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黙々と発表準備を進めるわたし。時間がない。

今日は、ちょっぴりブレイクスルーがあったので記録しておく。

フィクションの問題は、真偽の問題ではなく知識の問題だと考えることで、ずっと問題がすっきりするように思われた。だが、まだ考え中なのでこれ以上は詳述しない。

ハスミン

表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

蓮實重彦(著)

青土社、2006

  • エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン
  • 「『赤』の誘惑をめぐって」

2つの論考のみ目を通す。

なお、「フィクション」をめぐっては、来年二月に刊行予定の『「赤」の誘惑――フィクション論序説』(新潮社)により詳細な議論が展開されることになるだろう。

p365

予告篇だった YO!

ちなみに発売は3月末になったらしい。

http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-10-304351-5&Sza_id=MM


感想。

小説も哲学論文も関係なく、「赤」というテーマでテーマ論的に横断してしまうハスミンには、「テクスト」概念があればよかったのであって、「フィクション」の概念はまったく必要なかったのではないかと思った。タイトルも対象も、「フィクション」とか「フィクション論」になっているのに、フィクション概念が論考中で何の役割も果たしていない。

↓ハスミン先生はなんでわざわざフィクションを論じようと思ったのかと探していたら、こんなインタビューを見つけた。

蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2

http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php

──どうして今、フィクションという主題で書こうと思われたのですか。

蓮實:ひとつには、いまいったように、まだまとめきれずにいる『「ボヴァリー夫人」論』を完成するにあたってフィクションというものを近代の散文の一形式としてどうしてもおさえておかなければいけないという意識がありました。それには、ミシェル・フーコーのいう「近代」における言語の露呈との関係で「近代小説」をとらえざるをえないということなのですが、現在のフロベール研究はそうした視点を重視してはおらず、かろうじて、局外者のジャック・ランシエールがその種の視点に立っている。言語の露呈とフィクションとの関係を結果としてうまくおさえられたかどうかはわかりませんが、多くの西欧の理論家たちがフィクションを論ずると、論ずる主体が無意識のうちにフィクション化していく。論ずる主体がフィクション化していくってことは、ほとんど自分の言葉を語ることができず、言葉に語らされることで主体が希薄化していくということです。アメリカの言語哲学者のほとんど全員がそれにあてはまっている。それと、いまは「可能世界論」的なフィクション論が盛んなんですが、そうした視点からフィクションを論じようとするひとの大半は、論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。語っているひとたちは間違いなく存在しているにも関わらず、彼らの言説は対象を欠き、ほとんど存在していないかのような曖昧なものになっていく。ですから、「フィクション論者のフィクション化論」というような話になります(笑)。

「論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。」

これ、論考のなかでも同じことを言っていた。

すでに見たように、彼らの大半は文学作品の「有名性」に依存しており、テクストを読むことに関しては、「素人」の域を出るものではないからである。

p288

ハスミンが「フィクション」を論じつつ、ここでは読まれる対象が「作品」、「テクスト」となっていることに注意しよう。

私は「フィクション」論のいいところ(の一部)は、すごい読みじゃなくてふつうの人の読みをあつかったところだと思う。「作品」とか「テクスト」という概念と違って、フィクションという概念のいいところは、それが文学的でも何でもない、すごくふつうの概念であるところだと思う。

それに対しハスミンの論考は、ハスミンがあくまでも作品とテクストの人であって、フィクションの人ではないということを劇的に示していて、おもしろいと思った。この辺の対照化はもうちょっとうまく言えそうだが、なかなかむずかしい。


可能世界・人工知能・物語理論

マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)

水声社、2006

前半は虚構論、後半は物語理論。後半の方がおもしろいと見た。しかし物語理論は後回しにする。

いくらか検討した結果、この著者はおそらく可能世界という概念があまりよくわかっていないのだという結論に達した。

簡単にメモ書きしておく。

一番あやしいのは認識に関する可能世界や、義務に関する可能世界や、物語の展開に関する可能世界などなどを同時に与えているところ。「物語は、義務に関する可能世界や認識に関する可能世界...などからなる」と言っているように見える。これはおかしい。これは「人間は、男と女、子供と老人、20歳以上と20歳未満、50歳以上と50歳未満、本州に住む人とそれ以外に住む人などなどからなる」という発言と同じくらいあやしげな表現。つまり、同時に使ってはいけないカテゴリーを同時に使っている。

可能世界意味論は、義務の分析にも、認識の分析にも、物語の展開に関する分析にも、それぞれ使えるものであるが、だからと言って、それらの可能世界を同時に与える必要はない。必要はないどころか、同時に与えてはいけないのだ。なぜなら、「認識の分析に使われる可能世界」、「義務の分析に使われる可能世界」などなどは全部まったく異なったものであり、それぞれまったく違ったフレームを持つのであるから。

この本自体はいい本だと思うけど、「可能世界」をタイトルに関した文学理論書でもこのくらいのもんであるということで私は安心したのだった。

ライアン本1章

可能世界・人工知能・物語理論

マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)

水声社、2006

  • 1 虚構の中心移動

読み直し。様相論の基礎を勉強してから読み直すとやはりまったく印象がちがう。

とりあえず1章。

これホントは「可能世界」概念なくてもいいんじゃないだろうか。著者は「テクスト宇宙がたくさんの可能世界からなる」と言うが、それって要するに「テクスト宇宙」と「可能世界」という2つの概念が互いに独立したものだというだけの話だろう。もともと関係ない話がいろいろ混ざっているために、余計にややこしいことになっているように見える。

著者のあげる方針は、まとめると「可能世界概念はわりと役立つ」けど「可能世界を虚構性の分析【には】使わない」ということだろう。その辺がわからないと激しく混乱すると思われる。というか私が混乱していた。

1章でかかげられた方針は解きほぐすと以下のようになるはず。

  • 認識・様相について。
    • 可能世界は従来通り、様相(必然/可能)や認識の分析に使いましょう。
      • エーコその他がやったように、小説内における可能性の分析や認識の分析に使うならば、可能世界の概念は有益なものです。
  • 虚構性について
    • 可能世界=虚構世界ではありません。
    • しかし、「現実に actual」が指標的 [indexical] な語だというルイスの指摘は、虚構性の分析に役立ちます。
    • 虚構とは、「『現実に』の指示先が変わること」、すなわち「中心移動」です。
  • 虚構に関する言説について
    • ルイスらの言うとおり、虚構作品に関する言説の真理条件を定義するために可能世界を使ってもいいのかもしれません。

  • 「可能世界概念を、虚構作品における認識・様相の分析に使う」
  • 「虚構性を、中心移動によって定義する」
  • 「虚構作品に関する命題の真理条件を可能世界概念によって分析する」

この3つは完全に独立した話なので、混ぜるのは混乱のもと。

ただしバラバラにでてくるなら、どれもまともな方針だと思う。


訳について。

基本的には読みやすいよい訳だ。

豆知識。訳者さんの裏の顔は『文藝ガーリッシュ』。

文藝ガーリッシュ素敵な本に選ばれたくて。

千野帽子(著)

河出書房新社、2006


ただし数学用語の訳はすこしあやしい。

「秩序づけられた三重対」

p39

原文は見てないが、これは数学用語の「順序3組」だと思われる。

とりあえず普通に終了。
「こんなの社会学じゃねー」と言われないか内心ビクビクしているのだが、そういうつっこみはなかった(思いついても言わないという話もあるが)。

誤解されるので、批評という言葉を使うのをやめたと言うと、「気にしすぎ」と言われた。その通りなのだが、話題がそこに集中してしまったのは残念である。内容に突っ込まれたかったのだが、そもそも内容があまりないという問題もある。




教官様に質問してみた。
「例の「システム」論文の要点は『システムって言葉を使うには正当化が必要』って話だったのですか? それとも『場面を無視した記述をするな』って話だったのですか?」
「両方。社会学者が場面を無視した記述をするときに使う言葉が『システム』とか『社会』だからあれを書いた」

虚構論著作一覧。

随時追加。

○ 文学

フィクションの機構

可能世界・人工知能・物語理論

=マリー=ロール・ライアン(2006)岩松正洋訳『可能世界・人工知能・物語理論』、水声社

表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

、青土社



○ 美学

フィクションの美学


○ 哲学

現代哲学基本論文集〈1〉 双書プロブレーマタ

  • Frege, Gottlob(1892)'On Sense and Reference'("Philosophical Writings of Gottlob Frege", ed. G. P. Geach and M. Black,Blackwell)

=フレーゲ、ゴットロープ(1986)「意義と意味について」(土屋俊、坂本百大編『現代哲学基本論文集』、 勁草書房)

  • Russell, Bertrand(1919)"Introduction to Mathematical Philosophy", Routledge

=ラッセル、バートランド(1954)平野智治『数理哲学序説』、岩波書店

虚構世界の存在論

  • Goodman, Nelson(1965)"Fact, Fiction, and Forecast", Fourth Edition, Harvard University Press,

=(1983)ネルソン・グッドマン、雨宮民雄訳『事実・虚構・予言』、勁草書房、1987)

表現と意味―言語行為論研究

  • Searle, John R.(1975)'The Logical Status of Fictional Discourse'("Expression and Meaning", Cambridge U.P., 1979)

=サール、ジョン・R(2006)「フィクションの論理的身分」(『表現と意味』、誠信書房)

どうも逃避気分が盛り上がっていけない。
とりあえず書いてみることで、現状を見つめ直そう。この行為自体逃避である可能性もあるが。
私は来週発表を行わなければならないのである。修論に関する発表を行い、教官様や院生の皆様方にきちんとしたプレゼンを行わなければならない。後数日しかないので、一刻も早く完成させないといけない。

プレゼンすべきことは。
修論のテーマを「フィクション」にする。テーマへの関心を説明し、「それなりにおもしろそうなテーマだ」と思ってもらえるように煽る。
先行研究の紹介。フィクションについてこれまで研究してきたのは分析哲学の人たちである。とりあえず彼らが議論していることを紹介する。現状では「紹介」以上の議論を行うのはむずかしいので、「へーそんな議論があるのか」とおもしろがってもらえればそれでいい。
研究が可能であることを示す。方法論の提示。フィクションは「システム」である。と言いたいが、方法論の議論に深入りするのは考えもの。
「作品」「テクスト」など類似概念とフィクション概念の違い。同時にこれが立場の表明にもなる。話の流れとしては、「作品論の人」「テクスト論の人」の対立を紹介。「→どっちもおかしい」「→そこでフィクションですよ」と行くとスマートに説明できそうである。とりあえずこの部分を発表の中心にする。
フィクション概念のアクチュアリティ。おまけとして説明するかもしれない。日和るかもしれない。『涼宮ハルヒ』を引用する。「虚構世界の概念をきちんと確立しないと角川スニーカー文庫さえまともに読めないんですよ」。教官様は同意してくれるかもしれないが、他の人にバカだと思われるかもしれない。

殺竜事件―a case of dragonslayer
上遠野浩平『殺竜事件 - a case of dragonslayer』
講談社ノベルス

読んだのは少し前だが、佐藤論考をようやく読んだのでこれについても書いておく。先にあらすじを説明しないと感想が書きにくいので先にあらすじを書く。

あらすじ:(ネタバレを含む)
ジャンル的に言うと、ファンタジーミステリー。タイトル通り、竜が殺された謎を解く話。

竜をとても大事にしている村があった。そこはちょうど和平会談の場所になっていた。その村で竜が殺された。竜というのは、とてつもなくすごい力を持ったものなので、それを人が殺したとは考えられない。しかし竜の殺され方はどう見ても他殺だった。
村人は怒って、「謎を解かないと和平会談の場所は貸さない」と言った。そこで戦争調停士(という職業らしい)の主人公は竜殺しの謎を解かねばならなくなる。手がかりを求めるために、これまで竜に会った人たちに会い、話を聞きに行くことにした。
そんな感じで主人公一行が旅に出て、色んなところに行く。話を聞いてもあまり手がかりは得られないが、もののついでにお姫様を助けたり、幽霊と戦ったり、わりとふつうにファンタジーっぽい冒険をする。
あと、重要っぽい設定としては、「漂流物」というのがある。「漂流物」というのは別の世界から漂流してきたと言われる物のこと。実態は、ピストルとか扇風機とか、要するに「現実っぽい世界」から漂流してきたものである。

真相は以下の通り。
【ネタバレ -- ここから】
竜を殺したのは村人全員の共謀。一見竜を大事にしているように見えるその村は、実は竜を殺すためだけにつくられた村だった。何十年も前から準備をし、村人たちは代々竜を殺す計画を練っていた。
しかし、それだけで竜が殺せるはずはない。だから、たぶん、友人だと思っていた村人に殺されそうになった竜がショックのあまり、自殺を受け入れたんだろうと。そういうような感じの結論になる(後半はうろおぼえ)。
【ネタバレ -- ここまで】


感想:
アシモフの SF ミステリと対照させると見やすい。
かつて「SF ミステリ」とか「ファンタジーミステリ」といったものは不可能だと言われていた。だって読者の知らない新しい技術とか、新しい魔法を出してくればいくらでも不可能犯罪が可能になってしまうから。
それに対してアシモフは、「世界観がどうであれ、作品内に厳格なルールを設定し、フェアに謎を解決させれば SF ミステリは十分成り立つ」ということを証明した。つまりロボットが出てこようが、魔法が出てこようが、最初に作品内に厳格なルールを設定し、その枠内で謎解きをやれば、ミステリとして十分フェアな作品ができる、というわけだ。
だからアシモフは自分でつくった「ロボット工学の三原則」だけは(ほぼ)絶対に曲げない。ロボットの行動の謎は、おおよそ三原則の枠内で解けるようになっている。そして実際、アシモフの初期ロボット短編の多くは「三原則によってロボットの行動を読み解く」ストーリーになっていた。
私はアシモフのこういう姿勢は結構好きなんだ。三原則をあまりに厳格に追求することで、ついに「第零原則」なんていうとんでもないものまでひっぱりだしてくるところも含めて。言い換えれば、これは理詰めでいくやり方だ。理詰めを追求することで、最後には「理」まで反転させてしまうようなやり方だと思う。

もちろん、こういうやり方がすべてではない。万人がこれをやるべきだとも思わないが、この小説は↑のようなやり方と比べて、ちょっと失敗しているような気がした。

本書で、竜は「とにかくすごいもので人間には殺せない」という設定になっている。しかし制限とかルールはほとんどないので、これは無定義に近い。そのため私は読んでる最中、「竜が殺されたとか言われても、設定も何もわからないのに謎なんか解けるかー」と思った。
しかし、最後まで読むと、実は謎を解く鍵はほとんど序盤に出ている(←これもネタバレか?)。だから「フェア」と言えなくもない。
が、逆に言うと、中盤の展開はほとんど本筋の謎と関係がなくなっている。
思うに、ミステリーのおもしろさというのは、解答のほのめかしにあるんじゃないか。つまり、最初に不可解な謎が提示されて、それが段々真相をのぞかせたり、実は意外なところに答えがあったりする、そういう展開が読者をひっぱるものだと思うんだ。
でもこの小説の中盤の展開はミステリー的展開になっていない。むしろ中盤はふつうのファンタジー小説になっている。要するにミステリー的な展開を書くのに作者が慣れてないだけだと思うんだが。


ファウスト vol.5
佐藤俊樹「世界を開く魔法」(『ファウスト』vol.5)
講談社

説明。この号の『ファウスト』では上遠野浩平特集をやっていた。
これは『殺竜事件』を中心とする上遠野浩平論。

感想:
むずかしい。舞城王太郎の話はわかるが、上遠野浩平の話はよくわからない。ファウスト読者はついていけてるんだろうか。
ところで上遠野浩平と魔法の話は以下のように言ってくれればわかるのだが、こういう話なんだろうか。

- 魔法の出てくる話(ファンタジー)というのはわれわれの世界と違う異世界が舞台だよね。
- 「異」世界が舞台であるがゆえに、魔法の出てくる話は、「(魔法の出てくる)この世界って何?」とか「(魔法のない)この世界って何?」とか、「世界って何?」系の問題に向かいがちだよ。
- ましてや上遠野浩平の小説では「隣り合う世界」がよく出てくるのだから、そういう傾向が強いよね。
- そういった感じで、あくまで世界の内側から、世界の別様可能性を探っていくようなストーリーに可能性を感じるよ。

うーん、ちょっとちがうかもしれない。あらすじを書いていたら、何となく内容はわかった。
可能世界論とか持ち出すと、もっとすっきりできるような話のような気もする(むしろ私の解釈が可能世界論に近よりすぎなだけかもしれないが)。
あと、いわゆる「セカイ系」の「セカイ」に対抗して、「ワタシ」って言ってるのだと思うが、「ワタシ」ってちょっとかっこわるくないか?
しかしこれは一応虚構論になっているのだな。もっと早く読めばよかった。

あらすじ:
1.魔法の論理学
魔法というのは不可能を可能にするものだよね。でも魔法ものでは魔法に制限をつけるのが大事だよ(ex.『鋼の錬金術師』の等価交換)。だから魔法ものは「可能」と「不可能」をめぐる話だよ。
これはミステリーと似てる。ミステリーは不可能な犯罪を合理的に解く話。だからやっぱり可能とか不可能とかの話になる。

2.呪文と叙述
ところで、魔法とミステリーはもうひとつの点でも似てる。
魔法は「言葉」と関係があるけど、ミステリーで言葉といえば、「叙述トリック」だよ。
叙述トリックというのはとんでもないもので、これをやると何でもありになっちゃう。でも、とんでもないものでも、すぐお約束になっちゃうから難しいよね。

3.「物語」の正体
ところで、叙述トリックを徹底的にやりまくることで、お約束を打ち破ろうとしたのが、舞城王太郎の『九十九十九』だったよね。ここから叙述トリック代表ということで、『九十九十九』の話をしよう。
『九十九十九』は聖書に似てる。新約聖書というのは、旧約の謎解きだった。しかも答えである福音書は複数用意されている。聖書は迷宮入りした叙述トリックだよ。
聖書を信じるプロテスタントと同じように、『九十九十九』には、「どこかに答え(神の言葉)が隠されている」という信念が感じられるよ。一見破壊的な『九十九十九』だけど、その裏には、「物語の外の真理を見たい(でも見れない)」という感覚があるんじゃないかな。

4.底無しの抜け方
つまり『九十九十九』は、「すべてを破壊して物語の外に出よう」という話ではなく、「破壊しても破壊しても物語の外に出られないよー。わーん」という話なんだ。
この「外に出たい! 出られない!」というのは地方都市出身者ならではの感覚だね。
あとミステリらしいと言えなくもないよね。

5.「事件」の構造
ところで、2では叙述トリックと魔法を比較したけど、ここから魔法代表ということで、上遠野浩平の話をしよう。
叙述トリックは作品世界の外の語り手を登場させる。でも魔法は物語の中にとどまるよ。魔法はむしろ、物語の中に法則外の存在(物語の外)を導入するんだ。
そうやってより大きな世界の法則へと進んでいくのが魔法物だね。上遠野浩平は魔法ミステリを描いたけど、これの特徴は、ミステリの謎が事件の謎だけではなく、世界の謎につながっていくことだよ。

6.可能(できる)と不可能(できない)の反転
上遠野浩平の魔法ミステリについて考えるために『殺竜事件』の話をするよ。

竜というのは定義からして絶対殺せないものだった。それを殺すんだから、こいつはとてつもない不可能犯罪だね。
つまり物語自体の構造をゆるがすような事件が問題になっているんだ。だけど、叙述トリックのように物語の外に出たりはしないよ。いわば、『殺竜事件』は、外に出ないで物語のはしっこを歩いていくような話だよ。
魔法もののおもしろさっていうのは、こういう風に、世界の内側で、世界の「別様可能性」を問うところにあるよね。

7.世界とワタシ
↑のように、世界の内側で、世界のエッジに触れるような人を、「ワタシ」と呼ぼう。上遠野浩平の小説には、よくこの「ワタシ」が出てくるよ。

8.「現実」と「虚構」
(この節はよくわからない。ちょっと解釈しすぎかもしれない)

上遠野浩平の「ワタシ」は、村上春樹とも加藤典洋ともセカイ系とも違うよ。
(以下書いてないけど補足
【補足 -- ここから --】
可能世界に関する議論で、こういうのがあるよね。
「もし君が身長2メートル以上だったら...」ってな会話をわれわれはよくするよね。この時、この会話は「君が2メートル以上である可能世界」を仮定しているわけだ。ところで、この「君」は現実の君とは別の物を指すんだろうか。そんなはずないよね。もしそうだったら意味が通じなくなるよね。
ということは、個人(など固有名によって呼ばれるもの)は複数の可能世界に横断的に存在するものだということになるよね。
つまり、複数の世界が「私」とかそういう個人の存在によって結ばれているのだと言えなくもないよね。
【補足 -- ここまで --】)

「現実なんてすべて虚構だ」っていうのはおかしいと思うんだ。
これは「こっちが現実」「あっちが虚構」というのを前提にした発言だ。
でも本当はむしろ、こっちから見るとあっちが虚構だったり、あっちから見るとこっちが虚構だったり、複数の世界が並行に隣り合うものなんじゃないか。
そんな風に、「虚構から見た現実の私」がいたり、「現実から見た虚構の私」がいたり、私を通じてつながる隣り合う世界があって、現実と虚構の境界は折り重なっているんだ。
上遠野浩平はそういう世界を描いているよね。

ところで、これは色んな問題にあてはまる話だよね。
例えば「大きな物語(普遍的で万人が共有する物語)はない」なんてことを言う人がいる。でもこれは「大きな物語はない」っていう大きな物語をつくってるだけだ。
あるいは「客観的な真理なんてない」っていうのも客観的な真理だよね。

9.竜の殺し方
じゃあどういう語り方をすればいいんだろう。わからないけど、中心のない複数のない世界を考えるってことは、その語り方を考えるってことなんじゃないか。
東浩紀も前の『ファウスト』でそういうことを考えていたよね。でも彼のルーマン解釈はいただけない。彼の言い方だと、ルーマンがコミュニケーションの概念で現代社会を説明しようとしたみたいになっちゃう。
そうじゃなくて、ルーマンも本当は、↑のような問題を考えた人なんだ。
ルーマンは「コミュニケーションの意味は、他のコミュニケーションとのつながりによって決まる」って言った。
(書いてないけど補足。
【補足 -- ここから --】
例えばこんな例がある。電車で席を立ったとき、そこに老人が座れば席をゆずったことになる。老人が気づかなければ、席をゆずったことにはならないかもしれない。こんな風に、そのあとどんな出来事がつながっていくかで、その出来事の意味自体が変わっていくんだ。
【補足 -- ここまで --】)

これは、何が虚構で何が現実かってことが、後から変わってしまうかもしれないっていう怖い話なんだ。
今ある出来事に、将来どんな出来事がつながるのかわからない。もしかしたら、そのせいで「今日の虚構が明日の現実」になるかもしれない。
案外そういったこと自体が「中心のない複数の世界」について一番教えてくれるのかもしれないね。

10.隣りあうこと
人っていうのは、何が起こるかわからない世界から目をそむけるために、安定した現実を想定しがちだよね。
ところでルーマンは「私たちは現実をマスメディアから知る。マスメディアが信用できないってことさえマスメディアから知るんだ」みたいなことを言っている。
これは「現実はマスメディアのつくった嘘ばっかりだ」という発言とは違うよ。
もう何が現実で何がつくられたものだか、わけがわからないくらい、「つくられたものかもしれない」という可能性に触れているってことだ。
上遠野浩平の、何が現実で何が虚構かってことがずれていくような多数世界は、こういう感覚をよく描いているよね。
あと、これって要するに「人のしたことが他の人のしたことにつながっていく」ってことだから、何かいいよね。


少し前にM川に、「最近は哲学系の虚構理論を勉強しているよ」と言った。「それはどういうものか?」と問われたので、「たとえばこのようなことを考えるのだ」と答えた。
以前は「架空の対象について命題の真偽を問うことはできない」と考えられていた。たとえば「ユニコーンについては何を言っても真実とも虚偽とも判定しがたい」云々。しかしこれは厳密に言えば明らかにおかしい。たとえばシャーロック・ホームズについて「明らかに真なる命題」や「明らかに偽である命題」が存在する。前者の例は「シャーロック・ホームズは少なくとも1000歳以下である」「シャーロック・ホームズはコナン・ドイルによって創造されたキャラクターである」。後者の例は「小説『ホームズシリーズ』においてシャーロック・ホームズには9本の足がある」など。
しかもシャーロック・ホームズに関する真なる命題は、テキストに記載があるともかぎらない。たとえばシャーロック・ホームズの物語に「日本の四国」に関する記述は見あたらないが、その世界に日本が存在する以上、「四国に相当する島も存在する」と考えるのが妥当であろう云々(本当に「四国」に関する記述がないかどうかは確認していない)。

M川曰く、「ホームズはテキスト上にしか存在しないので、ホームズについて何とでも新たな記述を増やせるのではないか」。
しかし例えば私が『シャーロック・ホームズは9本足だ』と書いても、「あの」シャーロック・ホームズが9本足だったことにはならないだろう。
その時は以上の主旨だけを答えたが、同時にふと思いついたアイデアがあった。


以上は長い前置きである。
任意にホームズに関する記述を増やすことはできない。そもそもそんなことはドイル自身にもできないのである。シャーロック・ホームズについて何でも好きなことを言えるのなら、ドイルは一度死んだはずのホームズを生き返らせる必要もなかっただろう。
しかしその時考えたのは贋作、パロディ、二次創作のことだった。
ホームズものには、ドイル以外による無数の二次創作的シリーズが存在する。それらの小説における記述が「ホームズに関する事実」として認められることはあるだろうか。
これは一見ありえないように思える。他の作家によるホームズものは「Xによるホームズもの」としてドイルの正典とは別個の世界として扱われがちだ。他者がコナン・ドイルにかわって「ホームズに関する記述」を増やすことはむずかしいのである。

しかし、小説以外のフィクション作品に目を向ければ話は変わってくる。映画やドラマやアニメなど、元々複数の人間によって作成される作品の場合、同じシリーズであっても、スタッフは完全に別であるということもある。ここで以下のような架空の状況を想定してみよう。

20xx年、とあるアニメ制作会社は「○○ガンダムなんかガンダムじゃない」という一部制作スタッフの反発により、「制作チーム1」と「制作チーム2」の2つに分裂した。それぞれのチームは別個にスポンサーを見つけ、それぞれ「1ガンダム」および「2ガンダム」という同シリーズに属する別々の作品を制作した。「1ガンダム」および「2ガンダム」はともに「ガンダムシリーズ」に属する作品であるが、「1ガンダム」と「2ガンダム」には明らかに矛盾する記述が存在する(それぞれ同じ時代を描くが、前者の系列ではあるキャラクターが生きており、後者の系列では死んでいる)。
この時、どちらのテキストを「ガンダム世界に関する正当な記述」とすべきだろうか?

これは決定不可能な状況であると考えられる。喩えで言えば一つの国家に二つの政府、二つの法が存在する状態に似ている。
たとえば、以下のような事例。
「選挙において過半数の支持により、共産主義政権が誕生した。しかし反発した旧来の与党が軍部と結託してクーデターを勃発させた。クーデターは成功し、後者が実効的に政権をにぎり、独自の法を発布。戦いに敗れた共産主義政権は潜伏したものの、やはり独自の法を発布した。この時、ひとつの国家に二つの政体が誕生する。以上の状況において二つの政府・二つの法のどちらが正統なものか?」

もちろん明らかにどちらかが正統なスタッフであり、片方は二次創作にすぎないというように決定できるケースもあるだろう。しかし、「1チームにはトミノヨシユキという本来の原作者がいるが、スタッフのほとんどはガンダムとはまったく関係ない」「2チームの大部分は元々ガンダムに関わっていたスタッフである」という場合など、決定が困難に陥る場合もある。
似たようなことは現実にもある。「小説版とアニメ版で話が違う」とか。あるいはこういった虚構世界の問題から「黒歴史をどう考えるか?」。
この辺をきちんと考えてみれば理論的には色々おもしろいような気もする。実際のところ、虚構論は文学に限定しない方がおもしろいトピックが出てくる。
たとえば、「虚構世界は複数の可能世界を含むのか、それともただひとつの世界からなるのか」という議論がある。この問題をストーリーと選択肢が存在するタイプのゲームに適用するとどうなるだろう。これらのゲームには明らかに複数の可能世界が含まれている。この時ユーザーが享受しているのは、これらの世界すべてを含むゲームの全体系なのだろうか? それともそれらのうちの個々の世界を個々の作品として楽しむのだろうか?