うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“感想”タグの付いているブログ記事
- 『意味と様相(上)』
飯田 隆 (著)
勁草書房、1989
言語哲学大河入門書(?)シリーズその2。
実は3しか読んでいなかったので2もはじめて読んだ。
本巻では、論理実証主義、初期ウィトゲンシュタイン、クワインの言語哲学が解説・検討される。
目次
- 序章 必然性小史―アリストテレスからフレーゲまで
- 分析的真理と言語的必然性(論理実証主義の言語哲学)
- 規約による真理
- 分析性の退位―「経験主義のふたつのドグマ」
2章「規約による真理」はかなりの難物。むずかしかった。
「数学的真理は規約によって真である」「論理的真理は規約によって真である」という主張がそれぞれに検討され、さまざまな困難が指摘される。
結論としては両者とも「かなりのブレイクスルーがないかぎり無理」というところだろうか。
言い方を変えれば、「数学の哲学、論理学の哲学においてプラトニズムを避けることがいかに困難であるか」*。
ここで「プラトニズム」とは、「自然数」「集合」「命題」のような抽象的なものが、端的に存在するという立場**。
Theodore Sider, John Hawthorne, Dean W. Zimmerman
Blackwell Pub、2007
ちょうど勉強会で読んでいた論文が「抽象的なものは存在するか」というテーマだったせいもあって、これについて考えていたが、なかなか難しい。
当初の印象では「これは疑似問題ではないのか?」「よほど特殊な立場でないかぎり簡単に片がつきそう」「こんなこと考えて何になるのか」という思いもあったのだが、考えれば考えるほど迷宮入りしてくる。個人的には「存在する派」も「存在しない派」もどちらも直観に合う部分と合わない部分があって、態度決定しがたいなどと思っていたら、考えている内に本当にわけがわからなくなってきた。
飯田氏自身も、論理的必然性については何らかの言語的規約によるものだと考えたいらしいのだが、規約による真理説は、ここでの議論で完膚なきまでに叩きつぶされているように思える。著者自身「哲学のなかに『決定的な』議論といったものがありうるとするならば、それにきわめて近いもの」であるとまで言っている*。
「ウィトゲンシュタイン的」な根源的規約説なるものは、しりぞけられていないことになっているが、これはほとんど反則技というか、規約という概念を無意味なまでに空虚にすることで成り立つ説であるように思える。言っていることは「規約はあるけど、実態としては何でもあり」に近いように見える。直観に反するという点では、プラトニズムとあまり変わらないのではないか。
明示的な規約に替えて、「暗黙的な慣習(convention)」を導入すれば、議論の全体像が少しは変わるのではないかと思わないでもないが、いずれにせよ難しい問題である。
以下、どうして抽象的なものが存在すると考えたくなってしまうのか、簡単に書いてみる。
「自然数」を例にあげる。
トリビアルな意味で自然数が「存在する」のはほぼ問題ない。「自然数が存在する」などという形の命題が取り上げられることは滅多にないが、それは日常的にも受け入れられている多くの命題にとって論理的帰結であったり前提であったりする。
黒いカラスが存在する。
から
カラスが存在する。
を導くのは、妥当な論理的推論だろう。
同様に、
2以上10以下の自然数が存在する。
から
自然数が存在する。
を導くのは、妥当な論理的推論だろう。
また「自然数が存在する。」が偽なら、「2以上10以下の自然数が存在する。」も偽でなければならない。
トリビアルに存在するからと言って本当に存在するわけではないよと言いたい気もするのだが、トリビアルな側を認めつつ、うまいこと抽象的なものの存在だけを除去しようとしてもなかなかうまくいかない。この「トリビアルな意味では存在する」が意外と手強い。
プラトニズムに反する説として次のようなものがある。
「数学が扱うのは抽象的な構造にすぎない。」であるとか「数学は便利な虚構である。」という言い回しに見られるような考え方だ。これはよくある考え方であるし、個人的にはこれが実感に合う気もするのだが、以下の議論には唸らされた。
「抽象的な構造」説、つまり数学とは「もしもこれこれの公理を満足する構造が存在するならば、その構造はしかじかの性質をもつ」ということだけを確立する営みであるという説を取り上げ、飯田氏は以下のような議論を展開している(p146-)。
数学がこうした意味での抽象的な構造を扱うものだとしよう。自然数とは、「自然数論の公理を満すもの」という抽象的な規定にすぎない。
しかし、ここで言う「これこれの公理を満足する構造」は空集合であってはならないはずだ。もしこれらの公理を満たすものが1つもないならば、理論は空虚に真であり、理論の妥当性はどうでもよいことになってしまう。
問題は「そんな公理を満たすものが本当にあるだろうか?」という点である。何しろ、自然数や集合論や実数の公理を満たすものは無限でなければならない。しかし、自然界にそんなものが本当にあるのだろうか? 数学的対象以外に無限なものなんてあるだろうか?
(カントは時間と空間を無限の例としたそうだが、現代においてはそんなことは物理学者の研究によって明らかになることであって、哲学者が勝手に「アプリオリに真」などと決めつけるべきことではないだろう、とも)。
これに対し、うまい答え方はないものかと思うのだが、まったく思いつかない...。
唯名論者の側もすごい。
ハートリー・フィールドという人は、唯名論を擁護するために『Science Without Numbers』という著作で、自然数の存在を前提せずにニュートン力学を再構成したそうだ。詳細はわからないが、とてつもない作業に思える。しかしこれを聞くと逆に、唯名論というのはそんな努力を踏まなければ擁護できないのかと不安になる。
個人的な感慨以上のものではないが、プラトニズム(実在論)の問題点は、仮にそれが正しいとしても、それがどういう意味なのかよくわからないというところにあるのではないか。
「自然数は(or実数はor集合は)存在する」という主張が正しいとしても、「直接目で見ることもできないし、触れることもできないし、時空間のなかに場所を持つこともないけれど存在する」というのはいったいどういう意味なのだろう。天上にイデア界のような場所があり、そこには自然数が鎮座していて...などと考えると少しイメージが湧くが、メタファー以上のものではないだろう。
どういう意味も何も、その通りの意味だよと言われてしまいそうだが、腑に落ちないものは仕方ない。
たとえば命題「自然数は存在する」を認めると、結果としてどんな世界観を持つことになるのか。
そこまで含めて展開されないと、なかなか納得しがたかったりする。
たとえば「自然数や集合は存在するか」という問いを「数学はいかなる意味でリアルであるか」という問いに変えることはできるだろうか。
どうしてこの宇宙の中で自然数論や実数論や集合論を使った議論がうまくいくのかという方向で考え、「ほら、この宇宙ってこういう自然法則が成り立つからさ、だから数学の応用可能性がなりたつんだよ」とか。
いや改めて考えるとこれじゃダメかもしれない。自然数論とかそこまで応用可能性があるわけじゃないようだしなあ。
むしろ人間の認知や実践の部分に自然数を「使いたくなる」ような傾向があると考える方がよいのだろうか。しかしそうなると、「自然数」は人間にとって便利なだけの虚構であり、「数学的真理は文字通りに真であり、自然数がトリビアルに存在する」という直観の方は捨てなければならないかもしれない。
...などといろいろ考えるが、迷宮入りするばかりで、さっぱり考えがまとまらない。
■ 文献
- [B]Field, Hartry H. Science Without Numbers
- [B]Putnam, Hilary. Mathematics, Matter and Method: Philosophical Papers, vol. 1. Cambridge: Cambridge University Press, 1975
- [B]Sider,Theodore. Hawthorne, John. Zimmerman, John. Dean W.(編) Contemporary Debates in Metaphysics, Blackwell Pub, 2007
飯田隆
勁草書房、1987
ようやく読んだ。
フレーゲとラッセルの言語哲学に対する丁寧な注釈。おもしろい。
今見ると、フレーゲとラッセルの読解が丁寧なのはもちろんだが、同時代の英語圏の潮流を睨みながら書かれていることがわかる。
注などに頻出する名前は、マイケル・ダメット、G.エヴァンズ、ベイカー&ハッカー。
巻末のクイズについて。
最後に、本文を読み終えた読者のためにクイズをふたつ。(...)
- 1フレーゲの「Bedeutung」を「指示」と訳すのは、なぜまずいのか?
- 2ラッセルの「denote」を「指示する」と訳すのは、なぜまずいのか?
これらふたつのクイズに答えられれば、本文の理解は十分であると保証する。
p251
はじめいい加減に読み流していたらわからなかったので読み直した。
フレーゲの方はあまり自信がない。
クイズ1の解答:
フレーゲが掲げた「文脈原理」の方針を忠実に守るなら、語のイミ(Bedeutung)に先立って文のイミ(Bedeutung)を決定すべきである。
まず合成原理に従って「文のイミが真理値であるという。」という主張が擁護され、次に「文のイミ」を決定するために貢献する要素を「語」の中に探し求めるべきである。以上のような過程を踏んではじめて「語のイミはその指示対象である。」という主張が擁護される。「語のイミはその指示対象である。」という主張は、文のイミからの推論であり、こちらが前提であってはならない。
しかるに「Bedeutung」を「指示」と訳すと、「語のイミはその指示対象である。」という結論を先取りしてしまうことになる。
ゆえに「Bedeutung」を「指示」と訳してはいけないのである。
クイズ2の解答:
ラッセルにとって『表示(denote)』の問題とは、指示一般の問題とは区別される特殊な問題である。
表示の問題とは以下のような問題である。
『数学の原理』の時代のラッセルにとって、「概念」と「物」は異なった種類の対象である。「ラッセル」「フレーゲ」のような個人の名前は「物」を指示し、「白い」「人間である」などの述語は「概念」を指示する。
しかるに「ある男」「すべての人」などの表現が指示するのは概念である。固有名以外の表現はすべて基本的に概念を指示するのであるし、「ある男」「すべての人」などは、特定の物を指示する表現ではない。にもかかわらず「わたしは昨日ある男に会った。」という文は、わたしが人物に会ったことを述べており、わたしが「概念」に会ったことを述べているわけではない。つまり、概念「ある男」が文中で物を代理しているのである。
このようにして、「概念が物を代理する」という特殊な関係を「表示」と呼ぶ。また物を指示するような特殊な概念を「表示概念」、表示概念を指示する言語表現を「表示句」と言う。
「概念」の存在を前提しない中立的な表現で定式化しなおすならば、
「表示句は直接特定の物を指示する表現ではないにもかかわらず、文中で使用される場合には、物の代理をつとめているように見える。」
これが「表示」の問題である。
ラッセルにとっての「表示denote」の問題とは、以上のような特殊な現象であり、指示一般の問題とは異なる。
ゆえに「denote」を「指示する」と訳してはいけないのである*。
■ 文献
- [B]M. Dummett, Frege: Philosophy of Language. 1973(2nd ed. 1981), Duckworth.
- [B]M. Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy. 1981, Harvard University Press.
- [B]M. Dummett, "Can analytical philosophy be systematic and ought it to be?" in Truth and Other Enigmas. 1978, Duckworth.
- [B]G. Evans, The Varieties of Reference. 1982, Clarendon Press.
- [B]G.P. Baker & P.M.S. Hacker, Language, Sense & Nonsense. 1984, Basil Blackwell.
Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集)
Blackwell Pub、2007
1.1 Chris Swoyer "抽象物(Abstract Entities)"
わたしはレジメ担当者じゃないのでレジメはつくってません。簡単な要約と感想だけ。
この本では、形而上学の様々なテーマについて、賛成反対それぞれの立場に立つ論者が議論を戦わせます。
1章のテーマは「抽象物は存在するか否か」です。1.1は「抽象者は存在する」という派閥の人の論文。
■ あらすじ
- 抽象物っていってもいろいろある。定義はむずかしいけど、『数』とか『性質』とか『命題』とかが抽象物の典型としてあげられる。
- これらの対象は、時空間のなかに位置をもたないとか、通常の因果関係の連鎖からは外れているなどなどの特徴がある。
- ここではこいつらの存在を擁護する議論をとりあげる。
- でも、抽象物っていってもいろいろあるから、「数は存在するけど、性質は存在しない」とかいろんな立場がありえるよ。
- とりあえず何か抽象物の存在を擁護するときの典型的な議論の仕方を紹介するよ。
- 昔の哲学者は、公理からの演繹で抽象物の存在を証明しようとしたよ。
- しかしこのやり方は全然成功しなかった。望みはないと思う。
- 最近のトレンドは、妥当な証明に訴えるのではなく、説得によるラフな議論を利用すること。
- 何かの現象をとりあげ、それを説明する理論をつくる。
- 説明がうまくいっていて、しかもその説明が抽象物の存在を必要としているなら、「やっぱこの抽象物は存在するよ」という説の説得力が増すはず。
- もっとも何がうまくいく説明なのかというのも、厳密な基準はないし、むずかしいんだけどね。
- 基準の1つは有名な「オッカムの剃刀」だけど、オッカムを持ち出して解決することも滅多にない。
- いずれにせよ、抽象者が存在するかどうかというのは、現象をうまく説明できる理論はどれ?というより広い枠組みの中で決まるよ。
■ 感想
序文のレジメで、「究極理論はないけど最善理論はある。なので最善理論の中の存在について語れば存在について語ることができる」みたいなことを書いた。
この論文はもろにそういう話だったので、「お、おれの理解は結構よい線いってるんじゃねえか?」と思った。
しかし「何が存在するかという問題は、結局『何が最善理論なのか』によって決まる」という話であれば、もう最初から理論的説明に飛び込んでいけばよいのであって、「抽象物は存在するか」という問い自体が微妙なんじゃないかと思った。議論の仕方の紹介としては親切な論文だったが、「抽象物は存在するか」という問題の立て方をしてもあんまり盛り上がらないんだなあという印象。
一方後編の「抽象物なんて存在しねえよ」論文がこれにどう応じるのかが興味深い。
あと、できれば個人的には、「存在っていってもいろんな存在の仕方があるよね。『椅子が存在する』のと、『100以下の素数が存在する』のは何か違うでしょう」という問題をもっと取りあげてほしかった。「抽象物は存在するか」と聞かれて、わたしの率直な感想は、「存在するって言ってもいろんな意味があるんだから、それを限定しないと議論にならなくない?」というものだったりするので。
もちろん「存在の意味が違うっていうのは『抽象者はある意味では存在する』って認めてるのと一緒だよね。抽象者が存在するかどうかがここのテーマなんだから、それを認めるならもう『存在する』で決定だよね」と言われれば、確かにそれまでなんだが。
『知識の哲学(The Probrem of Knowledge)』
A.J.エイヤー(著), 神野 慧一郎(訳)
白水社、1981
目次
- 1哲学と知識
- 哲学の方法
- 知識に共有の諸特色
- 知っているとは心が特別な状態にあることなのか
- 方法の論議―哲学と言語
- 知っているとは確信する権利をもつことである
- 2懐疑論と確実性
- 哲学的懐疑論
- 確実性の探究
- 「われ思う、ゆえにわれあり」
- 疑いに対して免疫のある言明は存在するか
- 公的な言語使用と私的な言語使用
- 自分自身の直接経験についての誤りは言葉のうえのものにすぎないのか
- いかにしてわれわれは知るのか
- 事実推理についての懐疑―帰納の問題
- 懐疑論の基本型
- 懐疑論者に応じるさまざまな方法に関するいくつかの所見
- 3知覚
- 物理的対象は直接に知覚されるか
- 錯覚からの議論
- 感覚所与を導入する一つの方法
- 感覚所与の合法性に関して
- 素朴実在論と知覚の因果説
- 現象論
- 物理的対象についての言明の正当化
- 4記憶
- 習慣記憶と出来事の記憶
- 記憶像はなくともよいということ
- 記憶・想起とは何か
- 過去の概念と記憶
- 過去に関する言明の分析について
- 過去と未来―記憶と予知
- なぜ原因は結果のあとに来ることができないのか
- 5私と他者
- 何が人物をして現にあるとおりの人物とするのか
- 人物の同一性の一般的な諸基準。それらは物理身体的なものでなければならないのか
- 経験の私的性格
- われわれは何を他者に伝達しうるか
- 物理主義のテーゼ
- 他者の心についての言明の分析と正当化
近所の図書館に邦訳があったので読んでみた。
すごく細かい議論を自然言語で丁寧に説明し、しかも落ちつくところはすべて穏健な結論というとても地味な本だが、ある意味とても哲学書らしい哲学書だと思う。
たとえば、
- 「センスデータという概念を使って大掛かりな理論を構築する人たち」と
- 「センスデータという概念は無意味であるという人たち」
の両方の主張を丁寧に検討したあげく、結論が
「センスデータという概念は注意して使えば無意味というほどでもないが、あまりメリットがないのでここでは採用しない」
という感じのものだったり。ひさびさに哲学書を堪能した気分。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
↑の本の元ネタ本の1つですね。基礎付け主義の批判の部分などは似てるか?
■ あらすじ
1章は方法論と結論。
知識を持つとは、心の状態ではありえない。なぜなら「...を知っている」ということは何かが真であるということに関わっており、「真である」は心の状態ではありえないからだ。「...を知っている」とは、何かを確信しており、それを確信する「権利を持つ」ことである。そのようにして権利を持つための正当化はさまざまな手段によってなされる。
2章は一般的な議論。
懐疑主義はわれわれの「知識を確信する権利」に疑問を投げかける。これに対し、疑いようのない主張から出発することで、揺ぎない知識を確立しようという哲学的プロジェクトがかつてあった。しかしこれは見込みのないものである。なぜなら、その手のプロジェクトは「偶然的真理」を無理矢理必然のものとして立証しようとしているからである。それによってかえって懐疑主義者の主張(不可謬な知識はありえない)がもっともなものとなってしまう。
しかし、そんなプロジェクト自体を捨ててしまえば懐疑主義者はおそるるに足りない。なぜなら彼等が要求していること(不可謬な知識をつくれ)ははじめから不可能なことなのであるから。
3章から5章は以上のような懐疑主義を遠ざける主張を各トピックごとに展開したもの。3章は知覚、4章は記憶、5章は他者の心に関する懐疑論をとりあげている。
■ もっと立ち入ってみる
地味な本だが、懐疑主義に対する批判はためになった。ある程度本を離れて自分の言葉にしてみると以下のようになる。
■ 知識とは
まず「知っている」とは、何かを信じており、その信念がしかるべき手段によって正当化されているということである(と少なくともエイヤーは考えている。言うまでもなくゲティア問題などは考慮されていない。何しろそれ以前の本だから。懐疑主義にいかに応じるかが大部分を占める本なので「知っているという現象の分析」はあまり重視されていない)。
たとえば、わたしは今自分がPCの前にすわっていることを知っている。そしてこの知識をさまざまな方法で確かめることができる。
- たとえば目をこらしてよく見る。
- さわってPCの感触を確かめる。
- 頭をふって夢でないことを確認する
などである。
もちろんいかなる手段をつくしても、「まだ疑える」と言うことはできるが、通常「目で見てさわって確認した」というのは知識を正当化するための十分な手段として認められている。「本当だって、この目で見たんだから」という場合がたとえばそうである。
これがもっと限定された科学の知識などであれば、よりコントロールされた正当化の方法(実験による観察や権威ある著者の発言など)が利用されるだろう。
以上が示しているのは、主張を確信するための手段はさまざまにあり、それら「正当化の方法」によって確かめられた主張をわれわれは「知識」として受け入れるということである。
■ 懐疑主義とは
一方懐疑主義とは何か。
懐疑主義は、上で説明したような「正当化の方法」の内の一部を否定する主張ではない。
たとえば「クガタチ」という風習があるが、かつて熱湯に手をつっこむことは知識を正当化する手段の一つだったのかもしれない。
しかし、この時代に「クガタチは知識を正当化する手段としてはどうか?嘘なのではないか?」という人がいたとして、それを懐疑主義とは呼ばない。同様に、科学の手法の一部を批判する人は懐疑主義者ではない。たとえば、「言語学における統計的手法は疑わしい」という人がいたとして、それを懐疑主義と呼ぶのは変だ。それは科学の方法論上の対立である。
懐疑主義というのは正当化の方法すべてに一挙に疑いを向けることである。懐疑主義者によればどんな正当化の方法も疑わしいものとされ、われわれの知識すべてが疑わしいものだと主張される。
■ 勝ちはどこにあるか
懐疑主義に対して必要なのは、懐疑主義者を説得し切るだけの論法を用意することではない。それはそもそも不可能である。なぜならば懐疑主義者はあらゆる知識の手段を疑うのだから、どんな論法を持ち出してもそれを懐疑することができてしまう。
目指すべきことは、説得することではなく、
- 「懐疑主義が健全な直観に従った堅固な立場である」
という主張を掘り崩すことである。懐疑主義者の主張を認めるとどれだけ不条理な結論が導かれるかを示し、懐疑主義の説得力をうばうことである。また、よく整理してみれば、懐疑主義の述べることがいかに平凡な主張であるかを示すことである。懐疑主義者はどれだけ不条理な結論を提示されても気にしないかもしれないが、それを認めるたびに懐疑主義の説得力は失なわれる。支持者を増やすことができなければ懐疑主義は無害である。
■ 事態はどのようになっているか

懐疑主義はときに「間違っている可能性」を盾に知識を攻撃する。どれほど確信されたかに見える主張であっても間違いの可能性は存在すると言うのだ。
それは正しい。しかし自明な意味で正しいだけだ。これを真に受けて、「真理をより確実なものに!」などと思ってはいけない。
事態は上のようになっている。十分に正当化され確信された主張も「不可謬である」わけではない。不可謬な主張と確信された主張はまったく別のグループに属する。それどころか、「不可謬な主張」のグループは空集合であるかもしれない。エイヤーは事実そうだと言う。
懐疑主義の主張を真に受け、確信された主張を、何とかして不可謬な主張にしようとしても無駄である。確信された主張の多くは、きわめて確からしいかもしれないが、論理的必然であるわけではない。
- 科学的命題の多く、
- 歴史的命題の多く、
- わたしが確信を持って受けいれている日常的真理は、
「きわめて確からしい」ものであっても、論理的必然ではない。たかだか偶然の真理である。正しい確率が9割になることはあっても10割になることはない。それを何とか不可謬にしようとするのは無駄である。
さらに、いわゆる「論理的必然」たとえば、数学的な証明手続きをへた命題などであっても、それは「必然に思える」だけであって不可謬ではないかもしれない(証明が間違っている可能性も無ではない)*。
そもそも不可謬な主張などというものは存在しないかもしれないのである。
エイヤーは「われ思うゆえにわれあり」と「わたしには赤く見えるように思われる」という2つのタイプの主張を取り上げて検討しているが、どちらも不可謬ではない(それか単に内容のない主張である)としている。
反懐疑主義者が懐疑主義者に対して言うべきことは、「それは通常受け入れられた手段によって正当化されている(私はそれをこの目で見た。こういう資料がある。こういう実験が報告されている...etc)」ということだけである。それは不可謬ではないかもしれないが9割の確率で正しい主張かもしれない。通常はそれで十分なのであり、「1割間違っている可能性がある」ということは大したダメージにもならない。
懐疑主義者がその「正当化の手段」に疑問を投げかけるなら、どんな手段ならよいのかを逆にたずねればよい。それに真面目に答えるなら相手はもはや懐疑主義者ではないし、すべての手段が無駄だというなら、もう相手にする必要もないかもしれない。
■ 人はなぜ懐疑主義者になるのか
エイヤーとは関係ないが、人はなぜ懐疑主義者になるかについて、考えたことを書いておく。
- 1つには、表現手段の貧しさである。
懐疑主義的に思える主張をする人の多くは、よく話を聞いてみると、実はもっと穏当な主張をしたがっているということがよくある。
- 本当は、「時代や社会によって主張を正当化する手段は異なる」という弱い主張をしたいだけなのに、「時代や社会によって真偽は異なる」と言うとか、
- 本当は、「完全に不可謬な主張は存在しない」という弱い主張をしたいだけなのに、「真理は存在しない」と言ってしまう。
どちらの場合も、前者は後者よりはるかに穏当でおそらく正しい主張である。
後者の形で述べた場合は、それを文字通りに認めた場合に発生する諸々の不条理を大量に抱えこまねばならなくなる。要は言い方がまずいせいで、余計なことを言ってしまっているのである。
こういう人は、単に別の言い方を工夫すれば簡単に受け入れられる主張になるのに、それを理解できず無駄に攻撃的な主張をしてしまうのである。
しかも往々にして本人は後者のより穏当な主張をしているつもりだったりするので、余計に話はややこしくなる。本人からすれば当り前のことを言ってるつもりなのに、なぜ周りが否定するか理解できない状態になる。
見方を変えれば後者の過激な言い方は比喩であり、文字通りに受け取るならただの間違いである。しかしそれを自分でわかっていないから話がおかしくなる。要は表現能力の不足であり、うまく使えもしないような比喩に頼ってしまった報いであるかと思う。
- もう1つには、過激な主張をしたいという下心がある。
穏当な主張はたいてい常識に沿ったものであり、おもしろくはない。単に平凡な主張に思えてしまう。
懐疑主義に走るのは若者の方が多いと思われるが、若者の一部は早急であり、平凡な知見を積み上げていくとか地味な実証を重ねるという気の長い工程をいやがる(私の若い頃だけかもしれないが)。
しかし簡単に独創的な主張ができれば苦労はしない。そこで過激な表現に走ることになる。
しかし、独創的も何も間違っているものははなからダメであるし、ろくなことが言えないからと言って過激な表現に走ったところで、やはりろくな意見にはならない。
こうした兆候に対し、効果的な対処法は、
- 「文字通りに受け取ると間違いであると示すこと」
- 「本当は何を主張したいのかを聞き出すこと」
- 「表現手段のまずさに気づかせること」
- 「過激な表現に走るのがいかにかっこ悪いかを効果的に教えること(馬鹿にすること)」
であるかと思われる。
目次
- 批判的工学主義とは何か/建築家・藤村龍至/インタビュー
- アダルトヴィデオ的想像力をめぐる覚書――ゼロ年代的映画史講義/渡邉大輔
- リアル入門 ――ネットと現実の臨界/工藤郁子
- 文芸批評家のためのLudology入門――<ゲーム>定義のパースペクティブ/高橋志行
- 工学の哲学序説/シノハラユウキ
- 「コンテンツ植民地」日本/min2fly(佐藤翔)
- ケータイ小説の作り方――ケータイ小説家・秋梨インタビュー
- フィクションするとは一体いかなる行為か/シノハラユウキ
- 兄弟という水平面/擬似的な垂直性/シノハラユウキ
- フラグメンタルアプローチ/塚田憲史
- &LOVE――『あたし彼女』『メルト』/塚田憲史
- Synodos+筑波批評社
- 座談会 ニコニコ世代に歴史はあるか?
■ まえおき
筑波批評についてまじめにコメントします。代表のsakstyle(シノハラユウキ)さんは、よくわたしのブログ記事にブクマやスターをつけていてくれて、去年の文学フリマではうちのサークルの本を買いにもきてくれた。そのため、わりと前から認知しており、最近ではTwitterなどでもちょこちょこ交流がある。
しかし正直に書くと*、評論や思想にそれほど興味がないため、最初は筑波批評についても「大学生が何かやってるなー」というくらいの印象しかなく、わりと冷淡に見ていたと思う。
それがいつのまにか印象が変って、ゼロアカ道場の頃はもう「筑波がんばれ!筑波がんばれ!」という心情だったのだが、これについては彼らが毎週末に放送していたustreamを見ていた効果が大きいと思う。
筑波批評社のustがおもしろいというのは実は、id:mmww に教えてもらった。mmwwは文学フリマでsakstyleさんが買いに来てくれたのがきっかけで筑波批評社を知ったのか? その辺の経緯はよくわからないが、mmwwは自分の姿を見せず、こっそりヲチするタイプのキモいヲチャーなので、いつのまにか筑波批評をヲチしていたらしい。
ustreamがきっかけで筑波批評に興味を持ったという人は意外と多いのではないかと推測しているが、何というかアレは、大学の人文サークルの空気を疑似体験できる装置として稀有だと思う。失礼ながら、筑波批評社の人たちは、とてつもない知的なカリスマなどではなく、自分のまわりにもいそうな、ちょっと哲学や思想にくわしい学生にすぎない。しかしその人たちが、映像の向うで熱くトークを繰り広げており、ircなどを通じて自分もちょっとだけ参入できるというのはやばい。画面のむこうの楽しそうな雰囲気が伝わってきて、自分もついでに若がえった気分で楽しみに見ていた。
あとsakstyleさんがよく勉強しているのは傍目にもわかったので、ブログ記事の質がだんだんあがっていくのもすごいなーと思っていた。
というわけでわたしは筑波批評社を応援しているのでまじめにコメントしたいと思います。とりあえずわたしの関心に近かったsakstyleさんの論考2本についてだけ書く。他にもおもしろい記事はいろいろあったのだけど、わたしがコメントしても仕方ないようなものも多いので。
まじめなコメントなので、わりときびしめに書いています。
■シノハラユウキ「工学の哲学序説」
■ 要約
東浩紀やイアン・ハッキングは、テクノロジーに着目することで新しい哲学的概念を生み出し、従来の概念を「脱神話化」という形で再構成した。こうした試みを「工学の哲学」と捉えたい。
■ 感想など
エンジニア兼哲学オタであるところのわたしとしては、目次を見たときからこの論評は気になっていた。工学の哲学という試みはおもしろいものだと思う。
読んだ感想としては「テクノロジーによって新しい概念を生み出す」という着想自体はとてもよいのだが、短かすぎる印象を持った。この着想自体には興味があるので、今後もう少し展開してほしいなあと思う。
具体例として東浩紀とハッキングという、意外な組み合わせの2人があげられているのも唐突に思えたし、論述にも事例が少なすぎて消化不良ぎみだった。特に「脱神話化」というタームについては定義や説明が少なすぎてよくわからない(東浩紀由来の単語なのはわかるが、東浩紀の元々の用法もわたしにはよくわからない)。門脇俊介の本を参照して「自然主義」と同一視しているが、「自然主義」と「脱神話化」って一緒にしたら両方とも怒るのではないか。
あと、「工学の哲学」の例として、ハッキング、東浩紀、パース、バシュラールなどの名前があがっているが、この選択もやはり唐突だ。
まず工学の哲学自体はふつうに行なわれているものだし、それを専門にしている人もいる。最近でた岩波哲学講座にも「科学/技術の哲学」という巻が用意されている。
飯田隆(編)
岩波書店、2008
以下のような本も出ている。
黒田 光太郎 (編集), 伊勢田 哲治 (編集), 戸田山 和久 (編集)
名古屋大学出版会、2004
試しに、「工学」「哲学」などのキーワードで、CiNiiなどで検索をかけてみると、それを専門にしているらしい人の論文や著作が他にもぽろぽろと見つかった。
そこで言う「工学の哲学」のほとんどは、この論考があつかっているようなものではなく、いわゆる工学倫理とか技術倫理を扱うものだが、現に「工学の哲学」をやっている人たちがいるのに、それをまったく紹介せず、工学の哲学を名乗っているわけでもないハッキングなどをあげるのは不用意だろう(東浩紀は「工学の哲学」と言っていたかもしれないけど、他の人はそうじゃないよね?)。
これは、内容に対する異論ではなく、論を進める上でのテクニックについて述べただけだ。しかし工学倫理などの試みを簡単に紹介しつつ「でも、ここではちょっと違った人たちを工学の哲学の実践者として評価するよ」と一言つけくわえるだけで、ずいぶん印象は変わるはずだ。この文章のような書き方だと「工学の哲学について何も知らず、何も調べずに書いているんだな」と思えてしまう。
■シノハラユウキ「フィクションするとは一体いかなる行為か」
■ 要約
フィクションは、キャラをキャラとして消費する行為や、作中の記述を信じるという行為など、いろんな行為の実践によって成り立っている。
■ 感想
知っている人は知っているように、わたしの修論は「社会的実践としてのフィクション」というものであり、この論考はわたしの関心にかなり近い。
これについては、結論がどうこうよりも論の進め方に気になる部分が見られた。
この文章が述べているフィクション観自体は多くの人の共感を得るところだろうと思う(人によっては異論もあるだろうが)。
しかしこういうタイプの哲学的論述(?)で重要なのは、結論よりも論の進め方だと思う。単に共感を得られそうな主張を書いて、「そうだそうだ」というだけでは論文にも研究にもならない。丁寧な論証があるからこそ、哲学的な論述になるのだと思う。
ここで提示されているフィクション観は、人が作品を、特定の慣習や習慣にそって扱うことによって、作品はフィクションとして構成されるというプラグマティズム的なものだ。構成主義的と言ってもいいが、とにかく行為・実践中心の発想という風に見える。
こういう主張をするときに気をつけなければならないのは、対照概念をきちんと明示することだ。「行為」とか「実践」というのはかなり広い概念であるため、気をつけないと「なんでも行為だ。なんでも実践だ」というマジックワードになりやすい。しかし、「何でも行為だ」と簡単に主張できてしまうなら、そもそも行為中心の発想を提示する意味がない(なんでも行為によって構成されるなら、「何でも行為によって構成される」と言えばいいだけであって、わざわざフィクションについて同じ主張を繰り返す意味は特にない。反対に言えばそれはフィクション固有の特徴をとらえられていないため、フィクション論としては失敗である)。
特に前半のキャラの話は「行為」による実践的なフィクション観を強調しているわりに、具体的に「どういう慣習なのか」「どういう行為なのか」という話が少なく、観念的な話にとどまっているように思えた。
後半のフィクションの「リアリティ」とか「信じる」の話はもうちょっと独自のことを言おうとしているようにも見える。ただこれらの部分ももう少しきちんと論じてほしいなあと思った(どちらもおもしろそうなトピックであるだけに、アイデアだけにとどまっているのは残念だ)。
どういう風に話を深めればいいのかについては何とも言えないが、論述が雑に見えた部分を1つだけあげておく。他にもいくつか気になった点はあったが、1つだけ。
たとえば以下の部分。神=作者という発想を否定するために、佐藤友哉の小説をあげ、以下のように書いている。
その後に書かれる『世界の終わりの終わり』『灰色のダイエットコカコーラ』は共に、佐藤友哉を模したと思しき「僕」が主人公となり、覇王ないし作家になろうと試みるのだが、 失敗に終わるのだ。この失敗は何を意味するのか。作家とは、作品世界を全て操る神のような存在ではないということだ。
p62-63
これなんて、ほとんど佐藤友哉が小説に書いている(らしい)ことをただ繰り返しているだけだ。作品論としては正しいのかもしれないが、これだけでは「佐藤友哉が言ってるから正しい」と言っているようにしか見えない。それは論証にも説得にもならないのではないかと思う。
この文章では、哲学的な論述と作品論があまり分離されずに共存していて、それ自体はおもしろい試みかもしれないとも思うのだが、こうした部分ではそれが失敗してしまっていると思う。
...しかしこれ、何を書いても、「人のこと言えんわ」というブーメランだな。
谷川流(著), 蒼魚真青(著)
メディアワークス、2003
ハルヒおもしろいなーって言ってたら、人からたびたび学校を出よう!も読めと薦められるので、読んでる*。学校を出よう!1は「あー、ハルヒよりふつうにラノベっぽいかなー」というくらいでそれほどでもなかったのだけど、2はめちゃくちゃおもしろかった。1とは設定、世界観を共有してるみたいだけど、主人公その他も別なので、いきなり2から読んでも大丈夫だと思う。
■あらすじ
神田健一郎は気がついたら血のついたナイフを片手に3日前にタイムスリップしていて、しかもこの6日間の記憶が失われていた。部屋に帰ると、今度は3日前からタイムスリップしてきてしまったもう1人の自分に遭遇する。
2人(1人?)は同級生の女子を巻き込み、
- (1)なぜ自分たちは時間を移動したのか
- (2)かすかに記憶にある誘拐事件
の謎を解こうとする。
時間移動もののSFミステリですね。
■ ドラえもんだらけ
作中でも言及されているけれど、元ネタはドラえもんですね。1時間後、2時間後の未来のドラえもんをつれてきて宿題を手伝わせる話。「ドラえもんだらけ」(5巻収録)です。
『人類は衰退しました』でも、言及はされてませんでしたが、同様のネタは使われていました(「妖精さんの、じかんかつようじゅつ」)。わたしはドラえもんのこの回の話が大好きなので満足ですね。
■ 感想
ドラえもんという元ネタはあるものの、気がついたら血のついたナイフを片手に3日前にいたというところからはじまって、最後の謎解きまで含め、タイムスリップものとして非常によくできていたので、わくわくしながら読みました。この年の星雲賞がこれでもまったくおかしくない。むしろ何で受賞しなかったの?と思った。
これは次巻も大いに楽しみ。
デイヴィッド・ルイス (著), 吉満 昭宏 (翻訳)
勁草書房、2007
この本ずっとトイレに置いていて半年くらいかけて少しずつ読んでいたんだけど、少しずつ読んでたら途中でついていけなくなってしまった。それから少し戻って読んだりパラパラめくったりしてたんだけど、これ以上内容を把握できずにパラパラめくって読む行為に意味を見出せなくなってきたのでいったん感想を投げてけりをつける。世界の集合を使った理論の概要は何となくわかったので、また体力のあるときにでも挑戦してみることにする。
基本的には、数学的理論をつくって「反事実的条件法(もしもカンガルーに羽があれば、みたいな)」を分析する本です。
ルイス自身について言えば、『形而上学論文集』に入っていた「普遍者の理論のための新しい仕事」がわりと自分のなかでのターニングポイントになっていて、これを読んだおかげで、「形而上学おもしろいなー」と感じるようになった。今思い返してみても、これはかなり密度が高くおもしろい論文だったと思う。タイトルが『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事 』に似ているところも好きだ。
とりあえず「これは同意できるなー」と思った部分だけまとめておく。様相論理に詳しくなったところでまた読めばおもしろいかもしれない。
なるほどと思ったポイント1。哲学は常識を体系化する。
見解の蓄積を既に持ち合わせている者が哲学に携わる。これらの先立つ見解を大半において貶めるか擁護することが哲学の本文なのではなく、先立つ見解を整然とした体系へと広げていく仕方を見つけようとすることこそが哲学の本文なのである。
形而上学者による心の分析は、心についてのわれわれの見解を体系化する試みである。それは、
- (1)その分析が体系的であり、そして
- (2)その分析が、われわれが強固に持ち合わせている前哲学的な見解の蓄積を重んじる、という限りにおいて成功する。
p144
哲学の仕事は素朴な信念を懐疑したり批判したり擁護することではなく、素朴な常識的見解を体系化し理解することである。
断片的にしか把握されていない日常的信念を命題の形で表現することで、どの命題がどの命題を含意し、どの命題がどの命題と矛盾するかを理解できる。つまるところ哲学の仕事はわれわれの常識的世界観がどんな部品から成り、どんな風に組み立てられているかを理解することである。
変な考え方をぶつけて常識を解体し、それが「よいことだ」と考えるような傲慢で懐疑主義な「哲学」や「啓蒙」はあまり好きではないので、こういう考え方には好感を覚える。
デイヴィド・ルイス自身はぶっとんだ発想で有名な人だが、意外と基礎はしっかりしているというか、あくまでも一定のルールを守った上で挑発的な発想を提出している点は好きだ。
ポイント2。曖昧な概念だからといって形式化をあきらめる必要はない。
(ルイスの用いている「類似性」という概念が曖昧だという指摘について)
たとえ可能世界には我慢できるとしても、世界の比較可能な全体的類似性という概念は未だ絶望的に不明瞭であり、よって反事実的条件法やその他のものの解明にとってはまったく確固たる基礎となっていない、と言われるかもしれない。
私はその批判は間違っていると思う。「不明瞭であるunclear」ことが不明瞭なのである。
つまり、それは「不当に理解されたill-understood」ことを意味するのか、それとも「曖昧であるvague」ことを意味するのか?
...
比較可能な類似性は不当に理解されたものではない。それは正しく理解されるなら、曖昧――非常に曖昧――なのである。従って、それはまさに、それ自体明白に曖昧なものに関する正しい分析を与えるのに使用しなければならない類の原始概念である。
p149-150
私は固定された区別を、それを支持することがまったくできない基礎の上に立てようとする哲学者の一人ではない。私はむしろ、
- 揺らいだ基礎の上に
- 固定されていない区別を
立てたいのであり、その際にその双方は独立にではなく、むしろ一緒になって揺れ動くと主張するのである。
p151
元々曖昧な日常概念をその曖昧さを保持したまま形式化するのは非難されるべきことではない、と。むしろ形式化によって曖昧さの分析が可能になる。
曖昧さと形式化は必ずしも矛盾するわけではない、というのは共感できる立場だ。形式化というと、曖昧さを排除して明晰な定義に置きかえることだと考えられがちだが、そうではない。第一に考えるべきことは、曖昧なものを形式的でソリッドな定義に置きかえることではなく、曖昧な世界観を、曖昧さを保持したままで(それでいて体系的に)理解することだ。そう考えるなら、これは哲学は常識を体系化するという論点とも関連するだろう。
チャンピオンREDコミックス(秋田書店)
Amazonの評価1点レビューがなかなか本質をついていると思う。
正直読んでて気分が悪くなり頭も痛くなりました。人間の尊厳を無視し侮辱するように人体実験を漫画にして何なのよ?人が喰われてるしホント気持ち悪い。漫画なら何でもアリだと暗黙で認めている社会現状に不満だし不安です。その現状が混沌の世をさらに悪化させ、狂凶な事件を増やす事になると思う。
この手の漫画には作者の強い思いのメッセージが必ず在ると思う。だがこれには無い。ただグロ好き作者の道楽漫画。殺人を肯定する腐れ漫画だと思う。漫画を教科書にする馬鹿者がいることを知ってるだろうに。実に無責任だ!
この人おそらく1巻を読んで後悔したのだろうに、2巻にまで感想を寄せていて律儀ですね。
以前たまたまチャンピオンREDを購入したら載っていて、ときめいたので単行本購入したしだい。なかなか書店に置いてなくて困った。
表紙だけ(無駄に)エロいが、そのせいで本来の読者を逃してそうで不安。
内容は、駕籠真太郎正統な感じの最高に悪趣味な人体改造グロコメディーです。
腐れマッド医者ふらんが毎回人体改造で事件を解決(しようとしてよりひどいことに)していく話ですね。
たとえばこんな感じの話が載ってる。
- ちょっとどんくさい少年が告白するがまったく相手にされず、その直後相手の少女が事故で瀕死状態に。
- 少年の頼みをきき、ふらんが少女を手術する。
- 少女は生きながらえるが、ふらんの手術によって体が芋虫になる。
- 少年が体だけ芋虫になった少女の世話をする。
- 最初は絶望していた少女だったが懇切に世話をする少年にほだされ、だんだんいい雰囲気になる。
- 芋虫少女はグロいけど、これはこれでかわいいかな?という気もしてくる。
- ある日ついに少女は芋虫から孵化し、繭状態を経由して元の体を取り戻す。
- 2人が結ばれて万歳?いい話?と見せかけて
- 虫の本能が残っているため、交尾後にオスを殺して食べるという最悪なオチ
2巻では、ふらんの妹、ヴェロニカというのが出てくるのだが、殺人者ヴェロニカとふらんの対決が、キリコとブラックジャックのパロディになっているんですね。
「それでも私は人を助けるわ」と言いながらヴェロニカの殺した悪人を生き返しつつ、人体改造をほどこすふらんがブラックジャックの最悪なパロディになっていて、ひどいなあと思った。
ヤマグチ ノボル (著), 兎塚 エイジ (著)
メディアファクトリー、2004
最新刊まで読んだ。
言うことはあまりないのだが一応感想。
これを読んだからといって、特にすごく感動したとか、世界の見え方が変わったとか、新しいと思ったとかそういうのはないのだが、それなりに楽しんだ。わざわざ14巻も読んだので楽しかったんだろうと思う。
ベタな少年誌のラブコメみたいな感じなのでそういうのが好きな人は楽しめるんじゃないかなあ。マンガを読むように楽しめる読書体験だった、というのが正確な表現かな。
あとはでてくる倫理観とかが、まっとうな少年漫画のそれなので、安心して読める感じはあった。
嫉妬とかそういうドロドロした情念が多少多めに書き込まれている感もあるので、そういうのが好きな人は読んでドキドキするとよい。ついでに言えばMなので、「犬ー!」とかそういうのは楽しい。
あとどのキャラクターが好きか考えていた。系統的に言えば長門ポジションのタバサは気にならないでもないが、そこまででもない。あんまり目立たないし。なので強いて言えばルイズかなあと思った。
『真理を追って』
W.V. クワイン (著), 伊藤 春樹 (翻訳), 清塚 邦彦 (翻訳)
産業図書、1999
自然言語処理とか人工知能って、人間の思考や言語に対する考え方しだいで2種類のアプローチがあると思うんだ。
1つには人間の思考や言語などというものは、まったくのカオスであり、あたかも気象の動きみたいなものであって、気象の変動を予測するように統計的手法に頼るしかないというもの。
もう1つは人間の思考や言語は一定の合理的なルールや論理に貫かれているのだから、形式言語を使ってその動きをシミュレートすることも可能であるというもの。
人工無能などは前者かなあ。つきつめれば行動科学。一方対照的に、ボトムアップに人間の思考をエミュレートしようという人工知能的なアプローチがある。
たとえば文書を大量に読み込んで単語同士の関連性を抽出できたとしても、人間が実際に言葉を話すときには、おそらくそういう統計的リソースを利用しているわけではない。だから本当に人間の言葉の関連を、人間がやっているように扱おうと思ったら、たぶんそのやり方じゃダメなんだ。そこで、意味論的分析が大事ですね、でも自然言語とか思考のエミュレートってろくに成功例がないですね、みたいな話になると思う。ただし簡単な自然言語パーサとか論理的な推論を行なうプログラムはつくれるので、決して後者の例が存在しないわけではない*。
以上2つの方向性は、哲学上の対立でもあると思うんだ。
今回クワインを読んで、クワインは前者の側(人間ってほんとカオスじゃなー)の人なんだなと思った。
クワインと言えば、論理実証主義への批判、「おまえら論理学とか使っていい気になってるかもしれねえけど、おまえらの言う『意味』とか『命題』とかすっげえ曖昧でどうしようもない概念だから。数学ではこれでいいかもしれないけど、自然言語にそのまま適用するのはあきらめろ」といった批判で有名な人である*。
そういえば認識論の自然化なんて言葉もあったが、おそらくクワインの考えている人間行為の科学、言語の科学って俗に言う行動科学みたいなものに近いのかと思う。
これが主流かというとそんなことはなく、たとえばクワインの後輩にあたるデイヴィドソンはどちらかと言えば、自然言語のエミュレートみたいなプロジェクトにこだわった人である。
たとえばこんな引用文がある。
哲学者たちは長期にわたって、かれらが理論的に扱える文に日常語の文を対応させる工夫によって、理論を日常言語に適用するという難業に携わってきた。フレーゲの大いなる貢献は、「すべて」「ある」「いずれも」「おのおのの」「どれでもない」、および付随する代名詞に、それらのある使用の場合にはどのようにして対処しうるかを示したことであった。
それによって初めて、自然言語の重要な部分に対して形式的意味論を夢見ることが可能となったのである。この夢はタルスキの仕事によって鮮やかな仕方で現実となった。
フレーゲのそれとタルスキのそれと、これらふたつの素晴らしい業績の結果として、われわれは母国語の構造への深い洞察を獲得したのだ、という事実を見損なうとしたら、それは残念なことである。
デイヴィドソン『真理と解釈』邦訳p19
フレーゲとタルスキは単に数学理論をつくったのではなくて、それは英語という言語について教えてくれる研究でもあったのだということね。この後段の部分では言語学と哲学の結びつきを強調している。
わたしとしてはこういう「人間の思考とか言語ってシミュレートできるよ!」という方向に共感を覚えるが、クワインはえらく頭のよい人なのでクワインの言うことも真剣に受けとめたいと思っている。
いずれにせよ、最終的に必要なことは――どちらの理論を採用するにせよ――、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース長門有希を実装することである。
三嶋 博之 (著), 河野 哲也 (編さん)
三嶋博之 / 溝口理一郎 / 関博紀 / 倉田剛 / 加地大介 / 柏端達也著
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-36050-7/
目次
第1章 なぜ環境のオントロジーが必要なのか
第2章 生態学的アプローチの戦略
第3章 工学のオントロジー
第4章 建築のオントロジー 建築家の視線の先にあるもの
第5章 事態のオントロジーと環境の理論
第6章 現代のオントロジーとアリストテレス
第7章 形式的存在論と環境の形而上学
第8章 環境の性質 性質のオントロジーに向けて
第9章 アフォーダンス・創発性・下方因果
- ギブソンのアフォーダンス論とオントロジーについていろんな人が書いてみましたという本?なんか不思議な構成だ。
- アフォーダンスのえらい人が若いオントロジストを呼んで書かせたって感じなのかな。
- 正直に言うとベタにアフォーダンスな論文は流し読みですませた。
- オントロジー工学者の溝口氏は、B.スミスと激論を戦わせてるらしい。工学者と哲学者が激論を戦わせられる分野っていいですね。
私信: バリー・スミス教授とは三度の直接討論と一〇〇通に及ぶメールのやりとりで激論を戦わせてきたがいまだに決着はついていない。
p88
- 柏端達也氏の論文は大変よかった。
- 書いたものを読むたびに思うがこの人頭いいなー。
- ギブソンのアフォーダンスの概念を、現代分析哲学の性質論、特に「傾向性」の概念から解釈しなおす。
- 「アフォーダンスはおおむね傾向性に包摂される。ギブソンの言うアフォーダンスの実在性は傾向性の実在性と同じこと」「アフォーダンスは生物と環境の関係ではない」とか、分析哲学者ならではのスパっとした指摘が。
- 言語の意味論を、もっと広い「情報の流れ」とか生物と環境の相互作用みたいなところに位置付けるのは最近のトレンドなのかなあとか。
- ミリカンを読んでいたときも思ったが、そこで『論理哲学論考』が出てくるのはおもしろいですね。「情報の流れ」とかまるで関係なさそうな本なのに、そういう読み方もできてしまうというのは「徳」かなあ。
- なんかオントロジー分野は現象学者が元気ですね。
- 本邦の通俗解説書などから得られる浅薄なイメージとまるで相反するものだけど、喧嘩になったりしないのかしら。
- 加地大介氏の論文はおもしろいが、まえがきがすげえ強引だ。
何かにつけエコロジカルな心構えが要求される昨今、日本人に固有だとされる「もったいない」精神の尊さなどが喧伝され、いろいろな意味で「ものを大切に」することが重視されているが、アリストテレス(紀元前三八四-三二二)は、哲学的・存在論的な意味において、とても「ものを大切に」した哲学者であった。というのも、アリストテレスの存在論の重要な特徴のひとつは、実体(Substance)を重視する「実体主義(Substance Ontology)」と呼ばれる立場であり、「実体」とは、何かがそもそも「何もの」であるかということを表す用語だと考えられるからである。
p157
■ 読んだ
- 『黙示録3174年』
ウォルター・M・ジュニア・ミラー(著), Walter M.,Jr. Miller(原著), 吉田誠一(訳)
東京創元社、1971
この本を失くしたのと、論文等でいそがしくて中断していた「ヒューゴー賞受賞作を年代順に読むよ」企画をひさびさに再開する。
過去ログを見るとちょうど1年くらい前にやっていたらしい。
読んだのは以下の7冊。まだ先は長いなあ。
- 『分解された男』 (The Demolished Man) アルフレッド・ベスター
- 『ボシイの時代』 (They'd Rather Be Right) マーク・クリフトン、フランク・ライリー
- 『ダブルスター』 (Double Star) ロバート・A・ハインライン
- 『ビッグ・タイム』 (The Big Time) フリッツ・ライバー
- 『悪魔の星』 (A Case of Conscience) ジェイムズ・ブリッシュ
- 『宇宙の戦士』 (Starship Troopers) ロバート・A・ハインライン
- 『黙示録三千百七十四年』(A Canticle for Leibowitz) ウォルター・ミラー
今回のはおもしろかった。
■ あらすじ
核戦争によって人類はすべての文明を失ない、中世の段階まで舞い戻ってしまう。
- 1部
- 過去の遺物を保存する修道院。
- ちょっとおばかな修道士フランシスが聖者とあがめられる太古の技師リーボヴィッツの遺物を発見する。
- 遺物の意味がわからないフランシスはリーボヴィッツが残した回路図や図面をあがめ、美しい写本をつくりあげる。
- 2部
- 数百年後。修道院が残していた遺物を元に、人類の新たなルネッサンスがはじまろうとしている。
- 科学の復活を夢見る科学者と修道院長の話。
- 3部
- また数百年後の修道院。人類は、再び科学技術を取り戻している。しかし再度核戦争の危機に見舞われてしまう。
■ 感想
過去の遺物を保存する修道院を軸に、人類に再び訪れた中世、ルネッサンス、近未来を描く。
わたしは、あたまのよわい子の話に弱いので、フランシスにグッときた。物語ガジェット「写本」もツボだし。
わけのわからぬまま15年かけて回路図の美しい写本をつくりあげ、あわれな死をとげるフランシス...。うう。
基本的には『火の鳥』みたいな話ですね。
■ 本企画について
http://www.at-akada.org/blog/2007/07/post_227.html
『バットマン ビギンズ』につづく新生シリーズの2作目だそうだ。
Web上などでやけに良い評判を聞くのでコミティア85帰りにmmwwと観に行った。
映像、構成、テーマなど確かによくできた映画なのは間違いないなあと思った。
というか、ふつうにジョーカーが怖くて画面を観られなくなったりしていた。
■ あらすじ
法の下で悪と戦う正義の検事デント(光の騎士)。バットマンは自分に代わるニューヒーローとして彼を応援する。
しかし変態すぎるジョーカーにはかなわず、大変なことになる。
フリークスに対抗できるのはフリークスしかいない!ということでバットマンが本気を出してジョーカーをやっつける。
やはり狂った悪に対抗できるのは闇の騎士(ダークナイト)であるバットマンしかいなかったのだ、みたいな。
■ 感想
よかったんだけど、一作目を見てないせかもしれないけど、一番の楽しみどころがどこなのかちょっとわからなかったなあという部分は少し残った。
バットマンって基本的に馬鹿馬鹿しい話じゃないか。億万長者がコウモリのスーツ着て悪と戦うという。
で、その馬鹿馬鹿しい話をいかにシリアスに解釈するか、というのが近年のバットマン映画だったという印象を持っている。
たとえば、ティム・バートン版なんかだと、ティム・バートンってフリークスの滑稽さと悲しさみたいなものをずっと描いてきた人だと思うので、悲しいヒーローバットマンという解釈は腑に落ちる。メタな解釈になるのが前提で、「バットマンって冷静に観ると変態の億万長者なわけだけど、でも悲しいよね」みたいな部分を観るもんかなあと。
今回のバットマンでも、そういうメタな視点はちょっとあって、ジョーカーがバットマンに「おまえみたいなフリークスはおれがいないとやっていけないぜ」って言ったり、「おれもおまえがいなきゃやっていけない」という形でお互いがお互いに依存していることを指摘する。
これは確かに「なるほど」という部分で、「法の下で正義を守護する光の騎士」じゃなくて、「脱法的に悪のフリークスを狩る正義のフリークス、ダークナイトバットマン」という今回のメインのストーリーにかかる部分であったんだろうと思う。
わたしも以前から少年探偵シリーズなどを読んでいて、「怪人20面相と明智くんってお互い依存してるよなー。20面相って明智くんいなかったらやることないしなー。明智くんも20面相いないと知能の無駄づかいだし」と思っていたので、そのバットマンとジョーカーの依存はわからんでもない。
でもなあ。「今は狂気の時代だから、ダークナイトバットマンこそが必要なんだ!」って言われても、「いや、狂気の時代じゃねえし。ここゴッサムシティじゃねえし」という感じで、そこはさすがにシリアスに受け取れない。バットマンの悲しさみたいな部分は今回もあったんだけど、ティム・バートンのそれとは違うその悲しさが何なのかよくわからなかったなあという。
別に無理にシリアスに受け取る必要ないんだけど、映画がよくできていた分、そういう余計なことを考えてしまっていた。
しかしとりあえず「正義!」「力!」みたいな話は基本的に好きなので、そこは良かった。
ジョーカーもよかったんだけど、もう何か本当に怖くてな。
あとわたしはバットマンシリーズの悪役ではペンギンが好きですね。
このあいだハルヒの読んでなかった巻をまとめ読みした。
ようやく最新刊に追いついたわけだが、こんな状態でみんな放置されているのか、大変だなーと思った。
■ 地味さについて
とりあえず長門が全面的によかったのだが、それはもうただの信仰告白にしかならないので、後に回すとして。
いろいろあってハルヒは、一時代を画したオタク系コンテンツとしてもうずいぶん有名になったわけだが、改めて考えると本当にぜんぜんメジャー感の無い作品だなあと思う。
「どうして世界にはファンタジーが無いのか。どうして現実には宇宙人も未来人も超能力者もいないのか」というメタライトノベル的な設定が主軸にあって。イーガン『万物理論』で言うところの「基石」であるヒロインがいて(思いが世界につながっている人)。そんで毎回タイムワープとか時間がループしたりする話だ。
ヒロインがたくさん出てきて、毎回コスプレさせられたりするのはそれなりにラノベっぽいなあと思うのだが、この人の文章って「インテリががんばってラノベを書いている」っていう感じがする文章だなあといつも思う。何だろう。わたしのイメージでは谷川流は早稲田の文系学部を出てそうな気がするんだが(本当のところは知らない)、長門が読んでる本が『ゲーデル、エッシャー、バッハ―』だったりする、そしてそういう情報を地の文でほのめかしたりする、微妙な人文系インテリ的自意識が*。
SFファンがよく読んでいる(レーベル的には)ラノベの『ある日、爆弾がおちてきて』という「時間」をテーマにした作品集があるんだけど、そしてこれを読んでいるのはSFが好きな人とちょっととうの入ったラノベオタだけで、悪く言えば地味な本ではあるなあと思うんだけど、ハルヒも実際のところそれとあんまり変わらないよなあと思う。
わたしがプロデューサーだったならばあらすじを聞いた段階で、「それはおもしろいけど一般の読者には受けないでしょうねえ」とコメントしそうだ。
わたしは『人類は衰退しました』がどれくらい売れているのか知らないが、中高生はこれ読むのか?読んでおもしろいのか?(いや、ちょっと早熟で読書好きの子は読むと思うが、そういうのじゃなくて、もっと普通の電撃文庫の読者とかが)と思うので批評的に成功して、ブログなどで取り上げられたとしてもあんまり売れてなさそうな印象があるんだが、ハルヒだってそういうポジションの作品であったとしてもおかしくはないと思う(田中ロミオの方が構成とか文章とかが洗練された印象があるので、最初からある程度年上の人をターゲットに選んでそうだけど)。
メインターゲットの中高生じゃなくて、ちょっと年の入った読書好きのオタクとSFファンが好んでそれで終わりみたいな作品になりそうなんだけど、そうならなかったのは不思議だなあと。
しかしよく考えるとガンダムでもエヴァンゲリオンでも同じことなのでアレだけど(エヴァンゲリオンのどこにメジャー感があるのかという話であるが)、そういったものじゃなくて、こういうものが人気になるのはすごく現代っぽいかなあという気がしなくもなくもない。時間とタイムパラドックスの話だけだと、メジャー感が無く「地味ですねえ」という印象になりそうだけど、メタ構造と「主観と世界」みたいな方向に行くと「お、なんか受けそうですね」という気がなぜかわたしはするんだが、それはわりと不思議な感じだ。
あとはまあキャラクターかなあ。ハルヒ人気って実際には京都アニメーションの演出とか伊藤のいぢの絵が受けた部分も多いと思うんだけど、あれは結局それぞれのキャラクターが魅力的につくられていて、その功徳ということなんだろう。
■ パラレルワールドの話
あとハルヒについては不思議な部分があって、この小説ってよくパラレルワールドの話をするんだけど、話をほのめかすだけほのめかして、本編には絡めないんだよね。
映画つくる話で、キョンが「自分もまたフィクションみたいな存在であるかもしれないわけだが、それがフィクションをつくる意味とは? 自分もまた平等に存在するあらゆる可能性のなかの1点なのかもしれない」みたいな自問自答をはじめて「おっ」と思ったらそれだけで終わったり、館に閉じ込められる話で、古泉が「われわれは本体からコピーされた可能性の一端なのかもしれない」と言い出して、「おおおっ」と思ったらそれだけで終わったりとか。
そんだけほのめかして、話に絡めないとかおかしくね?と思う。
そんで今回分裂の最後でようやく世界が分岐しはじめた、と思ったら続編が出なくなっちゃうわけじゃないか。
あーこれはやっぱり描けないのかなあ。パラレルワールドの話はなぜかこの作者のなかで鬼門なのかなあとか思ったりした。
個人的には、『順列都市』みたいに「あらゆる可能性が平等に存在する!」みたいな大風呂敷を広げてほしいところだけど、それやっちゃうとダメなのかもしれないなあ。あらゆる可能性の1つだと思うとキャラクターに対する愛着などと矛盾するし、谷川流はもっと深くそれぞれのキャラクターに愛着があるのかなあとか、そういうことを思った。
東浩紀という人は、同時代的になんとなく流行っているオタクコンテンツの特徴に名前をつけて、ガッとアジテーションするコピーライター的な才能がある人だと思うけど、「データベース的消費」につづいて、「ゲーム的リアリズム」というのも、こういう「あらゆる可能性が並列に存在する! そんななかプレイヤーとしてのわたしの実存とは!?」みたいな、ある時代のある作品群の特徴をうまく捉えた表現であると思う。
まあアンドレ・ブルトンみたいな人だよねえ。イデオローグと思われているけど、実際はアジテータなんだと思うんだ。そう思って見直すと、よく人と仲違いしているのもブルトン的であるな。
わたしも昔は(というほど昔でもないが)、作品論などをちょっと書いてみて、「あ、おれひょっとして批評書けるかも」と思った瞬間などもあったのだが、結局エンジニアリング的な興味しか湧かなくて、「やっぱ向いていないかも」と思った。作品論はいまでも書いてみてもいいなあと思うけど。「これってどうやって動いているのかなあ」とか、そういう技法論的な部分にはすごく興味があるんだが、アジテーションは難しいし性格的にも合わないとは思う。いずれにしてももっとつきつめるまでやらないと意味がないし、そこを突き進むだけの体力が無いが今後はいろいろとがんばりたいと前向きに言っておこう。
しかし改めて考えると、それはわたしが社会学についていけなかった部分と一緒だな。「コミュニケーションの形式的なモデルつくって応用して自動翻訳機とか人工知能とか話し方教室とかつくればいいじゃん? なんでわざわざ世の中に物申さないといけなかったり、同時代の空気を読まないといけなかったり、己の暴力性とか社会を支える幻想とか素朴な前提とかそういうのをふりきって悟りを開け!みたいな話になんの?」と思ってしまう。あ、気がついたらハルヒと全然関係ない自分語り。
■ 長門について
そこで改めて技法論的に長門について語る。
長門の描き方にはずるさがあって、長門はほとんど無反応、ノーリアクション、無口をつらぬいており、感情表現のために為す努力は「2ミリくらい頷く」とかだけなのだが、きちんとそこで何を考えているか、何を感じているかが読者(と主人公であるキョン)にはわかるような描き方になっており。結果として、「この子は感情表現が苦手だけど、違うんだ。おれにはわかる!わかるんだー!」という感慨をもよおされるような仕掛けになっていると思う。
「オタクがコンピュータの気持ちを理解できるのは、他人に理解されない孤独を知っているからだ」と山形浩生も言っていたが、そういった何かに訴えかける部分があるんだと思うんだ。素直に感情を表現できず、行動に表わせないその気持ち、わかるよ、わかるよ!とか、そういうアレだ。だからやっぱ「チューリングマシンの中の人」なんじゃないかと。
よく綾波レイと比較されるが、綾波と長門の大きな違いはそこだと思う。長門は、好きなものとやりたいことがあって、「こうしたい」という意志があって、あときちんと成長もするんだよね。綾波は無口でかつ何を考えているかわからないミステリアスさを中心に押し出しているが、長門は無口だけど「何を考えているかわかる」ということを中心に押し出している、と言ってもよい。
それはそれとして、わたしが何となく長門に抱いていた共感と好感が、崇敬の念に近づいたのはコンピューター研との対決の話であった。ゲームに本気で取り組むというのは素晴しいことであると思う。「長門、コンピューター、好きか?」という展開も感動した。行き場のないわらわらとした思いが湧き、「おれも長門のようなスーパーハカーを目指そう、そのためにはまずアセンブラだ、アセンブラを勉強するんだ!」と思って、アセンブラ入門的なサイトを探したりした。まだあんまり勉強できていないけど。久渚友にはあまり憧れないが長門のようなバイナリハカーにはなぜか憧れるなあ。
伏見 つかさ (著)
アスキー・メディアワークス(電撃文庫(1639))、2008
■ あらすじ
ギャルだと思っていた中学生の妹が隠れオタクだったので兄が相談にのる。兄はふつうの高校生。
兄は妹のために、「オフ会に行ってオタ友達を見つけさせる」「父親を説得する」などの行動をとる。
■ 感想など
基本的にあらすじの通りの話。
オタ話やオタク像のディティールを楽しむものかな。
たぶん、「妹もののエロゲーとアニメが好きな妹がいたらおもしろいよねくすくす」という設定先行で話をつくっていると思う。はてなアンテナ使ってニュースサイトでエロゲ情報をチェックして戦闘少女もののアニメが好きで妹萌えという妹の設定は微妙にリアルなんだが、それは、たぶんわたしと同じくらいか、その前後の世代の男のオタクにいそうな像(たぶん作者と同世代)であって、いやひょっとしたらその世代であればそういう女性がいてもおかしくはないと思うが、そんな中学生女子はぜってえいねえ。表面ギャルで隠れオタクという人はいそうだが、そのオタク像は世代的にありえん。まずもってはてなアンテナは使わずRSSリーダー使うだろうし、妹ものって、今別に流行ってなくね?と思った。何だろう、世代的に言うと、エヴァンゲリオンが同時代かそのちょっと後で、でもエヴァ嫌いでセーラームーンを高く評価していて、大学時代にシスタープリンセスに大はまりしたみたいなそういう感じのオタク像だろうか(考えすぎだが)。
むしろ妹の友達になる「ゴス服で厨二アニメ好きでニコ動にウマウマ踊ってみた動画あげてる人(黒猫さん)」の方が今の中学生女子でありえそうなオタク像に近いかなあと思った。学校に友達いなさそう。
あと、オフ会の主催者の人は、リュックにポスター差してて議論好きでめんどうみがよくて、一人称が「拙者」で、これはむしろわたしの少し上くらいのオタク第二世代くらいの人かなあと思った。ファーストガンダム見てる世代で、究極超人あ~るが好きそうな。
このように考えていくとこの3人はオタク第二世代、第三世代、第四世代の代表として配置されているのかもしれんと思えてきたが気のせいだろう。というかむしろ
- 作者と同じくらいの世代(妹)
- ちょっと上(主催者の人)
- ちょっと下(黒猫さん)
という配置のような気がする。まあ世代論はいいや、明らかに考えすぎだし*。
後半の兄ががんばって父を説得する展開はよかったのだが、「偏見はよくない! オタクはみんないいやつだ!」みたいなノリはちょっとなあと思う。何だろう、後ろ暗さがいいはずのものを無理矢理健全なものとして弁護しようとしているみたいな違和感があるかもしれない。
- 『万物理論』
グレッグ・イーガン (著), 山岸 真 (翻訳)
創元SF文庫(東京創元社)、2004
前半がタルくて、ずいぶん長く読んでいた。ネッド・ランダース、結局話にからまないし、必要なのか、この前半の展開?という気はしないでもない。
前半もネッド・ランダーズやバイオネタなど、多少ネタはつめこまれていたが、やはり大ネタであるAC(人間宇宙論)の正体が明らかになった辺りから楽しくなり、後半は一気に読んだ。
おもしろいポイントはいろいろあると思うが、あまりまとまらないので断片的に。
- 山形浩生氏が帯かなんかで書いているように未来の政治体や倫理観に対する想像力、という楽しみ方は1つあるんだろう。
- しかし中心となるネタはやはり人間宇宙論。情報科学と主観的宇宙ネタ。
- というかこれ、ラノベっぽいガジェットが出てこないだけで普通にセカイ系だなあ。
- ハリウッドというか、アメリカのエンターテイメントの方法論で描かれたセカイ系という感じはする。
- 人生における敗北感、離婚、自信の喪失、危機につぐ危機、新しい出会い、勇気を出して一歩を踏み出す主人公、プロフェッショナルとしての自覚とそれまでのキャリアに裏打ちされた自己の確立。
- ハルヒは何でサイバーパンク(というか情報科学ネタ)なんだろうというのは、長らくわたしにとっての謎であるが、イーガン(またはイーガン人気)は一役買ってそうだなあ。
- わたしはテクノ解放主義者です。
最後の不当な国境線の消去とともに自由の地図が
完成されるというのは真実ではない
われわれにはまだ雷のアトラクタをチャート化し
干魃の非周期性を図示することが
一千の人間の言語並みに豊かな
森林やサヴァンナの分子レベルの方言を解明することが
そして神話を超えた太古からわれわれの情熱の最深部にある歴史を認識することが
残されているのだから
- バイオテクノロジーと特許簒奪によるアナキスト政治体ステートレスはかっこいい。
- 「必要なのは科学ジャーナリストなんだ」の辺りで結構ホロリときた。
- 最後はグラン・ローヴァ物語と同じ型のオチだなあと思う。「みんながグラン・ローヴァなんだ!」「みんなが万物理論(TOE)なんだ!」。
- グラン・ローヴァ物語 - Wikipedia
- このタイプのオチに適切な名前をつけたい。
田中 ロミオ (著), mebae (イラスト)
小学館、2008
■ 最初に
こんなタイトルだしサブタイトルだしあんな序章だし、こんな表紙だしあんな帯なので、この小説がどんな話か知る前に「あー学園でファンタジーで悪と戦ったりするラノベなのね」と読まない人がいるのではないかと思う。
なので、最初に謎を解いておきたい。
まずタイトルの
- AURA
は、作中では、「クラスの目立つ奴などから感じられる圧迫感(人間力)」という意味で使われている。
サブタイトルの
- 魔竜院光牙最後の闘い
というのは、主人公の妄想脳内設定である。序章も同じ。
ヒロインは魔女服を着ているが、これはヒロインの脳内設定に基づくコスプレである。帯には、ヒロインの不思議なセリフが書かれているが、これはヒロインの脳内設定である。
要するにこれは、ファンタジーな要素など一切ふくまない、厨二病 / 邪鬼眼妄想 / 脳内設定 / 戦士妄想をテーマにした小説なのである*。
■ 邪鬼眼について
邪鬼眼妄想については以下などを参照されたい。
中学の頃カッコいいと思って
怪我もして無いのに腕に包帯巻いて、突然腕を押さえて
「っぐわ!・・・くそ!・・・また暴れだしやがった・・・」とか言いながら息をを荒げて
「奴等がまた近づいて来たみたいだな・・・」なんて言ってた
クラスメイトに「何してんの?」と聞かれると
「っふ・・・・邪気眼(自分で作った設定で俺の持ってる第三の目)を持たぬ物にはわからんだろう・・・」
と言いながら人気の無いところに消えていく
テスト中、静まり返った教室の中で「うっ・・・こんな時にまで・・・しつこい奴等だ」
と言って教室飛び出した時のこと思い返すと死にたくなる
■ この小説
基本的には、過去を忘れて高校デビューした主人公が、邪鬼眼妄想まっただなかのヒロインに会い、クラスでの地位を下落させたり、イジメなどの問題に直面したり、でもいろいろあって乗り越えて、クラスでの権力闘争を戦い、ハッピーエンド、みたいな話である。
テーマはアレだが、とてもよくできた学園小説でいい話なので、邪鬼眼でグっとくる人などはぜひ読むとよいと思った。
あと完全にあっち側の世界にいっちゃってるヒロインがちゃんと魅力的に描かれているのはすごいなあと思った。
痛さとボーイミーツガールとハッピーエンドという意味で、私が思い出したのは
などでした。
■ 邪鬼眼とラノベ
ところで「不思議な物事があってほしい」「自分は選ばれた特別な存在であってほしい」「不思議な能力を行使したい」などなどという思いは邪鬼眼妄想の種であり、ライトノベルを読む主たる動機の1つであると思う。なのでしばしばライトノベルというメディア自体邪鬼眼妄想のすくつであるわけだが。
この「不思議な物事があってほしい」という思い自体を主軸に据えたラノベと言えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』である。しかし今にして思えばハルヒ自体は、この手の妄執のアクと痛さを脱色することに成功していたと思う。
たぶんこの「痛さ抜き」の過程では、「宇宙人、未来人」という言い方の素朴さが重要なんだろう。
「普通の人間に興味はありません。この中に、この宇宙を支配する情報統合思念体によってつくられた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイスがいたら今すぐわたしのところに来なさい」とか
「《鏡面界》最強の剣士魔竜院光牙がいたら今すぐわたしのところに来なさい」
だとだいぶ救いがたい感じがする*。
そういった意味では、AURAのヒロインの妄想はそれなりに考えられているのだが、SFなのかオカルトなのかよくわからないあたりがよくないのではないかと私には思われた(少なくとも主人公の妄想設定よりはよくできている。これは中学生と高校生の差かもしれないが)。むしろこのヒロインの場合、設定の痛さよりは、それを本気で日常生活にとりいれようとする精神面のヤバさの方がきわだっている気もしないでもない。
一方AURAの場合、むしろ徹底してこの痛さの部分に向き合おうとしている点で、裏ハルヒ的な位置付けになるかと思った。
というか、ヒロインの脳内設定はもろにハルヒ(長門)であるわけだが。
↓そういった意味で、このスレなどは非常にAURAに近いのではないかと思う。
■ 邪鬼眼と私
人文系の大学院には意外に邪鬼眼の人が多いのである。
わたしが院生時代に出席したあるゼミでは、
「ボードリヤールで言うと、透明な悪に犯された状態ですね(自己紹介で)」
「すべての意味を剥奪されるっていうのはそんな甘いものじゃないんじゃないかなあ」
などの過激な発言が多く、笑うべきところだと思わる状況なのに誰も笑わない (真面目に聞いてるやつすらいる) という状況に頭を抱えた。
このように、意外と大人になっても抜けないというところに邪鬼眼妄想の難しさがある。
というより、「不思議な物事が起ってほしい」「特別な力を行使したい」という思い自体は下手をすれば一生残存するものなので、なんとかそれと折り合いをつけて生きるしかないのではないかと思います。























