うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“思った”タグの付いているブログ記事
「おもしろいこと」は「正しいこと」ではない。そして「正しい」は相対的ではない。
私はかなり大きくなるまで、「おもしろい」ことと「正しい」ことが別であることに気がつかなかった。しかし今は別だと思っている。ちなみに、ここで「正しい」というのは「真である」と「倫理的に正しい」と両方含めて考えている。
「おもしろい」と「正しい」が別であるというのは、「おもしろくない意見の方が正しいこともある」ということだ。
このことはある種の人には当たり前すぎて、それがわからない人もいるということすら想像の外にあるかもしれない。しかし、かなり最近 (いつなのかもうわからないけど) になるまで、私にはこの単純な事実がよく飲み込めなかった。いまだに飲み込めていない人は私以外にもたくさんいるだろうと思う。私はそういう人に、自分が知ったことを何とかうまく説明したいと思うことがある。
もっと直接に言ってみる。「何が正しいかどうか一概には言えない」とか、「その人が本当は何が望んでいるのか他人にはわからない」とか、「幸せなんて人それぞれである」とか、「真理なんて相対的なものでしかない」というのはぜんぶ嘘だ。いや、これらの発言が適切であるような場面は確かにそれぞれあるのだけど、一般的なテーゼとして考えるなら、これはぜんぶ嘘だ。つまり、「何が正しいのか一概に言える」し、「人が何を望んでいるかは他人にわかる」し、「幸せは人それぞれではない」し、「真理は絶対的」だ。
具体的に言うと、「教師になることが万人にとって幸せである」と思ってる人に対しては、「幸せは人それぞれ」って言ってやった方がいい。この場合この発言は適切だし、私だってそうすると思う。しかし、文字通りにそれが真理だと思うのは大間違いだ。100人いれば100通りの幸せがあるというのは嘘だ。本当は、100人につき17通りくらいしか幸せはない (数字はメチャクチャ適当)。
初対面の人に「1日に車に3回ひかれた」という話をする。「不幸ですね」と言われると思う。このとき「何が幸せであるかは人それぞれで一概には言えない。だから確かめさせてほしいのだが、そのことはあなたにとって不幸だったか」と言ってくる人がいたとすれば、私はその人のことをヘンな人だなと思う。ヘンだと思うだけではなく、腹も立つと思う。
しかし、「何の傷も負わなかったし、保険金をたくさんもらった」という説明をそこに付け加えれば、相手は「ラッキーでしたね」という風に意見を変えるだろう。だからといってこれは「幸せは人それぞれ」を意味しない。むしろ、幸せが人それぞれじゃないから意見が変わったのだ。「何の傷も負わずに金をもらう」ということが「ふつう誰でも幸せだと思うこと」だから、意見が変わったのだ。
あるいはそこに「私は実は車にひかれることにとてつもないエクスタシーを覚えるのだ」という話を付け加える。私の話に説得力があれば、相手の意見は変わるかもしれない。だからといってこれは「幸せが人それぞれ」を意味しない。むしろ幸せが人それぞれじゃないという事例だ。「とてつもないエクスタシーを覚える」ということが「ふつう幸せだと思うこと」に含まれているからこそ意見が変わったのだ。
こういう言い方をすればいいか。「幸せ」という語を定義するとき、世界に起こったすべての出来事のなかから「幸せ」と言えるような出来事をすべてリストアップしていくことにする。これを幸せの外延的定義と呼ぶ。幸せの外延的定義のなかにどんな出来事がリストアップされるかということはたぶん人によって異なる。その人のパーソナリティにも依存するし、その人の人生にも、その人の遺伝子にも依存するだろうと思う。
しかし、それとは別に「幸せ」という語の内包的・公共的な定義がある。たとえば辞書でこの語をひくと、ひいたことないけどたぶん、うんぬんかんぬんといった定義が載っている。辞書に載ってることが、本当に適切かどうかは知らないし、不十分かもしれないけど、「幸せ」という語には定義がある。そして人は公共的定義に逆らって語を使うことはできない。人は「幸せ」という語がもともと持っている論理に従いつつ、「幸せ」という語を使う。上の外延的定義の例だって、先にこの「幸せ」の定義があるからこそ、幸せと呼ばれうるような出来事をリストアップしていくことができる。語の公共的論理は語の外延的定義に先立っている。
あと、「ここでは『幸せ』という語を『パンダ』という意味で使う」といったような約束事を定めることはもちろんできる。しかしそのとき人は「あの人は『幸せ』という語で、幸せのことを意味していないのだ」と言う。1000年前の日本では、「幸せ」は「不幸」を意味したということもありうる。しかしそのとき人は、「この時代『幸せ』には幸せという意味は存在しなかった」と言う。
誰かと親しくなれば親しくなるほど、「その人が何を幸せの外延的定義に含めるか」がわかってくる。たとえば「会社クビになったけど、あいつなら喜んでそう」みたいなことがわかるようになる。このことは「幸せが人それぞれ」であることを意味しない。「幸せ」という語が持っている論理はその間ずっと変わっていない。このクビになった話が第三者に伝わったとして、その人は「不幸だ」と思うかもしれない。そこで私は、「いや、あいつはこういうやつなので、むしろ喜んでいるのではないか」と説明する。説明は伝わることもあるだろう。「そういう事情なら喜んで当然ですね」と相手は言う。
しかし、どこかに一線がある。判断が難しいケースももちろんある。しかし判断の難しいケースがあるということは、「判断が不可能である」ことを含意しない。昼と夜の境界は曖昧だが、昼と夜の区別は存在するし、真っ昼間や真夜中も存在する。
「あなたはそう言うかもしれないが、個別の事情など関係なく、それは不幸なのだ」と言えるような事例もある。たとえば「こいつは殴られることが好きなのだ」と言って相手を殴ることが微笑ましい事柄として通用するような、ローカルな人間関係もあるかもしれない。そして「ふつうは通用しないこと」が通用するような人間関係を人は「濃い」「気持ちいい」と感じることがあるし、その中にいることが「おもしろい」ということは、少なくとも私にはよくわかる。
にもかかわらず、限界は存在する。限界を超えた場合、ローカルな理解のルールはもう通用しない。人はそのときには裁きを受けなければならない。
あと、全然関係ないけど (更新がめんどいから一度に書くけど)、↓これがおもしろかったので「もっと言え」と思った。
書いた後、やっぱちょっとちがうかなと思ったので消した。
東浩紀 『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
講談社学術新書、2001
ラブクラフトのことを書いていたら思いだした。前から思っていたことを書いておく。
『動物化するポストモダン』の基本的なストーリーって、
ちょっと前の世代だとオタクと言えばシェアード・ワールドものだったけど、最近のオタクは「萌えー」とか言ってて、このふたつってちょっと違うよね。
というオタク世代論だと思うんだ。こういう基本的な事実認識があり、プラスアルファで、「この流れをもう少し広い世の中の潮流に結びつけてみるテスト」というのが『動物化するポストモダン』という本の内容。
シェアード・ワールドものというのは、要するに、同じ世界観を共有しながらいろんな人が作品をつくったり遊んだりしますよーってことだね。ラブクラフトに端を発するクトゥルーものしかり。トールキンの世界観でTRPGをする人しかり。そしてもちろんコミケ等で漫画の二次創作をする人もしかり。
ただし東は「シェアード・ワールドもの」という言い方はしていなかったと思う。『動物化するポストモダン』では、大塚英志を引きながらこれを「物語消費」と呼んでいる。しかし私は「シェアード・ワールド」という普通に使われている言葉の方が好きだ。
(参考: シェアード・ワールド - Wikipedia)
それはそれとして、この基本的なオタク世代論の部分って特に間違ったこと言ってないと思うのだが、おもしろいくらい誰もそのことに触れないね。「確かにちょっと違うよね。じゃあどうちがうのかなー。東はこう言ってるけど、私はこう思うな」とか、そういう方向に話が発展してもいいはずなのに、褒める人もけなす人もなぜか関係ない話ばかりだ。「大きな物語」がどうとか、そんなの言ってみればオマケであり、ただの「と言ってみるテスト」だろうと私は思うのだが、世人はそう思わないのだろうか。大雑把なポストモダン論などより、オタク世代論の方がよっぽどおもしろいと思うのだがどうなんだ、その辺。
もちろん、そういう読まれ方をしてしまう背景には書き方のまずさもあったのだろうが、堅実なファインディングの部分はほとんど触れられず、皮相で刺激的な飾りの部分だけがことさらに反応を集めたという点で、『動物化するポストモダン』は実に不幸な読まれ方をした本であることだよと思うことしきりである。
はてなブックマークのホッテントリになっていた。
かわいそうな名前をつけられた動物の話。
この「ニセ○○○○」というのは動植物名としてはわりと多く用いられているもので、動物図鑑などをめくるとそこかしこにニセ○○○○を見つけることができる。適当に列挙してみると――、ニセモクズガニ、ニセクワガタカミキリ、ニセフジナマコ、ニセイガグリウミウシ、といった調子である。なにが悲しくて、ナマコやウミウシごときのニセモノにならなくてはいけないのか。彼らは、いずれも生まれたときからニセモノ人生を決定付けられている。どう頑張ってみても、彼らは決してホンモノにはなれないのだ。これを悲劇と言わずして何と言おう。
それを言うならば哲学史に名を残した思想家であるにもかかわらず、偽者扱いされている偽ディオニシウス・アレオパギタや偽ロンギヌスもだいぶかわいそうだと思った。
思ったのだが、Wikipedia - 偽ディオニシウス・アレオパギタ によると、
『ディオニシオス文書』(Corpus Aeropagiticum)といわれる一連の文書の著者と同定されている。この著作はもともと自らを『使徒行伝』に現れるアテネの「アレオパゴスのディオニシオス」と名乗っていたが、中世以降その成立年代が特定され、「偽」という名前をつけて呼ばれるようになった。
つまり偽ディオニシウス・アレオパギタは自業自得だそうだ。
偽ロンギヌスはどうなのか。
その後これはヴァティカン蔵のより古い稿本によって“Διονυσίου ’ή Λογγίνου” (「ディオニュシウスないしはロンギヌスの」) の誤読と判明、著者は結局不明となったままであるが、ロンギヌスの名があまりにも流布してしまったため、現在でも「偽ロンギヌス」Pseudo Longinusの著として通用しているものである。prof.Fの西洋建築史講義
無実らしい。

