という風に翻訳していくと、どうも意味がわからない。
たとえば「あの人は個性的だ」という。まずなぜ「個的」ではなく「個性的」なのかという点からしてむずかしいが、「理性をもつ」ことを「理性的」というから、もしかすると「個性をもつ」の形容詞化なのかもしれない。しかし、「あの人」と名指せる時点で、「個」であるのは当たり前なのだから、これでは意味が通らない。
「個性を表現する」という用法もよくわからない。「個性を表現する」というからには、「個である」ことを表現するのだろう。この際、「個」の反対概念は何なのだろう。「普遍ではなく、個だいうことを表現する」であるとか「一般的ではなく個だということを表現する」という意味にとるとかなりおかしい。多くの人は表現するまでもなく個に見えるし、「普遍に見える人」「一般的なカテゴリーに見える人」というのは私はまだ見たことがない。
ただし、先ほど、大航海の中世思想特集を読んで知ったのだが、中世には天使は「個」ではなく、「普遍」あるいは「種」として存在すると信じられていたらしい。この場合、「普遍として存在する」とは、「高度な完全性で存在する」という意味だそうだ。となると、「個性を表現する」というのは、「完全性の度合いが低いことを表現する」という意味かもしれない。例えば「よく忘れ物をする」とか「すぐかっとなる」ことを「人間らしい」というが、そのような意味で「(普遍たりえない)個ならではの部分を見せる」という意味である可能性もある。あまり信憑性はないが、考えうる説の一つとして一応提出しておく。
これについて個人的には、一応結論が出ている。この場合、おそらく反対概念は「普遍」ではなく、「同定不可能」とか「統一的でないこと(まとまりをもたないこと)」、「対象化できないこと」ではないかと思う。つまり、「個」とか「普遍」以前に、そもそもまとまりをもった対象として認識されないものがあったことに気がついたのだ。
砂浜をぼんやり見ているとき、私は、砂の一粒一粒については特に気を払ってない。それらの砂粒は十把一絡げに砂浜の一部として見えている。この際、砂粒はまとまりをもったものとして認識されていない。このような状態のことを「個性的でない」と表現するのではないかと私は考えた。つまり、個性を表現するとは、十把一絡げな群衆や光景の一部に見えないようにするという意味だ。
例えば、大勢のなかで一人だけ、真っ赤な帽子をかぶっていると、「あの赤い帽子の人」などという具合に同定されやすくなる。この場合、この帽子の人は個性を表現しているのだと考えられる。もっと長期的に考えた場合でも、「とても奇抜な性格だ」とか「身長が3メートル以上ある」というのは、職場で、教室で...etc. で、背景から浮き上がり、同定されやすくなる要素であるだろう。おそらく視覚的に同定しやすいだけではなく、人格にせよ何にせよなんらかの要素によって「背景にうもれない」「前景として対象化されやすい」という性質を指すのだと思われる。
結論が出てみると当たり前すぎて、なぜこんなことで悩んでいたのかわからないほどだが、そもそも「個」という語が誤解をまねくものであったのではないだろうか。「個」という語は普遍や一般の反対概念であるはずであり、このような状態を指す語なら、はじめから「個」は関係ないのではないかと思う。「識別しやすい」とか「同定しやすい」とか「まとまりを持ったものとして認識されやすい」とかもっとよい言葉がほかにあったはずだろう。今後、このような過ちを他の人々が犯さないようにするためにも、べつの言い方を推奨したい。個人的には、「対象化しやすい」「前景化しやすい」が言いやすくていいのではないかと思う。
つづかない。
前から何度かセカイ系について書こうかと思いつつ、別に書かなくても (私も含め) 誰も困らないから放置気味であった。今日はなんとなく書くぞー。
Wikipedia を見てみたが、この定義はよくないんじゃないかと思った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
セカイ系の「セカイ」という言葉は、もちろん世界を意味する。セカイ系とは、主人公、もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を大きく左右してしまうという点に特徴がある。その規模は、地球全域、異世界であるならば主人公のいる国をも超えた全世界、作品によっては全宇宙や、パラレルワールドさえ含む時空間全てと言うように非常にスケールの大きいものが対象である。これらの主人公らの人間関係・内面的葛藤・行動等が社会を経ずに世界に直接影響する一連の作品群が「セカイ系」と呼ばれるようになった。
「主人公、もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を大きく左右してしまう」って、これじゃマジンガーZ もドラゴンボールも、セカイ系だ。かなりの数の少年漫画がセカイ系になってしまうだろう。このようにセカイ系を「少数が」「世界全体を」という風に規模で定義するのはうまくいかないんじゃないかと私は思う。後段ではさらに、勧善懲悪からの離脱という風に規定されるが、これもいまいちだと思う。
私はこの語に関して自分なりの定義を持っているのでそれを示す。
セカイ系とは以下の二つの条件を満たす作品のことである。
- 「敵」「味方」「戦い」といった道具立てが、説明も理由付けもされない。
- 「敵」「味方」「戦い」といった道具立てが、登場人物の心理の隠喩っぽく機能する。
「道具立て」や「設定」が隠喩になるという部分がポイント。説明されないのは隠喩として機能するための必要条件。
たとえばエヴァンゲリオンでは、なんで使徒が攻めてくるのかよくわからないし、最後までほとんど説明されない。しかし、それがなんとなく、シンジ君の心理の隠喩らしく読めるようになっている。エヴァンゲリオンはこの二点を満たすのでセカイ系。
少数の人が世界の命運を決定することが問題なのではなく、作品世界がそもそも主人公らの心理の隠喩にしかなっていないというのが重要な条件だ。
ついでに言えば、セカイ系について、そこにおける「組織」や「社会」のリアリティのなさがしばしば指摘されるが、これは隠喩とトレードオフの関係にあると思われる。アレゴリー小説における「真理さん」や「信仰さん」といった隠喩的登場人物が、リアルな心理を持たないように、隠喩であるところの作品背景はリアルなものにはなりえない。リアルだったら隠喩に見えなくなっちゃうから。背景はあくまでも書き割りでなければならないのだ。
成立史からいうと、こういうことが言えるんじゃないかとちょっとだけ思ってる。セカイ系の作品が登場する背景には、道具立てが紋切り型になっていく過程というのがあったのだと思われる。「敵」、「悪の組織」、「ロボット」といったものたちが、最初は「なぜこれこれの組織が出てきて、なぜ戦わねばならないか」という形で説明、理由付けとともに導入されていた (説得力のある説明になっていたかどうかはともかく、説明は必要だとされていた)。しかし、それがお約束になると、説明がだんだんおざなりになってくる。「悪の組織と巨大なロボットで戦う」という部分だけが自己目的化していく。
それに対して、「もっとリアルな悪の組織とロボットを出そう」というのは新しい作品を生み出す一個の方法であると思われる。しかし反対に、「いっそ書き割りにして、人物 (主に主人公) の方に主眼をおこう」というのがセカイ系の道でないかと私は思うのであった。
別の言い方をするとこうなる。よく昔の漫画とかで、うつうつとしてる主人公の背景画がサイケな絵になったりするじゃないか。あれは主人公の心理を絵で説明してるわけだが、あのサイケの部分をアニメだの漫画だのの規定のフォーマットに無理矢理押し込めたのがセカイ系だという風に考えたいのだな、私は。
Wikipedia のこの部分何を言ってるのかわからん。というか全体的にこの記事は日本語がおかしい。
環境問題に関心がなく、自然環境の多様性が減った事で唯一神が生まれやすい(例:キリスト教、イスラム教を生み出した文化圏は、自然が少ない乾燥地帯=古代文明が盛衰した跡に生じている)状態になった事はこのジャンルの隆盛と無縁ではないだろう。
セカイ系は一神教とどういう関係なの? セカイ系は一神教なのか? あとこの説明だとキリスト教徒やイスラム教徒やユダヤ教徒は環境問題に関心がないことになっているが、それもどうなのか。
これに対する反批判も載っているのだが、こちらもむずかしくて何を言ってるのかわからない。
上記の批判は一般的な「セカイ系批判」であるが、問題をいささか単純にしすぎている面もある。例えば新世紀エヴァンゲリオンを例にとっても、世界の危機の実質は少数の意志ではなく巨大組織間の対立として出現し、その解決も、最終話が碇シンジの例として定義づけられ、シンジと一般化された他者との和解として提示されているように、実際にはそれぞれの登場人物における解決がありうる。また例えば、主人公には全貌の見えない「機関」「情報統合思念体」といった組織間、組織内の対立が暗示される『涼宮ハルヒシリーズ』もまたしかりである。この涼宮ハルヒシリーズに至っては世界的危機そのものすら存在せず、セカイ系の手法を用いているといえないエピソードも多く見られる。これらの現象は他の多くの作品にも同様に観察可能である。
2、3回読んだらなんとなくわかった。セカイ系の典型例とされる作品においてもすべてが少数者の意志で決まるわけじゃないと言いたいわけだな。これは、批判してる割に「少数者の意志で決まる」という定義を受け入れているのがヘンだと思う。「上述の定義は、実際の作品に全然あてはまらない。べつの定義に変えよう」という方向に話がいかないのはなぜなんだ。
あと↓の本がセカイ系の作品に入っているのだが、本当? 本当なら読みたいのだが、嘘なら読みたくない。
- 『無痛文明論』
森岡正博(著)
トランスビュー、2003
『職業としての政治』を読んでいたら思い出した。昔考えたこと。
「暴力反対」というのは一貫させるのがむずかしい立場だ。厳密な意味で「暴力反対」という立場にたつ人は、実際はほとんどいないのではないかと思う。
まず前提の確認。「暴力反対」という主張がなされた場合、それは二通りに解釈できる。ひとつは個別の暴力に反対する場合であり、もうひとつは暴力一般に反対する場合だ。
前者のように個別の暴力に反対する場合、実際の主張は「おまえの暴力に反対」であったり「aさんの暴力に反対」であったりする。これはもちろん、暴力というもの一般に反対しているわけではない。単に目の前の (あるいは話にのぼった) ローカルな行為に反対しているわけだから、この種の主張を「暴力反対」と呼ぶべきではない。これは暴力反対ではなく、個別の出来事や行為に対する反対だろう。
次に、暴力一般に反対することについて。
暴力に反対するのがむずかしいのは、暴力を利用せずに暴力を止めることがむずかしいからだ。
暴力抑止のための暴力の存在を認めるならば、暴力反対という立場ではない。たとえば一見「暴力反対」に近いことを言っていても、警察制度を是認する人は暴力には反対していない。違法な暴力行使を止めるために、合法的な暴力を行使することを認めるのなら、それは暴力一般への反対ではなく、「違法な暴力反対」という立場だ。もちろん「違法な暴力反対」という立場を省略して「暴力反対」と呼ぶことにしても良いのだが、「違法な暴力反対」という主張は、ある点では積極的に暴力に賛成しているため、これを「暴力反対」と呼ぶのは誤解のもとでしかない。
実際のところ、暴力反対をとなえる人のほとんどは、個別の行為に反対しているか、「違法な暴力反対」であるか、「反道徳的な暴力反対」であるか、「暴力を見せられることに反対」であるのだと思う。これらの立場はすべて暴力反対ではない。むしろある種の暴力を積極的に認めようという立場だ。
地上では現に暴力が発生しつづけるため、この点をなんとかしてクリアしなければ暴力反対という一貫した立場をとることはできない。暴力に反対するために必要なものは、「暴力を抑止できる暴力以外の方法」だ。さらにこの方法をもって、警察制度、軍隊制度その他を置き換えていくプランを用意することで、はじめて暴力反対という立場にたつことができる。
暴力以外の暴力抑止力として、考えうる一個の方法は、「口で説得する」とか「パフォーマンスで説得する」というものだろう。実際、キリストからキング牧師まで、反暴力的な主張をする人の多くは弁舌の達人だ。「どのような相手と対峙しても説得できる」という自信さえあれば、少なくとも、エゴイスト的には暴力反対の立場をとることができる。その場合、警察その他の組織がなくても、その人自身はなんら困らない。また自分が困らないのだから、「他人も何とかできるはずだ」という希望もわくだろう。強い説得能力は、暴力反対の道へ踏み出す根拠となりうるものだ。
しかし、これだけではまだ足りない。一人が暴力に対処できるだけならば、それは警察制度その他の代替物としてはまったく不足である。国家レベル、世界レベルで暴力を廃絶するために必要なのは、この説得の方法を皆に装備させることだ。そのため、説得能力の保持者は、その能力をみがくと同時に、それを教育する方法についても考えなければならない。最低限「説得能力の伝達が可能であるし、その方法を準備するつもりだ」ということまで考えていなければ、説得による暴力の廃絶という立場をとることはできないだろう。「強力な説得能力」と「その教育プラン」の提唱までいけば、暴力反対は一貫した立場であると思う。
さらに、最近もう一つの方法に気がついた。それは東浩紀が最近言っている「環境管理型権力」というやつだ。もしも、割れた窓ガラスを直したり、壁を緑に塗ったりすることで暴力を抑止できるなら、暴力の廃絶は不可能ではない。しかもこれは都市計画や建築の整備によって実現できるため、個人のパーソナリティや能力に依存しがちな説得能力の場合よりも有望であるかもしれない。環境の整備によって暴力が、少なくとも交通事故レベルまで減少するならば、警察制度はなくてもかまわないだろう。
本当に実現できるものなのかどうか私は知らないが、環境管理型権力という発想自体は、暴力反対と相性のいいものであると思う。「環境管理によって暴力をなくすことができる」と考えるなら、これは一貫した暴力反対の立場と呼べる。
■ ver. 1
(1)国王はその国で一番えらい。(前提)
(2)国王でないフランス人が存在する。(前提)
(3)存在するものは存在しないものよりもえらい。(前提)
――――――――――――――――――――
(4)フランス国王が存在しないと仮定する。
(5)(2)および(4)よりフランス国王よりえらいフランス人が存在する。
(6)(1)より、フランス国王はフランスで一番えらい。
(7)(5)と(6)は矛盾する。ゆえに仮定が誤りであった。
(8)フランス国王は存在する。
■ ver. 2
(1)国王はえらい。(前提)
(2)存在しない者はえらくない。(前提)
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(3)フランス国王が存在しないと仮定する。
(4)(2)より、フランス国王はえらくない。
(5)(1)より、フランス国王はえらい。
(6)(4)と(5)は矛盾する。ゆえに仮定が誤りであった。
(7)フランス国王は存在する。
■ 解説
よくある神の存在証明のパロディ。
「(4)存在するものは存在しないものよりもえらい」。これは存在するものと存在しないものとの間に関係を置いている。
「(2)存在しない者はえらくない。」。これは「ない」のスコープの問題を引き起こす。「『存在しない者がえらい』ということはない」と解釈されるならば特に問題はない(その場合、「フランス国王はえらい」も「フランス国王はえらくない」も導き出せなくなる)。「存在しない者について、それはえらくない」と解釈されるならば、存在しないものについての命題となる。
「どうして存在しないものについて何かを言おうとすると話がおかしくなるのか」という問題についてはもう少し考えてみないとよくわからない。
美術館にひさしぶりに行って思いついたこと。たまに人から「自分はコンセプチュアルアートがあまり好きではなく」みたいなことを言われることがある。しかし、よくよくその「好きではない」ものについて聞いてみると、「それはコンセプチュアルアートではないのではないか」ということがしばしばある。このことについて考えいていた結果、人はあまりピンとこなかった美術作品が「コンセプチュアルアート」に見えるのだということに気がついた。たぶんここで「コンセプチュアルアート」という言葉は「なんか新しかったのかもしれないけど、観念的な、頭で考えたような作品」という程度の意味で使われている。そして、彼らにはなぜそれが「コンセプチュアル」に見えるのかというと、「好きな人が好きな部分」がよくわからず、手法とか描かれている対象の新しさしか見えないから。
たとえば17世紀のオランダの画家が、リンゴの絵とか描き始める。好きな人は、「このリンゴの、筆触が、ぐわーとなっててたまらん...やべー...」という魅力を喚起する部分しか見えないので、全然コンセプチュアルだとは思わない。むしろ「リンゴのかっこよさ」という感覚的な部分を追求した絵なので、全然コンセプチュアルからほど遠い。一方当時の人でピンとこなかった人には、「これまでリンゴの絵がなかったところでリンゴの絵を描いたのが新しかったんだろうけど、それは単なる思いつきでやってみたにすぎず...コンセプチュアル・アートきらい」という風に見える。これと同じように、カンディンスキーが四角の絵とか描き始めると、好きな人は「あー、この四角がぐわーとなって、すげーおもしれー」と思う。これも好きな人にとっては「四角のかっこよさ」とか「平面構成のかっこよさ」をガンガン追求してるようにしか見えないので、全然コンセプチュアルなようには見えない。しかしピンとこなかった人は、「これまで四角の絵がなかったところで四角の絵を描いたのが新しかったんだろうけど、それは単なる思いつきでやってみたにすぎず...コンセプチュアル・アートきらい」という風に見える。ポロックがドリップやっても、好きな人は「ドリップたまんねー」と思うが、ピンとこなかった人はそれがなんか「コンセプチュアルなもの」に見える。
これは理論的な議論で、ピンとこなかった話が「抽象的な議論」に見えるのと相同的な現象であると思う。たとえば「自由」という概念が生き生きしたものに見える人は、「自由」に関する議論がまったく「抽象的」な話には見えない。「存在」という概念が生き生きしたものに思える人は、「存在」に関する議論がまったく「抽象的」なものに見えない。これは「真理」でも「正義」でもなんでも一緒で、好きな人はそれが「抽象的」だとはまったく考えてない。むしろすげー具体的で実感に富んだ熱い議論をしているように見えている。一方ピンとこなかった人は、単にむずかしい熟語が飛び交っているという部分しかわからないので、「抽象的な話」をしているとしか思えない。
それと同じように、魅力がわからない美術作品は、「なんかコンセプチュアルなもの」に見えるのだ。この思いつきには結構自信があるので、皆さんも『コンセプチュアルアートきらい』って言ってる人がいたら確かめてみてください。
■ de re
「de re 様相 (でれようそう)」と「ツンデレ」を絡めて何か (一発ネタ的なギャグが) 言えないかと思ったが、念のために検索したらすでに言われていたので残念だった。
でもせっかくだから復習ついでに書いておく(←おぼえたばかりの言葉を使いたくてしかたがない男参上)。
述語「T(x)」を「x がツンデレである」とする。
「∀x□T(x)」は「すべての x について、ツンデレであることが必然である」。
「□∀xT(x)」は「すべての x がツンデレであることが必然である」。
前者の場合、必然は「ツンデレ」という「性質」にかかっているので、これを de re (事柄についての) 様相と呼ぶ。後者の場合、必然は「x がツンデレである」という「文」にかかっているので、これを de dicto (語られたことについての) 様相と呼ぶ。
可能世界論の文脈ではこの二者がそれぞれ、以下のように言い換えられる。
「この世界に存在するすべての x は、この世界から到達可能なすべての世界において、ツンデレである」
「すべての到達可能な世界において、すべての x はツンデレである」
問題を引き起こしやすいのは、前者のような de re 型の文。ここでは、「この世界に存在する個体が」「ほかの世界において」、ツンデレという性質を持つかどうかが問題になっている。そのため「ひとつの個体が複数の世界に属しうるか」という貫世界的同定の可否が争点になる。当然ながら、貫世界的同定を認めるかどうかによって文の真偽も変わる。
ちなみに、三浦『虚構世界の存在論』では、「虚構のキャラクターが複数の世界にまたがって存在しうる」という説を「de re 説」、「複数の世界に応じて、複数の虚構キャラクターが存在する」という説を「de dicto 説」と呼んでいた。
だから、ツンデレが複数の世界にまたがって存在するならば、「ツンデレが de re 的に存在する」(べ、べつにアンタのために貫世界的に存在するんじゃないんだからね!)。
■ カリスマ
「カリスマ店員」、「カリスマ保険員」などの用法にならって、めざましい活躍をし、ほかの同業者のあこがれであるような独裁者のことを「カリスマ独裁者」と呼んだら(本末転倒気味で)いいのではないだろうか。同様に、全世界の教祖の憧れの対象である教祖のことを「カリスマ教祖」と呼ぶことにしたい。たとえば、釈迦やキリストはカリスマ教祖である。
一点目。「イデオロギー」という語を「応援歌」という語に置き換えてみたらどうだろう。どうだろうも何もないが。
- ドイツ応援歌
- ブルジョア応援歌
意味はそんなに変わらないのに、親しみやすくなる。
さしづめ「イデオローグ」は「応援団長」か。
- テクノクラートの応援団長
批判されてるんだかなんだかわからない。
二点目。
「すべての道はローマに通ず」のならば、ローマを経由してあらゆる地点がつながることになる。
つまりローマを経由すれば北京でもカルカッタでもどこへでも行けるのだから、「すべての道は北京に通ず」でも「すべての道はカルカッタに通ず」でも「すべての道は中目黒に通ず」でも、何でもいいのではないか。
ただしローマに至る道が一方通行だとか、ローマが壁で分割されている(ローマから他のところへはいけないようになっている)可能性も皆無ではない。
最近のオタク系の作品にはメタものと可能世界ものが異様に多い。
実証できないが多い。2つだけ例をあげると『涼宮ハルヒの憂鬱』と『ひぐらしのなく頃に』。
そんなことを思うに付け、オタクって本当に反省好きだよなー、動物化してるんじゃなかったのかよ? あれっ動物化って無反省って意味ではないんだっけ? などと考えていた。
それはそれとしてメタメタにメタなメタフィクションをつくるためにそのこと自体をネタにすればいいと思った。
あらすじ:
最近のオタク系作品にメタものが多いのは、自己言及のパラドックスとかそれ系のクライシス(←?)を発生させ、世界(セカイ)を終わらせるための陰謀だった...。究極のメタ作品が制作され、世界が終わる前にはやく食い止めなければならない。...みたいな感じで、スラップスティックにバタバタする。オチはもちろん「究極のメタ作品とは、この作品自体のことだった」。ラストシーンでは、「もうメタはイヤだ!」と思ったみんなが泣きながら、読者や作者の出てこない物語を探す旅に出る。
ただの思いつきなので、途中経過はあまり考えていない。
id:shim の思いつき。
今日は shim と論理学の勉強をする予定だったのだが、私が寝坊したために shim が家に襲来。
「よーしパパ人工無脳つくっちゃうぞー」と思って買った以下の本が見つかり、馬鹿にされる。
それはそれとして shim のアイデア。
豆知識を喋る人工無脳。話しかけられた言葉の中に特定の単語を見つけると、それに関する豆知識を語る。
ex. 「google と言えばさー、」
「英語って言えばさー」
仕組み上は可能そうだ。
私はバベルの図書館を実現する方法を思いついた。
思いついたきっかけは正岡子規 ( だったと思う ) の言葉である。
これは確か柄谷行人の『日本近代文学の起源』で読んだので、孫引きの上、本が見つからないのでうろおぼえで引用する。
正岡子規は「短歌や俳句は文字の組合せが有限なので明治のうちにすべてのパターンが書かれ尽くされるだろう」といった主旨のことを言っていたのだ。この発言はもちろんおかしい。より文字数が少ない俳句 ( 17 字 ) にしても単純計算で、46 の 17 乗* という相当な数の組み合わせが存在する。今計算したところ存在しうる俳句は、18487710785295216663082172416 首もあるらしい。この大部分は無意味な文字列であり、とても俳句とは呼べないわけだが。少なくとも明治のうちに短歌や俳句が尽き果てるようなことはなかった。
* 濁音、半濁音、小さな文字は除いて 46 字とした。
正岡子規の予言があたらなかったことはどうでもいい。最近私はこの言葉を思い出し、この「存在しうる俳句(または短歌)の集合」が簡易的なバベルの図書館であることに気がついた。
「バベルの図書館」とはボルヘスという作家の書いた同名の小説に登場する図書館である。この短編が収録されている『伝奇集』も見つからないので、Wikipedia に頼ることにする。
Wikipedia によると、バベルの図書館には以下のような本がある。
- 全て同じ大きさの本であり、一冊410ページで構成される。さらにどの本も1ページに40行、1行に80文字という構成である。また本の大半は意味のない文字の羅列である。又、題名が内容と一致しないことが殆どである。
- 全ての本は22文字のアルファベット(小文字)と文字の区切り(空白)、コンマ、ピリオドの25文字しか使われていない。 同じ本は二冊とない。
それゆえ司書たちはこの図書館は、この25文字で表現可能な全ての組合せを納めていると考えている。
バベルの図書館 - Wikipedia
要するにバベルの図書館とは、「すべての本が存在する図書館」である。そこには世界の真理を書いた本も、その本の場所を書いた本も、さらにその本の場所を書いた本も存在する、と言われる。
しかし、バベルの図書館にとって、1 冊 410 ページという文字数に本質的な意味があるわけではない。1 冊 1 冊の文字数が少なかったとしても必ずその本の続編が図書館のどこかに見つかるのだから、文字数はもっと少なくてもいいはずだ。そればかりではない。1 冊あたりの文字数をへらすことで、図書館の広さをだいぶ節約することができる。
現在は1ページに40×80=3200。3200×410=1312000 なので、一冊131万2千字となっている。従って図書館には「25の131万2千乗」冊の本が存在する。仮に本の厚さを 2 分の 1 にすればこれを「25の65万6乗」冊まで少なくすることができる。
この原理を押し進めていくことによってバベルの図書館を容易に実現することができる。
以下がこの原理によって実現したバベルの図書館である。
- a
- b
- c
- d
- e
- f
- g
- h
- i
- j
- k
- l
- m
- n
- o
- p
- q
- r
- s
- t
- u
- v
- w
- x
- y
- z
- (空白)
- ,
- .
1 冊の長さを 1 字とすることによってブログのエントリに見事収まるまでに圧縮することができた。
ところで、ここにはまだ無駄がある。これらの 25 字は 2 つの符号の組合せによって表現できる。2 の 5 乗は 32 なので、 "1"、"0" の 2 つの文字を 5 つ並べれば、25字を表現するするのに足りる(たとえば "a" を "00001" とし、"b" を "00010" とし、 "c" を ... と以下同様に繰り返す)。
よってバベルの図書館は、以下のもので十分である。
- 1
- 0
実際、これを読んでいる人の PC 上に表現されたバベルの図書館も本来はサーバー上に保存された 2 つの符号の組合せである。バベルの図書館を実現するためには 1 ビットの情報で足りる。
言い換えれば、『バベルの図書館』が教えてくれたのは次のようなことであった。どんな素晴らしい小説であれ、論文であれ、「記号の組合せで表現できるすべてのものは記号の組合せで表現することができる」。この原理がなければ万能機械だって動かないのであった。
少し前にM川に、「最近は哲学系の虚構理論を勉強しているよ」と言った。「それはどういうものか?」と問われたので、「たとえばこのようなことを考えるのだ」と答えた。
以前は「架空の対象について命題の真偽を問うことはできない」と考えられていた。たとえば「ユニコーンについては何を言っても真実とも虚偽とも判定しがたい」云々。しかしこれは厳密に言えば明らかにおかしい。たとえばシャーロック・ホームズについて「明らかに真なる命題」や「明らかに偽である命題」が存在する。前者の例は「シャーロック・ホームズは少なくとも1000歳以下である」「シャーロック・ホームズはコナン・ドイルによって創造されたキャラクターである」。後者の例は「小説『ホームズシリーズ』においてシャーロック・ホームズには9本の足がある」など。
しかもシャーロック・ホームズに関する真なる命題は、テキストに記載があるともかぎらない。たとえばシャーロック・ホームズの物語に「日本の四国」に関する記述は見あたらないが、その世界に日本が存在する以上、「四国に相当する島も存在する」と考えるのが妥当であろう云々(本当に「四国」に関する記述がないかどうかは確認していない)。
M川曰く、「ホームズはテキスト上にしか存在しないので、ホームズについて何とでも新たな記述を増やせるのではないか」。
しかし例えば私が『シャーロック・ホームズは9本足だ』と書いても、「あの」シャーロック・ホームズが9本足だったことにはならないだろう。
その時は以上の主旨だけを答えたが、同時にふと思いついたアイデアがあった。
以上は長い前置きである。
任意にホームズに関する記述を増やすことはできない。そもそもそんなことはドイル自身にもできないのである。シャーロック・ホームズについて何でも好きなことを言えるのなら、ドイルは一度死んだはずのホームズを生き返らせる必要もなかっただろう。
しかしその時考えたのは贋作、パロディ、二次創作のことだった。
ホームズものには、ドイル以外による無数の二次創作的シリーズが存在する。それらの小説における記述が「ホームズに関する事実」として認められることはあるだろうか。
これは一見ありえないように思える。他の作家によるホームズものは「Xによるホームズもの」としてドイルの正典とは別個の世界として扱われがちだ。他者がコナン・ドイルにかわって「ホームズに関する記述」を増やすことはむずかしいのである。
しかし、小説以外のフィクション作品に目を向ければ話は変わってくる。映画やドラマやアニメなど、元々複数の人間によって作成される作品の場合、同じシリーズであっても、スタッフは完全に別であるということもある。ここで以下のような架空の状況を想定してみよう。
20xx年、とあるアニメ制作会社は「○○ガンダムなんかガンダムじゃない」という一部制作スタッフの反発により、「制作チーム1」と「制作チーム2」の2つに分裂した。それぞれのチームは別個にスポンサーを見つけ、それぞれ「1ガンダム」および「2ガンダム」という同シリーズに属する別々の作品を制作した。「1ガンダム」および「2ガンダム」はともに「ガンダムシリーズ」に属する作品であるが、「1ガンダム」と「2ガンダム」には明らかに矛盾する記述が存在する(それぞれ同じ時代を描くが、前者の系列ではあるキャラクターが生きており、後者の系列では死んでいる)。
この時、どちらのテキストを「ガンダム世界に関する正当な記述」とすべきだろうか?
これは決定不可能な状況であると考えられる。喩えで言えば一つの国家に二つの政府、二つの法が存在する状態に似ている。
たとえば、以下のような事例。
「選挙において過半数の支持により、共産主義政権が誕生した。しかし反発した旧来の与党が軍部と結託してクーデターを勃発させた。クーデターは成功し、後者が実効的に政権をにぎり、独自の法を発布。戦いに敗れた共産主義政権は潜伏したものの、やはり独自の法を発布した。この時、ひとつの国家に二つの政体が誕生する。以上の状況において二つの政府・二つの法のどちらが正統なものか?」
もちろん明らかにどちらかが正統なスタッフであり、片方は二次創作にすぎないというように決定できるケースもあるだろう。しかし、「1チームにはトミノヨシユキという本来の原作者がいるが、スタッフのほとんどはガンダムとはまったく関係ない」「2チームの大部分は元々ガンダムに関わっていたスタッフである」という場合など、決定が困難に陥る場合もある。
似たようなことは現実にもある。「小説版とアニメ版で話が違う」とか。あるいはこういった虚構世界の問題から「黒歴史をどう考えるか?」。
この辺をきちんと考えてみれば理論的には色々おもしろいような気もする。実際のところ、虚構論は文学に限定しない方がおもしろいトピックが出てくる。
たとえば、「虚構世界は複数の可能世界を含むのか、それともただひとつの世界からなるのか」という議論がある。この問題をストーリーと選択肢が存在するタイプのゲームに適用するとどうなるだろう。これらのゲームには明らかに複数の可能世界が含まれている。この時ユーザーが享受しているのは、これらの世界すべてを含むゲームの全体系なのだろうか? それともそれらのうちの個々の世界を個々の作品として楽しむのだろうか?




