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「xxxすることがどれだけのoooを傷つけるか考えろ」というような論調について考える。


前置き

まずちょっと遠まわりになるが以下のような法則について考える。

[L] eをすることがAに害を為すと知っていて、かつ意図的にeをした場合、eをすることによって意図的にAに害を為したかのような雰囲気になる

という法則があるのではないかと思う。

たとえば靴紐アレルギーのAさんという人がいて、目の前で靴紐を結ばれると全身に紫色の斑点を生じ地獄のような痛みを感じるとする。わたしはAさんが靴紐アレルギーであることを知っていてかつ意図的に靴紐を結んだ。別にAさんに害をなしたかったわけではないが、靴紐がほどけているのが気になって仕方なかったので、Aさんがどうなろうと知ったことかと思って靴紐を結びなおした。

当然のごとくAさんは全身に斑点を生じさせ地獄のような痛みを感じる。このときわたしはただ靴紐を結びなおしたかっただけなのだが、あたかも意図的にAさんに害をなしたかのような雰囲気になる。


「雰囲気」としたのはこれを意図的行為と呼んでよいのかどうかいまいち確信が持てなかったため。しかしいずれにせよ、嫌がらせることをめざしたわけではなくても、嫌がると知っていてかつ意図的に何かを為した場合、なんとなく意図的に嫌がらせをしたかのような雰囲気になる。




当たり屋メソッドとは何か

あるべき姿としては、行為の良し悪しと人がそれを見て何を感じるかは独立の問題だと思うんだ。

わたしがなすべきことをしているのであれば、それを見て人が何を感じようとも関係ないと思うわけだ。

たとえば悪人を裁くために法律を制定する。

そうすると悪人めらが「不快であるぞ」と騒ぎたて、「おまえがその法律を制定したことによってどれだけの悪人が苦しむか考えてみろ」と言われる。

わたしの答えは「もちろんよく考えた。今後もっともっと悪人どもが震えあがるような法律をつくるべく努力したいと思う」というものであるだろう。一方無関係な人が「不快である」と言っても、本当に必要な法律であれば気にしないだろう。わたしは心に余裕がなければ反対派を無視して実行するだろうし、心に余裕があれば反対派のプライドがなるべく傷つかないような落としどころを考えた上で実行するだろう。

わたしのしたことが正当な行為であり、それを実行する方法も正当なものならば、誰が不快に感じようともそれはなすべきだ。この場合はむしろ文句を言われたからと言ってなすべきことをなさない方が悪いと思う。

一方最初から悪いことをしているなら、不快に感じる感じない以前にそれは悪いことだ。


問題は、してもしなくてもよいことが他人に不快感を与える場合だ。

たとえばわたしが右手でドアを開けるのを不快に感じるような人(B)がいたとして。

Bには2つの対処法があると思うんだ。


1つはふつうにお願いをすること。

自分が不快感を感じることを説明し、「お願いだから左手でドアを開けるように気をつけてほしい」と言う。左手でドアを開けることにそれほどコストがかかるわけでもないから、わたしは左手でドアを開けることにする。わたしは特に困らんしこれでBは幸せになる。いいことづくめだ。

これですめば話は単純なのだが、上の[L]があるために話は複雑になる。

本来ならば、この場合Bにできるのはわたしにお願いすることだけだと思うんだ。


しかしBにはもう1つ手段があって、それはわたしが右手でドアを開けるとどれほど不快になるかを切々と訴えることだ。この場合Bの訴えによってわたしはBの不快感を知ってしまう。不快感を知ってしまうと今後右手でドアを開けるたびに、意図的にBに不快感を与えているかのような雰囲気になる。そうするとあたかもわたしが悪いことをしているかのような感じになってしまう。

こうなると話はずいぶん変わる。

上の手段をとった場合Bにできるのは「お願い」だけだが、不快感を切々と訴えるという手段をとった場合Bは「悪事を糾弾」していることになる(少なくともそういう雰囲気になる)。「お願い」の場合Bの方が立場が下だが、悪事を糾弾する場合はBの方が立場が上になる。

誰が発明したのか知らないがこういう手段を用いることによって、上から目線の偉そうな立場で相手に行動を改めるよう要求することができる。

この手法は

  • 「誰かの行為をやめさせたい」
  • 「自分(あるいは誰か)が不快に思っている」
  • 「やめさせたい行為は、してもしなくてもかまわないような行為である」

という3条件さえそろえばさまざまな状況で応用できる。

こういう手法のことを「当たり屋メソッド」と呼ぶことにしたい。痛みを強調するところと相手の罪悪感につけこむところなどが当たり屋に似ていると思う。


なおこのメソッドは「自分が不快に感じる」という場合以外にも応用できる。むしろ自分が不快なだけだと自己主張が激しい人だと思われてしまうため「これだけの人が不快に感じるんだぞ」という形で他人を引き合いに出す方がさらに有効なパターンである。他人の痛みも適宜折り混ぜて使うことで当たり屋メソッドはいっそう有効に働くだろう。適当にマイノリティっぽい人を取り上げ、それらの人々がどれだけ傷つくかということを説明してやるだけでよい。

たとえば「おまえの何気ない行動によって不幸な人々がどれだけ傷つくか考えろ」という風に。




結論

ここから結論に入る。

わたしは当たり屋メソッドを使用することは悪であると考える。

どれほど自分や他の人々が不快に感じたとしても、悪いことでも何でもないことをしているのに文句を言うやつの方が悪いと思う。たとえ自分がどれだけ不快に感じていたとしても、そのようなやり方で不快感を披露することは悪であると思う。

それによって失なわれるのは、他人を物理的に傷つけたり人のものを盗んだりなどの悪いことをしないかぎり、好きなことをして暮すことができるという基本的な自由の感覚だ。他人に対しそれを損なうようなメソッドを使用することは決定的な悪であると考える。


またこのメソッドを用いることのデメリットについても考えた方がよい。当たり屋メソッドは使いやすい手法ではあるものの、その分一度使うと癖になってしまいそれに頼らざるをえなくなるという欠点がある。くわえて当たり屋メソッドを使うことで他人から同情を買うことはできても、他人から信頼を得ることはできない。むしろ他人から嫌われるだろうと思われる。



このような手法を野放しにしておくと世界に不幸な人が増えるばかりだと思うんだ。

従って、当たり屋メソッドを用いた者は鞭打ちなどの刑に処すべきだと思う。