現代の巨匠 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

空っぽの目玉は知っている
知識は非現実を増し
鏡に映った鏡のなかの鏡は、すべてショーだということ
                 ――W.B.イェイツ

1923年以来最高の水準の詩、ストーリー、批評的エッセイを書いてきたにもかかわらず、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、まだまだアメリカ合衆国ではラテン・アメリカでよりもずっと知られていない。ジョン・ピール・ビショップ、ハート・クレーン、E.E.カミングズ、ウィリアム・フォークナー、エドガー・リー・マスターズ、ロバート・ペン・ウォレンおよびワレス・スティーヴンズの翻訳者にとって、こんな軽視はちょっとばかり不公平だ 。しかしながら、この国でも彼が発見されつつあり、フランスで受けているのと同じような熱意でもって迎えられているという兆候もある。フランスでは彼は大きな批評的関心を持たれ、翻訳も非常によくなされている。英語での翻訳が、最近何冊か出版されたが、そこには彼の最新の本『創造者』(Dreamtigers *1, trans. Mildred Bayer and Harold Morland [Austin: University of Texas Press, 1964])の優れた訳や、『迷宮』 (trans. Donald Yates and James E. Irby[New york: New Direction, 1962])の新訳(初版は1962年)も含まれている。アメリカ、イギリスの批評家たちは、彼を今日生きている最高の作家のひとりと呼んだが、今までのところ(私の知るかぎりでは)、彼の作品の解釈へ本質的な寄与はなされていない。こう遅れているのにはもっともな理由がある。ボルヘスは複雑な作家であり、とりわけ位置づけることはむずかしい。注釈者たちは比較にふさわしい点をむなしく探し回っており、彼が自ら公言している文学上の賞賛も混乱を増している。カフカや現代フランスの実存的作家たちのように、彼はしばしば時代に反逆するモラリストと見られている。しかしそうしたアプローチは誤解をまねく。

*原注1 他の翻訳は、アンソロジーに収録されたストーリーやレビューをのぞくと、『伝記集』Ficciones(ed. Anthony Kerrigan[New York: Grove Press, 1960])に収録されている。ボルヘス作品の書誌データは(その中にはいくつかの批評的研究も含まれている)、『迷宮』Labyrinthsの新編集版で見ることができる。さらに広範にわたる書誌目録は、ちょうどパリで出たところである。L'Herneの最新号を見よ、この号は丸ごとボルヘス特集号になっている(Paris: Lettres modernes)。

確かに、とりわけ初期作品でボルヘスは悪人について書いている。『汚辱の世界史』 という短編集(Historia universal de la infamia, 1935)は、悪漢たちの魅力的なギャラリーともなっている。しかしボルヘスは汚辱を、第一にモラル的なテーマだとは考えていない。これらのストーリーは社会に対する告発や、人間の本性や運命の告発を、まったく示していない。また、ジイドのニーチェ的主人公、ラフカディオの快活な視野を示すのでもない 。むしろ、汚辱はそこで美的、形式的原理として機能している。このフィクションは文字通り悪がその核に存在しなければ、形を取ることができなかったのだ。多くの異なった世界が呼び出されている――ミシシッピー流域の綿プランテーション、海賊の巣食う南洋、開拓時代の西部アメリカ、ニューヨークのスラム、日本の侍屋敷、アラビアの砂漠、等々――が、それらすべては中心で秩序付けている悪人の存在がなければ、形なきものとなっただろう。

よい実例を、文学的主題をめぐる架空のエッセイから引き出すことができる。これはボルヘスが『汚辱の世界史』と同じ時期に書いていたものだ。学問的批評の書体から、スタイル上の慣行を借りているため、それらのエッセイはエンプソン、ポーラン、PMLAの組み合わせのように読める 。ただし、それらが非常に簡潔でひねくれたものであることをのぞけばだが。千夜一夜物語の翻訳をめぐるエッセイでは、ボルヘスは印象的なリストを引いているが、それを見れば、どの翻訳者もどの翻訳者もが、容赦なく原典を切り縮め、拡大し、ゆがめ、偽造して、自分とその読者との美的・道徳的基準に合わせようとしている様子が見られる。このリストは――それは実際人間の悪徳の全カタログにまで達するのだが――、エンナ・リットマンの立派な人格で頂点をむかえる。この人物による1923‐28年の版は誠実に正確なものだ。だが「ジョージ・ワシントンのように、うそを言うことができないために、彼の作品が明らかにするのは、ドイツ的な正直さだけにすぎない」。この翻訳は、ボルヘスの目には、他のすべての訳よりはるかに劣っている。それは文学的連想という富を欠くが、それこそが他の悪い翻訳者たちに、言葉の深みを、暗示性を、曖昧さを――一言でいえばスタイルを、与えているのだ。芸術家は、スタイルを創造するために、悪の仮面を被らねばならない。

ここまでは問題ない。われわれ皆が知っているように、詩人は悪魔の一党に属しており、悪徳は、美徳よりも良いストーリーをつくりだす。『新エロイーズ』を『危険な関係』より好むには、いくらか努力がいるだろうし、もっと言えば『新エロイーズ』の第二部を第一部より好むのもそうだろう 。ボルヘスの汚辱というテーマは、ただの新たな世紀末的耽美主義、すなわちロマン的苦悩の遅れてきた息切れなのかもしれない 。あるいは、ひょっとしたらより悪いことに、彼はスタイルの虚飾から逃避し、道徳的絶望をもとに書いているのかもしれない。しかし、そんな推測は、そのスタイルへのコミットがいまだ揺るがない作家の意に反することになる。ボルヘスの実存的不安が何であれ、それはサルトルのたくましく散文的な文学観とも、カミュのモラリズムの誠実さとも、ドイツ実存思想の重々しい深遠さとも、ほとんど共通するものを持っていない。むしろそれは、純粋に詩的な意識をその極限にまで一貫して拡大しようとするものだ。

ボルヘスの文学作品の大部分を構成するストーリーは、しばしば誤解を招くような比較をされているが、カフカのそれのような、モラル的寓話や喩えではない。まして精神分析の試みではない。一番ましな文学上の類比は、18世紀の哲学的コントとの間のそれだろう 。彼らの世界は、実際の体験ではなく、知的な命題の表現だ。誰も『ボヴァリー夫人』と同じ種の心理学的洞察や、私的体験の直接さを、『カンディード』から期待しはしない 。そしてボルヘスは19世紀小説よりも、ヴォルテールのお話に対して持つような期待をもって読まれるべきだろう。しかしながら、彼が18世紀の先駆者たちと違っているのは、ストーリーの主題が、スタイルの創造それ自体にあるという点だ。つまり、ボルヘスがとても明確に、ポストロマン主義的であり、ポスト象徴主義者でさえあるという点である。彼の主要なキャラクターたちは作家の原型であり、彼の世界は高度にスタイル化された詩やフィクションの原型となっている。調子や設定の多様さにもかかわらず、そのさまざまなストーリーはみな似た出発点、似た構造、似たクライマックス、似た成果を持っている。これら四つのモーメントを結びあわせる内的な強制力が、ボルヘス特有のスタイル、およびこのスタイルに対する彼のコメントを構成している。彼のストーリーはスタイルについてのものであり、そのスタイルのうちで当のストーリーが書かれているのだ。

その中心には、前述したようにいつも汚辱という行為がある。『迷宮』の最初のストーリー、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」は、架空の惑星の完全な想像上の世界を描いている。一方この世界が最初にほの見えるのは、ひとつの百科事典のなかなのだが、この事典はそれ自体『ブリタニカ』の時期はずれの焼き直しだ。「刀の形」では、ひとりの恥ずべきアイルランド人――彼は、後にわかるように、自分の命を救った者を裏切った――が、自分のストーリーをよりおもしろい仕方で語るために、身元をいつわり自らの被害者のふりをする。「八岐の園」では、主人公は中国人であり、第一次世界大戦の間、イギリスに対しスパイをするが、それは主に純化された迷宮のような隠蔽工作をなしとげるためだった 。これらの犯罪はすべて、剽窃、なりすまし、スパイ活動といった悪事であり、そこでは誰かが自分ではないもののふりをし、誤解を招く見かけ[仮象]でもって現実の存在を置き換える。彼の初期のストーリーで最高のもののひとつは、顔を金の仮面で隠した宗教的ペテン師、ハキムの搾取を描いている 。ここでは悪の行為の象徴的機能は、とてもはっきりしている。ハキムははじめ染物師だった、つまり、オリジナルは褐色で灰色のものを、明るく美しい色に仕立てる者だった。この点で、彼は芸術家に似ている。芸術家は、おさえがたく魅力的な特質を、必ずしもそれを持っていないものへと付与するのだ。

美の創造は、そのようにして二重性の行為としてはじまる。作家は、鏡のように裏返ったもうひとつの自己を生み出す。この反‐自己のなかで、オリジナルの美徳と悪徳は奇妙にねじまげられ裏返される。ボルヘスはこの過程を『ボルヘスとわたし』という後期のテクストでするどく描いている(これは『迷宮』に収録されており、いくらかよい訳が『創造者』にも入っている) 。彼は、もう一人のボルヘスの「いつわり、誇張するという邪悪な習慣」に気づいているが、ますますこの詩的仮面を生み出してしまう。この仮面は「[彼の]好みを共有してはいるが、それを俳優の属性に変換しようという、むなしい仕方で共有しているのだ。」この行為によって、人は自分の創ったイメージのなかで自分自身を失う。だが、それはボルヘスにとって、詩的な偉大さと不可分である。セルバンテスがそれをなしとげたのは、彼がドン・キホーテを創り上げ、ドン・キホーテになったときだった。ヴァレリーがそれをなしとげたのは、彼がムッシュー・テストを考案し、ムッシュー・テストになったときだった。芸術家の二重性は、職業的な不幸のみならず、偉大さでもあるのだが、汚辱の主題と密接に結びついて繰り返される主題だ。おそらく、その最も完全な取り扱いがなされているのは、『迷宮』の「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」 というストーリーでのことだろう。想像上の作家の作品と人生が、忠実な伝記作家によって描かれる。物語が展開するにつれ、細部のいくつかが、見覚えのある円環を描きはじめる。いんちきで、商業的で、スノッブな地中海的雰囲気であるが、それは本当の人物が誰であるかを思い起こさせる。そして、メナールが初期のソネットを『ラ・コンク』という雑誌に発表したと言われるとき、ヴァレリーの読者は誤ることなく、モデルを特定できるだろう。(ヴァレリーの初期の詩のいくつかは、実際『ラ・コンク』に発表され、ピエール・ルイスによって編集された。ただしボルヘスによればメナールの最初の出版はそれより少し前のことだが。)少し後で、メナールがポール・ヴァレリーに対する中傷の著者であり、また『海辺の墓』をアレクサンドル格に翻訳するという、ショッキングなスタイル上の犯罪を働いた(ヴァレリーはいつも、この有名の詩の本質は10音節の韻律にこそあると主張していた)ことが明らかになるとき、そこにいるのがヴァレリーの反‐自己、言い換えれば、ムッシュー・テストであるのはもはや疑いようもない。事態は、二、三段落後にいっそう複雑になるが、そこでメナールは、ドン・キホーテを逐語的に創り直すという奇妙なプロジェクトに乗り出す。そして、ボルヘスが「綿密な読み」を、ドン・キホーテから取られた二つの同一の引用文――ひとつはセルバンテスの書いたもので、もうひとつはピエール・メナール(彼はムッシュー・テストでもあり、ヴァレリーでもある)のもの――へほどこすと、あまりに複雑な一連のアイロニー、パロディ、反省[reflection]、論題たちが遊びだすので、短い論評ではとてもそれらを正しくあつかうことはできなくなる。

詩的な介入は、二重性においてはじまるが、そこで止まるのではない。作家の個別の二重性(「ハキム」における染物師のイメージ)は、彼が、つくられた形式を、あたかも現実の属性を持つかのように見せかける、という事実に由来している。そうして、今度はその形式がまたべつの鏡の像のなかで、模倣的に再生産されうるようになり、その像は先行する偽現実[つくられた形式]を、それ自身の出発点とする。彼は、「存在という神的なカテゴリーを、単なる[もの]へ付与しようという冒涜的な意図によって」駆りたてられている 。結果的に、二重化は連鎖的な鏡の像の増殖にまで成長する。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」では例えば、剽窃された百科事典がそれ自体、何者かによって偽造されており、ウクバールという架空の地域の記事を書きくわえられている。そして、ウクバールが架空の国の一部であるかのように見せかけるのを自分の出発点としつつ、別の偽造者(ちなみに南部の分離主義の百万長者である)が、影の専門家チームの助力を得て、架空の惑星トレーン――それは、この本当の世界と同じ大きさを持つ偽現実である――の完全な百貨事典を出現させる。この版につづいて、今度は、改訂されたより詳細な版が現れるが、それは英語ではなくトレーンの言語のひとつで書かれており、『オルビス・テルティウス』と題されている。

すべてのストーリーは類似した鏡のような構造を持っているが、その意匠は邪悪な巧妙さで変化させられている。時々、ひとつしか鏡の効果がないこともある。「刀の形」の最後で、ヴィンセント・ムーンが、真のアイデンティティ――自分のストーリーのなかの主人公ではなく、悪役であること――を明かすときのように。しかしボルヘスのほとんどのストーリーでは、反射reflectionのいくつかの層がある。『迷宮』に収録された「裏切り者と英雄のテーマ」では、(1)実際の歴史的事件――革命のリーダーが支持者を裏切り、処刑されねばならない。(2)そうしたできごとを描いた虚構のストーリー(ただしこれは裏返った形でではないが)――シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』。(3)その虚構をコピーする実際の歴史的事件。つまり処刑は、シェイクスピアのプロットに従って実行されることで、すぐれたショーになるよう配慮されている。(4)困惑した歴史家。彼は、まったく同一な虚構および歴史的事件の間の奇妙な入れ替わりを反省reflectingし、そこから歴史的元型という誤った理論を引き出す。(5)もっと利口な歴史家、つまりボルヘス(ないし、彼の二重化された反自己)。彼は、信じやすい歴史家を反省reflectingし、事件の正しい経過を再構築する。『迷宮』の他のストーリー、「不死の人」、「ザーヒル」、「死とコンパス」では、複雑化はあまりにも遠くまで進められるので、描写するのはほとんど不可能だ 。

この鏡のような増殖は、ボルヘスにとって、詩的な成功を示すものとなっている。彼が最も称える文学作品たちは、この要素を含んでいる。彼は文学のなかのこうした鏡の効果に魅惑されてきた。エリザベス朝の劇中劇、『ドン・キホーテ』を読むドン・キホーテ、『千夜一夜物語』のストーリーを一字一句そのままに語りなおすことでひとつの夜をはじめるシェヘラザード。というのも、それぞれの鏡像は、先行するものよりスタイルの上ですぐれているからだ、染められた布地が素の布よりも美しく、ゆがめられた翻訳がオリジナルよりもゆたかであり、メナールのドン・キホーテがセルバンテスのものより美的に複雑であるように。この過程をその限界まですすめることで、詩人は究極の成功をなしとげる――すべての物事の全体を含むような、現実の秩序立った図画、それは、それらを生み出した想像的な過程によって、微妙に変形され、富まされている。トレーンの想像上の世界はこの詩的達成のひとつの例にすぎない。それはボルヘスの作品全体にくりかえし現れ、実際、中心的な、クライマックスのイメージを構成しており、その周りにそれぞれのストーリーが組織されている。それは哲学的には、トレーンの精神的宇宙を形作る一貫した法則の集合でもありえる。あるいは、完全な記憶という恐ろしい才能を恵まれた(呪われてもいる)男、「1882年4月30日の夜明けの南の雲の形」や「ポニーのなびくたてがみを、変わりゆく火と、その無数の灰を」「暗記している」男の幻想的な世界でもありえる(「記憶の人、フネス」『迷宮』収録)。それははてしなく拡大されうる――「八岐の園」の、終わりなき本でもある無限に複雑な迷宮のように。また高度に圧縮されうる――そこから全宇宙を観察することのできる、ある家のある点のように(「エル・アレフ」)、あるいは、それ自体がいくら取るに足らないものであっても、「宇宙の歴史と因果の無限の連鎖」を含む、一枚のコインのように(「ザーヒル」) 。全体的ヴィジョンを持ったこれらすべての点や領域が象徴しているものは、この詩人の秩序への抑えがたい衝動の成果、完全に成功し人を欺く成果である。

これらの詩的世界の成功は、その全‐包含的で秩序立った全体性によって表現される。その嘘つきな本質は、定義しがたいものだが、ボルヘスの理解には不可欠だ。鏡像は、確かに現実の複製[二重化duplications]であるのだが、しかしこの現実の時間的本質を、狡猾なやり方で変化させてしまう、たとえ模倣がすべて成功したとき(メナールのドン・キホーテのように)であっても――あるいはその時こそ特に、と言えるかもしれない。実際の体験のなかでは、時間は連続的だが無限であるように見える。この連続性は、安心させてくれるように思えるかもしれない、なぜなら、同一性の感覚を多少与えてくれるから。しかし、それはまた恐ろしくもある、なぜなら、不可逆に知られざる未来へ引きずっていくから。「本当の」宇宙は宇宙空間[space]に似ている。安定的だがカオス的だ。もしもボルヘスのスタイルへの意志に匹敵するような精神の行為によって、このカオスを秩序付けるならば、一種の秩序を達成するのに成功するだろうが、一方でこのカオス的宇宙をとりまとめ、束ねている空間的実体を解体してしまうだろう。実体の無限の塊のかわりに、相互に関係をつけられない、有限の孤立したできごとをえることになる。ウクバールというボルヘスの全体的詩的世界の住人は、「空間的なものが時間のなかで持続するとは考えない。地平線上に煙を知覚し、それから燃える草原を知覚し、また半ば燃えのこり火を放つ煙草を知覚しても、観念連合の実例としか考えない。」ボルヘスのこのスタイルは、秩序付けるが解体的な行為となり、体験のまとまりを、不連続な部分を列挙することへと変形してしまう。それゆえ彼は緊密なスタイルstyle lieを拒否して、文法学者が並列法と呼ぶもの、つまり接続詞なしにできごとをただ並べていくことを好むのだ。またそれゆえ彼は自らのスタイルをバロックと定義する。「そのすべての可能性を意図的に使いつくす(または使いつくそうとする)スタイル」*2。このスタイルは鏡であるが、リアリストの鏡とちがって、鏡はそれが真似る当のものを創りだすのだということを、片時も忘れさせようとしない。

*原注2 『汚辱の世界史』1954年版への序文。Norman Thomas di Giovanni訳(New York: Dutton, 1972)。

多分ボルヘスがそうした素晴らしい作家であるから、彼の鏡の世界はいつもアイロニカルで意地悪であるにもかかわらず、深遠でもあるのだろう。恐怖の陰影は、『汚辱の歴史』の犯罪趣味から、後の『伝奇集』のもっと暗く古ぼけた世界にいたるまでさまざまだ。そして『創造者』の暴力は、さらにもっと殺風景で陰気であり、私の思うに、ボルヘスのアルゼンチン土着の雰囲気に近い。1935年のストーリーで、ペテン師のハキムは宣言している。「われわれの住む世界は失敗であり、権威を欠いたパロディである。鏡と父性とはいまわしい、なぜならこの世界を増加させるがゆえに。」この言葉は後の作品全体に、くりかえし現れつづけるが、そこではさらに捉えやすいものになる。スタイルの主要なメタファーであるのをやめることなしに、鏡は致命的な力を獲得する――西洋文学全体に通底するモチーフだが、ボルヘスの場合はとりわけゆたかで複雑だ。初期作品では、芸術の鏡が表現しているものは、時間の流れが、形なき無限の空虚に自らを永遠に失うのを、食い止めようとする意図であった。哲学者の思索のように、スタイルは不死性の試みなのだ。しかしこの試みは失敗する運命にある。ボルヘスの愛読書のひとつ、トマス・ブラウン卿の『壷葬論』(1658)から引用すれば、「時間という阿片に対する解毒剤はない。時間はすべてのものを時間の内で斟酌する。 」これはべつに、これまで言われてきたように、ボルヘスの神が詩人に対し、詩人が現実に対して仕かけるのと同じトリックを仕かけるからではない。神が主悪人であり、人を騙し永遠という錯覚へ引き込むのだということになるのではない。詩的衝動はそのすべての邪な二重性のうちで、ただ人にのみ属し、人を本質的に人間であるものとして印づける。一方神はこの場面に、現実それ自体の力として現れ、詩の失敗を証明するひとつの死という形をとる。このより深い理由によって、すべてのボルヘスのストーリーは暴力に満ちている。神はカオス的な現実の側にあり、スタイルは神を征服する力を持たない。その現れはハキムの隠された顔に似ている。ハキムはそれまでつけていた輝く仮面を失ったとき、らい病に侵された顔をあらわにする。鏡の増殖は、新しいイメージのそれぞれが、この顔へのさらなる一歩をもたらすがゆえにいっそう恐ろしい。

ボルヘスが年を取り視力が着実に衰えるにつれて、この最終的対面がその暗い影を彼の作品全体へ投げかけているが、しかし彼の言葉の明晰さは失われていない。というのも最後の反射[reflection]は神自身の顔であるかもしれないのだが、神の現れとともに、詩の生命は終わりを迎えることになるからだ。この状況はキルケゴールの審美的人間のそれによく似ているが、ちがっているのは、信仰への跳躍のために詩的困難を断念することを、ボルヘスが拒絶するということだ。このことが『創造者』のページへと陰気な栄光をもたらし、それは『迷宮』のストーリーの輝かしいきらめきとはかなりちがっている。この複雑さに満ちた後期の雰囲気を理解するためには、ボルヘスの試みをはじめから追いかけ、それが詩的宿命の展開であるのを知らなければならないだろう。このためにはボルヘスの初期作品の英訳ばかりでなく、この偉大な作家にふさわしい真剣な批評的研究もが必要となる。