うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで“読書”タグの付いているブログ記事
■ 思った
たとえば「情報」という概念について。
A: われわれが日常的に用いている「情報」概念
B: 形式的(数学的)に規定された「情報」概念
の2つがある。
ここで、AとBのどちらが偉いかという問題があって、Bが偉いと思う人は、AとBが食い違うとき、「日常的な概念は曖昧なものであって、より厳密な定義を用いるべきだ」とする。
しかし一方、Aの方が偉いという考え方もあって、そちらに即して考えるなら、BとAが食い違うのは、Bの形式的規定が日常的直観をうまく表現できていないから、ということになる。
わたしはどちらかというとAが偉いという立場だが。
今日思ったのは、常識的直観に合っていることは大切だが、それを争点にしてはいけないということだ。なぜならばXの方が直観に合っている、Yの方が合っている、という議論には終わりがないからだ。
いや、これだと言い方が悪いな。議論に終わりがないのではなく、論証にならないと言うべきか。2つの競合するモデルがあるとき、(どちらかが明らかに破綻しているというのでなければ)、可能な作業は、Xのモデルの方がシンプルであり直観にも合っているという「勧誘」や「説得」のみだろうと、そういうことを思った。
■ 読書
柏端達也(著)
勁草書房、1997
おもしろいので2回目を読んでいる。
デイヴィドソンの解説書かと思っていたが、そうではなく、「アンスコム、デイヴィドソンの主張を概ね受け入れたあげく、自分なりにその成果を発展させる」という本だった。
しかし、
「AGENTはOBJECTをφすることによって、γした
」
などという例文を読んでいると、必然的に、かのドラえもんを爆笑させた22世紀のギャグ「アルファがベータをカッパらったらイプシロンした。なぜだろう」を思い出してしまう。
■ 行為
行為論におけるデイヴィドソンの成果を説明することは簡単だ。
Aは昨日友達の家でニコニコにログインし、初音ミクオリジナル曲「歌詞を乱数で生成した歌」を聴いた。
ここから、
Aは昨日ニコニコにログインした
を推論することは常識的な直観に合っている。
(たとえニコニコや初音ミクが何だか知らなくてもこの推論自体は可能である)
しかし、かつて、この推論をうまく表現できるモデルは存在しなかった。
デイヴィドソン以前に主流だったやり方では、「友達の家でニコニコにログインし」は「友達の家でニコニコにログインする」というただ1つの述語として扱われてしまう。
それに対し、デイヴィドソンは、先の文を「ある出来事」について述べたものと解釈することを思いつき、
(ア)ある出来事が存在し、それは昨日の出来事であり、それはAの友達の家で起きた出来事であり、それはAがニコニコにログインするという出来事であった
という風に言いかえればよいと提案した。
(ア)から、「ある出来事が存在し、それは昨日の出来事であり、それはAがニコニコ動画にログインするという出来事だった」、つまり、「Aは昨日ニコニコ動画にログインした」を導く推論は、初歩の述語論理だけで表現することができる。
これ自体は別にむずかしくも何ともない話だと思うのだが、むずかしいのはむしろ「で、それができると何が楽しいのか」を伝えることだ。
たとえば「生きる意味が知りたくて」とか言って哲学書を読みはじめた人に対して、「これが素晴しい哲学的成果なんだ」って言っても絶対納得しないだろうし。ポストモダンがどうのこうの言う人も絶対納得しないだろうし。
しかし改めて考えると、「日常的な行為の概念をきれいにモデル化できる」って言っただけで「それはすごい」と思う人はたくさんいるはずだよな、と今日思った。
■ しかし
この「雑記X年X月X日」というタイトルにはまったく一覧性がないな。
この方が書きやすいのだが、個々の見出しにタグがつけられないのが問題か。あとMTの検索が重くて使いものにならないのもよくない。
- 『真理と解釈』
D.デイヴィドソン(著)、野本和幸(訳)、金子洋之(訳)、植木哲也(訳)、高橋要(訳)
勁草書房、1991
「朝まで同人誌の企画会議」、「朝まで安価スレに貼りつく」など、ふつうの院生にはできないことを平然とやってのける自分に絶望したので、ちょっと勉強のために本を買ってみた*1。
とりあえず序論と一章「真理と意味」を読んだ。高いくせに、『行為と出来事』同様これも抄訳らしい。ひどい...。
むずかしくはあるが、言ってることが明確で筋が通っており、癒される。実は最近読みかけていたセラーズ『経験論と心の哲学』が、顔面蒼白になり思わず自信喪失するくらいにむずかしかったため、辟易していたのだった。
序論より。
W.V.クワインは、私の生涯における決定的な時期における私の先生であった。彼は私に言語について考え始めさせたのみならず、哲学には、正しい、ないし少なくとも誤っている、ということが存在し、そしてそのどちらかであるのかが重要なのだ、という考えを私に与えた最初のひとであった。
もえ。
■ テーマ
この論文(「真理と意味」)のテーマは「(★)【文の意味】が【単語の意味】にどのように依存するのか」を示すこと。
これは多くの言語学者や言語哲学者から、まともな意味理論が達成しなければならない課題のひとつだと言われてきたもののひとつである。
本論文はこの問い「【全体の意味】が【部分の意味】にいかに依存するか」を扱いつつ、「自然言語のまともな意味理論には何ができなければならないか」という問題を考える。
以下、適当にまとめてみる。
■ 複合名辞
いきなり文について考えるのは難しいからまず複合単称名辞について考えてみよう。
例として「アネットの父」「アネットの父の父」などといった表現をとりあげる。
課題(☆):これらの【複合表現の意味】が【部分(単語)の意味】にどのように依存するのか。
これを問うことによって、自然言語の意味を扱うことがいかなる仕事であるのかを例示する。
まず件の表現について。
対象となるのは、
A{アネット、アネットの父、アネットの父の父、アネットの父の父の父...}
という表現の無限クラスである。
この表現のクラスAの要素は「アネット」+ 0個以上の「の父」によって構成される。
アネット(の父)*
こうですか? わかりません><
Aに属する表現は、単称名辞なので、「表現の意味」=「その指示先」とするよ。
たとえば、ベネットがアネットの父であるとき、表現「アネットの父」の【意味するもの】は、ベネットその人である*2。
したがって、☆は、表現「の父」が指示先の決定において「どんな役割を果すのか」を記述することによって達成される。
「どんな役割を果すのか」と言うとむずかしそうだが、任意の表現に対しその指示先を与えるような理論を構成すればよい。
理論T (1)表現「アネット」はアネットを指示する. (2)tがAに属する表現であるとき、t+「の父」はtの指示先の父を指示する.
これでおk。
理論Tによって、無限クラスAの任意の要素に対し、その指示先を与えることができる。
たぶん↓こんな感じ。
function の父(){
return this.father;
}
「アネット.の父()」で、父ベネットが返り値になるというイメージ。
「アネット.の父().の父().の父()」とすると、ひいおじいちゃんが返り値になる。
理論Tは、クラスAにおいて、表現「の父」が果す機能を示すものである。
Tを構成することで何が達成できたか。
(1)「tがxを指示する」という形式の【すべての文】を含意する理論を得た。
#しかも、「指示する」以外のいかなる意味論的概念にも訴えかけずに、これを達成した。
つまり、この場合でいえば、
この理論Tによって以下のような文の系列が得られる。
{「表現『アネット』はアネットを指示する」, 「表現『アネットの父』はアネットの父を指示する」, 「表現『アネットの父の父』はアネットの父の父を指示する」...}
それによって、
(2)その論議世界に属するいかなる単称名辞に対しても、当の名辞の指示先を確定する実効的effectiveな手続きを得た。
たとえば、「アネットの父の父の父の父」などという長大な表現が現われても、上の理論Tを用いることで、その指示先を確定することができる。
■ 真理
課題(★)は、ただ今複合名辞に対して行なったような理論の構成を、文にまで拡大することで達成される。
ただし、文の場合、「指示先=意味」とすることはできない。
また、先と【同じ】成果をあげるためには、以下の2つが必要とされる。
(1)「sがmを意味する」という形式の【すべての文】を含意する理論。
(2)構造的に記述された任意の文の意味を確定する実効的な手続き。
(1)の「sがmを意味する」とは、先の
{「表現『アネット』はアネットを指示する」, 「表現『アネットの父』はアネットの父を指示する」「表現『アネットの父の父』はアネットの父の父を指示する」...}
の文ヴァージョンに相当するものである。
{「文『雨が降っている』は雨が降っていることを意味する」, 「文『花が咲いた』は花が咲いたことを意味する」...}
ただし、この「ことを意味する」という困難な表現に変え、デイヴィドソンは、より形式的 ・論理的な扱いになじみやすい、以下のような文の系列を提案する。これが一部では有名なT文というやつである。
sがTであるのは、pの場合、その場合にかぎる (pならばsはTであり、sがTならばpである) (sがTである ←→ p)
具体的には、
「雨が降っているならば、『雨が降っている』はTであり、『雨が降っている』がTであるならば、雨が降っている」
「花が咲いているならば、『花が咲いた』はTであり、『花が咲いた』がTであるならば、花が咲いている」
など...。
これは実質的に、タルスキによる真理の定義にひとしい。だから、文の意味を与える理論は結局、文の真理条件を与える理論に還元される。
述語「Tである」は、タルスキ流に定義された「真である」と同じものである。
課題(★)を達成するためには、先の理論Tと同様に、これら無限の文のクラスを、有限の形式的規則で表現しなければならない。
(しかも、最終的には日本語に属するすべての文に適用できるような理論を目指さなければならない)。
ただし本論文はそれを最後までやり切るわけではない。単に、そういうことをしなければ、自然言語のまともな意味論はできないよね、という趣旨を述べ、その道行を示すだけである。
問題がむずかしくまた興味深くなるのは、ここから先であり、たとえば「指示詞はどうするか」「時制はどうするか」などクリアしなければならない問題がたくさんひかえていること(しかし解決は不可能ではないこと)を示唆して論文は終わる。
ところで、この種の真理条件的意味論を、デイヴィドソン自身の「哲学的立場」とするような記述をたまに見かけるが、これは多少アンフェアなのではないかと思う。なぜならば、デイヴィドソンの功績のひとつは、「真理条件的意味論は、特定の哲学的立場を含意しない」と示したことにあるのだから。
彼はただ「いろいろ周辺事情を考えると、自然言語の意味論を研究するには、こういう方法が有望だと思うのだが、諸君はどう思うかね」と言ってるだけである。
層の厚い SF 読書をするために、ヒューゴー賞受賞作を年代順に読んでいこうと思いつく。
そんなことしてる場合かと思わないでもないが、気長にがんばろうと思う。
とりあえず『分解された男』を買った。
なにしろすべて「安い」というところがありがたいなあ。
- 1953年 『分解された男』 ( The Demolished Man ) アルフレッド・ベスターISBN:9784488623012
- 1954年 該当賞の発表なし
- 1955年 『ボシイの時代』 ( They'd Rather Be Right ) マーク・クリフトン、フランク・ライリーISBN:9784488666019
- 1956年 『太陽系帝国の危機/ダブル・スター』 ( Double Star ) ロバート・A・ハインラインISBN:9784488618018
- 1957年 該当賞の発表なし
- 1958年 『ビッグ・タイム』 ( The Big Time ) フリッツ・ライバー
- 1959年 『悪魔の星』 ( A Case of Conscience ) ジェイムズ・ブリッシュ
- 1960年 『宇宙の戦士』 ( Starship Troopers ) ロバート・A・ハインライン
- 1961年 『黙示録三千百七十四年』 ( A Canticle for Leibowitz ) ウォルター・ミラー
- 1962年 『異星の客』 ( Stranger in a Strange Land ) ロバート・A・ハインライン
- 1963年 『高い城の男』 ( The Man in the High Castle ) フィリップ・K・ディック
- 1964年 『中継ステーション』 ( Way Station ) クリフォード・D・シマック
- 1965年 『放浪惑星』 ( The Wanderer ) フリッツ・ライバー
- 1966年 『デューン/砂の惑星』 ( Dune ) フランク・ハーバート
- 1967年 『月は無慈悲な夜の女王』 ( The Moon Is a Harsh Mistress ) ロバート・A・ハインライン
- 1968年 『光の王』 ( Lord of Light ) ロジャー・ゼラズニイ
- 1969年 Stand on Zanzibar(未訳)ジョン・ブラナー
- 1970年 『闇の左手』 ( The Left Hand of Darkness ) アーシュラ・K・ル=グウィン
- 1971年 『リングワールド』 ( Ringworld ) ラリー・ニーヴン
- 1972年 『果しなき河よ我を誘え』 ( To Your Scattered Bodies Go ) フィリップ・ホセ・ファーマー
- 1973年 『神々自身』 ( The Gods Themselves ) アイザック・アジモフ
- 1974年 『宇宙のランデヴー』 ( Rendezvous with Rama ) アーサー・C・クラーク
- 1975年 『所有せざる人々』 ( The Dispossessed ) アーシュラ・K・ル=グィン
- 1976年 『終りなき戦い』 ( The Forever War ) ジョー・ホールドマン
- 1977年 『鳥の歌いまは絶え』 ( Where Late the Sweet Birds Sang ) ケイト・ウィルヘルム
- 1978年 『ゲイトウェイ』 ( Gateway ) フレデリック・ポール
- 1979年 『夢の蛇』 ( Dreamsnake ) ヴォンダ・マッキンタイア
- 1980年 『楽園の泉』 ( The Fountains of Paradise ) アーサー・C・クラーク
- 1981年 『雪の女王』 ( The Snow Queen ) ジョーン・D・ヴィンジ
- 1982年 『ダウンビロウ・ステーション』 ( Downbelow Station ) C・J・チェリー
- 1983年 『ファウンデーションの彼方へ』 ( Foundation's Edge ) アイザック・アジモフ
- 1984年 『スタータイド・ライジング』 ( Startide Rising ) デイヴィッド・ブリン
- 1985年 『ニューロマンサー』 ( Neuromancer ) ウィリアム・ギブスン
- 1986年 『エンダーのゲーム』 ( Ender's Game ) オースン・スコット・カード
- 1987年 『死者の代弁者』 ( Speaker for the Dead ) オースン・スコット・カード
- 1988年 『知性化戦争』 ( The Uplift War ) デイヴィッド・ブリン
- 1989年 『サイティーン』 ( Cyteen ) C・J・チェリー
- 1990年 『ハイペリオン』 ( Hyperion ) ダン・シモンズ
- 1991年 『ヴォル・ゲーム』 ( The Vor Game ) L・M・ビジョルド
- 1992年 『バラヤー内乱』 ( Barrayar ) L・M・ビジョルド
- 1993年 『遠き神々の炎』 ( A Fire Upon the Deep ) ヴァーナー・ヴィンジ、『ドゥームズデイ・ブック』 ( Doomsday Book ) コニー・ウィリス
- 1994年 『グリーン・マーズ』 ( Green Mars ) キム・スタンリー・ロビンソン
- 1995年 『ミラー・ダンス』 ( Mirror Dance ) L・M・ビジョルド
- 1996年 『ダイヤモンド・エイジ』 ( The Diamond Age ) ニール・スティーヴンスン
- 1997年 『ブルー・マーズ』 ( Blue Mars ) キム・スタンリー・ロビンソン
- 1998年 『終わりなき平和』 ( Forever Peace ) ジョー・ホールドマン
- 1999年 『犬は勘定に入れません』 ( To Say Nothing of the Dog ) コニー・ウィリス
- 2000年 『最果ての銀河船団』 ( A Deepness in the Sky ) ヴァーナー・ヴィンジ
- 2001年 『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』 ( Harry Potter and the Goblet of Fire ) J・K・ローリング
- 2002年 American Gods(未訳)ニール・ゲイマン
- 2003年 『ホミニッド-原人-』(Hominids)ロバート・J・ソウヤー
- 2004年 Paladin of Souls(未訳)L・M・ビジョルド
- 2005年 Jonathan Strange & Mr Norrell(未訳) スザンナ・クラーク
- 2006年 Spin(未訳) ロバート・チャールズ・ウィルソン
コリン・マッギン(著), 植木哲也(訳), 野矢茂樹(訳), 塚原典央(訳)
勁草書房、1990
いつか何かに使えそうなところをメモしておく。
「創造テーゼ」と筆者が呼ぶものについて。
(適宜改行)
この提案によれば、ここでウィトゲンシュタインは「意味は使用によって創り出される」という考えに関わっている。つまり、ある言葉の意味は時を経るにつれ漸次構成され、創り出されていくのであり、確定した意味とは時間的な広がりを持つ使用の最終結果なのである*。
* これって実存主義に似てるよね。(という趣旨の脚注)
この提案に従うと、意味が使用を生み出す(使用の源泉である)のではなく、
むしろ使用が意味を生み出す(意味の源泉である)ことになる。
それゆえ、ウィトゲンシュタインが、それぞれの段階で新たな決断が必要とされると言う時、
この解釈では、使用のそれぞれの機会はそれに先立つ意味によっては不確定であり、
実際には意味を構成するものの一局面にすぎない、
と提案していることになる。
したがって言葉の意味は、使用の総計が考慮に入れられないうちは、ある意味で未確定なのである。
この幾分か曖昧で性急な主張を、創造テーゼと名づけることにしよう。
p188-189
創造テーゼはなぜおかしいか。
創造テーゼを支持することは、
所与の時点で私が何を意味しているかが
(1)(時間的広がりを持つ)私の残りの使用を考慮しないうちは確定されず(確定的ではなく)、
(2)したがっていま私が意味することは当の言葉のその後の使用に規範的な影響を及ぼしえない、
ということを支持することである。
(...)
今後も私の言葉の使用が適切であるとするなら、
それは現在私が意味していることに一致するか忠実である必要がある、
という常識的な考えを、創造テーゼは許容しないのである。
p189-p191
(後期ルーマンの) オートポイエーシスという概念は、時々この創造テーゼのようなものと解されている。ということは、オートポイエーシス的な主張をなす人は、創造テーゼに対する批判に答えなければならない可能性がある。
可能性は3つある。
(1)創造テーゼとオートポイエーシスは違う。
(2)創造テーゼとオートポイエーシスは同じである。そしてこの批判は間違っており、創造テーゼが正しい。
(3)創造テーゼとオートポイエーシスは同じである。そしてこの批判が正しいので、創造テーゼおよびオートポイエーシスは捨てなければならない。
私は(1)をとるべきだと思う。(3)でもいいけど。その場合であっても、マッギンが意味の還元不可能性と呼んでるような仮定は維持されなければならない(これを認めないならば、今度はクリプキの懐疑主義者と対決しなければならない)。
■ クリプキ説の擁護
次の2点を認めれば、クリプキ説をマッギンの批判から守れる。
(1)「共同体」を慣習の分布・再生産に関する概念として理解する。
(2)共同体の構成員は1人でもよい。
たとえばエスカレーターに乗るとき、右側に立つ派の人と左側に立つ派の人がおり、どちらに立つべきかが異なった風に分布している。
(Wikipedia によれば、「関東、福岡及び北海道及び岡山では乗り込む際に左側に立ち右側を空け、関西及び仙台では右側に立ち左空け」らしい)
このようなルール・慣習を共有する人たちの集合を「共同体」と呼ぶ。いうまでもなく、ここでいう共同体は、特定のルールに依存した形で定まる。エスカレーターに関する共同体は、言語に関する共同体、算術に関する共同体などとは異なった風に分布している。
共同体の構成員は1人でもよい。ルールの適用は公共的にチェック可能でなければならない(原理的にチェック不可能なものはルールではない)。しかし、話者が1人しか現存しない言語があってもおかしくはないように、従う人が1人しか現存しない慣習があったとしてもおかしくはない。
↓規則の適用に関し、共同体との一致は必要でないとマッギンは言った。
それゆえ私には、「彼は足し算の規則が呑み込めたと自分では思っているが、実はまだ分かっていない」といった文を主張するわれわれの実践に対するもっともよい記述は、個人的なものであると思われる。
われわれがこの文を主張するのは、
(i)彼が足し算の規則を習得したと言い、
しかし(ii)「n + m = ?」という形の問いに答えよと言われたときに、一般にその一対の数の和を与えることができないということが示される場合――すなわち彼はほとんどの場面でその和を与え損ね、しかも足し算の習得を発揮するのに何か障害があると想定すべき特別な理由がない場合――である。
それゆえ、他人によって為された規則の自己帰属を訂正する言語ゲームは、クリプキの主張に反して、共同体を主張可能性条件に取り込むことなく、適切に記述することができる。
p258-259、強調引用者
最後のクリプキ批判は端的に間違っているのではないかと思う。
マッギンがここで「足し算」と呼んでいるものは、「十進法の足し算」のことだろう。
しかし、歴史的には、十進法以外を用いる共同体も存在したのだから、足し算能力の判定をする前に計算者が何進法で数を数えるのかを知らなければならない。
要するにマッギンは、計算者が (クワス算にも十二進法にも従わないような) 現在のアメリカ人や日本人であると勝手に仮定しているのだろう。
しかし、その際すでに「どの共同体に属する人か」は前提されているし、共同体は依然として主張可能性条件に含まれている。
ここで共同体と呼んでいるものを「歴史」と呼び変えてもよい。マッギンが多くの場所で人間の自然本性と呼んでいるものも、一生物種に関する歴史の産物である。
したがって、「歴史なくしてルールなし」というミニマムな立場を採用することで、マッギンの自然主義とクリプキの共同体説を矛盾なく両立させられるのではないか。
もはやクリプキとは全然別の説になっているという話もあるが、グッドマン的な「概念の擁護」とクリプキの共同体を重ね合わせて読むならば、こういう解釈を選んでもおかしくないと思う。
■ 買う本
長谷川裕一(著)
ソフトバンククリエイティブ、2007
買うよー。買うってばー。
■ 読んだ本
- 『歴史の分析哲学』
アーサー C.ダント(著), 河本英夫(訳)
国文社、1989
なぜか河本氏が訳してるダントー。
内容は、
- 過去の出来事を懐古的に記述すること (歴史記述) の文法
- および行為の記述
についての本だった。
これは、もっと社会学の文献などでバリバリに援用されて良いものではないか。
ダントー氏がどういうコンテクストの人なのかよく知らなかったのだが、論理実証主義への批判からはじまって、ライル、アンスコムなどを参照しつつ分析していくスタイルは「日常言語学派」的なものに近く思われた。
世評では、「歴史相対主義」の本だとされているような気がしたが、全然違わないか?という印象。
■ マイリストから
ニコニコ動画のマイリストがいっぱいになってしまった。アカウントのない人は申し訳ない。
- 電気の恋人 I am Programmer's Song ( MOSAIC.WAV )
http://www.nicovideo.jp/watch/1177340529
これはよい。アルバムほしいなあ。
- Klaus Nomi - Three Wishes
http://www.nicovideo.jp/watch/1176370319
識者に問いたい。
Pモデルタグがついており、実際Pモデル調なのだが、これって平沢がクラウス・ノミをパクってるの?
- Perfume - Chocolate DiscoDiscoDisco!!!
http://www.nicovideo.jp/watch/1174743128
無限ループ系。一回しか聴いてないけど、これはよかった。
- Chris Cunningham + Aphex Twin /Rubber Johnny
http://www.nicovideo.jp/watch/1177349225
恐いんだけど、コメントつきで見るとおもしろい。
- 『コンピューターおばあちゃん』 ライブバージョン
http://www.nicovideo.jp/watch/1175772101
コズミック・インヴェンション版。中学生バンド。
Tono(著)
朝日ソノラマ、2000
Tono(著)
朝日ソノラマ、2001
Tono(著)
朝日ソノラマ、2002
Tono(著)
朝日ソノラマ、2003
Tono(著)
朝日ソノラマ、2005
Tono(著)
朝日ソノラマ、2006
朝日ソノラマ、2007
ひさしぶりに琴線に触れるマンガを読んだ。これは本当に素晴らしかった。最終巻 (8巻) が待ち遠しい。
■ あらすじ
「呪い師か占い師かお祓い師か何か」の家に生まれたチキタは、物心つく前に人食いの化け物ラー・ラム・デラルに家族全員を食われてしまうが、「とてもまずい」という理由で自分だけが生き残る。まずい人間は100年育てるととても美味になるという伝説を信じたラー・ラム・デラルはチキタを育てることにし、2人の共同生活がはじまる。
その後いろんなキャラクターが出てきて、2人と仲良くなったり、人を殺したり、化け物を殺したり、自分が死んだり、思い出になったりする。
■ 説明
雰囲気がとても好きなのだが、それを説明するのがむずかしい。というか、私がこの雰囲気を好むだろうことは、表紙を見た瞬間にわかったので、概してこれが好きな人は表紙を見ればわかるのかもしれない (そんなことはないか)。
妙にのほほんとした化け物と、何が起こってもあまり動じない人間の交流の描き方が坂田靖子に似ている。絵柄もちょっとは似ている。チキタとラー・ラム・デラルの関係は、『百鬼夜行抄』の律と青嵐の関係に似ている。
お話は、人を食って生きるものと人の論理の交錯が主軸になっている。人食いは何百年も生きていて、すごい力を持っていて、人を食って生きる。しかし、話を聞けば、人食い側の事情も人にはわかってしまう。わかってしまうから同情できてしまうのだが、それでも人を殺して食うといういうことをどうしても認められなかったりして、「うーんうーん」といういった感じで話が進んでいく。それだけ書くとまるで『寄生獣』のようだが、やっぱり『寄生獣』でもない。だって『寄生獣』は少女マンガじゃないし。
「少女マンガ」という言い方で何も伝えられないことに無力を感じる。「少女マンガ」は少女の恋愛を描いたマンガではない。私が知っている恋愛マンガではない少女マンガのもうひとつの軸のことをなんと言えばよいのかわからない。
Wikipedia に頼ってみる。Wikipedia によれば、坂田靖子らの世代は「ポスト24年組」と呼ばれるらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/24%E5%B9%B4%E7%B5%84
「24年組→ポスト24年組」と受け継がれていったような「少女マンガにとって大切だった何か」のようなものがあるとして。ここにはそれがあり、私は「少女マンガ」という言い方になるべくならそれをこめたいと思っている。しかし「70~80年代の少女マンガ (のごく一部) が持っていた何か」を「少女マンガ」という語で暗示することには無理がある (ある世代のごく一部の人はそういうニュアンスを「少女マンガ」という語にこめていると思うけど、やっぱり無理があると思う)。たとえば、今少女マンガのコーナーに置かれている多くのマンガの中にそれがあるのかというと、きっと無いのだろうし、無いものは無いで別に悪いことではないのだから、何か別の言い方をすべきなのだろう。しかし、今のところ何も思いつかないので、その問題は置いておく。今後考えていきたい問題である。
とにかく言いたいことは次のようなことだった。
これより素晴らしいマンガ、新しいマンガはきっとある。しかし、私はこれからもずっとこのマンガのような「怪奇幻想系の、ちょっとトウのたった少女マンガ」を愛好しつづけるのだろうと思った。
ところで、本屋に置いてあるのを見たことがないので、実物を見たことがないのだが、TONO、ますむらひろし、高橋葉介、今市子、諸星大二郎などが連載しているらしい「ネムキ」というのは素晴らしい雑誌だな。私はこの雑誌をきちんと読んだり、定期購読したりすべきではないか。
- 『言語行為の現象学』
野家啓一(著)
勁草書房、1993
おもしろい箇所はおもしろかったのだが、気になる個所も多数あった。たとえば「メタ言語は不可能である」みたいなことを言うときに、個別言語の話と言語一般の話が分けられていなかったりするのはだいぶまずいと思った。不可能に見えるのは、「言語一般のメタ言語」を考えるからであって、「英語」や「日本語」をメタ言語によって考察するのは (日本語を使って英語の文法を調べるとかは) 困難ではない。もしかするとそれさえも不可能だと言いたいのかもしれないが、それがきちんと示されているようには見えなかった。
あと、「話題領域」という語が不思議な使い方をされていて、しかもちょっとおもしろそうだったので参照されていた論文にあたってみた。
- 守屋唱進「「指示」論の一視覚」
哲学誌(東京都立大学哲学会), vol.20, 1977
「語用論的話題領域」というのが出てきた。
↓この本が参照されている。
Ruth M. Kempson "Presupposition and delimitaiton of semantics"
http://www.amazon.com/Presupposition-Delimitation-Semantics-Ruth-Kempson/dp/0521099382/
うーん、しかも "domain of discourse" じゃなくて、"universe of discourse" なんだな。ふーん。
「語用論的前提」というのと関係あるのかな。
Wikipedia のまとめが詳しかったので貼っておく。
飯野勝己(著)
勁草書房、2007
良い本だった。
「一発話主義のドグマ」や「言語行為は言語的linguisticでない」などの主張は、説得力では到底およばないとは言え、自分でも近いことまでは考えていたので、「おれも! それ、おれも考えてた!! 頭のなかからアイデアをぱくられた!」と思った(後半は嘘)。安心すると同時に先に言われてくやしい感じ。しかし後者の主張については、そこまでわかっているなら"speech act"を「言語行為」と訳すのはやめようと言いたくもある。
総じて語用論、コミュニケーション論の成熟を感じられる一冊だった。とにもかくにも成熟ゆえに、これまでの立脚点を批判しつつ、その基礎の上で豊かな分析を残せるようになってきたのかなあと思う。
2007/06/09訂正:
http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html
↓これは間違いでした。申し訳ないです。↑訂正記事
論理学のことを書くと、後で、よく知らないのに適当なことを書いてしまった...orz と後悔しがちである(独学者の憂鬱)。
しかし、今回はあってたらしいことがわかった。
以前三上真司著『もの・言葉・思考』について、同一性記号についてヘンなことを言ってるのではないか、と書いた。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/1_7.html
この著者はウィトゲンシュタイン (『論理哲学論考』) の「それぞれの個体に対し別々の名前を割り当てれば同一性記号はいらねえじゃん」という方針を採用していた。しかし、1個体につき1つの名前だけを割り当てたとしても、量化子が絡むとやっぱり同一性記号は必要になる (が、著者はそのことがわかってない) みたいなことを書いた。
私は『論考』を読んでないので、なんでウィトゲンシュタインが上のようなことを言ったのか謎だったのだが、今日わかった。『論考』は依然として読んでいないのだが、野本和幸『現代の論理的意味論』を読んでいたらきちんと解説されていた。
ウィトゲンシュタインは量化子を体系から排除したんだな (そしてそれが『論考』の欠陥の一つでもあったと)。それがあったから名前の処理だけで同一性記号をなくすことができた。一方、三上氏は量化子を導入しつつそれと同じことをやろうとしていたので、話がヘンなことになったと。量化子を導入しつつ同じことをやろうとすれば、体系をもっとたくさんいじらなければならなかったはずだ。
少しだけひっかかってたことが解決したのですっきりした。
方波見大志(著)
ポプラ社、2006
■ あらすじ
今風の小学生たちが「時間を3分26秒削除し、起こったことをなかったことにできる機械」を得る。過去の事件がきっかけで主人公の友人は歩けなくなり、主人公の兄は引きこもりになったのだが、その事件の謎がだんだん解明される。でも過去の事件を削除したりいろんなことをするのでなんだかよくわからないことになる。
■ 感想
構成とかオチ以外はおもしろいいんじゃないか。子供が主人公の話が好きなので、小学校の描写などは楽しめた。仲間外れの女の子と仲良くなるところなどは結構好きだ。さわやかな話だった。
問題は、時間を削除するっていうアイデアがあんまり煮詰められてないことだろう。
以下はアマゾンのレビューにあった指摘。
1 少女が缶ジュースを捨てた際、
中身が近くにいた高校生にかかってしまいました。
少女は高校生に絡まれ、絡まれているところを少年に助けられます。
缶を捨てたことをなかったことにできれば、
少年に助けられることはありません。
2 ある時間から5分間、1秒にきっかり一つづつ1から300まで数字を書いていきます。
ある時間から3分間の出来事をなかったことにできれば、
数字は181から300しか書かれていません。
要するに、読んでいても「過去の一部だけを削除する」のか、それとも「その出来事の結果すべてを削除する」のか、どっちなのかはっきりしない。それどころか、作者がその点をあんまりきちんと考えず、ごまかしたままになっているのだな、ということがわかってしまう。その辺の曖昧さが最後まで残り、ぐだぐだになって終わってしまった感があった。
大体「時間を削除する」っていうアイデアが中心の話なので、読者としてはどうしても、「『時間を削除する/人生をリセットする』とはどういうことなのか」というところにストーリーが焦点化していくのを期待するじゃないか。でもそうなってない。「本当になかったことにしていいのか?」というのが多少はほのめかされるけど、それだけで終わっちゃう。オチにも結びついてないし、最後まですっきりしないで終わってしまう。未消化な感じがするのはそれが原因だと思われる。
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
一個前
http://www.at-akada.org/blog/2007/05/post_194.html
二個前
http://www.at-akada.org/blog/2007/05/post_188.html
二転三転して悪いけど、オースティンの慣習convention概念について。
先生あのね。
「慣習的手続き」っていうのは、自分が「何をやっているか」を明確化(顕在化)するための技法のことだよ。「構成的規則」っていうのは、行為の可能性条件であり、「有効な行為」と「無効な行為」を分けるルールのことだよ。これはね、ウィトゲンシュタインが論理文法と呼んでるものと大体一緒だよ。
ぼくはね、オースティンの慣習概念が慣習的手続きの方にだけかかわると思ってたんだけど、結局構成的規則の意味でも使われているという結論が出たよ。
だって以下の部分はそうとしか読めないんだもん。
陳述statementの慣習について
さて、AとBの種類の不適切性は、警告、保証などというような種類の行為を空虚で無効なものとするものであったが、陳述はこの種の不適切性に関してはいかなることになるのであろうか。すなわち、陳述の外見を呈するものが、一般に契約などについて言われているのとまったく同様に空虚で無効なものとなり得るであろうか。これに対する答えは、重要な点で肯定的であるように思われる。最初の事例はA・1とA・2である。すなわち、慣習すなわち一般に受け入れられた慣習が一切存在しない場合、または、与えられた状況が発言者による当該慣習の発動に対して不適当である場合である。まさにこの型の不適切性の多くが陳述を待ち受けているのである。
p229
陳述には慣習がある【から】、陳述は不適切になることもある、と言われているよ。
つまり、不適切に成りうる行為はなんでも慣習的だって言ってるのと一緒だよ。
一方、不適切な陳述の例としてあがっているのは次のようなものだよ。
たとえば、隣りの部屋に何人の人がいるかということを、今ここで陳述することはできない。もし、あえて「隣りの部屋には五十人の人がいる」と言う人がいるとすれば、私は、その人が当て推量をしているとか推測しているとか考えざるを得ない。(これはちょうど、あなたが私に命令しているのではなく、というよりむしろそれが命令であるとはまったく考えることができず、ただおそらく相当に無作法な仕方で私に頼んでいるのであろうと推量せざるを得ないことがときたまあるように、この場合、かなり奇妙な仕方で、「一か八かの当て推量をしている」のである。)
p231、強調はオースティン
要するに、「知るはずのないことについては陳述できない」、「推測」になっちゃうからだよっていうことだね。
あと、このすぐ後では、何が陳述であるかを決定するには、「発話の場面を全体として考慮に入れることが重要である」と言われているよ。これが意味するところは、「個別的な事情」と「慣習」が矛盾するとは考えられていないということだね。
この引用箇所で、「陳述」を陳述らしく見せる技法が問題になっているのでないことは明らかだね。ここでは「慣習」は、「(発語内)行為を有効/無効に振り分けるもの」として扱われているよ。言うなればこれは要するに「陳述の構成的規則」である、というのと同じことだよ。
事態がこのようになっているとすると、ストローソンのようなタイプの批判は誤読に基づくものだってことだね。やーいやーい。
しかし、「『約束する』と発話することで約束を遂行できるのはなぜか。→慣習があるから」というときの「慣習」、つまり「手続き的な慣習」と、上のような「慣習」はどういう関係にあるのかな。
うーん、結局「できる/できない」をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかの違いしかないのかなあ。そういう気がしてきた。
- 『重力が衰えるとき』
ジョージ・アレック エフィンジャー(著), 浅倉久志(訳)
ハヤカワSF(早川書房)、1989
おもしろかったが、ちょっと不完全燃焼な感じ。人格改変がもっとバリバリでてくるもんだと想像していたが、それほどではないし。
あと、ラストがひどい。続編があるらしいのだが、未邦訳のようだ。
- 『永遠の終り』
アイザック・アシモフ(著), 深町眞理子(訳)
ハヤカワSF(早川書房)、1977
世の中にはミステリを読めないという人がいる。私はそこそこ読むのだが、読めないという人の気持ちはわからないでもない。
私も物理トリックにはあまり興味がなく、昔は「ミステリというのは物理トリックばっかりなのだろう」という偏見を持っていたのであまり興味がなかった。「開いたドアにつかまって移動したので足跡が残らなかった」とか言われても、「だから何?」としか思わないので。
今ミステリを読んでおもしろいと感じるのは、心理トリックと叙述トリックだ。
例えばこの小説の場合だと、ヒロインは何も知らないふつうの人 (時間人) で、「永遠人」の主人公がそのヒロインに恋をして、連れ出したり、守ろうとしたりする。要するに無知でか弱いヒロインを守るヒロイックな話になっていて、ヒロインは「何もわかってない現地人」みたいな描かれ方であまり魅力的ではないのだが、最後の数ページでそれが逆転する。すべてを知っていたのはヒロインの方で、主人公はだまされていたのだ。
こういう「最後の瞬間に、それまで見えていた事態が一変する」という瞬間の快楽が好きだ。私にミステリを読み続ける理由があるとすれば、「最後の瞬間の変転」に対する嗜好がその大部分を占めていると思われる。
ちなみに、なぜかミステリの話になったが、普通に考えるとこの小説は「ミステリ的な技法を使ったSF」であり、つまり端的に言うとSFなので、その点は注意されたい。ついでに述べておくと、私にとってSFの魅力は「でかい話」にある。アシモフの小説はたいていそうだけど、この小説はSF的な「でかい話」とミステリ的な変転の両方をバランスよく備えているので好きだ。
- 『順列都市〈上〉』
- 『順列都市〈下〉』
グレッグ・イーガン(著), Greg Egan(原著), 山岸真(訳)
早川書房、1999
読んだ。おもしろかった。
最近速読の練習をしている。少しだけ早くなった。字を目で順順に追っていくのをやめて、頭の中で文を順番通りに再構成するのがコツだと思う。今は、同時に三行読んで、文章を頭の中で再構成する練習などをしている。さらにうまくなってくると、すべてのページをランダムに読むだけで内容を理解できるようになるかもしれない。...と考えると、塵理論っぽくないだろうか。
そして、さらに速読がうまくなると、本がなくても内容が理解できるようになり、最後には本を見て、「これはいったいなんだろう」と言ったりする。...これが「名人伝」。
■あらすじ
塵理論とは何か。理解できる範囲で書き記してみる。
塵理論とは、一言で言うと、自己意識を持ったソフトウェアにはハードウェアなど必要ないという理論だ。
この小説には、ソフトウェア上にシミュレートされた人格であるところの<コピー>と呼ばれる人たちが出てくる。
<コピー>のひとり (正確に言うと違うのだが) はある時次のことに気づく。<コピー>たる自分の意識は、コンピューターによって表現されたパターンの順列と組み合わせにすぎない。それを表現する端末は東京とニューヨークくらい離れててもまったく影響がないし、1年停止したあとに再び<コピー>を再生しても、<コピー>自身の意識は完全に連続している。
であるならば、<コピー>の意識を再生するハードウェアは本当に必要なのか。時間も空間も関係なく、特定のパターンが表現されればよいだけならば、それはすでに宇宙のどこかで実現していると言えるのではないか。ある日の古本屋の本棚に並んだ本の列が<コピー>の意識の正確な表現になっているかもしれないし、空気分子の配列がそれを実現しているかもしれない。宇宙に散らばった無数の塵がハードウェアとなって、<コピー>の永遠の存在を許すのだ。
従って、はじめの数秒間だけ<コピー>と<コピー>の都市 (順列都市) をハードウェア上に再生すれば、ハードウェアを停止した後も永遠に続く<コピー>だけの宇宙が誕生する。
ポイントは、「自己意識を持った」ソフトウェアというところだろうか。この理屈でいくなら、塵理論的な Mozilla Firefox とか、塵理論的な Photoshop は存在するし、まだつくられていない IE8.0 さえも塵理論的にはすでに実現している。ただしインターフェイスに相当するものがないから誰もそれを使えないというだけのことで。一方「自己意識を持ったソフトウェア」なら、そもそも現実と相互作用しないという選択肢を選ぶこともありえるから、完全に塵理論化しちゃってもいいよねという話だと思う。
■[いつか読む]
イーガン自身による塵理論の FAQ
http://gregegan.customer.netspace.net.au/PERMUTATION/FAQ/FAQ.html
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
最近しばらく検討していたのだが、やっぱりどう考えても以下のすべての論点を合わせると矛盾する。
- A. 慣習とは、定型的な文(や動作)と行為を結びつけるもののことだ。(慣習は文から行為への関数である)
- B. すべての発語内行為は慣習によって支えられる。
- C. すべての発話は発語内行為を含む。
なぜならば、明らかに慣習的でない方法で発語内行為を行うこともできるから(ストローソンのオースティン批判がこういう趣旨だった)。ふつうじゃない方法で「約束」を行うというのも、それはそれでよくあること。
「慣習的なもののみを発語内行為と呼ぶ」という可能性も検討したが、Cははっきり書いてあるので無理だった。
あと、Aの解釈が間違っていて、「慣習」という語はもっと広い意味で使われているという可能性もまだ拭いきれないのだが、現時点ではそれはほぼないんじゃないかと思っている。
また、「非慣習的な発話はいつでも慣習的な発話に置き換えることができる(から、結局発語内行為はすべて慣習によって支えられる)」という解釈の可能性はあるが、これはあまり擁護できそうにない。「いつでも」置き換えられるとはかぎらないし。
なんとか好意的に読もうとしているのだが、どうもむずかしい。
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
ちょっと前に、オースティンの「慣習Convention」がルーマンの「構造」にあたる概念だと書いた。
http://www.at-akada.org/blog/2007/04/post_182.html#comment-335
これは不正確だったので、一部訂正します。
オースティンが慣習と呼んでいるのは、「特定の文のタイプや動作を、行為に結びつけるもの」のことであった。
- 「謝罪します」と言うと謝罪になるのに、「侮辱する」と言っても侮辱したことにはならないのはなぜか?
- 挨拶のときに帽子をとるのはなぜか?
-> 答え: 慣習のため。
つまり、特定の文のタイプや動作が行為と結びつくのは、歴史的偶然の結果である、という事態を説明するためにこの語は使われているらしい(第六講の「進化論的」(?)議論を参照せよ)。
ルーマン風に言うならば、慣習とは「作動をシステムに帰属させるもの」だ。だからむしろルーマンの言う「二元コード」と比較するのがよいかもしれない(ただしコードは「構造」の下位概念なので、構造に含まれるものではあるのだが)。
「構造」と直接比較可能なのは、「規則」とか「必要条件」と呼ばれているものの方だった。サールが後に「構成規則」と名付けたのはこっち(ちなみにサールはジョン・ロールズからこの概念を借りてきたらしい)。
西村清和(著)
勁草書房、1993
本書は、「なぜ悲劇を楽しめるのか」「なぜ殺人を美しいものとして享受できるのか」「なぜ悪漢が魅力的に描かれうるのか」などの問いをたてている。しかし、ほとんどの章では、問いを「劇作家がどうやって悪漢を魅力的に描いたか」という対象領域の問題にずらした上で、特定の作品の記述を行っている。
これはなかなかおもしろいんじゃないか。確かに、それらの問いは、まず「劇をつくる人」にとってこそ問題だったはずで、それを哲学的・理論的に解決しても仕方がない。というような意味で、この方針は賛同できるものだった。
G. フレーゲ(著), 坂本百大(編), 土屋俊(訳)
勁草書房、1986
ものすごいスピードで目を通したのであまり内容は理解していない。
- モーリッツ・シュリック「事実的ア・プリオリは存在するか」
がおもしろかった。
表面的には現象学批判。趣旨は、「現象学者がア・プリオリで総合的な真理と呼んでるものは、その実、分析的真理であり、トートロジーだ」。
しかし、読みようによっては、現象学は (使ってる用語がおかしいだけで) 論理文法の分析をしている、という定式化を行っているように見えなくもない。今読むとむしろ「現象学と分析哲学は共通の問題を扱っている」という主張として読めるのではないか。
通読しての感想。
近年では、ろくに検討もされず、「論理実証主義は間違っていた」と言われることが多いわけだが、本当に間違っていたかどうかは怪しいと思う。論理実証主義者というのは、「こういうことができるはずだ。やろう」というプログラムを掲げていただけなので、その「間違い」を示すのは大変むずかしい。なにしろ間違っていたと言えるためには、そのプログラムが「如何なるバージョンにおいても不可能だ」と言えなければならないわけだが、そんなことを示すのはそれこそ困難なのではないか。
むしろ論理実証主義者の試み自体は、弱いバージョンに置き換えればまったく問題のないものであると思う。つまり、数学者が今でも行っているような「公理(スタート地点)をいろいろ取り替えてみることで、体系が整合的かどうかチェックする」というくらいの作業をするのだと考えれば、現在でも存在意義は十分に確保できるのではないか (ただし、それはもう「論理実証主義」とは呼ばれないかもしれないが)。
論理実証主義者にとって必要だったのは、「諸科学のためにがんばります」というサービス精神とうまいプレゼンだったのではないか。そして致命的だったのは、偉そうだったことと、ごく一部の科学しか目に入っていなかったことだったのではないか。
- 『意味と目的の世界』
ルース・ギャレット・ミリカン(著), 信原幸弘(訳)
勁草書房、2007
まだあまり読んでいないのだが、本書はルーマニアンの人にお勧めできるものだと思う。彼女は、「(言語まで含めた)慣習を、進化論的に捉えてみましょう」という議論を展開しており、これは「構造を進化論的に捉えましょう」というルーマンの立論とも重なり (つつ異なる) 点が多い。
一方で、人間の意味的慣習までをも動物の慣習的行動の延長上に捉えてしまうこの議論を、自分のなかでどう位置づけてよいのかよくわからないでいる。だからこそなおさら、社会学の人々がこれをどう読むのかが知りたい。
信原幸弘(編)
勁草書房、2004
信原幸弘(編)
勁草書房、2004
上の本の「バイオセマンティクス」および、下の本の解説論文が入門としてよろしいらしい (が、私はどちらも読んでいない)。
関係ないが、このシリーズは一巻が「人間篇」で人間をテーマにした論文が載っている。二巻は「ロボット篇」でロボットをテーマにした論文が載っている。三巻は「翻訳篇」なので、当然の類推として、「翻訳をテーマにした論文が載っているのだろう」と私は思っていた。しかし、実は「翻訳論文を載せる巻」であったことが今日明らかになった。
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
合評会の参加予定者が少数精鋭すぎて不安です。
↓大黒本「物を直接観察できない説」を述べている箇所を抜粋した。
われわれが何かを「知覚」(wahrnehmen) するとき、われわれはその"何か"を、その"何か"「以上、以外の或るもの」(etwas Mehr, etwas Anderes) として認知している。例えば、目の前にある「コップ」を「知覚」する場合「円筒形のガラスで出来た物体」を「コップ」として「知覚」するのであり、「リンゴ」の場合には「球形をした赤と黄色の斑模様の物体」を「リンゴ」として知覚している。つまり、一般的に「知覚」においては「質料的な物理的形象」*が「意味」として把捉されるという二重化的統一の構造が成立している。p170
* いうまでもなく厳密にはこの「質料的な物理的形象」自体が「意味」をすでに伴っており、裸の「質料的な物理的形象」なるものは原理的に存在し得ない。
「コミュニケーション」はその持続的接続が (システム存続のために) 至上命題であると同時に、必ず <何ものかについての> 「コミュニケーション」たらざるを得ない。つまりコミュニケーションはいわば「志向性」(Intentionalitat) を持つのであり、この志向性によって「対象」と関与し得る。しかしながら、その「対象」は飽くまで "内在的"「対象」であり、システムがそれとは独立に存在する超越的な「対象」と直接な交渉や関係を持つわけではない。
この志向的関係をルーマンは「観察」と呼ぶ。p238-
一般的にいって、純粋な単なる「第一次観察」などというものは原理的に存在し得ない。それはマッハやベルグソン、西田幾多郎やジェームズなどが謂うところの「要素」「イマージュ」「純粋経験」といった、体験の中に意識が埋没・没頭してしまっている主・客未分、凡が一如の状態であるが、こうした事態にあっては、そもそも「観察」が「観察」として、「体験」が「体験」として反省されない。「観察」が「観察」として、「体験」が「体験」として反省された時点で、われわれはすでに「第一次観察」や「純粋経験」の水準を超え出、「反省」という名の「第二次観察」に移行してしまっている。つまり、そもそも「第一次観察」という概念事態が矛盾概念なのである。p378
1番目の引用箇所について。
見ることを「意味」と「意味以前」に分けたいらしい。
しかし『いうまでもなく厳密にはこの「質料的な物理的形象」自体が「意味」をすでに伴っており、裸の「質料的な物理的形象」なるものは原理的に存在し得ない。』とも言っている。
じゃあ2つに分けるなよ、と思う。
2番目の引用箇所について。
「観察」などと言われると、どうしても認知的な話をしているように考えてしまう。当然だけど。
しかし、ルーマン語の「観察」は、対象に対するかかわり一般を指す語なのだと思う (ルーマンの用語選択のセンスは根本的にダメだ、と私は思う)。
たとえば、ルーマンは「買うこと」を観察に含めていた。
依然として『近代の観察』が部屋の中から見つからないわけだが、たとえば『社会の芸術』邦訳p102にそういう話が出てくる。
しかしながら、その「対象」は飽くまで "内在的"「対象」であり、システムがそれとは独立に存在する超越的な「対象」と直接な交渉や関係を持つわけではない。
どういう意味なのか。
「物そのものを直接に見ることはできない」というのは (わたしはあまり認めたくないが)、まだ理解可能なテーゼのように思える。しかし、「物そのものを直接に買うことはできない」っていうのは何のことだかわからない (「チケットを直接買うのではなく、ダフ屋から買う」とかだったらわかるがそういう話ではないだろう)。
「何が売り買いの対象になるのかも、経済のなかで決まっていくことだよね」というくらいの話なら、理解できるし、「そうかもしれない」と思う。しかし、そんなことを「超越的な対象を直接買うことはできない」などという言い方で言うだろうか。
3番目の引用箇所について。
ここは完全にわけがわからない。
第一次観察というのが、主客未分になることであれば、「そんなことは不可能だ」というのはそりゃそうだろう。しかし、物を見るということはそもそも主客未分になることではない。
「私がベニテングダケを見る」。このとき、たぶん私は「私がベニテングダケを見ている」ということを知っている。だから、「見ることとと見ることを反省することはつねにセットで生じているよね」、というくらいの話なら理解できる。しかし、見ることと反省することが同時に生じるという無難な発想から、「見ることなんて存在しない」「反省することしか存在しない」に跳ぶのは飛躍が大きすぎる。
どうしてもこういうトリビアルな指摘しかできないな。
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
読むには読んだものの、何を言えばよいのかよくわからない。
とりあえず、しょうもないことを書く。
著者は、身体は (ルーマンの言う)「意味」じゃないけど、(ルーマンの言う)「メディア」だよと言っている。ルーマンは言語的な意味観にとらわれているので、そのことに気がつかなかったのだそうだ。
しかし、ルーマンのメディア概念は、意味概念の下位概念にあたるものであるはずだ。
「意味」と呼ばれるのは、諸可能性からの選択というかたちになっているもの一般のことだ。そのなかでも、限定された諸可能性からの選択になっているものをルーマンは「メディアと形式」と呼ぶ。「言語」(メディア)とそこから選択されてできた「文」(形式)などがこれにあたる。
だから、「意味じゃないけどメディアだ」というのは、「動物じゃないけどメメクラゲだ」みたいなテーゼであり、なぜそんなことが言えるのかがよくわからない。
本当は、「観察」概念の話をしたいのだが、『近代の観察』が見つからないので困っている。
ソール・A.クリプキ(著), 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)
産業図書、1985
■ 感想
いまさら読んだ。
思ったより、形而上学と距離をとっていたのが新鮮であった。
■ アプリオリと必然的
「アプリオリ」というのは、「調べなくてもわかる」という意味だそうだ。
「必然的」というのは、「そうでないことが想像できない」という意味だそうだ。
たとえば、「切り裂きジャックは殺人者だ」というのは、調べなくてもわかるのでアプリオリ(切り裂きジャックはある殺人事件の犯人に与えられた名前だから、殺人者であることは調べなくてもわかる)。一方、切り裂きジャックが、そもそも殺人犯にならなかった可能性を想像することはできるので、これは必然的ではない (偶然だ)。
他方、物理学を知った上で「熱が分子運動ではない」という可能性を想像するのはむずかしい。だからこれは必然的だ。でもこれは調べてわかったことだからアプリオリではない (アポステリオリだ)。
...この点について何かを考えていたのだが忘れてしまった。
■ 忘却
そういえば、「naming」の2つの意味、「名指し」と「名付け」がダジャレになってる箇所があるって、戸田山和久が言ってたけど、探すのを忘れていた。あと、最初読んだとき、有名な名前の受け渡しの箇所を読み飛ばしていたので、「あれ? 指示の因果説がない??」と思った。
■ 素質
自分的メモ。
「固定的」は素質語ではないか。つまり、「可燃性」が、「適切な条件のもとで火を近づけたとき、火がつく」という意味であるように、これは「適切な条件のもとで反事実的状況においたとき、以前と同じ対象を指示する」という意味ではないか。
そっち方面で考えていくと、話がどう変わるのか (変わらないのか)。
■あらすじ
(文体はイメージです)
こんにちはこんにちは!!
ぼくクリプキちゃん!
- [直接指示]
名前は、記述や記述の群に置き換えられるって説があるよね!
「アリストテレス」を、「古代最後の偉大な哲学者」に置き換えるってやつ…!
こうですか!
「アリストテレスは犬が好きだ」 ->「古代最後の偉大な哲学者は犬が好きだ」 ->「なんであれ、古代最後の偉大な哲学者であるものならば犬が好きだ」 ->「∀x(Px→Qx)」
つまり、名前は記述の圧縮表現だってことだね…!
でも反事実的状況の場合もこれでいいのかな?
将来「アリストテレスは存在したが哲学者ではなかった」ってわかるかもしれないよね…
この場合、「古代最後の哲学者」は他にいるわけだけど、
その人が犬好きだったら「アリストテレスは犬が好きだ」は、
真だってことになるの><
ほかにも「アリストテレスが哲学者でなかったならば...」って考えることはよくあるよね。
この場合だって、話の対象となっているのは「アリストテレス」じゃないかな…!
名前は「記述や諸々の性質を圧縮したもの」ではないんだってぼくは思うよ。
名前は対象を直接に指示するんじゃないかな!
こんな風に記述の媒介無しに対象を指示する語を
固定指示子と呼ぶことにする。
通常の固有名はすべて固定指示子だね…。
生物種や鉱物などの自然種や「熱」や「1メートル」も固定指示子なんじゃないかな!
- [指示の受け渡し]
じゃあいったい名前は対象をどうやって指示するのかな!
「名前の伝達の連鎖」によって対象を指示するんだってぼくは思うよ。
名前って誰か他の人から聞くものだよね。
その前の人も誰か他の人から聞くし、
そうやってたどっていけばそのうち本人のところに届くはずだよね…!
この連鎖のおかげで人物を指示できるっていうのはどうかな…!
でもこれはあんまりじしんないです…
まちがってたらいやだから、
ちゃんとした理論にはしません><
よりよい見取り図を提示してみただけだよ。
- [同一性の必然性]
同一性を、「2つの名前が同じ対象を指示する」ことだって考えるのが流行ってるね!
でも、これとは別の同一性について考えてみちゃいました…!
名前と名前じゃなくて、対象と対象の同一性について考えるよ。
あるものと同一なものは、それ自身だよね!
自分と同一なものは、必然的に同一だよ。
だから、明けの明星が宵の明星と同一であるのは必然的…!
熱が分子運動であるのも必然的…!
- [必然性とアプリオリ性]
「熱と分子運動が必然的に同一だ」っておかしいですか><
確かにこれは昔は知られていないことだったし、
同一じゃない可能性もあったはずだよね…
でも「アプリオリなもの」と「必然的なもの」は別だって考えればいいんじゃないかな、きっと!
熱が分子運動であるのは、調べないとわからないこと(アポステリオリなこと)だけど、
一度わかってしまうと必然的になるよ…!
「熱が分子運動だということは最近わかった(そうではない可能性もあった)」っていうのは、
「熱が、今僕らが知ってる熱とは別のものであった可能性もあった」ってことだよね!!
- 山田友幸「意味と文脈依存性」
野本和幸(編), 山田友幸(編)
世界思想社、2002
指標的表現は、指標的表現を持たない言語に翻訳できないということが書いてある。
p143-
(7) 私は山田友幸と申します。北大で哲学を教えています。
(10) 山田友幸は山田友幸という名である。山田友幸は北大で哲学を教えている。
(…)
さて、山田が先の(7)を発話した場合と比較してみよう。「私」が発話者当人を指す表現である以上、たまたま山田が発話者である場合には、「私」は山田を指す。そうである以上、(7)と(10)は、同じ人物についての発言になるはずである。では、山田が(10)を発話した場合、彼は自己紹介をしたことになるであろうか。
(…)
(10)だけでは、通常の自己紹介が果たす役割が果たされないであろうことも明らかなように思われる。(10)だけでは、「山田友幸」と呼ばれている人物が目の前の発話者当人にほかならないことが聞き手に対して示されないからである。
p146
自己紹介が与えるのは、相手の側の「この人は誰か」という疑問への答えであり、小説に登場する記憶喪失者が思い出せずにいるのは、「私は誰か」という疑問への答えである。これらの疑問に対する答えは、弱い意味でのみ文脈依存的な言語で表現可能なすべての知識を記載した百科事典があったとしても、その中には書かれることがない。なぜならそれは、より強い意味で文脈依存的な言語でなければ表現できない情報だからである。
これは社会学にとっても重要な話ではないか。もう少しこれを展開した内容が読みたいのだが、どっかにないかしら。
クワイン
W.V.O. クワイン(著), Willard Van Orman Quine(原著), 飯田隆(訳)
勁草書房、1992
読むには読んだが、むずかしすぎてほとんど解説できない。
教科書的には、本書所収の「経験主義の2つのドグマ」で、クワインは論理実証主義にとどめを刺したということになっている。しかし2つのドグマを読んでも、なぜこれで実証主義が破綻するのかはよくわからない。
一方、『哲学の歴史 11 20世紀 2 (11)』所収の飯田隆論文によれば、クワインの批判によって概念分析という哲学の試み (少なくとも、経験科学と無関係な概念分析が可能であるというタイプの立場) も破綻するのだそうだ。こっちはわからないでもない。というかそもそも「経験的でない概念分析が可能だ」という態度の方が私にはよくわからない。
2つのドグマとは、
- 「分析的な、つまり事実から独立した意味に基づく真理と、綜合的な、つまり事実に基づく真理との間には根本的な断絶がある」
- 「有意味な文は、直接的な経験を表す語同士を論理的につなげたものと同値である(=還元主義)」
という2つの信念のこと。
「経験主義の2つのドグマ」の目的は、この2つがうさんくさい信念であるのを示すこと。
■内容
内容は、だいたいこんな感じの構成になっていると思われる。
- 分析性は同義性に依存する。
「独身の人は結婚していない」が分析的であるのは、「独身」と「結婚していない」が同じ意味だからだよ。
- しかし同義性というのは何だかよくわからないよ。
- 分析的というのは、意味規則によって真になるということだ。(という説もある)
- しかし、何が意味規則であるかは、「何を公理としてとるか」と同じで、そのつどの試みによって変わるものだ。
- 同義性を還元主義によって説明しようとする説もある。
しかし還元主義もやっぱり怪しい。
単体で検証可能な文などというものはない。
そこでホーリズムですよ。
■感想
解説をいろいろ読んでいたら余計にわからなくなってきたが、読んだときは、「意味論的規則はそのつどの試みに相対的」という部分が重要なのかと思った。
何を公理とするかと同じ、ということは「本によって違う」「何がしたいかによっても違う」ということだ。しかし意味論的規則の例があまりあがっていないのであまり詳しくはわからなかった。
クワインはモデル論的な意味論をかなり慎重に遠ざけている。この辺りの批判は現在ほとんど受け継がれていないように見える。むしろモデル論が標準的な方法として大手を振ってまかり通っているように見える。モデル論の妥当性を問題にした議論には、クワイン以後どのようなものがあるのだろう。
■思いつき
存在するとは、変項の値となるということである。
※イケメンに限る
参考:
■気づき
「ジョン・マクタガート」と「ジョン・マクダウェル」を混同していた。
今後気をつけたい。
「時間が無い」と言ったのはマクタガート。ラッセルを大学から追放したのもマクタガート。
マクダウェルはウィトゲンシュタイにゃん。まだ生きてる。
■表示と指示
表示denoteと指示referのちがい。by戸田山和久
ここで注意しなければならないのは、表示という関係は、指示という関係とはまったく異なる特別な関係であるということだ。指示は、言語表現と項との間の関係だ。言語と世界の関係と言ってもよい。これに対して、表示は表示概念という項とモノという項のあいだの関係である。つまり、世界のなかにある存在者同士の関係だ。
p214
へー。
■タイプとオーダー
「ラッセル」の項目を読んでいてふと思った。
ルーマンの「セカンド・オーダーの観察」って、「オーダー」じゃなくて「タイプ」の上昇ではないだろうか。
知ってる人は知ってるように「セカンド・オーダーの観察」とは「観察の観察」のことだ。
観察が二項述語だとすると、
(二項述語だと思うが)
観察はクラスだということになる。
ということは、観察の観察はクラスのクラス(集合の集合)だ。
これはオーダーではなく、タイプの上昇だ。
タイプの上昇とは、「何を基本的な存在者とするか」が変わることだ。タイプが1つあがると、それまで個体だったものだけでなく、個体の集合や、個体の関係の集合を個体として扱えるようになる。
要するに、何を有意味な「単位」として認めるかについて、タイプが上昇すればするほど基準がゆるくなる。これはルーマンのしている話ともそう遠くないと思われる。
では、オーダーの上昇とは何か。
基本的には、述語を集めて新しい述語をつくることだ。
一番よくあるケースで言えば、述語を量化することだ。
たとえば「セカンド・オーダーの述語論理」とは、述語の量化を許す論理のことだ。「イルカは、クジラがもっているすべての性質をもつ」とか「クジラは、イルカが持っている少なくともひとつの性質をもつ」といった文は、セカンド・オーダーの述語論理でなければつくれない。
これはタイプの上昇とはまったく違う。基本的存在者として「イルカ」しか認めなかったとしても、「イルカはイルカのもつ属性のうちの少なくともひとつをもつ」という文をつくることができる。
「観察」ということで言えば、種々の観察を集めて、新しい述語をつくることが「セカンド・オーダーの観察」だという話になってしまう。
これはルーマンのしている話とは全然関係ない。
だから、「セカンド・オーダーの観察」よりは、「タイプがひとつ上の観察」の方がよりよいのではないかと思った。
日本語文法の基礎くらいは学んでおきたいなと思っている。
- 『日本語の文法』
高橋太郎(著)
ひつじ書房、2005
よさげ。
庵功雄(著)
スリーエーネットワーク、2001
初学者にはいいかも。
庵功雄(著), 松岡弘(著), 中西久実子(著), 山田敏弘(著), 高梨信乃(著)
スリーエーネットワーク、2000
中上級もある。いいかもしれない。
久島茂(著)
くろしお出版、2001
おもしろそうなのだが、どうか。
オースティン
J.L.オースティン(著), 丹治信春(訳), 守屋唱進(訳)
■あらすじ
エイヤーの『経験的知識の基礎』などを批判することで、認知主義にケチをつけようと思う。
- 「物質的なものを知覚する」という言い方はおかしい。
知覚されるものが物質だけだって誰が決めた? われわれが知覚するものには、「人間、人間の声、川、山、炎、虹、影、映画のスクリーンの上の像、本の中や壁の上の絵、湯気、ガス」などがあるわけだが、これらのうちのどれが物質でどれが物質でないのかちゃんと考えたことがあるのか。
- 「物質を直接的に知覚することはできない」というのは嘘だ。
「間接的に知覚する」ってどういう意味よ? 「間接的に知覚する」というのは「望遠鏡で見る」「色眼鏡で見る」「カーテンに映った影を見る」「鏡に映った像をみる」などといった場合に使われる表現だが、あいにくこれらのケースはそれぞれだいぶちがう。「直接的に知覚できない」っていうのは、この内のどれを想定しているのか。
あと「間接的に臭いを嗅ぐ」ってどういう意味だか言えるもんなら言ってみろ。
- 「センスデータ」とか「知覚表象」という概念はおかしい。
そもそも「物質を直接知覚することはできない」っていうのは嘘なので。「われわれはウサギを見ているのではなく、ウサギの像を見ているのだ」っていうのもやっぱり嘘。「ウサギを見る」ときは端的にウサギそのものを見ている。
- 「見え」は誤りえないというのはただの嘘。
まず「見え方」に関する判断が誤りえないというのはどういう意味か。失敗の可能性がないとか、後から撤回されえないということであれば、これは間違いだ。「私にはマゼンダに見える」と言ったあと、「え? マゼンダって薄い緑のことじゃないの? じゃあ間違えた。薄っぽい緑系の色に見える」と言い直すことは十分にありえる。
言葉の使い方をよく知っている人なら、確かにこの種の間違えを犯す可能性はほとんどない。でも、そういう仮定を増やしていいならおれだって増やすよ。言葉の使い方をよく知っていて、判断力もある人が、実際に豚をよく見て、触って、「あれは豚だ」っていうなら、やっぱりこの場合も誤りの可能性はほとんどない。「見え」だけじゃなく、「あれは豚だ」っていう判断だって、同じように誤りえないものになりうるのだ。
■感想
「ものそのものを直接的に見ることはできない」。言われて気がついたが、これは確かにまったく意味のない表現だ。
この表現の意味するところが、「視覚器官や光を使わずにものを見ることはできない」という意味であれば、もちろん正しい。しかし、ここで「できない」と言われている「視覚器官や光を使わずにものを見る」ってどういう意味だ?
古典的な解答はたぶん、「神や天使がものを見るときのように見る」ということだろうか。つまり、人間は、天使や神のような方法で「見る」ことはできないと。天使や神がものを見る方法をリアルに想像できるならば、「ものそのものを直接的に見ることはできない」という表現も意味を持つのかもしれない。
だけどまあ、天使をさておくならば、「視覚器官や光を使わずにものを見ることはできない」というのは、「独身の人は結婚していない」などと同様に、「見る」の辞書的意味によって真になる文だろう。
関係ないが、タイトルの元ねたは↓らしい。オースティンつながり?
- 『虚構世界の存在論』
三浦俊彦(著)
勁草書房、1995
再読。
■1章
作品の同一性。
前に読んだときも思ったが、外延主義と現象主義という二項対立が雑。
「作品の同一性」という、よく考えるとそれなりに難しそうな問題がテーマなのに、道具立てがダメすぎる。
ものの同一性を、a時点とb時点の時点を越えた同一性という方向から考えていくのは、作品以外についてもむずかしそう。そのため、芸術作品特有の問題ではなく、同一性一般のむずかしさにぶつかってしまっている。
しかも道具立てが、もともと「指示」を論ずるために使われていた概念たちだけというのはいかにも心もとない。指示と同一性の関係に対する考察もなしにそんな流用をしても、とてもうまく行きそうに見えない。もう少し叩きがいのある議論になっているとよいのだが、どうも随所でアラが目立つ。
■2章
作品世界の完全性と未規定箇所。
「シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は偶数である」など、作品内に決定の手がかりが一切ない命題(三浦のいう「5次レベルの命題」)をどう考えるか。
5次レベルの命題を、真偽を決定できない無意味な文と考えるのが三浦のいう「状況説」。これは穏当な立場に見えるが、以下のような問題が生じる。
- A「ホームズの髪の毛の本数は偶数か奇数である」
これはおそらく、無意味な文ではなく、有意味でしかも正しい文だ。
一方、状況説をとる場合、以下の二つの命題はどちらも無意味な文となる。
- B1「ホームズの髪の毛の本数は偶数だ」
- B2「ホームズの髪の毛の本数は奇数だ」
Aを認めつつ、B1、B2をともに無意味な命題と考えるのは気持ち悪くないか?と。結局問題はそこにつきるように思われる。これが気持ち悪いと思うなら、作品世界は「すべての命題に真偽が割り振られる」という意味で、完全な世界となる。
この点については、いまいちどう考えてよいのかよくわからない。
別のこと。
「未規定箇所」をどう考えるかというのは、西坂仰氏の『相互行為分析という視点』が論じているような、「『~が無い』ということを見ることができるのはなぜか」という問題に関連するように思える。
しかし、その辺りの問題を並べて比較して考えるのは、教養不足で私の手にはあまるなあ。
大黒本合評会に参加したいと申し出たところ、ならばルーマンにおける「言語的なもの/非言語的なもの」について考えてこいと。
それとはまったく別個にid:shinimaiさんにいただいた発表原稿が、「美的な記述」と「非美的な記述」を巡るものであったと。
というわけで、しばらく知覚や感性などといったものたちについて考えてみようかと思った。
- 『社会の芸術』
ニクラス・ルーマン(著), Niklas Luhmann(原著), 馬場靖雄(訳)
法政大学出版局、2004
ひさびさの再読。一章前半。
再読の印象。昔読んだときは、「知覚」は心的で私秘的で認知的なものとして扱われていると思ったが、よく読むと事態はそれほど単純ではないかもしれない。
だらだら気づいたことをまとめてみる。
■「知覚」って何よ
まず「知覚」というのがなんだかよくわからない。『センスとセンシビリア』を読んだら余計にわからなくなった。
ふつうの語用では「見る」「聞く」「嗅ぐ」などのこと。ルーマンはたぶん広義の「感じること」まで含めて考えているように見える。
とりあえず
- 知覚は意識がすること
- そこには他者言及と自己言及がある
だと言われている。
「意識」というのは、なんだかよくわからないが「見る人」「聞く人」のことか。
「見る」「聞く」などのことをするとき、「『見られるもの』(他)と『見る人』(自)が必ずあるよね」というくらいの話なら、理解できないでもない。
■「知覚」と「非言語的やりとり」
二点目。
- 「感性(知覚)」「知性」
- 「知覚」「言語」
- 「知覚」「やりとり」
という三つのやり方。
伝統的な哲学者は、「感性(知覚)」(感じること)と「知性」(わかること)という対立でものを考えていた。そこでは、「見て」「わかった」ことを、他人に「伝える」という問題は無視されていた。「わかる」と「それを他人に示せる」はいろいろ関係してくるはずなので、これはダメな問題設定だった。
ルーマンは触れていないが、これに対し、最近の(20世紀以降の)人ならば、むしろ「知覚」と「言語」を対立させることが多いのではないかと私は思う。
一方、ルーマンは、「知覚と知性」でも「知覚と言語」でもなく、「知覚」と「やりとり(コミュニケーション)」の区別からはじめるべきだという。
では、
- 「知覚」と「言語」
- 「知覚」と「やりとり」
はどうちがうか。
少なくとも、後者の場合、「言語的やりとり」以外に「非言語的やりとり」もある。だから、「非言語的なやりとり」と「知覚」のちがいが問題になる。実際ルーマンはこの点に関心があるようだ。
ルーマンは、非言語的なやりとりの例を3つあげる。p23-
- 身ぶり
- 自覚的かどうか微妙な出来事(服装とか)
- 芸術
これらは、知覚と言語的やりとりの間を架け橋するのだという。
■知覚からやりとりへ
じゃあどうやって架け橋するのか。p31-
ここには、ひどく単純だが、もしかすると重要かもしれないことが書いてある。
芸術作品における架け橋の過程(3ステップ)
- 芸術作品は予想外の知覚を与える(びっくりさせる)
- すると「何のために?」と問うことができる(問いたくなる)
- そのような問いを問うことで、(しばしば言語的な)やりとりをはじめることができる
作品について「何のために?」と問うことができるからこそ、伝統的な美学では目的手段図式が使われてきた。しかし、芸術に外的に与えられた目的は特に見あたらなかったため、「自己目的」などというヘンな概念しか使いようがなかった。
だが、ここで重要なのは、「何のために?」という問いに答えが与えられることではない。重要なのは、「何のために?」という問いが以後のやりとりをはじめるために使われる、ということだ。
「通常ならざる知覚」や「驚き」の話が前はよくわかっていなかったが、少なくとも1章Ⅴ説はこういう↑議論になってるように見える。
「通常ならざる知覚」なるものは(「通常」と対比させてるわけだから)、「予期」とか「規則」などにかかわるものであるはずだ。ルーマンはここでは何も言ってないが、知覚と予期の関わりをもう少し考えるとよいかもしれないと私は思った。
■文芸
ルーマンは、以上の話が、美術だけでなく文芸にもあてはまると言っている。p35
なぜかというと、文芸の場合、文の真偽ではなく、文の持つ「感じ」が重要だからだそうだ。
ここでは「言語的なもの」と「知覚的なもの」が、「外延denotation」と「内包conotation」の区別にほとんど重ね合わされている。
この辺りをみると、この本では、「知覚」という語はかなり特別な仕方で使われているんじゃないかと思えてくる。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_139.html
語の意味を扱うには、意味の「一義性」を仮定するか、それとも意味の「多義性」を仮定するか、どっちかのやり方しかないのだろうか?と昨日書いた。今日関連する記述を別のところで見つけた。
勁草書房、1984
「本当real」という言葉について。
「黄色い」とか「馬」とか「歩く」といったことばと違って、それは単一の、特定できる、常に同じであるような、意味をもたない、という点で例外的である。(…)しかし、それは、多数の異なる意味をもっているわけでもない。p98
「本当」は一義的でも多義的でもない。
なぜか。
「本当」の対義語は、たとえば「おもちゃ」であったり、「絵」であったり、「模造品」であったり、「人工」であったりする。「本当のXである」というのは「おもちゃでない」とか「絵でない」とか「模造品でない」とか様々な場合に使われうる言い方だ。
これらすべてのケースに共通の特性が存在すると考えるのは間違いだ。
だからと言って、「本当」という語には、複数の意味があるというわけでもない。
じゃあなんなのか。
「本当の」ということばの機能は、何ものかの特徴づけに肯定的に寄与することにあるのではなく、本当でない可能なあり方を排除することにある―そして、こうしたあり方は、個々の特定のものについても多数あり、また、種類を異にするものに応じて極めて異なる場合が多いのである。個々の適用においては測りしれないほど多様でありながらも、一般的機能がこのように同一であることこそ、「本当の」ということばに、単一の「意味」もないし、かといって多義性、すなわち多くの異なった意味があるわけでもない、という、一見したところ厄介な特徴を与えているのである。p106
んー。
むずかしい。
とりあえず「本当」が、「本当でない可能なあり方を排除する」というのは、トートロジーだ。説明にはなっていない。
しかし、「本当real」が「否定主導語」(否定形の方が基礎的な語)だという分析は素晴らしいと思った。
- 「話し手の指示と意味論的指示」
S.クリプキ(著)、黒川英徳(訳)
in「現代思想」vol23-04
青土社、1995.4
「可能世界/固有名特集」
■あらすじ
(文体はイメージです)
ぼくクリプキちゃん!
こんにちはこんにちは!!
みんな大好きな確定記述と指示の話だよ!
ドネランは確定記述の「指示的用法」っていうのを発見したよね。
これってすっごく重要な議論だよね! 僕も超参考になっちゃった!
でもドネランは、この「指示的用法」が
ラッセルの確定記述の分析の批判になってると思ってるみたいだけど、
ドネランの説とラッセルの説は矛盾しないんじゃないかな?
だって、ラッセルの説は、真理条件を扱うものだよ。
ドネランの話は「指示先」の話だから、真理条件は関係ないよね。
つまり、これって、意味論じゃなくて言語行為論だってことだよね…!
でも、ドネランは自分の説が意味にかかわるって言ってるよ。
ラッセルの一元論じゃなくて、多元的な意味論をとるんだって!
言ってることがばらばらでぼくよくわかんなくなっちゃった><
もしラッセルとドネランが矛盾しないなら、
どっちを選んだらいいのかな?
あんまり自信ないけど><
「なるべく単純な理論を採用すべき」
って原則に従って、ラッセル説を採用したほうがいいんじゃないかな!
■感想
私には、確定記述の指示的用法というのは、「二つの指示方法の対立」に見える。
たとえば「指をさしながら」「あのシャンパンを飲んでいる男」と言う場合。この男が飲んでいるものが実はシャンパンではなく、この場では別の男だけがシャンパンを飲んでいたのだとしても、前者に対する指示が成功する。
私にはこれは「指をさした」という仮定があるから成立する話のように見える。なのに、あまり誰もそれを指摘しないのが不満だ。
クリプキの議論について。
気に入った哲学的テーゼに対する反例と推定されるものに出会った場合には、何らかのキー・タームがそのテーゼにおけるのとは異なる特殊な意味で使用されているのだ、と主張することが我々には常に可能である。その主張は正しいかもしれない。しかし、手段が容易であるということは次のような注意深い方針を採ることを忠告しているはずである。多義性が実際に存在すると想定せざるをえないのでなければ、そしてそのように想定することに、抗い難い理論的あるいは直観的根拠が本当にあるのでなければ、多義性を仮定してはならない、という忠告である。
p283
ドネランは確定記述に関する多元論を採っているけれど、多元論を採る必然性がないなら、一元論にしとくべきじゃないかという指摘。
「分析者が(行為者の直観に反する)ヘンな区別を勝手に持ち込んではならない」という風にとるならば、クリプキの指摘は正しいように思える。
しかし、「一義的に捉える」のと「勝手な区別を持ち込む」という二つの態度のほかに、別の態度もあるのではないかと私は思った。
ジョン・ノイバウアー(著), John Neubauer(原著), 原研二(訳)
ありな書房、1999
テーマはおもしろそうなのだが、内容はどうだろうか。
Michael J. Loux(編)
Cornell Univ Pr 1979
有名なアンソロジー。グーグルブックサーチで序文などが読めるようだ。
佐藤文広(著)
日本評論社、1994
- 『物語の哲学』
野家啓一(著)
岩波現代文庫(岩波書店)、2005
これまで論じてきたように、文字化されたテクストとは異なり、音声による物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。そこで行われているのは「同一性の反復」ではなく、「差異を伴った反復」あるいは「解釈学的反復」にほかならない。物語の伝承においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
(…)
「同一性」という形而上学的概念そのものが危機に晒されている以上、物語にその同一性を保証する「唯一の作者」や特権的な「作者の意図」を求めることは、はなから無意味な企てと知るべきであろう。
p75-76
先生! この人言ってることがヘンです!
(つっこみどころのある議論を見つけたのでうれしい)
「物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。」。
伝承過程において、「違う」って言われてるのは「文字列」のことだよ。
しかし、二つの語りで語られた物語が「同じ」であるとされ、かつ「文字列」が異なるのなら、単に「物語の同一性と文字列の同一性は別だよ」と言えばいいだけの話だ。たとえば信号の色は「変わる」けど、だからと言って、信号機が別のものになったとは誰も言わない。それは、信号機の同一性が、色の同一性とは無関係だということを意味するだけだ。そして、そこで
信号の点滅においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
などと言うやつを見たら「はぁ?」と思うだろう。
野家っちはここで、それと同じことをやってるように見える。
別の方向から言えば、
「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。
という言い方は、「文字列の同一性が物語にとって本質的」という、(おそらく印刷物を基準にした) 偏った物語観を前提にした上でのみ可能な発言だ。
- 言葉は違うけど、
- おんなじ話だ、
とわかっているなら、単に「同一の物語が反復して語られたよ」というだけ。そもそも、「文字列がちがう」とか「色が変化した」とわかるためには、物語の同一性や信号機の同一性が前提されてなければならない(「何かが変化した」と言えるからには、「何か」は同一のものでなければならない)。
この著者は、「文字列の同一性イコール物語の同一性だ」、というヘンな物語観を勝手に物語に押しつけた上で、「同一性が解体された!」「大変だ!」という一人芝居に興じている。しかし、それはどうなのか。
講談社現代新書(講談社)、1988
■あらすじ
ホームズは同時代(19世紀後半)の論理学と科学論をよく知っており、自らの推理法が確率論的帰納法に基づくものであることを自覚していた。
■感想
名著であった。
ホームズと同時代の科学と言えば、ギンズブルクの徴候学的パラダイムというのが有名だが、ホームズをダーウィンの同時代人と見る内井説の方が説得的であると思った。*
* 『神話・寓意・徴候』。ちなみに私は読んでない。内田隆三『探偵小説の社会学』は読んだが、これを参照していた。
「不可能なものを除外していって残ったものが、いかにありそうもなくても(however improbable)真相なんだ」
というのは非常に有名な台詞だが、逆に考えればこれは、不可能なものを除外するまでは、「ありそうにない仮説」を除外しておいてよいということだ。
この「ありそうにないimprobable」の中に、確率論の響きを聞き取れるというのはおもしろい。
ひとつ疑問なのは、内井はホームズが、同時代の論理学者ジェボンズやデ・モーガンと同様に、確率論的な方法を「用いた」のだという。しかし、ありそうにない仮説を避けておくという確率論的な操作自体は、誰もが推論の際にやっていることではないだろうか。ホームズに統計学的発想があったにしろ、実際に統計を用いたわけではないのだから、むしろホームズはそのような推論の様式に「自覚的だった」というべきではないだろうか。
いずれにせよ確率論や19世紀の科学論に関心があれば、読んで損はない本だと思われる。
あと、デ・モーガンという人は知らないと思っていたが、よく考えるとこれは「ド・モルガン」先生のことだった。
- 『名探偵の掟』
東野圭吾(著)
講談社文庫(講談社)、1999
ホームズシリーズのレストレード警部や金田一少年シリーズの明智警視など、間違えた推理を披露する刑事の人が探偵ものには不可欠なわけだが、これはその「間違える刑事役」の人を主人公にした小説。わざと間違えた推理を披露したり、陰ながら探偵を真相に導いたりと、あの役はあの役で気苦労が多いらしい。
この小説では、密室殺人やアリバイトリックや童謡殺人など、毎回推理ものの定番の事件に巻き込まれつつ、探偵と刑事が時々読者の顔になって小説の展開にケチをつける。要するに推理小説のお約束をネタにしたパロディなのだが、このジャンルにそれほど詳しいわけでもない私にとっては、種々の「型」や様式に関する蘊蓄として楽しめた。
願わくば、もっと大がかりな展開が用意されていればよかったかなと思う。最後の章では、刑事役の「私」が探偵の推理ミスに気づきつつ、それをあえて見過ごす。本編はそれであっさり終わってしまうが、それがきっかけで「私」が「小説の登場人物であること」と「ひとりの人間であること」の狭間で葛藤しはじめたりすると、わけがわからなくていいんじゃないかと思った。
最近本を読んでいておもしろかった一節を二つ。
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(訳), 久米暁(訳)
岩波書店、2006
児童虐待はわれわれの文明の現状に関する興味深い事実を思い出させてくれる。われわれは、相対主義によって制圧されていると思われている。つまり、もはや安定した価値など存在しないと言われている。しかし、そんなことはない。試しに、児童虐待に賛成すると言ってみよ。多くの人たちの間で議論になっている同性愛の一形態であると言い逃れをすることなく、とことんまで極端を試みてみよ。児童虐待に賛成の立場に立つということはまったく道理に適わないということになるだけだ。
p301-302
当たり前と言えば当たり前なんだが、良いこと言うなあと思った。
E.ゴッフマン(著), 石黒毅(訳)
誠信書房、1974
アメリカの女子大生は、デートの相手になりそうな男子学生の前にいるときは、以前は自分の知性・技能・決意のほどを低目に見せたし、今でも明らかにそうしている。上調子だという国外にまで聞こえた評判とは反対に、これは彼女たちが徹底した自制心をもっていることを示しているものである。これらのパフォーマーたちは、男友達が彼女たちのすでに知っていることを退屈な仕方で説明するのを、黙って聞いているということである。
p44
ゴフマン先生の役に立つ女子大生情報。
- 『世界制作の方法』
ネルソン・グットマン(著), 菅野盾樹(訳), 中村雅之(訳)
みすず書房、1987
- 『事実・虚構・予言』を読んだ直後だったので、1章を読んで、「何このぬるい論文」と驚く。
- エスキモーには雪を表す言葉がたくさんあって。とか言ってるし。(これは有名な「尾ひれのついた噂」)
↓検索したらおもしろかった。「20個ある」とか「40個ある」とか「4個」とか、おまえらちょうテキトー。
- 二章はちゃんとおもしろかったので安心した。(芸術)「様式」概念を扱った論考としては、大成功の部類に思える(私が読んだ中では)。
- 「何が芸術なのか」という問いと、「いつ芸術なのか」という問いをわけるのは、よい問題の立て方ではないのか。ちょっと前にうっかり語用論についてよく知らないのに「語用論みたいなー?」的なことを言ってしまったことがあったが、「いつ×なのか」って言えばよかった。
- 最近とあるブログで、「侮蔑語である語」と「(侮蔑語じゃないが)たまたまその場で侮蔑的に使われる語」があるよね的な話が、やっぱり「意味論的」か「語用論的」かと言い分けられているのをみた。それより「何」と「いつ」の方が簡単でよくね?と思った。「イスであるもの」とは別に、世の中には「(現在)イスとして使われている荷箱」もあるよね、というくらいの話だし。
- (でもきっとこういう些細な勘違いをふくらませるところから、われわれは (悪い意味での) <哲学> や <形而上学> や <本質主義> をはじめるのだとか何とか)
- この話に関連して思い出したが、以前イスとして使っていた木の台が壊れた後、「どうやって捨てたらよいか」がわからず放置してある。これは下手したら引っ越しするまでこのまま無駄な場所をとり続けるので、早く捨て方を調べて捨てようとかたく決意した。
- おもしろい部分はおもしろいのだが、おもしろくない部分がおもしろくないのは、
- 「世の中には様々な体系(バージョン)、または『世界』があって、すべては固有の価値をもっており」と言いながら、
- 「世界制作」「バージョン制作」の一般理論みたいになってるからではないか。
- 言い換えれば、複数形の"ways"を示すのに失敗してるからではないか。
- と、一瞬思ったが、それほど真面目に読んでないので、これはあくまでも「と言ってみるテスト」。
- 以下、再読時のためのメモ。
- グッドマンは、「世の中には様々な体系(バージョン)があって、それらはすべて固有の価値をもっており」と言う。
- こういうことを言う人にありがちな主張は、「それら個々の体系はお互いに還元不能なのであるから」だけど...
- グッドマンは、「いや、還元はできるのだ」と言っていた。
- じゃあなぜ「固有の価値」があると言えるのか。
- この点についてグッドマンは何を言ってたっけ。どういうロジックになっていたか、そのうち確認しよう。
- グッドマンは、「世の中には様々な体系(バージョン)があって、それらはすべて固有の価値をもっており」と言う。
リチャード・ローティ (著), Richard Rorty (原著), 室井尚(訳), 加藤哲弘 (訳), 庁茂(訳), 吉岡洋(訳), 浜日出夫(訳)
御茶の水書房、1994
いくつかの章をパラパラと読む。
- 第7章「虚構的言説の問題なんてあるのだろうか?」
要約
想像してごらん 指示なんて存在しないと
想像しようとすれば簡単だよ
言語と世界の間に結びつきなんて無いんだ
保証された確言可能性があるだけさ
想像してごらんすべての人々が
言語ゲームを生きているんだと…
おもしろかった。もっと早く読めばよかった。指示の問題と虚構的言説の問題がどう絡み合っているのかというのは、非常にややこしいなあ。
というか、なぜ "Consequence of Pragmatism" というタイトルの本に「哲学の脱構築」という邦題をつけるのか。やりたい邦題だな(←今は後悔している)。
Wikipedia を読む男参上。
「カラスは黒い」という命題はその対偶「黒くないものはカラスでない」と同値であるので、「カラスは黒い」事を証明するには「黒くないものはカラスでない」事を証明すれば良い。 そして「黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがない事をチェックすれば証明する事ができる。こうして、カラスを一羽も調べる事無く、「カラスは黒い」という事実が証明できてしまう。
こうした一見、素朴な直観に反する論法を指摘したのが「ヘンペルのカラス」である。 ときに「ヘンペルのカラス」は、それがまるで対偶論法の間違いを指摘した論法であるかのような誤った解説がなされる事があるが、本来はそうではない。
合理的・論理的でないのは人間の直観の方で、対偶論法にしろ「ヘンペルのカラス」にしろ数学的に何の問題もない論法である。 つまり正しくは、「ヘンペルのカラス」は人間の直観の危うさの方を指摘した論法なのだと言える。
これは、ちょっと変な説明かなあ。どこにひっかるかというと、帰納的判断と論理学の関係にまったく言及しないところに違和感がある。論理学というのは演繹的推論を扱ってきたものなので、帰納的判断の論理学というのは現在のところまともな形では存在しない。確かにヘンペルのカラスは対偶のおかしさを示すものではないが、本文で言われているような人間の直観の方がおかしいという話でもないだろう。それは、「対偶」のような論理学的操作と帰納的観察の関係が(今のところまだ)よくわからないというところに存する問題だと思う。
「ヘンペルのカラス」が直観に反してしまう理由の一つとして、「黒くないもの」の数が想像を絶して大きい事が挙げられる。 (「黒くないもの」は、宇宙全域にある黒くない全恒星、全原子を含むのでその数は莫大である)。 何らかの命題(例えば「カラスを黒い」)を示す際、個々の事例(カラス)を調べていくわけだが、命題の正しさの信頼度合は、調べた事例のパーセンテージが大きいほど上がって行く。(確証性の原理)。しかし「黒くないもの」を調べる場合は、「黒くないもの」の数は極端に大きく、「黒くないもの」をどんなに調べてもパーセンテージが低いままであるので、いつまで経っても「黒くないものはカラスでない」という命題の信頼性があがらない。 (黒くないものを調べ切るには、想像を絶する時間が必要になってしまう)。 この為「黒くないもの」を全部調べた気分に浸れず、「ヘンペルのカラス」が逆理に見えてしまうのである。
この説明は論理学と関係なくヘンだと思う。「黒いもの」を一個も調べずに「黒くないもの」をすべてピックアップするのはそもそも無理だろう。
最後の節にためになる指摘があった。
論理学におけるヘンペルの指摘とは本質的に無関係ではあるが、 アルビノのカラス(つまり「黒くない」カラス)は実在する。また、東南アジアに生息するカラスの多くは、腹が白い、全体に灰色であるなど、黒一色でない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%AF
「アドホックな仮説」の例。
一般に、ものを燃焼させれば煙が立ち上ることから、なにものかが燃焼中に放出されているのではないか、と見なしたのがフロギストン仮説である。この仮説に従えば、燃焼後の物体は質量が減少しているはずである。
(…)しかし、後にラボアジエによって精密な燃焼実験が行われ、燃焼すれば質量はむしろ増加する(現代科学の仮説では、燃焼とは酸化のことであり、当然ながら酸素が加われば質量も大きくなる)ことが分かった。
フロギストン仮説は否定されようとしたが、一部の科学者は仮説を偽であると認めず、新たな補足を加えた。この補足がアドホックな仮説と呼ばれる。それは、「フロギストンはマイナスの質量を持つから、フロギストンが燃焼中に出て行けば逆に質量は増加する」というものであった。
この話好きだなあ。「燃焼によって質量が増加する」って言われて「いや、フロギストンの質量はマイナスだから」って、どんだけアドホックなんだ。
- 『緋色の研究』
コナン・ドイル(著), 延原謙(訳)
新潮文庫(新潮社)、1953
前半はホームズとワトソンの出会いと犯人の逮捕まで。後半はホームズとほとんど関係ないモルモン教小説。むしろそっちがおもしろかった。
恥ずかしながら私は最近までこれがアンチモルモン小説だと知らなかったのだが、ユタ州では「ホームズは読んじゃいけません!」などと言われていたりするのだろうかと思った。
- 緋色の研究 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8B%E8%89%B2%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
モルモン教への言及について解説あり。
この作品はモルモン教の末日聖徒イエス・キリスト教会が一夫多妻制を放棄した1890年よりも前に書かれた。 モルモン教徒は完全に一夫多妻を捨てたわけではなく、現在も正確な数は不明だが3万人以上のモルモン教徒が一夫多妻を続けているといわれている。 本編中でのモルモン開拓者やブリガム・ヤングに関する記述は相当な誤解と偏見を含んでおり、現在もなお多くの部分では修正されていない。ジョセフ・スミス・ジュニアによって創設された当時のモルモン教には確かに過激な面があり、ブリガム・ヤングらの努力でそうした部分は是正されていったが、当時のヨーロッパにはまだ強い誤解が残っていたのである。
なんだか矛盾してるけど。二文目とほかの文は書いた人が違うのだろうなあ。
- 『事実・虚構・予言』
N.グッドマン(著), 雨宮 民雄(訳)
勁草書房、1987
これ、タイトルには虚構と入ってるものの、フィクションとはほとんど関係ない。ちなみに『表象の奈落』を読むと、ハスミン先生もタイトルのせいで間違えてこの本を読んだことがわかって楽しい。間違えて読んだうえに、(「可能なもの」という概念に対する批判の書である本書を) 可能世界型の虚構論といっしょくたにして論じているのはどうかと思うが。
実際のテーマは反実仮想と帰納的判断。フィクションは単にタイトルの語呂合わせで出てきただけだと思われる(正確に言うと、「反実仮想」や「可能なもの」はフィクションと決して無関係ではないので、かすってはいるが、内容としてはホントにかすってるだけ)。
それはそれとして。グルーというのは、本書に出てくる有名な概念だ。
グルー(grue)とは、緑を意味する英語グリーン(green)と、青を意味する英語ブルー(blue)から作った言葉で、たとえば、「2050年までに初めて観察されたものについては緑(green)を指し、2050年以降に初めて観察されたものについては青(blue)を指す」と定義される(グルーは、緑と青の切れ目にどの時点をとるかで無数の定義がありうる)。
このようにグルーを定義すると、2050年までに緑色のエメラルドが観察されたという事実が、「すべてのエメラルドはグルーである」という仮説を支持することになってしまう (従って「2060年にすべてのエメラルドはブルーである」という仮説も支持されることになってしまう)。この種のヘンな述語を帰納的判断から排除するのは、実はとっても大変だよというのが本書の主なストーリー。
(結論としては、「ブルーが過去何度も使用されてきた概念であり、グルーはそうでない」という語の使用の歴史に訴えかけないかぎり、グルー型の推論を排除することができない)。
この本の議論自体はいいのだが、私は「グルー」が架空の概念であることが気になっている。この種の議論はなるべく架空でない例に基づくべきだと思う。
もちろん議論の趣旨は、「語の歴史が帰納的判断に影響する」というものだから、「(歴史を持たない) 架空の語が排除される」ということ自体は議論の筋にもあっているのだが。似たような概念で、実際に使われているものがあれば、もっとうまいこと説明できるんじゃないかなあと思うのだ。
というわけで、グルーに似た概念をずっと考えているのだがなかなかいいのが思いつかない。
一個だけ思いついたのは、「子午線上の」(子午線をどこに置くかは時期によって違う)。しかし、すべての時期における子午線が「同一」とされているわけでもないので、これもちょっとすっきりしない。ある言語では同一とされるのに、別の言語では時間によって異なる名前を持つものなどがいいと思うのだけど。
大変ベタな例だが、「金星」と「宵の明星」「明けの明星」は似てなくもないかな。「宵の明星」「明けの明星」を同一と思わない人々にとって、宵の明星に関する観察から、明けの明星に関する判断を引き出すことは不当な判断でしかない。その際、「金星」という語は、「朝は明の明星、夜は宵の明星を指す」と定義できるが、これは、グルー並に不自然な語に感じられるだろう。従って「金星」という概念を認めるかどうかで妥当な帰納的推論のあり方も変わってくることになる。
まだいい例がありそうだが、思いつかない。
余談だが、本書にたくさん出てくるグルーの変種たちのうち、私が一番好きなのは「エフェルビー(Eifferuby)」だ。これは、ある時点より前には「エッフェル塔」を、ある時点より後には「ルビー」を指す語。
三上真司(著)
東信堂、2007
■ あらすじ
ざっくりと整理すると以下のような二分法になっていると思われる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「視線の共有が成り立つとき」~「狭義のもの」~「実体論」~「固有名が固有名として機能する」(クリプキらの固有名の直接指示説が正しい)~「de re 的」~「存在は前提されており、存在を問う命題は無意味」
↑
↓
「視線の共有が成り立たないとき」~「広義のもの」~「束理論」~「固有名が記述に還元される」(ラッセルの確定記述説が正しい)~「de dicto 的」~「存在は前提されておらず、存在に関する命題が有意義」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
話者も聞き手も場面を共有しており、指示先の共有が前提できる場合(対象を「あれ」と指し示せる場合など)、名前は対象を直接指示する。しかし、「対象の共有が疑い得ない」場合はそう多くはない。むしろほとんどすべての場合について、対象の共有を疑うことができるのであって、「同じものについて話しているのかどうか」が怪しくなるやいなや、ラッセル説が正しくなる。それでも、固有名の直接指示が成り立つように見えるのは、「同じものについて話している」かのように人々がふるまうから。つまり対象の共有はごっこ遊び make-believe として成り立っている。そこでは、疑いはいつでも潜在的に可能であるが、普段は潜在している。
■ 感想
著者は、分析哲学に関心のある現象学畑の人? 実はよく知らない。
内容は、大変啓発的であり、勉強になる。とりわけ、直接指示の根拠に「ふりmake-believe」が効いてくるというのは、個人的には非常にためになる指摘であった。ラッセルの確定記述説の再評価にも説得力があったと思う。
本書の体裁は、形而上学とか、存在についての話だということになっているが、メインのテーマはむしろ「指示」についてであるように思う。その意味では、「話し手の指示」や指示の因果説などの論点にもっとつっこんでほしかった気もする。特に指示の因果説との対決は、ぜひ見てみたかった。そこでこそ著者の主張が明確になったのでは?と個人的には思わないでもない。
■ 目次
- プロローグ
- I ものとは何か?
- 1 狭義の「もの」と広義の「もの」
- 2 「実体論」vs「束理論」:元来のヴァージョン
- 3 「実体論」vs「束理論」:今日的ヴァージョン
- 4 思考の空間と「もの」の名前
- II 存在とは何か?
- 1 非存在のパラドクス
- 2 名前から存在へ
- 3 第一階述語 vs 第二階述語
- III 同一性とは何か?
- 1 同一性のパラドクス
- 2 同一性と内包性
- IV 私が思考するとき、何が生じているのか?
- 1 私は考える
- 2 「私は……」
三上真司(著)
東信堂、2007
2007/06/09訂正:
以下に書いたことは間違いであるか、少なくとも誤解を招くものでした。すいません。http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html
↑訂正記事
同一性記号と変項の扱いについて、明らかに間違ったことが書いてある箇所があったので書き記しておく。というか間違いを書いた後でほめようと思っていたのだが、間違いについて長々書いているうちに眠くなってしまったので、ほめるのは明日以降に延期する。
同一性は「もの」と「もの」との関係なのだろうか。もしそうならば、それはいかなる関係なのか。「もの」とそれ自身の関係なのか、それとも「もの」と別の「もの」の関係なのか。もし前者ならば、同一性を言い表す言明は必然的に真であり、しかもこのうえなくつまらない同語反復でしかない (a=a)。もし後者ならば、それは必然的に偽である。それ自身とは別のものと同じであるようなものはないからである (a≠b)。p123-124
論理学には同一性を「『もの』と『もの』の関係」として把握する傾向が内在している。もし通例通り同一性の記号が「もの」と「もの」の関係として把握されるならば、それは上述のパラドックスに帰着する。p124
これは、かなり怪しい表現。
同一性記号を「ものとものの関係」だと把握すれば、確かにパラドックスでも何でも起きるかもしれないが、それは単に同一性記号に関する理解が間違っているからだ。同一性記号は「ものとものの関係」については特に何も言ってない。
同一性記号が意味するのは、「二つの名前が同じものを指示する」ということだ。
戸田山本から同一性記号の定義を引いてみよう。ただし、メタ言語のイコールとごちゃごちゃになってややこしいので、ここでは同一性記号には半角の「=」を使う。メタ言語のイコールには全角の「=」を使う。またギリシャ文字は使いたくないので、漢字に置き換えておく。
任意の個体定項甲、乙について、VM(甲=乙)=1 ⇔ V(甲)=V(乙)
p203
これが意味するのは、『モデルMのもとで、論理式「甲=乙」が真となるのは、定項「甲」に割り当てられる個体と定項「乙」に割り当てられる個体が同じとき、かつそのときのみですよー』ということだ。
以上のように同一性はあくまでも「2つの記号と1つのもの」の話なので、1つのものについてつねに1つの名前だけを割り当てるようにすれば、「a=b」などの文は必要がなくなる。このあたりは著者の言うとおり。
ただし、同一性記号が無意味になるのは定項の場合にかぎる。名前がつねに一個だけだとしても、自由な変項に関する同一性記号は無意味ではない。
たとえば、以下のようなモデルを考えよう。
議論領域: {1, 2, 3}
個体定項
a: 1
b: 2
c: 3
述語
2x: x が偶数である。
このとき、論理式「2b∧∀x(2x→x=b))」は無意味ではない。
これは「偶数なのはbだけですよー」という意味だ。無意味どころか、同一性記号を使わないとこの文は表現できない。
もう少し細かく言ってみよう。x は変項だ。変「数」であるということは、「そこに入る数が様々に変わる」ということを意味している。これと同様に、変「項」であるということは、「そこに入る『項』(記号)が様々に変わる」ということを意味している。つまり、「∀x(2x→x=b)」は、「どんな記号を x に入れてみても、(2x→x=b) が成り立ちますよ」という風に読める。今記号は、a と b と c しかないから、「∀x(2x→x=b)」が意味するのは、「a, b, c を順番に x に入れてみなさい。2x が成り立つなら、その記号は b と同一ですよ」ということだ。
だから文全体は「bは偶数であり、かつすべての記号について、その記号の指示先が偶数ならば、その記号の指示先は b と同じですよ」という風に読める。これを短く言うと、「偶数なのはbだけですよー」となる。これはトートロジーでも矛盾でもない。モデルによって真偽がかわる文であり、この場合はたまたま真になっている。
著者はおそらく変項というものについてよくわかっていないのだと思う。それがはっきりとわかる箇所は以下。
ただし、「二人の人が『ウェイヴァリー』を書いたことはなかった」も「二人の人が『マーミオン』を書いたことはなかった」も他とは独立した内容なので、すでに使われている変項を重複して述べることはできない。それを回避するならば、「『ウェイヴァリー』の著者は、『マーミオン』の著者と同一人物である」は次のように表すことができる。
(4) ∃x(Px∧Qx)∧¬∃y∃z{(Py∧Pz)∧¬(y=z)}∧¬∃v∃w{(Qv∧Qw)∧¬(v=w)}p141-142
著者はできないと言っているが、(4)は以下のように書いてもかまわないし、ふつうはこう書くと思う。
∃x(Px∧Qx)∧¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}∧¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}
なぜこう書いてかまわないかというと、誤解の可能性がないからだ。この文を日本語で読むと次のようになる。「(Px∧Qx) に入れると成り立つような記号があります。かつ {(Px∧Py)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません。かつ {(Qx∧Qy)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません」。
ややこしいから、三つに分けよう。
ア: ∃x(Px∧Qx)
イ: ¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}
ウ: ¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}
ここでア、イ、ウはそれぞれ別の量化子のスコープ内にある。
アの部分は一個の記号 x について述べているが、括弧が閉じることによって x の話はいったん終わっている。だからイとウでもう一回 x を使っても誤解の可能性はない。
一方、これと違いイのなかの x と y は区別されなければならない。ここでは、∃x∃y という二つの量化子のスコープが重なっている。これは x と y という二つの記号について述べているのだと考えなければならない。x と y は同じかもしれないし、べつかもしれないし、どっちかわかんないから二つの記号を使うのだ。
∃x∃y(Px∧Py) が真であるのは、二つの違うものが 'P(...)' を充たすときである。「二つの違うもの」の差異は、'x' と 'y' という違った記号を使用することですでに尽きているのだから、¬(x=y) をその後に付加するのは余計なだけである。p143-144
ここは明らかに間違っている。x, y は違うものかもしれないが、同じものであってもかまわないのだ。
さっき私があげたモデルで、2x が成り立つ記号はひとつしかないが、「∃x∃y(2x∧2y)」は真になる。なぜなら「2b∧2b」は真だからだ。ここでは x と y が同一であるか別であるかについて何も言われていないため、x=y の可能性を排除できない。
権威付けのために教科書を参照しておくと、x, y が同じものであってもいいということは例えば、戸田山本の p179 などにかなりはっきりと書いてある。
というかだね。「同一性記号が役に立つのは、量化子のスコープのなかでだ(自由な変項についてだ)」というのはむしろ「視線の重ね合わせ」という著者の主張に適合しやすいことだと思われるのだ。そのため、こういう基礎的なレベルで間違いをおかされるのは、本書の読者としては残念でならない。このあたりの話をからめさえすれば、同一性に関する議論はもっとずっと深められたはずであったと思う。
ハスミン
蓮實重彦(著)
青土社、2006
- エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン
- 「『赤』の誘惑をめぐって」
2つの論考のみ目を通す。
なお、「フィクション」をめぐっては、来年二月に刊行予定の『「赤」の誘惑――フィクション論序説』(新潮社)により詳細な議論が展開されることになるだろう。
p365
予告篇だった YO!
ちなみに発売は3月末になったらしい。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-10-304351-5&Sza_id=MM
感想。
小説も哲学論文も関係なく、「赤」というテーマでテーマ論的に横断してしまうハスミンには、「テクスト」概念があればよかったのであって、「フィクション」の概念はまったく必要なかったのではないかと思った。タイトルも対象も、「フィクション」とか「フィクション論」になっているのに、フィクション概念が論考中で何の役割も果たしていない。
↓ハスミン先生はなんでわざわざフィクションを論じようと思ったのかと探していたら、こんなインタビューを見つけた。
http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php
──どうして今、フィクションという主題で書こうと思われたのですか。
蓮實:ひとつには、いまいったように、まだまとめきれずにいる『「ボヴァリー夫人」論』を完成するにあたってフィクションというものを近代の散文の一形式としてどうしてもおさえておかなければいけないという意識がありました。それには、ミシェル・フーコーのいう「近代」における言語の露呈との関係で「近代小説」をとらえざるをえないということなのですが、現在のフロベール研究はそうした視点を重視してはおらず、かろうじて、局外者のジャック・ランシエールがその種の視点に立っている。言語の露呈とフィクションとの関係を結果としてうまくおさえられたかどうかはわかりませんが、多くの西欧の理論家たちがフィクションを論ずると、論ずる主体が無意識のうちにフィクション化していく。論ずる主体がフィクション化していくってことは、ほとんど自分の言葉を語ることができず、言葉に語らされることで主体が希薄化していくということです。アメリカの言語哲学者のほとんど全員がそれにあてはまっている。それと、いまは「可能世界論」的なフィクション論が盛んなんですが、そうした視点からフィクションを論じようとするひとの大半は、論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。語っているひとたちは間違いなく存在しているにも関わらず、彼らの言説は対象を欠き、ほとんど存在していないかのような曖昧なものになっていく。ですから、「フィクション論者のフィクション化論」というような話になります(笑)。
「論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。」
これ、論考のなかでも同じことを言っていた。
すでに見たように、彼らの大半は文学作品の「有名性」に依存しており、テクストを読むことに関しては、「素人」の域を出るものではないからである。
p288
ハスミンが「フィクション」を論じつつ、ここでは読まれる対象が「作品」、「テクスト」となっていることに注意しよう。
私は「フィクション」論のいいところ(の一部)は、すごい読みじゃなくてふつうの人の読みをあつかったところだと思う。「作品」とか「テクスト」という概念と違って、フィクションという概念のいいところは、それが文学的でも何でもない、すごくふつうの概念であるところだと思う。
それに対しハスミンの論考は、ハスミンがあくまでも作品とテクストの人であって、フィクションの人ではないということを劇的に示していて、おもしろいと思った。この辺の対照化はもうちょっとうまく言えそうだが、なかなかむずかしい。
マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)
水声社、2006
前半は虚構論、後半は物語理論。後半の方がおもしろいと見た。しかし物語理論は後回しにする。
いくらか検討した結果、この著者はおそらく可能世界という概念があまりよくわかっていないのだという結論に達した。
簡単にメモ書きしておく。
一番あやしいのは認識に関する可能世界や、義務に関する可能世界や、物語の展開に関する可能世界などなどを同時に与えているところ。「物語は、義務に関する可能世界や認識に関する可能世界...などからなる」と言っているように見える。これはおかしい。これは「人間は、男と女、子供と老人、20歳以上と20歳未満、50歳以上と50歳未満、本州に住む人とそれ以外に住む人などなどからなる」という発言と同じくらいあやしげな表現。つまり、同時に使ってはいけないカテゴリーを同時に使っている。
可能世界意味論は、義務の分析にも、認識の分析にも、物語の展開に関する分析にも、それぞれ使えるものであるが、だからと言って、それらの可能世界を同時に与える必要はない。必要はないどころか、同時に与えてはいけないのだ。なぜなら、「認識の分析に使われる可能世界」、「義務の分析に使われる可能世界」などなどは全部まったく異なったものであり、それぞれまったく違ったフレームを持つのであるから。
この本自体はいい本だと思うけど、「可能世界」をタイトルに関した文学理論書でもこのくらいのもんであるということで私は安心したのだった。
ライアン本1章
マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)
水声社、2006
- 1 虚構の中心移動
読み直し。様相論の基礎を勉強してから読み直すとやはりまったく印象がちがう。
とりあえず1章。
これホントは「可能世界」概念なくてもいいんじゃないだろうか。著者は「テクスト宇宙がたくさんの可能世界からなる」と言うが、それって要するに「テクスト宇宙」と「可能世界」という2つの概念が互いに独立したものだというだけの話だろう。もともと関係ない話がいろいろ混ざっているために、余計にややこしいことになっているように見える。
著者のあげる方針は、まとめると「可能世界概念はわりと役立つ」けど「可能世界を虚構性の分析【には】使わない」ということだろう。その辺がわからないと激しく混乱すると思われる。というか私が混乱していた。
1章でかかげられた方針は解きほぐすと以下のようになるはず。
- 認識・様相について。
- 可能世界は従来通り、様相(必然/可能)や認識の分析に使いましょう。
- エーコその他がやったように、小説内における可能性の分析や認識の分析に使うならば、可能世界の概念は有益なものです。
- 可能世界は従来通り、様相(必然/可能)や認識の分析に使いましょう。
- 虚構性について
- 可能世界=虚構世界ではありません。
- しかし、「現実に actual」が指標的 [indexical] な語だというルイスの指摘は、虚構性の分析に役立ちます。
- 虚構とは、「『現実に』の指示先が変わること」、すなわち「中心移動」です。
- 虚構に関する言説について
- ルイスらの言うとおり、虚構作品に関する言説の真理条件を定義するために可能世界を使ってもいいのかもしれません。
- 「可能世界概念を、虚構作品における認識・様相の分析に使う」
- 「虚構性を、中心移動によって定義する」
- 「虚構作品に関する命題の真理条件を可能世界概念によって分析する」
この3つは完全に独立した話なので、混ぜるのは混乱のもと。
ただしバラバラにでてくるなら、どれもまともな方針だと思う。
訳について。
基本的には読みやすいよい訳だ。
豆知識。訳者さんの裏の顔は『文藝ガーリッシュ』。
千野帽子(著)
河出書房新社、2006
ただし数学用語の訳はすこしあやしい。
「秩序づけられた三重対」
p39
原文は見てないが、これは数学用語の「順序3組」だと思われる。
今日はいっぱい論文をコピーして疲れた。
一度にひとつのことしかできないのは私の悪い癖なので勉強をはじめると、あせって勉強ばかりしてしまう。のはよくないので、ほかのことをしようと思ったのでこの本を読んだ。
安藤弘一(著)
ビジネス社、2006
面接やエントリーシートにおいては、ビジネスパーソンとしてのセンスとマインドを持っていることをアピールしなければならないと感じた。
また就職活動っぽい文体を即興で作り出す練習をすべきだと感じた。
私の長所は夢中になってひとつのことに打ち込める点です。学生時代は勉強のほかに youtube に打ち込み、毎朝必ず2時間以上 youtube の動画を見ていました。ところが、あるとき友人に視野を広く持つように指摘され、ひとつのことに集中するだけではいけないと気がつきました。
広い視野をもって物事を比較し、さまざまな選択肢を受け入れていくことは社会人にとってなくてはならない能力だと考えます。そこで友人の薦めにしたがい、youtube にくわえてニコニコ動画も頻繁にみるようになりました。youtube とニコニコ動画を比較検討して楽しむ機会をえたことは幸いでしたが、何よりも視野を広く持つことの大切さを知ることができたのが貴重な体験でした。これからも積極的に周りの意見をとりいれ、多様な選択肢を受け入れる度量をもつようつとめたいと考えます。
疲れたので一個だけ。
メモ。
- 『可能世界の心理』
ジェローム・S. ブルーナー(著), Jerome S. Bruner(原著), 田中一彦(訳)
みすず書房、1998
ブルーナーは1950年代から60年代にかけて起こった認知革命の火付け役として知られ、思考研究や乳児研究においても常に時代をリードしてきた。しかしその後立場を変え、認知科学の動向にむしろ批判的になる。本書はその新しい立脚点と眺望を示す論文集。ネルソン・グッドマンの「構築主義」を手がかりに、一個別科学を超え、ギアーツの人類学、バルトの文学批評、ヴィゴツキーの言語学などと手を携えた文化心理学へと深まった。文字通り、心理学に新しい地平を拓いた、意欲あふれる一冊。
サッチマン『プランと状況的行為』の参考文献にあがっていた。
以下は買った本。
R.C. ホルブ(著), 鈴木聡(訳)
勁草書房、1986
受容美学のその後の展開が紹介されているらしい。
メモしようと思ったら、マーケットプレイスに出てたので買った。
飯田「可能世界」
- 飯田隆「可能世界」
(『新・岩波講座 哲学 (7) - トポス・空間・時間』岩波書店、1985)
■ あらすじ
可能世界の概念とともに、「必然性」「偶然性」「現実性」「本質的」「偶有的」など、伝統的形而上学の概念が分析哲学に復活したのでびっくり。本稿ではこの可能世界概念の紹介と検討を行うよ。
可能世界は様相を説明するのに確かに役立つね。多くの哲学者は、「これはただの説明のためのおとぎ話で」と言いながらおとぎ話を説明に使ってしまう。
しかし、現実には存在しない可能世界が存在するということは矛盾ではないだろうか。
可能世界の概念を採用する哲学者たちは、この矛盾をどう解決するかによって、「可能主義」「現実主義」の二つに分かれるよ。
(1)可能主義
可能主義というのは、可能世界は存在するし、現実世界と同種のものであるという説だよ。代表的な論者はデヴィッド・ルイスだよ。
この説が出会う難点は次の通り。
可能主義は、ある個体がどの世界に属するかをどうやって決めるのか提示できていない。たとえば、この現実世界のなかに、たがいに物理的に触れ得ない複数の宇宙が存在することがありうる。SF でいう平行宇宙などがこれにあたる。可能世界はこのような複数の宇宙とどう違うのか。それを言わなければ、可能世界の存在を主張する説が、「現実世界に関する特殊な主張」に堕してしまうだろう。
(2)現実主義
現実主義というのは、可能世界は存在せず、現実世界だけが存在するという説だよ。現実主義者にとって可能世界はただのお話なのだから、現実世界に存在する部品だけによって可能世界を構成できると言わなければならないよ。
可能世界を構成する部品として、「文または文の集合」「命題や性質のような抽象的存在者」「現実世界の基本的構成要素の組み換えによって得られる配置」があげられてきた。
しかし全部失敗したよ。難点は、この方向でいくと、いくつかの可能世界を排除しなければならなくなること。また、説明すべき「可能性」の概念を使わずにこの種の話をすることが非常に困難だからだよ。
以上のように、可能主義、現実主義どちらも困難におちいる。可能世界によって様相概念が説明できるという仮定そのものがおかしかったのではないだろうか。
本稿の提案は、可能世界が様相の分析に役立ったことは認めつつ、可能世界による意味の理論を断念しようということだよ。様相概念が十分明確化されるならば、様相以外の概念によって様相を説明する必要は必ずしもないはずだよ。その実現は、今後の課題としたい。
■ コメント
著者自身も言うとおり、いくつかの論点は追加されているものの、↓の本の構成はほとんどこの論文と同じ。ただし本の方がどの論点もずっと丁寧なので、とてもためになった。のでこの論文を読んでから本を読むのがよいのではないかと思った。
飯田隆(著)
勁草書房、1995
- 佐々木健一「虚構と真」
(『新・岩波講座 哲学 (3) - 記号・論理・メタファー』)
■ あらすじ
虚構と真はとくに矛盾せず、実は相性がよいことを示す。
虚構の研究として分析哲学における虚構文の研究がある。ここではビアズレー、ウェイツ、サールのものを紹介する。これらはそれなりにおもしろいが、文を単位とするのは、虚構作品の研究としてはよろしくない。ので文をこえたレベルで考えてみよう。虚構作品の本質として「プロットの虚構性」「メタレベルの信」「中間の位相」ということをあげる。
1)虚構の作品において虚構なのは、登場人物およびその行動である。すなわちプロットの虚構性が作品を虚構たらしめるといえる。
2)次に、実話と虚構をわけるのは、テキストに対するメタレベルの信である。すなわち、テキストを読む以前の了解によって虚構かどうかが決まると言えよう。
3)しかしもっと内容に即して考えてみよう。プルーストの『失われた時をもとめて』には、パリと架空の田舎町コンブレーが出てくる。一方、架空の首都と実在の田舎町が出てくるような虚構作品というのは考えがたい。ここから振り返って考えるに、ある程度の時と場所まではわかるが、日付と番地までは特定されないというような中間の位相が虚構の本質なのである。
つぎに虚構作品における報告文について考えてみよう。小説内の報告文はふつうの報告文とは文体からして相当ちがっている。このちがいは結局小説内の報告文が、個性的な把握でありながら、その報告を事実そのものとして提示するということによっている。このような事態について考えるには「真」の概念を考え直す必要があろう。
真という語の語法に注目してみよう。「P」と発話することは、「P は真だ」を含意するが、含意するのと「P は真である」と言うのとはちがう。われわれが「P は真だ」と言うのは、「P」の真偽が曖昧である場合にかぎられる。すなわち「真」とは、「今まで信じられていなかったことを発見しておどろく」というできごと的なものであり、価値的なコミットなのである。
真をこのように考えるなら、それが虚構と矛盾することはない。個性的な把握を事実として提示するという虚構の特性は、存在を真として与えることなのである。
■ 感想
「真」概念の分析はおもしろいが、虚構と矛盾しないのなら、はじめから「真」概念はいらないのではないかと思った。
「中間の位相」は、言い方はちょっとひっかかるがおもしろい。確かに「架空の首都と実在の田舎町」という組み合わせはヘンだ。なぜヘンなのか、もう少し考えてみてもいいような。
エスノメソロジー系の本と言語哲学系の本を交互に読んでいくとなかなか楽しいことがわかった。とりわけ以下の2つの部分はきれいに対照を描いていておもしろい。
『プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性』
ルーシー・A. サッチマン(著), Lucy A. Suchman (原著), 佐伯胖(訳), 水川喜文(訳), 上野直樹(訳), 鈴木栄幸(訳)
産業図書、1999
表現の意味はいつも実際にいわれていることをこえているゆえに、表現の解釈はその慣習的な、あるいは定義的な意味やある前提の集まりだけではなく、語られないその使用状況にも依存している。(…)哲学者は、この事実を命題の真理条件にかかわる問題であると思い込んでいた。つまり、ある主張が真である条件は、常に背景に関係しており、そしてこの背景は文そのものの意味内容の一部を形成しているわけではないとしていたのである(Searle, 1979)。さらに、原理にかかわることとして言語哲学者を悩ませてきた同じ問題は、いま認知科学者にとっての実践的問題になっている。(…)背景の仮定を意味内容としての叙述に含めようという実際の試みは、しかしながら与えられた叙述の基礎にある仮定の定まった集合はないという事実に遭遇した。結果として、背景的仮定の精緻化は、基本的にその都度なされるものであり、また恣意的なものなのである。そして、原則として仮定のそれぞれの精緻化は、精緻化されるべきさらなる仮定を無限に導入するのである。
邦訳p59-60
背景の仮定を列挙するのは無理ですよ。
パースは、サインの意味がそれが指示する出来事や対象に依存しているだけではなく、サインが実際、指示対象の構成要素であることを"インデックス"という言葉で表した。それで、状況に埋め込まれた言語は、より一般的にはその使用状況に係留されているだけではなく、大いにその使用状況を構成しているのである。エスノメソドロジーはこの言語の構成的機能をさらに行為にまで一般化する。(…)「"文脈一般"なる概念が存在しないだけではなく、例外なくすべての"文脈"の使用はそれ自体本質的にインデックス的であるとしたならば、文脈的行為 (action-in-context) の分析可能性をもたらすのは、まさにこれらの実践なのである」(Garfinkel, 1967; p.10)
邦訳p61
言語(および行為)は文脈に依存するだけでなく、文脈を構成しますよ。
意図の形式を一組の必要十分な観察データで正確に定義できるような、文脈と独立した何らかの行動の意図を認定するための論理の公式は存在しないし、また特定の文脈の固有事実を行動の記述に結びつけるような認識アルゴリズムなるものもない(Coulter, 1983; pp. 162-163 を見よ)。
行為の解釈のための普遍的ルールが存在しないとすると、エスノメソドロジーのプログラムは、特定の状況におけるドキュメンタリー的方法の使用を研究し、また記述することである。
邦訳 p63
だから、むしろ特定の状況から出発し、そこにおける方法を記述しましょう。
一方、この本いわく、
飯田隆(著)
勁草書房、1995
モンターギュの例がひとつの典型とみなせるが、自然言語に対する論理学者・哲学者の態度は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけて大きく変わった。それにはいくつかの要因が挙げられるが、そのひとつは、様相論理の意味論をはじめとする、標準的論理以外のさまざまな論理に関する研究が、一九六〇年代以降いっせいに開花したことである。これらの研究は、形式意味論、もっと限定して言えば、モデル論と呼ばれる分野に属する。形式的取り扱いを拒否すると考えられていた自然言語の特徴、とくに文脈依存性が、非標準的論理の意味論において開発された手法のもとで手なずけることができることの発見は、なかでも重要である。この成功に気を良くして、自然言語の「論理的欠陥」の現れとして、これまでの論理学では意識的に排除されてきた特徴を、形式的に扱おうとする試みがさまざまになされた。たとえば、非形式論理学の必要性の根拠としてライルが挙げた表現のほとんどすえてが、こうした形式的取り扱いの対象となった*。そして、こうした発展のいわば頂点にあるのが、モンターギュ文法である。
* Cf. N.U.Salmon, Reference and Essence. pp.26f.
p173-174
(強調はわたし)
EM のひとたちは、「文脈の形式化は無理」だが、「形式化できなくても別に困らん」という言ってるように見える。他方、ある種の哲学者(および言語学者)が、形式論理を拡張して文脈的要素を扱おうとするのは、「文脈を形式的にあつかえないと困る」とおそらく思っているからなのだろう。
いうなれば、「特定の状況から出発し、そこにおける雑多な論理と方法をとらえようとする人々」と、「形式論理の拡張によって個別の状況にせまろうとする人々」となるのか。両者の中間にライル(と、たぶんウィトゲンシュタイン)がいるというのもなかなかおもしろいことである。
どちらの人々についても初学者以上の者ではない私には、これ以上あまり何も言えないのが歯がゆいところだが。後者に関して素朴に疑問なのは、「拡張しすぎると結局日常言語になるのでは?」というか「日常言語になるまで拡張しないのならば、結局、出てきた論理を個別の状況とどう関係づけるのかという問題が生じるのではないか?」という点。この点については結局勉強するしかないのだろうけど、とりあえずメモしておく。
今、コピーしにいきます
メモ。じぶん用。
○は図書館にあるもの。
追記:
図書館しまってた...。
- 西阪仰「普遍的語用論の周縁」○
『ハーバーマスと現代』
新評論, 1987
- 「参与フレームの身体的組織化」○
『社会学評論』43(1)
1992
- 「現代思想」○
1995/4
「可能世界/固有名」特集
- 「信念のパズル」○
Saul Kripke 著 ; 信原 幸弘 訳解説
「現代思想」
1989/03
「他者とは何か--コミュニケーションと意味」特集
- 飯田隆『虚構世界の存在論』書評○
「科学哲学」vol.29
理想社、1996
- "The Possible and the actual : readings in the metaphysics of modality"
ed. Loux, Michael J.
Cornell University Press, 1979
- "Reference and modality"○
ed. Linsky, Leonard
Oxford University Press, 1971
- 戸田山和久「ウィトゲンシュタイン的科学論」○
新田義弘編
岩波書店、1994
- 安川一「"ヴィジュアル"の"わかりづらさ"――ヴィジュアル表現の社会学へ(上)――」○
『言語』27(8): 10-16.
大修館書店、1998
- 安川一「"わかりやすさ"の陥穽――ヴィジュアル表現の社会学へ(中)――」○
『言語』27(9): 10-15.
大修館書店、1998
- 安川一「ヴィジュアル文化の読み解き方――ヴィジュアル表現の社会学へ(下)――」○
『言語』27(10): 10-15.
大修館書店、1998c
- 安川一「マンガの情景――ヴィジュアルの循環――」○
『メディアの現在形』
香内三郎(著), 広瀬英彦(著), 安川一(著), 林利隆(著), 真鍋一史(著), 花田達朗(著), 小玉美意子(著), 山本武利(著), 吉見俊哉(著), 田村穣生(著), 古賀豊(著)
新曜社、1993
- 前田泰樹「行為の記述・動機の帰属・実践の編成」○
『社会学評論』56(3)
2005
三浦俊彦『可能世界の哲学』
三浦俊彦(著)
NHK ブックス (日本放送出版協会)、1997
* 目次
- 序 「何でもあり」の世界観~可能世界へようこそ
- 第1章 可能世界に何ができるのか
- 第1節 哲学と様相
- 第2節 様相と量化
- 第3節 「もしもかりに...」
- 第4節 法則と因果
- 第5節 意味と外延
- 第6節 虚構と価値判断
- 第2章 可能世界のネットワーク
- 第7節 飽和する世界
- 第8節 到達できる世界、できない世界
- 第9節 現われては消える個体
- 第10節 諸世界を貫く個体
- 第11節 名指される個体
- 第3章 可能世界とは何なのか
- 第12節 クリプキ型とルイス型
- 第13節 可能主義―有りうるものは有る
- 第14節 様相主義―悪循環の患い
- 第15節 自然主義―神の心か、時空点か
- 第16節 現実主義の限界
- 第17節 虚構主義―実用という真理
- 第4章 可能世界は本当に有るのか
- 第18節 カミソリを研ぎすませ
- 第19節 帰納法を正当化せよ
- 第20節 ニヒリズムを回避せよ
- 第21節 平行宇宙を分離せよ
- 第22節 世界の個数を決定せよ
- 第5章 自然科学と可能世界
- 第23節 なぜ、量子の揺らぎが
- 第24節 なぜ、この宇宙に生命が
- 第25節 なぜ、「この宇宙」なのか
- 第26節 なぜ、あなたは存在するのか
- 第6章 可能世界の外側
- 第27節 不可能世界?
- 第28節 哲学的必然性?
- 第29節 無限個の論理空間?
- 第30節 混沌の中の意識?
- 付 可能世界ブックガイド
- あとがき
■ あらすじ
「必然」とか「可能」といったことを様相と呼ぶよ。必然とか可能を扱う論理学のジャンルが様相論理だよ。哲学は昔から、必然性とか可能性に関心を抱いてきたけどいまだにどう扱ってよいのかよくわからないんだよ。
でも可能世界を持ち出すと、様相を量化(「すべてのX」とか「あるX」とか)と同じ仕方で扱えるようになるよ。「Pが必然」とは「すべての可能世界でPが成り立つ」という意味だよ。「Pが可能」とは「Pが成り立つ世界が存在する」という意味だよ。量化は論理学では昔からおなじみのものなので、こんな風に変換できるとすごくうれしい。ほかにも、可能世界の概念はいろんな議論を整理するのに役立つ。反実仮想の分析にも使えるし、命題や法則や性質の定義にも使える。
「必然的に可能である」とか「可能的に必然である」とか二重の様相をどう扱うかというのは昔から難問だったよ。でも、可能世界と複数の世界の到達関係を持ち込むとそれもすっきり整理できるよ。到達関係がどうなっているかに応じて、様相論理には5つの公理系があるよ。
可能世界というものがそもそも何なのか、というのは難しい問題で結論が出ていないよ。可能世界は本当にあるっていう人もいるし、ただのお話だよという人もいるよ。どの立場にもそれなりに難しい点があるよ。可能世界は本当にあるという主張は一見とっぴなようだけど、意外と反論するのがむずかしい説だよ。
可能世界がおもしろいのは、すべての恣意性をそれで説明できることだよ。たとえば人間原理というのがあるよね。「複数の物理法則その他が少しでもちがっていれば人間は生まれ得なかった。にもかかわらず、どうしてこの宇宙では人間のような生命体が生まれたのか」といった感じの説だね。可能世界を使うとこれにあっさり答えられるよ。「もちろん、宇宙のあり方はほかであってもよかった。実際に、それらすべての可能な宇宙が実現しているのだ。ただしその中で、人間を含む宇宙の中でだけ、人間原理のような疑問が生まれるのだ」。こんな感じで「私はなぜ私なのか」などの疑問にもあっさり答えていきたいなあと思うよ。
* 感想
可能世界論は、いろいろ形而上学的に突き抜けていておもしろい。この本の後半もめちゃくちゃなことになっていてすげーと思った。
しかし、可能世界というのは結局、それを使って演算するとうれしいという意味で、虚数とか負数みたいなものなのかと思った。なので、「可能世界は実在するのか」という問いが、「マイナスの数は実在するのか」「複素平面は実在するのか」というのと同じような不毛な問いに見えて仕方がない。
可能世界は「リンゴがそこにある」というのと同じ形で存在するわけではない。可能世界は定義上、手にとってさわったり、みることができるようなものではない。なのにわざわざ「可能世界は物理的に実在する」という変な言い方をすることによって、あたかもそれが、リンゴのような(触れることができるような)形で存在するかのように思わせるのは、文法違反ではないかもしれないが、かなりずるい言い方だと思う。
たとえば、「虚数は物理的に実在する」といわれれば、多くの人は「え?」と思うだろう。だからといって「虚数が存在しない」わけでもない。虚数を使った計算や証明に特におかしいところがあるわけではない。単に「物理的に実在する」という言葉をそういう対象には使わないというだけだ。
「可能世界は物理的に実在する」のような言い方が可能になるのは、「物理的に実在する」という言葉の使い方を勝手に変えてしまっているからだと思う。「可能世界は本当にあるのか」という問題は、そういう言葉のトリックで成り立っている議論ではないか。
まったく別の話だが、人間原理に可能世界で答える議論はおもしろいと思った。「どうしてこの世界はこのようであるのか(ほかであってもよかったのに)」という形で、恣意性に神秘を見いだす人に対して、「もちろんほかであってもよかったし、実際すべての可能性が実現しているのだ」と答えるのは、何かがひどい切り返しですばらしい。
様相論著作一覧不完全版
そのうち補完する。
■ 前置き
↓この本のブックガイドにあがっていたもの中心。
三浦俊彦
NHK ブックス(日本放送出版協会)、1997
- 2007年2月10日
『論理学をつくる』のブックガイドから何冊か追加。
名古屋大学出版会
■ 様相論理系
神野慧一郎(著), 内井惣七(著)
ミネルヴァ書房、1976
戸田山本より。可能世界意味論?
内田種臣(著)
早稲田大学出版部、1978
戸田山本より。直観主義論理とか、義務論理に触れているらしい。
G.E.ヒューズ(著)、M.J.クレスウェル(著)、三浦聡[他](訳)
恒星社厚生閣、1981
代表的教科書。ちょっと古いらしい。
G. E. Hughes(著), M. J. Cresswell(著)
Routledge, 1996
上の本の続編。可能世界意味論の登場にあわせ記述を刷新したらしい(?)。
- 『論理学的思考』
菅原道明
北樹出版、1991
三浦氏おすすめ。様相論理の練習?
Graeme Forbes(著)
Oxford Univ Pr, 1993
「様相論理の自然演繹について練習したい人」におすすめらしい(戸田山氏いわく)。
小野寛晰(著)
日本評論社、1994
戸田山本より。直観主義論理とか様相論理とか。
- 『日常言語の論理学』
オールウド(著)、アンダーソン(著)、ダール(著)、公平珠躬(訳)、野家啓一(訳)
産業図書、1996
三浦氏おすすめ。様相論理の練習?
■ 歴史っぽいの
- 『古代形式論理学』
J.M.ボヘンスキー(著), 岩野秀明(訳)
公論社、1980
『パルメニデス』
井上忠
青土社、2004
レビューによると、パルメニデスの詩を七五調で訳しているらしい。
■ 哲学っぽいの
ソール・A.クリプキ(著), 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)
産業図書、1985
基本図書。
坂原茂
東京大学出版会、1985
反実仮想と可能世界。
野本和幸(著)
岩波書店、1988
三浦氏、戸田山氏ともにおすすめ。飯田本より専門的?
- 飯田隆「可能世界」(『新・岩波講座 哲学 (7)』)
岩波書店、1988
飯田[1995]の導入によいらしい。
レイモンド・スマリヤン(著), 長尾確(訳), 田中朋之(訳)
白揚社、1990
認識論理学。
- 『実在論と理性』
ヒラリー・パトナム(著), Hilary Putnam(原著), 飯田隆(訳), 佐藤労(訳), 山下弘一郎(訳), 金田千秋(訳), 関口浩喜(訳)
勁草書房、1992
3章に可能世界論批判。
飯田隆
勁草書房、1995
■ 論理学教科書など
杉原丈夫(著)
槇書店、1975
- 『記号論理学の原理』
ハンス・ライヘンバッハ(著), 石本新(訳)
大修館書店、1995
論理と日常言語の関係を丁寧にあつかっているそうだ。著者はウィーン学団の人。
- "Introduction to Mathematical Logic"
Elliott Mendelson(著)
Crc Pr I Llc; 4版、1997
論理学を「本格的にきわめてみるか」と思ったときに読む本らしい。
ペーパーバック版がやたらと安いのだが、本当に買えるのだろうか。
- 『数理論理学』
松本和夫(著)
共立出版(復刊版)、2001
1970 にでたものの復刻。様相論理の基礎をふくむ。LF について学べるのが売りらしい。
メモしてたら分量が増えた。ミステリ百科事典とハリウッドのやつはよさげ。
小学館、1997
↓で薦められていた。
http://hiki.cre.jp/write/?BookOfHowToWrite
学校で出される課題作文や読書感想文に困ったとき、書き方がパッとわかる、とっても便利な「作文トラのまき」。作文名人へのポイントを、ドラえもんのまんがでおもしろ解説。
ドラえもんはどれくらい出てくるのか。
セイブル・ジャック(著), Sable Jak(原著), 廣木明子(訳)
フィルムアート社、2005
- 島田荘司『島田荘司のミステリー教室』
南雲堂、2007
文芸社、2002
- 間羊太郎『ミステリ百科事典』
文春文庫、2005
ストーリーアーツ&サイエンス研究所、2002
クリストファー・ボグラー(著), Christopher Voglar(原著),岡田勲(訳), 講元美香(訳)
リンダ・シガー(著), Linda Seger(原著), フィルムメディア研究所(訳), 田中裕之(訳)
フィルムアンドメディア研究所、2000
http://hiki.cre.jp/write/?YumeWoKataruGijyutu
シリーズものらしい。
http://www.city.hanno.saitama.jp/akebono/
この公園は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンさんの『ムーミン童話』の世界を取り入れ、「自然との共生・自我と自由の尊重」という『ムーミン童話』に通ずる理念を掲げています。
(ちょっと形のちがう)ムーミン屋敷があるようである。
いつか行こう。
ku:nel の「ムーミンのひみつ。」特集結構よかった。ヤンソン島の写真がたまらない。というか今日、テレビでムーミン特集をやっているそうだが、テレビがないので見られない私がいる。
以下は何の関係もないメモ。
『ゾンビ映画大事典』
伊東美和
洋泉社、2003
持っていると(たとえ話など)何かに役立ちそうな予感がするのだが、今のところ用途が思いつかないでいる。
小林よしのり
幻冬舎、2001
なるほど、現在は幻冬舎から出ているのだな。
今こそ読み返すべき時ではないだろうか。
(今、という部分に特に理由づけはないが)。
W.G. ライカン (著), William G. Lycan (原著), 荒磯敏文(訳), 鈴木生郎(訳), 川口由起子(訳), 峯島宏次(訳)
勁草書房、2005
■ 感想
おもしろかった。
地味にギャグが多い件について。
なぜ私たちは、サンタクロースは実際にいたのだが、彼についての伝承はすべてひどく間違っている、とは言わないのだろうか。もちろん、私たちは、そう言う代わりに、サンタクロースは存在しないと言う(このことを知らなかった人がいたなら、申し訳ない)。
p91
二人の哲学者が、固有名の直接指示説をたたえる宴を催しているとしよう。二人は輪になって踊り、「名前は名指すだけ!」とうれしそうに何度も叫び合っている。
p151-152
■ あらすじ
教科書なのであらすじも何もない。基本的に目次の通りなのだが、一応大雑把なストーリーだけ確認しておく。
第1章で意味を指示から考える説が否定される。これによって指示と意味を別個に考えねばならなくなるから、順番に考えましょうということになる。
1部は指示の理論。ラッセル説とオルタナティブの紹介。
2部は意味の理論。真理条件説がメイン。
3部は語用論。これは2部のつづきでもある。「使用」という方向から意味を見るとどうなるかという話。
4部はおまけ。
■ 目次
- 第1章 意味と指示
- Ⅰ 指示の理論
- 第2章 確定記述
- 第3章 固有名:記述説
- 第4章 固有名:直接指示と因果-歴史説
- Ⅱ 意味の理論
- 第5章 伝統的な意味の理論
- 第6章 「使用」説
- 第7章 心理説:グライスのプログラム
- 第8章 検証主義
- 第9章 真理条件説:デイヴィドソンのプログラム
- 第10章 真理条件説:可能世界と内包的意味論
- Ⅲ 語用論と言語行為論
- 第11章 意味論的語用論
- 第12章 言語行為論と発語内の力
- 第13章 さまざまな含意関係
- Ⅳ 暗黒面
- 第14章 隠喩
東浩紀 『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
講談社学術新書、2001
ラブクラフトのことを書いていたら思いだした。前から思っていたことを書いておく。
『動物化するポストモダン』の基本的なストーリーって、
ちょっと前の世代だとオタクと言えばシェアード・ワールドものだったけど、最近のオタクは「萌えー」とか言ってて、このふたつってちょっと違うよね。
というオタク世代論だと思うんだ。こういう基本的な事実認識があり、プラスアルファで、「この流れをもう少し広い世の中の潮流に結びつけてみるテスト」というのが『動物化するポストモダン』という本の内容。
シェアード・ワールドものというのは、要するに、同じ世界観を共有しながらいろんな人が作品をつくったり遊んだりしますよーってことだね。ラブクラフトに端を発するクトゥルーものしかり。トールキンの世界観でTRPGをする人しかり。そしてもちろんコミケ等で漫画の二次創作をする人もしかり。
ただし東は「シェアード・ワールドもの」という言い方はしていなかったと思う。『動物化するポストモダン』では、大塚英志を引きながらこれを「物語消費」と呼んでいる。しかし私は「シェアード・ワールド」という普通に使われている言葉の方が好きだ。
(参考: シェアード・ワールド - Wikipedia)
それはそれとして、この基本的なオタク世代論の部分って特に間違ったこと言ってないと思うのだが、おもしろいくらい誰もそのことに触れないね。「確かにちょっと違うよね。じゃあどうちがうのかなー。東はこう言ってるけど、私はこう思うな」とか、そういう方向に話が発展してもいいはずなのに、褒める人もけなす人もなぜか関係ない話ばかりだ。「大きな物語」がどうとか、そんなの言ってみればオマケであり、ただの「と言ってみるテスト」だろうと私は思うのだが、世人はそう思わないのだろうか。大雑把なポストモダン論などより、オタク世代論の方がよっぽどおもしろいと思うのだがどうなんだ、その辺。
もちろん、そういう読まれ方をしてしまう背景には書き方のまずさもあったのだろうが、堅実なファインディングの部分はほとんど触れられず、皮相で刺激的な飾りの部分だけがことさらに反応を集めたという点で、『動物化するポストモダン』は実に不幸な読まれ方をした本であることだよと思うことしきりである。
今市子『百鬼夜行抄(15)』
朝日ソノラマ、2007
■ 感想
慣れてきてしまった感もあるが、相変わらず複雑なプロットを見事にまとめている。
『百鬼夜行抄』を読むたびに思うが、漫画というのは本当に叙述トリックがきれいに決まるメディアだ。改めて考えると『百鬼夜行抄』では時々、かなりアクロバティックな語りのトリックも使っているのだが、意識せずに読んでいるとそれを感じさせない。
私が覚えている例ではたとえば、「律(主人公)が出てきたと思わせておいて、実は開(おじさん)の若い頃だった」というのがあった。こういうのを小説でやるのは不可能ではないが、どうしても作者の手が透けて見える感じというか、作為的にトリックを仕掛けた風になりそうだ。その点、漫画はクールでいいなあ。説明に言葉を使わなくていいのが効いているのだろう。そこは映像でも同じだが、映像でこんな複雑なことをするとわけがわからなくなるだろうから、漫画という「読み返せ、かつ絵で構成できる」形態のメリットはすごくあるにちがいない。
そう言えばドラマ化するそうだが、ほとんど毎回登場する叙述トリックをどう再構成するのかが気になるところだ。幽玄な雰囲気はテレビで真似ようと思っても困難だろうから、むしろ語りのトリックの方を追求してドラマ化すればいいと思った。映像でうまく再構成できれば、おもしろくなるのではないか。テレビがないので観れないのだが、評判がよければ観てみたいなあ。
今回の巻について言うと、新ネタはそれほど見られなかったのでそこは残念だった。「幽霊を怖がっている側が実は幽霊だった」はもうこのシリーズの定番になっているし、「人物を本人の主観の姿で描く」も時々やっているネタだし。おもしろいからいいけど。
あと青嵐がほとんど出てこないのはどうなのか。
■ 知ったこと
なお、ペンネームの「蝸牛」は、幸田露伴の自宅の名称「蝸牛庵」に由来している。また、この「蝸牛庵」は飯嶋家の外観のモデルともなっている。
はじめて知った。
飯嶋蝸牛のモデルは泉鏡花説などもあったように思う。個人的には、外見は折口信夫に似ていると思う。
■ あらすじ
- 迎えにきて
幽霊画の話。
- 鬼の面
嫉妬の話。今回一番救いがなくて怖かった。
- 野に放たれて
生まれ変わりの話。
- 緋い糸
赤い糸が見える人の話。
- 黒天井
古い家の話。
■ 目次
- 迎えにきて
- 鬼の面
- 野に放たれて
- 緋い糸
- 黒天井
山本七平『「空気」の研究』
文春文庫、1983
いわゆる「空気読め」の「空気」。
私は読めないので知らないのだが、空気を読ませようとする輩が多いところを見ると、空気にはさぞかし面白いことが書いてあるのだろう。などと韜晦してみせることもしばしばだが、正直に言うと空気について考えようとするたび、にわかに怨念が高まり、まったく素面では語れない。にっくき空気め! 空気め!
生来の敵とも言える空気のことが少しでもわかるならばぜひ読んでみたい。
以前名前にひかれて購入した『ぴかぴかすりこぎ団の騎士』が届いた。「エリザベス朝喜劇10選」というシリーズの一冊だったらしい。その名の通りエリザベス朝喜劇の戯曲だった。
『ロリータ』
ウラジーミル・ナボコフ, Vladimir Nabokov, 若島 正
新潮文庫
ロリータ新訳版はもう文庫になったのか。
小島アジコ
宙出版
うーん、おもしろそうかも。
西田谷洋『認知物語論とは何か?』
ひつじ書房、2006
文学というものは、なにゆえに文学なのだろうか。文学という営みは人間的な行為である。人の持つ、イメージ、ストーリー、認識の構造がそこにはある。文学はただ単に「近代文学研究」が前提として捉えているような意味で存在しているのだろうか?本書は、認知科学、認知言語学の視点から、人間の認知活動として文学・物語を捉え直すラディカルな(根元的な)問題設定の試みである。
http://www.hituzi.co.jp/books/278.html
えい! えい!
だんだんブログが自分用の本メモになりつつある。
"Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics"
Frank Sibley, John Benson, Betty Redfern, Jeremy Roxbee Cox
音楽作品の記述に関する議論が載っているらしい。
あとで買う。そのうち。
"Verbal Icon Studies in the Meaning of Poetry"
ついでにメモ。「意図への誤信」が入っている本。
増田聡『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』
さらにメモ。音楽批評論をもっとマメに読んだ方がいい気がした。
三中信宏『系統樹思考の世界』
■ 感想
すっげえおもしろかった。
思うのだが、すぐれた理論とすぐれたハウツー本は紙一重である。「理論」という言い方や「ハウツー本」という言い方がよいのかどうかはわからないが。すぐれたハウツー本として読めないものはすぐれた理論ではないし、すぐれた理論として読めない本はすぐれたハウツー本ではないのかもしれないと思わないでもない。
例えばこの本は科学論としておもしろいし、これから進化学を学ぼうという学部生などにとって、きっと格好の入門書になるにちがいにないと思った。
もっとも、高校生物すら学んでいない私には、そんなことを判別できる能力など全然ないのだった。
■ 気になったこと
重箱の隅。
中世の形而上学で延々と論争が戦わされた「普遍論争」では、普遍(universal)としての「群」が実在すると主張する実念論者(realist)と、群ではなく個のみが存在すると主張する唯名論者(nominalist)が、それぞれ論陣を張りました。
p257
これは俗説ではなかったっけ。
奇遇にも、山内志朗『普遍論争』を借りたところだったので後でみてみよう。まさかこの二冊がつながるとは思わなかった。
■ あらすじ
進化学や歴史は、反復可能な事態を扱わないので科学ではないなどという人がいる。これはちがう。科学にはタイプを扱う科学とトークンを扱う科学がある。歴史学に典型的に見られるような物語的説明方法は、トークンを扱う科学の方法である。例えば天文学のような学であってもトークンを扱う場合は物語的説明方法をとる。
われわれは「分類」という思考方法にしばられがちであるが、系統樹はこれと違った方法である。文系であれ理系であれ、歴史を扱う学問は共通して系統樹を用いている。これらの学問は、比較によって適切な系統樹を選択し、物の系譜を推測する。
最適な系統樹を選ぶ、という問題は解決不可能である。系統樹の発見は発見的探索法(ヒューリスティックス)によるしかない。
あと生物体系学の歴史とか、系統樹より複雑なモデルであるネットワークとかジャングルについて。
■ 目次
- プロローグ 祖先からのイコン――躍動する「生命の樹」 11
- 第1節 あれは偶然のことだったのか…… 13
- 第2節 進化的思考――生物を遍く照らす光として 15
- 第3節 系統樹的思考――「樹」は知の世界をまたぐ 19
- 第4節 メビウスの輪――さて,これから彷徨いましょうか…… 28
- 第1章 「歴史」としての系統樹――科学の対象としての歴史の復権 33
- 第1節 歴史はしょせん闇の中なのか? 35
- 第2節 科学と科学哲学を隔てる壁,科学と科学を隔てる壁 48
- 第3節 アブダクション真実なき探索――歪んだガラスを覗きこむ 55
- 第4節 タイプとトークン――歴史の「物語」もまた経験的にテストされる 66
- 第2章 「言葉」としての系統樹――もの言うグラフ,唄うネットワーク 83
- 第1節 学問を分類する――図像学から見るルルスからデカルトまで 85
- 第2節 「古因学」――過去のできごととその因果を探る学 95
- 第3節 体系学的比較法その地下水脈の再発見――写本,言語,生物,遺物,民俗…… 104
- 第4節 「系統樹革命」――群思考と樹思考,類型思考と集団思考 113
- インテルメッツォ 系統樹をめぐるエピソード二題 131
- 第1節 高校生が描いた系統樹――あるサイエンス・スクールでの体験 133
- 第2節 系統樹をとりまく科学の状況――科学者は「真空」では生きられない 143
- 第3章 「推論」としての系統樹――推定・比較・検証 161
- 第1節 ベストの系統樹を推定する――樹形・祖先・類似性 163
- 第2節 グラフとしての系統樹――点・辺・根 168
- 第3節 アブダクション,再び――役に立つ論証ツールとして 176
- 第4節 シンプル・イズ・ベスト――「単純性」の美徳と悪徳 181
- 第5節 なぜその系統樹を選ぶのか――真実なき世界での科学的推論とは? 189
- 第4章 系統樹の根は広がり続ける 209
- 第1節 ある系統樹的転回――私的回顧 211
- 第2節 図形言語としての系統図 217
- 第3節 系統発生のモデル化に向けて 222
- 第4節 高次系統樹――ジャングル・ネットワーク・スーパーツリー 232
- エピローグ 万物は系統のもとに――クオ・ヴァディス? 251
- 第1節 系統樹の木の下で――消えるものと残るもの 253
- 第2節 形而上学アゲイン――「種」論争の教訓,そして内面的葛藤 257
- 第3節 系統樹リテラシーと「壁」の崩壊 261
- 第4節 大団円――おあとがよろしいようで…… 263
- あとがき 267
- さらに知りたい人のための極私的文献リスト [291-273]
- 索引 [295-293]
美学者佐々木健一の著作一覧(不完全)。
随時改訂・追加予定。
■ 単著
- 『生物試験法』
講談社、1981
別人と見た。
筑摩書房、1982
- 『せりふの構造』
講談社学術文庫、1994
確かサントリー学芸賞受賞。
- 『作品の哲学』
東京大学出版会、1985
読んだ。
http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_21.html
- 『演出の時代』
春秋社、1994
勁草書房、1998
- 『美学辞典』
東京大学出版会、1995
読んだ。
勁草書房 、1998
岩波書店 、1999
中公新書、2001
あーこれは絶対買おう。
- 『美学への招待』
中公新書、2004
これも読まないわけにはいかないだろう。
■ 共著
■ 共著(売ってるやつ)
今道友信(編)
東京大学出版会、1982
「ミニアチュールの美学 : ものの大きさについて」
東京大学美学芸術学研究室編
「ボワローの「詩学」 : その実像を求めて」
勁草出版サービスセンター、1983
今道友信(編)
東京大学出版会、1984
「近世美学の展望」
今道友信(編)
東京大学出版会、1984
「芸術」
今道友信(編)
東京大学出版会、1984
「演劇」
大森荘蔵〔ほか〕(編)
岩波書店、1986
「虚構と真」
- 『翻訳』
市川 浩 (編集), 坂部 恵 (編集), 村上 陽一郎 (編集), 加藤 尚武 (編集), 坂本 賢三 (編集)
岩波書店、1990
「引用をめぐる三声のポリフォニー」
- 『モーツァルト』
海老沢敏(編)
岩波書店、1991
全4冊。シリーズ全体の編集に関わっているようだが、とりあえず1冊だけ。
今道友信(編)
音楽之友社、1997
「耳から知性への音楽 : デカルトにおける美と音楽の快」
東京書籍、2001
「「哲学者」たちの自然 : ルソー=ラモー論争をめぐって」
ロゴスドン編集部
ヌース出版、2004
「美と創造の藝術哲学」
- 『レトリック事典』
佐藤 信夫, 松尾 大, 佐々木 健一
大修館書店、2006
ほしいけど値段が。
末木文美士(著), 佐々木健一(著), 渡辺哲夫(著), 横森理香(著), 虎井まさ衛(著), 上野千鶴子(著)
春秋社、2006
「エロスと美、そして醜」
■ 共著(売ってないやつ)
- 『文學哲學論文集』
東京大學文學部研究報告 / 東京大學文學部研究報告刊行委員會[編]
東京大学文学部、1974
「デカルト『情念論』のテキスト形成過程に関する一試論」
- 『前カント的・非カント的美学の射程』
佐々木健一[ほか]著
科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書
東京大学文学部、1985
- 『美の経験の意味と論理あるいは記述と還元』
研究代表者藤田一美, 佐々木健一
昭和63-平成2年度科学研究費補助金総合研究(A)研究成果報告書
藤田一美,佐々木健一, 1991
- 『美と藝術の価値論的基礎づけ』
研究代表者, 佐々木健一
平成5・6年度科学研究費補助金(総合研究(A))研究成果報告書
「目的性・合理性・価値 : P.グライスの価値論」
佐々木健一、1995
- 『美学における感性・身体・共同体』
第46回美学会全国大会におけるワークショップの論集
東京大学大学院人文社会系研究科美学藝術学研究室、1996
- 『作品概念の史的展開に関する研究』
研究代表者 佐々木健一
平成7・8・9年度科学研究費補助金(基盤研究A 1)研究成果報告書;
科学研究費補助金(基盤研究A 1)研究成果報告書
佐々木健一, 1998
- 『日本の近代美学(明治・大正期)』
研究代表者 佐々木健一
平成12年度~平成15年度科学研究費補助金基盤研究(A)(1)研究成果報告書
東京大学大学院人文社会系研究科、2004
- 『グローバリゼーション状況下における芸術の論理と倫理』
藤田一美 研究代表
科学研究費補助金(基盤研究A)研究成果報告書 ; 平成14年度-平成17年度
「アートワールドとコモン・センス : 歴史の形成とグローバリゼーション」
藤田一美, 2006
■ 翻訳のうち気になったもの。
グループμ (編集), 佐々木 健一 (翻訳), 樋口 桂子 (翻訳)
大修館書店、1981
- 『一般修辞学』
樋口 桂子 (翻訳), 佐々木 健一 (翻訳)
大修館書店、1995
- 『創造のレトリック』
M. ブラック (著), 佐々木 健一(訳)
勁草書房 、1986
まったく勉強できていないが、レトリック論は以前からずうっと気になっているジャンルのひとつ。文学研究と社会学の交点のひとつでもあるわけだし。
- 『絵画と現実』
ジルソン (著), 佐々木 健一(訳)
岩波書店、1985
- 『演劇と存在』
アンリ グイエ (著), 佐々木 健一 (翻訳)
未来社、1990
- 『テレビとビデオ』
イアン グレアム (著), 佐々木 健一 (翻訳)
福武書店、1991
■ 論文
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiTop#
↑で検索して出てきたやつのうち、別人らしきものは外した。新しい順。
- 対談 タイトルとは何か--詩・美術・近代 佐々木健一×建畠晢 (特集 タイトル論--名づけの不思議)
現代詩手帖 49(3),10~26,2006/3(ISSN 13425544) (思潮社 〔編〕/思潮社)
佐々木,健一; 建畠,晢
- ディドロにおける美の形而上学(上)『絵画論』第七章とその原点
精神科学 (44),29~49,2006(ISSN 02876604) (日本大学哲学研究室)
- 座談会 歌の力、物語の力--『源氏物語虚構論』と人文学
UP 33(9) (通号 383),7~24,2004/9(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
鈴木,日出男; 佐々木,健一; 月村,辰雄
- ひなげしとエレクトラ
UP 32(12) (通号 374),10~15,2003/12(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 脱統辞としての詩的なるもの : 島本融「シニフィアン、その眠りと覚醒」による考察(第五十三回美学会全国大会発表要旨)
美學 53(3),69,20021231(ISSN 05200962) (美学会)
- タイトルとメタファー--遠近法とことばの魔力 (特集 メタファー--古くて新しい認知パラダイムを探る)
言語 31(8) (通号 372),48~51,2002/7(ISSN 02871696) (大修館書店)
- 新世紀の展望と日本美学--国際美学会議を終えて
UP 31(3) (通号 353),8~12,2002/3(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 第一五回国際美学会議報告
美學 52(3),90-98,20011231(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 星月夜のころ
図書 (623),17~23,2001/3(岩波書店)
- 座談会 身体表現--特集にちなむ (特集 美術と身体表現)
西洋美術研究 (5),4~13,2001(三元社 〔編〕/三元社)
高階,秀爾; 佐々木,健一; 小佐野,重利
- ディドロの生涯と思想--『絵画論』研究のための序説
美学芸術学研究 (通号 20),1~39,2001(ISSN 13426095) (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室 編/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室)
- ロレート詣で
UP 29(8) (通号 334),1~6,2000/8(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 書き手としてのディドロ--『絵画論』研究のために
美学芸術学研究 (通号 19),1~40,2000(ISSN 13426095) (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室 編/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室)
- 空間の異文化--ピーター・ブルックの『ドン・ジョヴァンニ』
春秋 (通号 407),10~13,1999/04(ISSN 13436198) (春秋社 〔編〕/春秋社)
- 近代の命運としての相対主義 : ディドロ『ブガンヴィル航海記補遺』を読む
哲學雜誌 114(786),54-70,19990000(ISSN 03873366) (哲学会 編/有斐閣/財団法人学会誌刊行センター)
- ディドロのテクスト--『絵画論』研究のために
美学芸術学研究 (通号 17・18),1~32,1999(ISSN 13426095) (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室 編/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室)
- 岡田温司, 『ルネサンスの美人論』, 人文書院, 1997, 244 頁
美學 49(3),68,19981231(ISSN 05200962) (美学会)
- 『ディドロの美術論』上下 2 巻, Diderot On Art-I "The Salon of 1765 and Notes on Painting", 250pp., -II "The Salon of 1767", 344pp., Translated by John Goodman, Introduction by Thomas Crow, Yale University Press, 1995
美學 49(3),67,19981231(ISSN 05200962) (美学会)
- 泰山にのぼる
UP 27(7),7~11,1998/07(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 赤羽研三著『言葉と意味を考える』
フランス哲学・思想研究 (通号 3),183~187,1998(ISSN 13431773) (「フランス哲学・思想研究」編集委員会 編/日仏哲学会)
- ディドロ『絵画論』の資料とテクスト構成について--特に最終章の意味を中心に (「美術に関する調査研究の助成」研究報告〔含 研究者別および主題別索引〕)
鹿島美術財団年報 (通号 15別冊),12~18,1997(鹿島美術財団 〔編〕/鹿島美術財団)
- キリスト者フランクの肖像
春秋 (通号 380),1~4,1996/07(ISSN 13436198) (春秋社 〔編〕/春秋社)
- 表題の美学 : その理論的価値について(美学会第四十六回全国大会報告)
美學 46(3),67,19951231(ISSN 05200962) (美学会)
- 藝術の価値原理 : 近世美学史の一断面
美學 44(2),1-11,19930930(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 映像の詩
文学 4(1),p75~77,1993/01(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- ミモザ幻想
文学 3(3),p75~77,1992/07(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 翻訳原論 (日本文化における翻訳<特集>)
文学 3(1),p31~43,1992/01(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 『第 11 回国際美学会議 1988. 研究報告書』, XIth International Congress in Aesthetics 1988 Proceedings, A Selection edited by Richard WOODFIELD, Nottingham Polytechnic Press, 1990, 6+245pp.
美學 41(4),76,19910331(ISSN 05200962) (美学会)
- V. ウーゴ編, 『ロージエと建築理論の諸次元』, Laugier e la dimensione teorica dell'architettura a cura di Vittorio UGO, Bari, Edizioni Dedalo, 1990, 237p.
美學 41(1),73,19900630(ISSN 05200962) (美学会)
- 作者の誕生 : そのアリバイをめぐる近世美学史
美學 40(3),1-11,19891231(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 17世紀フランスにおけるオペラの思想的背景
文学 57(10),p100~108,1989/10(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 第十一回国際美学会議報告
美學 40(1),47-62,19890630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 幸福としての共生 : 十八世紀フランス美学の基底
思想 776,23-43,19890000(ISSN 03862755) (岩波書店/財団法人学会誌刊行センター)
- 作者の誕生 : そのアリバイをめぐる近世美学史(美学会第三十九回全国大会報告)
美學 39(3),58,19881231(ISSN 05200962) (美学会)
- 戸口幸策, 『音の波間で』, 昭和六十二年, 音楽之友社, 二八六頁
美學 38(3),70-75,19871231(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- J. ハイト, 『フランス古典文学における理性の概念 1635-1690』, Jeanne Haight, The Concept of Reason in French Classical Literature 1635-1690, University of Toronto Press, 1982, 208p.
美學 38(2),76,19870930(ISSN 05200962) (美学会)
- 絵画の時代としての18世紀--思想史の一座標
思想 (通号 756),p54~81,1987/06(ISSN 03862755) (岩波書店)
- ロラン・モルチエ, 『独創性-啓蒙時代の新しい美的範疇』, Roland MORTIER, L'Originalite, une nouvelle categorie esthetique au siecle des lumieres, Geneve, Droz, 1982, 218p.
美學 37(1),63-68,19860630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 限界の冒険--H.ピンタ-作「背信」について (演劇<特集>)
理想 (通号 629),p101~105,1985/10(ISSN 03873250) (理想社 〔編〕/理想社)
- 山崎正和, 『演技する精神』, 昭和五十八年, 中央公論社, 二八一頁
美學 35(1),68-72,19840630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- ディドロ『絵画論』-訳と註解-(3)
東京大学文学部美学藝術学研究室紀要・研究 3,29,1984
- 記号と身体の宇宙誌--浅沼圭司著「象徴と記号」〔他7篇〕 (日本の知の冒険者たち・その101冊の本<特集>)
国文学 解釈と教材の研究 28(15),p50~65,1983/11(ISSN 04523016) (学灯社 〔編〕/学灯社)
- 人格と作品 : その非相称性について
美學 34(2),1-12,19830930(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 発見術としてのレトリック--フィギュ-ルと想像力
思想 (通号 706),p68~99,1983/04(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 「いわんや」の修辞学--同意と共感のメカニズム (レトリック<特集>)
理想 (通号 595),p104~115,1982/12(ISSN 03873250) (理想社 〔編〕/理想社)
- 芸術の基底--制作学から解釈学への回帰
思想 (通号 696),p13~32,1982/06(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-5完-沈黙とパロ-ル
思想 (通号 686),p74~97,1981/08(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 言語の造形と空間--修辞学と美学 (レトリック<特集>)
思想 (通号 682),p26~48,1981/04(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-4-モノロ-グからディアロ-グへ-下-
思想 (通号 678),p99~111,1980/12(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-4-モノロ-グからダィアロ-グへ-上-
思想 (通号 677),p69~85,1980/11(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-3-祝典の言葉
思想 (通号 675),p82~104,1980/09(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-2-劇作家の臨在
思想 (通号 670),p78~99,1980/04(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-1-モノロ-グの諸相
思想 (通号 668),p18~43,1980/02(ISSN 03862755) (岩波書店)
- かたちの計略--自然美について
思想 (通号 657),p27~44,1979/03(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 修辞学から美学へ--詩的なものと悲劇的なもの
思想 (通号 651),p102~119,1978/09(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 寛容の美学--様式論的思考法の盛衰
文学 46(1),p68~89,1978/01(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- ボワロ-「詩学」読解-3-
埼玉大学紀要 (通号 14),p89~132,1978(ISSN 05813654) (埼玉大学教養学部 編/埼玉大学教養学部)
- 寛容の美学 : 様式論の思想史試論(大会報告)
美學 28(3),69,19771230(ISSN 05200962) (美学会)
- T. B. ジョーンズと B. d. B. ニコル, 「新古典期の劇評論」, Thora Burnley Jones & Bernard de Bear Nicol, Neo-classical Dramatic Criticism 1560∿1770, Cambridge University Press, 1976, vi+189p.
美學 28(2),77,19770930(ISSN 05200962) (美学会)
- ことばともの--文学の質料的基礎について
展望 (通号 222),p132~148,1977/06(筑摩書房)
- ボワロ-「詩学」読解-2-
埼玉大学紀要 (通号 13),p117~156,1977(ISSN 05813654) (埼玉大学教養学部 編/埼玉大学教養学部)
- 終りの美学--デウス・エクス・マキ-ナ考
文学 44(11),p1479~1494,1976/11(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 模倣のめぐみ--芸術創造における模倣の役割
展望 (通号 213),p86~97,1976/09(筑摩書房)
- ボワロ-「詩学」読解-1-
埼玉大学紀要 (通号 12),p39~86,1976(ISSN 05813654) (埼玉大学教養学部 編/埼玉大学教養学部)
- 知覚と美 (美(夏季特集))
理想 (通号 483),70~82,1973/08/00(ISSN 03873250) (理想社 〔編〕/理想社)
- 作品とその影 : ジャン・アヌイの美学に拠りつつ
美學 23(3),25-39,19721230(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 再現の美学(講演要旨)
美学 23(3),60~64,1972/12/00(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会)
- グルニエ, 『芸術とその諸問題』, Jean Grenier, L'Art et ses problemes, Edition Rencontre, Lausanne, 1970, 418p.
美學 22(2),48-54,19710930(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- デュフレンヌ『美学と哲学』, Mikel Dufrenne, Esthetique et Philosophie, Ed. Klincksieck, Collection d'esthetique I. Paris, 1967, 212p.
美學 20(1),59-64,19690630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- ドメナック, 『悲劇的なるものの回帰』, Jean-Marie Domenach, Le retour du tragique-essai-Seuil, Paris, 1967, 301p.
美學 19(4),50-55,19690330(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- "怒り"と"混迷"の沖縄--2・4ゼネスト回避
エコノミスト 47(7),36~41,1969/02/18(ISSN 00130621) (毎日新聞社 〔編〕/毎日新聞社)
- デカルトにおける快の理論(大会報告)
美學 19(3),40,19681230(ISSN 05200962) (美学会)
■ 履歴
- 2007/02/09 共著・論文を追加
ミクシの美学コミュニティであがっていた書籍のうち、読んだことのないもの、持ってないものをリストアップしてみる。
- 今道友信『美について』
講談社学術新書
正直いって「美」について知りたいとか「美」について考えたいと思ったことはほとんどないのだけど。私が美学専攻でないのはきっとそのせいだろう。
- 神林 恒道 (編集), 太田 喬夫 (編集)『芸術における近代―美的コンセンサスは得られるか』
ミネルヴァ書房、1999
- 谷川渥『美学の逆説』
ちくま学芸文庫
- ジャン・ラコスト『芸術哲学入門』
文庫クセジュ
これはもしかすると持っていたかもしれない。
- 渡邊二郎『芸術の哲学』
ちくま学芸文庫
- 渡邊二郎『構造と解釈』
ちくま学芸文庫
付随して発見したもの。
マックス・ベンゼ (著), Max Bense (原著), 草深 幸司 (翻訳)
勁草書房
おもしろそうな気もするが、どうなのか。
ハインリヒ・ヴェルフリン (著), Heinrich Wolfflin (原著), 海津 忠雄 (翻訳)
慶應義塾大学出版会
高いなあ。
フランシス・ボーモント(著)、大井邦雄(訳)
ぴかぴかすりこぎ団!
タイトルがあまりに気になった。ユーズド価格400円だったのでうっかり買ってみた。
(うっかり Amazon にならってユーズドと逝ってしまったが本って「use」するものなんだろうか)
ついでに小説の書き方本をいくつか買ってみる。
小説について考えたかったら下手な文学理論より小説の書き方本を読むのがよい、というのが私の持論である。
もっとも、上手い小説ハウツー本を探すのは、上手な文学理論を探すのと同様むずかしいのだけど。
小説書き方本の見分け方はひとつあって、「物事を多面的に見よう」とか「感性を大切にしよう」って書いてある本はダメである。それ書き方じゃないしな*1。
具体的なアドバイスが書いてあれば書いてあるほど良い本であることが多い。
これはおもしろかった。「一人称の小説はダメである」「本当にすぐれた小説はすべて三人称かつ複数の視点で書かれている」という意見が述べられており、びっくりした。
でもまじめに書き方本を書こうと思ったら、まず「どんな小説を書くか」を限定するのは有効なんだろう。この本はそういう方針で成功しているように見えた。関係ないが、すごい表紙だ。
そういう意味ではジャンル小説の書き方本の方がおもしろいんじゃないかと思うのだ。
野田昌宏『スペース・オペラの書き方 - 宇宙SF冒険大活劇への試み』
早川文庫
買った。実態は書き方本じゃないらしいが、著者が著者だけに資料として。
H.R.F.キーティング, H.R.F. Keating , 長野 きよみ『ミステリの書き方』
早川文庫
これは良さそうなのだが、品切れでマーケットプレイス価格も高い。何とかして入手したいが、図書館にはないかもしれない。
野崎六助『ミステリの書き方12講』
青弓社
これは本屋で探せばいいや。
アメリカ探偵作家クラブ (著), Mystery Writers of America (著), L. トリート (編集), 大出 健 (翻訳)
講談社文庫、1998
これは資料になりそうだなあ。
浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます』
講談社ノベルス
よく見たら小説だった。
すがやみつる、横山えいじ『マンガでわかる小説入門』
斬新なコンセプト。
- *1: もっとも小説を書くのとそれを職業にするのは別のことなので、職業にしたい場合心構えこそが大切なのかもしれないが。しかしこの例はそもそも心構えとしてもダメだし
『ゼロの使い魔』を大プッシュしてくる Amazon たん。
今回のおすすめ内容:
- ゼロの使い魔〈4〉誓約の水精霊
- ゼロの使い魔 (5) トリスタニアの休日
- ゼロの使い魔〈3〉始祖の祈祷書
- ゼロの使い魔(7)
- ALL YOU NEED IS KILL
- ゼロの使い魔〈8〉望郷の小夜曲(セレナーデ)
- ゼロの使い魔〈9〉双月の舞踏会
- とらドラ!
ヤマグチノボルって昔ヘクサゴンというサイトをやってた(訂正: まだあった)人だよね。高校生の頃愛読していたよ。桑島由一氏ともどもブレイクしてよかったなあ。
↓これはファウストに東浩紀が書いてたゲーム的リアリズム論考に出てくる奴だね。『よくわかる現代魔法』は一巻だけ読んであまりピンとこなかったんだがどうなんだろう*1。
- *1: 魔法 + プログラミングというネタは絶対もっとおもしろくなるはずだろうと思った
Wladyslaw Tatarkiewicz "History of Aesthetics"
(タタルキェヴィチ『美学史』全三巻)
佐々木健一で思い出した。佐々木氏はよくこの本を元ネタにしている。そしてこの本を元ネタにした論述はたいていおもしろい。
以前から、買おうか買うまいか悩んでいる。ユーズド価格75,998円テラタカス。買ってもどうせ読めないしなー。
"Twentieth Century Philosophy, 1900-50"
今発見したが、この本は安い。買ってみてもいいが、基本的に本を買いすぎなのでとりあえずカートに入れて放置。かくしてカートの中身ばかりが増えていく...。
タタルキェヴィチの翻訳はこの本だけという罠。
(そう言えば確認したことがないが、そもそもこのタタルキェヴィチは美学史のタタルキェヴィチと同一人物なのだろうか)
東京大学出版会、1985
■ 感想
この本がすごくおもしろかった。
今後「おすすめの美学書を一冊」と誰かに聞かれたら(そんな機会はまずないのだが)、これを薦めることにしたい。
もちろん今から見ると議論が古い部分もあり、細かいことを言い出せばいろいろ気になる点もある。だいたい目次が悪い。結論が「愛のトポスとしての作品」かよ! そんなこと言われても! などと思ってしまう。
しかし、現在でも十分通用する鋭い指摘が多かった。対象を真摯にとらえるってこういうことかと、いささか感動したりもした。
何より、博学な著者なので、論旨に納得できなくても基本的に読んでるだけで勉強になるのだった。
■ 見どころ
第五章「作品のア・プリオリとしての解釈学的意志」についてだけ触れる。この章は大変おもしろかった。
p177-178
(エルナニは死んだ【とのことです】というセリフをひいて)
この報せに接して、ドン・リュイ・ゴメスは喜びに我を忘れ、ドニャ・ソルは深い絶望に沈む。だが客席にいる我々観客の方は、劇中のこの二人とは全く別の反応を示す。すなわち、小姓の言葉をきくと直ちに我々は、エルナニが無事であることを殆ど確信し、そして小姓の告げた「宿乞いの巡礼者」こそエルナニに相違ない、と考えるのである。何故このようなことになるのか。これが我々の探求の出発点となる事実である。
要するに「らしい」というひとつの言葉が、読者に対する暗示となりえるという話。
考えてみると、この論点がおもしろかった理由は2点ほどあったと思う。
1)ここで扱われている現象は、同じ言葉が「作中内人物」と「読者」に対し、それぞれ異なった意味を持つというもの。
ひとつの出来事が「作品内世界」と「読者との関係」という二つの層に分岐していく、というのがおもしろい。別の言い方をすると、ここで「作品内世界」と「読者との関係」という二つの層が互いに直行するように考えられている。つまり両者の関係が多少なりとも問われているわけで、そういう発想はあまり見たことがなかったので新鮮だった。
ここにかぎらずこの本は、問題を複数の層へと丁寧に解きほぐしていくような議論が多く、いちいち示唆に富んでいた。
2)ここで扱われている現象は、読者に対する直接的な指示(インストラクション)の問題である。
文学作品(あるいは広く作品)というのは、ふつうの会話などにくらべて間接的なコミュニケーションだとされる。そのことが例えば「自律性」という言葉で表現される。実際これ自体は正しい指摘だと思うのだが、一方で上のような現象は確かに存在する。
作品は読者に暗示することも、指示を与えることも、反対に読者をわざと誤誘導することもある。しかし、自律性を強調することによって、これらの現象自体が無視されてしまいがちである。
この辺りの問題はきちんと考えたいなあと思う。
3)まとめると、「相互作用としての作品」あるいはかっこよく、「インターフェイスとしての作品」みたいな感じか。
著者はこの後、ポール・グライスの協調の原理を持ち出し、この現象を検討しはじめる。つまり、会話と比較しながら読者と作品の関係を扱っているのだが、これもまたおもしろい。
よく知らないが、グライス以後会話の研究はすっごく進んでるんじゃないかと思うんだ。よく知らないが、関連性理論とかそういうのがあるそうじゃないか。会話分析の成果も無視できないだろうし。
知りたいのは、文学系でこの辺りの成果を踏まえた人っているのかなってこと。おそらく文学理論の最先端の人たちは、そんなことにも関心を持っているのではないかと思うのだが、いかんせんなかなか情報が入ってこないのがつらい。たとえばアメリカで読者反応批評の末裔たちが会話分析に出会ったりとか、そんな愉快な展開があるといいなあと思うのだけど。
とりあえず↓の本でも読んで考えてみよう。
■ 名言
だが考えてみなければならない、作家の人生とは作品を創りつづけることではないのか。一つ一つの作品の創造の準拠する論理が「すべてをすぐに」であるのならば、作品創造にささげられた作家の人生は、瞬間ごとに「すべてをすぐに」と繰り返し言い続けること以外に、どのような可能性があるのか。(…)創造的な藝術家でありつづけようと思うならば、絶えず繰り返しの誘惑を乗り越えてゆかなければならない。それがおそらく、藝術家であることの第一の条件である。多少の才能があれば、一度だけ面白い作品を作ることなら出来るかもしれない。しかしそれでは不十分である。藝術家であるということは、何度もすぐれた作品を書くことであり、従って、創造のたびに何らかの意味でそれまでの自己を超えてゆくことである。
藝術家テラコワス!
■ あらすじ
序:
序では作品について一般的に論じるよ。
一章:
世の中は自然と行為と作品の領域にわかれる。作品の特徴は「内部世界性」と「自律性」だよ。
二章:
最近「作品」概念はケチをつけられがちである。しかし彼らの主張を考慮しても上の定義はさほど変わらないよ。
第一部:
第一部では作品の構造を論じるよ。
三章:
演劇でいう「三統一の理論」をネタに、作品の「統一性」を論じるよ。作品の統一性は関心の統一性だよ。
四章:
(この章はよくわからない)
演劇でいう「デウス・エクス・マーキナ」をネタに、作品の「完結性」を論じるよ。ドラマの展開を考える上ではアリストテレスの「はじめ-中-終わり」概念が重要。これは作品の本質に属するよ。
五章:
作品と受け手の関係を問うよ。作品解釈について考えるときは、一般的意志と個別的意志をわけた方がよいよ。
六章:
作品と外部の物事の関係を問うよ。作品は外在的な物事をどんどん関連させていくよ。
第二部:
第二部では作品と作者について論じるよ。
七章:
作品と作者の関係を問うよ。基本的に作品は作者から独立したもの。作品に対する責任は、親が子供に感じる責任に似ているよ。
八章:
作品と人格は似ているが、違うよ。人格は創造的な主体だが、作品は完結した客体だよ。人生を作品にすることは傲慢だよ。
九章:
作品は作者を疎外するよ。そして最後には作品が作者の人格を構成するよ。まるで愛みたいだね。
■【目次】
- 序論 作品の哲学
- 第一章 作品存在とその哲学
- 1課題とその過去
- 2自然・行為・作品
- 3作品と人工品
- 第二章 現代藝術と作品の危機
- 1 開いた作品
- 2 作品概念の動揺(1)-パフォーマンスと作品
- 3 作品概念の動揺(2)-テクストと作品
- 4 作品概念の動揺(3)-オブジェと作品
- 本書の鳥瞰
- 第一章 作品存在とその哲学
- 第一部 作品の構造論
- 第三章 作品の構造論
- 序 統一性の理論
- 1 三統一の規則
- 2 時の統一
- 3 場所の統一
- 4 筋の統一
- 5 関心の統一
- 6 二つの作品概念
- 第四章 完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ
- 1 作品の完結性
- 2 デウス・エクス・マーキナの分類
- 3 エウリピデスにおけるデウス・エクス・マーキナ
- 4 終末論的成就としてのデウス・エクス・マーキナ
- 5 ばねとしてのデウス・エクス・マーキナ
- 結び デウス・エクス・マーキナによる終わりの類型とアリストテレス
- 第五章 作品のア・プリオリとしての解釈学的意志
- 1 メタ制作学としての作品の哲学
- 2 具体例と問題の所在
- 3 協力と関与性
- 4 意図と公理のレベル
- 5 公理系としての行動の論理
- 6 約束事と定理のレベル
- 7 制作学から解釈学へ
- 第六章 求心性と遠心性
- 1 開いた構造論
- 2 内と外の弁証法
- 3 暗示と引用
- 4 作品の歴史性と作者の責任
- 第三章 作品の構造論
- 第二部 作品の人間学
- 第七章 作者の権利
- 1 作者による作品支配
- 2 作者の意図
- 3 改作の権利
- 4 作品の歴史性と作者の責任
- 第八章 人格と作品
- 1 人と作品の相称的印象
- 2 二つの古典的理論
- a 表現説と因果律
- b 構成説と弁証法
- c 主体に対する行為と作品
- 3 作品を人格と見る体験
- 4 人格を作品とする意志
- a 自伝の試み
- b ダンディズム
- c 完成のための自殺
- 5 人格・行為・作品
- 第九章 作品とその影
- 1 創造行為の倫理学
- 2 『アンチゴーヌ』と作者の二重疎外(1) - 作者と観客
- 3 『アンチゴーヌ』と作者の二重疎外(2) - 作品と作者
- 4 『ベケット』と仮の道徳 - 美的なるものの批判
- 5 創造の類比 - 一つの弁証法的論理
- 6 芸術家の名誉 - 愛の受容
- 第七章 作者の権利
- 結び 愛のトポスとしての作品
- あとがき
■男ごころ「らしさ」を超えて(6)他人見下す「仮想的有能感」
http://www.yomiuri.co.jp/feature/otokogokoro/fe_ot_07011001.htm?from=yoltop
偶然見た記事。
「電池を交換したが、カメラが動かない」という問い合わせに、担当者が「電池のプラスとマイナスの入れ方は間違っていませんよね」と確認した途端、男性がキレた。
20年以上もクレーム対応を続け、それを著書「社長をだせ!」にまとめた川田茂雄さんは「バカにされたと感じて、突然キレるのは男性に多い。会社では偉くなくても、消費者として企業に対するときは、強くなれる。そんな人たちのはけ口にもなっているんです」。
クレーム対応のことを書いた本らしい。おもしろそうだ。
虚構論著作一覧。
随時追加。
○ 文学
- 中村三春(1994)『フィクションの機構』、ひつじ書房
- Marie-Laure Ryan(1991)"Possible Worlds, Artificial Intelligence, and Narrative Theory", Indiana University Press
=マリー=ロール・ライアン(2006)岩松正洋訳『可能世界・人工知能・物語理論』、水声社
- Thomas G. Pavel(1986) "Fictional Worlds", Harvard University Press
- 蓮實重彦(2006)『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』
、青土社
○ 美学
- 西村清和(1993)『フィクションの美学』、勁草書房
○ 哲学
- Frege, Gottlob(1892)'On Sense and Reference'("Philosophical Writings of Gottlob Frege", ed. G. P. Geach and M. Black,Blackwell)
=フレーゲ、ゴットロープ(1986)「意義と意味について」(土屋俊、坂本百大編『現代哲学基本論文集』、 勁草書房)
- Russell, Bertrand(1919)"Introduction to Mathematical Philosophy", Routledge
=ラッセル、バートランド(1954)平野智治『数理哲学序説』、岩波書店
- 三浦俊彦(1995)『虚構世界の存在論』、勁草書房
- Goodman, Nelson(1965)"Fact, Fiction, and Forecast", Fourth Edition, Harvard University Press,
=(1983)ネルソン・グッドマン、雨宮民雄訳『事実・虚構・予言』、勁草書房、1987)
- Searle, John R.(1975)'The Logical Status of Fictional Discourse'("Expression and Meaning", Cambridge U.P., 1979)
=サール、ジョン・R(2006)「フィクションの論理的身分」(『表現と意味』、誠信書房)
私が本屋で発見したことを書く。
ジル・ドゥルーズ著、小泉義之訳
『意味の論理学』上
『意味の論理学』下
『アンチ・オイディプス』につづき、ジル・ドゥルーズさんの『意味の論理学』が河出文庫で出たようだ。よく知らないけど、ルイス・キャロルの話とフッサールの「意味」概念の話をしている本だとか何とか聞いたような。
しかも小泉義之訳。私この人嫌いじゃないけど。断言口調でやたらとオリジナルな文献解釈を口にするスタイルを見ていると、翻訳?という気もする。
今から図書館に行く。
哲学者の虚構論(昔の)
- -フレーゲ、ゴットロープ「意義と意味について」 (in 土屋俊、坂本百大編『現代哲学基本論文集』) 勁草書房
- -ラッセル、バートランド『数理哲学序説』 岩波文庫
哲学者の虚構論(最近の)
- -Lewis, David 'Truth in Fiction'("Philosophical Papers I", Oxford U.P., 1983)
- -サール、ジョン・R『表現と意味』 誠信書房、2006
- -三浦俊彦「虚構」(『事典 哲学の木』講談社、2002)
その他
- -遠藤知巳「言語・複数性・境界」(『思想』940、岩波書店、2002)
- -「メディアそして/あるいはリアリティ」(『思想』、岩波書店、2003)
- -佐藤俊樹「「社会システム」は何でありうるか」(『理論と方法』15(1))
- -「言説、権力、社会、そして言葉」(『年報社会学論』15)
- -
ガーフィンケル「カラートラブル」(好井裕明『エスノメソドロジーの現実』世界思想社,1992)

上遠野浩平『殺竜事件 - a case of dragonslayer』
講談社ノベルス
読んだのは少し前だが、佐藤論考をようやく読んだのでこれについても書いておく。先にあらすじを説明しないと感想が書きにくいので先にあらすじを書く。
あらすじ:(ネタバレを含む)
ジャンル的に言うと、ファンタジーミステリー。タイトル通り、竜が殺された謎を解く話。
竜をとても大事にしている村があった。そこはちょうど和平会談の場所になっていた。その村で竜が殺された。竜というのは、とてつもなくすごい力を持ったものなので、それを人が殺したとは考えられない。しかし竜の殺され方はどう見ても他殺だった。
村人は怒って、「謎を解かないと和平会談の場所は貸さない」と言った。そこで戦争調停士(という職業らしい)の主人公は竜殺しの謎を解かねばならなくなる。手がかりを求めるために、これまで竜に会った人たちに会い、話を聞きに行くことにした。
そんな感じで主人公一行が旅に出て、色んなところに行く。話を聞いてもあまり手がかりは得られないが、もののついでにお姫様を助けたり、幽霊と戦ったり、わりとふつうにファンタジーっぽい冒険をする。
あと、重要っぽい設定としては、「漂流物」というのがある。「漂流物」というのは別の世界から漂流してきたと言われる物のこと。実態は、ピストルとか扇風機とか、要するに「現実っぽい世界」から漂流してきたものである。
真相は以下の通り。
【ネタバレ -- ここから】
竜を殺したのは村人全員の共謀。一見竜を大事にしているように見えるその村は、実は竜を殺すためだけにつくられた村だった。何十年も前から準備をし、村人たちは代々竜を殺す計画を練っていた。
しかし、それだけで竜が殺せるはずはない。だから、たぶん、友人だと思っていた村人に殺されそうになった竜がショックのあまり、自殺を受け入れたんだろうと。そういうような感じの結論になる(後半はうろおぼえ)。
【ネタバレ -- ここまで】
感想:
アシモフの SF ミステリと対照させると見やすい。
かつて「SF ミステリ」とか「ファンタジーミステリ」といったものは不可能だと言われていた。だって読者の知らない新しい技術とか、新しい魔法を出してくればいくらでも不可能犯罪が可能になってしまうから。
それに対してアシモフは、「世界観がどうであれ、作品内に厳格なルールを設定し、フェアに謎を解決させれば SF ミステリは十分成り立つ」ということを証明した。つまりロボットが出てこようが、魔法が出てこようが、最初に作品内に厳格なルールを設定し、その枠内で謎解きをやれば、ミステリとして十分フェアな作品ができる、というわけだ。
だからアシモフは自分でつくった「ロボット工学の三原則」だけは(ほぼ)絶対に曲げない。ロボットの行動の謎は、おおよそ三原則の枠内で解けるようになっている。そして実際、アシモフの初期ロボット短編の多くは「三原則によってロボットの行動を読み解く」ストーリーになっていた。
私はアシモフのこういう姿勢は結構好きなんだ。三原則をあまりに厳格に追求することで、ついに「第零原則」なんていうとんでもないものまでひっぱりだしてくるところも含めて。言い換えれば、これは理詰めでいくやり方だ。理詰めを追求することで、最後には「理」まで反転させてしまうようなやり方だと思う。
もちろん、こういうやり方がすべてではない。万人がこれをやるべきだとも思わないが、この小説は↑のようなやり方と比べて、ちょっと失敗しているような気がした。
本書で、竜は「とにかくすごいもので人間には殺せない」という設定になっている。しかし制限とかルールはほとんどないので、これは無定義に近い。そのため私は読んでる最中、「竜が殺されたとか言われても、設定も何もわからないのに謎なんか解けるかー」と思った。
しかし、最後まで読むと、実は謎を解く鍵はほとんど序盤に出ている(←これもネタバレか?)。だから「フェア」と言えなくもない。
が、逆に言うと、中盤の展開はほとんど本筋の謎と関係がなくなっている。
思うに、ミステリーのおもしろさというのは、解答のほのめかしにあるんじゃないか。つまり、最初に不可解な謎が提示されて、それが段々真相をのぞかせたり、実は意外なところに答えがあったりする、そういう展開が読者をひっぱるものだと思うんだ。
でもこの小説の中盤の展開はミステリー的展開になっていない。むしろ中盤はふつうのファンタジー小説になっている。要するにミステリー的な展開を書くのに作者が慣れてないだけだと思うんだが。

佐藤俊樹「世界を開く魔法」(『ファウスト』vol.5)
講談社
説明。この号の『ファウスト』では上遠野浩平特集をやっていた。
これは『殺竜事件』を中心とする上遠野浩平論。
感想:
むずかしい。舞城王太郎の話はわかるが、上遠野浩平の話はよくわからない。ファウスト読者はついていけてるんだろうか。
ところで上遠野浩平と魔法の話は以下のように言ってくれればわかるのだが、こういう話なんだろうか。
- 魔法の出てくる話(ファンタジー)というのはわれわれの世界と違う異世界が舞台だよね。
- 「異」世界が舞台であるがゆえに、魔法の出てくる話は、「(魔法の出てくる)この世界って何?」とか「(魔法のない)この世界って何?」とか、「世界って何?」系の問題に向かいがちだよ。
- ましてや上遠野浩平の小説では「隣り合う世界」がよく出てくるのだから、そういう傾向が強いよね。
- そういった感じで、あくまで世界の内側から、世界の別様可能性を探っていくようなストーリーに可能性を感じるよ。
うーん、ちょっとちがうかもしれない。あらすじを書いていたら、何となく内容はわかった。
可能世界論とか持ち出すと、もっとすっきりできるような話のような気もする(むしろ私の解釈が可能世界論に近よりすぎなだけかもしれないが)。
あと、いわゆる「セカイ系」の「セカイ」に対抗して、「ワタシ」って言ってるのだと思うが、「ワタシ」ってちょっとかっこわるくないか?
しかしこれは一応虚構論になっているのだな。もっと早く読めばよかった。
あらすじ:
1.魔法の論理学
魔法というのは不可能を可能にするものだよね。でも魔法ものでは魔法に制限をつけるのが大事だよ(ex.『鋼の錬金術師』の等価交換)。だから魔法ものは「可能」と「不可能」をめぐる話だよ。
これはミステリーと似てる。ミステリーは不可能な犯罪を合理的に解く話。だからやっぱり可能とか不可能とかの話になる。
2.呪文と叙述
ところで、魔法とミステリーはもうひとつの点でも似てる。
魔法は「言葉」と関係があるけど、ミステリーで言葉といえば、「叙述トリック」だよ。
叙述トリックというのはとんでもないもので、これをやると何でもありになっちゃう。でも、とんでもないものでも、すぐお約束になっちゃうから難しいよね。
3.「物語」の正体
ところで、叙述トリックを徹底的にやりまくることで、お約束を打ち破ろうとしたのが、舞城王太郎の『九十九十九』だったよね。ここから叙述トリック代表ということで、『九十九十九』の話をしよう。
『九十九十九』は聖書に似てる。新約聖書というのは、旧約の謎解きだった。しかも答えである福音書は複数用意されている。聖書は迷宮入りした叙述トリックだよ。
聖書を信じるプロテスタントと同じように、『九十九十九』には、「どこかに答え(神の言葉)が隠されている」という信念が感じられるよ。一見破壊的な『九十九十九』だけど、その裏には、「物語の外の真理を見たい(でも見れない)」という感覚があるんじゃないかな。
4.底無しの抜け方
つまり『九十九十九』は、「すべてを破壊して物語の外に出よう」という話ではなく、「破壊しても破壊しても物語の外に出られないよー。わーん」という話なんだ。
この「外に出たい! 出られない!」というのは地方都市出身者ならではの感覚だね。
あとミステリらしいと言えなくもないよね。
5.「事件」の構造
ところで、2では叙述トリックと魔法を比較したけど、ここから魔法代表ということで、上遠野浩平の話をしよう。
叙述トリックは作品世界の外の語り手を登場させる。でも魔法は物語の中にとどまるよ。魔法はむしろ、物語の中に法則外の存在(物語の外)を導入するんだ。
そうやってより大きな世界の法則へと進んでいくのが魔法物だね。上遠野浩平は魔法ミステリを描いたけど、これの特徴は、ミステリの謎が事件の謎だけではなく、世界の謎につながっていくことだよ。
6.可能(できる)と不可能(できない)の反転
上遠野浩平の魔法ミステリについて考えるために『殺竜事件』の話をするよ。
竜というのは定義からして絶対殺せないものだった。それを殺すんだから、こいつはとてつもない不可能犯罪だね。
つまり物語自体の構造をゆるがすような事件が問題になっているんだ。だけど、叙述トリックのように物語の外に出たりはしないよ。いわば、『殺竜事件』は、外に出ないで物語のはしっこを歩いていくような話だよ。
魔法もののおもしろさっていうのは、こういう風に、世界の内側で、世界の「別様可能性」を問うところにあるよね。
7.世界とワタシ
↑のように、世界の内側で、世界のエッジに触れるような人を、「ワタシ」と呼ぼう。上遠野浩平の小説には、よくこの「ワタシ」が出てくるよ。
8.「現実」と「虚構」
(この節はよくわからない。ちょっと解釈しすぎかもしれない)
上遠野浩平の「ワタシ」は、村上春樹とも加藤典洋ともセカイ系とも違うよ。
(以下書いてないけど補足
【補足 -- ここから --】
可能世界に関する議論で、こういうのがあるよね。
「もし君が身長2メートル以上だったら...」ってな会話をわれわれはよくするよね。この時、この会話は「君が2メートル以上である可能世界」を仮定しているわけだ。ところで、この「君」は現実の君とは別の物を指すんだろうか。そんなはずないよね。もしそうだったら意味が通じなくなるよね。
ということは、個人(など固有名によって呼ばれるもの)は複数の可能世界に横断的に存在するものだということになるよね。
つまり、複数の世界が「私」とかそういう個人の存在によって結ばれているのだと言えなくもないよね。
【補足 -- ここまで --】)
「現実なんてすべて虚構だ」っていうのはおかしいと思うんだ。
これは「こっちが現実」「あっちが虚構」というのを前提にした発言だ。
でも本当はむしろ、こっちから見るとあっちが虚構だったり、あっちから見るとこっちが虚構だったり、複数の世界が並行に隣り合うものなんじゃないか。
そんな風に、「虚構から見た現実の私」がいたり、「現実から見た虚構の私」がいたり、私を通じてつながる隣り合う世界があって、現実と虚構の境界は折り重なっているんだ。
上遠野浩平はそういう世界を描いているよね。
ところで、これは色んな問題にあてはまる話だよね。
例えば「大きな物語(普遍的で万人が共有する物語)はない」なんてことを言う人がいる。でもこれは「大きな物語はない」っていう大きな物語をつくってるだけだ。
あるいは「客観的な真理なんてない」っていうのも客観的な真理だよね。
9.竜の殺し方
じゃあどういう語り方をすればいいんだろう。わからないけど、中心のない複数のない世界を考えるってことは、その語り方を考えるってことなんじゃないか。
東浩紀も前の『ファウスト』でそういうことを考えていたよね。でも彼のルーマン解釈はいただけない。彼の言い方だと、ルーマンがコミュニケーションの概念で現代社会を説明しようとしたみたいになっちゃう。
そうじゃなくて、ルーマンも本当は、↑のような問題を考えた人なんだ。
ルーマンは「コミュニケーションの意味は、他のコミュニケーションとのつながりによって決まる」って言った。
(書いてないけど補足。
【補足 -- ここから --】
例えばこんな例がある。電車で席を立ったとき、そこに老人が座れば席をゆずったことになる。老人が気づかなければ、席をゆずったことにはならないかもしれない。こんな風に、そのあとどんな出来事がつながっていくかで、その出来事の意味自体が変わっていくんだ。
【補足 -- ここまで --】)
これは、何が虚構で何が現実かってことが、後から変わってしまうかもしれないっていう怖い話なんだ。
今ある出来事に、将来どんな出来事がつながるのかわからない。もしかしたら、そのせいで「今日の虚構が明日の現実」になるかもしれない。
案外そういったこと自体が「中心のない複数の世界」について一番教えてくれるのかもしれないね。
10.隣りあうこと
人っていうのは、何が起こるかわからない世界から目をそむけるために、安定した現実を想定しがちだよね。
ところでルーマンは「私たちは現実をマスメディアから知る。マスメディアが信用できないってことさえマスメディアから知るんだ」みたいなことを言っている。
これは「現実はマスメディアのつくった嘘ばっかりだ」という発言とは違うよ。
もう何が現実で何がつくられたものだか、わけがわからないくらい、「つくられたものかもしれない」という可能性に触れているってことだ。
上遠野浩平の、何が現実で何が虚構かってことがずれていくような多数世界は、こういう感覚をよく描いているよね。
あと、これって要するに「人のしたことが他の人のしたことにつながっていく」ってことだから、何かいいよね。
横溝正史『犬神家の一族』
角川文庫
誰でもあることかもしれないが、私はわりと「自分が読んでそうなものは読んでおかなければならない」と思うことが多い。例えば私は『スタートレック』を観たことがないが、自分は『スタートレック』を好きそうな感じを人に与えているんじゃないかと思うので、早く見るべきだと思っている。
横溝正史も、読んだことがなかったのだが、読んでそうな感じがするんじゃないかと思ったので読んだ。映画化してちょっと流行ってるらしいし。読んでそうなのに読んでないと恥ずかしいから。
感想:
エンタテインメントしていていいなと思う。
クーンツの『ベストセラー小説の書き方』* によると、推理小説で大事なのは、「早く事件が起こること」らしい。はじまって早々第一の殺人が起こる『犬神家の一族』はその点ぬかりない。
田舎の名家の三兄弟を襲う殺人事件とか、不気味な仮面の男スケキヨとか、小道具もばっちりだ。
* 10 冊には入れなかったが、この『ベストセラー小説の書き方』は去年読んだ本のなかでは非常におもしろかった部類に入る。日本人の著者(例えば高橋源一郎)なら絶対書かないような極端でわかりやすいアドバイスが満載されている。
あらすじ
名探偵金田一耕助が「犬神家の相続問題が大変だ」という依頼を受け、はるばる長野(だったっけ?)まで来た。来たけど依頼人はあっさり殺される。
犬神家の相続問題はこんな感じ。
地方の名家犬神家の爺さんが死に、遺言が公開される。
遺言は居候の珠世をやたらと優遇するものだった。犬神家の三兄弟のうち、珠代と結婚したものが一番遺産をもらえる。誰も結婚しなければ、珠代だけが遺産をもらう、とか何とか。不気味なのは、三兄弟が殺された場合について、やけに詳細に書かれていること。三人全員が死んだ場合、珠代と、謎の男「青沼静馬」だけが得するようになっている。
それで案の定犬神家の三兄弟が殺されていく。三兄弟というのは、佐清(スケキヨ)、佐武(スケタケ)、佐智(スケトモ)。長男があの有名なゴムのマスクをかぶったスケキヨ。
詳しくは↓イメージ検索でもどうぞ。
http://images.google.com/images?rls=ja&q=%E4%BD%90%E6%B8%85
スケキヨはラバーフェチ、ではなく、戦争で顔を怪我したのでマスクをかぶってる。「マスク」という時点で想像がつくように、「スケキヨ偽者説」なども出て、事態は混迷をきわめる。
まああとはネタバレになるので省略。トリックがどうのというよりは、おどろおどろしい雰囲気を楽しむものだと思う。

上野修『スピノザ - 「無神論者」は宗教を肯定できるか』
シリーズ・哲学のエッセンス、日本放送出版協会
感想 ? :
「文法」という概念について考えたいなあと思っていたので読んだ。おもしろかったが文法概念についてわかったのかどうかは定かではない。
読んでるとき、偶然 id:shim ( http://d.hatena.ne.jp/shim/ ) に会ったので、前半の内容を解説してやった。shim は「敬虔の文法」を「プログラム」と言い換えて理解した。「プログラム」も悪くはないと思った。
「文法」について :
ちなみに文法概念とは私の理解では以下のようなものである。
小林秀雄「さまざまな意匠」には、「人は可能なことしか欲望できない。月に行くことを欲望することはできない」と書いてある。「月に行く」は今時可能なので欲望できるかもしれないが、『月を活け作りにすること』とか『月を太陽が木星すること』を欲望することはできない。「私は月を活け作りにしたい」とか「私は月を太陽が木星することをしたい」とか言われても、比喩的にとるのでなければ、そもそも意味がわからないし。文法的に不可能なことを欲望することはできない。
このように、欲望のような不定形(とされがちなもの)でさえ、文法的な「可能/不可能」によってあらかじめ制限されている。人が何を「欲望」できるかということは、「欲望」という概念の文法によってある程度は決定ずみである。
文法による制限は、物理的な制限とも倫理的な制限とも違った何か意味に関係のあるものである。
あらすじ:
前半:『神学・政治論』の神学ブロックについて。
スピノザの『神学・政治論』はヘンな本で、「聖書に書いてあることは嘘ばっかり」と言いつつ「でも聖書はあれでいいんだ」と言っている。
この矛盾について、「本当は聖書批判をしたかったのだが、弾圧を恐れたので後者の主張をつけたしたのだろう」と解釈する人もいる。でもそれはちがう。
当時聖書解釈の主流は、知識人の間でも、宗教者の間でも、「聖書はこの世界の真理を記した本だ」というものだった。宗教者は文字通りに聖書を信じようとするし、知識人は聖書の内容を比喩的に解釈することで、無理矢理聖書の内容を真理にしようとしていた。
しかしスピノザは、そうした聖書解釈を改めるべきだと言ったのだ(と本書は主張する)。つまり、聖書というのは、『敬虔』『信仰』するための文法を記した本だ。哲学的な真理について述べた本ではない。
だから『聖書』の記述は嘘ばかりでも別にかまわない。そもそも真理を書くことが目的ではないのだから。
後半:『神学・政治論』の政治ブロックについて。
『敬虔』の文法は隣人愛を含む。隣人愛とは「他人の権利を自分の権利と同じように守れ」。ここから国家の話になる。
スピノザ的には「ヘブライ神政国家」は共和国と同じ。なぜなら彼らの言う「神」は嘘の神なので、「神の命令に従おう」というのは「みんなの決めた決まりに従おう」という社会契約と同じになるから。
そんな感じでスピノザは共和国が信仰と全然矛盾しないことを証明した。でもそんなこと言われても誰も理解できなかった。
【目次】
- はじめに
- 第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか オランダ共和国/デカルト主義者たちの不安/不敬虔という問題
- 第2章 敬虔の文法 解釈の狂気/真理条件から主張可能性条件へ/預言者の語り得たこと/普遍的信仰の教義/神学と哲学の分離──無関係の関係
- 第3章 文法とその外部 神学から政治論へ/最高権力の「最高」を構成する/敬虔の政治論的な文法/文法の外部/自由の擁護
- 第4章 『神学・政治論』の孤独 偽装された無神論?/三大詐欺師?/奇蹟と迷信/有徳の無神論者というパラドックス スピノザ小伝

『虚構世界の存在論』
三浦 俊彦 (著)
勁草書房
一言でいうと、英米の哲学を援用し、虚構の論理的位相を問うた本。
1章では作品概念の検討を行う。作品の同一性を外延によって規定する立場と現象的感覚的特徴によって規定する立場の二つが検討される(要するに著者よりで作品を考えるのか、読者よりで考えるかの違い)。本書では後者が選択される。
2章では虚構世界における完全性の問題を扱う。完全性の問題とは、「虚構世界とは『シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は偶数であるか奇数であるか』といった隅々の事象まで決定された世界なのか、それとも空白部を含む世界なのか」という問題。不完全説は取り下げられ、「一つの作品に虚構世界が複数ある」という説が一応もっともらしいものとされる。しかし著者は虚構世界を単数にしておきたいらしい。
3章では虚構世界における矛盾の問題を扱う。矛盾の問題とは、「虚構世界が『Aかつ非A』のような強い矛盾を含むと、強い矛盾の下ではあらゆる命題が真となってしまう」問題のこと。ブラッドベリの『雷の音』(いわゆる「タイム・パラドックス」を含む小説)が例にあげられる。著者は、強い矛盾を回避するために、小説の解釈を改めるのがよいとしている。ここまでは良いとしても、ここの結論部は首肯しがたい。「強い矛盾を回避するための解釈」として著者が持ち出してきたのはすべて集団幻覚だったというもの。誰も思いつかないような解釈を持ち出して矛盾を回避することに何の意味があるのか...。
4章では虚構的対象(キャラクター)の存在について諸説が検討される。書き下ろしでもあり、一応本書の目玉となる部分か。勉強になる。
5章は結論。これまでの展開を踏まえ、「虚構世界実在論」が主張される。
【目次】
- 第1章虚構作品とは何なのか
- 1作品の変貌と同一性
- 2外延と現象
- 3発見と規定
- 4作品の可能態
- 第2章虚構世界とは何なのか:不完全性
- 1余剰情報と不確定性
- 2不確定性への三つのアプローチ
- 3排中律と二値性
- 4発見、選定、創造
- 5D・ルイスの集合説
- 6外挿原理と曖昧さ
- 7固体の追跡
- 第2章虚構世界とは何なのか:矛盾
- 1矛盾に依拠するも物語
- 2二種類の矛盾
- 3合併の方法
- 4解釈の存在論
- 5論理的非閉鎖と最小離脱
- 6論理的メタファー
- 72055年に何が起こったか
- 第4章虚構的対象とは何なのか諸説概観
- 1記述理論(ラッセル)
- 2擬装主張説(サール)
- 3還元主義(ライル)
- 4マイノング主義(パーソンズ)
- 5理論的実体説(ヴァン・イワーゲン)
- 6種類説(ウォルターストーフ)
- 7寓意説(プランティンガ*)
- 8代入的量化説(ウッズ)
- 9状況説(ハインツ)
- 10 de re可能多世界説(クリプキ)
- 11 物理主義(クリプキ、カプラン、ドネラン)
- 12 de dicto可能多世界説(ルイス)
- 13 de dicto超世界説
- 14 メイクビリーブ説(ウォルトン)
- 15 de re心眼理論(ハウエル)
- 16 限界仮説と唯一仮説(スタルネイカー)
- 17 虚構論の判定軸
- 第5章虚構理論とは何なのか
- 1現象主義と一世界説
- 2
メイクビリーブとしての世界観
定義は「昨年はじめて読んだ本」。新刊、旧刊は問わないものとする。順不同、優劣はなし。ちなみに昨年はライトノベル縛りを自分に課したところなので、ライトノベルが多くなっている。
選ぶのに苦労した。読書生活が1年ですっぱりと区切れるわけではないので、どれが昨年読んだものだったのか意外と覚えていないものだ。
M川が以前、「ベストを選ぶときは、読んだ本を全部書いてからにしてほしい」と言っていたが、読書手帳をまめにつけてないかぎり無理だなあと思った。
基準としては、「おもしろかった」よりも「その本のことをよく考えた」「影響を受けた」を重視した。
毎年思うのだが、私は本当に新刊を読んでいない。時代に背を向けているようでイヤなので、新刊を読むことを来年の目標としたい。
(時代に背を向けていたら『涼宮ハルヒ』は読まないと思うが)

1)『NHKにようこそ !』
滝本 竜彦 (著)
角川文庫
1)について。
非常に太宰治らしい太宰治。自虐私小説部分もよいけど、フィクションらしいフィクションであり、救いのある「お話」である岬ちゃんのエピソードをきちんと書けるところが才能だと思う。しかしその辺の「自虐リアリズム」と「救いのあるフィクション」のミックス具合がなんとも太宰治的だ。

2)『虚構世界の存在論』
三浦 俊彦 (著)
勁草書房
2)について。
マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』でもいいけど、まだ読み終わってないのでこちらを選んだ。この本がおもしろいというより、今年の後半は虚構理論について考えることが多かったので、その文脈で1冊あげる。この本自体についていえば、三章の結論部以外はいい本だ。ただし、かなりの奇書である。手法(論理学)と対象(文学)の結合の仕方も奇妙なら、出てくる結論もいろんな意味で奇妙だ。『ドグラマグラ』を越える一冊と言えるかもしれない。

3)『銀河パトロール隊 - レンズマン・シリーズ 1』
E.E. スミス (著), E.E. “Doc”Smith (原著), 小隅 黎 (翻訳)
創元 SF 文庫
3)について。
表面的な欠陥はいっぱいある。大体「マッチョなヒーローが悪い宇宙人を倒す話」だという時点で真面目に読んでられない人も多いだろう。しかし「とにかくおもしろい」という一点でレンズマンシリーズにかなう作品はほとんどないだろうと思う。「とにかくおもしろい」「先が気になって仕方がない」というのは暴力的なほどに有無を言わさない力で、とても確かなものなので好きだ。
4)『鋼鉄都市』
アイザック・アシモフ (著), 福島 正実 (翻訳)
ハヤカワ SF 文庫
4)について。
『ファウンデーションの彼方へ』をあげたいところだが、あれは1冊だけ読んでも仕方のないものなので、1冊としての完成度が高いこちらを選んだ。SF ミステリの傑作だが、何よりもまず「ダニール萌え~」と言いたい。ロボットの人らしさを描きながら、最初に設定したロボット三原則だけは絶対に歪めないところがアシモフの天才だと思う。
5)『新ナポレオン奇譚 - チェスタトン著作集 10』
G.K.チェスタトン (著), 高橋 康也 (翻訳), 成田 久美子 (翻訳)
春秋社
5)ついて。
本当なら「ナショナリズムを考える5冊」などに毎回あがってもいい名作だと思う。あらすじは、ノッティングヒルを含むロンドンの各市街が市街愛にめざめ、市街のために剣をとって戦うという話。東京で言えば、経堂や東松原や笹塚の人々が、「経堂愛」、「東松原愛」、「笹塚愛」等々に目覚め、市街のために剣をとるという話だ。原題の『ノッティングヒルのナポレオン』は、東京で翻訳すれば、『自由が丘の織田信長』『駒場東大前の始皇帝』のようなニュアンスか。要するに目茶苦茶なタイトルの目茶苦茶な小説だ。

6)『新本格魔法少女りすか』
西尾 維新 (著)
講談社ノベルス
6)について。
西尾維新は「ジャンプ漫画のおもしろさをそのまま小説に書ける」ことを証明した。個人的には、それだけで文学史にのこしてよい偉業だと思う。

7)『涼宮ハルヒの憂鬱』
谷川 流 (著), いとう のいぢ (イラスト)
角川スニーカー文庫
7)について。
「最近のライトベルってこういう感じなんだー」「メタで世界(セカイ)な感じなんだー」という衝撃を感じた1冊。この作品自体について言えば、著者はふつうにとても頭のよい人なんだろうなあと思った。

8)『星界の紋章〈1〉帝国の王女』
森岡 浩之 (著)
ハヤカワ JA 文庫
8)について。
『星界の紋章』はふつうにとてもおもしろい物語で、そこが正当に評価されているので、あまり言うことはない。昔『ホビットの冒険』を読んだときに感じたような、「おもしろいなあ。この世界のことをもっともっと知りたいなあ」といった種類の感情を喚起する。「ほにゃらら家のほにゃらら侯爵」みたいなベルばら的世界観さえ乗り越えれば、たいていの人は楽しめると思う。

9)『ディアスポラ』
グレッグ・イーガン (著), 山岸 真 (翻訳)
ハヤカワ SF 文庫
9)について。
SF の王道。科学に関する描写がとてもむずかしいという点さえ乗り越えれば。
10)『微笑みの伝道師 - 倉戸と蜂須の奇怪探偵通信』
アーカイブ騎士団
http://www.at-akada.org/archive/
「その1冊のことをよく考えた」という定義でいくと、一番考えたのは自分で書いたものに決まってるわけで。
自画自賛をしたいわけでもないのだが、この1冊をのぞくと昨年を振り返っている気がしないのであげておく。





































































































