うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“気づき”タグの付いているブログ記事
■ 「とても言葉では言い表わせない」について
「とても言葉では言い表わせない」などという表現について、よく「『とても言葉では言い表わせない』という言葉で言い表わしている(んだから矛盾している)じゃないか」という物言いがある。これは矛盾した表現なのだろうか、とわたしも思っていたのだが、最近ちょっと気が変って、そうじゃないんじゃないかと思った。
あんまりうまく説明できないが、「とても言葉では言い表わせない」という表現が、その他の表現と違う独自の意味を持っているならば、それをもって「とても言葉では言い表わせない」という状態なんだと考えてもいいんじゃないかと思った。
たとえば「青い」とか「白い」とか色を表わす述語がある。
それら通常の述語と、「とても言葉では言い表わせない色だ」という述語を比較し、後者の側に特別な性質があるならば、これは必ずしも矛盾した表現ではないんじゃないかと思う。
いずれにしても、「でも、『とても言葉では言い表せない』という言葉で表わしているじゃん」という突っ込みの余地はあるわけだが、そこは「これ以外の言葉では言い表せない」とか「通常の言葉では言い表せない」と微修正すれば解決する程度の問題なわけで。「とても言葉では言い表せない」がちゃんと独自の意味を持っていて、しかも「通常の言葉では言い表せない」などの微修正を施すことで見かけ上の矛盾がなくなり、恒常的にそれらの意味を伝えるために使われているのだとすれば、それは矛盾しておらず、そういう意味の表現だと考えていいと思うんだよ。
たとえば「きつねうどん」にきつねは入っていないわけだが、それを矛盾とは言わないように、「とても言葉では言い表せない」は「通常の言葉では言い表わせない」の省略表現だと考えてもよい気がする。
問題は「とても言葉では言い表せない」はどういう意味であるかということだ。
それがいまいちまだわからないので周りくどい書き方になってしまい申し訳ない。
1つ気がついたのだが、とりあえず「とても言葉では言い表せない」は二階の述語であるな。
「青い」「白い」は単にそういう色を持っているという意味だ。
「とても言葉では言い表わせない色だ」は、ある色を持っているのだが、その色というのが、言葉では言い表せない種類のものなのだという意味だ。
要するに「とても言葉では言い表せない」は性質を帰属させるだけではなく、その性質がどんな種類の性質であるかまで述べる表現である(性質の性質を述べる表現である)。
じゃあここで言う「とても言葉では言い表せない」が持っている「性質の性質」はいったいどんなものなのだろう。
それを考えよう、というのが問題の1つ。とりあえず眠いし特に結論はないのでこれは断念した。
もう1つ問題があって、「とても言葉では言い表せない」は人の側に属するのか、世界の側に属するのか。
単純に考えると人の側に属するように思える。つまり「とても言葉では言い表せない色」という色が存在するのではなく、「わたしにとってこれはとても言葉では言い表せない」と考えている人がいるだけのように思える。
(わたしは、ふつうの色、たとえば「黄色」は世界の側に属すると思う。もちろん、「色」というのは人間の視覚をベースにした概念なので、他の生物にとって黄色という色は感覚できないものであるわけだし、そもそも光が無ければ色も見えないわけだが、それでもそれは世界の側にあると考える。めんどうなので理由は説明しないが)。
しかし、何かまかりまちがって、「とても言葉では言い表せない色」というのが現に存在し、しかもわれわれの日常表現にある「とても言葉では言い表わせない色」という表現はそのような色のことを指していると論証できるかもしれない。
そこまでを示せたとすると、もはや誰にも「とても言葉では言い表せない」という表現について文句を言われる筋合いはない。理論武装は完璧と言えよう。
だんだん自分でも何を言っているのかよくわからなくなっているが、こんなことを考えたのは、「となりの801ちゃんアニメ化中止のショックはとても言葉では言い表せない」と思ったせいである。
- となりの801ちゃんアニメ化中止のショックはとても言葉では言い表せない
- =>「とても言葉では言い表せない」って変な表現だな。誰かに文句を言われたらどうしよう。
- =>理論武装で正当化するんだ!
という順番ですね。
参考
■ わたしと日常語
ちなみにわたしはこういう風に日常語の意味をあれこれ考えるのが割と好きである。
改めて見直すと、何となく特定の学問をベースにしているような書き方だが、こんなことを研究する学問は存在しないのでこれはオリジナルな芸風であると思う(言語学とか言語哲学の一部に似ているし、そういったものにも影響を受けているのだが、客観的に見直すと何かがちがう。誤解の余地がないように断わっておくが、こういう芸風で日常語彙を分析する学問は存在しません。わたし理論です)。
オリジナルであっても、わたし以外の誰も喜ばない/おもしろくないのが難しいところだ。
ブログでは、自分の書いた過去記事を頻繁に紹介するとよいとどこかに書いてあったので以上の記事を探してきた。
「ので」の3つの用法については、われながら結構良いところに目をつけたと思う。ツリー状の図を書けば大分わかりやすくなったはずだが、無精して図を描かなかったので、3つの用法の違いがわかりにくくなっていると思う。
「個性について」はちょっと小難しい書き方になりすぎているのが気に入らないが、読むと「個性」という言葉の意味がますますわからなくなるところが気に入っている。というか今回読み返して思ったが、個性という語の意味は本当にむずかしい。
「個性を表現しなさい」と言われると、
「『個』であることをアピールしなさい」
「ハイ! 普遍ではありません! この通り手足がついた実体であり個でございます!」
みたいな応答を想像してしまうが、そうじゃないんだというところに個性の難しさがある。
「序説」「試論」「論」「について」などを「の話」で置き換えると、急に安っぽくなる件。
- ルネ・デカルト著『方法の話』
- アンリ・ベルクソン著『意識に直接与えられたものの話』
- ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『確実性の話』
- アリストテレス著『形而上の話』
- ジャック・デリダ著『グラマトロジーの話』
- シモーヌ・ヴェーユ「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」『シモーヌ・ヴェーユ著作集〈4〉神を待ちのぞむ―ある修道者への手紙』
シモーヌ・ヴェーユの論文「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」が達成動詞の特徴に基づく議論であることについて、という示せると誰がうれしいのかまったくわからない論点。
これは、ちょっと前にクルターの『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』の、「理解」に関する文法違反についての議論を読んでいて、はたと気がついた。その時は、「ヴェーユの論文も、文法違反じゃん」と思ったのだが、今は気が変わってむしろ達成動詞に関する議論として (無理矢理) 読もうと思ってる。
ヴェーユのこの論文 (というかエッセイ) は、タイトルがおもしろい、という理由で前から結構好きだった。知り合いの神父の生徒のために書いたものであるらしい。
ヴェーユはここで、学校の勉強における理解が受動的なものであることに基づき、美しい筆致で、信仰の受動性と勉強との近さを描き出している。要するに、勉強と信仰は似てるから信仰のために勉強を役立てろって内容。
きわめて貴重な善は探すべきものではなくて、待つべきものだ。というのは、人はそれらを自分の力で見つけることはできないし、それらを探しはじめると、偽りの善にとらえられて、その偽りを識別できないことになるからだ。
(…)
こう考えると、すべての学校の勉強は秘蹟に似ている。
学校のすべての勉強には願望をもって、真理を探さずに、真理を待つ独特のやり方がある。解答を探さずに、真理を待つ独特のやり方がある。解答を探さずに幾何の問題の所与に注意し、意味を探さずにギリシア語のテキストの言葉に注意し、書いているときには、ただ不十分な言葉だけをしりぞけて、正しい言葉がひとりでにペンの下に出て来るのを待つのだ。
p77
で、何に気づいたのかというと、この受動性が単純に達成動詞の特徴だということである。
だから、「到着する」「勝つ」「負ける」「見える」「出会う」……etc. についても同じ議論を構成できてしまう。
わかりやすいのは「勝つ」の場合。勝利についてだって、「勝利を探さずに、勝利を待つ独特のやり方がある…云々」という議論が構成できる。「負ける」でももちろん同様。「見える」については、例えば立体視のやつが見えるかどうかについて、「見えを探さずに、見えを待つ独特のやり方がある…云々」と言えてしまう。
そして以上が何を示唆するかというと、ここで勉強とアナロジーされている (ヴェーユの重要概念であるところの) 「恩寵」についても同じことが言えるという点。つまり、恩寵は達成動詞なのである。
気づいたときは、「えー、がっかりー」と思ったが、むしろポジティブに考え、達成動詞はすべて「恩寵に似たもの」なのだと思い込むことにした。「勝つ」も「負ける」も「到着する」も「出会う」も、すべて信仰に似たものなのであり、神への愛を学ぶのに役立つのである。
http://www.microsoft.com/japan/windows/products/windowsvista/default.mspx
Windows Vista のサイトやポスターを見たときに感じるそこはかとない違和感について。考えていたら答えがわかったので報告する。
違和感の正体は、地味な画面と大げさなコピーのミスマッチだ。
"Wow"
想像以上の驚きを、あなたにも
Windows Vista にびっくり 100 回
Windows Vista の広告を見たときに感じる白々しさは、とっても無表情な顔つきで「ひゃっほー」などと言われた場合に感じるであろう白けた感覚に近い。
このような寒々しさを表現する広告はあまり見たことがないので、さすがマイクロソフトは違うな(いい意味で)と思った。
昨日(http://www.at-akada.org/blog/2007/02/post_63.html)も書いたけど、しつこく繰り返すけど、"MajiでKoiする5秒前" の広末↓がオザケン。特にボーダーシャツ着て自転車乗ってるとこ(最初の方と最後)。
というかこのビデオすごく懐かしい感じがするんだけど、90年代のミュージックビデオってこういうの多かったよね。色合いとか小道具の使い方とか。
http://www.youtube.com/watch?v=Lo3Ro_eoR5g
それはそれとして、今日の発見。
広末ってヒロマツじゃね?と思った。検索したら↓を見つけた。
エンコードを Shift-JIS にする。
http://web.archive.org/web/20020204062516/http://waseda.netjoy.ne.jp/~execute/member/m-n.htm
http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_52.html
前エントリに対する補足。書いた後2点補足事項を思いついた。
■ 偶然事の有り難さ
偶然事の有り難さ(←ダブルミーニング)について。
世の中には必然の出来事と偶然の出来事がある。しかし、必然の方は必然なのであるから、有り難さは0である。起こらないということがおおよそ有り得ないのであるから、有りやすさが無限大である。
一方偶然の出来事の方は、起こらなくてもよいことが起こったのだから、つねに多少は有り難い。それどころか、より有り難い(生起確率の低い)出来事であればあるほど、「偶然」と呼ばれやすい。あるいは、ダブルミーニングに頼らない言い方で言えば、偶然の出来事の方が「レア」である。
その出来事が有り難いレアな事柄であるのは、それが偶然だからなのである。事情がこのようになっているのであるから、偶然の出来事の方を - 偶然であるというそれ自身の資格によって - 有り難がってもいいではないか。それは可能であるし、実際そうする人もいる。
...というのが前エントリの趣旨であった。
■ 偶然と意図的
「偶然だが実現してしまったこと」は、私自身にはどうしようもない事柄である。つまり、偶然事はつねに向こうからやってくる異なものなのであるからして...
前エントリでこう書いた時、なんだか気持ち悪い感じがした。後で考えていたら理由がわかった。前エントリで私は「必然」「偶然」の関係を考えていたのだが、この部分には「意図的」と「偶然的」の関係が混ざっているからだ。
偶然は必然から区別される。一方、必然的でなくても「自分で選んだこと」はふつう偶然とは言わない。少なくとも日常語では言わない。人を殴っておいて「偶然だ」などと言うと、怒られることが多い。
つまり「偶然的」は「必然的」の対義語であると同時に、「意図的」の対義語でもあった。となると、「必然-偶然」の対と、「意図的-偶然的」の対の関係や如何にという具合に話は進む。
これは簡単かもしれない。「必然的なこと」も「自分で選んだこと」ではない。だから、まず「意図的なこと/意図的でないこと」が分かれ、さらに「意図的でないこと」の中で、「偶然的なこと/必然的なこと」が分かれる。リストにすると以下のようになる。
- 意図的なこと
- 意図的でないこと
- 必然的なこと
- 偶然的なこと
この分類の中で、人がしばしば意義を見いだすものは、「意図的でなく必然的なこと」だ。偶然の出来事に意義を見いだすとき、人はよく「これは偶然ではない。運命だ」などと言う。つまり、「意図的でなく偶然的なこと」を「意図的でなく必然的なこと」だとした上で、そこに意義を見いだすのである。
しかし、「意図的でなく偶然的なこと」も、意図的でないのは確かである。しかも上で書いたとおり、それがレアな出来事であるのは、必然だから(運命だから)ではなく、偶然だからなのである。
それならば「意図的でなく偶然的な」出来事の方を有り難がってもいいではないか。それは可能であるし、実際そうする人もいる。
...というのが前エントリの趣旨であった。
昔から「偶然を信仰する」という立場がありえるのではないかと思っていた。自分はそのような態度をとりたいとも思っていた。しかし肝心の「偶然を信仰する」ということの意味内容が自分自身にもよくわからなかった。そのため、ちっともうまくそのことを説明できず、あまり人には言わないようにしていた。
しかし今日突然その意味が多少整理できたので書き留めてみる。
まず、テツガク的には偶然とは「実際起こったが、起こらないこともありえた(必然的でない)」というのと「実際には起こらなかったが、起こることもありえた(不可能ではない)」の両方を意味するらしい。ただし日常的には、偶然といえばまず前者の「実際起こったが起こらないこともありえた」という方だ。私も前者の偶然について考えている。
よくある考え方では「ある出来事が起こったのが偶然ではない(必然である)」ことに意義を見いだす。例えば、「あの人と出会ったのは、とても偶然とは思えない(運命である)」「私の誕生日がナポレオンと同じなのは、とても偶然とは思えない(運命である)」などなど。
しかし、これとはちがった態度があってもいいのではないかと私は思う。ちがった態度というのは、「このことは偶然であるにもかかわらず、実際起こった。だから、そこに何らかの意義を見てもよかろう」という態度のこと。言い換えれば「この出来事は起こらなくてもよかったのに起こった。ならばここはひとつ、この出来事にこだわってみよう」という態度のこと。
偶然の出来事にこだわるという、この態度自体は別におかしくも何ともない。もちろん偶然の出来事にこだわる必要は(偶然だから)ないのだが、別にこだわってもおかしくはない。そして私は実際こういう考え方をすることがよくある(例: 偶然私はシャーロック・ホームズと誕生日が同じであるから、シャーロック・ホームズを読まねばなるまい)。
この考え方はそこまで珍しいものではない。例えば、日本語の「これも何かの縁でしょうから」という紋切り型はこの発想によく似ている。「縁」という語は「運命」に近いようだけど、そこまで強い概念ではなく、むしろ「これは偶然だけど、ともかくも実際起こったのだから...」というニュアンスを持つ。あと今気づいたが、この「実際起こったのだから」「折角だから」という発想は "Mottainai" にも似ている気がした。しかしその点は置いておこう。
次。「偶然起こった出来事にこだわってみる」という態度を信仰と呼ぶ理由について。これも信仰と呼ぶ必要はないのだが、「偶然だが実現してしまったこと」は、私自身にはどうしようもない事柄である。つまり、偶然事はつねに向こうからやってくる異なものなのであるからして、「神」や「奇跡」に似ていなくもない。従って偶然事にこだわることを信仰と呼んでみてもよいのではないか。
要するに、呼ばなくてもいいが、似ているから同じ言葉を使ってみようという程度の理由。
以上。偶然を信仰するとは要するに以上のような態度のことだった。今後これを洗練させ、偶然神学および偶然教を確立、やがては初代教祖の座につき、お金をがっぽり儲けたい。
つづき:
このサイトはアフィリエイトサイトなので Amazon へのリンクには私のアフィリエイト ID がついている。これによってオレ様ががっぽり儲けようという愉快な策を練っていたわけだ。
しかし、まめに本を紹介しているわりには、一件も「クリック」すらされていないのはどうしたわけだろう...と思っていた。
もしかして何か根本的なところで間違えているのではないかと思ってよく見てみた。自分のアフィリエイト ID を間違えていた...orz。

「全てを見る」って。
いったい何を見せられるのかと思ってしまう。

